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検索対象: 長谷川伸全集〈第9巻〉
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1. 長谷川伸全集〈第9巻〉

るほど出る。 ら、出来るだけ頑張って戦うことである」と、諧謔をここ 著者はこの本の必要上で、帝政ロシャ軍の捕虜のことので将軍はつかっている。だが、これより年久しくして、こ みを引いてきたが、「思い出の日露戦争』から興味ある露れを読んで背に冷たい汗をかかせることが、われらの間に 兵のことを次に又も引いてみる。ハミルトン将軍が九月一一二度とないことを望む。「敵の鮮かな応戦振りをみている 十二日、遼陽に第四軍司令官野津道貫大将を訪い、その参と、たれかが ( 注日軍の参謀官のたれかである ) 、なかなか 謀から聞いた話レ こ、「日軍が突貫したとき、二十人ばかり味をやるわいと呟いた」という記事もある。敵が鮓かな応 の兵が誤って敵の塹壕に墜落し、戦友と孤立してしまっ戦振りをみせたので悪態を吐くものとは、雲泥の差だ。こ た、ところが塹壕内の露兵は、日兵の負傷部に繃帯などしう抜萃をしてくるといくらでも材料は引出されるが、これ て、そっくり帰して寄越した」というのがある。こうした はこれで打切りにして、この本の題目から逸れはするが、翌 露兵が特異のことだということは出来ない、当時の敵は騎年 ( 西暦一九〇五年、明治三十八年 ) 二月六日、将軍が戦雲いま 士道精神を失っていなかったので、敵と味方との間に花もだ濃くただよう満州に、サヨナラする日の逸話を引きたい。 満州軍の最高司令官だった大山巌元帥は、明治前後に相 ときどき咲き、結実をさえ見た。 将軍の『手帖』から別なことに移るにあたって、引いて当ャンチャな鹿児島武士大山弥助で、のっそりしているか 以って日本人の眼から心へ送りたいものが少からずある。 と思うと俊敏で、牛かとおもえば獅子でもありだったとい 摩天嶺の惨戦の一隅の闘いで、不利の形勢となったのをう。謂うところの封建武士の教育に訓練されて成人とな 観て堂々と退き去った露軍は、日本軍の戦線近くに五十四り、明治以後の新風潮をいつの間にか身につけ、封建と文 の露兵の戦死者をのこしていた、これらの死体の胸に英語明開化の総合を、黙々として体一杯から滲みださせていた で、「勇敢なる日兵よ、どうか吾が遺骸を葬ってくれ給え」人物だった。満州軍の総帥たるとき、一切を児玉源太郎大 と書いた紙片を、ピンで留めて置いてあった。「日軍はこ将に任せ、大兵肥満の体を屈め紙屑から紙片を選んで、折 . の勇士を手厚く葬ったばかりでなく心づくしの花束を手向鶴をつくるに毎日余念がなかった、出来あがった折鶴は他 志 掫けた」と将軍は書いている。そうして「日兵ほど勇敢を讃人にも与え、自室にも糸につらぬいて天井に蜘蛛手に張り 畔美する兵はない、彼等は相手が手強ければ手強いはど好感めぐらしていた、という俗説ながらあの人ならそうかも知 をもつのである、この激戦に参加した勇士は、その後いつれないと思わせる逸話もあった。その大山元帥が、「日軍 とともにある日が夢のよ、つに過ぎてしまった」ノ までも露軍を褒めていた。日軍の信用を得ようと思ったな

