お爺さんに逢ったんですって。目利き役でしようね。そのロ数が少なく小学校へ通い出すころまでは、唖ではないか お爺さんが下賀茂の社家の出で、故実に明るいので、正式などと近所のものが噂するほどであった。 「あのお嬢さまはお神子さんにするといし 。きっと神さま の役を辞めたあとも、ずっと御所に勤めているんですっ がお喜びになるだろう」 「ああ、ではその人が川原夫人と親戚になるわけですか」 と神社の禰宜や神子たちは噂していた。 菅根老人はそれまで川原悠紀子の死についてまったく知 紗乃は梶田の方に向けて言った。 「ええ、川原夫人の方が格は上だけれども、今は大体死にらなかった様子である。親族といっても附合いの絶えたま たえたようになって、別の家が跡を立てている。自分の方まで、長い時間の経過してしまった後では従妹の消息につ は、ずっと前から役人になってしまったので、社家とは縁いて知らないのは当然であったが、それだけに梶田から悠 紀子の死について知らされると、語りたいことが身内から がなかったが、悠紀子さんとは従兄妹同士で小さい時には よくあの境内や糺の森あたりで遊んだものだと言っていま溢れ出て来るらしく、その家の所蔵の品の由緒故実などを した。歯のぬけたお爺さんで、声が洩れて聞きにくいので述べて、売買の立会人としての役目が終ったあとも、梶田 を相手に抜けた歯の間を洩れるくぐもった言葉でいつまで すけれども、下河辺家 : : : 川原夫人の実家の名ですよ・ : も話していたいらしかった。 の歴史みたいなものは分りました」 その後梶田の語るところによると、悠紀子の生家は江戸梶田も相手になっていたいのは山々だったが、その家に 時代の中期に王族から降下した人が神官として下河辺の家そうそう長居をすることも出来ず、いずれ、また訪れねば ならぬことも分っていた。彼はこの取引きとは別に、堤紗 を継いで以来、同じ神官のうちでも高貴な血筋を誇ってい たが、女子は数代にわたって生れず、男系によって家が継乃と山川克子を菅根老人に引合せて、自分もいっしょに日 がれて来た。悠紀子の母は、下河辺家の先代当主の妻とし原悠紀子の少女時代の物語をききたいと思った。 て同じく熊野の神社から嫁いで来た。その娘が悠紀子であ帰り際にそのことを話すと、老人は大乗気で、 「私は御所の嘱託にはなっておりますが、特に御案内申さ るが、この語部のような老人は梶田が鎌をかけて見ても、 例の絵巻については何にも知らぬようであった。 にゃならぬような向きの拝観者の折のほかは、大方は詰所 悠紀子は幼いときから、眼に立っ美しい少女であったが、でばんやりしております。ちょっと前に一言お電話でも頂 372
「私はね、大体自分の死んでゆくまでの様子がわかってい 「ええ、ここに一日ばんやりしていると、退屈でございま ますの : : : 今もこんなに足が半分動かなくなっていますですからね。私あれをみていると、絵空事とは思われない時 しよ。これがだんだん全身にひろがって、手足がちちんでがあるんですの。よく、蜘蛛獣人なんていうのが、手足を 行くのだと思うんですのよ」 自由にのびちぢみさせて人間の血を吸う場面なんか出て来 「まさか、そんなことが」 ますの。勿論ああいうテレビでは人間は大抵助かりますけ 紗乃がいうと、悠紀子は声を上げて笑った。その笑い声れどもね。私はね、中年ごろからですけれどそういう風に が妙に明るく聞えたので、紗乃はそのことに驚かされて、 自分が自分でいて、別のものになってしまう時があるんで 悠紀子の眼の底を見るような顔になった。 すの。もっとも、亡くなった主人との間では、そういうこ ひとで 「ほんとうですのよ。私、昔から手足が海星か蜘蛛のようとは一度もありませんでしたけれども : : : 」 に長く延びたり縮んだり自由に動くことがありますの : 悠紀子のゆるやかに語る言葉を聞きながら、はじめのう あなた、この頃テレビで子供の番組に出る怪獣っての御存ち紗乃は、この人、やつばり気がおかしいのではないかと じ ? 」 思った。しかし、終りの方の夫との間という言葉をきいた 「ええ」 時、これは確かに性にまつわることで、彼女の語ろうとす 紗乃はあまり調子づかない声で答えた。