じゅがくひら じんせいとな 儒学を開き、仁政を唱えた 4 一景イゞ与 集英社刊『孔子画伝』より ろりんこくせいがくおんがく じゅがく とく 魯の隣国の斉で楽 ( 音楽 ) を聞く孔子。儒学では、徳のあ ひときようよう がく れい しやきゅうしゆっ る人の教養として、楽のほか、礼 ( マナー ) ・射 ( 弓術 ) ・ きよばじゅっしょこくこ すうすうがく ろくげいおも 御 ( 馬術 ) ・書 ( 国語 ) ・数 ( 数学 ) の六芸が重んじられた。 がくもんず しようねんじだい ・学問好きの少年時代 いま ねんむかしちゅうごく 孔子は、今から 2500 年も昔の中国で、儒学と がくもんはじ ひと だいちゅうごく 呼ばれる学問を始めた人です。古代中国では、 きげんぜん しゅうおうちょうちから ちゅう 紀元前 770 年ごろから周王朝の力がおとろえ、中 ごくぜんたい 国全体がいくつもの国に分かれ、諸侯と呼ばれ かくち じつりよくしゃ ぶりよくせいりよくあらそ る各地の実力者たちが、互いに武力で勢力争い せんらんよ をしていました。こうした戦乱の世を生きぬく しょこうすぐ がくもん ため、諸侯は優れた思想や学問を取り入れて自 ぶんくに へいりよくつよ ふこくきようへいせいさく 分の国を富ませ、兵力を強める富国強兵政策を すす さまざま かくち 進めていたのです。そのため、各地で様々な学 がくもん 者 ( 諸子 ) が思想や学問をおこしました。それ がくは いっ力、 かま らの思想や学派は、一家を構えていたことから しよしひやっか はじ 「諸子百家」と呼ばれています。孔子の始めた儒 がく しよしひやっか 学も、そうした諸子百家の 1 つでした。 きげんぜん ねんろ くにみやこきよくふ 孔子は、紀元前 551 年、魯という国の都曲阜の なまえきゅう まわ 近くで生まれました。名前は丘ですが、周りの あざなちゅうじ ちちおや 人からは字でイ中尼と呼ばれていました。父親は、 みぶんひくやくにん おさな 身分の低い役人でしたが、孔子がまだ幼いころ ます しようねんじだいおく びん に亡くなり、貧しい少年時代を送りました。貧 きげんぜん ぜん 紀元前 551 ~ 前 479 年 こだいちゅうごくしゅんじゅうじだいろ 古代中国の舂秋時代に魯という国で かきゅうやくにんこ さいだい 下級役人の子として生まれ、 15 歳で大 がくにゆうがく さい ろやくにん 学に入学、 3 0 歳ごろ魯の役人となる。 りそう だいじん せいじ 「仁」にもとづく政治を理想とし、大臣と じつけんにきさんかんしたいりつ なったが、実権を握る三桓氏と対立して やぶ りそうせいじ 破れ、弟子たちとともに理想の政治を実 たびで げん くにもと ゆめ 現する国を求めて旅に出る。しかし、夢を じつげん きこく 実現しないまま 69 歳で帰国。その後は、 いっぽう じゅくひら でしきよういくあ 塾を開いて弟子の教育に当たる一方、『詩 きようしよきよう しゅんじゅう しっ 経『書経などを編さんし、『春秋』を執 びつ しよもつあらわ おお 筆するなど、多くの書物を著した。 ねん じゅがく ねん くに がく じつ さい ちか ひと しよこくるろうたびとちゅうこうとういちみ まちが 諸国流浪の旅の途中で強盗の一味と間違集英社刊「孔子画伝』より じゅうみんとかこ こうしいっこう えられ、住民に取り囲まれた孔子一行。 朝ことばのまど じゅがく 【儒学】 とく こうし ほうりつぶりよく 孔子は、法律や武力によってではなく、徳によ くにおさ って国を治めることを説いた。そのもとになる じぶんりえきす かそくあいあらわじん のが、家族愛を表す「仁」と、自分の利益を捨て とく あいて て相手に尽くす「義」であり、この 2 つの徳によ かんが くにおさ り、国を治めるべきだと考えた。
