ちゅうこくはつれきししよ し き 中国初の歴史書史記』を書いた しはせん 司馬遷 せん きげんぜん ねん 紀元前 145 ころ ~ 前 86 年ころ ちゅうごくぜんかんじだいれきし か 中国の前漢時代の歴史家。早くから けんきゅう てんした 古典に親しむとともに、歴史の研究を 重ねる。やがて父のあとを継いで亟官 れきしたんとうやくにん ちゅうごくさいしよっう ゆいごんしたが ( 歴史担当の役人 ) になると、遺言に従って中国最初の通 こうふく しようぐん はじ せんねんてき 史『史記』の編さんを始めた。前 99 年、敵に降伏した将軍 りりようべん たんせいきせつだんけい 李陵を弁護して武帝の怒りをかい、男性器切断の刑を受 きゅうてい かんせい けた。しかし、『史記』完成のために恥をしのんで宮廷に ちゅうごく やくせんすうひやくねんれきし せんかん もどり、中国の太古から前漢まで約 2 千数百年の歴史 きでんたい けいしきぜんかん を、紀伝体という形式で全 130 巻にまとめあげた。 そうがくしゅしがく たいせい 宋学 ( 朱子学 ) を大成した しゆき ねん 1 130— 1200 年 ちゅうごくそうだい 中国の宋代の思想家。朱子ともいう。 ごうかく やくにん 19 歳で科挙に合格して役人となり、そ じゅがく さいやくにん のかたわら儒学を学ぶ。 28 歳で役人を がくもんせんねん しゅうとんい じゅがくそうごう や 辞めて学問に専念し、周敦頤らの儒学を総合して宋学 ばんぶつき しゅしがく たいせい けいせい ( 朱子学 ) を大成。万物は気によって形成されるが、天 き むす から与えられた理が備わっており、理と気が結びついて せかいちつじよ 世界の秩序が保たれるとした。また、君主と家臣はそれ ほんぶんただ しやかいちつじよ ぞれの本分を正すことで社会秩序が保たれると説き、朝 えいきようあた せんにほん おお 鮮や日本にも大きな影響を与えた。 きんだいこうりしゅぎてつがくはじ 近代合理主義哲学を始めた デカルト ( ルネ = ) ねん 1596 ~ 1650 年 てつがくしやすうがくしゃ フランスの哲学者・数学者。法律家 ころざ がくもん つ の家に生まれ、学問を志したが、当時 しはい 学界を支配していたキリスト教のスコ ラ学に不満をもつようになり、各国を転々として占然科 ねんほうほうじよせつ がくてつがく こうさつふか あらわ 学や哲学の考察を深めた。 1637 年『方法序説』を著して、 かんじよう にんげん りせい かがくてき かんかく 感覚や感情ではなく人間の理性によって科学的に真理 きわ ごうりろんとな すべうたが さい を究めようとする合理論を唱えた。全て疑い、最後に残 そんざい しゆっぱっ おも じふん った自分という存在から出発しようとした「われ思う、 ことばゆうめい ゆえにわれあり」の言葉は有名。 うちゅう はっぴょう 「ハーシェルの宇宙」を発表した ハーシェル ( フレデリック = ) 1738 ~ 1822 年 イギリスの天文学者。ドイツで音楽 ねん 家の家に生まれる。 1757 年イギリスに えんそうか わた 渡りオルガン演奏家となるが、そのか じさくおおがたばうえんきよう かんしん たわら自作の大型望遠鏡で子どものころから関心のあ ねんみちわくせい てんたいかんそく った天体観測に打ち込む。 1781 年、未知の惑星であった てんのうせい ごうけい せいうんせいだん はつけん ねん 天王星を発見し、 1802 年には合計 25 固もの星雲・星団 せいうんせいだんもくろく あらわ かくにん の位置を確認し、『星雲・星団目録』を著した。さらに 全天の星の分布と距離を計覽して区画毎に集計し、「ハ はっぴょう てんたい よ ーシェルの斈宙」と呼ばれる天体の体系を発表した。 か さいきんがくちち 「細菌学の父」といわれる コッホ ( ロベルト = ) ねん 1843 ~ 1 9 1 0 年 さいきんがくしゃ ちほう ドイツの細菌学者。地方の医師とし けんびきようたよ っと て勤めるかたわら、顕微鏡を頼りに炭 けんきゅう ねんたんそきんはつけん そびよう 疽病を研究し、 1876 年に炭疽菌を発見。 さいきんせんしよくじゅんすいばいようはう かいはつ でんせんびよう 細菌の染色や純粋培養法を開発して、伝染病にはそれ しようめい つつ′ ねん とくていびようげんきん ぞれ特定の病原菌があることを証明した。続いて 1882 年 けっかくきんよくねん きんはつけん ねん に結核菌、翌年にはコレラ菌を発見。 1890 年にはツベル ねんいこう でんせんびよう はっぴょう わだい クリンを発表して話題となる。 1891 年以降は、伝染病 しょだいしょちょうしゅうにん けんきゅうじよ けんきゅうじよ 研究所 ( コッホ研究所 ) の初代所長に就任し、日本の きたさとしばさぶろう さいきんがくしやそだ おお 北里柴三郎など多くの優れた細菌学者を育てた。 ちどうせっとな 地動説を唱えた コペルニクス ( ニコラウス = ) 1473 ~ 1543 年 せいしよくしや てんもんがくしやかく ポーランドの聖職者、天文学者。各 だいがくてんてん しんがくすう 地の大学を転々としながら、神学や数 とくてんもんがく 学、医学などを学ぶ。特に天文学に打 てんどうせつあやま き ち込み、古代から信じられてきた天動説の誤りに気づい ちきゅうたいよう まわ ちどうせつしん て、地球が太陽の周りを回っているという地動説を信じ いしやばくし っと るようになった。その後、医者や牧師として勤めるかた けんきゅうすす ちどうせつかくしん てんたいかんそくつづ わら、天体観測を続けて研究を進め、地動説を確信した てんどうせつ きようかいおし が、天動説をとる教会の教えに反するものだったため、 しちよくぜん 爿イナ 死の直前まで公にすることはなかった。 へいわねが こくさいこ 平和を願って国際語をつくった サメンホフ ( ラザロ = ルドウィック = ) ねん 1859 ~ 1 9 1 7 年 はつあん 工スペラント語を発案したポーラン こきようとうじ がんかい ドの眼科医。故郷は当時ロシア領で、 ことばっか さまざまみんぞく 様々な民族が、それぞれの言葉を使っ た てくらしていたため、いさかいが絶えなかった 。っし こくさいきようつう かんきようそだ だれ つうあ かんたん た環境で育つうち、誰もが通じ合える簡単な国際共通 はっぴょう げん 【ナつし一 ねん 語をつくろうと決意し、 1877 年に国際語を発表。この言 はっぴょうじ 語は発表時のペンネームからエスペラント語と呼ばれ、 めいじじたいふたばていし せかいひろ その後、世界に広まった。日本では明治時代に二葉亭四 めいふきゅうつ げんざいおお かいいん 迷が普及に尽くし、現在も多くの会員がいる。 