実際には、家にる秘密らしいものもその中に含まれているに違いないと思 小さい孫がいたので、よくそういうものをテレビの画面でうと、急に別の興味が湧いて来た。 見て、昔のお化けが怪獣や宇宙人に変ったのも、世の変遷「蜘蛛になるって、いったいどういうことでしよう。まさ の一つの相であろうと、別の興味で眺めることがあったが、 かあなたが人間の血をお吸いになる筈もないし」 悠紀子を前にすると、どうもそんな考えは言葉に上って来「そうですわね。ほんとうには血を吸いはしませんでした なかった。 わ。それどころか、相手のひとはどの人も私とそうなる瞬 「御覧になる ? 」 間が娯しくて娯しくて、まるで別の世界にいるようだと言 と悠紀子は念を押すように尋ねた。 いました」 「ええ、東京にいると孫が見ていたものですから : : : あな 紀悠子はそこで言葉をとぎらせて紗乃を見た。 たはあんな子供の番組を御覧になりますの」 「あなただって、私のいろいろ悪い噂については知ってい 242
て、病気のことも亡くならはったことも、 っこうに知ら 菅根老人が訪ねて来たのは五時過ぎだった。一一階のロビ なんだのでござります」 イの奥の方は殆ど客のいることが少ないので、紗乃はいち老人の語り出しはこんな風であったが、悠紀子に対して おうそこへ老人を案内した。べッドのある部屋へ客を請じは、恐らく少年の日に初恋めいた思いに胸をときめかせた るのは失礼だと思ったからである。 こともあったのであろう。幼いころの彼女についての記憶 老人は修と話していたが、紗乃が近づいて行くと、立ちは驚くほど鮮明で、聞いている方でも興深かった。 上って慇懃に挨拶した。 話は半ばで、修の行きつけのこの近くの眼立たない京料 「川原へ縁づきました従妹が御懇意に願うとりましたとや理の座敷に席が移された。 ら」 老人は酒好きで、ちびりちびり銚子をあけながら、もど 修のいった通り、老人のロもとは歯がぬけていると見えかしく声音のとどこおるのも自分ではいっこう気にならぬ ごいん て、語音が淀んで聞きとりにくいところがある。古い型の様子で語りつづけた。 背広を着て顔は皺に埋れてはいるが、冠でもつけたら似合大方は自分たちの家系の貴種であることや、その伝統が うであろうと思われるどっしりと厚手な骨組である。 現代の世情ではかえって生きにくくなっている愚痴が多い 「いえ、御懇意と申しても、お亡くなりになる前、ほんののであったが、彼の話によると、川原悠紀子だけが、そう 一、二度お眼にかかっただけなのでございますが、何やら いう新しい時代の風習に馴染まない生れながらの女神とも あの方に心を惹かれましてね。御出生が賀茂の社家でいら言うべき少女であった、というのである。 っしやるとうかがっていましたので、調べてみたいと思っ 「若いうちに東京の親戚へ行きましたよってに、その先の ておりましたんです。偶然にあなたが御親戚で幼馴染みでことは知りまへんけど、私はあの人、いやあのお方は神さ いらっしやると承ったものですから、こちらからお伺い申まに身体をお貸しするのにふさわしいお人や思うてました。 さなければならないのにお運びいただいて、ほんとうに失っまり、賀茂の斎院いうようなものが現在あれば、びった 霧しいたしました」 りですわ。うちうちでは皆そう言うてましたんどっせ。悠 「何をおっしやりますやら。梶田さんからお聞きや思いま紀子はんを斎王にしたら神さんはさそお喜びやろ、あのお 彩 すけど、私は悠紀子はんとは長いこと遠々しゅうしてまし人がなみなみの家へ嫁入ったら、神さまの嫉妬だけでもえ
えことないというて」 もなく無心に立っていたのである。 菅根は酒が入るにつれて口が軽くなり、恐らく今まで他「悠紀子はん」 人に話さなかったと思われる挿話をいくつもして聞かせた と叫んだまま、菅根は裸身の悠紀子の腰にしがみついた。 が、そのうちでも紗乃があらためて驚かされ、克子と眼を悠紀子を助けるのではなく、自分が助けて貰うような気持 見合せたのは、次の話であった。 であった。女中たちは皆耳を蔽って床に吸いつけられたよ うになっていた。その時、家の背後の大杉に落雷して、雷 それは夏のま盛りの暑い日であった。悠紀子はまだ十二、火は下屋の板葺屋根に燃え移っていたのである。 