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検索対象: 円地文子全集 第13巻
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1. 円地文子全集 第13巻

勿論、道は磧にあるような大小の石がころびあって傾斜僕が先に行って、ステッキの先を持ったり、ある時はほん を形づくっているので、屈強の若者ばかりならば、身軽にとうに手を引いて抱き抱えたりして、自分だけで歩いて行 飛び降り、躍りこえて行けば、思いの外早く滝壺まで降りく倍以上の骨折りでやっと、彼の執心する滝壺まで連れて られるのであるが、信楽氏は老年の上に、腰に未だいくら行ったが、もう二メートルばかりで平地へ着くというとこ か痛みも残っている身体で、一歩一歩足固めしながら歩かろで、信楽氏は足を踏み外して、石の間に滑り落ち、顔と ねばならぬのに、石の間には赤土のぬるりと湿り気を帯び手をしたたかすりむいた上に、腰の番をいやというほど岩 た地面もあり、道傍の蔓草などんで予め次の地点へ足を角に打ちつけて動けなくなってしまった。 のばすのがなかなか困難で、流石に三分の二ほど降りたと「先生 : : : どうしました」と僕は叫んだがそういう僕自身 ころで、下に可成り急な岩崖のあるのをみると、強気な信も、咄嗟に彼を助けようと、胴を抱いた拍子に一緒に下ま 楽氏も足がすくんだらしく立ちどまってしまった。 で転がり落ち、流石に素早く立直りはしたもののやつばり 「どうします、先生、下まで行けますか」 額から頬のあたりを石にうち当ててぶっ切ったらしく、た というと、 らたら真紅の血がジャケットに滴ってきた。 「ふうんー 「おお、君もやったか」 と唸るように言って、しばらく黙っていた。上を見上げ信楽氏は石の間に蛙のように両手をついてへたばったま ると、又よくもここまで降りて来られたと思うほど遙かなま、僕を見上げて言った。 木草の茂みの間に高曇りの空があった。 「いや、僕は大したことありませんが、先生は、 : : : 歩け 「やつばり下まで行こう : : : 上へ昇るのを思うと、滝壺をますか」 みる方がいい」 というと、 「気をつけて下さいよ、先生、怪我をしては困りますよ」 「さあ、どうかな : : : 落ちた時にしたたか腰を打ったよう 「大丈夫だ。山伏になって深山幽谷を跋渉する気になればで、はっと呼吸が弾んだが、 ・ : まあ、起きて見よう」 そう言って、ほうり出してあるステッキに手をのばしか 変何のことはない」 苅信楽氏は負け惜しみを言って、ステッキを突き立てて、 けたが、「あツ、痛い ! 」と妙にやさしい声の悲鳴を上げ ごろごろ石の大きいのが転びあっている間を歩き出した。 て、少しずつ上体を起した。 つがい 8

