息子の夏彦の運転する国産車に乗って、信楽高見の家を 麗子は寝室の方へゆっくり階段を登って行った。 訪問しようと梅乃が柳橋の家を出たのは、二時前だったの に、地図を頼りにして見当をつけた近所までは来ていなが 第二章 ら、戦前に無秩序に出来た住宅地らしく、番地が乱れてい るのに、近くには聞き易い店屋もないので、意外に探すの に手間取って約東の時間を大分過ぎていた。 通せんば桐 「もう、今度は大丈夫だろう : : : ここの横町の先に家がな 「やれやれ何てわからない所に住んでいなさるんだろうければ全くお手上げだ」 と言って、少し前に夏彦は身軽に車を降りて行ったので ・ : まるで八幡の藪知らずだわ」 出雲路梅乃はがつくりクッションの背に頭を倒してつぶあった。 こんなに車の中で待たされるほどなら、出入りのハイヤ ゃいた。油照りの陽の照りつける昼下りで、燃え立つばか ーの冷房車を頼めばよかったと、額や首筋に噴き出る汗を りに熱した車体の周囲は嬋時雨に包まれていた。梅乃の眼 の前の埃つばく白んだ檜葉垣の狭い道の中央には、まるで手巾で拭きながら、梅乃は思った。大正時代に貧しい下級 官吏の家に育って女優生活でも下積みの苦労を厭というほ 通せんばをしているように一本の桐の木が立っていた。い くら東京都の二十三区を外れた郊外だといっても、すぐ近ど嘗めて来た梅乃は、派手に表を張るのは水商売の店を旺 ひとまち くには優に一町を形成している大団地などもあって、私鉄んにする商法の一つであって、眼立たない私生活は結構切 電車の駅も結構朝夕は混雑するというのに、往来のまん中りつめる秘訣を知っていた。夏彦に国産車を買ってやって、 にこんな何の由緒もなさそうな桐の木が切られもせずに立自分も利用しているのもその一例である。 まじな っているのは一体何のお呪いだろうと梅乃は思った。檜葉信楽先生もこんなところに引っ込んでいるんじゃあ、東 京へはそうそう出て来られないだろうと梅乃は思った。 垣の先には露地のような細い横町が右手にあるらしいが、 夏彦の話によると、信楽高見は今では妻にも死に別れて、 変道の先は銹びたばら線を張 0 た空地で、蓬々と雑草の生い 茂った向うに、古い石塔の並んでいるのが見えるところか妹の未亡人に煮炊きの世話をして貰って暮しているという ことである。夏彦のいる大学にも一、一一年前までは講師と ら推すと、目当てに教えられた西宝院の墓地に違いない。 こっ
せんー 「いっこちらへいらしったの」 「ねえ君、おれ誘拐犯人に見える」 と紗乃は何げなくきいた。 と気軽に酌をしている中年の女中にきくと、相手は笑っ 「ええ、正月に一度来て、韓国へ行く用がありましてね。 今度来たのは一週間ばかり前です」 「さあ、どうでしようか」 「そうでしたか。では軽井沢の川原家が焼けたことも御存といった。克子はなんとなく眼くばせして女中に座を立 たせた。 じでしたのね」 紗乃がいうとちょうどその時女中が膳を運んで来た。篠「いいえ真面目な話ですが、僕はあのお嬢さんを前に一度 田は水割りのウイスキーのコツ。フを軽くあげて乾盃しながみているんです。あんまり不思議なんでじろじろ見ている ら、 と、お友達が堤さんと呼んでるでしよう。よもやとは思っ 「ええ、刈屋君からききました」 たけれども、思わず声をかけてしまったんです」 とあっさり一「ロった。 「どこであの子をごらんになったの。学校の行き帰りです 「それよりも、つい一週間ばかり前、堤さんのお孫さんでか」 すか。綺麗なお嬢さんに日比谷の映画館でお隣だったんで と紗乃はきいこ。 すよ。ちょっと仕事の合間に時間が浮いたので入ってみた 、え、日本じゃありません。それもほんとうに見たの んです。それこそ奇遇ですね。私はあのお嬢さんのことに かどうかさえ実はわからないんです。僕があのお嬢さんを ついても、堤さんに是非お話したかったのです」 見たのは、イランの中部の小さい村でした。拝火教という 篠田の言葉を克子がうけて、 宗教があるでしよう。今はイランでは衰徴してインドの方 「こちらの方がおききしたいですわ。明美さんが誘物されに信徒が多いらしいのですがね。本来は火を祭る儀式は、 るんじゃないかって先生と話していたんです」 厳粛で司祭者以外には絶対に見物などさせないんですが、 「誘物 僕の見たところのはそれほど厳しい戒律ではなかった。火 篠田はくすっと笑って、 それ自体が神体みたいなものですからね。だからそれを燃 「まあ仕方がありませんな。柄が悪いんだから」 すのも清浄化された香木で、火を焚く神官も、人の息のか て、 358