三歳で、東京の学校から帰って来ていた。 京都の夏の蒸し暑さはいつも凌ぎにくいが、その日は雲 菅根老人を車で自宅まで送り帰したあと、三人は町の灯 からむ ひとつない干蒸しであったのに、夕方近く、突然愛宕山ののまだ明るい高瀬川沿いの道を、連立ってホテルの方へ歩 いていた。 方に黒雲がまき起ったと思うと、凄じい雷鳴が轟きはじめ、 雨が雹のように烈しく降り下って来た。 「あのお爺さん御きげんでしたね」 とか 稲光が一瞬、すべてを真昼のように明るくするかと思う と、次の瞬間には真の闇になった。 「大分資料が殖えたじゃありませんか」 その時、悠紀子は風呂に入っていたので、女中があわて とか上滑りした話を余寒のきびしい夜風に衿もとを縮め て呼びに行った。菅根少年も悠紀子に特別の関心をもってながら取り交していたが、誰ひとり、例の絵巻に関連する いたので、女中といっしょに板廊下を走りながら、 根の深い話はロにしなかった。 「悠紀子はん、悠紀子はん」 ホテルの前まで来た時、修は、 と呼んでいたが、湯殿の前まで来て脱衣場の杉戸を開け「僕ちょっと友達を待たせてあるので」 た時、天地を轟かすような雷鳴が鳴り響き、辺りのすべて といって皮ジャンパーの衿を立てたまま、足早に去って のものが真白に輝らし出された。 行った。 その稲妻の青白い光のなかに、菩薩とも、神とも例えよ いつもなら、その後克子を相手に話をはずませる筈の紗 うのない神々しい姿で、悠紀子は裸身のままおびえる風情乃も、何となく避けるように、 382
としいながら、出て行った。 「ぶしつけにお呼び申したりして : : : お気を悪くなさいま 紗乃はひとりになって、あらためて部屋を見まわした。 せんでしたかしら」 Ⅱ原悠紀子の夫はたしか法律学者だったと聞いているが、 悠紀子は刈屋に助けられてソフアにやっと腰をおろして その先代が有名な建築家だったとか、この別荘も恐らくそから言った。 の人の好みで設計されたものであろう。それにしてもエッ 、え、お身体が御不自由なのに、起きていらしっても ケルマンという大佐が自殺したのはどの部屋だったのか、 よろしいのですか」 まさかこの客間の筈はないと思いながら、紗乃は三十年に「大丈夫でございます。今日は気分がよろしいので : : : 」 もなるその頃のことを思い浮べると、何となく、うす気味そんなことをいっている間にも、刈屋は慣れ切った手つ わるい感じが部屋の隅々から這いよって来るように思われきで、クッションを女主人の背に当てて居心地よくさせた はぎ 膝から脛を軟かい毛布でくるんだりしていたが、それ 「お待たせいたしまして」 はまるで彼が悠紀子の身体の一部であるように自然に見え とやさしい声がして、ドアが開くと、刈屋の腕に半身をた。上手な人形遣いと人形のように一一つのものが一つにな 支えられ、もつれ合うようにして川原悠紀子が姿をあらわって見えるのである。 した。悠紀子についてのいろいろな想像が自然、紗乃の側 タッが紅茶と菓子を持って来てテしフルの上に置くと、 には準備されていたが、そのどれもが見事に外れていた。 悠紀子はそれには眼もやらず、刈屋に、 一度はたしか東京の何かのパーティで「あれが有名な川原「あの箱持って来て頂戴 : : : それからあなたも席を外して 夫人ですよ」と教えられたことがある筈であったが、紗乃ね」 には悠紀子の顔かたちについての印象がまったくなかった。 と言った。刈屋は返事もせず、静かに出て行ったが、す 今、現にその人を前にしても、あああの人だったと思い ぐ紫色の袱紗に包んだ細長い箱のようなものを持って来て、 出すところは何一つもなく、唯よろめく足もとや薄紫に染悠紀子の側においた。 めた髪に老女の印象ははっきりしているのに、顔だけは年「タッさんは帰してよろしゅうございますね。私はベルを 齢を置き忘れたように若く、ふつくらと色づいて、大きく押して下さればすぐまいりますから : : : 」 見開かれている二重瞼の眼は、童女のように澄んで見えた。 刈屋はベルのついたコードを悠紀子の手もとに置いてか 240