2. 円地文子全集 第13巻

うに梅乃のような不器量な女を愛すようになり、結婚にま麗子は梅乃の引退興行にも附合い、結婚の祝いものも派 で踏みきったかを理解することが出来なかった。 手にしてその後三十年近い月日の間、表面美しく附合いっ 自分に対する当てつけという風に考えてみても、麗子のづけて来たが、出雲路正吾が梅乃との間に二人の子供を残 知っている正吾はそんなシーソーゲームを好む気質とは縁して、終戦直後に病死してしまった後も、陰険な泥棒猫と がなかった。恋愛なんて面倒臭くなったというのが本音だして梅乃を憎む気持は絶えずに持ちつづけて来た。 と正吾の口から説明されて、麗子はいくらか納得したが、 「出雲」の柳橋の店も戦災で焼けたが、一年経たぬ中に梅 その面倒くさくなった正吾をうまく手懐けて、梅乃が彼の乃は帰って来て、・ハラック建てで、一膳飯屋同様に店を出 妻と、「出雲」の若女将との二役を見事に射とめることにし、やがて、戦前に贔屓だった客たちが政界や実業界に帰 なったのには、正吾の養母が背後で糸を引いていたのであり咲きはじめたのを後楯にして、金を借りたり、権利を取 った。美貌ではないが、努力型の芯の強い梅乃の舞台には って貰ったりして、四、五年の後には元の建築と劣らない じめから惚れこんでいた養母は、梅乃が長い間年期奉公の料亭に建て直していた。夫の死の他にしつかり者の姑をも、 ような徒弟的な苦労を積んでやっと世間に認められるようその一「三年の間に見おくっていたから、花柳界と手を組 になった舞台を惜しげもなく捨てて、正吾の妻になり度いんで、そこまで来るには梅乃は一方ならぬ働きをつづけて いや、隠れた愛人の身分でもいいからあの人に愛され来たわけである。お前を正吾のお上さんに貰ったのは出雲 たいと願う烈しい願望に撃たれた : いや、撃たれたとい路の家の仕合せだったよ、と姑は臨終近い床で梅乃の手を うのは養母と梅乃と二人の間で当人達も半ば無意識に仕組握って言ったそうである。 んだ大芝居で、正吾自身もその芝居を半分は知っていて、 梅乃は子供にも恵まれていて、男の子は城北大学の国文 一役買ったのがほんとうのところだったかも知れない。 科を出て、そこの研究室の助手になっているし、女の子は いずれにしても、この恋愛合戦は、人気盛りの美貌を誇母親の血をうけて、テレビ女優になっていた。麗子も、出 りにしていた麗子の敗北に終ったことは事実であった。勿雲路豊美という梅乃の娘にはテレビへ出演した時に一度顔 論、麗子の周囲も出雲路の側もそのことは秘し隠して通しを合せたことがあったが、梅乃とは似ず近代的な美貎で背 たから、ほんの内輪の数人の他は正吾と麗子との恋愛につも高く、肉体的には梅乃の充たされなかったものを全部埋 いて知っているものはなかった。 め合せているような娘たった。 4

3. 円地文子全集 第13巻

配っておきますゆえ、もし不審たてるものがあった折には、 心配もなく、帝は帳台のうしろに用意されている御座にお 主上が中宮の御病いを御案じ遊ばすあまり、お忍びで渡御着きになることが出来た。ここは塗籠をうしろにして、壁 あったと申すに何の障りがございましようか。一度、夜の代や几帳御屏風などがいく重にも立て渡されている間なの おとどにお入り遊ばされた後、私がよい時刻にお誘いにまで、こちらから母屋や庇の間を見渡すにはさしさわりはな いりますゆえ、おん袿姿のままおいで下さいまし」 いが、向うがわからは金輪際見られる心配のない究竟な場 藤三位と命婦はそう帝に復命した上、亥の刻を過ぎるこ所である。 ろ、夜のおとどの帳台の帷を少しもたげるのを合図に帝は その上、護摩壇に絶えず投げ入れる護摩木や芥子の濃い 白綾の大袿を裾長く引かれたまま、外へ滑り出られた。そ匂いと共に、濛々と黒煙白煙の立巻く間にそのところだけ みぐし こには、命婦が待っていてかつぎの薄衣をふわりと御頭に焔が赤々と燃え上り、数珠を押しする音、鈴の声、怨霊退 かつがせまいらせて静かに清涼殿の渡殿から、藤壺の方へ散妖魔降伏の呪文に交って、招人たちの声高に罵りさけぶ 歩いて行った。帝はお身体が華奢でいらっしやるのに、藤声が、常のみやびやかな御殿の様子とは打って変って、阿 三位は肥えた大女なので、命婦との間にはさまって歩いて鼻叫喚の大地獄にあるような凄じい渦を御殿一ばい巻きか えしていた。 行かれると、どこにいられるかわからぬように見えた。 帝はこの様子にまずそっとされたが、そっと帳台の中を 秋の夜風の冷やかに吹く前栽に花の色々がうつろって、 遠近の野山から道長が集めさせて、中宮のお慰みに献ったのそかれると唐綾の枕に艶やかな黒髪を伏せたまま、まだ という鈴虫、松虫などの音色が惜しげもなくふりこばれて童顔の失せぬ中宮は少し眉をよせたまま、うとうとしてい いる。常であったら、女房達の局をつまどい歩く殿上人のられた。 姿も多いのであるが、今は中宮の御悩みに恐れ謹んで、詰 「今罵っているのは粟田どのの御死霊だそうでございます め所に冠を傾けて宿直する者ばかりである。 よ。でもこの御霊はそれほど中宮さまに強い障礙は出来な きょのり いのだそうでございます」 「清儀の朝臣宿直申し候」 と藤三位は帝の耳に口をよせてささやいた。 などとこんな廊で遠く殿上の名対面の声をお聞きになる その時、潮のさして来るようなざわめきが母屋から庇の と主上は珍しい心地がなさった。 それとなく人を払ってあったこととて誰に見咎められる間にかけて、押しかたまって一心に尊勝陀羅尼を誦してい 200

