不思議 - みる会図書館


検索対象: 円地文子全集 第13巻
63件見つかりました。

1. 円地文子全集 第13巻

きになったことのある後宮麗子さんでございます」 と傷口をえぐるように言った時、信楽はおかしいほど狼 梅乃は呼吸をつめるように言って、自分の投けた手裏剣 狽して、襟元をかき合せ、 の相手のどこに立つかを見定める眼になっていた。 「え、何ですって : : : 後宮麗子さんが私に脚本を書いて貰 「後宮麗子、後宮麗子」 信楽はぶつぶっと噛むようにその名をつぶやいた。入歯いたいというんですって : : : 」 とそわそわ上体を浮かせて言った。 のかちかち触れ合う固い音が落ち窪んだ唇の中から洩れた。 信楽はそのまま、黙り込んで肘かけ椅子にかけた両手をだ「はい、そうなんでございます。後宮さんは昔、ああいう らりと垂らしている : : : ここへ来て、話が不自然に渋滞すことがあって、思いがけない御迷惑をかけていますので、 るに違いないとは梅乃も夏彦も大体予想して来たが、案の今更こんなことを自分からはお願い出来ないって言ってお 定後宮麗子の名をきいた瞬間に、信楽は放心したように会りましたが、私ども古い友達としますと、あの人もここら 話を断絶したので、梅乃もよんどころなく口を閉じた。三でもう一度若返って、名実共になるほどと思わせる演技カ 人とも唖になったような部屋の中には、急に書物の層が増を発揮して貰いませんとね」 したように思われ、天井に近い窓の上に、多分昨夜の中に「後宮さんは、六十いくつかな。私より四つ下だったと覚 閉めこまれたものであろう、黄ばんだ翅の蛾が一疋、電気えています」 仕掛けのように細かく羽をふるわせているのが、唯一の生信楽は明白に言った。 「もうあの頃以来、私は芝居に足を向けないので、あの人 物であるような印象を夏彦に与えた。 信楽高見は言葉を忘れたように黙りつづけている。それの舞台をみていない。相変らず美しいでしようねー 「それはもう、あの人の万年娘は劇界七不思議の一つにな は梅乃の話し出したことについて考えているというより、 っておりまして : : : この間も第一で椿姫をやって大成功で その言葉から引き出されて来た後宮麗子への連想で頭を一 ございました。しかし、もう何といっても年は年ですから、 ばいにしているように見えた。 湘その証拠には沈黙の果てのなさに根気負けした梅乃が、役者に年齢はないといっても、菊の花のいつまでも散らな 「いかがでございましよう、先生、・ : ・ : 後宮さんが是非先いようなもので : : : あのまま萎れて行くのも美しいとは申 生に脚本を書いて頂きたいといっているのでございますがせませんからね」

