第一章・夢吉 きぜっすんぜん ていった。ばくはほとんど気絶寸前だった。 いちにち きおくかんぜんぬ そのあとどうなったのか、どうやって一日をすごしたのか、記憶が完全に抜け落ちてい ゅめきちあとしまっ ゅめきち おんじん 夢吉がばくの恩人だった。そのことのあと、一度だけ、夢吉は後始末をしたことについ て話してくれた ようぞうきん それぞれが、じぶん用の雑巾をもってくることになっていた。使いふるしのタオルでで ぞうきん ゅめきち あたら はなく、ま新しいタオルをぬって作った雑巾だ。夢吉はまっさらおろしたての雑巾で、ば あし くのぬれた足をていねいにふいてくれた。 したぎはん ほけんしつ せんせい ばくは先生に保健室へ連れていかれ、おもらしした子のために用意されている下着と半 き うわ ズボン、上ばきに着がえさせられた。 きようしつ ゅめきち せんせい 夢吉は、先生とばくのいなくなったさわがしい教室で、だれにもかまわす、じぶんの あら なんどなんど あら ぞうきん 何度も何度もふいてく 雑巾でばくのおしつこをふいた。洗ってはしばり、ふいては洗い、 れたそうだ。 き そのときから、ちょっとしたいさかいがあると、先生に聞こえないところで、ばくはき まって「ションべンたれ ! 」とはやしたてられた。はじめのうちは、くやしくてはすかし る。 っ つく ぞうきん いちど せんせい こ ようい つか お
ど一つきゅうせいしまだまほ と、ばくはおかあちゃんを見てうなずいた。 おとうちゃんの作り方は、本物の、 しいさとうといいしようゆをおしみなく使うこと、 だいず み だった。本物の、 しいさとうとしようゆにはさとうきびや大豆のうま味がたつぶりとある あじ に しあ ので、味わいぶかいくぎ煮に仕上がる。 えきまえしようてんがい しまださけてん さいわい、駅前商店街には〈島田酒店〉がある。おかあちゃんによると、この店には にほんしゅ 本物の ( じゃ、ニセ物があるってことだ ) 日本酒がたんとあるらしい しまださけてん おかあちゃんこゝゝ 。ししつかって、島田酒店へさとうとしようゆを買いに行った。そしたら、 みせばん ど、つきゅうせい こと 同級生の島田真秀がひとりで店番をしていた。同級生だといっても、ひと言もしゃべっ ゅめきちい力い たことはない。夢吉以外、ばくはだれともしゃべらない しまだ 島田は「おおきにイ」といってあいそわらいをしたが、 ておをはらった。 じようひん あじ ひょうばん 「おばちゃんの作るくぎ煮は、上品でやさしい味がするいうて、評判やもンなア」 ゅめきちかお ひょうじよう 夢吉が顔をほころばせていった。おかあちゃんの表情がひきしまる。 せんぎ 「さ、しようゆが煮えてきた。ここにしようがの千切りをいれて、二キロ分のイカナゴを て ざっとほうりこむ。なべが四つあるから、手ぎわようするンよ」 ほんもの か ほんもの もの かた ほんもの み ばくは目を合わせないようにし め に あ ぶん つか みせ
らいしようゆの、イカナゴをたくにおいがまちをすつばりとつつみこむと、もう春だ。 てつだ 去年はじめて、ばくはおかあちゃんのくぎ煮作りを手伝った。おかあちゃんはくぎ煮を いえた 一年分作る。家で食べるのと店にだす分。びつくりするほどたくさん作る。 ゅめきち 夢吉にその話をしたら、 「なんでそんなおもしろそうなこと、ばくにもさせてくれへんかったンや」 ことしゅめきちてつだ といわれ、今年は夢吉も手伝うことになった。 てんかいっぴん ぜっぴん おかあちゃんが作るコロッケは天下一品だけれど、イカナゴのくぎ煮もまた絶品だ。新 子がではじめのころは、まだ小さいので作るのもむずかしい。やわらかく、煮くずれしゃ すこおお ねだんさ すいからだ。まちのおばちゃんたちは、新子がもう少し大きくなって、値段が下がるのを ま てんとうなら 待つ。〈みっちゃん〉のくぎ煮は、店頭に並べるとつぎつぎに売れてい さんがつだいにどようび ひがっこうやす ばくらがイカナゴをたくことになったのは、三月の第二土曜日。この日は学校が休みだ し、新子も大きくなってたきやすいからだ。 あさ ゅめきち ま あさいちばんりよう ぎよせん 朝から夢吉とふたり、そわそわしながら待っていた。朝一番の漁があって、漁船から魚 じゅうじ やちょっこう にようしんこせんど 屋に直行されてくるのが十時ごろ。くぎ煮用の新子は鮮度がいのちだとおかあちゃんは っていた。 いちねんぶんつく きよねん しんこおお はなし に みせ ぶん しんこ にづく 、つ 0 はる に さかな しん 8
