インカ - みる会図書館


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1. るるぶ ペルー

マチュヒチュへ至る 20 列車ヾスの旅 24 マチュビチュ完全攻略ガイド 24 マチュヒチュ遺跡を俯瞰する 26 マチュビチュ遺跡を巡る 28 zoneA 遺跡入口 ~ 3 ① zone B 市街地入口 32 zonec 聖なる広場 34 zone D メイン広場 ~ 36 zone E 技術者の居住区 ~ 38 zone F 水汲み場 ~ 寄り道のめ 4 ①ワイナビチュ登頂 太陽の門インテイプンク 42 44 マチュビチュ村を歩く 6 マチュビチュで泊まりたい、個性的なホテル Colurm マチュビチュの謎、インカの不思議。 23 ①インカ帝国の創生」 インカ皇帝パチャクティはなせ強大な権力を持つに至ったのか ? 文字が存在しないままに発展したインカ文明 31 ・インカ帝国時代の暮らし」 ・ , , インカ帝国の繁栄はどうやってもたらされたのか ? アンデネスから産まれたチチャ酒 35 3 「マチュビチュ建造の秘密」 空中都市マチュピチュはなせ、急峻な山の尾根につくられたのか ? 車輪も滑車もない。それゼもてた巨石建造物の秘密 3 ア 0 インカ帝国の滅亡、に . 手を、。 なせ、スペインによってイン帝国減んだのか ? 総延長距離 4 万にもおぶとなうインカ道 48 3 「マチュビチュ発見第せ第い ハイラム・ビンガムはヤチチュをとうして発見できたのか ? ィ " 。人タ汁 た、、最後の皇帝トウバク・アマルー マチュピチュ完全力イド

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き一当 ①インカ帝国の創生 マチュヒチュ マ インカ皇帝バチャクティは チ ユ なせ強大な権力を持つに至ったのか ? チ ユ インカ帝国発展の 勢力分布図 完 全 結果として小国イ ンカ帝国の最盛期の勢力 ンカが大国チャン 範囲は、北はコロンビア 南部のアンカスマヨ川、 力を支配下に置く イ ことに成功したの 南はチリの首都サンティアゴの南 である。 を流れるマウレ川にまで至る。現 インカ族は太陽 在のベルーのすべて、コロンビア、 ハチャクティ & ェクアドル、ポリビアの大部分、 神を信仰していた トウバク・インカ 、ンキ時 チリの北半分、アルゼンチンの北 から、皇帝はすな わち「太陽神の 西部にあたる地域である。南北は およそ五千キロメートルにわたり、 子」ということに なる。インカ族は 1 OO 万平方キロメートルを越え 若き皇帝パチャク る面積であった。この大帝国をイ ティ ( 「世界の改 ンカ族はわすか三代の皇帝の手に 革者」の意 ) の よって築いている。 南米大陸 持って生まれたカ クスコ周辺を支配する小さな民 円、ンキ時代・ 0 第クイナカック リスマ性に神秘的な演出を加え、 族集団でしかなかったインカ族が 触れられることのないよう特別に 「皇帝 = 太陽神の子」と「クスコ 封印された籀の中で保管され、後 アンテ、ス全域の支配にのりだした = 太陽信仰の聖地」を周辺国に大 に燃やされた。食べ残したものな のは、国境を接していた隣国チャ いに喧伝したのだ。インカによる ども同様である。インカ族は意識 ンカ族との戦いに勝利したことが 皇帝の神格化は徹底している。皇 きっかけであった。当時積極的に 的に宗教的支配を目指し、これに 帝は臣下の前ではべールをかぶり、 成功したのである。 勢力拡大をはかっていたチャンカ 誰も皇帝に触れたりその目を見る 族は、周辺小部族を次々と支配下 チャンカ族を倒したインカ族は ことは許されなかった。たとえば 周辺地域を次々と攻略していく。 に置くことに成功し、いよいよ不 宮廷の高官であっても、皇帝に近 倶戴天の敵ともいえるインカ族に 第十代皇帝トゥパク・インカ・ユ づく時には靴を脱ぎ、肩に荷をの パンキが北方の海岸地方にあった 戦いを挑んできたのである。 せてひざまづき、完全服従の姿勢 チムー王国を征服。第十一代皇帝 当時のインカ皇帝ヴィラコチャ でのぞまねばならない。多くの者 のワイナ・カバックは周辺小部族 は嫡男ウルコンとともに大急ぎで は直接口をきくことさえ慎まなけ の反乱に苦しみながらも兵をさら 逃げ出してしまったが、ウルコン ればならなかった。皇帝が一度で に北へと進め、インカ帝国はアン の腹違いの弟クシ・ユパンキ ( 後 も手を通した衣服は二度と着られ テスほば全域を掌中におさめるに の第九代皇帝パチャクティ ) は ることはなく、なにびとの手にも チャンカ族に勇敢に立ち向かい、 至るのだ これを撃退してしまう。圧倒的な 勢力を誇っていたチャンカ族を、 わすかな兵で撃破したことで、周 辺部族の態度は一変した。多くの 部族が若き王クシ・ユパンキのも とに馳せ参じることとなったのだ 【柳谷杞一郎】 イ ン カ 紐が物語を紡 ン チンチャ不 スウユ クンティ・スウユ コリヤ・スウユ 0 いでいた ? 独自の発展を遂けた高度な文明 キープは数字を表 しているが、組合 せにより深い意味 をもたせることも できたという マチュビチュ 村のアルマス 広場に立つ、 皇帝バチャク ティ像 2 3 4 5 ロいド月・ハ当 また、紐の色の違いに よって、何の数量をあら の E cr. 「 0 」 L4 似 わしているかを区別した。 例えば赤は兵、黄は金、 白は銀といった具合である。 