2. 円地文子全集 第13巻

彩 で、僕がお供したわけですよ。女房は東京に帰っていた時に、みずみずと美しいんだな。生々なんて動物質な感じじ だし、こっちもよろず身軽な時代でね。ローマを一通り案やない。そうかって勿論、琺瑯鉄器みたいでもない。つま 内して後、車でナポリからカプリ島に渡って琅圷洞を見てり植物性 : : : 花びらですよ。今にも色香がうつろって散っ からそこで一泊、。ホンペイからソレントをまわって晩にロてしまう : : : 今、今でなければ駄目だ、そんな感じがそく 1 マへ帰る、 : ローマには、アメリカから着くマッキンぞく身体に伝わって来るんです」 トッシュという軽金属会社の社長が待っているという寸法「随分いかれたものじゃない。あなたのような意気地なし です」 が」 「その人、駐留軍時代のシヴィリアンだったって相手じゃ 紗乃は嫉妬じみた眼ざしで康夫を見て言った。 ないかしら。よく覚えていないけど、たしかそんな名だっ 「悪い言葉でいうと、・ホタンが全部外れている。それがだ たような気がするわ。それで、あなた一人でエスコートしらしないと思われないで、あの人の身体が僕をやんわり包 たの」 みこんでしまいそうに思われるんですよ。自分ながらおか 「いや、イタリ 1 語のうまい通訳の女史と二人ですよ。 しな気持だったなあ」 かの有名なアッビア街道をナポリまでね。僕はうしろに乗「向うは積極的には出て来ないのね」 るというのに、川原夫人が日本流にうしろの席がいいとい 「ええ、勿論、通訳の女史が一生懸命にしゃべりたてて って、僕と二人並んでしまったの、女史が前の席で一々 いるのに、張合いがないみたいにばんやりきいていて、時 ふりかえって教えるわけです。これが有名なクオ・ヴァデ時はっとしたように受け答えするんだが、それが妙に壺に イス・ドミネです。これがカンパニヤの野で芥子の花が咲はまっているんだ。僕は居眠りしているらしいあの人の身 いておりますって風にね : : : ところが当の川原夫人はいっ体が時々、僕にしなだれかかって来るのがわかっているだ こうそんなことには興味がないみたいで、うっとりした眼けに、女史の説明にしゃんとした答えをしているのが、 て前方を眺めているんだな。みているというでもない、そ いかにも不思議だったし、魅力でもあった : : : 」 う眠っているような眼ざしなんですよ。あの時、もうあの 「 g-v 女史は変に思わなかったかしら」 人は五十ぐらいだったでしようね。でも肌の色艶が綺麗で「いや、そりやそんなことを不思議に思うような人じゃな うすべに 。こちこちの神学生だもの : : : 」 ね、ちょうど、薄紅の芍薬か何かのように脂つけのない癖

3. 円地文子全集 第13巻

の清らかな一生を過したが、死の床に横たわってひたすら石が好きになった男がいる。紗乃も石の趣味はないけれど 称名念仏している間に、「まらが来る、まらが来る」と囈も植物は好きなので、花を庭において手入れしたり眺めた引 い」と 言のようにいい、手を合せていたという。その説話をよんりしているときには、結構静穏な一時に身内が憩うのであ だ少女の頃には紗乃はまだまらの意味がわからなかった。 男が性器を女のうちに突き入れることも知らないのに、経それと、風呂に入って湯にひたった後床に入り、静かな 血だけはもう通常に流れ出していた。月経というものも、眠りにおちてゆく時が、紗乃には最上の時であった。深い 生理的に不快な以外に不潔な感じばかりして、子供を生む眠りがこのまま覚めずに、何の苦しみもなく死の境に踏み ことも厭であった。それはいくらかの個人差はあるにして入れるなら、どんなに幸福だろうと紗乃は折々思う。トル も、大正中期の少女にとって略々通念だったのではあるまストイの「最後の日記」の言葉ではないが、「人間は一生 、ゝ 0 し・刀 軛をかけられた荷馬だ。死ななければ軛は外されない」と そんな環境の少女が文学的には早熟で、恋愛や情事を早いうのはほんとうである。 くから読み習ったのだから、身心に奇妙な窯変の起ったこ そういう時の紗乃はひどく老成して、人生を達観してい とは事実である。 るように見えるが、毎日の暮しと仕事に逐われてあくせく ジョージ・エリオットというイギリスの偉い女流作家は、している時は、疲れと若さが混淆して・ハランスを失った活 六十を過ぎてから恋した若い男と結婚し、その結婚式で薄力が、傾いだまま揺れ動いている振子のように思われる。 着したのが祟って肺炎になって死んだという話を、紗乃は不思議と言えば不思議な女である。 女友達から笑い話のように聞かされたことがあったが、笑 い話にすることではない。い くつになっても人間は恋をす 三月十一日に紗乃は山川克子といっしょに京都へ立った。 る資格があるし、実行したっていっこうおかしいことはな修は一日前に行っているし、お水取りの行事を紗乃に見 い。紗乃はそんなことをとりとめなく考えながら、どうしせて随筆を書かせようという雑誌社の編集者やカメラマン て自分はこうぐずぐず周囲を気にして、申しわけばかりしは、一足先に奈良へ行ってその夜のうち合せをしている筈 であった。 ているのだろうと情なく思った。 紗乃の知人には、植物が好きで、いっかそれにも飽きて午前に東京を発ったので、京都駅へ着いたのは二時近く