だけど、ばくはおとうちゃんから目がはなせなし ) 。小さい子になったおとうちゃんをほ うっておいて、じぶんだけべッドにもどるわけにはいゝ 「な、ええ子やさかいナ」 ごえ おかあちゃんのひそひそ声はふるえていた。 あきら 「おねがいや、明」 あたた うしろから、おかあちゃんがばくを丸ごとだきしめた。おかあちゃんのからだの温かみ で、ばくのからだは冷えきっていたことに気ついた。 おも おかあちゃんのぬくもりがばくをつつみこむ。ばくはねむかったことも思いだす。 しんばい さむ おとうちゃんのことは心配でたまらなかった。たまらなかったけれど、ねむかった、寒 かった。 へや こくんと首をおり、そっと用をすませてから部屋へもどった。 まよなかれい どうしておとうちゃんが真夜中、冷ぞうこに話しかけるようになったのか、おとうちゃ んはもちろん、おかあちゃんさえなにもいおうとはしなかった。 あきら しんばい 「明はなんにも心配せんかてええのやデ」 おかあちゃんはそういってばくをなでた。 ひ よ、フ まる ちい 2
第三章・くき煮作り おも しオしオれか思いっ 「こんなやわらかいモンがしつかりしたくぎ煮になるやなンて、ゝっこ ) ど たンやろなア」 つよび つよび 「強火。はじめからしまいまで、ずっと強火でたくこと。それと、絶対にいしらないこと。 ふた じようず この二つをまもったら、上手にたけるよ」 てじな 「なんか、手品みたいでわくわくするなア」 おお さんにん 三人でそんなやりとりをしていると、大なべ四つの中央に、コ 1 ヒー色のあわがふわ あっとふくらんできた。 おも 「それともう一つ。このあくをていねいに取ってやること。おいしいモン食べよ思たら、 手間ひまおしんだらアカン」 おかあちゃんはいって、あくすくいで四つのなべのあくをていねいにすくい取っていっ すく こ。ばくらもあく取りをする。そうしているうちに、だんだんあくが少なくなってきた。 「さ、これでもうええ。あとはこの落としぶたをして、一気にたきあげる」 みせ つく おかあちゃんは、アルミホイルを丸くして作った落としぶたをなべにいれた。店いつば ひろ いに、イカナゴをたくしようゆのにおいが広がっている。 さんにん さんよんじつぶん 「たきあがるまで三、四十分かかるから、三人で小腹でもふくらまそ」 ひと まる こばら ちゅうおう ぜったい
じかん おと しず やがてそれはえつくえつくというカのない音にかわり、ばくらのまわりには静かな時間 なが だけが流れていた。 てゆめきち ばくは曲げた手で夢吉のかたをだきつづけた。どうやってなぐさめればいいのかわから た ふゅはと ないまま、冬の波止に立ちつくしていた。 ゅめきち じかん どれくらいの時間そうやっていただろう。夢吉はほくのうでから手をはなすと、ようや かおあ く顔を上げた。 あきら ながおみ 「夜でほんまよかったワ。なんば明でも、泣き顔見られるンはテレくさいモンやデ」 「ああ」 かえ ばん 「夜逃げの晩にかせひいたらどもならんよって、帰るワ」 「ああ」 こくどう しんごう ぎよこうなかある ばくらは波止をおり、水銀灯がついた漁港の中を歩き、国道にでた。ここの信号はとに き しんごうま ゅめきち あかなが かく赤が長い。信号待ちをしているあいだ、みように気はずかしくて、ばくは夢吉のほう を見ることができなかった。 ま ゅめきちそと みせかえ 店に帰ると、おかあちゃんが店内のかたつけをしているところだった。夢吉を外で待た せておく。 よる み ま すいぎんとう てんない ちから て 8
みせ 「うん。店にだすくぎ煮、きようはばくらがたくねン」 ゅめきち ばくのかわりに夢吉がこたえた。 はち てんかいっぴん 「おっちゃん、八キロちょうだい。八キロやデ。ばくら、天下一品のくぎ煮作るンやから ゅめきち 益歹士ロはとくいげ - 、こ。 はちご ろくせんななひやくにじゅうえん 一キロいりが八つ。八百円かける八と五パ 1 セントで、六千と七百二十円」 ゅめきちょっ おかあちゃんからあずかってきたお金をきっかりわたし、ばくと夢吉は四つずつを手に みぎて に ひだりて もった。右手に二キロ、左手に二キロ、重い かえ かえ せんど 「さ、はよ帰った、帰った。イカナゴは鮮度がいのち、やデ。おいしいくぎ煮作ってや」 ま こえあいず みせ おっちゃんの声を合図にばくらは店へもどり、待ちかまえていたおかあちゃんに新子の ふくろをわたした。 あきらゆめきち てつど 「ええか、しつかり手伝うてや。明も夢吉くんも」 「まかしといて、おばちゃん」 、つ ゅめきち 夢吉はばんとむねを打った。 どうじ しんこ 新子は二キロずつを大なべ四つで同時にたく。まずはじめに、大ざるにあけた新子を手 いち おお に はっぴやくえん はち かね おも おお につく ) 編っ′、 しんこ しんこ て て 2
