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検索対象: 円地文子全集 第13巻
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1. 円地文子全集 第13巻

に手をまわして、大げさに扱われないことに必死でした。 ですのよ。私の家は賀茂の宮司でしてね、公家華族だった 4 もっとも、もうあの時期には新聞も大本営発表ばかりで、 んです。何でも古くは王族だったというんですが、私の母 軍部に都合の悪い記事など一切のせませんでしたものね」は熊野のやつばり神官の家から来ていました。私に大切に 悠紀子はおっとりしたロのきき方で冷然といった。見かするようにといってくれた巻物 : : : つまり絵巻ですね。そ けによらず頭のいいひとだなと紗乃は思った。 れは母が嫁入りのとき持って来たものだというのですが : 「御主人はあなたへの嫉妬とか独占欲は持っていらっしゃ ・ : でも内容は賀茂の斎院についての物語なのです。熊野も らなかった ? 」 王室にゆかりの深い神社ですから、恐らく賀茂に関係のあ 「ええ、ええ、はじめつからそういう人でしたわ。法律がる人が、熊野に行ってその絵巻をつくったものか、それと 人間の形をしているみたいな面白くもおかしくもない人で、も賀茂神社に置くのは好ましくない内容なので、わざと熊 その代り私が何をしていても、他人の方がはらはらするほ野へ持って行ったのが、母の時代に持ちかえられて来たの ど平気でしたの。自分のうちにいるとき、用さえ足してく か、そこのところはよく分りません。ともかく誰にも見せ れればそれでいいのです。珍しい人でしたわ」 てはいけない、見るのはお前ひとりだと遺言のように言わ 「随分あなたにとっては、好都合な相手だったわけですわれて持っていたので、私は夫は勿論他のどんな人にも見せ ね」 たことはありませんでした。 「その代り天寿を全うして死にましたわ。私には子供がな そうですね。それが戦争の最中でしたから、私はもう三 むつい かったので、養子したのと、兄弟たちとの間に遺産相続の十を疾うに過ぎていたのです。その頃、六井家のパーティ ごたごたが起って、財産はめちやめちゃになってしまいまで、桂井公爵に逢ったのです。あの方はもうその頃軍部に したけど、私、その時分外国に行っていて、知らなかった睨まれて、軽井沢にばかり来ていられました。はじめて首 の。帰ってみたら何もかも失くなっていて、残っていたの相の印綬を帯びて、軽井沢から東京へ行かれたころの人気 はこの家一つ : : : それも抵当に入っているんですって。今はまったく地に堕ちていました。京都からも時々お妾さん だからお話しますけど、私がそんな蜘蛛のような女だと自が来ていましたが、奥さまはあまり見えなかった : : : 桂井 分でわかったのは、京都にいた母が亡くなる前に見舞に行さんと私との間に隠れ遊びがはじまったのはその頃でした。 って、自分の家についてのいろんな話を聞かされて後なん勿論ェッケルマンもかぎつけてものすごく嫉妬しましたが、