4. 円地文子全集 第13巻

あなたにももうおさらばでございます」 むしろ疑わしくきいた。くれはが定子皇后に唯の主従とい 長い沈黙の後くれはは不思議に涙一つ見せずそれだけ言うだけでない心からの敬愛をもって仕えていたことを知っ い切ると、見かえりもせず行国に背を見せて、出て行った。ているだけに、突然裏返った妹の心が量りきれないのであ くれはの胸に行国への愛着が、あやしい復讐と妄念に変る。 って皇后を呪う思いに置きかえられたのはその時からであ くれはは姉の不審らしい顔つきをほぐそうとして、自分 っこ 0 の翻意について次のような説明をした。 勿論その異常な愛着と妄執が素直な女であろうと願うく行国との恋を全うしようと念願していた内こそ、不遇な れはの若い身心の自然な欲求を焼きただらせて、熱病を疾皇后に仕えて来たけれども、位ばかり高くても世間からは ませ、一月ほどの間に見る影もないほど痩せ衰えて、蜘蛛日陰もの同様に見られ、よろずに事足りず気のめ入りこむ のように凄じい変貌をとげさせたのは当然な結果であった。 ことの多い宮仕えにはもう辛抱が出来なくなった : : : 元々、 あやめに逢おうと思い立った時には、くれはは病気と心私たち姉妺は左大臣のお世話でこうして宮仕え人にもなっ 内の熱気に闘いつづけた末にある結論を見出していたのでたようなものゆえこの後は眼をかけて頂けるような御奉公 ある。 をして、先々は家柄や位などどうでもよいから、豊かな生 「姉さまに、逢いたいと思うたのは外のことでもありませ活の保ってゆけるような男に一生を委せられるようにして ぬ。関白さまがもし、昔、あなたにおさせなされたような頂きたいというのである。 よりまし ことを又、お試みになる折があったら、その贋の招人には あやめは面変りの烈しいのと一緒にあやしく一変したく れはの心情を、恋を失った若い妹の余儀ない変貌としてう 私を使って頂きたいと思うからでございます」 「え、何ですって : : : そなたはあの時私が皇后の宮の御様けとったようであった。あやめの胸にはすぐ中宮の御病気 子を真似たのをあれほど憎んで姉妹の縁まで切ったではあとそれに障礙する物ノ怪のことが心に浮んで来た。道長の 心を察しるほどの器量はあやめには元より恵まれていなか 物りませんか : : : それに今となって : : : どうして又 : : : 」 ったが、今度の中宮のおん悩みに当然、考えられる筈の皇 あやめは行国とくれはの間の恋愛関係が破綻したことだ み まけはきいたが、行国の定子皇后に向けている秘かな恋につ后宮の怨霊が未だ現われて来ないのは、自分は既にくれは いては全く知らないので、妹の口から出た不思議な言葉をと絶交していて皇后の親しい御様子を知る筈はなし、他に