すうがくおうじゃ けいざいがくちち 「数学の王者」といわれる 「経済学の父」といわれる 力、ウス ( カール = フリードリヒ = ) アダム = スミス ねん 1777 ~ 1855 年 1723 ~ 1790 年 すうがくしゃおさな けいざいがくしやどうとくてつがくしや ドイツの数学者。幼いころから並外 イギリスの経済学者・道徳哲学者。 はっき だいがくじだい けいさんのうりよく だいがく りんりがくてつがくおし れた計算能力を発揮し、大学時代には、 グラスゴー大学で倫理学と哲学を教 えが じようぎ せいかつけい どうとく ねんかんこう こうぎきろく え、 1759 年に刊行した講義記録『道徳 定規とコンパスだけで正 17 角形を描く ふかのう ていせつくつがえ ほうはうしようめい かんじようろん じゅうめいせいひろ 方法を証明して、古代から不可能とされてきた定説を覆 感情論』でヨーロッパ中に名声を広める。その後、大 すうがくあたら けんじつけんきゅうつづ はっぴょう ぶんや がくや こくふろん しょこくみん とみ ねん 学を辞めて、 1776 年に『国富論』 ( 『諸国民の富』 ) を発表。 した。その後も堅実な研究を続けて、数学の新しい分野 こうせきのこ かすおおかいたくすうがく はってんおお かんり はじ しほんしゅぎしやかい たいけいか こっか を数多く開拓、数学の発展に大きな功績を残した。また、 初めて資本主義社会を体系化し、国家の管理を廃した、 はんえい 天文学では小惑星の軌道計覽、物理学では測地学や電磁 ひとびと じゅう けいざいかつどう こっ力、 人々の自由な経済活動こそが、国家の繁栄につながると ぎようせきおお じりよくあらわたん きがく すうがくいがいすぐ いう「自由放住主義」を説いて占由主義経済学を完成、 気学など、数学以外の優れた業績も多い。磁力を表す単 かれな てんはけいざいがくひら いガウス 位 G は、彼の名にちなんだものである。 古典派経済学を開いた。 しゅうきようかいかく すす ばんがくそ がくもんたいけい 宗教改革をおし進めた あらゆる学問を体系づけた万学の祖 カルバン ( ジャン = ) アリストテレス ねん きげんぜん ぜん 1509 ~ 1564 年 紀元前 384 ~ 前 322 年 しゅうきようかいかくしゃ ねん さいだいてつがくしゃ フランスの宗教改革者。 1533 年、カ 古代ギリシア最大の哲学者。 17 歳か えんぜっおこな ひてい てつがくしゃ やくねんかん トリックを否定する演説を行ってフラ ら約 20 年間にわたってアテネの哲学者 かくちてんてん ねんとうじ お ぜん さい ンスを追われる。各地を転々としなが プラトンに学ぶ。前 343 年、当時 13 歳 かんこう きようこうよう ひとせいしょ ねん おうじ ら 1536 年に『キリスト教綱要』を刊行、人は聖書に書か のマケドニア王子アレクサンドロスの家庭教師となっ ことばふくいん ふくいん てつがくれきしせいじがく かみ おし れた神の言葉 ( 福音 ) によってのみ救われるという福音 て哲学や歴史、政治学などを教える。その後、アテネに まね しゅぎ けんきゅうばっとう がっこうひら はん 学校を開いて誨義と研究に没頭したが、反マケドニア運 主義を唱えた。その後、スイスのジュネープに招かれ、 しゅうきようかいかくつ きんろ、 ちょちく どうし さんだんろんばう かくりつ な お 同市の宗教改革に尽くした。勤髣と貯蓄をすすめる彼 動でアテネを追われて亡くなった。三段論法を確立した しみんかいきゅう し しぜんかがくせいじがく しがく ろんりがく りんりがくてつがく の教えは、特に市民階級に支持され、死後、プロテス 論理学や、倫理学、哲学のほか、自然科学や政治学、詩学 じゅうひろ いつば しよがくもんきそきず タントの一派としてヨーロッパ中に広まった。 など、その後のヨーロッパの諸学間の基礎を築いた。 かんねんろんかくりつ たいりくいどうせっとな ドイツ観念論を確立した 大陸移動説を唱えた カント ( イマヌエル = ) ウ工ゲナー ( アルフレート = ロタール = ) ねん ねん 1724 ~ 1804 年 1880 ~ 1930 年 てつがくしゃ きしようちきゅうぶつりがくしゃみなみ ドイツの哲学者。