てんねんとうよぼうほうかいはつ 天然痘の予防法を開発した ジェンナー ( 工ドワード = ) ねん 1749 ~ 1823 年 し一し一ん力、し、 イギリスの医師。 1773 年に医院を開 しゅぎようじたい いちどぎゅうとう ぎようご 業後、修業時代に聞いた「一度牛痘 びようき てんねんとう ( 天然痘に似たウシの病気 ) にかかっ てんねんとう はなし てんねんとうよ ひと た人は、天然痘にかからない」という話から、天然痘予 ねんぎゅうとうかんじゃ けんきゅうすす 防の研究を進める。 1796 年、牛痘患者からとったうみ じつけん てんねんとう つ を子どもに植えて実験し、天然痘にかからないことを実 ぎゅうとうせっしゅはう あんぜんてんねんとう よほうほう 正した。この牛痘接種法は、安全な天然痘の予防法とし おお ひとびとてんねんとう きゅうそくせかいひろ て急速に世界に広まり、多くの人々を天然痘から救う めんえきがく きばん とともに、その後の免疫学の基盤ともなった。 はや れきし かん つ し、カ、 ぶてい 0 - リノタッ ねん しゅし ち まな つ まな いがく がく そうがく てん まわ り りそな くんしゅ ちょう と はん ほう丿つか とうじ し、ん V ン がっかい こくさい よ にほん / ン第 ねん てんもんがくしゃ ん お つ か し、ん つ し一三ロ たいけい 45 9
しんにゆう 侵入してきたローマ兵 ゆかすけいかげお が床の図形に影を落とす と、「私の図を乱すな ! 」 とどなったという。 へい - つ - つ、 ねんかん きんかい おうきゅう たローマ軍は、 3 年間もシラクサを包囲し続けま 王宮ではさっそく、王冠と、同じ重さの金塊 まちしんにゆう きげんぜん ねん おうかんきん かる したが、紀元前 212 年、ついに町へ侵入しました。 が用意されました。もしも王冠に金よりも軽い だいすうがく じぶん ばあいおうかんたいせききんかい ぎん ローマの将軍は、自分たちを苦しめた大数学 銀が混ざっていた場合、王冠の体積は金塊より さいのうみと みずなか ぶんかる おお 者アルキメデスの才能を認め、殺さずに保護す も大きくなり、水の中ではその分軽くなるはす めいれい あんじようすいちゅうおうかんきんかい かる るように命令を下していたのですが、それを知 です。案の定、水中の王冠は金塊よりも軽く、 いちへいし みごとあば ふせい らない一兵士が切り殺してしまいました。 この 不正は見事に暴かれました。 っぇ すな しんへいきかいはってんさいすうかくしやさいこ ときもアルキメデスは、床にまいた砂の上に図 ・新兵器の開発と天才数学者の最期 もんだい すうがく ちよくぜん えが しんおう 形を描き、殺される直前まで、数学の問題に夢 ヒ工ロン王が亡くなると、その孫が新王となり、 ちゅう ぐん きようりよく あらそ はじ 中になっていたといいます。こうして、ギリシア ローマと争いを始めました。強力なローマ軍の攻 てき みかた てんさいすうがくしゃ だいひょう じよりよく げき しんおう を代表する天才数学者は、敵からも味方からも 撃に、新王はアルキメデスに助力を求め、強力 ねんしようがい しんへいき かいはつ 惜しまれつつ、 75 年の生涯を閉じました。 な新兵器を開発して対抗しました。攻めあぐね ぐん おなおも おうかん しようぐん ほ ゆか おう きようりよく しんべいき アルキメデスの新兵器 ぐんたたか アルキメテスは、ローマ軍と戦 かずかずかっき うシラクサのために、数々の画期 てききようりよくへいき はつめい 的で強力な兵器を発明した。てこ とうせき の原理を利用して石を投げる投石 てきぐんふねつ みなと 機や、港から敵軍の船を釣り上げ おうめんきようたいようこう きょだいてつ る巨大な鉄かぎ、凹面鏡で太陽光 ふねやそうち てき あっ を集めて敵の船を焼く装置などの 兵器は、ローマ軍を苦しめた。敵 ふね の武将マルケルスは、大きな船を かるがる 軽々ともてあそぶアルキメデスを たた きかがくきよじん 「幾何学の巨人」と讃えたという。 げんり てこの原理でローマ軍の大き ふねつあ な船を釣り上げるシラクサ軍 げんり りよう てき ぐんくる へし、き おお ふしよう ぐんおお ぐん
と にんげんかんが はんぶつこんげんかず とな 「人間は考える葦である」と説いた 「万物の根源は数である」と唱えた バスカル ( ブレーズ = ) ピタゴラス ねん きげんぜん せん ねん 1623 ~ 1662 年 紀元前 582 ころ ~ 前 497 年ころ すうがくしゃふつりがくしゃてつがく すうがくしゃてつがくしゃ フランスの数学者・物理学者・哲学 古代ギリシアの数学者・哲学者。ェ きかがくていり ほうせきちょうこくし 者。 12 歳でユークリッド幾何学の定理 ーゲ海のサモス島で宝石彫刻師の子 どくりよくかんが えんすいきよくせん いちじちち つ を独力で考え、 17 歳で円錐曲線につい として生まれ、一時父の仕事を受け継 こうさつはっぴょう てんさい しはいしやたいりつ ての考察を発表するなど、天才ぶりを発揮。その後、真 いだ。しかし、その後、島の支配者と対立し、 70 歳ごろ くうきおも じつけんおこな ねんみつべい しゅうだんみなみ し、じゅう よげん 空や空気の重さについての実験を行い、 1653 年「密閉し に集団で南イタリアのクロトンに移住する。そこで預言 ようき なかえきたいあつりよく きせきおこな ぶふん いっていはたら しゅうきようひら ばんぶつ た容器の中の液体の圧力は、どの部分でも一定に働く」 や奇跡を行ってアポロンをまつる宗教を開き、万物の はっぴょう げんり こんげんかす すうがくてんもんがくおんがく てつがく とする「パスカルの原理」を発表した。また、哲学では 根源は数であるとして弟子たちと数学や天文学、音楽を あらわ にんげんむげん けんきゅう せいためんたいえが 『パンセ』を著し、「人間は無限な斈宙の中では、考える 研究し、「ピタゴラスの定理」や正多面体の描き方など、 あし よわそんざい おお 葦のような弱い存在である」と説いた。 多くの成果を残したといわれている。 うちゅうほうちょう とな えいきゅうふへん おもと 「宇宙は膨張している」と唱えた 永久不変のイデアを追い求めた ハップル ( ェドウイン = バウェル = ) プラトン ねん きけんせん ぜん ねん 1889 ~ 1953 年 紀元前 427 ころ ~ 前 347 年ころ てんもんがくしや だいがく てつがくしゃ アメリカの天文学者。シカゴ大学を 古代ギリシアの哲学者。アテネの名 そっぎようごべんごし てんもんがく かんしん もん つ 卒業後弁護士となるが、天文学に関心 門に生まれ、 20 歳ごろソクラテスの弟 ねん てんもんたい むじつつみ を抱き、 1914 年からャーキス天文台や 子となるが、ソクラテスが無実の罪で さんてんもんだいてんたいかんそくつづ かくちてんてん ぜん ウイルソン山天文台で天体観測を続ける。