4. 円地文子全集 第13巻

由な雰囲気が基盤にあったためなのであった。 病の間、天下及び百官執行」の宣旨が下った。このことを そうして又、若い帝がそのサロンの一員として、教養や聞いて驚きもし、不快にも思われたのは他ならぬ東三條女 趣味をつくって行くのに比例して帝と自分との間がだんだ院詮子その人であった。 ん疎遠になって行くことを女院は淋しく感じていた。 帝が母である自分に相談もなくこのような政権に関する 女院はそういう気持を婉曲な言葉で道隆に述べて見たこ大事を即決されたのには、明らかに背後に糸を操っている とがあったが、好人物で酒好きの道隆は、相手のいうこともののあることを女院は女らしい直感で感知した。それは をしんみりとはきかないで、女院の思い入った言葉をも冗定子中宮である。定子は母の自分から帝を引離して、姉の 談。 こしてはぐらかしてしまった。 ような愛撫と令色で帝の心を傾けていると女院は思った。 道隆が薨じたのは積善寺供養の翌年長徳元年の四月であ 当時一條の宮にいられた女院は一日参内して帝を弘徽殿 のうし るが、その正月頃から、食事が進まなくなって、水ばかりの一室に招いた。白地に浮線綾の引き直衣を着け下襲の紅 を飲み下すので、肉づきもすっかり落ち果てて、一「 三カの鮮やかに匂ってみえる袖口をゆるやかに返して入って来 わらわ 月の間に頼み尠ない容態になった。その年は春から疫病がられた帝は、小 ノし見ぬ中に丈も高くなり、童じみたあどけ 都に流行して日々生命を失う市民は数知れず、名ある公卿なさが去って、わが子ながらけだかく、気のおける風に女 殿上人などのこの病いに染んで倒れるのも尠なくなかった。院には見えた。 しかし、道隆の病気はそれではない。恐らく酒毒のため帝も母君の墨染めの法衣の下に透いてみえる紅の御衣や、 に消化器を傷めたものではなかったかと思われるが、三月扇をひろげたようにふっさり切り捨てた黒髪の尼姿に匂っ になると、自分でも流石にこの病が容易く癒えるとは思えている美しさをなっかしく眺められる風情である。 なくなったと見えて、夜、秘かに参内して帝に拝謁した上、「少しお眼にかからない中に、大そう大人びて美しくおな 長男の内大臣伊周に病気の間、関白職を代行させるよう奏りになったこと : : : 」 と女院は帝の御様子をしげしげと眺めて、法衣の袖口を 上した。 帝もこの時は十六歳になっていられ、道隆の奏上するこ眼に当てた。 み まとについても、一応の判断を下す分別が生れていられたか「それにしても関白殿の病気も困ったものですね。大そう引 ら、その奏上は即座に聴許されて、三月八日伊周に「関白痩せられたとか」 ふせんりよう したがさね おんぞ