ケーニヒスプルク ドイツの気象・地球物理学者。南ア 大学で数学・占然科学・哲学を学び、 たいりく たいりく かいがんせん メリカ大陸とアフリカ大陸の海岸線 かがくてき はじ たいせいよ、 が、大西をはさんでびったり合わさ のちに母校の講師となる。初め科学的 ねんだい , 1 , 彎 : ) んは・。びよう てつがくてん たいりくぶんれつ おお 于由論を発表したが、 1760 年代から哲学に転じる。人 ることから、もともと 1 つの大きな大陸が分裂、移動し かんせいてきけいけん けんかいあき げんにんしき げんざい かくたいりく ちしつ せい かんが 間の認識の限界を明らかにし、それまでの感性的経験を て現在の各大陸になったと考えた。各大陸の地質や古生 おも けいけんろん せつうらづ ねんたい おも きようつうてんちょうさ ぶつ 重んじるイギリスの経験論や、理性だけを重んじるフラ 物などの共通点を調査してこの説を裏付け、 1912 年に大 じゅう じんかく ごうりろんひはんてつがく どくりつ たいりくいどう げんどう ) よく はっぴょう りくいどうせつ ンスの合理論を批判。哲学は独立した自由な人格をもつ 陸移動説として発表した。しかし、大陸移動の原動力が けいけんろん ごうりろん にんげん がくもん ねん とうじ し かいめい つ 人間のための学問であるべきだとして、経験論と合理論 解明できなかったため当時は受け入れられず、死後 20 年 かんねんろんかくりつ せいとうせいみなお を統合してドイツ観念論を確立した。 あまりたってようやく正当性が見直された。 きんだいけいざいがくかくりつ じんぶんがくしゃ だいひょう 近代経済学を確立した ルネサンスを代表する人文学者 ケインズ ( ジョン = メイナード ) 工ラスムス ( テシデリウス = ) ねん ねん 1883 ~ 1946 年 1466 ~ 1536 年 けいざいがくしゃだいいちじせかいたい じんぶんがくしやしんがく てんまな イギリスの経済学者。第一次世界大 オランダの人文学者。神学や古典を学 せかいてき だいふきよう てん こうゆうふか せん 戦後の世界的な大不況のなかで、古典 び、思想家トマス = モアらと交友を深め はけいざいがく じゅうほうにんしゅぎ ひはん げんてんけんきゅう せいしよ 派経済学の自由放任主義を批判。 1936 ながら、聖書の原典を研究する。 1509 しつぎよう いつばんりろん あらわ そうりよおうこうきぞく ねん こよう ねんてつがくしゃ しんがくしゃ 年に『雇用・利子および貨幣の一般理論』を著し、失業 年、哲学者や神学者、カトリックの僧侶や王侯貴族の堕 をなくすためには、国家が積極的に公共竈業を進めて はっぴょう かくち きび ぐしんらいさん らく ひはん 落を厳しく批判した『愚神礼賛』を発表、ヨーロッパ各地 しゅちょう りろん じゅうよう えいきようあた しゅうきようかいかく うんどうおお 雇用をつくりだすことが重要と主張した。この理論は、 のルネサンス運動に大きな影響を与え、宗教改革のひ おお しゅうきようかいかくうんどう げきか けいざいがく かくめい せかい 世界の経済学に「ケインズ革命」と呼ばれるほどの大き きがねとなった。しかし、ルターの宗教改革運動が激化 せかいつうかききん たいにじせかいたいせん ろんそう しようげきあた へいわしゅぎ たちば たいりつ な衝撃を与えた。第二次世界大戦後は世界通貨基金 すると、平和主義の立場からルターと対立し、論争をく せかいぎんこうせつりつじんりよくしょだいそうさい しゅうにん きんだいじゅうしゅぎしそうせんくしゃ ( 川 F ) 、世界銀行の設立に尽力、初代総裁に就任した。 り広げた。近代自由主義思想の先駆者といわれる。 44 なみはす ねん まな か かていきようし とな おし こ一三 かくたいりく りせい し、 よ ひろ