2. 円地文子全集 第13巻

と修はほんとうに面白そうに首を傾けて言った。 わけですよ。おふくろがいるわけでもなし、僕はひとりで 「勿論、骨はばらばら、足や手はなかったそうですが、頭行って、骨を集めて、その財布もいっしょに骨壺に入れて、 蓋骨と頸骨がくつついていて、それに変な紐がからまって東京へ持ち帰って来ました。いずれ、うちの寺へ持って行 いる。つまり、その紐がからまっていたために、頭と胴が って、納れて貰うつもりです」 離れないでいたってわけね。もともと岩の多いところでそ修はまったく父親に対して何の愛惜も持っていない模様 の間に挿まったみたいになって、ゆらゆらしていたらしい である。顔立ちはよく似ていても、 っしょに育ったこと ですよ」 のない子にとって、家を外にしていた父親など赤の他人と 「紐がねえ、よく長い間に朽ちてしまわなかったものね。違わないのであろうと、紗乃は思った。 布ですか」 軽井沢の旧道裏のまばらな家並みの間の喫茶店で、当時 と紗乃がきくと、修は首を振った。 としてはコーヒーらしいコーヒーをふるまってくれた梶田 「皮なんですね、それが : : : 細い皮紐で先に財布がついて秋湖の面影が眼の前の彼の息子の顔に重なって、心に漂っ いるんです。ばろばろになっていたけれど、それもやつばていた。 り皮なんですよ。調べてみたら中に金が少しと印形が入っ 「どうも親爺の話なんか始めてしまって、肝心のことが後 ていました。印伝革だって警察の年とった人が言ってまし になりました」 たがね。そう言えば鹿の皮にぶつぶつ刺繍したみたいのを 修は思いついたように言った。何気なく話していたが、 僕もどこかで見たことがありますよ」 やつばり父親に対して無関心ではなかったのだとその時紗 「印伝革は昔は贅沢なものだったから、梶田さんなら持っ乃は気づいた。 ていられたでしようね。その財布を首から下げたまま身投「例の川原夫人について、少し資料を手に入れたものです げなさったのかしらね。でもよく分りましたね」 から。山川さんからお聞きになったでしようが」 と紗乃はいった。軽井沢で逢ったころ、秋湖がそんな財「いえ、まだ碌にお話してはいないのよ」 布を持っていたことは知らなかった。 と克子が言った。 「それがまた、尾道に移ってから古道具屋で買ったものだ「梶田さんが京都の旧家に掘出しものに行ったときに、向 と分ったので、いよいよ親爺の骸骨だという証明になった う側の遠縁の人で京都御所の嘱託みたいなことをしている インデン

3. 円地文子全集 第13巻

霧 彩 「米軍の報道部にいて、彼らの情報を流す役をしていたんに主張を持っている人間は別だけれど、あとはこの地方に です。つまり昔の日本で言えば軍の嘱託ですよ。だから、 生活しているからこうしなければ生きて行かれないという 戦場にわざわざ行くこともなかったんですが、ああいう場のが本音でしよう。ベトナムの女って綺麗で柔和なんです 所にいると、男というものは血が騒ぐんですね。義務づけよ。日本よりもむしろ韓国型かな。僕は町の女と、随分附 られていないだけにいっそう戦場に近いところへ飛び出し合いましたが、とても素直でしなやかな情緒を持っている たがるんですよ。つまり命がけの野次馬ですね。随分怖いんです。グエン・チ・ビン女史みたいなものじゃないです かけら 思いもしましたよ。僕の肩には弾丸の欠片が一つ入ったまよ。今の日本にはあんな女は娼婦にもいますまいね」 篠田は酒に酔った様子もないのに、ずばずば話している。 まになっている筈です」 「グレアム・グリーンに The Quiet American ( おとなし 「まあ、痛むことはありませんの ? 」 いアメリカ人 ) って小説があるでしよう。今度の戦争より と紗乃が眉をひそめてきくと、篠田はちょっと顔をしか ずっと前のホー・チ ・ミン時代の話になっているけれど、 めて見せて、 「季節の変り目なんかには痛みますね。でも平和な環境でアメリカ人、イギリス人、フランス人の特徴が実によく出 暮しているとその痛みがなっかしいように思われるときもていますね。おせつかいで善意を押しつけるアメリカ人が ある : : : 不思議なものです : : : 僕のようなのは所詮畳の上結局殺されて、アメリカ人とイギリス人の両方の相手にな っていた女が、アメリカ人が殺されるともとのイギリス人 で死ねない無宿ものなんでしよう。日本へ帰って来ても、 こんな静かな座敷で日本料理を食べることなんて殆どありのところへ平然と帰って来る。お読みになっているでしょ ません。郷愁とそれに反撥するものを同時に感じますよ」う」 「ええ、もう随分前ですけど」 「そうでしようね」 と紗乃が言った。 紗乃はうなずいていた。 「あれはあの当時は諷刺だと思ったけれども、今度の戦争 「ベトナムの場合には、南北といっても一つの国が二つに 割れて争っているんでしよう。昔風に言うと骨肉相食んでを通して見ると一種の予一一一口書でしたね。やつばりイギリス いるわけね。他国相手の戦争よりいっそう凄じいかしら」人って冷えた眼を持っていますね。私ときどきあの小説を 「そうでもないですね。あそこは昔から混血が多いし、特思い出して溜息をついていますの。文学は男の一生の仕事 361