2. 長谷川伸全集〈第9巻〉

八十二歳の高齢をもってなお矍鑠として、最近ではエジン後の五月二十八日、鳳凰城で天幕劇場がつくられて、夜、 パラ大学の名誉校長に推挙されたという」と、『思い出の日本兵の芝居と中国人の奇術があった、それを見物してい 日露戦争』の訳者の序文にある。又、「武人というよりも たハミルトン将軍は、思いがけず露国士官の捕虜をみたこ 寧ろ詩人といった方が適切な」と親しく接した人々はいっ とを書いている。「芝居の最中に私に附添っていた特務曹 たともあり、「確かに卿は詩人である、現にその著書の中長がそっと退席したので、窓の外をのぞくと捕虜になって には詩集もあると聞いている」とも述べている。 いる露国の一将校が一人、しょんばりと食事をしているの 五月十九日、韓国の龍岩浦へ、大同江溯航の船から上陸が見えた。この青年将校は遙々故郷を出でて、五月一日に したハミルトン将軍は、その二十四日の ( 注この日付の四戦線へ到着したばかりであった。事情に通じない彼は、日 は誤植らしい 、というのは二十五日の次に二十四日の手記が出て本将校も露軍の捕虜になっているものと思い込み、その一 いるからだ、それだけでなくハミルトン将軍が第一軍司令官黒木人と交換して貰うのを待っているのであった」。前にある 為楨大将に会ったのは二十五日であるから、次に引く記事はどう コザック士官が、「一刻も早く日本将校の捕虜と交換して しても二十五日か、その以後でなくてはならない ) ところに、次貰いたい」と希っているのと、おなじ心状だった。将軍の のようなことを書いている。 手記はつづけて彼我の捕虜観について書いている、「日本 「黒木将軍に会ってコザッグ士官及び数人の露兵を捕虜には捕虜の恥辱をうけるくらいなら割腹して死んでしまうと した話を聞いた。その一団は上官が乗馬をうしなったため っている」と。そうして次のように手記は語りつづけて はぐ に、行動を共にした部下が自軍に紛れて、林中に露営して いる、「暫くして戻ってきた特務曹長は、彼は麦酒を二本 いたところを支那人に密告されたのであった。その密告をならべてなかなか贅沢をしておりますよといった。彼は捕 受けたのは軍用列車の係員で、唯一の武器は短刀だった虜になったとき、二十留を所持していたので、日軍から支 が、手近の樹木を切倒して六尺棒をつくり、手に手にそれ給される食物以外に、麦酒や煙草などを買うことを許され を提さげて森を包囲し、歩哨に立っていた二人の露兵に急ていた。余興が済んで後、私は二人の若い近衛兵に送られ を知らせる暇を与えす、一同を捕虜にしてしまった。そのて宿舎へ戻った、彼等は収容されている露軍の負傷兵達 なぶ 士官はまだうら若い好男子で、何を問われても口を緘じてが、日本人に嬲り殺しにされると信じ込んでいたのに、食 語らず、ただ一刻も早く日本将校の捕虜と交換して貰いた 物や酒などを与えられ驚いていたと語った」と。 いといっている _J という。それから鴨緑江の戦いがあった 将軍の手記の六月二十六日に移ると、こうしたことが書 かくしやく

3. 長谷川伸全集〈第9巻〉

、刀当にし これは「日露戦争余談』 ( 石井菊造 ) にあるものである。 紙と一緒に置かれてはいなかった。信じて疑いなしとする にはこのことは、何か不足なものを感じられる、だが置手これとおなじようなことが、その頃どこの戦線にもあっ た、だから、観戦の外国武官の手記にも似たことがあり、 紙して問えば置手紙して答えてくれる、敵と味方のこのい 日本の将兵が書いたり語ったりしたものにも、同様のこと みじきものを、ここでは語ったのである。 ばけんし があったのであった。 沙河の戦いのとき馬圏子山に展望哨をつくった、夜にな ると敵が襲い来って奪取した、夜明け近くなると日本側が ◇ 敵を追って奪い返した、暫くの間これが繰返され、奪われ 「七月三日の夕方のことである、私の部下のある一人の兵 っ奪いつだった最中のことだった、敵が置手紙してあるの を、奪い返した展望哨で日本兵が見付けた、その置手紙はが、畑の中を歩いていると、大きい中国人の笠を被った男 日本軍は捕虜を虐待していると聞く、これを改めて好遇せが、林のふちをうろついているのを見つけた。こ奴怪しい られんことを望むとあった。ついで又も展望哨は敵に奪わ奴だ、どうやら露助らしい、何も獲物を持たず手ぶらでい れ日本側で奪い返したとき、こちらも置手紙をした、日本るのを幸い、組み打ちで引捕えてやるつもりで、近づいて 軍は捕虜を虐待どころか優遇している、それを説明するた行って見ると、案の如く露兵であったが、にこにこして別 めに写真を添えて置くと、捕虜が日本で医療をうけているに抵抗もせぬ。兵は気合い抜けがしてその儘それを、私の ところや病める捕虜がべッドに臥している病院内や、健康ところへ連れて来た。私はその露兵を中隊長に、中隊長は な捕虜が遊び戯れているところなど、何枚かを置いた、そ大隊長の許へ送った。訊問の結果によると、彼はビヨート のれだけではなく日本酒の罎詰数本を置き、別に又一つの提ルという狙撃歩兵第二十四聯隊に属する予備の上等兵であ 本議をも書き残した、それはこの山は日露両軍が交互にこれって、或る日、中隊長につれられて偵察に出て、方々駈け 志を占めているが、露軍はこの展望所のどこへでも脱糞する歩いた後、チンヤプウスの山の中に潜伏して、日本軍の行 つつし 捕ので、その不潔と不快とが甚だしい、以後これを慎まれん動を窺っている中に、遂に退路を失なってしまった、もし そのまま中隊長と一緒におれば、日本軍に発見されたが百 日ことを乞うというのである。やがて敵は例の如く夜襲をか け、日本側は退却した、ついで日本側が奪い返してみる年目、銃剣の錆となってしまわねばならぬと、見てとった と、今までと打って変って綺麗に掃除してあった、かっ貨彼は、素早く中隊長を置き去りにし、独りで逃げ出して我