5. 円地文子全集 第13巻

彩 まあ、言えば合作のようなものです」 身体つきを見ていた。こんな隠し芸が彼女にあるのは今ま 刈屋は楽しそうな輝きをその棗型の眼に湛え、紗乃や克でまったく知らなかったが、酔っているとは言え、今夜の 子が何も言わないのに、もう一度、同じ今様を歌いながらように調子づいて踊りはじめたのは、刈屋のギターに情緒 ギターを弾いた。はじめの時、悠紀子の心ばかりを思いやをそそられたために違いない。 克子の煽情的な踊に刈屋も っていた紗乃はこの繰返しを聞いているうちに、歌詞の意気が乗って来たらしく、曲も歌もいよいよ早間に騒がしく なる。 味といっしょに刈屋のロにしない胸のうちが古代の歌謡と 洋楽器の結びついたこの不思議な音楽の間に綿々と滲み出 そうしてその騒がしさが紗乃には騷々しいよりも心臓の して来るような気がして、恋とか愛とかいう言葉を越えた発作でも起りそうに苦しかった。克子はともあれ、刈屋は 人間の悲しみに浸る思いがした。 こうして狂ったようにギターを弾き歌いしていることで自 刈屋もそれを弾き語りしている間は、酔いのさめたよう分の隠している一切の感情をぶちまけているように思われ な顔つきになっていたが、弾き終ると同時に紗乃を捕えた 感情に何となく気づいたのか、急に陽気に笑って、 紗乃がころあいに手洗いにでも立つような振りをして、 らんじよう 「いけませんね、こんな陰気な歌は。やつばりギターには二階の寝室に上って行ったあとも階下の乱声と乱舞はまだ 歌謡曲がようございますよ しばらくつづいていた。 と言って賑やかな音を早間にかき立てながら、今流行の 大仰に泣きむせんだり吠えたりするような歌謡曲を歌い出何時ごろ深い眠りに落ちたのか、紗乃が眼を覚ました時、 した。その変り目があんまり鮮やかで、彼の表情まで人がガラス戸の外はうす明るくなっていた。枕もとに置いた腕 変ったように見えたので、紗乃はびつくりして眺めていた時計をとって見ると、六時半少し過ぎている。 が、山川克子は何に誘われたものか、手にしていたプラン この辺りの日の出は晩いけれども、それにしてももう少 ディのグラスを置いて立上ると、自分も刈屋と同じ歌を歌し白んでいてもよい筈である。 いながら、片手を胴に当て、腰をくねらせてフラメンコ擬紗乃は昨夜の奇妙な饗宴を海の向うにでも置き忘れたよ いのダンスを踊り出した。 うに冴えた寝ざめを味わった。刈屋の配慮が行き届いてい 紗乃は芸がないので勿論腰かけたまま、克子のよく撓うると見えて、部屋はほどほどに暖かい。 335