「へえ、有名人好きか、そうは見えないがねえ」 克子は庭の中の道をゆっくり歩いて行く。土地カンのよ 「有名人程度じゃ駄目なの。一級品も一級中の一級品、そい彼女はロには言わないでも、家の建っていた場所を既に れに恰好がよくってね。つまり、小林秀雄や朝永振一郎な承知しているのである。梶田はこの庭に入ってからロをき かなくなって、相変らず煙草を手にしたまま、克子のうし らいちころよ」 「なあんだ、皆じいさんじゃないか、尊敬なさるのは御勝ろからぶらぶら歩いて行く。 克子が立ちどまって、 手だけど、おかしいなあ」 「こっちもどうせ婆さんじゃないの。そりや若いのも満更「ここよ」 と指ささないうちに、梶田にも焼あとは分った。もう二、 ないことはないけどね」 三週間前のことでいちおう片づいてはいるが、煉瓦や鉄屑 そう言ったとき、克子は、 や土台石などが灰交りの土にそのまま残っていて、枯草や 「あ、一本、道を間違えた。こっちの細い方だった」 といって、二つに分れている細道を曲った。枯草が鉄線樅の木に囲まれながらそこだけが妙に人間くさく、何とな の柵を越してはみ出している中をうねって行くと、川原邸く焼場の雰囲気を感じさせた。 克子はその石の間を縫って、焼け地のまん中あたりに行 の前に出た。 「立入り禁止」と札を下げた棒が川原の名札のなくなった 門に渡してあった。それを下から潜ると、何のこともなく「ここらに暖炉があったのよ。あの晩刈屋さんがここにか がみこんで薪を・ハイハン燃していた : : : 」 内へ入ることが出来る。 中にも可成りひろい道がついていて、家のあったところ克子はその火のほとりで、刈屋が今様をギターに乗せて 弾き歌いしていたことを思い出していた。不思議にその後 はどこか分らなかった。 の乱痴気騒ぎはあとかたもなく頭から消え去っている。 「随分ひろい地所なのね」 と克子が驚いたように言った。 花はさまざま匂へども 霧「この前にも来ているんでしよう」 散りての後は色もなし 「ええ一度来ているんだけど、車で玄関まで来たし、もう 彩 いはほ 岩にまとふ蔓葛 暗くなっていたような気もするのよー つるかつら 347
の有力な人が石油に切りかえてくれたんです。石炭も前の と紗乃は見事な彫りのある樫の扉の上を見上げていった。 が残っていましてね。流石に最近は奥さまのいらっしやるこの前来た時に一番先に眼についた木の枝のような角を持 ところだけ暖めるようにしていましたけど、随分保ちましつ悲しい眼の剥製の鹿の首であった。 たね」 「ええ、御親族が三、四人おいでで、ばっちら合いで持っ 気がついてみると、刈屋は悠紀子の生前に逢った時とはて行かれました。皆、立派な紳士や奥さんでしたが、見つ 人の違うように生き生きしている。動作がきびきびして若ともないものでございますね。ビアノまでセリみたいにし 返ったようにさえ見えるのである。どんなに献身していたてお持ちになりましたよ」 といっても、あの我がままな女主人に奴僕そのままに仕え 刈屋は憎むよりも、むしろ笑止なというロぶりで言った。 て来た鎖が解かれたことは、愛情とは別に、Ⅱ メ屋を自然に「何でもこの壁にかかっていた絵は、マッキントッシュっ 変えているのかも知れないと紗乃は思った。絵巻の中の老てアメリカ人が贈ったもので、大そう値うちものだったそ 舎人とは違って、刈屋はまだ五十前後の壮年である。満たうですが、持って行って売るときは、皆で山分けするのだ うつろ された酒の香の滲みついた瓶子の空洞を嘆くのとは違った とか、証文を作っておいででした」 心情にあっても不思議ではない。 