そうした中で 処刑されると、アテネを離れて各地を転々とした。前 387 ぎんがけいいがい ちゅうもく はしばし とお ぎんが がくえん ひら つ 銀河系以外の星々の動きに注目し、遠くにある銀河ほど 年ごろアテネにもどり、アカデメイア ( 学園 ) を開いて ぎんがけい とお はや はつけん てつがくおし かんが げんじつ 速いスピードで銀河系から遠ざかっていることを発見。 アリストテレスらに哲学を教えた。その考えは、現実の ねん ひれい えいきゅうふへん せかい りそうてきじつざい 1929 年、その速度と距離は比例するとする「ハップルの 世界はイデアの影であり、永久不変の理想的実在であ ほうそく はっぴょう ばうちょう じつげん てつじんせいじ にんげんしやかい 法則」を発表し、のちに于由が膨張しているというビ るイデアを実現しようとする哲人政治こそが、人間社会 りろん こんきょ ッグバン理論の根拠となった。 を救うというものであった。 じようけんはんしや かんが かくりつ きようひら 「条件反射」という考えを確立した イスラム教を開いた バブロフ ( イワン = ペドロビッチ = ) マホメット 1849 ~ 1936 年 570 ころ ~ 632 年 せいりがくしやりくぐんぐんいがっこうそっ きようかいそ ロシアの生理学者。陸軍軍医学校卒 イスラム教の開祖。ムハンマドとも じゅういがくけんきゅうじよせいりがくけんきゅつじよ ぎようこ 業後、獣医学研究所生理学研究室の助 いう。サウジアラビアのメッカで生ま りゆうがく りようしんうしな たいしようさんか おさな 手となる。その後ドイツに留学し、帰 れ、幼くして両親を失う。隊商に参加 ぐんいがっこうきようじゅ ねんじつけんいがくけんきゅうじよしゅ さまざましゅうきようであ かくち 国後軍医学校教授となり、 1891 年に実験医学研究所主 して各地を旅するうち、様々な宗教と出会い、 40 歳ごろ じゅんかんきせいりがく けんきゅう にんむか さんちゅうしゅぎようちゅうかみ 任に迎えられる。初めは循環器生理学を研究していた 山中で修行中に神アッラーの声を聞いて預言者となる。 しようかきせいりがくてん せいしんじよう しげきしようかき かみ ことば 神の言葉を『コーラン』にまとめ、イスラム教を開いて が、のちに消化器生理学に転じ、精神上の刺激が消化器 えし、きよう けんきゅう せいりがくいがくしようじゅしよう かみ せったいふくじゅう はくがい に与える影響を研究してノーベル生理学医学賞を受賞 神への絶対服従を説いた。 622 年、貴族の迫害を受けて たいのうせいり けんきゅう きよてんしんじゃ ふ した。さらに、大脳の生理について研究し、イヌを用い メディナに移り、以後、そこを拠点に信者を増やしてア じつけんじようけんはんしゃ かくりつ はんとうぜんたいせいりよくひろ た実験で条件反射という考えを確立した。 ラビア半島全体に勢力を広げた。 すいせいしゅうきうんどうはつけん いでんほうそく 「遺伝の法則」を発見した 彗星の周期運動を発見した メンデ ) レ ( グレゴール = ) ハレー ( ェドモンド = ) ねん ねん 1656 ~ 1742 年 1822 ~ 1884 年 てんもんがくしゃ しよくふつがくしやまず イギリスの天文学者。ロンドンの富 オーストリアの植物学者。貧しい農 し、え てん 豪の家に生まれ、子どものころから天 家に生まれ、古学してチェコの聖トマ もんすうがく きようみ せかいかくちてん しゅうどういんはい りかきようし 文・数学に興味をもち、世界各地で天 ス修道院に入る。やがて理科教師をめ ねんだいすいせい たいかんそくおこな かんそく しけんしつばい ねん しゅうどういんにわ ちよくこ 体観測を行う。 1682 年、大彗星を観測して、それがほば ざしたが、試験に失敗。その直後の 1865 年、修道院の庭 いっていしゅうきあらわ し ねん一 いでんけんきゅうかいし せいしつ つ 一定の周期で現れることを知り、 76 年後に現れることを にエンドウを植えて遺伝研究を開始する。異なる性質 すいせい よげん ほうそくつぎせたい し、ってし、 予言した。その後、ニュートンに弟子入りして彗星の軌 のエンドウを交配させると、一定の法則で次の世代に遺 どうけいさん しゆっぱん でん はつけんがっかいし はっぴょう とうじちゅうもく 道計算を試みる一方、ニュートンカ学についての出版 伝することを発見。学会誌に発表したが、当時は注目 かつどう ねんたいすいせい よげんどお し ねん さいはつけん 活動を支援した。ハレー死後の 1758 年、大彗星は予言通 されす、死後の 19 開年、ド = フリースらに再発見され、 ふたたあらわ すいせい ほうそく 「メンデルの法則」と名付けられた。 り再び現れ、ハレー彗星と名付けられた。 つ つ ていり かんが と せいかのこ めい 1 で し 【身彡 しよけい ねん なか そくど ねん ねん さい き よげんしゃ きようひら きぞく と もち かんが はつけん つ か せい あらわ き こうはい でしい りきがく いっぽう し 46
すうがくおうじゃ けいざいがくちち 「数学の王者」といわれる 「経済学の父」といわれる 力、ウス ( カール = フリードリヒ = ) アダム = スミス ねん 1777 ~ 1855 年 1723 ~ 1790 年 すうがくしゃおさな けいざいがくしやどうとくてつがくしや ドイツの数学者。幼いころから並外 イギリスの経済学者・道徳哲学者。 はっき だいがくじだい けいさんのうりよく だいがく りんりがくてつがくおし れた計算能力を発揮し、大学時代には、 グラスゴー大学で倫理学と哲学を教 えが じようぎ せいかつけい どうとく ねんかんこう こうぎきろく え、 1759 年に刊行した講義記録『道徳 定規とコンパスだけで正 17 角形を描く ふかのう ていせつくつがえ ほうはうしようめい かんじようろん じゅうめいせいひろ 方法を証明して、古代から不可能とされてきた定説を覆 感情論』でヨーロッパ中に名声を広める。その後、大 すうがくあたら けんじつけんきゅうつづ はっぴょう ぶんや がくや こくふろん しょこくみん とみ ねん 学を辞めて、 1776 年に『国富論』 ( 『諸国民の富』 ) を発表。 した。その後も堅実な研究を続けて、数学の新しい分野 こうせきのこ かすおおかいたくすうがく はってんおお かんり はじ しほんしゅぎしやかい たいけいか こっか を数多く開拓、数学の発展に大きな功績を残した。また、 初めて資本主義社会を体系化し、国家の管理を廃した、 はんえい 天文学では小惑星の軌道計覽、物理学では測地学や電磁 ひとびと じゅう けいざいかつどう こっ力、 人々の自由な経済活動こそが、国家の繁栄につながると ぎようせきおお じりよくあらわたん きがく すうがくいがいすぐ いう「自由放住主義」を説いて占由主義経済学を完成、 気学など、数学以外の優れた業績も多い。