6. 円地文子全集 第13巻

しくら かし、僕の出あうことを望んでいるのはやつばり女の肉体今日は一昨日、昨日の二日より少し気温が昇り、 か空が曇っている。この分では午後からでは霧が深くなっ 8 を借りた美しい魔物でありたい。 醜怪な犀か、蟇の化物の洞穴には近よりたくない男の本て、滝が見えないかも知れないと思ったので信楽氏をすす 能が僕を引きとめているのだ。湯ノ湖畔の夜は妖怪の跳梁め立てて、車に乗せた。中禅寺の湖畔からいろは坂にかけ するのには余り澄み通った静かさに領されていた。僕は一ての紅葉はもう葉がちちれはじめ、梢もまばらになって、 一昨日来た時の錦は東の間に色あせていた。 度閉めた雨戸を押しあけて、宿の庭へ出てみた。 馬返しから神橋までの途中「あらさわ」というところか 針一つ落ちても、響きになるような静寂の中で凍りつい たように星屑のきらめいて見える紺瑠璃の空の裾に、新雪ら左の山道へ入って行くと、十五分ばかり走ったところに をかついだ奥日光の山々が、濁った妄想を許さぬもののよ電工の発電所の建物がある : : : そこで車から出て、山合 いのでこばこ道を百メートルほど谷川に添うて降りて行く うに厳しく立ち並んでいた。 と、岩角に鉄の手摺のついた狭い場所があった。そこまで 十月一一十 x 日 信楽氏の覚束ない足もとに気をつけながら辿って行くのに 信楽氏は午前一度と午後一度湯滝を見に出かけた。 は僕も可成りひやひやした。 そうして、その夜の感懐では、「滝を見るのはやつばり 夕方近くがいいな。朝は余り清浄すぎて、こっちの想像力しかし、その疲れも、鉄柵の傍のべンチに一休みして、 が萎んでしまう」と言った。今日は少し風が出て紅葉の葉うしろに深くえぐられた岩肌を背にしながら、眼の前に轟 が絶えず滝に乗って滑り落ちるように、滝壺に舞いこむのき落ちて来る凄じい滝水の躍動を裏からみる特殊な興味で 拭ったように忘れ去ってしまった。視界をみる間に白く曇 が狂気じみた美しさに眺められた。 らせ、又見る間に顕然と変相させる霧のいたずらの間で、 十月一一十 x 日 信楽氏はまだ四、五日湯元に居据わって小町の戯曲の想裏側から眺める滝には女の下肢体を背後から見上げるよう な官能の歓びがあった。僕はこの時、湯滝を見た時とは又 を練るのだという。 僕はそういつまで附合ってはいられないので、今日の晩別種の陰湿な歓びを身内に感じて、滝めぐりに僕を誘い出 までに東京へ帰ることにして、裏見の滝と霧降の滝を午前した信楽氏に感謝したい気持になった。滝は女た。しかも 清麗、強靭な肉体を持っ美女で男を洗いきよめ、打ちのめ 中に見物する予定を立てた。

7. 円地文子全集 第13巻

っちがシテで乗出した話だもの : : : 」 手に出来るじゃありませんか」 「しかし、後宮さんも、本当は信楽さんに逢いたくないら「あら、芝居は別ですよ。うちの先生は、あんな風に舞台 しいな : : : 僕にはそれがわかるから : : : 両方をみていて面では艶つほく見えるけれど、芯は男みたいですもの : : : だ 白いなと思う : ・・ : 」 から昔だって、梅乃さんに、あなたのお父さんを取られた 「あんた人が悪いわよ」 んです」 つねはその後、取ってつけたような笑い方をして、 ここに遊びに来るようになってから、夏彦は麗子からは 「どうして、先生の厭がっているのがわかる ? 」 きかなかったが、つねを通して父と麗子の間にあった情事 ときいた。 のいくつかの場面を精しく聞くことが出来た。つねと夏彦 「そりやわかりますよ。信楽さんの方で断わって来ると、 の間が眼にみえて親しくなったのはその為であった。 困るわねなんて言いながら、ほっとした顔をしているもの このしたたかものの女番頭は自分を麗子の方に押しやり、 もっと密接な関係に結びつけたいに違いないと夏彦は思っ 「そうなのよ。私だからいつもいうの、そんな弱気じゃ駄た。 目ですよって : : : 信楽高見なんて昔でもあんたに失恋した、 パスルームに通う扉が開いたと思うと、派手なパスタオ 言わば道化役じゃありませんか : : : 見下げたような傲慢な ルを肩に巻きつけただけの麗子の顔がのそいた。 顔をしていらっしゃいって : : : でもなかなかそれがそうは「おつねさん、パス・パウダー」 行かないらしいのね。いくら小野小町をやるからって、 と声をかけながら、そこに夏彦がいるのを見ると、 後宮麗子まで『わびぬれば身を浮草の根を絶えて』になっ 「あら : : : 」 ちゃあ困りますものね。夏彦さん、せいぜいホルモン剤に となまめかしい声を上げて、くねるように肩をよじった。一 なって、先生を強気にしてやって下さいよ」 その拍子にねじ向いた肩からタオルがずり落ちたと思う間 「僕のホルモン剤は、相手を低血圧にする方でね」 もなく、つねが飛びかかるように閉めた扉の向うに麗子の 「そうでもないわ。あなたが見えるようになってから、先白くよじれた身体は消えて行った。 生確かに若返っていますよ」 一瞬の出来ごとであったが、夏彦は奇術師の早業をみる 「冗談じゃない。後宮さんは芝居でいくらも若い恋人を相ように眼を吸われて呆然とした。迅速な動作の間に羞恥と