キープを使うことによっ を読みとることは専門家 ンカ人に情報を求めると、 て、家畜、農作物などの にしかできなかったらし 彼らはたびたび「歴史の 数量計算、記録が可能だ い。キープ読みの専門家 キープ」を持ち出して解 ったのだ。キープは数量 は「キープカヨマック」 説をしたというのだ。キ だけでなく、歌や物語の と呼はれ、インカの役人 ープから「数量」を読み の中でも特に重要な存在 記録もできたとされてい とることは誰にでもでき る。スペイン人たちがイ であった。 たが、物語など「文章」 「マチュビチュの謎、インカの不思議」 ( P23 ~ ) 挿絵の著者はワマン・ボマ・アヤラ ( 「 NuevaC 「に . 旧 18V ⅸ noJ) 文字が存在しないままに発展したインカ文明 結ぶ位置が決められてい インカ文明の大きな謎の 央アメリカの文明 ( マヤやアステカ ) て、そこに 1 ~ 9 まで 0 ひとつである。 インカでは文字の代わ 字をあらわす結び目をつ が、コロンプス到着以前 りに、キープと呼はれる に独自の文字を持ってい けるのだ。例えば、 3 図 計算記録用具が用いられ なら、百の位のところへ たのに対し、インカ文明 ていた。キープはリヤマ 3 をあらわす結び目を、 は文字を持っていなかっ の毛を紡いでつくられた 十の位のところへ 5 をあ た。文字を持たない民族 親紐に、何本もの細い補 らわす結び目を、一の位 がどのようにして巨大帝 助紐を結びつけたもので のところへ 4 をあらわす 国を治めることができた ある。十進法の位ことに 結び目をつけた。 のだろうか。 0 ′″ハい 4 ぃ川列ⅱミ「 な川いりハい、

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マチュヒチュをさらに深く楽しむために インテイプンクはマチュピチュ インテイプンク。太陽に守られた なんとも感慨深い体験。片側には から見ると東側に位置し、ケチュ 神聖な門は、都市への出人りを監 石積みの壁が続き、徐々に緑が多 ア語で太陽の門を意味する。カつ 視する、関所のような役割を担っ くなっていく。こう配はそれはど てマチュピチュを訪れるための唯 ていたと考えられている。 急ではないが、階段状に石が重ね ーの方法は、インカ道をたどって 遺跡からは石畳のインカ道を 1 られた場所や岩が点在するような くることだった。そのインカ道と 時間ほど登ることになる。インカ 場所もある。何より距離があるた マチュピチュをつないでいたのが の人々が歩いた道をたどるのは、 め、ボディープローのように足に ワれ t 屮Ⅷ な太陽の門インテイプンク インカの人々がマチュヒチュを訪れるには、延々と続くインカ道を登ってくるしかなかった。 そのインカ道の最終的な到達点がインテイプング当時はマチュビチュを訪れるのに必す通る入口のような存在たった。 長旅の末に門にたどり着くと、目の前に広がるのは神秘なる空中都市。迫力の景観が旅人たちに衝撃を与えたことは想像に難くない。 効いてくる。途中で休憩をとりな がらゆっくり登っていこう。 40 分はど歩いたところには、宿 泊所もしくは休憩所として使われ た、タンボと呼ばれる施設跡があ 、ここからの眺めも素晴らしい。 崖崩れを防ぐ段々畑を越えて登っ ていくと、石を積み重ねた柱が林 立している。岩山の山頂より少し 下った場所にあり、これが太陽の 門インテイプンクだ。遺跡側から 登って絶景を楽しむ人と、インカ 道のトレッキングを終えて讃えあ う人で賑わっている。 見張り小屋前のイン ~ 橋が作られたのは切り、 力道を、市街地入口と】立 0 大きな岩盤鉛・ゞいを たどり着く。平坦な道一道を、丸太が繋いでへにイ なので歩きやすい。途】る。外敵の侵入を防ぐ亠彎 中の小屋で、入場の署 - ための仕掛けだ。った , ぐま 名と時間を記載しよう豊見学は時まで。 垂直な崖に渡された、 小さなインカ橋に。。、 びつくり ! ①遺跡へと続 くハイラムビ ンガムロード や斜面の段々 畑もはっきり と見られる インテイプ ンクから眺め るマチュピチ ュ全景。背後 にワイナピチ ュがそびえる . ら第

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~ インカ、アンデス文明の歴史年表 プレインカ 500 AD 1500 1000 0 BC 1000 インカ期 地方王国期 ワリ期 地方発展期 形成期 カハマルカ文化 北部海岸部で栄え た文化。金属加工 に長け、黄金の仮 面や祭儀品なとが 発掘されている S 化ロれ ビクス文化 モチェ文化 モチェ川流域に栄 えた文化で、巨大 な神殿で知られる 芸術性の高い陶器 が見つかっている シカン文化 チムー文化 レクワイ化。→ , , 文化 シカンを制圧し北 部沿岸部で栄えた とも呼ばれる たが、インカ帝国 高地文化。人 W のイ に侵略される。黒 物や動物を象 ワリ文化 い陶器が特徴的 った見事な彩 色土器が特徴 ( 石 il れ貢 アンテス文明の母 体とされる、中部 山岳地帯で栄えた 文明。神殿を中心 とし宗教性が強い 呎部 u “ C 石ⅵれ ワ翫ロ インカ文化 チャビン文化 C 石 at 工ⅲ取 ャンカイ化 中央高原の広い地 域を支配した文化 で、政治や文化な ーリマの北にあー どインカ文明に多 るチャンカイ 大な影響を与えた 谷で栄えた文 化。