5. 円地文子全集 第13巻

それから見れば、巫女の王である斎院が神に身を捧げて がそこに描かれている。 代々斎院としてこの職にあった貴族女性が普通形式的に祈るとき、まず衣類を脱ぎ捨てて、身を清浄にしたとして 行っていたらしい御禊なども、この絵詞のうちの斎院はほも不思議ではない。 とも角この絵詞によると、紗乃を驚かせた第一の場面、 んとうに水をかぶって身を清めたように描かれている。 やこの絵巻で紗乃を驚かせた部分も結局はその神に対して榊を四方に立てた清浄な清め殿で、裸形の斎院が死んだよ うに横たわってい、その上に若い男の蔽い冠さっている異 身を清める儀式とつながっているのである。 紗乃が伊勢の斎宮について調べたとき、御祓いの様式様な図の前に特別な事件が起っていることが詞書きで知ら が実際はどういうものだったかということを、史料に当っれた。いったいならこの前の場面を画工は描くべきなのに、 それを描くことは一種の禁忌に触れるものとしたのか、そ てみても人にきいてみても結局分らずじまいであった。 唯これは庶民の例であるが、南北朝頃に書かれた坂十仏れならば、この絵のほか数枚の男女性交の描写を、結構リ アルに描いているのはいったいどういう意図によるのだろ という世捨人の旅行記に伊勢参宮の記事があって、 うか。紗乃にはのみこめなかったが、恐らくは、この男 なにがし 「某」とだけしか記されていないが : : : 彼に神の託宣があ 山風時々時雨れて ( 五十鈴川の ) タ浪立ちさわぐに、 り「汝によって、斎院は生き出で給はん、われ汝に憑らん」 日のほとりに参宮の輩、垢離かきて寒げなるけしきもな し。麻の衣の賤しげなる賤の女、身を清めぬればとて喜とあったことによっているのであろう。 ともかくその日、夜かどうかはわからないが、野盗の群 ぶ色あり。花やかなる小袖のよろしき女も膚をあらはし が、紫野の斎院を襲った。源氏物語にこそ描かれていない て恥かしげなる顔ばせも見えず、 こよ大晦日の夜、中宮の御殿に盗賊が乱入し が紫式部日記。こ と記されている。よろしき女というのがどの程度の身分て、女官の衣裳を剥ぎ、まる裸にした実例が記されている の者かは分らないが、ともかく小袖のいろいろが水にぬれし、今昔物語などにはこの種の話は多い つまりあの時代には、宮殿や貴族の屋敷などといっても、 匂ってとあるところを見ると、満更の庶民ではないらしく、 神に対する精進のためには、素肌を水に濯ぐことも厭わな警備は手薄なものであったらしく、斎院の御所へ野盗が込 あなが み入っても強ち不思議ではなかったろう。 かったらしい こり

6. 円地文子全集 第13巻

の腕ききの店員になっている青年などとの関わりかたを通う自己批評のまなざしの存在と無縁ではあるまい じ、また彼女の見る性的な夢の描写を通じて、執拗に描こ この作品では「火」や「稲妻」が重要な意味をおびてた うとしているのもそのためである。そして小説では、紗乃びたび描写されるのをはじめ、いわば作者がある図式、あ は絵巻の縁によって、川原悠紀子にどうやう乗りうつられる解釈にしたがって呼び出してきた事象や事物がたびたび た気配もあり、こうしてこの作品は、年齢を超えて働く女描かれている。第一、斎院と川原悠紀子の重ね合いそのも の性のカへの、女流作家自身による賛嘆という性格を帯びのが、大胆きわまる図式だった。しかしそれが不自然さを てもくるのである。 感じさせず、むしろ不思議さを強調するように働いている 肉欲の直接的な発動からは縁遠くなってきている老女のところに、円地氏の筆の力がある。》 ( 大岡信、朝日新聞・昭和五十一年六月一一十一日 ) 色つぼさは、しかし老耄と紙一重の場合もありうる。円地 この 氏はこの徴妙な問題に対しても注視を怠っていない。 作品が、十分に耽美的になりうる性質をもち、またそうい う要素をたしかに豊富に示しているにもかかわらず、一方 で確固とした現実の手ざわりを保っている理由も、そうい 〔郡司勝義〕 429

7. 円地文子全集 第13巻

騒いでいた大川べりの座敷のざわめきがふっと浮び上って 来るかと思うと、それに重なるように真白いべッドの中に 眠り姫のように横たわって「アルマン」「アルマン」と細 い声で男の名を呼びつづけている椿姫が、そのまま自分で あるような夢うつつの錯覚に他愛なくさまよって行った。 花の色 意識を朦朧と霞ませている幾重もの紗幕の底に、何とな うしろぐ く重たく沈みこんで溶けない異物がある。はて、これは何 後宮麗子はべッドの中でうつらうつらしていた。一度ふ っと眼を見開いて、カーテンの裂け目から明るい光の忍びだったろうと麗子は覚めきらないままに、恰もそのあたり こんでいるのを見さだめた後なのでほんとうに眠っているに重たい塊りがあるかのように片手をゆっくり胸の上に乗 わけではなかったが、身体中の節々がとろけて骨なしになせた。 ったようなけだるさが不思議に快く、大海の波にゆすられ劇場一ばいに湧き溢れる旺んな拍手喝采の騒音がゆっく り滑り落ちた厚い緞帳を越えて、劇の終った殺風景な舞台 て浮身しているように両手を投げ出したまま淡い眠りにい に答えを求めて来る。今し方、臨終の悲劇に涙をしばらせ つまでも身を委せていたかった。 相そうだ、今日は芝居はもうなかったのだと思った。昨夜、た椿姫が青い隈取りの扮装のまま床からはね起きて、裳裾 をつまみ、アルマンと手をつないで舞台の中央に立っ : 可混成劇団の千秋楽の後、お別れパーテイだと言うことで、 柳橋の「出雲」に行き、男女合せて一「三十人が深夜まで幕がもう一度上るとわれ返る拍手の波 : ・ 第一章 小町変相