「女が裸になっていて、金貨の雨が降っている絵でしよ。 刈屋は紗乃の軽い失望などには頓着する気配もなく、熱私、ここへ来た時、ああギリシア神話のダナ工だなと思っ いコーヒーを二人にすすめたあとで、家の内を案内してまたの。大していい絵とも思わなかったけど、今ならいい値 わった。 でしようね」 この前来たときに坐った客間にはまだ椅子は置かれてい 「何でも奥さまをそのダナ工に見立てて自分がギリシアの たが、暖炉の上にあった筈の九谷の大壺や、額の類いは失神さまのつもりだったということです」 と刈屋が言った。 くなっていた。大きい額を外したあとの壁布に、長い年月 を忍ばせる鮮やかな色がはっきり長方形に周囲の褪色を眼「大神ジュビターが黄金に化けてダナ工を犯しに来るのよ。 立たせていた。 マッキントッシュはお金持だったからちょうどいい題材だ 「随分失くなりましたね。ここにあった鹿の首も持って行わ」 かれたの ? 」 「奥さまもそう言っておいででした。いよいよ困ったら、
よう」 国をまわって行く用があったので、少し日取りを繰り上げ 言葉では言いながら、紗乃のうちには悠紀子にのりうって行ったのですよ。そうしたらあの家は空家になっていて、 % っている斎院の姿が浮んでいた。斎院とは何であろう。巫刈屋君は松本に行っているという。僕は人気のないあのが 女とは何であろう。結局に於いてそれは、中国の哲学書のつしりした家の前に立って、刈屋君はこの家を捨てて行く 中にある、原妣、原母という言葉の示す観念ではないか。 のがさぞ残念だったろうなと、そればかり思った。そうし 地に深く根ざし、万物を生み、万物を生きつづけさせる生て、松本まで行って、どうやら彼にめぐり合ったんです。 命の根源で、所詮男の勝っことの出来ないものではないか 悠紀子さんの最後の頃の様子もききました。勿論あなたの と思ったが、さすがそれを口にしようとは思わなかった。 ことも」 篠田がそこでふと口をつぐんだ時、克子が素早く言った。 刈屋と千曲川の川べりの小料理屋で語りあった後、篠田「その時、あの家を焼いてしまう話が持ち出されたのです はあの川原邸の前まで行き、その家の中に生きつづけてい か」 る悠紀子に遠くから挨拶して帰っていった。 「そうです」 その後イランに行くようになって、時々日本へも帰って篠田はゆっくりうなずいた。 来たが、軽井沢の悠紀子を訪れようとは思わなかった。 「どうせ、廃屋になって、早晩毀されてしまうものなら、 去年の暮、モスコウに立寄り、西独へ行く飛行機の中でおれがあれを焼いて行く、ひとは化物屋敷というだろうが、 津田康夫に逢った。機内では席が離れていたので、久濶をおれたちにとって、あれは川原悠紀子を祭る神殿なのだ。 叙しただけであったが、幸いハイフルグで飛行機の乗換時どうせ毀されるなら、見ず知らずの土建屋の手で毀される 間が後れ、五、六時間空港のロビイで話しあうことが出来前に、おれが焼いてやる。綺麗な焔にして燃え上らせてや た。その時最近川原夫人の死んだことを紗乃からの手紙でるっていってね」 報されたと康夫が話してくれた。 「刈屋さん、それについて何ていいました」 「僕はその時、何の感慨も浮ばなかった、日、 , 原夫人がどん と克子がきいた。 な死に顔だったろうとも思わなかった。唯、刈屋君にしき「あの男のことだからしばらく考えていたけれど、 りに逢いたくなってね、ちょうど正月のうちに日本から韓しよう、あなたの手で灰にして貰えば奥さまも本望でしょ