4. 円地文子全集 第13巻

私、いつどうなるか自分ながらわかりませんので : : : 」 がこのしかった。 気がおかしいようにきいていた相手とすれば、言葉も話ただ、身体を働かせていながら、時々、ふっとうす暗い し方も一応普通である。 翳りのようなものが胸を掠める。それをふき消すようにし 紗乃は断わる口実を見つけるひまさえなく、一両日うちていたが、やっと庭掃きをすませ、芝生の陽当りに籐椅子 に必ず川原邸を訪問する約束をしてしまった。 を持ち出し、そこに腰を降ろして、煙草に火をつけたとき、 「お迎えをさし上げますわ。うちの者が車を持っておりまふり注ぐ太陽の光が手編みのスウェーターを通して身体い すから : : : 」 つばいに吸いこまれる快さと一緒に、うす暗い翳りの正体 と川原悠紀子は言った。 も対照的にはっきりして来たようであった。 電話を切ったとき、外に残っていた薄明りはまったく消「今日は行かなければなるまい」 えて、暗い中に雨音ばかりが小絶えなくつづいていた。 紗乃は煙草を一吸いして、溜息のようにつぶやいた。ち ようど書きものもひとかたついたところである。ああまで 翌日はやっと雨があがった。 約東したものをすつばかして、東京へ帰ってしまうわけに ぬけるような真青な空に雲一つなく、大分髪のうすくなも行くまい。そう思うと、 いよいよ川原悠紀子を訪問する った落葉松に交って、白墨を塗ったような白樺の幹が、濡ことが億劫になり、それがだんたん腹立たしさにまで変っ れ光る緑の中に眼ざましく伸びたって見える。 て行くのだった。何で自分は昨日の夕方悠紀子から電話の 晴れるのを待ちわびていた小鳥が賑やかに囀りながら、 かかって来たときに、はっきり断わってしまわなかったの りす 枝移りしている。時々、栗鼠がうつろう光のように木の間 だろう。紗乃はそういう時の優柔不断な自分の心癖を嫌っ を縫って走りまわっているのも見える。 ているだけに、この場合にも厭だ厭だと思いながら、強引 湿けた着物を全部ぬぎ捨てたような快さに、紗乃は身軽な力にひきずられて行くのが不愉快でならなかった。しか し、実のところは、心の底を洗って見ると、自分の内に貪 く振舞って、マットや膝かけの毛布を物干竿にかけたり、 ヴェランダの落葉を掃いたりした。 欲な好奇心が潜んでいて、その敏感な嗅覚が餌を探し求め 「奥さん、私がしますから」 ていることも争えない事実であった。川原悠紀子には確か と管理人の若い妻が言ったが、紗乃には動いていること にその嗅覚をそそるものがある。それなら自然にひきずら おだ 236