4. 長谷川伸全集〈第9巻〉

63 日本捕虜志前篇 てある。『日露交渉高田屋嘉兵衛』 ( 渡辺修次郎、明治三十三 年刊、東京大谷館本 ) 「高田屋嘉兵衛』 ( 長田偶得、明治二十九 年刊、東京裳華房本 ) 『日露和解之媒』 ( 山下磋一郎、明治十七 年刊、東京吾妻屋本 ) などもある。 しかし、この例に引いたようなことがいつまで繰返さ れることなのであろうか、それでは大悲の世には遠いこと だ、そうしてその遠さを更に遠くさせることが如何に多い 1 」とか。

5. 長谷川伸全集〈第9巻〉

] 02 ることを経験したので、熱心にその支給を希望し、遂に我俘虜名簿というのがなかなか面倒な記載がいる、国籍・隊 が軍でその希望を容れ、麦酒加給をやった」のだからだっ号・等級・氏名・年齢・宗教とか、その他いろいろな細部 こ 0 の調査項目がある、こんな事は委員事務所で、ちゃんと露 露国軍医の合宿所へ晩餐に招かれたとき、従軍僧が驕慢語で謄写版刷りにでもしてくれれば面倒もないが、日本文 な態度で上座を占めていたことや、日本酒をもってゆき燗字で書いた表をくれて、それも露西亜人に要求せよという をして飲ませたら、酔いがすぐ廻ると褒めたので、この酒のだから、それだけの事を達するにさえなかなか骨が折れ は米からっくったのだと説明すると、それではべリべリワる、先ず独逸語に訳しそれを彼等に理解させてから、名簿 をつくらせるのだ。出来あがった名簿は無論露西亜語で書 イン ( 脚気の酒 ) だと戯談を飛ばした軍医があったことや、 いてある、それを前日に二枚僕のところへ出させ、一枚は 日本茶を淹れて飲ますと従軍僧が一口やって顔を皺だらけ たんつば にし、痰壺へ吐き出したことなどが書いてある、又、ヤス事務所へ出し、一枚は俘虜に付けてやるのだ。そして僕は その名簿を露国軍医に一応ゆっくりと読んで貰って、名前 トレブッフ海軍軍医総監が、ドクトルは独逸語を話すか、 それとも英語か仏蘭西語かと、この日本の小猿めといいその上に片仮名でつけることにした。受持区域が数多くなっ たので、そこここから僕の手許にこの名簿を沢山に持って うな傲然たる態度をとったが、野菜や肉類を支給するとい う話になると、急に、よほどの愛嬌が出てきたなどという くる。こうした手続きを踏んで、その員数を計算して事務 所の方へ報告する、そこで守備隊へ途中護送の監視兵を請 こともいっている。 捕虜の体力がだいぶ恢復して来たので、市街に散在して求する、それから露国軍医には、明日の午前何時に僕の宿 いるものを、一カ所に集団させる必要で、俘虜名簿をつく 舎の前へその俘虜を連れてくるように約東する、その時間 らせ、日本の陸軍病院に移すとなった時のことは、原文をになるとドグトルが僕の部屋へ来て、今何名かの俘虜を連 卩」くことにする。 れて来たと報告する、僕はもう一遍その名簿に書いてある 「傷者の恢復したものは、早く俘虜として日本内地へ送ら氏名をーー振仮名を見て、句点に注意して読みあげて露国 ねばならないので、俘虜名簿を作らせたのである、その選軍医に聞いて貰う。僕の宿舎の前へ次から次と列をなして もたら おいおい 択は勿論、露国軍医に任せるのである、彼等とても旅順がやってくる、軍医達は追々と報告を齎してやってくる。従 日本の支配下になったので、早く整理さえつけば宣誓して卒を守備隊へ走らして監視兵を呼びにやる、準備が整った 本国へ還ることができるのだから、喜んでこれに応じた、頃に僕は儼然として戸を排して、宿舎の前の小高い処にの