第四章・震災の朝 てしきりと話しかけていた : ・・・・・・う、うん。もう、アカンのや。ううん、もうアカン・ おも れい む だれかに向かってというのはたぶん、冷ぞうこだったと思う。 そのときのおとうちゃんは、からだがするするちぢんでいって、二年生のばくよりも、 一つんと小さい子みたいたた とにかく、もうアカンねン・ : もうなんもできん。ううん、そうやない とお ばくは、だだっ子になっていやいやをするおとうちゃんを、ばんやり遠くにながめてい にど すこちか た。ほんの少し近づいて手をのばせばとどくのに、おとうちゃんは二度とさわれないほど とお 一くにいる。 め しよばっく目をしばたたきながら、これ、きっと夢なんや、そうや、夢にきまってるン おも や : ・・ : と思っていた。 じかん ばくのかたに手がお どれくらいの時間、そうやってつっ立っていたのかはわからない あたた かれた。温かな手だった。 あきら 「かせひいたらアカンから、べッドにもどりナ、明」 こえちい おかあちゃんだった。その声は小さかったけれど、うんとやさしくひびいた。 こ ゅめ にねんせい ゅめ
たかしなまさのぶ 高科正信 ウグイスが鳴き、イカナゴのくぎ煮をたくにおいがまちじゅうにただよいはじめる じもとしおやはる こころ はるおとす と、地元塩屋は春です。人びとはこの春の訪れを心からたのしみにしています。魚 やぎようれつ かくち ちじんおく 屋に行列をつくり、一年分のくぎ煮をたき、各地の知人に送ることができると、ほ っとします。ああ、今年もまた春が来てよかった、と。 はんしんあわじだいしんさい はちねん ことしだいしんさい とおとお 阪神淡路大震災から八年がたちました。今年も大震災などなかったように、遠い遠 ひろひろうみ はや い南の国から、広い広い海をわたって、ツバメがやってきました。気の早いものは、 す ごがっ えきまえちい しよ、ってんがい もう巣づくりをはじめています。五月になれば、駅前の小さな商店街は、生まれた こ、つけい おも ばかりのいのちのざわめきであふれることになるでしよう。その光景を思いうかべる こ、つふ′、 だけで、ばくは幸福な気もちになります。 ほんよ せんさく せんせん この本を読んで気がついたひとがいるかもしれません。前作の『ふたご前線』は島 おんな しゅじんこ、つ び ものがたり 田真秀という、ふたごの女の子のかたいつほうが主人公の物語でしたが、『ツバメ日 より・ せんさくと、つじよ、つ しみずあきらしゅじんこうものがたり 和』は、前作に登場した清水明が主人公の物語です。 たいせつおもき あとかき・ : ・おたがいをとても大切に思う気もちをみつめて みなみ ことし いちねんぶん ひと はる さかな 7 04
1 をはすした。そしてそこでまたばくは、あっ ! と月さく一つめいた。 ある いちまい くたびれた表紙カバ 1 のうらに、一枚の写真がはってあった。そこには、歩けるように り・よ、って なったばかりの、たぶんばくと、しやがんだかっこうで両手をさしだすおとうちゃんが、 はん まんめんえがお うつ 写っている。ばくは半べそをかいて、おとうちゃんは満面の笑顔で。うしろに、大きく口 をあけたカバがいる。 ばっとからだを起こした。階下へ行く。おかあちゃんは、そうざいを買いに来たお客と しゃべっている。 きやく さぎようだい お客がとぎれるまで、作業台のいすにこしかけて待っことにした。表紙カバーのうら しやしんみ にはってある写真を見る。どうしていままで気づかなかったンだろう。 あきら 「明、なに ? ひじきの煮物をパックにつめながらおかあちゃんがいった。 にひやくえん まいど 二百円です。毎度おおきにイ」 きやく お客が行ってしまうのをたしかめてから、ばくはロをひらいた。 しやしん 「この写真」 ひょうし 表紙カバ 1 のうらをおかあちゃんに向けた。 にもの ひょうし した しやしん くち ひょうし おお きやく くち