磁力を表す単 かれな てんはけいざいがくひら いガウス 位 G は、彼の名にちなんだものである。 古典派経済学を開いた。 しゅうきようかいかく すす ばんがくそ がくもんたいけい 宗教改革をおし進めた あらゆる学問を体系づけた万学の祖 カルバン ( ジャン = ) アリストテレス ねん きげんぜん ぜん 1509 ~ 1564 年 紀元前 384 ~ 前 322 年 しゅうきようかいかくしゃ ねん さいだいてつがくしゃ フランスの宗教改革者。 1533 年、カ 古代ギリシア最大の哲学者。 17 歳か えんぜっおこな ひてい てつがくしゃ やくねんかん トリックを否定する演説を行ってフラ ら約 20 年間にわたってアテネの哲学者 かくちてんてん ねんとうじ お ぜん さい ンスを追われる。各地を転々としなが プラトンに学ぶ。前 343 年、当時 13 歳 かんこう きようこうよう ひとせいしょ ねん おうじ ら 1536 年に『キリスト教綱要』を刊行、人は聖書に書か のマケドニア王子アレクサンドロスの家庭教師となっ ことばふくいん ふくいん てつがくれきしせいじがく かみ おし れた神の言葉 ( 福音 ) によってのみ救われるという福音 て哲学や歴史、政治学などを教える。その後、アテネに まね しゅぎ けんきゅうばっとう がっこうひら はん 学校を開いて誨義と研究に没頭したが、反マケドニア運 主義を唱えた。その後、スイスのジュネープに招かれ、 しゅうきようかいかくつ きんろ、 ちょちく どうし さんだんろんばう かくりつ な お 同市の宗教改革に尽くした。勤髣と貯蓄をすすめる彼 動でアテネを追われて亡くなった。三段論法を確立した しみんかいきゅう し しぜんかがくせいじがく しがく ろんりがく りんりがくてつがく の教えは、特に市民階級に支持され、死後、プロテス 論理学や、倫理学、哲学のほか、自然科学や政治学、詩学 じゅうひろ いつば しよがくもんきそきず タントの一派としてヨーロッパ中に広まった。 など、その後のヨーロッパの諸学間の基礎を築いた。 かんねんろんかくりつ たいりくいどうせっとな ドイツ観念論を確立した 大陸移動説を唱えた カント ( イマヌエル = ) ウ工ゲナー ( アルフレート = ロタール = ) ねん ねん 1724 ~ 1804 年 1880 ~ 1930 年 てつがくしゃ きしようちきゅうぶつりがくしゃみなみ ドイツの哲学者。ケーニヒスプルク ドイツの気象・地球物理学者。南ア 大学で数学・占然科学・哲学を学び、 たいりく たいりく かいがんせん メリカ大陸とアフリカ大陸の海岸線 かがくてき はじ たいせいよ、 が、大西をはさんでびったり合わさ のちに母校の講師となる。初め科学的 ねんだい , 1 , 彎 : ) んは・。びよう てつがくてん たいりくぶんれつ おお 于由論を発表したが、 1760 年代から哲学に転じる。人 ることから、もともと 1 つの大きな大陸が分裂、移動し かんせいてきけいけん けんかいあき げんにんしき げんざい かくたいりく ちしつ せい かんが 間の認識の限界を明らかにし、それまでの感性的経験を て現在の各大陸になったと考えた。各大陸の地質や古生 おも けいけんろん せつうらづ ねんたい おも きようつうてんちょうさ ぶつ 重んじるイギリスの経験論や、理性だけを重んじるフラ 物などの共通点を調査してこの説を裏付け、 1912 年に大 じゅう じんかく ごうりろんひはんてつがく どくりつ たいりくいどう げんどう ) よく はっぴょう りくいどうせつ ンスの合理論を批判。哲学は独立した自由な人格をもつ 陸移動説として発表した。しかし、大陸移動の原動力が けいけんろん ごうりろん にんげん がくもん ねん とうじ し かいめい つ 人間のための学問であるべきだとして、経験論と合理論 解明できなかったため当時は受け入れられず、死後 20 年 かんねんろんかくりつ せいとうせいみなお を統合してドイツ観念論を確立した。 あまりたってようやく正当性が見直された。 きんだいけいざいがくかくりつ じんぶんがくしゃ だいひょう 近代経済学を確立した ルネサンスを代表する人文学者 ケインズ ( ジョン = メイナード ) 工ラスムス ( テシデリウス = ) ねん ねん 1883 ~ 1946 年 1466 ~ 1536 年 けいざいがくしゃだいいちじせかいたい じんぶんがくしやしんがく てんまな イギリスの経済学者。第一次世界大 オランダの人文学者。神学や古典を学 せかいてき だいふきよう てん こうゆうふか せん 戦後の世界的な大不況のなかで、古典 び、思想家トマス = モアらと交友を深め はけいざいがく じゅうほうにんしゅぎ ひはん げんてんけんきゅう せいしよ 派経済学の自由放任主義を批判。 1936 ながら、聖書の原典を研究する。 1509 しつぎよう いつばんりろん あらわ そうりよおうこうきぞく ねん こよう ねんてつがくしゃ しんがくしゃ 年に『雇用・利子および貨幣の一般理論』を著し、失業 年、哲学者や神学者、カトリックの僧侶や王侯貴族の堕 をなくすためには、国家が積極的に公共竈業を進めて はっぴょう かくち きび ぐしんらいさん らく ひはん 落を厳しく批判した『愚神礼賛』を発表、ヨーロッパ各地 しゅちょう りろん じゅうよう えいきようあた しゅうきようかいかく うんどうおお 雇用をつくりだすことが重要と主張した。この理論は、 のルネサンス運動に大きな影響を与え、宗教改革のひ おお しゅうきようかいかくうんどう げきか けいざいがく かくめい せかい 世界の経済学に「ケインズ革命」と呼ばれるほどの大き きがねとなった。しかし、ルターの宗教改革運動が激化 せかいつうかききん たいにじせかいたいせん ろんそう しようげきあた へいわしゅぎ たちば たいりつ な衝撃を与えた。第二次世界大戦後は世界通貨基金 すると、平和主義の立場からルターと対立し、論争をく せかいぎんこうせつりつじんりよくしょだいそうさい しゅうにん きんだいじゅうしゅぎしそうせんくしゃ ( 川 F ) 、世界銀行の設立に尽力、初代総裁に就任した。 り広げた。近代自由主義思想の先駆者といわれる。 44 なみはす ねん まな か かていきようし とな おし こ一三 かくたいりく りせい し、 よ ひろ