5. 円地文子全集 第13巻

としいながら、出て行った。 「ぶしつけにお呼び申したりして : : : お気を悪くなさいま 紗乃はひとりになって、あらためて部屋を見まわした。 せんでしたかしら」 Ⅱ原悠紀子の夫はたしか法律学者だったと聞いているが、 悠紀子は刈屋に助けられてソフアにやっと腰をおろして その先代が有名な建築家だったとか、この別荘も恐らくそから言った。 の人の好みで設計されたものであろう。それにしてもエッ 、え、お身体が御不自由なのに、起きていらしっても ケルマンという大佐が自殺したのはどの部屋だったのか、 よろしいのですか」 まさかこの客間の筈はないと思いながら、紗乃は三十年に「大丈夫でございます。今日は気分がよろしいので : : : 」 もなるその頃のことを思い浮べると、何となく、うす気味そんなことをいっている間にも、刈屋は慣れ切った手つ わるい感じが部屋の隅々から這いよって来るように思われきで、クッションを女主人の背に当てて居心地よくさせた はぎ 膝から脛を軟かい毛布でくるんだりしていたが、それ 「お待たせいたしまして」 はまるで彼が悠紀子の身体の一部であるように自然に見え とやさしい声がして、ドアが開くと、刈屋の腕に半身をた。上手な人形遣いと人形のように一一つのものが一つにな 支えられ、もつれ合うようにして川原悠紀子が姿をあらわって見えるのである。 した。悠紀子についてのいろいろな想像が自然、紗乃の側 タッが紅茶と菓子を持って来てテしフルの上に置くと、 には準備されていたが、そのどれもが見事に外れていた。 悠紀子はそれには眼もやらず、刈屋に、 一度はたしか東京の何かのパーティで「あれが有名な川原「あの箱持って来て頂戴 : : : それからあなたも席を外して 夫人ですよ」と教えられたことがある筈であったが、紗乃ね」 には悠紀子の顔かたちについての印象がまったくなかった。 と言った。刈屋は返事もせず、静かに出て行ったが、す 今、現にその人を前にしても、あああの人だったと思い ぐ紫色の袱紗に包んだ細長い箱のようなものを持って来て、 出すところは何一つもなく、唯よろめく足もとや薄紫に染悠紀子の側においた。 めた髪に老女の印象ははっきりしているのに、顔だけは年「タッさんは帰してよろしゅうございますね。私はベルを 齢を置き忘れたように若く、ふつくらと色づいて、大きく押して下さればすぐまいりますから : : : 」 見開かれている二重瞼の眼は、童女のように澄んで見えた。 刈屋はベルのついたコードを悠紀子の手もとに置いてか 240

6. 円地文子全集 第13巻

彩 死骸を肩にかけて歩いて行く道って決して楽なものじゃあき残っていられては辛いと無意識に思っていたんでしよう りませんね。誰も逐って来るわけじゃないんですよ。罪とね」 罰の主人公のように自意識しているわけでもないんです。 篠田はその時はじめてほっと溜息をついて肩を落した。 唯何となく昔の自分になれないんですね。亡霊におびやか「愛しあったなんて僕は思っていない。あの人としてはエ されているというのとも違う。あの大男の外国人ひとり地 ッケルマンもマッキントッシュも僕も男という同じ種類の 上から消え去ったって、交通事故と同じことだ : : : そう思動物で、自分が自分以外の何かに化ける時の媒体に過ぎな ひとけ っているんだが、足が自然と静かな人気の少ないオースト かったんです。別れてから十数年もの間にそのことはよく ラリアの放牧地には落ちつかないで、湿気の多い東南アジ分っていました。そうして日本へ帰って、あの人が立ち居 ヤの戦雲に満ちた場所へ向って行く : : : フランスがベトナも不自由な身体になっているときいてほっとしたことも事 ムから手をひいて、アメリカが介入して来てから大分経っ実でした。でも刈屋君という男がそんなになっている悠紀 たころだったが、まだ北爆ははじまっていませんでした。 子さんを守って女房も持たずに暮しているのを見ると、何 その時分からサイゴンに来て、ずっと十年以上暮して来まとも一一一一〕えない気がして、正直のところ、彼に手をついて礼を した。戦争の終り近くなった一「三年前に、一度日本に帰言いたくなったんですよ。淫婦だの妖婦だのと、心のうち って来たことがあります。その時、川原夫人が軽井沢にい で罵って来たものの、自分と同じようにあの人の為に一生 ることを知って、たずねて行ってみる気になったんです。を棒に振って、いっこう悔いていない男がここにもう一人 逢ってどうしようなんて目的はまるでありませんでした。居たのかと思うと、自分が彼女の愛を受けたことを感謝し ベトナムの和平交渉がそろそろ本格になりかかった頃で、 たい気持になったんです。あの人はやつばり、神だったの 僕の肩の荷も歳月の流れのなかで自然に軽くなっていたのですね」 でしようか。年をとって神経痛がひどくてねてばかりいる篠田の語り終るのをまって、彼を励ますように紗乃は言 っこ 0 と言われても、是非顔を見たいとも思わなかった。それよ り、あの人に一生奉仕している刈屋君という男に出逢って、「悠紀子さんはほんとうに、死ぬまで刈屋さんの手一つに 僕は、ほっとしたんです。その人のために人殺しまでした世話されて、お仕合せでしたわ。あの方は自分でもいって 相手の女が、死んでいればい、 しけれども、みじめな姿で生いられたように、自分以外の何かに動かされていたのでし 365