個性的な 土偶や美しい 織物が見事 リマ文化 中部 Wari ワリ文化 地上絵で知られる 南部海岸域の砂漠 地帯で栄えた文化 一地下水脈を利用し た灌漑を行なった ナスカ文化 バラカス文化 石 w の la アリ ra プカラ文化 テイワナク文化 インカ帝国の礎を築いた、深く広いアンデスの歴史 インカ帝国がアンデス一帯を支配したのは 15 ~ 16 世紀。アンデスの長い歴史の中ではほんの一瞬でしかない。 それ以前にも紀元前 2500 年ごろから生まれては消えていった幾多の文明があり、プレインカと呼はれるこれらの文明がインカの礎を築いたのた しかしプレインカの文明はまたまた十分な研究がなされているとは言えす、インカ文明以上に謎に包まれた部分が多い。 優れた技術と美的センスを育み独自の進化を遂げたアンデスの文化。プレインカからインカへと繋がる歴史の糸をたどってみたい。 幾多の文化が生まれ消えていった プンカ 文・柳谷杞一郎 0 は銅、青銅、金、銀などを使った 金属工芸において最高水準の技術 に達していた。チムー帝国の勢力 範囲もかなり広大なものであった ようだが、それでもアンデス全域 を支配するには至らなかった。他 の国も同様である。大小様々な国 がお互いに領土拡大のための争い を繰り返す日々が続いていたのだ。 15 世紀になって、クスコの一帯 を支配する一地方民族集団でしか なかったインカ族が台頭してくる。 インカ族は、三千年以上にもわた るアンデス古代文明の最後の一ペ ージに忽然とその姿をあらわし、 アンテス全域の支配に成功する。 アンテ、ス世界が培ってきた文化・ 技術を集大成した大帝国である。 最大にして最強。しかし、 1532 年スペイン人侵略者たちの出現に より、儚くも一瞬にしてその生涯 を閉じることとなる。 ンテスの古代文明の始ま りは、紀元前 2500 年頃 にまでに遡る。それまで 各地でおこなわれていたのは狩猟 と小さな家畜の飼育、簡単な農耕 いく中で、各地方に独自の文 を中心とした原始的な生活だった 生まれ発展していく。モチェ のだが、この頃各地に小さな神殿 が建てられ始めるのである。時と 「太陽と月のワカ」と呼ばれる壮 大な神殿を中心にできた王国であ ともに神殿はより大きな、より立 派なものになっていく。信仰を求 る。大量の金製品の発見で話題と 心力として、人々が集まり、それ なったシバンの遺跡はモチェの王 ぞれの地域にそれぞれ独特の文明 墓のひとつだ。ナスカは、砂漠の を花開かせていくのである。 上に描かれた謎の地上絵で有名だ 紀元前 IOOO 年頃から紀元前 2()() が、鮮やかな色づかい、大胆なデ 年頃までアンデス世界のかなりの サインの上器・織物もきわめて魅 地域に影響力をおよばした最初の 力的である。テイワナクは、ベル 文明が出現する。チャヒ、ンである。 ・ポリビア国境のティティカカ ベルー中部高地チャビン・デ・ワ 湖南東岸に誕生した文化で、高度 ンタル神殿にあるジャガーの図柄 な石造建築技術を誇っていた を用いられた土器は、アンデス全 アンデス各地で花開いた様々な 域から出上しているのだ 個性的な王国文明は、それぞれお 紀元後、チャビン文化が衰退して 互いに影響をおよばしながらも、 ( 作 0 に 0 ※写真協力 ・資料提供 / / 天野博物館、 P 「 omPeru ヘルー政府観光局 域を統治する国家が生まれるに " にたらす、数世紀にわたって様々 な文化の勃興、衰退が繰り返され ていく。紀元 600 年頃、テイワナ クを除く各地方の王国文化が弱体 化していく中で、中央高地にワリ 文化が誕生する。ワリはインカ以 前にアンデス全域を支配した唯一 の国だ。ワリが衰退すると再び地 方の時代が到来する。北海岸では チムー王国、中部海岸にはチンチ ャ王国、中部高地にはチャンカ族 といった具合だ。チムー王国が築 いた都チャンチャンの遺跡は、高 さ 10 メートルにもおよぶ日干し レンガでできた外壁に囲まれてい るという巨大なものだ。チムーで 0

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時空を超え、謎を探る旅へ。 ffie M ⅲ可州羸 t 血 4 羸ッ 美しきアンデス、遥かなるインカ、神秘のナスカ。 インカ帝国の宗教的象徴「太陽神殿」の上に 征服者であるスペイン人たちはキリスト教会をつくり、十字架を立てた。 文・写真・・柳谷杞一郎 Kiichiro Yanagitani ベルー北部海岸で華開いたモ というより他はない。 明が宿命的に持つ多くの謎を解く チェ文化の土器のデサインも素晴 土器、織物、金属工芸だけでなく、 鍵が厳然とそこにあるのだ。 らしい。往時の人々の暮らしぶりが 石造技術、灌漑治水技術、交通網 老いた峰 ( マチュピチュ ) と若い 生き生きと伝わってくる。モチェは 整備のための土木・架橋技術など、 峰 ( ワイナピチュ ) をつなぐ尾根の 金細工においても注目に値する。大 アンデス世界で生まれ培われてき 上に築かれたこの空中都市に、発 た文化・技術はそのはとんどがイ 量の金製品の発見で話題となった 見者のハイラム・ビンガムは「マチ シバンの遺跡はモチェ文化の遺跡 ンカ帝国で、集大成され、洗練され ュピチュ」の名を与えた。なんとも なのだ。すぐれた金属工芸技術は、 ていくのた。 響きのよい地名である。アンデス文 そのままシカン、チムー文化へと継 クスコから川沿いに 100 キロは 明の長い歴史の中で、時間軸とい 承されていく。