げんばくとうか 原爆投下を知ったアインシュタインは「ああ」 ことばうしな とつぶやいたきり、しばらく言葉を失った。 せんげんしよめい にんがくしやひとりゆかわひできかた ラッセルーアインシュタイン宣言に署名した 8 人の学者の 1 人、湯川秀樹と語らう。 にんげんひとみ しんどうひかり かん げんしばくだんそうたいせいりろん と呼びます。人間の瞳はその振動で光を感じる いう情報が入りました。原子爆弾は相対性理論 こうそく ひかりなみ はつあん きようりよく ばくだん せんそう きら のですが、光を光速で追いかけたとき、光の波 をもとに発案された強力な爆弾です。戦争を嫌 せいし とおす ざんぎやく が静止して見えるとすると、通り過ぎることの ったアインシュタインも、ナチスの残虐な行為 しんどうすう はやげんしばくだんかい ない振動数 0 の光は、纛じられなくなってしま を止めるには、ナチスよりも早く原子爆弾を開 かんが かいはっと います。そんなはずはないと考えたアインシュタ 発するしかないと考え、アメリカでの開発に取 こうそく だれ かくしん ばくだんかんせい インは、光速は誰から見ても一定なのだと確信 り組みました。しかし、その爆弾が完成したの もんだいかんがつづ ねん こうふく ねん とうか じっさい しました。そして、この問題を考え続けて 10 年 は 1945 年のドイツ降伏後で、それが実際に投下 こうそく はや いどう せかい 後、光速に近い速さで移動する人から見た世界 されたのは日本だったのです。アインシュタイ こうそく くうかんじかん し、ってし、 ンは、らの理論が数十万人の市民の命を奪う では、光速を一定に保っために、空間や時間が のちぢ とくしゅそうたいせいりろんはっぴょう かな せん 伸び縮みするのだとする特殊相対性理論を発表 結果となったことを悲しみました。そして、戦 ねんいつばんそうたいせいりろん かんせい かがくせんそう はんたい ・つ - つ、 しちよく し、 1915 年に一般相対性理論として完成させた 後は科学の戦争への利用に反対し続け、死の直 じぶんそうたい ぜん てつがくしゃ のです。のちにアインシュタインは、自分が相対 前には、イギリスの哲学者ラッセルとともに核 せいりろんはつけん りゆう はいぜっうった せんげん 性理論を発見した理由をこう語っています。「普 廃絶を訴えるラッセルーアインシュタイン宣言 つうひと わす じかんくう しよめい かくはいぜっ みち 通の人が子どものころに忘れてしまう時間や空 に署名し、核廃絶への道しるべを残しました。 かん ふしぎ おとな 間についての不思議を大人にな かんが っても考えていたから、ほかの ひと もんだい ふか 人よりも深く問題を追究するこ とができたのです。」 だいにじせかいたいせんげんしばくだん 0 第ニ次世界大戦と原子爆弾 ねん 1930 年ころになると、祖国ド ひき イツではヒトラーの率いるナチ せいりよくつよ じんはく スが勢力を強め、ユダヤ人の迫 カゞし、 害を始めました。ユダヤ人で、 へいわしゅぎしゃ 平和主義者だったアインシュタ こうぜんひなん インは、ヒトラーを公然と非難 ねん してドイツを追放され、 1933 年 にアメリカに移住しました。第 にじせかいたいせんはじ 二次世界大戦が始まると、ナチ げんしばくだんかいはつはじ スが原子爆弾の開発を始めたと じようほう はい ひかり ひかり カん かんが はつ いってし、 ちか ひと にほん けっか りよう てんさい すがお 天才アインシュタインの素顔 ついきゅう てんさい せかいじゅうなまえ 天才として世界中に名前を知 られたアインシュタインだった すがお が、その素顔はユーモアを好み、 おんがくあい そぼく けんい 音楽を愛し、権威を嫌う素朴な ひと たの きんじよ 人だった。頼まれれは近所の子 きかがくしゆくだい きやすて どもの幾何学の宿題を気安く手 つだ ぜんもんせいかい 伝い、それも全問正解ではなか てがみ ったという。手紙が好きで、科 がくしゃなかま せかいじゅう 学者仲間をはじめ、世界中の子 みすか てがみ どもたちから届く手紙にも自ら 返事を書いていた。 えんそう バイオリンを演奏する アインシュタイン。 きら はじ とど ついほう へんし いじゅう
びようどうしやかいにんげんじゅう せいせんせつ 平等な社会と人間の自由を説いた 「性善説」による王道政治を説いた もうし 孟子 ) レソー ( ジャン = ジャック = ) ねん きげんぜん せん 1 712 ~ 1778 年 紀元前 372 ころ ~ 前 289 年ころ けいもうしそうか ちゅうごくせんごくじたい 中国の戦国時代の思想家。孔子の孫 フランスの啓蒙思想 ~ 。 豕スイスのジ もんじんじゅがく まな すうねんかんほう の子思の門人に儒学を学ぶ。のちに数 ュネープに生まれ、 16 歳から数年間放 かっこくめぐ たびで もんじん ひ 百人もの門人を引き連れて各国を巡 浪の旅に出たのち、パリに出てデイド けいもうしそうか こうゆうぶんびっせいかつはい えきせいかくめい しょこうおうどうせいじ り、諸侯に王道政治と易姓革命を説いた。その考えは、 ロらの啓蒙思想家と交遊、文筆生活に入る。 1755 年に にんげんふびようどうきげんろん せいじ にんげんはんしようせん せいぜんせつ 『人間不平等起源論』、 1762 年には『社会約論』『エミ 人間の本性を善とし ( 性善説 ) 、徳のある政治によって あらわ ふびようどう ふせんひとぜんか しやかい きようわせい じつげん ひはん 不善の人も善に変わり、徳のない君主はやがて徳のある ール』を著して不平等な社会を批判し、共和制の実現 ふりよく にんげんじりつと ものたお かんけんお み 者に倒されるというものであった。しかし、武力によっ や人間の自立を説いて官憲に追われる身となった。その しつばい びようどう にんげん てんか しやかい じゅう つったつつ・ て天下をねらう諸侯たちに受け入れられず、失敗。やが 後も平等な社会と人間の自由を訴え続け甲相・ 、ツ L ム、バン、 - ノ : ヾ じゅっきよういく こきようかえ もんじんいくせいせんねん えいきようあた て故郷に帰り、門人の育成に専念した。 術・教育などに大きな影響を与えた。 さんけんぶんりつ とな みちほうしやせん はじ せん はつけん 初めて「三権分立」を唱えた 未知の放射線「 X 線」を発見した モンテスキュー ( シャルル = ) レントケンウイルヘルム = コンラード = ) ねん ねん 1689 ~ 1755 年 1845 ~ 1923 年 けいもうしそうか ふつりがくしやせいごすうねん フランスの啓蒙思想家。地方貴族の ドイツの物理学者。生後数年でオラ ほうりつまな たいがく こうかたいがくそっ つ 家に生まれ、ボルドー大学で法律を学 ンダに移住。チューリヒ工科大学を卒 ぎようご しゆとく かくち たいがくこう 業後、博士号を取得し、各地の大学講 んで弁護士となる。のちにボルドー ねんせったいおうせいか しやかいふう きようじゅれきにん ねんいんきよくせんけんきゅうちゅうぐうぜん とうほういんいんちょう 等法院の院長となるが、 1721 年、絶対王政下の社会を風 師や教授を歴任する。 