「この絵巻の中の姫御子のように、白髪になっても、『御かがめるようにして入って来た。衿足の隠れる程度にさっ 骨まで透りて光る』ようなら結構だけど、生憎、私はこのばり切り揃えた髪型も、黒っぱい背広をきちんと着た様子 あぶら 頃脂肪のぬける一方で、御肌えと骨の間に何にもなくなっ も、当世の異風好みでない尋常な青年である。 たみたい。つまり干物の玉依姫よ。妖姫じゃなくて、まさ しかし挨拶する顔をみているうちに、紗乃は三十年前に に妖婆だな。箒に乗って、空を飛ぶ術を教わりたいわよ。見た梶田秋湖がそのまま若がえって眼の前に現われたよう でも山川さん、行きがかり上、あんたもその箒のうしろにな錯覚を覚えて、思わず、 乗せて上けるからね」 「まあ、お父さまにそっくりでいらっしやるわね 紗乃が笑いながらいうと、克子はうなずいて、 といってしまった。 「結構ですね。私魔女とか忍者とかいうもの、大体好きな面長な輪郭に、立派すぎる鼻が彫られていて、父親のた んです」 るんでいた瞼が張りを持って、男にしては美しすぎる眼ざ 忍者には常から見えていると思いながら、さすがに紗乃しである。 はそれを口にはしなかった。 「いやだな、親父に似てるなんて」 そこに約束した客が訪ねて来たらしいので、克子は玄関梶田修は耳のうしろを掻きながら言った。 の方へ行ったが、間もなく帰って来ると、 「先生、社の佐江さんじゃなくて、例の梶田君でした。 熊野に行って見ようなどと口にしたことは嘘のように、 偶然この近くに来たんで私が来ている日だと思って寄って今年の秋は、紗乃には常よりも滑るように早く過ぎ去って 見たんですって。ちょっとお逢いになりますか。佐江さん行った。正月の仕事を予定より余分に引受けたためもあっ が見えればすぐ帰って貰いますから : : : 」 て、締切に逐われて齷齪している間に、この季節に多い会 と一一一口った。 合などにも顔を出し、夏旅の疲れの出ないのに紗乃は自分 紗乃は一瞬ためらったものの、思い返して、 でも少々驚いていた。 紗乃が外国から帰って軽井沢に来て間もなく、東京の丸 「ではちょっとだけね。あのことは勿論伏せておいて」 と、つこ。 の内で重工業の建物の前に時限爆弾が仕かけられ、多数 間もなく背の高い痩せ型の青年が、克子のうしろに背をの死傷者を出すという大がかりなテロ行為があって、人心 ひもの 引 4
と書いているのは、おかしいようにも思うが、当然曽てこた。 の姫を父の家から奪い出した青春時代のような情熱は失わ「お祖母ちゃま、何見ているの」 れている筈である。業平は「不覊放縦」と「三代実録」に 明美は表情のない声でいった。 見えているアウトサイダー的な性格が災いして、その秀抜「あんたこそ今頃どうして起きて来たの」 な詩才とは反対に不遇な一生を送った。「翁」という表現「何だか寝られないの。それなあに」 は勿論、業平の自嘲的な卑称であるが、曽ての恋人が、女明美がそう言ったとき、紗乃はもう絵巻を巻き収めて、 御となり后となって、大原野に行啓するのに扈従しながら、例の上紙に包んでいた。 身分違いとなった御輿の内の高子の心を思いやってこうし「よそからお預りした昔の巻物よ」 た歌を詠み出でたのではあるまいか。 「ふうん」 同時に、この歌をそのままわが身の上に思い較べて、こ 明美は大して関心もない風にいったが、額髪をうるさそ の筆者が斎院の御輿を見送る自分の詠歌に転用したのもあうに掻き上げると、例のばおっと霞んでいるような瞼の厚 りそうなことである。 い眼もとが、スタンドの光の中に妙になまめいて見える。 それにしても、舎人と斎院との関係が分らない。弱視に「怖い本でも読んだの」 ならない前なら、変体仮名や草書ぐらい辞書でも側に置け「ううん、タマ ( 玉木という友達 ) の家で、十六ミリ見た ば何とかよめないこともないであろうが、辞書と拡大鏡をの : : : スペインの闘牛なんだよ。牛が血だらけになるの」 両方に置いて、絵詞を判じよみしていたら、小説を書く何明美は平然と話している。紗乃は十数年前アメリカに行 いくらこの絵巻の内容を精ったとき、メキシコの闘牛のカラーの八ミリを見せられて、 倍も視力を消耗するであろう。 しく知りたいと願う心が強くても、今の紗乃にはとてもひ途中で気分が悪くなったことを思い出した。 「ああ、あれ、気持が悪いよ。明美うなされたんじゃな とりでそれを解読する根気も体力もなかった。 紗乃はゆっくり絵巻を見終ってからも釈然としない気持 紗乃はうなずくように言ったが、明美は首を振って、 のまま、それを元へ巻き戻していた。もう殆ど巻き納めた 「怖くなんかないよ。唯、寝たら赤いものが眼の前でちら とき、戸の開く音がするのでぎよっとしてふりかえると、 ちらして」 そこに白い花模様のパジャマを着た明美がぬっと立ってい 272