黄金の仮面やトウミ どくだった山深い渓谷。その谷底 う概念で考えればインカ帝国が存 ( 儀式用ナイフ ) の発掘で有名にな から 400 メートルはどのばった山 在していたのは一瞬でしかない。ま ったシカンではかってない規模で 腹中にマチュピチュは存在する。す してや、マチュピチュはそのほんの の貴金属生産が始まり、精錬技術、 でに何度も写真や映像で見たこと 一部分でしかない。それでも、謎を 加工技術とも驚くべきスピードで進 がある風景であるにもかかわらす、 探る旅を楽しむ旅人たちにとって、 化をとげる。それらの技術はチムー 遺跡の人り口を抜け、目の前にマ これほど魅力にあふれた旅先が他 でも拡大を続け、最後に黄金帝国 チュピチュの遺跡の全貌があらわ にあるだろうか。いにしえのインカ インカへとつながっていくのである。 れると息を飲むような感動に身を の民を想い、マチュピチュの風に 南部アンデス、チチカカ湖のそば つつまれる。マチュピチュは数百年 ふかれる。旅人にとって至福の時 で紀元前から独自の文化を築いて もの間、時代に置き去りにされてい 間になることを約束する。 きたテイワナクの石造技術も素晴 た。だからこそ、インカ帝国全盛期 2 〃んやなぎたに・きいちろう 1957 年広島生まれ。 しい。これもまたインカ帝国時代に の栄光が、手つかすで残されてい 写真家・編集者。「エス クアイア日本版」副編 そのピークを迎える。インカの都・ るといっていい。インカ文明の技術 集長を経てフリーに。 写真で分かる謎へ クスコの街に残された、石造建築 の最高到達点をインカの時代そ の旅シリーズ「マ 物 ( 例えばサント・ドミンゴ教会、サ のままに近い状態で見ることがで チュビチュⅡィースター島」、「大 事なことはみんなリクルートか クサイワマンなど ) の精巧さは見事 きる。文字を持たなかったインカ文 ら教わった」など著書多数。 ニ、、′を探る旅ほど面白い旅は そうあるものではない。 仕事がら、多くの美しい 風景、歴史を刻んだ遺構を訪ねる 機会に恵まれてきたが、ベルーはも っとも魅力的な「旅」を約束してくれ る国のひとつである。そこには、 人々の好奇心を剌激する様々な謎 がちりばめられているからだ。数千 年の歴史の中で醸成されてきた奥 深い謎が旅人たちを心地よく迎え てくれるのである。 ベルーで花開いた様々な文明 の中でもっとも有名な文明は、イン カ文明ということになるのだろうが、 インカ文明はアンデス世界に生ま れた唯一の文明というわけではな い。アンデス世界にはインカ以前 にも多くの文明が存在している。例 えば、砂漠の上に描かれた地上絵 で名高いナスカ。地上絵はもちろん、 旅人の心を踊らせてくれるが、鮮や かな色づかい、大胆なデサインの 土器や織物を見逃すわけにはい かない。 0

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インカの歴史を肌で感じるアンデス越えツア - , ー 4 。。。リースの旅 インカ帝国の首都クスコからインカ創建の地プーノまでの移動は、 車窓から雪化粧を施したアンデスの山々を望むバスがおすすめ プレインカやインカの遺跡を見ながら進む 10 時間のドライプは、 4335m の峠を越えるアンデスの旅となる 暗い教会内に うっすらと浮 かびあがる壁 画は、オリジ ナルの色が残 り美しい 連なる山々の 間を抜ける峠 越えのルート。 こんな過酷な 地でも、暮ら す人々がいる 今回紹介したバスはこちら / インカ・エクスプレス クスコ ~ プーノ間は数社のバスが走 っており、その中でもインカ・エクスプ レスは車の状態がよく人気、ガイドは 英語とスペイン語で解説をしてくれる。 問合せ先 ( グランツール・クスコ ) 084-24-5459 朝 US $ 45 ( 遺跡入場料は別途 ) 日本の問い合わせ先→グランツール ( P91 ) インカ文明の繁栄を 支えた中心地 石畳と石組みの壁が続 く、インカ帝国の首都。 日本からのツアーには、 必すといっていいほど 組み込まれている観光 地だ。アンデス越えの バスツアーでもクスコ が基点となる。 アルマス広場を中心に瓦屋根の古い建物が密集している フォルクロー レの音色を聞 きながら、伝 統的なベルー 料理を味わう アンダワイリーヤス バロック様式の 教会が美しい 1 7 世紀に建設された 古い教会を見学する。 天井の装飾や壁画が美 しいことで知られ、特 に入口付近に描かれた 「天国への道、地獄への 道」の壁画は、物語性 があって面白い。 7 : 30 標高・ 3400m クスコ ◎ー、 標高・ 3093 クスコから ベルー料理をビュッフェで ランチはベルー料理のよく並び、たっふりと プュッフェを満喫。ス食べられる。フォルク ープから魚、肉、野菜、ローレショーもあり、 テサートまでバランス異国情緒満点 ! 雪に覆われて そびえ立つア ンデスの山々 は、迫力を感 しさせる シクアニ を 4 い 12 : 00 標高・ 3542m クスコから 137km アンデスの自然と 遺跡をたっぷり満喫 ! 早朝 7 時 30 分にクスコを出発 したバスは、アンデス山脈を突 っ切ってチチカカ湖畔の街プー ノへと向かう。約 10 時間という ロングドライプだが、豊かな自 然に包まれた山間の村や遺跡、 教会などを見ながらの旅は、移 動をも楽しむ素敵な体験た。 