1895 年、陰極線を研究中に偶然 あらわ ふっしっとおぬ せいしつ ほうしやせん はつけん てがみ 刺した『ベルシア人の手紙』を著して人気を得る。 1725 物質を通り抜ける性質をもっ放射線があることを発見。 ねんいんちょう かくち たび ほうしやせん せんなづ しっぴっ 年、院長をやめてヨーロッパ各地を旅し、帰国後、執筆 それまで未知の放射線だったことから、 X 線と名付けら さんけんぶんりつおうけんせいげん せんけんこうしんだんようせんさつえい ねん せんねん に専念。 1748 年、『法の精神』で三権分立と王権の制限 れた。のちに、 X 線は健康診断用 X 線撮影をはじめ、多 こうせき がっしゅうこくけんほう かんが ぶんや を説くと、その考えは、のちのアメリカ合衆国憲法や くの分野で利用されるようになった。その功績により、 えいきようあた ふつりがくしようじゅしよう かくめいおお ねん フランス革命に大きな影響を与えた。 1910 年ノーベル物理学賞を受賞した。 かせきじんこつはっくつ どうかしそうひら さいこ 最古の化石人骨を発掘した 道家思想を開いたといわれる ろうし 老子 リーキー ( ルイス = ) せいほっねんふしよう ねん 1903 ~ 1972 年 生没年不詳 じんるいがくしゃ じんばくし だいちゅに一くせんごくじたい 古代中国の戦国時代の思想家。『老 ケニアの人類学者。イギリス人牧師 せいふつがく どうかしそうひら の子としてケニアで生まれ、古生物学 子』を著して道家思想を開いたとされ じつざい ねんいこうひがし かくち じんふつ まな を学ぶ。 1926 年以降、東アフリカ各地 ているが、実在の人物ではないという きゅうせつきぶんか いせき はっくっちょうさおこな ろうし 、ちゅうにんげんちからおよ せんしじたい 説もある。『老子』によれば、斈宙は人間のカの及ばな で先史時代の遺跡の発掘調査を行い、特に旧石器文化 い占然の「道」によって支配されており、それに逆らわ の研究に大きな成果をもたらした。 1931 年からは、妻 そんちょう むす おし ずに自由に生きることを尊重した。その教えは荘子に メアリーや息子リチャードの協力でオルドバイ谷の遺 みんかんしんこう ーかん せきちょうさおこな つ よって受け継がれ、さらに民間信仰と結びついて、後漢 跡調査を行い、アウストラロヒテクスやホモーハビリス しゅうきよう ひろみんしゅうあいた かせき はっくつ よ とうしさい 時代末期には道教と呼ばれる宗教として広く民衆の間 など、当時最古とされた古人類の化石を発掘して人類の けんきゅうおお で信仰されるようになった。 進化の研究に大きく貢献した。 じんみんしゆけんきそきず しよくぶつぶんるいがくきそきず 人民主権の基礎を築いた 植物分類学の基礎を築いた ロック ( ジョン = ) リンネ ( カール = フォン = ) ねん ねん 1632 ~ 1704 年 1707 ~ 1778 年 しよくふつがくしゃ 近代イギリスの思想家。大学在学中 スウェーデンの植物学者。ルンド大 に医学・占然科学・哲学を学び、 1667 たいがくしよくぶつがく 学で医学、ウブサラ大学で植物学を学 ねんはんおうばうどう さんか 年、反王暴動に参加してオランダへ亡 び、 1735 年、オランダで医学の学位を にんげんちせいろん ぐたいてき けいけん こうふつかん はっぴょう しゆとく どうねん どうふつしよくふつ めい 命。そこで『人間知性論』を発表し、具体的な経験の 取得する。同年、オランダで動物・植物・鉱物に関す にんしきぜんてい しゅちょう しゆっぱん かたちしよくふつ つかさ しぜんたいけい る『自然の体系』を出版、おしべとめしべの形で植物 積み重ねこそが知識や認識の前提であると主張した。 ねんめいよかくめい しみんせい ふんるいはう とな ねん たいがくしよくぶつ ねん さらに 1688 年に名誉革命がおこると、 16 年に『市民政 を区別する分類法を唱えた。 1742 年ウブサラ大学植物 あっせいおこなせいふたおけんり あらわ じんみん 学教授となり、 1753 年朝直物の種』で植物を属名と種 ふにろん 府二論』を著し、人民は、圧政を行う政府を倒す権利を がっしゅうこく しゅちょう かくめい 名の組み合わせで分類する二名法を提唱、 1758 年龕然 もっと主張して革命を支持し、のちのアメリカ合衆国 しんけんせんげんえいきようあた ばん どうふつにめいほう かくりつ 憲法やフランス人権宣言に影響を与えた。 の体系 10 版』で動物の二名法を確立した。 と おうどうせいじ と ねん つ ひやくにん と かんが ねん くんしゅ つ おお ちはうきぞく いじゅう し、ん し おお ほうせいしん と あらわ し きようりよく つ じんるい どうきよう じだいまっき じんるい こうけん ・ンイラ こノー、 たいがくざいがくちゅう まな いがく ねん 0 たいけい けんはう 47
こうせかい ・ビーグル号で世界へ ねんがつはくぶつがくしゃ 1831 年 12 月、博物学者ダーウインを乗せた軍 かん 艦ビーグル号は、イギリスのプリマス港から 5 ねん かんそくちょうさ たび とうじ 年にわたる観測調査の旅に出ました。当時 22 歳 てんさいはた がくしゃ だったダーウインは、天才肌の学者というわけ ちい べんきよう ではありませんでした。小さいときから勉強が にがて こんちゅうしよくぶつあっ ねっちゅう ちちおや 苦手で、昆虫や植物集めに熱中し、医師の父親 いがくみち げかしゅ から医学の道をすすめられても、大学の外科手 じゅっじゅぎよう 術の授業が恐くて、すぐにやめてしまいました。 つぎ べつだいがく 次に牧師をめざすようすすめられ、別の大学に はい じぶんかんしん はくぶつがく 入りますが、今度は自分で関心のある博物学の ねっしんかよ あさま 講義にばかり熱心に通うといった有り様でした。 そっぎようむか はくぶつがく ダーウインが卒業を迎えたころ、博物学のヘ きようじゅ ちじんぐんかんかんちょう ンズロー教授は、知人の軍艦艦長からビーグル のわか がくしやしようかい 号に乗る若い学者を紹介してほしいと頼まれま かんちょうせんいん す。このころ、艦長と船員が私語を交わすこと きんし かんちょう がくしやめいもく は禁止されていたので、艦長は、学者の名目で ながたびはなあいて 連れていける長旅の話し相手を探していたので はくぶつがく きようみ ちしきひょうか す。ダーウインの博物学への興味と知識を評価 きようじゅ すいせん していた教授は、ダーウインを推薦します。特 ゆうしゅう おんこう じみち に優秀とはいえないまでも、温厚で、地道なダ ながたびちょうさ ーウインならば、長旅の調査にちょうどいいと かんが 考えたからです。 