8. 円地文子全集 第13巻

「私はね、大体自分の死んでゆくまでの様子がわかってい 「ええ、ここに一日ばんやりしていると、退屈でございま ますの : : : 今もこんなに足が半分動かなくなっていますですからね。私あれをみていると、絵空事とは思われない時 しよ。これがだんだん全身にひろがって、手足がちちんでがあるんですの。よく、蜘蛛獣人なんていうのが、手足を 行くのだと思うんですのよ」 自由にのびちぢみさせて人間の血を吸う場面なんか出て来 「まさか、そんなことが」 ますの。勿論ああいうテレビでは人間は大抵助かりますけ 紗乃がいうと、悠紀子は声を上げて笑った。その笑い声れどもね。私はね、中年ごろからですけれどそういう風に が妙に明るく聞えたので、紗乃はそのことに驚かされて、 自分が自分でいて、別のものになってしまう時があるんで 悠紀子の眼の底を見るような顔になった。 すの。もっとも、亡くなった主人との間では、そういうこ ひとで 「ほんとうですのよ。私、昔から手足が海星か蜘蛛のようとは一度もありませんでしたけれども : : : 」 に長く延びたり縮んだり自由に動くことがありますの : 悠紀子のゆるやかに語る言葉を聞きながら、はじめのう あなた、この頃テレビで子供の番組に出る怪獣っての御存ち紗乃は、この人、やつばり気がおかしいのではないかと じ ? 」 思った。しかし、終りの方の夫との間という言葉をきいた 「ええ」 時、これは確かに性にまつわることで、彼女の語ろうとす 紗乃はあまり調子づかない声で答えた。実際には、家にる秘密らしいものもその中に含まれているに違いないと思 小さい孫がいたので、よくそういうものをテレビの画面でうと、急に別の興味が湧いて来た。 見て、昔のお化けが怪獣や宇宙人に変ったのも、世の変遷「蜘蛛になるって、いったいどういうことでしよう。まさ の一つの相であろうと、別の興味で眺めることがあったが、 かあなたが人間の血をお吸いになる筈もないし」 悠紀子を前にすると、どうもそんな考えは言葉に上って来「そうですわね。ほんとうには血を吸いはしませんでした なかった。 わ。それどころか、相手のひとはどの人も私とそうなる瞬 「御覧になる ? 」 間が娯しくて娯しくて、まるで別の世界にいるようだと言 と悠紀子は念を押すように尋ねた。 いました」 「ええ、東京にいると孫が見ていたものですから : : : あな 紀悠子はそこで言葉をとぎらせて紗乃を見た。 たはあんな子供の番組を御覧になりますの」 「あなただって、私のいろいろ悪い噂については知ってい 242