7. 円地文子全集 第13巻

「文句をおっしやらないんですか」 魅力を昔ながらに誇示しようとする一一つの異った願望があ びつこ 「いや、もう面倒くさくなった : : どうせ跛になって、外った。そうしてその願望は夏彦という媒体を通して一応叶 へ出ることも余りないのに諍うのは厭だ。折角貯えているえられたわけであるが、それならば夏彦が単なる媒体でし 燃えのこりの力を外へ使うのが馬鹿馬鹿しくなったのだ」かなかったかと一一一一口えば、それは全く反対で、夏彦と交わる その時信楽の眼には滾々と湧き出る泉のような潤いがあことによって、麗子の中に残っていた自己憧憬は根こそぎ って、夏彦を珍しがらせた。それはあの滝めぐりの頃に見引きぬかれたと言ってよかった。麗子は自分一人だけで憎 せた魚油のように光る生ぐさい眼色とは違った涼しさを湛みつづけて来た肉体の衰えの一つ一つの特徴を、この若い えていた。 男の用捨のない仕打ちで剰すところなくえぐり出されたと 思った。二つの身体がからみ合って恍惚の境をさまよって いる時でも麗子は狂おしく喘ぎ乱れる息の下で、眼の外れ 後宮麗子にとっても、この雪や氷雨に閉じられた一冬は 信楽高見に劣らず陰鬱な日々の連続であった。 に静脈の瑞々しく盛上った滑らかな夏彦の腕にとりついて 勿論麗子の場合には、芝居に出演していたし、稽古にも いる自分の腕の徴細な皺を畳みこんだ艶のない萎みようを 追われるので、一人で考えこむような暇は尠ない筈であっ疑いなく見取って、老婆の犯されているようなみじめさを たが、夏彦と思いがけない関係に結ばれるようになってか感じた。それは夏彦に対する強い憎悪であると同時に彼を ら、今まで保ちつづけて来た精神の均衡が全く失われて、金輪際自分の手からぬけ出させまいとする執着でもあった。 ある時は十六、七歳の少女にかえったように心も身体も弾しかもそれが愛情と名づけるには余りにどす黒い、混淆 ぜかえり、ある時は、腰も撓み、足もともよろよろ定まら物に濁らされたものであることを麗子は知っていた。彼女 ない老いさらばえた姿に自分を見据えて、その醜さに顔をが曽て舞台の上で、観客を前にして演じた数百にも上る恋 愛劇のどの一つをとってみても、これほど自己愛に終始す 背けずにはいられなかった。 夏彦という若く、清々しい肉体を持った青年にしても、 る燃焼の足りない関係は一つとしてないのであった。 啝麗子は昔自分が彼の父親に恋した時のようにほんとうに彼私は夏彦を愛してはいないと麗子はいく度も自分に誓う を愛しているとは思えなかった。夏彦を引きよせようとしようにつぶやいてみた。しかもその言葉からは何と力ない こだま た自分の中には梅乃に対する復讐心と、信楽高見に自分の谺しか戻って来なかったことか。 しば 9