6. 長谷川伸全集〈第9巻〉

8 にこにこ何か切りと喋舌っている、中には挙手の敬礼さえきるのだから独逸語でやりなさい、それでも判らなかった しているものもあった、どの顔も割合に朗かだ、開城になら手真似足真似でやりなさいといわれ、それではそれで行 こ、つとなった。 ったからとて別に敵愾心を以って僕達を見るようでもな 、どちらかといえば永の籠城の苦を忘れて、今晴れ晴れ清水の受持はデサンテン・エンド・セルワ海軍病院と第 と青天白日を見たというような有様だ。攻める者も防ぐも十四聯隊患者集合所とで、白銀山の麓寄りだと聞いたので のもその気持に於いて変わりはないらしい。市内には沢山その方へ出掛け、行きあった露国将校にデサンテン・エン セルワ・ホスビタリーと尋ねたが知っていない、発音 の洋酒が貯蔵されてあったそうだが、糧食は欠乏しているド・ ということだった、いまその火酒 ( ウォッカー ) を、開城にが違うので相手に聞きとれないのだとは判ったが、病院が なると兵卒に分配したのだそうな、それでいま久し振りのどこに在るのかは、ついに判らず、事務所に引返して井上 振舞酒に酔って上機嫌でいるのであった」という光景だっ軍医に来て貰ったが、やはり判らず、そのうち日が暮れた ので、衛生予備員の宿舎があったので、そこへ仮泊させて 衛生委員事務所に行くと、軍医部長の落合泰蔵軍医監貰うことにし、井上軍医に帰って貰った。 翌九日、清水は又も病院を探したが判らない、そのうち い・ハラショフ極東赤十字監が、大きい に、白い髯の耳の遠 声で何か弁じていた。委員や通訳は額る多忙とみえた。清偶然にも、長崎に八年間いたという日本語のうまい露国参 水は間もなく旅順市内の捕虜は約四万で、そのうち約二万謀本部付通訳レベデフという男の家へ行った。レベデフも しデサンテン・エンド・ セルワ病院を知らなかった、第十六 が傷病兵、糧食の欠乏から懐血病に罹り、惨状を極めて、 るので、各師団から軍医四名ずつ看護長若干名ずつを招集聯隊患者集合所のフレニコッフ軍医をつれて来てくれたの エンド・ラサ で、はじめてそんな病院はなく、レサント・ し、治療上のことは露国軍医に任せてあまり立ち入らず、 傷病兵の整理と衛生材料や食糧品の給与にあたるのだと判レート病院のことだと判り、第十四聯隊患者集合所の所在 った。さて清水は実務にかかるのに、言葉が通じないの地もわかった。呆れたことにはきのうぐるぐる迷い歩き、 で、通訳が欲しいといったが、通訳はたった二名しかいな通行の露国人や露国人の家に、病院を尋ねたところは、第 一名は落合委員長に専属し、一名は数名の委員に付い十四聯隊患者集合所の建物の前だったのだ。 病院へゆき患者集合所へゆき任務をやりつつあるうちに ていた、しかもこの二名きりの通訳は不眠不休でやってい るのだから、どうにもならない、だから諸君は独逸語がで夜になった。一人の露兵が来て清水の靴をもって行って磨 しき かか