霧 は別人のように皺だんでいた。老いた鶏の首に似た皺であ らまた足音もさせずに出て行った。 「立派なお家ですわね。前に前田侯爵邸が売りに出て、ホる。着物も寝間着の上に紫色のナイトガウンを羽織ってい テルになっていた時に行きましたけれど、オーク材で出来るが、そのビロードの花模様も、袖ロのあたりがすり切れ て、綴れた布切れのひらひらしているのが、おばっかない ていてこのお宅と似ていましたわ」 「ええ、あちらは主人の父の設計でお建てしましたの。そ紗乃の眼にさえ見えた。しかし悠紀子はそんなことを一切 の時にたしかここも造ったのだと存じます。私はまだ嫁に気にかけている様子はなかった。 「ほんとうに来て頂けてよかったと思いますわ。あなたに 来ないずっと前のことですけれども : : : 」 悠紀子の話し方はゆるやかで、廿えるようなねばりを持お目にかからなかったら、誰にも話さないままで、虫のよ うにくぐまって死んでゆくよりほかなかったでしように。 っている。厭らしいといえばそうもとれるかも知れないが、 紗乃は悠紀子の顔を見、声音をきいているうちに自分の少この間下田が堤先生に道でお逢いしたってきいたとき、は っと心にひらめくものがありましたの。私自身の話もあり 女の頃、つまり大正時代に栗原玉葉とか木谷千種とかいう 女流画家の描く所謂美人画の女の顔が何となく眼に浮んでますけれども、それにかかわることで、是非あなたに見て え、お宅へお持ちになって、お手もとに置い 来た。それはどれも悠紀子のように無気力な美しさで、大頂きたい、い きく見開かれた瞳に強い光は少しもなく、よく言えばのどていただきたいものがあったことに気づきましたの」 悠紀子はゆるゆると歌を歌うような声で無感動に話して かな、悪く言えば白痴美とも言える顔であった。 いたが、その生気をひきぬかれたような声が、気負いこん 現代の女には絶対に見出せない顔だ。二十代は一一十代、 三十代は三十代 : : : いや五十、六十の女の顔にも現在あんだ身の上話よりも、逆に紗乃をねばりつこい糸で締めから な瞳は灯っていない。悠紀子と向いあっているうちに、紗めて行った。 乃はそのことに気づいて奇妙な混乱に心を戸惑わせていた。「何でしよう。私には大切なお品などお預りすることは出 自分は悠紀子のように整った容貎の持主ではないが、明ら来ませんわ。私自身いつどうなるか自分の行く先はちっと かに現代に生きている女の顔を持っていることを確かめたもわかっていないのですもの」 「よろしいのよ。そんなこと」 のである。 悠紀子の顔は美人画のようにふつくらしていたが、首筋と悠紀子はうち消すように言った。 2 引
よう」 国をまわって行く用があったので、少し日取りを繰り上げ 言葉では言いながら、紗乃のうちには悠紀子にのりうって行ったのですよ。そうしたらあの家は空家になっていて、 % っている斎院の姿が浮んでいた。斎院とは何であろう。巫刈屋君は松本に行っているという。僕は人気のないあのが 女とは何であろう。結局に於いてそれは、中国の哲学書のつしりした家の前に立って、刈屋君はこの家を捨てて行く 中にある、原妣、原母という言葉の示す観念ではないか。 のがさぞ残念だったろうなと、そればかり思った。そうし 地に深く根ざし、万物を生み、万物を生きつづけさせる生て、松本まで行って、どうやら彼にめぐり合ったんです。 命の根源で、所詮男の勝っことの出来ないものではないか 悠紀子さんの最後の頃の様子もききました。勿論あなたの と思ったが、さすがそれを口にしようとは思わなかった。 ことも」 篠田がそこでふと口をつぐんだ時、克子が素早く言った。 刈屋と千曲川の川べりの小料理屋で語りあった後、篠田「その時、あの家を焼いてしまう話が持ち出されたのです はあの川原邸の前まで行き、その家の中に生きつづけてい か」 る悠紀子に遠くから挨拶して帰っていった。 「そうです」 その後イランに行くようになって、時々日本へも帰って篠田はゆっくりうなずいた。 来たが、軽井沢の悠紀子を訪れようとは思わなかった。 「どうせ、廃屋になって、早晩毀されてしまうものなら、 去年の暮、モスコウに立寄り、西独へ行く飛行機の中でおれがあれを焼いて行く、ひとは化物屋敷というだろうが、 津田康夫に逢った。機内では席が離れていたので、久濶をおれたちにとって、あれは川原悠紀子を祭る神殿なのだ。 