8. 円地文子全集 第13巻

「そりやそうしなければ箔はつかないわね。山川克子女史たよね。あら ! 」 御鑑定ではまだそこまでは行くまいから」 克子はその紙に眼をよせるようにして、 「御冗談でしよ。私はいつでも裏方、それが性に合ってい 「先生、そら、よく御覧になって下さいよ。ここに、薄い るんです。先生のところだってそうじゃありませんか」 けれど、赤い色で『秘』って書いてありますわ」 克子は言い捨てに小取廻しな茶道具一式を寝室の隣の水 とその字のところを指で抑え、紗乃の眼に近くさし寄せ 屋めいた棚にしまって来た。 るようにした。紗乃も紙には見覚えがあるが、この上紙に 「先生、これは何でしよう。今べッドの下に落ちていたんまで、「秘ーという字が書いてあろうとは思いがけなかっ ですけど」 た。紙質にもよるのか、絵巻の表にあったのより、もっと むら 克子が何げなくさし出したのは、漉き斑の見える厚肥え薄く、紗乃の眼でははつかに「秘」という字が読めた。 た出雲紙であった。紗乃はそれを見てぎよっとした。先刻、「先生、これは紅や朱じゃありません。血ですよ」 べッドの上で絵巻を見るために箱を開いたとき、内にもう と克子が紗乃の眼の底を見入るように言った。 一枚の紙に包まれていたのを、蔵うとき余り露わな絵の思「どうしてわかるの」 いがけなさに驚かされて、あたふたと巻き収め、箱に納め紗乃は割に動じない口調で言った。 うわがみ たので、巻物の上紙にはまったく心が行かなかったらしい 「勘と言えば勘ですけどね。朱では勿論ないし、紅とする さすがに克子は、何も気づかぬらしく紗乃にそれを手渡とこのくらい薄ければ、もっと桜色がかっていますよ。私、 しながら、 血判なんかいく度も見ているからすぐ分るんです。どうし てこんなものが : : : へ 「古い紙ですわね。どこから出て来ましたの」 ・ツドの傍に : : : 先生、軽井沢から何 ときいた。 か心当りの荷物でも持っていらしったんじゃないんです 「どこからだか、私もわからないわ」 か」 と紗乃は空とばけて、 「心覚えないわね。あっちに置いてあった夏物の残りとあ 「何か巻いてあったみたいな形をしてるじゃないの」 のポストンパッグ一つたもの」 と訊ねるように一一一口った。 「そう言えばそうですねえ」 「そうですね、このお部屋にはこんなものありませんでし克子はうなずいて、 266

9. 円地文子全集 第13巻

とつねは言った。 と一一一口った。 麗子が小町の芝居をやり度いと言出した時から、つねの麗子はちょっと眉をよせたが、黙ったまま立って来て、 内に孕まれはじめた空想の世界が、信楽高見の記憶を甦らつねの手から受話器をとった。 せることで、だんだん生彩を帯びて来たのである。麗子さ「もしもし、梅乃さん : : : 先刻お電話だったんですってね んもここらで一つ違った世界へ足を踏みこまなければなる ・ : すみませんでした : : : ええ、昨夜ちょっと飲みすぎて、 まい、そうすることがこの人の現在の誰の眼にも眼立って一一日酔の気味なの : : : 昨夜は晩くまで騒いで、御迷惑たっ 来ている衰頽を、別の生気に変える唯一の便法だとつねは たでしよう : : : ええ皆さん、大満足で : : : 殊にあの周山の 思った。 鮎の匂い忘れられないわ。今度うちへも一度分けて下さら それには、小町 : : : 信楽高見という線の結びつきは屈強ない」 の接点に思われた。 そんななめらかな会話のつづいた後、梅乃が何か用件ら 「どうせ、東京内のことですもの : : : 誰かあの方面の方にしいことを語り出したらしく、「ああそう」「なるほど」 きけばすぐわかるでしよう」 「ええそれはもう : : : 」というような受身の返事だけがし 「そうね」 ばらくつづいた。 と麗子はうなずいて言った。 「そうなのよ。そのことなのよ。私、あれからうちへ帰っ 「じゃあ、なるべく早くしてよ。私、その気になったら、 てから考えて見て、小町を是非やりたい気分になっている この休みの中に何とか手をうって見たくなったわー んだけれど、先だつものは脚本でしよう。来年あたりの新 「ようござんす : : : の文芸部へでもきいて見ますわ」作とすれば、ちゃんとした方にお願いするんだったら、も その時、卓上の電話のベルが鳴ったので、つねは素早くう今から準備しなければなるまいと思って : : : 誰かに相談 受話器をとった。 したいと思っているところ : : : ああ、そう、あのあなたの 「↓よ、、↓よ、 : あ、どうも : : : 先ほどは失礼いたしましところの坊っちゃんが王朝文学専攻でいらっしやるの : た。先生ももう起きておりますから : : : 」 うん、うん、そこの研究室にちょいちょいいらっしやる方 そう言ってから受話器のロを手で蔽って、 ・ : ああ、それが信楽先生だっていうの : : : 」 「出雲さんからです」 麗子の声がふっと跡切れて、つねの方を見た。