7. 長谷川伸全集〈第9巻〉

ころに土方仕事があり、二十名ばかり雇いたいというのをれまで決めて、極秘の裡に運動にはいった。 聞き出し、安本房吉という人が率先して行くと決心し、そ カムイシローフ市でも堺誠太郎が永野遠の輔佐で、脱出 れではと同意した十一名の男と八名の女が、どんなところ帰国の秘密計画を立てた。三角次郎等のいるところと堺誠 でどんな工事なのかも知らず、相手方の善悪も知れず甚だ太郎のいるところでは、ウラルの嶺を中にしていて連絡な 不安ながら行った。行ってみると土方仕事ではなく石綿工ど出来なかったので、双方とも極秘のうちに、別々に計画 場の労務だった、安本等は喜んで働いた。この工場の支配を練った。こういうことが発覚すればロシャでは死刑であ 人は波蘭人オグダーノフで日本人の勤勉と正直とを認め、 ると知ってやっている人々だったので、最初の者が殺され 境遇にも同情したのだろう、百名の日本人を雇うといってたら、その次はだれが挺身すると、三角組も堺組も、それ くれた。安本はこれをエカチェリンプルグに知らせて、三それ極秘の裡に二番手三番手を決めた。 十一名を呼び寄せて就職させ、カムイシローフ市からも四堺は通信試験をひそかに続け、ロシャの郵便制度の穴と 十八名を呼んで就職させた。 従事者の欠陥弱処を調査のため、さまざまに郵便をポスト みつひさ に入れて試み、その結果を基礎として、ベルリンの堀光亀 ◇ に惨状を訴えた手紙を書き、露都のアメリカ大使にロシャ 今までに三つの市の日本人の惨苦だけをいったが、他の文で窮状を訴えた一通に、日本政府へ宛た日本文の一通を 五つの市もおなじ現世地獄だった。そうした中で帰国運動同封して投函した。やがてベルリンの堀から書面入手の電 に死を決して挺身する人々があった。 報が堺に来た。露都の方は不成功だったかも知れないが、 ベルミ市に収容されているプラゴ工の三角次郎と川原重一点の光明がさして来たので、堺は、第二の手紙をベルリ の太郎と脇深文とは、浦塩の僧覚眠と四人で、露都のアメリ ンの堀に送った、これも成功した。 本カ大使に援助を仰ぎ、ロシャを脱出して独逸に入ろうと計三角次郎も入念な通信試験をやり、露都のアメリカ大使 志画を立てた、それが出来なかったらアメリカ大使の尽力を に仏蘭西文の手紙を、ロシャ人の名によって出そうとし 捕乞い、日本政府からウラル山中の日本人救助金を送って貰た、幸いに日本人捕虜の状況に同情するロシャ人の測量師 日おう、それも又成らないのだったら最後の手段に出で、世と友人となったので、その援助で計画の通り、露都のアメ 界の人々の良心に愬えるため、何等かの方法をとって注目リ カ大使に救助を求める書を送った。成功した。露都のア を惹こうと決意し、然る後に自刃する場所はあすこと、そメリカ大使はベルリンの日本公使に通信したと三角に打電 うった うち