バスはランチを含め 5 カ所に 停車する。ハイライトとなるの は、ラクチの遺跡と 4335E の 峠越え。インカ時代に栄えたラ クチには、インカの最高神ヴィ ラコチャを祭ったという神殿や、 太陽の位置を計算してシンメト リーに建てられた家屋が残る。 クスコと同しように積み重ねら れた石は、泥でデコレーション されているのがユニークた。 一方でラ・ラヤの峠はとにか く標高がポイント。何がある訳 でもないが、富士山よりはるか に高い場所にいること自体が感 慨深い。近くにはアンデスの 人々が生活する居住地があり、 過酷な環境でも逞しく生きてい る人がいることに感動する。見 どころをうまくつないだ旅は、 10 時間といえどもあっという間。 リラックスして楽しめばよいの たが、高山病対策のため登りは なるべく眠らないようにしたい。 0 ( お砌凭川 ラ・ラヤ ラクチ ほ 30 標高・ 4335m クスコから 164kn1 45 : 標高・ 3475m クスコから 1 13km 標高・・ 3901 m クスコから 249km アヤヴィリ 富士山よりも高い 峠を越えて 4000 m 超の峠で 20 分 ほどの停車。やはり標 高を書いた看板を撮影 しておきたい。うっす らと雪をかぶった山が そびえ、気温もグッと 冷え込んでいる。周囲 には小さな露店も。 インカ時代の 見事な石組が残る インカ時代に建てられ たヴィラコチャの神殿 跡が残る。巨大な壁は 見事な石組みで造られ、 インカの人々の高い建 築技術を証明している。 およそ 200 軒が並ぶ石 の家も興味深い。 左右対称に建てられた家のちょうと真ん中 から太陽が昇るデサインになっている プレインカ文明の 博物館を見学 紀元前 200 年頃から栄 えたプカラ文明の博物 館へ。見ところは近隣 にある古い遺跡から発 掘された石の神像。タ ヒチの神像ティキを思 わせる丸味をおびた姿 が興味深い。 プカラ 15 : 00 標高・・ 3879m クスコから 281 km フリアカ 30 標高・ 3827m クスコから 341 km 17 : 30 標高・ 3800m クスコから 386km 一 0 、残りチ間がい。 しがとチ時ど歩う 説ほ。のなをろ く一云の街外ンりだ 抱プ例湖な以ラ通い 湖を地建かさ光トマい る力的創カ小観スリと なカ目カチる湖レるる 秘チ終ンチあ力、まみ 神チ最イるに力は集て プーノの街へ 、 - と向かう途中、 ' 車窓からはチ チカカ湖の姿 が見られる 館内には遺跡 で発掘された さまざまな石 像が並ぶ。近 くにはレンガ を積んだ古い 教会もある

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3 ・・「マチュヒチュ建造の秘密」 マチュヒチュ の マチュピチュ完全攻第カイド 空中都市マチュビチュはなせ、 急酸な山の尾根につくられたのか ? る重要な宗教施設だったと考える チュピチュは急峻な山と を走る秘密のインカ道を通じてウ 山を結ぶ尾根の上につく のが妥当ではないだろうか。イン ルノヾンノヾやビルカバンバのたくさ カ文明が神だと崇めていたのは太 られた、、空中都市 ' ' であ んの遺跡と結ばれていることがわ る。この空中都市はどのような目 陽神である。宗教施設を少しでも かったからだ 太陽に近いところに造ろうとした 的でつくられたのだろうか。発見 しかし、結論から言えば、マチ 当初のマチュピチュは、インカ帝 ュピチュは新インカ帝国の伝説の のは自然なことだ。 国崩壊の後、スペイン傀儡政権に 都ではなかった。ハイラム・ビン マチュピチュ周辺には、断崖絶 反抗して樹立された新インカ帝国 ガムのマチュピチュ発見から 50 壁にそって多くのアンデネス ( 段々 伝説の都 ( ピルカノヾンノヾ・ビエ 年後、アメリカの写真家ジーン・ 畑 ) がつくられている。天をつく ハ ) だと考えられた。マチュピチ サヴォイによる探検隊がビルカバ 塔のような山ワイナピチュの山頂 ュは孤立した遺跡ではなく、山中 ンノヾ・ビエハを発見したのだ。地 付近にもつくられているのだ。食 理的状況や、残された記録から考 料確保のための畑だったとしたら、 えて、その地こそ新インカ帝国の 相当に効率が悪い。アンテネスで 伝説の都と結論づけられたのであ 栽培されたトウモロコシからっく る。確かに、マチュピチュは「都」 られるチチャ酒はインカ支配層か というには、少々規模が小さい。 ら戦士や地方の有権者に対する大 実際訪れてみると、せいせい 500 切な贈り物となる。しかも、つく 人から IOOO 人ぐらいの人が暮ら られた場所が神聖であればあるは すのがやっとだ、ということが実 どその価値は高くなるのだ 感できるはすだ。 インカでは太陽神につかえる美 マチュピチュ建造の理由として しい娘たちをアクリャ ( 太陽の処 ます最初に考えられるのは、砦と 女 ) として、一般社会から隔離し しての役割である。なにしろ断崖 て生活させていた。マチュピチュ 絶壁の上に造られた石造建造物で にはアクリヤの中でも特に選ばれ た娘たちが暮らしていたと考えら ある。難攻不落という他ない。た だ反乱インカ軍が山に引きこもっ れる。アクリャもチチャ酒と並ん てから後に造られたにしては立派 で戦士や地方の有力者に対する貴 すぎる。では、アマゾン地域の反 重な贈り物である。マチュピチュ 抗部族に対する備えが目的だった は神聖なチチャ酒づくりに従事す るアクリャたちの手によって運営 のだろうか。