きげん しゅ せいぶつしんか 『種の起源』で生物の進化を説いた ダーウイン ( チャールズ = ダーウイン ) 1809 ~ 1882 年 ぐん ねん だいがく ほくし / ツ当ゞ こ二二 たの さが ゆうふく いしゃいえう イギリスの裕福な医者の家に生まれ ねん ねんかんかんそくちょうさおこな る。 1831 年から 5 年間、観測調査を行う ぐんかんがくしゃ どうじよう せかいかくちせい 軍艦に学者として同乗し、世界各地の生 ぶつかせきちしっちょうさ きこくご ちち 物や化石や地質を調査した。帰国後は、父 ざいさんう とくしよくつ ちょう の財産を受け継き、特に職に就かずに調 さりよこうあっ ひょうほんせいり けんきゅうしっ 査旅行で集めた標本の整理や、研究、執 ねんしゅ きげん 筆をして過ごした。 1859 年に種の起源 ほんあらわ せいぶつ げんしゅ という本を著し、生物がいくつかの原種 しんか しんかろんはっぴょう から進化したという進化論を発表した。 びつ はくぶつがく 【博物学】 どうぶつしよくぶつこうぶっちしつ しぜんぶつしゆるい 動物、植物、鉱物、地質などの自然物の種類、 ぶんぶせいしつ しら がくもん 分布、性質などを調べる学問。 しよとう 【ガラパゴス諸島】 なんべい せいほうせきどうちょっか しよとうたいりく 南米エクアドルの西方、赤道直下の諸島。大陸 こと どくとくせいぶっそうも しんか と異なる進化を遂げた独特の生物相を持つ。 しそちょう 【始祖鳥】 ちゅうるいおほねちょうるい つばさも は虫類の尾と骨、鳥類のような翼を持つジュラ紀 せいぶっせいぶつしんか しめしようこ の生物。生物の進化を示す証拠の 1 っとされた。 ねんかつにち こう こうしゆっぱっ 1831 年 12 月 27 日、ビーグル号はイギリスのプリマス港を出発した 28
シュバイツアーは、治 りようびよういんけんせつ 療と病院の建設のた まいにちじかんていど め、毎日 4 時間程度の すいみんはたらつづ 睡眠で働キ続けた C—リし C— 0 むし はこ さい ちほう ねん じんせい おんがく 人が命を落としていたのです。シュバイツアー ひといのちお は、ジャングルの虫たちが運ぶ病気で、多くの おお びようき ていることを知りました。赤道直下のガポンで せきどうちょっか アフリカ奥地のガポン地方で、医者を必要とし いしやひつよう おくち 30 歳が近づいた 1904 年、シュバイツアーは、 ちか ・アフリカへの旅立ち たびだ うものでした。 の後は、人々への奉仕に人生をささげようとい ひとびと になるまでは、大好きな音楽と学問を続け、そ がくもんつづ だいす ふさい つま かん いがく いりよう いた診療所の建設をあきらめ、 けんせつ しんりようじよ ねていました。 2 人は、予定して よてい ふたり は、噂を聞いた患者たちが列を連 つら れつ うわさ かんじゃ 夫妻がガポンに着くと、翌日に よくじつ ・「オガンガ」と呼ばれて フリカに旅立ちました。 たびだ ァーは、 38 歳の年、妻とともにア としつま そして、医師になったシュバイツ と、自分も看護婦をめざしました。 じぶんかんごふ ネはシュバイツアーの夢を知る ゆめ ヘレーネと出会いました。ヘレー であ 部に入り、そこでのちに妻になる 事だと感じ、医師をめざして医学 は、それらの医療こそが自分の仕 じぶん やかいぞう しんさつはじ ワトリ小屋を改造して診察を始めました。たし びようきおお かに当時のアフリカには病気が多く、医療が遅 げんいんひと れていました。その原因の一つは、アフリカを しよくみんち 植民地として苦しめていたヨーロッパにもあっ にんげん たのです。シュバイツアーは「人間は、白人も かんが こうどう じぶん 黒人もみな兄弟だ」と考え、自分の行動を「善 つぐな 行」ではなく「償い」なのだと言いました。そ くすりどうぐ ちりようつづ して、持ち込んだ薬や道具で治療を続けるうち げんち まじゅっし いみ に現地で魔術師を意味する「オガンガ」と呼ば もち れるようになりました。麻酔を用いるシュバイ ちりようほう ひとびと どころ ツアーの治療法を、ガポンの人々は「 1 度殺し かえ まじゅっ おも てから生き返らせる魔術」と思ったのです。 へいわ 0 平和のために生きる ねんだいいちじせかいたいせんかいせん 1914 年、第一次世界大戦の開戦でドイツとフ てきたい ランスが敵対すると、フランス領ガポンにいる す、ねん ドイツ人のシュバイツアーは捕らえられ、薮年 せんそう を捕虜として過ごしました。戦争が終わると、 ョーロッパ各地で講演し、病院再建の資金を粲 ねん ふたた め、 1924 年には、再びアフリカに渡りました。 だいにじせかいたいせんはじ 第二次世界大戦が始まっても、シュバイツア ちりようつづ かくへいき せん ーはアフリカでの治療を続け、戦後は、核兵器 はいぜっせかい せいめい の廃絶を世界に向かって訴えました。生命の大 切さを身をもって説く医師のガポンからのメッ せかいじゅうひとびと セージは、世界中の人々の心を打ち、 1952 年、 へいわしようじゅしよう シュバイツアーはノーベル平和賞を受賞しまし えし一よ せいかっか た。しかし、どんな栄誉を受けても、生活を変 えることなく、 90 歳で亡くなるまでガポンの病 いんはたらつづ みつりんせいじゃ 院で働き続け、「密林の聖者」と呼ばれました。 とうじ いりようおく はくじん きようだい ぜん し、 ますい い りよう ほりよ わた うった せつ ねん びよう いどう ガポンでの移動にはカヌーが使われた。 23 つか
きんだいせいしんいがく 近代精神医学のもとを築いた フロイト きず ( ジクムント = フロイト ) ねん 1856 ~ 1939 年 まず モラビアのフライブルクで、貧しいユ じんしようにんこ ダヤ人商人の子として生まれ、 3 歳でウ いじゅう だいかくてつがく ィーンに移住する。ウィーン大学で哲学 まな いがくてん せいしんいがく を学び、のちに医学に転じて精神医学の けんきゅう ゆめぶんせき せいしんぶんせき 研究に打ち込む。「夢分析」「精神分析」 ほうほう にんげんむいしきせ と呼ばれる方法により人間の無意識の世 かいかいめい じゅうれんそうほう 界を解明し、「自由連想法」と呼はれる せいしんびようちりようほうかんがだ きんだいせい 精神病の治療法を考え出すなど、近代精 しんいがくおお はってん 神医学を大いに発展させた。その後も、 むいしきしんりがく おお ちよしょだ 無意識心理学をもとに多くの著書を出 ぶんがくびじゅっしやかいがく おお し、文学・美術・社会学などにも大きな えいきようあた 影響を与えた。 さい 【ナチス】 ねんせつりつ きよくうせいとうよくねん 1 920 年に設立されたドイツの極右政党。