この娘は何となく寝入った気分で、水上げの悪い花のようとりでそっとあの絵巻を見ようと心に決めているのである。 に冴えないのだが、器量は兄妹のうちで一番よく、小さい 今朝も人の入って来る筈はなかったが、真昼の光の下で、 ときから何やかと取沙汰される。ただ容易に笑わないのが余り露わな男女の秘戯 : : : いや、これは恐らく秘戯ではな 特徴で、それが時たまにつこりすると、少し腫れた下瞼のくて、秘儀の図なのではあるまいかと思われたが、それを 眼尻からロもとにかけて、滴るようななまめきが漂って、 ゆっくり確かめるには心身の余裕がなかった。 こういう女が一顰一笑に男を蕩かすのではないかと怖いよ深夜の寝室でこそ、その目的が果されるであろう。とこ うな気のすることがある。親たちはいっこう気づいていなろが、この頃の子供たちは夜行性動物である。十一時十一一 いが、紗乃にはわかった。 時になっても、紗乃の部屋の真上で、明美が美容ダンスを 今も、友達のうちで余ほどうれしいことでもあったのか、しているらしく、床を踏む音が無秩序に聞えて来る。 「唯今」 紗乃はいく度かその音のする天井に眼をやっていたが、 としいながら珍しくにつこり笑って見せた。 十二時を過ぎた頃、やっと足音が静かになった。 「御飯は ? 一一度目のことで、心に用意が出来ているので、絵巻を前 ひろ 「いろんなもの食べて来たからいい」 のようにべッドの上に置き、静かに巻き展げて行っても、 そっけない言葉を残して、明美は自分の部屋の方へ行っ紗乃は前の時のような異様な衝動には見舞われなかった。 てしまった。 いや、まったく見舞われなかったと言えば嘘になる。十一一、 「明美に気のある奴、おれのクラスにもいるんだぜ」 三枚ある絵のうち、初めの時驚かされた二枚のほかにも、 こ」、し と長男の端が言った。端も今の明美の笑い顔を見ていた違った姿勢ではあるが、前の女と男が同じ潔斎の場所で性 のかも知れない。 交している絵が一一枚ほどあって、しかもその最後の絵では、 「ふうん、あんな無愛想な、面白くもない子にねえ」 女の顔は相変らず美しく描かれているのに、その長い髪は 母親はいっこう関心のない顔で答えている。 すっかり白髪になっているらしく、細い薄墨色の毛筋が白 紗乃は食事をすますと自分の部屋に入った。今夜のうち糸を縒りかけたように描かれている。男の方はさして老い に一「三枚、すませて置かなければならない仕事があった。 さらばえてもいないところを見ると、はじめから女は男よ それも果し、夜更けてから母屋の皆が寝静まった頃に、ひり年上であったものか、相変らず裸形で抱き起されている
これと言って招人とするものもない為であろうとは想像さ いやいや定子の宮に限っては、そのような忌わしい蛇を れた。妹の申立ては関白どのをよろこばせるかも知れない あの透きとおるように白くなよやかな胸の中にかくしてい とあやめは思った。そうして、兎も角も、このことを大殿るなどとは思われぬ。内裏を出る前には前よりも一層もの に申し上げて見ようと言って、老尼の庵室から帰って行っはかなげに痩せて、雨を帯びた芙蓉の花の明日までは花瓣 を保ちがたい風情であったが、そうした中にも少しの乱れ も騒がしさも見えず、かき抱いていると、この身まで匂い 藤壺の新中宮の御悩みに怪しく誰とも定めがたい女の霊のある霞の中に漂っているようであった。一の皇子の教康 が添うてかばそい御身を苛みつづけるという噂が後宮一帯親王の将来についても、何一つ訴訟らしい言葉を語ったこ ともない・ にひろがって、帝の御耳にも入るようになったのはそれか ・ : わが子を愛さぬ母はないであろうに、その深 ら間もない頃であった。 