それだと、交通の要 衝でもない山中に砦を築く意味が されていた特別な宗教施設だった あったのか、という疑問が残る。 と想像すると、すべての疑問が解 マチュピチュはインカ帝国におけ けるのではないだろうか。 サクサイワマン ( → P53 ) は圧巻 だ。石の一つ一つ が巨大で 200 トン クラスもある 大きな岩は百トンを超える 0 この時代にどうやって運んたのか ? 4 いを 断崖絶壁に造られ たマチュピチュは 数多くのアンデネ スを有している 車輪も滑車もない。それでもできた巨石建造物の秘密 り立つ。ころなどを使用 0 しない条件下では、傾斜 ンカ文明には、文 の上に迫ってくるのだが、 どのようにして運んだの には地面を引きすった磨 10 % の坂道で、 18 トン 字だけでなく、車 使われている石がどれも 耗跡が残されているのだ。 の石を動かすためには、 かについては、確かな答 輪も滑車も存在しない。 巨大なのだ。現代の最先 えは出されていない。文 およそ 2400 人もの人手 しかも、採石場に残さ にもかかわらす、彼らは 端建築機械を利用したと 字に代わるキープのよう が必要だと試算される。 れた石には磨耗の跡がな 巨石建造物を数多く築い しても、それらを動かす なものの存在は考えられ く、磨耗の程度は採石場 インカ帝国の巨石建造 ている。例えば、クスコ ことは容易ではないだろ ておらす、あくまで大量 物の存在は、インカ皇帝 からの距離に比例して増 の街を守るサクサイワマ う。 100 トンも 200 トン の人員投入によるカまか 加している。インカ人は の絶大な権力と驚くべき ンの砦は圧巻である。 もあるような巨石がいく 動員力を証明するものに せの作業だったのではな 巨石を動かすのに、ころ 重になった防塁が波のよ つも使われているのだ。 いかという説が有力であ やすべり材さえ使ってい 他ならない。 うにジグザグになって山 彼らがこれらの巨石を る。実際、運ばれた巨石 なかったという推測が成 0

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3 ・・・「マチュヒチュ発見」 チチ = ハイラムビンガムはマチュビチュを とうして発見できたのか ? ペイン人の侵人によって インカ帝国そのものが突 然に消滅したわけではな い。当初スペインは傀儡皇帝をた て、インカ帝国の統治を試みる。 しかし、この傀儡皇帝はスペイン 王に反抗、クスコを離れ、アンデ ス山中において、新インカ帝国の 建国を宣言する。新インカ帝国は しばらくの間、スペイン軍に抵抗を 続けるが、やがて崩壊する。 1 9 世紀になって、独立した国となっ たベルーに外国人がたくさん訪れ るようになると、新インカ帝国の 失われた都について強い関心を寄 せる人が次から次へとあらわれは この地にインカの どり着いたのは、山と山を結ぶ尾 じめた。 る。かって、 アメリカ人探検家のハイラム・ 根の上の平地だった。突然、石積 人々が暮らしていたという確実な ビンガム青年もそのひとりである。 証拠なのだ。長く苦しい探検の みの建築物群が目前に姿をあらわ ハーバード大学で博士号をとった 日々であったが、ビンカムは確か したのである。最初は古木や苔に ばかりのこの新進気鋭の学者がペ な手たえを感じていた。 おおわれていたため判然としなか ルーの地をたすねたのは 20 世紀 ある日、彼は、山の尾根の上に ったが、よく観察するとクスコの 街で見られるような高度な石造技 になってから、 1909 年のことで 大きな石造遺跡があるという情報 あった を現地の農夫から得る。 1911 年 術による建造物群であることがわ かった。しかも、その規模は今ま ビンカムはすでに発見されてい 7 年 24 月のことであった。冷たい で見てきたどんな遺跡よりもはる たオリャンタイタンボの遺跡の奥、 雨の降る中、農夫が指さしたのは ウルバンバ川をさらにくだってい 見上げるような絶壁の上である。 かに大きい。 ビンガムは、マチュピチュ ( 老 くことにした。探検隊は川岸の絶 それまで不確かな情報に何度もが いた峰 ) とワイナピチュ ( 若い 壁の上にあるいくつかの小さな遺 っかりさせられていた探検隊のメ 跡を発見するが、小さな発見に満 ンノヾーの多くはこれを信じない。 峰 ) と結ぶ尾根の上に築かれたこ 足することなく、さらに奥へと川 ビンガムは仕方なく、下士官と農 の都市にマチュピチュの名を与え 夫の 3 名だけで山をのばっていく た。インカ時代の建造物の多くを をくだった。川をくだればくだる はど山は険しさを増す。ウルバン ことにした。山は急勾配であった ほば無傷で残しているこの遺跡の 川両岸の山肌には必すといってい 発見は「 20 世紀最大の考古学的 だけでなく、道というものが存在 いはど、アンテネス ( 段々畑 ) の しない。密生する蔓や樹木を切り 業績」と高く評価された。ハイラ 開きながら、少しすつ前進を続け ム・ビンガムの名を世界に知らし 跡が残されていた。段々畑はイン カ文明のひとつの大きな特徴であ た。数時間の山との格闘の末、た めたのである。 【柳谷杞一郎】 イ ン カ の 発見当時のマチュピチュ。