叙しただけであったが、幸いハイフルグで飛行機の乗換時どうせ毀されるなら、見ず知らずの土建屋の手で毀される 間が後れ、五、六時間空港のロビイで話しあうことが出来前に、おれが焼いてやる。綺麗な焔にして燃え上らせてや た。その時最近川原夫人の死んだことを紗乃からの手紙でるっていってね」 報されたと康夫が話してくれた。 「刈屋さん、それについて何ていいました」 「僕はその時、何の感慨も浮ばなかった、日、 , 原夫人がどん と克子がきいた。 な死に顔だったろうとも思わなかった。唯、刈屋君にしき「あの男のことだからしばらく考えていたけれど、 りに逢いたくなってね、ちょうど正月のうちに日本から韓しよう、あなたの手で灰にして貰えば奥さまも本望でしょ
霧 彩 「私のようなものでも、今夜一晩は堤先生と山川さんをお「、 しいえ、私ばかりではありません」 客として、主人役を勤めるつもりでおりますから。何なり と刈屋は、さえぎるように言った。 と」 「私よりずっと先に桂井公爵もマッキントッシュさんもあ 「そうですか、それで安心して伺えますわ」 の絵巻を見ておいでなのです。マッキントッシュさんなん 克子は髪の毛を眼の高さで縒り合せながら言った。 かは莫大なお金であれを買い取ろうとしたらしいんですが、 「何より伺いたいのは、あの例の絵巻ね、あれを川原夫人奥さまが承知なさらなかったということです」 がうちの先生にお贈りになった御気持ね、あなたはお側に といった。悠紀子が桂井にこの絵巻を見せたらしいこと 始終っいておいでだったから、大方はお分りになるでしょ は紗乃も推量していた。 う」 桂井は悠紀子と交ることになって現し身ならぬ恍惚感を 「さあ」 味わい、彼女が賀茂の神官の娘で王家とも遠い血のつなが 刈屋は考える風に首を傾けたが、その首の動かし方の少 りのあるのを知って、彼女の霊媒的資質を認めたそうであ し大げさなのに、紗乃は刈屋も酔いはじめているなと思っるし、悠紀子自身も桂井との情事によって、自分のうちに くぐも た。しかし、それは紗乃も訊きたいことだったので、克子底深く潜っていたものの正体を自覚したという。そういう が自分の質問を代ってしてくれたようで心うれしかった。 関係である以上、例の絵巻は一子相伝の禁を破って、当然 「刈屋さん、川原さんには私、あの絵巻を人には見せない悠紀子は桂井には見せた筈である。彼があの絵巻を見てあ とお約束したんですけれど、実はその禁を破って : : : とい の中の舎人に自分を感じることは彼の矜恃が許さなかった うよりこの人に見られてしまったんですよ。その点、相すであろうが、姫御子に拒まれて去って行く大将の君とも当 まないことをしたと思いもしましたが、一面では一子相然違った感懐を抱いた筈である。 伝、女子一人以外に見せることを禁じるといっても、既に 「マッキントッシュは兎も角として、桂井公はどんな気持 川原さんが赤の他人の私にあの絵巻をおゆずりになったとであの絵巻を見たのでしようね。刈屋さん、そのことを奥 きに、もうその禁は破られているわけですし、考えてみれさまからお聞きだったことはありませんか」 ば私の前にあなたも見ておいでなのでしよう。そうしてみ と紗乃はきいた。 ると」 「桂井さんは大して驚かれなかったそうです。大分古いも 329
た。そういう現実の小さい失態に気づくときほど、紗乃の 「あの人のひとり合点よ。私があれをひとに譲る筈がない 心では眼は見えないでも、身内に鬩いでいる葛藤が、生きでしよう」 ているたしかな証拠のような生甲斐を感じさせるのである。 ときつばり一一一口った。 自分のうちにある川原悠紀子が本来の自己と戦って勝負を「いっそ、博物館へでもお納めになったらどうです。私こ 争っているような手応えであった。紗乃のうちにはそのとの間からそのことを考えていましたのよ」 き、悠紀子が自己の場をおしひろげようと膨張し、紗乃は「博物館へ」 それをおし縮めようと努める。紗乃のうちに生きている女紗乃は鸚鵡返しに言って、 でないものが悠紀子の女に負けまいとして気負い立っとき、「どうしてまた : : 私の死に目が近づいているから」 紗乃は精いつばいの抵抗に疲れ、悠紀子は何の力も労しな と何げなくいう。 