8. 長谷川伸全集〈第9巻〉

スターといえば白菜とわかったが、ヤィッオとイバノフ看 いて来てから、紅茶みたいなものを淹れ菓子を添えてもっ て来た、これは露国軍医側でわざわざ従卒を一人さし向け護長が読んだが、日露会話篇に見当らないと知って看護長 がロシャ語でくどくど説明するのが、かえって訳をわから 身の廻りの世話をさせてくれたのだった。 給養品の配給をやり調査事項にも着手した、給養品につなくした、耐りかねたか看護長が床の上に屈み、左右の手 いては、「新鮮な白菜・馬鈴薯・葱等、まだ僕等が食ったでばたばたやり、コケコッコ、コケコッコとやり、お尻の ことのない林檎や蜜柑のような果実・鶏肉・牛肉から燃料ところへ拳固をもって行ってみせたので、ああ鶏卵がヤイ ツオかと判った。今度は清水の方から何が欲しいかと、尋 の石炭までも、一切日本軍の手で給与してやるのだ」とい っている、「僕等の食ったことのない」と、当り前のごとねると、看護長が何かいったが判らないので、清水は床の くにである。「それだからその病院に要るだけの品目と数上へ四ン這いになり手で角を二本つくって見せ、モウとや 量とを、各病院毎に伝票に認め僕の検印を捺して、毎日午ってみせたら、ダア、ダア、ダアと看護長がいった、然り 前十時に新市街の倉庫で、現品を受領する」のだった。然然り然りといったのだ。勝者の威厳の代りに謙虚と愛情が るに現品を渡す午前十時に受取りに来ない、来るには来るあったことがこの例にも出ているのだった。 が遅れてくる、そこで清水は午前十時だ午前十時だと念を或る日、事務所へ行った清水は、毎日支給の滋養品など 押したが、やはり遅れて来る、それは日本時間と旅順時間が、傷病兵へは、ごくわずかしか渡っていないから、とき とに一時間の時差があるからと判りはしたが、露国軍医側どき病院中を見廻り、給養品の分配方法を見たり、食餌の は旅順へ来たのだから東京時間でなくやって欲しいとい検食をやってくれといわれたので、その晩、グリガロウィ ッチ軍医に注意しておいた。翌日、病院へ行き、患者室を う、つまり日本側の午前十時は彼等には午前十一時なのだ のった。理窟の筋が通っているのでその以後は、ヤポンスキ見廻るとべッドの陰から小声で、ドグトル・シミズと感謝 本ー時間九時と清水がいうと、露国側はロスキー時間十時との言葉を投げるものがあった、給養品が公正に行きわた こよ林檎や蜜柑があり、二人に一本のわり 志いって双方で念を押しあい確かめることにした。お可笑いり、患者の枕許し。 捕ことが切りにあった、レサント・ラザレ 1 ト海軍病院のグで麦酒も置かれてあった。病床の麦酒については次の附記 が必要になる、「壊血病患者に麦酒を支給したことは、露 日リガロウィッチ軍医の助手で、イ・ハノフ看護長を呼んで、 ロシャ文字の伝票を一種目ずつ読ませ、清水は日露会話篇国委員プンケーからの要求であった、彼は嘗て数回、北極 を披いて聞き耳を立てる、ヤプロックといえば林檎、カプ地方に往来して毎日壊血病を実見し、麦酒が本病に有効な しき

9. 長谷川伸全集〈第9巻〉

何よりのたのしみでもあった。その都度、戯曲の初演のとき の六代目菊五郎とか、中村福助、市川男女蔵、沢田正二郎、 久松喜世子などの演技あるいは役の解釈のしかたなど、まこ とに微に入り細にわたって話してくださるのであった。それ は自作の思い出として、いかにも先生にとってひとつのたの 大江志乃夫 しみでもあられたのであろう。話にみがいって時を忘れるも のであった。そこにも、あたたかい人間味のあふれるお人柄敗戦前の日本軍隊では、捕虜になることと軍旗を失うこと がうかがわれてたのしかった。 は最大の汚辱とされていた。しかし、調べてみると、このよ このような先生のお人柄は、たぶん幼少のころからなめらうな考え方が絶対視されるようになったのは、日露戦争後か れた世の辛酸の荒波とたたかってこられためずらしい生涯のらのことではないかという気がする。日露戦争中の捕虜につ いての私の記憶では、少年時代に愛読した山中峯太郎「敵中 体験のなかから培われたものであったにちがいない。その心 やりとか、愛情とか、まことに人情のふかみのある、昔なら横断三百里』の沼田一等卒はたしか功七級金鵄勲章をもらっ ひさお さしずめ町の漢学者とか、名ある町医者、親しみのもてる古たと思うがどうであろうか。谷寿夫『機密日露戦史』によれ 武士といった人物のおもかげを思わせるものであった。わたば、日露戦争中の捕虜は一人も軍法会議にかけられていな 。金州丸降伏の椎名三造については、船上は敵前とは解せ しはその人間的なあたたかみに惹かれたのである。 その後もわたしは、自称塾生のつもりで上京して暇さえあられないから「将校敵前に在りて降伏するもの」には該当し れば、まず電話でご都合をうかがってはお訪ねするのがならない、その他の軍人軍属については、重傷をおって「已にカ わしであった。先生にとっては、さそご迷惑なことであった尽きて敵手に委せるは已むを得ざるもの」として不問に付さ れた。この解釈がその後も維持されれば、太平洋戦争中に、 ろ、つと田 5 , つ。 ( きぬがさていのすけ・映画監督 ) あたら多くの将兵が輸送船と運命を共にしなくともすんだで あろうし、撤退不能の重傷兵が手榴弾で自決を強いられるこ 捕虜と軍旗紛失