翌年 とうしゅ いらいせいりよくの ヒトラーが党首になって以来勢力を伸ばし、 ねん ないかく はんたいはだん 1933 年ヒトラー内閣をつくると、反対派を弾 あっ じんはくがい ほうりよく しはい 圧し、ユダヤ人を迫害するなど暴力による支配を だいにじせかいたいせん ねん 行い、 1939 年には第ニ次世界大戦をおこした。 朝こ七ばのま : ど 36 ます じんいえ ・貧しいユダヤ人の家に生まれる はじ ジクムント = フロイトは、心の病を初めて解 せいしんかい あらわ きあかした精神科医です。ジクムントが現れる せいしんいがく にんげんせいしん までの精神医学では、人間の精神は、すべて意 ころやまい 識によって生み出されるものであり、心の病も、 かんじやじしん かんが 患者自身のゆがんだ意識が原因でおこると考え られていました。しかし、ジクムントは、すべ にんげん むいしき ての人間には、意識には現れない無意識という ひそ ものが潜んでおり、それによって心の病がおこ かんが ると考えたのです。 ジクムントは、 1856 年、東ヨーロッパの小国 いま モラビア ( 今のチェコ ) のフライプルクで、貧 じんかていちょうなん しいユダヤ人の家庭に長男として生まれ、 3 歳 ちちおや かんけい のとき、羊毛商人である父親の仕事の関係で、 オーストリアのウィーンに引っ越しました。そ つぎつぎおとうといもうとう ははおや の後、次々に弟や妹が生まれましたが、母親は、 おさな りはつ あい 幼いころから利発なジクムントをことのほか愛 せいかっ べんきようべやあた し、貧しい生活にもかかわらず、勉強部屋を与 さいのう えて才能を伸ばそうとしました。そのかいあっ ねんゆうしゅうせいせき て、ジクムントは、 1873 年優秀な成績でウィー にゆうがく ン大学に入学しました。 むいしきせかいよ 0 無意識の世界を読みとく はじてつがく ジクムントは、初め哲学を学びましたが、や ころやまい げんいん あらわ ころやまい ねんひがし しようこく まず さい ようもうしようにん だいがく まな いがくみち がて医学の道へと進路を変えました。医学の研 しんろ けん いがく ることで、患者自身も気づかない無意識を呼び覚まそうとした むいしきよ かんじやじしんき 患者を長椅子に横たわらせるジクムント。患者に自由に語らせ かんじゃ じゅうかた かんじゃながいすよこ とうじ ようになります。ジクムントは、精神病患者を せいしんびようかんじゃ ものと考えられていた精神の世界に関心をもつ かんしん せいしんせかい かんが 究を進めるうちに、当時はまだ複雑で神秘的な ふくざっしんびてき きゅうすす
や くち 0 「ロげんか屋」のガリレオ ほうそくみちび きんだいかがくちち 観察から法則を導いた近代科学の父 ガリレオは 1564 年、イタリアに生まれました。 きようかい けんりよくつよ とうじ 当時のヨーロッパはキリスト教会の権力が強 きようせいしょ しぜん く、于宙や自然のしくみは、キリスト教の聖書 ガリレオ あ かんが の考えに合う、古代ギリシアの哲学者アリスト かんが とお テレスの考えの通りだとされていました。その ( ガリレオ = ガリレイ ) げんざい てんどうせつ まちが わ 中には、現在は間違いと分かっている天動説な ねん ひはん 1564 ~ 1642 年 どもありましたが、それらを批判すると、キリ ごうもんけいばっ スト教にそむく者として、拷問や刑罰を受ける ような時代でした。 ちち おんがくりろんはじ すうがく ガリレオの父は、音楽理論に初めて数学を取 しそうか おんがくか り入れた音楽家で、思想家でもありました。ガ ちちえいきようがくもん じもと リレオは、父の影響で学問を志し、地元ピサの けんきゅう だいがく かがくすうがく はじ 大学で科学や数学の研究を始めました。大学の きようじゅゆうじん 教授や友人はみな、アリストテレスを支持して じつけん りろん いましたが、ガリレオは、実験をせず、理論だ ぎもん かんが けを組み立てたアリストテレスの考えに疑問を ゆうじんたいりつ 持っていました。そのせいでよく友人と対立し、 おんこう にんきもの くち ふだんは温厚な人気者だったのですが、「ロげん よ や か屋」とも呼ばれていました。 はつけん ぶったいうご かん ・物体の動きに関する 2 つの発見 だいがくねん 大学 2 年のとき、ガリレオは礼拝堂のつりラ おお ゆ ゆ み ンプが揺れるのを見て、大きく揺れても、小さ おうふく じかんいってい ゆ 1 往復にかかる時間が一定である く揺れても、 はつけん き ことに気づきました。この発見をもとに、ひも じつけんかさ か ふ の長さや重りの重さを変えて振り子の実験を重 とうじせい みちび ふ ね、「振り子の等時性」を導きだしました。 だいがくすうがくこうし ねん ぶっ その 10 年後、同じ大学の数学講師として、物 けんきゅう おも ものかるもの らっか 体の落下を研究していたとき、「重い物は軽い物 はやらっか せつ より速く落下する」というアリストテレスの説 おも さゆう まちが らっかそくど が間違いで、落下速度が重さに左右されないこ しゃとう おも し とを知りました〇そこで、ピサの斜塔から重さ かんさつ つ ねん 、ちゅう てつがくしゃ なか つ と し、 ころざ だいがく く た も かがくみ イタリアのピサに生まれる。科学が未 はじ はったっ 発達だったヨーロッパにおいて、初めて じつけんかんさつひつようせいと ぶつりがくてん 実験や観察の必要性を説き、物理学や天 きんだいか もんがくかか かずかずはつけん 文学に関わる数々の発見をして、近代科 はつけんがく がくみちひら みずか 学の道を開いた。また、自らの発見や学 はっぴょう ちよさく せつ てんもんたいわ 説を『天文対話』などの著作で発表し、 ひとびとりかい ほんなか 人々の理解をうながした。この本の中で、 ちどうせつよう きようかいひてい キリスト教会が否定していた地動説を擁 しゅうきようさいばん 護したことから宗教裁判にかけられ、 はんねんゆうへいせいかつおく 晩年は幽閉生活を送った。 つ れいはいどう ちい お おも なが おな ちどうせつ 【地動説】 ちきゅうちゅうしんてんたいまわ てんどう 地球を中心に天体が回っているという「天動 ちきゅうたいようまわ まわ せつ たい 説」に対し、地球が太陽の周りを回っていると てんもんがくしゃ かんがかた する考え方。ボーランドの天文学者コペルニク ねんはっぴょう せつ スの説で、 1543 年に発表された。 ことうじせい 【振り子の等時性】 ゆはばかんけい ふり いとなが いってい 「糸の長さが一定なら、振り子の揺れ幅に関係な ゆうんどう じかんいってい く、揺れ運動にかかる時間は一定である」とい ふりこどけい はつめいやくだ ほうそく う法則。のちに、振り子時計の発明に役立った。 ことばのま : どレ ぐ 0 ゆ れいはいどう 丿レ拝堂のつりランプ、、 のを見て、「打の等時性」発も発。