い情愛にもまさって、濃い思いに自分を包み庇ってくれて 帝にそのことを申し上げたのは、御乳人の藤三位であっ いるように思われる : : : 一体ならば、自分の方こそ、定子 たが、それとない言葉の中にはっきり皇后宮の御生霊とうを庇護せねばならないのに、定子は非運な境遇にありなが けとれる節があるので、帝はぎくりと胸に釘を刺されたよら、逆に自分が関白との間に気不味い争いなど起さぬよう うに感じられた。帝は唯一度ではあったが、東三條の女院にと心を遣ってくれていた : : : そんな清らかに澄みとおっ の御病気の折にまざまざと定子中宮の生霊を見られたこと た心の持主がどうして、幼い新中宮に対して、瞋恚の炎を があった。その恐ろしさはその後皇后に逢われたことで、燃やし、生霊になって病床を襲うたりするものか。 朝日の前の淡雪のように消え去ってしまったのであるが、 主上は定子の宮の傍にあった頃のあの折この折を思い出 今、皇后と引離れて、折には耐えがたい恋慕の情におし浸して、中宮を襲う生霊を定子のそれではないと否定しつづ され、わが心ながら、三條の大進生昌の家に魂は行き通うけられたが、その噂はその後も絶えず、毎日のように、主 ばかりに思われるだけに、皇后の晴れ間なくむすばおれた上附きの女官や侍臣の口から、遠慮勝ちな言葉で帝の耳に 胸に妖しい焔が燃え、恋がたきでもあり、自分を権勢の地伝わって来るのであった。 その生霊の名については誰もはっきりしたことを言わな から突き落した左大臣の斎娘でもある新中宮に執念のとり かったが、類推してゆくと、皇后以外の誰でもないことが つくことも強ちないとは思えないのであった。 あなが ほむら
が、この宮の女房と殿上人との間に恋愛関係の多かったこ式部日記には、斎院の主宰するサロンの雰囲気が彰子中宮 とは、紫式部日記に記されているし、古今著聞集にも、船のそれよりも、瀟洒で優雅だという宮廷の男たちの評判に 岡に花見に来ていた殿上人に、選子から柳の一枝を賜わり対して反撥しているところがある。いずれにしても、選子 「いとの下には」とだけ書かれていた。誰もその歌の意をは賀茂の祭司であるだけでなく、優れたサロンの女王であ 解しなかったのに、少将雅通だけが、 り、当時の大女性の一人であったに違いない。 紗乃は、この絵巻の最初の詞書きを読みながら、知らず 散りぬべき花をのみこそ尋ねつれ 知らず選子内親王を心に思い描いていた。次に描かれてい 思ひもよらず青柳のいと る墨描きの絵には、まだ振分け髪の童女が正装して、天皇 の玉座らしい御簾の前にかしこまっている図がある。それ の本歌を知っていて、一同でそこから斎院に伺候したと はよいとしてその前に、縷々として書きつづけてある詞書 記されている。 ( もっともこの著聞集の記事は時代に誤りきは普通のこういう種類のものよりも細書の上に行数も可 があり、選子ではないとする説もあるが ) 成りな長さなので、特殊な眼鏡をかけてみてもやっと二、 少なくとも、兼家、道長など当時の権力者が選子と睦じ三行読みとるだけに可成り時間がかかるばかりでなく、ひ かったことは事実のようである。栄花物語か大鏡に、道長どく眼も疲れた。 が幼い後一條帝を膝に乗せて、桟敷に見物していると、葵「これではどうにもならない」 くれない 祭の行列の中で、選子斎院が輿の中から紅の扇のつまを出 とひとりごとしながら、紗乃は、前から頭に浮んでいた して見せて、道長に無言の挨拶をしたという逸話もあるし、山川克子の顔をあらためて思い出していた。克子ならば、 源氏物語成立の伝説のひとっとして、選子から紫式部の仕何の苦もなくこの文章をよみとるだろうし、写しとっても くれるかも知れない。 える中宮彰子に、「古い草子には飽きたので、この頃何か 珍しい草子がありますか」と問い合せて来たので、中宮が しかし、そうすることは、川原紀子との約束ばかりで 紫式部に命じて書かせたという。これは河海抄以来可成り はなく、紗乃には何となく厭であった。克子がロの固い女 広く信じられて来た話のようである。源氏物語の中にも、 であることもよく知っているが、それだけにどうもこの絵 朝顔の宮が賀茂の斎院になる一時代が書かれているし、紫巻だけは克子の眼に曝したくなかった。