ハイラ ム・ビンガムの撮影によるものだ ( 左下の写真とともに、ナショナ ル・ジオグラフィック社提供 ) Hiram Bingham/National Giographic lmage Collection 黄金のインカ帝国 0 ラスト インティ・ジ ヨーンズのモ テルとなった といわれる、 ハイラム・ビ ンガム エンペ 一フ の伝説 Hiram Bingh m/ N on 引 6 raphic lmage Collection 左のイラストはス ペイン兵に引き立 てられるトゥパク ・アマルー。右は 肖像画 90 ~ 一 インカの人々に愛された、最後の皇帝トウバク・アマルー ・ケチュア語 ' でインカ の美徳とアンデス世界の ペインによる傀儡 暗殺の罪を問われてスペ / ヾクは、スペイン副王に ぬくが、旧インカ勢力の 栄光を毅然とした態度で 皇帝に身に甘んし イン国王軍から追われる よる懐柔を受け、キリス 一掃を決意したスペイン 語り続けた。 ることなく、新インカ帝 身となっていた 6 人のス ト教に改宗、スペイン国 彼の残した感動はあま 副王による掃討作戦に屈 国の建国を宣言したマン 王の臣下となり余生を過 ペイン人たちをかくまい、 りにも大きく、広場にさ し、黄金の太陽像ととも コ・カバック 2 世は、ア 彼らの手によって殺され こす。 らされた首に祈りを捧け に捕縛されてしまう。 ンテスの山深くに身をか 2 人目のテイトウ・ク る人々の列が引きも切ら てしまうのだ。 クスコでの処刑の際、 くし、スペイン人征服者 マンコの死後は 3 人の シはスペインに徹抵抗戦 す続いたため、ついにス トゥパク・アマルーはそ たちとの戦いを続けた 息子たちが順々に帝々を の後、病死。 ペイン副王は彼の首を地 の場に集まったあふれん しかし、彼の死は意外な 3 人目のトウバク・ア 中に葬らなけれはならな ついでいる。 はかりのインディオたち 1 人目のサイリ・トウ マルーも徹抵抗戦をつら 展開から訪れる。ピサロ に向けて、インカの言葉 くなったという。 0 ( ~ 冖凭川

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0 ・・・インカ帝国の滅亡」 なせ、スペインによって インカ帝国は滅んだのか ? ンカ文明は、アンデス最 はじめ、やっとパナマの一地方の 後の文明であることは確 征服に成功した頃だった。 かだが、けっして唯一の 1521 年、コルテスがアステカ 王国の征服に成功。新世界で一旗 文明ではない。それどころか、ア 上げたいと考えていたフランシス ンデスにはインカ以前に多くの魅 力的な文明が数多く存在していた。 コ・ピサロは、南方の黄金帝国探 時間軸という概念で考えれば、イ 検に文字通り全生涯、全財産を賭 ける決心をした。彼はこの時、す ンカ帝国が存在していたのはほん の一瞬でしかない。アンデスに生 でに 40 歳を越えていたのだ。第 まれ消えていったいくつもの文明 一回、第二回の探検隊で散々の目 の中ではきわめて短命だったので にあったピサロだが、彼の気持ち は常に前向きであった。 1532 年、 ある。 インカの名が南米の歴史に登場 するのは十五世紀になってからだ その頃からアンデス世界全域への 拡大を開始し、またたく間に南北 五千キロメートルにわたる大帝国 をつくりあげた。ところが 1532 年にピサロが率いるスペイン軍の 侵人によって、インカ帝国はいと も簡単に終焉のときを迎える。帝 国拡大のスピードも速かったのだ が、滅び去るスピードも速かった というわけだ スペイン人が、新大陸の南に豊 かな黄金の国があるらしいという リマのアルマス広 情報を手に人れたのは 16 世紀の 場に立つ、スペイ ンのピサロ像 , POBREDEIDSMS. 呂Ⅱ , 印 " 興 , 1 なー P06 ーアイ要 マチュヒチュ の インティオを 嘖む悪者とし てスペイン人 を蛇、神父を : を - 狐などに喩え ている マチュピチュ完全攻降カイド 【柳谷杞一郎】 イ ン カ : 000 うし 飛脚は連携で 興こ、、 4 0 た巨大な獣にまたがり、雷を放つ ものを手にしている自い人間の上 陸の報が人った 好奇心旺盛なアタワルバは、 2 万 中 央 を越す大軍に守られてベルー北部、 立 高地の町カハマルカに人城する。 つ の インカ皇帝に拝謁をもとめる白い タ 訪問者に会うため、にであった ル わすか 160 名はどのピサロ軍が、 ノヾ 勝つ方法はひとつだけ。「皇帝の 下 生け捕り」である。 2 万人のイン 膝 カ軍に囲まれた中、拝謁に成功し づ たピサロは、アタワルバの手を鷲 く の づかみ。輿の上から引きすり落と した。太陽の御子である皇帝が、 サ ロ こうも簡単に敵の手に落ちたので は戦にならない。残ったインカ兵 はてんでんノヾラノヾラに逃げ散った 監禁されたアタワルバはピサロ の言いなりとなり、傀儡となって しまう。アタワルバは国中から集 めた黄金で部屋を埋めつくすなど、 自身の解放のために精一杯の努力 をするが、ピサロの権力欲と猜疑 心を鎮めることはできなかった 最終的にはスペイン国王に対する 反逆罪の罪に問われ、 1533 年絞 首刑に処される。 1 0 日百キロ以上をひた走る、その恐るべき情報網とは ? OL4QVISTA ノ 第三回探検隊はいよいよインカ帝 国内に足を踏み人れる。 当時のインカ帝国は第 11 代皇 帝ワイナ・カバックの病没後で、 2 人の皇帝による後継者争いが勃 発していた。嫡男ワスカル軍を庶 子アタワルバ軍が圧倒。