いで紗乃のうちにひろがり、無際限にふくらんで来る。固「、 しいえ、そんなこと思いませんけど。でもあの絵巻がこ いものが軟かいものに抵抗していよいよ固く凝るほど、軟のおうちにある限り、何だか先生の身の上によくないこと が起りそうで恐いんです。公開しないことを条件にしてあ かいものの底のない力は強く大きくなって行くのだった。 紗乃のなかに可成り立ち入っている山川克子にも、今紗あいうところで保存して貰えば、川原夫人だって浮ばれる 乃を捕えている不思議な闘争には分け入れなかった。 と思うんですけどね」 克子はただ、紗乃の何となしに身体の衰えているのと視「あなた、随分迷信家になったのねー 力の弱まりを不安に思っていた。南美に相談してみても、 と紗乃は笑ったが、克子のいうことが胸に当らないでも なかった。この絵巻がそういう形で保存されるようになっ 「あの人 ( 彼女は母をそういう風に呼んだ ) は自分がこう したいと思わなければしないから駄目よ。入院したらなんたら、自分のなかに住みついている得体の知れぬ化物も自 てすすめたら怒られるだけだもの」 然に姿を消して行くかも知れない。しかしそれは自分をほ から とたいして気にもしていない様子である。 っとさせる以上にぬけ殻のように乾びさせるのではないか。 霧「梶田さんに、あの絵巻お売りにな 0 てもいいようなこと「ええ、私はもともと迷信家ですの。先生に忍者だなんて 言われるのもそのせいかも知れませんわ」 おっしやったんですって ? 」 と克子は一度紗乃にきいてみたが、紗乃は首を振って、 「あなた、私のことを言っているけれど、自分も怖くなっ 403
私、いつどうなるか自分ながらわかりませんので : : : 」 がこのしかった。 気がおかしいようにきいていた相手とすれば、言葉も話ただ、身体を働かせていながら、時々、ふっとうす暗い し方も一応普通である。 翳りのようなものが胸を掠める。それをふき消すようにし 紗乃は断わる口実を見つけるひまさえなく、一両日うちていたが、やっと庭掃きをすませ、芝生の陽当りに籐椅子 に必ず川原邸を訪問する約束をしてしまった。 を持ち出し、そこに腰を降ろして、煙草に火をつけたとき、 「お迎えをさし上げますわ。うちの者が車を持っておりまふり注ぐ太陽の光が手編みのスウェーターを通して身体い すから : : : 」 つばいに吸いこまれる快さと一緒に、うす暗い翳りの正体 と川原悠紀子は言った。 も対照的にはっきりして来たようであった。 電話を切ったとき、外に残っていた薄明りはまったく消「今日は行かなければなるまい」 えて、暗い中に雨音ばかりが小絶えなくつづいていた。 紗乃は煙草を一吸いして、溜息のようにつぶやいた。ち ようど書きものもひとかたついたところである。ああまで 翌日はやっと雨があがった。 約東したものをすつばかして、東京へ帰ってしまうわけに ぬけるような真青な空に雲一つなく、大分髪のうすくなも行くまい。そう思うと、 いよいよ川原悠紀子を訪問する った落葉松に交って、白墨を塗ったような白樺の幹が、濡ことが億劫になり、それがだんたん腹立たしさにまで変っ れ光る緑の中に眼ざましく伸びたって見える。 て行くのだった。何で自分は昨日の夕方悠紀子から電話の 晴れるのを待ちわびていた小鳥が賑やかに囀りながら、 かかって来たときに、はっきり断わってしまわなかったの りす 枝移りしている。時々、栗鼠がうつろう光のように木の間 だろう。紗乃はそういう時の優柔不断な自分の心癖を嫌っ を縫って走りまわっているのも見える。 ているだけに、この場合にも厭だ厭だと思いながら、強引 湿けた着物を全部ぬぎ捨てたような快さに、紗乃は身軽な力にひきずられて行くのが不愉快でならなかった。しか し、実のところは、心の底を洗って見ると、自分の内に貪 く振舞って、マットや膝かけの毛布を物干竿にかけたり、 ヴェランダの落葉を掃いたりした。 欲な好奇心が潜んでいて、その敏感な嗅覚が餌を探し求め 「奥さん、私がしますから」 ていることも争えない事実であった。川原悠紀子には確か と管理人の若い妻が言ったが、紗乃には動いていること にその嗅覚をそそるものがある。それなら自然にひきずら おだ 236