けんきゅうねっしん しようねん ・研究熱心なニュートン少年 のう力、 ニュートンはイギリスの農家に生まれました。 ちち はは そのときすでに父は亡く、母も 3 歳のときに再 いえで そだ そば 婚して家を出ていたので、祖母の手で育てられ き よわ なむし こうさく どくしょ ました。気が弱く、泣き虫でしたが、工作と読書 す じぶんみすどけい ひどけい つく が好きで、自分で水時計や日時計を考えて作り、 むらじゅうひょうばん べんきよう 村中の評判になったこともありました。勉強が だいす さいこんあいて な 大好きでしたが、 14 歳のとき、再婚相手を亡くし はは せいかっ し、え た母が 3 人の子どもと家にもどると、生活のた カゞっこっ はたけしごとてつだ めに学校をやめて畑仕事を手伝うようになりま あたまべんきよう した。しかし、頭は勉強のことでいつばいで、仕 かんが 事をしながら考え事ばかりしていました。 ねん す はげ たいふう それから 2 年ほど過ぎたころ、激しい台風か むらおそ あらしなか じつけんはじ 村を襲うと、ニュートンは嵐の中で実験を始め かぜむ しやめん ました。風の向きにそって丘の斜面を飛び、次 かせさか と かぜ に風に逆らって飛んで、その距離の差から風の ちからはか いっとき けんきゅう そば 力を計ったのです。母や祖母は、一時も研究を わす がっこっ 忘れられないニュートンを学校にもどすことに ちゅうがっこっ しました。こうして中学校にもどったニュート いちばんせいせきそっぎよう だいがく ンは、一番の成績で卒業し、ケンプリッジ大学 すす すうがくぶつりがく けんきゅうせい に進んで数学と物理学を学び、卒業後も研究生 けんきゅうつづ として研究を続けました〇 ばんゆういんりよくはつけん だいかがくしや 万有引力を発見した大科学者 ーユートン ( アイザックーニュートン ) 1642 ~ 1727 年 つ な て かんが ねん し と おか はは そっぎようご まな むらのう イギリスのウルスソープという村の農 そほそだ さい 家に生まれ、祖母に育てられた。 19 歳 だいがくにゆうがくすうがくぶつり でケンブリッジ大学に入学、数学と物理 がくまな そっきようこだいがくけんきゅうつづ 学を学び、卒業後も大学で研究を続けて はんゆういんりよくびせきぶんほう さいきようじゅ 26 歳で教授となる。万有引力、微積分法、 ひかりせいしつ げんだいかがく きそきず 光の性質など、現代科学の基礎を築く かずかずはつけん ねんけんきゅう 数々の発見をし、 1687 年、研究をまと はっぴょう めいせい めた『プリンキピア』を発表して名声を ばんねんそうへいきよくちょうかんしごと え 得た。晩年は造幣局長官の仕事もこな ねんしようがいと し、 84 年の生涯を閉じた。 ノ : ィ きようふらなが : しつけん = 1 ートは強風の中で実験をタ最 らっか ばんゆういんりよくはつけん ・リンゴの落下で万有引力を発見 りゆうこう だいがくへいさ ベストの流行で大学が閉鎖された 1664 年から ねんかん こきようかえ 3 年間、ニュートンは故郷に帰って「ニュート さんだいはつけん じゅうよう はつけん ンの三大発見」と呼ばれる重要な発見をしまし ばんゆういんりよく はつけん た。その 1 つが万有引力の発見です。 ちきゅう かいてん このころニュートンは、地球のまわりを回転 とお している月が遠くへ飛んでいかない理由につい ひにわ て考えていました。そんなある日、庭のリンゴ つ か ノし 0 ねん ロ はんしやぼうえんきよう 【反射望遠鏡】 くっせっぽうえんきよう つか それまで使われていた屈折望遠鏡の、色がにじ けってんおきな ほうえんきようせんめい がぞうえ むという欠点を補った望遠鏡。鮮明な画像を得 てんもんがくはってんおお やくわり られ、天文学の発展に大きな役割を果たした。 と虧のまど いろ は と つき りゆう かんが 30