10. 長谷川伸全集〈第9巻〉

彼等もおなじく求め、予等がこれを食すれば彼等も食 ◇ 、且っその携帯する処のパンを割きて予等に分てり。彼 ロシャ捕虜を、独逸人ならぬ富山市の日刊紙「富山日等は大尉の剣の解かれて傍にありしを見、何か語り合いっ 報』の従軍記者はどういう風に観たかというと、一月二十っ剣を抜きしが、抜けば玉散る日本刀、光芒陸離として眼 三日付 ( 明治三十八年 ) の通信にこういうのがある。「露兵を射るばかりなるに、痛くうち驚きしものの如くなりき。 の捕虜となり青泥窪に送られ来たるもの、いずれも嬉々と長嶺子停車場より同乗の捕虜一千人余りもありしが、予等 して喜び、また些かの憂色なし、彼等は互に相戯れつつあは車中のつれづれに、彼等の中に割って入りて、手真似も るのみならず、我が兵とも善く戯れ、或いはバン・菓子なて談話を試み、彼等もこれに応じたり、何がさて唖同志の どの交換をなすものあり、彼等の無邪気にして天真爛漫な話しあい、傍から見しものは定めて可笑かりしならん。座 ること、称するに余りあり」と。こは陸戦では奉天の大戦に一人の日本工夫ありて少しく露語に通ぜり。予は彼を介 が、海戦では日本海の決戦が、二つながらいまだしの時して、富山美人小さん・奴の写真二葉を出して彼等に示せ で、旅順方面こそ、片づいたが、その他では戦いこれより しに、車中俄かに煮え返り、混雑一方ならず、彼方からも たけなわ 更に酣となろうとし、はたしてどちらが終局の勝者となる此方からも写真の引張り凧、折角の美人も滅茶滅茶ならん か、だれにも判らないという折柄、地方都市の日刊紙に、 とするにぞ、これは命より大事の品物なり、粗末にすべか 捕虜を「称するに余りあり」と書いて、編輯者も当り前とらずと、笑いながら工夫にいいつけて、取戻さしめたり、 し、読者も当り前とし、従軍記者にいたっては心置きな彼は更に何物かと交換の光栄を得んと望む、しかし、日本 く、「称するに余りあり」と書く公正さと、四囲から認め大尉の面前にては少々困り入るとのことに、何か仔細のあ られた良心と自由とがあった。その従軍通信はつづいて云ることならんと、二松大尉に囁きて座を避けしめたりし っている、「或る日、二松大尉と共に長嶺子の酒保に赴き こ、露兵の恐る恐る懐裡より取出すを見れば、これ如何 しに、俘虜の露兵も続々来りしが」とあるから、捕虜は酒に、身に一糸をつけざる露国美人の裸体写真にぞありけ 保で必要な物を買う自由が与えられていたのだ、これを四る、彼は連りに交換を望んで止まず、その裸体なるには少 十余年の後の或る事どもと比べて、その差が大きくなって少閉ロしつれど、さりとて万更悪い気もせざれば、終いに いるのに、日本人は我とわが驚愕せざるを得ないだろう。 言われるままに、出征以来、肌身に着けて離さざりし富山 従軍通信をつづける、「予等が朝鮮飴と貝の罐詰とを買う美人の写真を、惜しけれど彼に嫁せしめぬ、この時の彼の み一、一めハ