戦勝の報 告を聞き、ワスカルの処遇を決定 するためにクスコに向かっていた アタワルバのもとに、銀の足をし 第 スペインによるイ ンカ帝国征服の象 徴、アタワルバの 葬儀 ( 1533 年 8 月 ) 飛脚がひた走っ たインカ道。急 峻な崖にも道は 通っていた 総延長距離 4 万キロメートルにも及ぶというインカ道 能であったという記録が ちろんのこと、村々をつ ンカ帝国内には、 限りニつの地点を最短距 インカ道の沿道にはチ 残されている。 「インカ道」と呼 なぐ小さな道路もしつか 離で結はれるように直線 情報の収集・伝達と物 ャスキと呼ばれる足自慢 はれる道路網がそれこそ りと整備されていた。そ 的につくられ、道に沿っ の飛脚が半レグア ( 約 3 流コントロールのために の総延長距離は 4 万キロ ローマ帝国も日本の織豊 そこいらじゅうに張り巡 キロメートル ) ことに置 て公用で旅する者のため らされていた。南北に走 メートルにも及ふ。道に 政権も、道路網の整備に に宿場 ( タンホ ) が設け かれ、驚くべきスピード る主要幹線道路が 2 本、 は、一定距離ことに道標 で走り、情報を運んだと られた。タンホは休憩所 心血を注いだ。インカの 1 本は海岸線を、もう 1 本 が置かれ、石ころひとつ、 皇帝たちも同様であった。 としての役割だけでなく、 いう。首都クスコから北 は山岳地帯を貫いている。 雑草一本見られないほど 戦上手、統治上手な人た あらゆる物資の貯蔵庫と 部のキート ( 現在の工ク この 2 本の幹線道路を東 清掃カ哘き届いていたと ちは道路づくりに熱心な してもの役割も担ってい アドルの首都キト ) まで 西に横切る主要道路はも いう。また、道は可能な 通常十日で情報伝達が可 人たちなのである。 た。 0

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マチュビチュ遣跡を マチュビチュを王道コースに沿って回るなら、 2 時間半もあれば すぐに巡ることができる。たた、憧れの地をじっくり満喫するなら、 せひとも、マチュビチュ村に滞在してほしい。 インカ道から見下ろす街並み、朝の光を浴びた堅牢な石組み、 そうした光景はきっと心に強く焼き付けられることたろう。 achu Picchu Omp ー・彙・ G i 社・ マチュビチュ完全攻略ガイド ・ P28-29 最短なら 2 時間半。 日帰りも可能たけど、 朝一番の挑めがベストです。 アンデネス ( 段々畑 : 2 儀式の岩 見張り小屋 貯蔵庫 遺跡入口 基本の観光コース 0 ミ E ミミ 0 ミき戔ミ、を・ 早起きは三文の得と心得よ。 遺跡の美しさを目の当たりに : するにも、午前中の光が最高だ。 できるのは、霞みがちな早朝開門は 6 時だがワイナビチュ登 幻想的な風景が広がり、幽玄の一山の人気も相まって、オンシー 歴史に思いを馳せることができ一ズンには早朝 3 時ごろからシャ る。霧が晴れるその瞬間も、息ートルバスを待つ客がいるほど。 を飲むほど美しい。絶景を撮影ーせひ、早めの行動を心がけたい。 ワイナヒチュ・月の神殿 P40 下 ) ハイラムビンガムロードを歩いて登る人もいて、遺跡入口には暗いうちから人が並んでいる 上 ) 朝靄で霞むマチュビチュ インカ時代に思いを馳せる。 マチュビチュ山 ←太陽の門インテイプンクへ 急被な山の頂きにあるマチュー道を辿る絶景コース。ただし、 ビチュへ至るには、列車とバスー 3 泊 4 日ではあまりに遠い。そこ か、はたまた歩いて目指すか、一で、公共交通機関で訪ねるなら、 2 通りしかない。インカ道トレーせひ、インカ道を少し歩いてみ ッキングは、インカ時代と同し : ることをオススメしたい。 太陽の門インテイプング・・ P42 インカ橋・ P42 インカ道を歩く P28 断崖絶壁に造られたインカ橋へは平坦な道が続き、簡単に行き着くことができる マチュビ サンクチュアリ・ロッ、、 遠景で空中都市を実感したい。 『失われたインカの都市』を実ーうが、その疲れも吹っ飛んでし 感するなら、遠景でその眺めをまうほどの絶景が待っている。 満喫したい。体力に自信があるあるいはゆったりハイキングを なら迷わすワイナビチュ山へ。 : 楽しむなら太陽の門へ。こちら 戔あまりに急な登りに怯んでしまーは緩やかな坂道になっている。 ワイナビチュ登頂 P40 マチュヒチュ登頂 P40 太陽の門インテイプンク P42 上 ) ワイナビチュ山からの眺めは圧巻だ下 ) 太陽の門からはかってインカ時代の人々が見た光景が広がる 見学する際の注意事項 10 箇条 歩きやすい格好で、荷物は軽く。思い出以外はなにも残さないのが鉄則。 コースの基本は一方通行 携帯に便利な 遺跡入口前にある、 軽くて小さな マチュビチ・ 水筒がオススメです。 サンクチュアリ・ロッジ 工コな配慮も大切 でランチをどうそ ペットボトルも 遺跡内では 食事力できません 原則厳禁。 もちろん 火気厳禁 & 禁燧 大きな荷物は 持ち込まない 遺跡内に トイレはゼロ。 持ち込んでいる人も 見かけますが禁止で魂 水簡なら地球にも 優しいは魂 思わす一服したくなる 眺めですが、 火気厳禁で魂 自然を守りましよう。 20 以上の容量の荷物は 持ち込めません。 入口側に 預かり所がありま魂 0 ( ′冖川 持ち込むこともできません。 選跡に限接するホテルでは バイキング形式のランチが とれま魂 早めの対応が肝心。 入口前 ( 有料 ) か、 ホテルでのランチの際に 拝借して。