8. 円地文子全集 第13巻

「そう : : : 直接にはね、でも、私とそんな関係になった人 らっしやるでしよう」 「悪いかいいか知りませんけれど、あなたが派手な生活をは、皆、変死しています。ここの寝室で。ヒストル自殺した していらっしたことは、主にこの土地の人から聞いていまドイツ人の将校のことはあなたも御存じでしよう」 「ええ、聞いています。あれは終戦の年でしたね。ナチが 「そうでしよう。ひとは今私がこんなに落ちぶれて、身体壊滅して、日本にいても監視されているし、国にも帰れな の不自由な病気にかかっているのだって、皆、過去にいろくなったためだったとか聞いていますが : : : 」 「表面はそうなっています」 いろ悪いことをした報いだといっていますわ」 悠紀子は静かに言った。 「人間はいつでも、他人に対して自分に似ていないことを 「でもほんとうは私を離れるのが厭だったのです。彼はス 批難するものですわ」 イスの銀行にお金を沢山持っていましてね。ナチの崩壊し 紗乃は男のような口をきいた。悠紀子と話していると、 何となく悠紀子が女で、自分は男のような錯覚を感じるのた時、日本も必ず間もなく降伏するといっていました。そ れまで何とか辛抱していれば、ヨーロッパへ逃げのびるこ である。 「あなたと関係した男のひとが、この世のものとも思われとも出来るだろう。長いことではない。その時には敗戦後 ぬような幸福をある瞬間味わったとすれば、あなたは報いの日本をすてて自分と一緒に来てくれと言われたのですが、 私にはその気がなかったのです。故国のない亡命者に近い どころか、功徳をなさったというものでしよう」 「どうでしよう。私自身はそういう時自分が別のものにな男とヨーロツ。 ( をうろうろする気持など、まったくありま っていて、ことが終ったあとでは相手から拝まれんばかりせんでした。彼は脅したり、嘆願したり、みじめにあがき に大切にされているのが不思議なように思われただけなのまわった末、とうとう、私を殺すことは出来ずに自分だけ 死んで行きましたわ。私の寝室で死ぬのが彼にとって最後 ですの」 「でもその人たちが血を吸われて死んだわけではないのでの復讐だったかも知れませんわ」 「御主人はどうなさったのです。その時」 しよう」 そう言っている紗乃のうちには、勿論ェッケルマン大佐思わず好奇心をそそられて紗乃は聞いた。 「主人も狼狽していましたわ。一生懸命に、憲兵隊や警察 の自殺のことが浮んでいた。 243