9. 円地文子全集 第13巻

と修はほんとうに面白そうに首を傾けて言った。 わけですよ。おふくろがいるわけでもなし、僕はひとりで 「勿論、骨はばらばら、足や手はなかったそうですが、頭行って、骨を集めて、その財布もいっしょに骨壺に入れて、 蓋骨と頸骨がくつついていて、それに変な紐がからまって東京へ持ち帰って来ました。いずれ、うちの寺へ持って行 いる。つまり、その紐がからまっていたために、頭と胴が って、納れて貰うつもりです」 離れないでいたってわけね。もともと岩の多いところでそ修はまったく父親に対して何の愛惜も持っていない模様 の間に挿まったみたいになって、ゆらゆらしていたらしい である。顔立ちはよく似ていても、 っしょに育ったこと ですよ」 のない子にとって、家を外にしていた父親など赤の他人と 「紐がねえ、よく長い間に朽ちてしまわなかったものね。違わないのであろうと、紗乃は思った。 布ですか」 軽井沢の旧道裏のまばらな家並みの間の喫茶店で、当時 と紗乃がきくと、修は首を振った。 としてはコーヒーらしいコーヒーをふるまってくれた梶田 「皮なんですね、それが : : : 細い皮紐で先に財布がついて秋湖の面影が眼の前の彼の息子の顔に重なって、心に漂っ いるんです。ばろばろになっていたけれど、それもやつばていた。 り皮なんですよ。調べてみたら中に金が少しと印形が入っ 「どうも親爺の話なんか始めてしまって、肝心のことが後 ていました。印伝革だって警察の年とった人が言ってまし になりました」 たがね。そう言えば鹿の皮にぶつぶつ刺繍したみたいのを 修は思いついたように言った。何気なく話していたが、 僕もどこかで見たことがありますよ」 やつばり父親に対して無関心ではなかったのだとその時紗 「印伝革は昔は贅沢なものだったから、梶田さんなら持っ乃は気づいた。 ていられたでしようね。その財布を首から下げたまま身投「例の川原夫人について、少し資料を手に入れたものです げなさったのかしらね。でもよく分りましたね」 から。山川さんからお聞きになったでしようが」 と紗乃はいった。軽井沢で逢ったころ、秋湖がそんな財「いえ、まだ碌にお話してはいないのよ」 布を持っていたことは知らなかった。 と克子が言った。 「それがまた、尾道に移ってから古道具屋で買ったものだ「梶田さんが京都の旧家に掘出しものに行ったときに、向 と分ったので、いよいよ親爺の骸骨だという証明になった う側の遠縁の人で京都御所の嘱託みたいなことをしている インデン

10. 円地文子全集 第13巻

をさして旅立って行った。 って探し求めよ。帥が行方知れぬ時は検非違使も武士ども 宵が過ぎて、邸を守っているもの達も到底伊周の出立はも罪に行うそ」 今夜は難かしい明日を待とうと篝火などものものしく焚と厳しく申し渡した。別当はかしこまって、 いた庭前で居眠っている間に意外なことが起った。 「されば他のことは何ごとも仰せ通り計らいますが、中宮 大地震のふるいつづけたような一夜が明け離れた翌朝早の内においでになるのがまことに働きにくうございます。 く、又内裏から催促の使いが来たので、地方から上って来御懐胎中と、 、後こ主上の御気色に触れることを考えま た源氏の武士どもがそっと簀子に登って御簾の中を窺ってすので、よろずが手ぬるくなるのでございます」 いたが、やがて慌てて、検非違使の別当のところへ走って と言った。道長は顔色も変えず、 来た。 「そのことは予が身に引受けて、そち達の咎にはせぬ。中 「怪しからぬこと : : : 内大臣 : : : いや帥どのは内に見えま宮の御姿をかくしまいらせて家探しせよ。憚るな」 せぬぞ。さればこそ昨夜の中に手どり足どりしても車に乗と命じた。 せようと申したのでござる。関白どののお咎めをうけたら ばどうなさるか」 伊周は昨夜木幡にある父の墓所へ別れを告げに忍び出た と、いき巻いて言った。 ので、朝までには帰る筈であったのに、意外に時をとって 別当も驚いて、帥の殿に対面したいと申し入れると、則帰りみちには日がさし昇ってしまった。夕方を待つより他 正が出て来て、 はないと、知るべの女の家に身を隠している間に、二條の 「殿は気分が悪くやすんでいられる : : : 夕方まで待って下邸ではいよいよ家探しが決行されて、行国の心配したよう きざはし さるように」 に諸国の武士どもが検非違使と交って階をおし上り、太刀 かべしろ と相手の顔も見られぬほどうしろめたげに言って、逃げや長巻に憚りもなく寝殿の御簾や壁代を払い上げて、 物るように内へ入った。 「勅諚 : : : 勅諚」 このことを内裏へ奏上すると、帝はまだ夜の御殿にいら と呼びながら、庇の間から母屋まで走りまわって、伊周 み の姿を求めた。 れる時であったが、道長は慌てる気色もなく、 「今は是非なし、宮の内に乱れ入って、天井、塗籠まで毀日頃このような地下の荒武者に顔を見せたこともない中 こ 165