10. 円地文子全集 第13巻

しくら かし、僕の出あうことを望んでいるのはやつばり女の肉体今日は一昨日、昨日の二日より少し気温が昇り、 か空が曇っている。この分では午後からでは霧が深くなっ 8 を借りた美しい魔物でありたい。 醜怪な犀か、蟇の化物の洞穴には近よりたくない男の本て、滝が見えないかも知れないと思ったので信楽氏をすす 能が僕を引きとめているのだ。湯ノ湖畔の夜は妖怪の跳梁め立てて、車に乗せた。中禅寺の湖畔からいろは坂にかけ するのには余り澄み通った静かさに領されていた。僕は一ての紅葉はもう葉がちちれはじめ、梢もまばらになって、 一昨日来た時の錦は東の間に色あせていた。 度閉めた雨戸を押しあけて、宿の庭へ出てみた。 馬返しから神橋までの途中「あらさわ」というところか 針一つ落ちても、響きになるような静寂の中で凍りつい たように星屑のきらめいて見える紺瑠璃の空の裾に、新雪ら左の山道へ入って行くと、十五分ばかり走ったところに をかついだ奥日光の山々が、濁った妄想を許さぬもののよ電工の発電所の建物がある : : : そこで車から出て、山合 いのでこばこ道を百メートルほど谷川に添うて降りて行く うに厳しく立ち並んでいた。 と、岩角に鉄の手摺のついた狭い場所があった。そこまで 十月一一十 x 日 信楽氏の覚束ない足もとに気をつけながら辿って行くのに 信楽氏は午前一度と午後一度湯滝を見に出かけた。 は僕も可成りひやひやした。 そうして、その夜の感懐では、「滝を見るのはやつばり 夕方近くがいいな。朝は余り清浄すぎて、こっちの想像力しかし、その疲れも、鉄柵の傍のべンチに一休みして、 が萎んでしまう」と言った。今日は少し風が出て紅葉の葉うしろに深くえぐられた岩肌を背にしながら、眼の前に轟 が絶えず滝に乗って滑り落ちるように、滝壺に舞いこむのき落ちて来る凄じい滝水の躍動を裏からみる特殊な興味で 拭ったように忘れ去ってしまった。視界をみる間に白く曇 が狂気じみた美しさに眺められた。 らせ、又見る間に顕然と変相させる霧のいたずらの間で、 十月一一十 x 日 信楽氏はまだ四、五日湯元に居据わって小町の戯曲の想裏側から眺める滝には女の下肢体を背後から見上げるよう な官能の歓びがあった。僕はこの時、湯滝を見た時とは又 を練るのだという。 僕はそういつまで附合ってはいられないので、今日の晩別種の陰湿な歓びを身内に感じて、滝めぐりに僕を誘い出 までに東京へ帰ることにして、裏見の滝と霧降の滝を午前した信楽氏に感謝したい気持になった。滝は女た。しかも 清麗、強靭な肉体を持っ美女で男を洗いきよめ、打ちのめ 中に見物する予定を立てた。