9. 円地文子全集 第13巻

わかるように思われた。 梅乃も降りて、一緒に桐の木のところまで歩いて行った。 アメリカ行きの話はその後に来たのだったが、最初の中最近に切ったものらしく、切り口は汚れていず、株に鋸の 渋っていた夏彦が、それを承知したのには母親の知らない 刃跡が残っていた。 新しい事情が後宮麗子との関係に生じたからであった。 「悪戯かしらん : : : 先生さそ怒っているだろうな」 夏彦はそれが母親の打った芝居であるにしても、これを「そうじゃないよ。やつばり邪魔だから町内の誰かが、信 機会に日本を離れるのが自分の為に一番得策だと思うよう楽さんの寝ている中にやっちゃったんじゃないかしらん」 になっていた。 二人は顔を見合せて、久しぶりに母子らしい打ちとけた 笑い顔を交わした。 信楽の家に曲る細い道まで来た時、夏彦は、 信楽家に入ってから通されたのは病室であった。去年来 「おや、間違えたかな」 た時よりも、家内は一層荒れて、碌に掃除しないらしい病 とひとりごとを一一一口った。 室には、机や枕もとの湯呑みをのせた盆の上にも埃が白っ ばくつもっていた。 「どうして : : : 何度も来ていて、間違う筈はないだろう」 梅乃は不思議そうに言った。 信楽は梅乃の想像したよりもずっと痩せて、床の上に坐 夏彦はハンドルを持ったまま、行く先を見て、 っているのも大儀そうに見えた。 「桐の木がなくなったんだよ」 「先生のお好きな廿鯛の一塩が若狭から届きましたから、 と一言った。 どうそ焼いて召上って下さい」 「へええ、桐の木が : : : ああ、なるほどないわね」 梅乃は岡持ち風の塗り桶の蓋をとって中の乾物を信楽に 「切ったのかな。お寺の墓地は向うにみえるし、 間違見せたが、彼は入院中に示したような嗜欲は覚えないらし っちゃいないよ」 夏彦は前方に眼を配りながら近づいて行ったが、自動車「それは有難う」 をとめると、 と礼たけ素直に言った。 変 「やつばり最近切ったんだよ。切り株が見えている」 「先生が御病気なので小町の方がどうなるかと心配してお と一一一口った。 りましたけれど、書上げて戴いてこんなうれしいことはご 9

10. 円地文子全集 第13巻

てしまえるようだと、後宮麗子もそろそろ西遊記の女化物らはきいていますがね」 になれるのだけれども : : : そうすれば信楽高見がもう一度、「私、あなたのお母さんに正吾さんを取られたのよ。私の 金縛りに逢ったように七転八倒して、さそいい戯曲が描け一生に一度の負け、お母さんはそのことだけでいつも私を ることだろう : : : しかし、麗子の煮え切らない、自分を庇見下げていられるの」 「その代りおふくろは女優をやめてしまったんでしよう。 いすぎる性質では恐らく、それほどのことはし切れないの その方にもやつばり執念は残っているらしいな。時々芝居 ではないかとつねは歯がゆく思っているのだった。 「僕には男の人だって、年とった人の考えてることはわかの話をして、かあっとのばせたみたい眼をらんらんと輝か らないもの : : : まして後宮さんみたいな大女性の心の中なせることがありますよ」 「当り前だわ。そのくらいの罰、軽い方よ。正吾さんと結 んかまるつきりわかりませんよ」 婚してあなたのような息子を生んだんだもの : : : 私、時々 「そうねえ、それが当り前ね。あなた今いくっ ? 」 あの時、私が正吾さんと結婚していたら、どんな子供が生 コ一十六です」 れていたろうと思って、不思議な気のする時があるわ : ・ 「じゃあ、数えの二十七 : : : 二十八 ? 「どうして数えなんて言うんです。僕たちの年のよみ方はでもこうしてあなたを見ていると、やつばりほんとうの 息子でなかった方がよかったような気にもなるけれども 満でよむことにきまっていますよー 「そう、御免なさい」 「僕は親爺を小さい時しか知らないんですよ。結核になっ 麗子はひとり笑いして、 「私がね、あなたのお父さんに夢中になっていたの、ちょてからは子供を傍へよせてはいけないって病院に見舞いに も行かせてくれなかったし、しかし子供心には大して魅力 うどお父さんがあなたより二つ三つ上の年の時分よ」 のある男とも思わなかったがなあ : : : 毎日、麻布へ出かけ と一「ロった。 夏彦はこれまでそんな話を麗子の口から一切きいていなて行って、帰って来るのは可成り晩くなることもあった : おふくろはおやじが帰って来るまで決して飯を食いま 変いのでぎよっとした。 せんでしたね。僕と妹はお祖母さんとお店の奥の部屋で先 町「あなたはきいているでしよう。お母さんから : : : 」 、え、おふくろは話したことありませんよ。他の人かに食べたけれども : : : 」 9