こうせかい ・ビーグル号で世界へ ねんがつはくぶつがくしゃ 1831 年 12 月、博物学者ダーウインを乗せた軍 かん 艦ビーグル号は、イギリスのプリマス港から 5 ねん かんそくちょうさ たび とうじ 年にわたる観測調査の旅に出ました。当時 22 歳 てんさいはた がくしゃ だったダーウインは、天才肌の学者というわけ ちい べんきよう ではありませんでした。小さいときから勉強が にがて こんちゅうしよくぶつあっ ねっちゅう ちちおや 苦手で、昆虫や植物集めに熱中し、医師の父親 いがくみち げかしゅ から医学の道をすすめられても、大学の外科手 じゅっじゅぎよう 術の授業が恐くて、すぐにやめてしまいました。 つぎ べつだいがく 次に牧師をめざすようすすめられ、別の大学に はい じぶんかんしん はくぶつがく 入りますが、今度は自分で関心のある博物学の ねっしんかよ あさま 講義にばかり熱心に通うといった有り様でした。 そっぎようむか はくぶつがく ダーウインが卒業を迎えたころ、博物学のヘ きようじゅ ちじんぐんかんかんちょう ンズロー教授は、知人の軍艦艦長からビーグル のわか がくしやしようかい 号に乗る若い学者を紹介してほしいと頼まれま かんちょうせんいん す。このころ、艦長と船員が私語を交わすこと きんし かんちょう がくしやめいもく は禁止されていたので、艦長は、学者の名目で ながたびはなあいて 連れていける長旅の話し相手を探していたので はくぶつがく きようみ ちしきひょうか す。ダーウインの博物学への興味と知識を評価 きようじゅ すいせん していた教授は、ダーウインを推薦します。特 ゆうしゅう おんこう じみち に優秀とはいえないまでも、温厚で、地道なダ ながたびちょうさ ーウインならば、長旅の調査にちょうどいいと かんが 考えたからです。 きげん しゅ せいぶつしんか 『種の起源』で生物の進化を説いた ダーウイン ( チャールズ = ダーウイン ) 1809 ~ 1882 年 ぐん ねん だいがく ほくし / ツ当ゞ こ二二 たの さが ゆうふく いしゃいえう イギリスの裕福な医者の家に生まれ ねん ねんかんかんそくちょうさおこな る。 1831 年から 5 年間、観測調査を行う ぐんかんがくしゃ どうじよう せかいかくちせい 軍艦に学者として同乗し、世界各地の生 ぶつかせきちしっちょうさ きこくご ちち 物や化石や地質を調査した。帰国後は、父 ざいさんう とくしよくつ ちょう の財産を受け継き、特に職に就かずに調 さりよこうあっ ひょうほんせいり けんきゅうしっ 査旅行で集めた標本の整理や、研究、執 ねんしゅ きげん 筆をして過ごした。 1859 年に種の起源 ほんあらわ せいぶつ げんしゅ という本を著し、生物がいくつかの原種 しんか しんかろんはっぴょう から進化したという進化論を発表した。 びつ はくぶつがく 【博物学】 どうぶつしよくぶつこうぶっちしつ しぜんぶつしゆるい 動物、植物、鉱物、地質などの自然物の種類、 ぶんぶせいしつ しら がくもん 分布、性質などを調べる学問。 しよとう 【ガラパゴス諸島】 なんべい せいほうせきどうちょっか しよとうたいりく 南米エクアドルの西方、赤道直下の諸島。大陸 こと どくとくせいぶっそうも しんか と異なる進化を遂げた独特の生物相を持つ。 しそちょう 【始祖鳥】 ちゅうるいおほねちょうるい つばさも は虫類の尾と骨、鳥類のような翼を持つジュラ紀 せいぶっせいぶつしんか しめしようこ の生物。生物の進化を示す証拠の 1 っとされた。 ねんかつにち こう こうしゆっぱっ 1831 年 12 月 27 日、ビーグル号はイギリスのプリマス港を出発した 28
きんだいせいしんいがく 近代精神医学のもとを築いた フロイト きず ( ジクムント = フロイト ) ねん 1856 ~ 1939 年 まず モラビアのフライブルクで、貧しいユ じんしようにんこ ダヤ人商人の子として生まれ、 3 歳でウ いじゅう だいかくてつがく ィーンに移住する。ウィーン大学で哲学 まな いがくてん せいしんいがく を学び、のちに医学に転じて精神医学の けんきゅう ゆめぶんせき せいしんぶんせき 研究に打ち込む。「夢分析」「精神分析」 ほうほう にんげんむいしきせ と呼ばれる方法により人間の無意識の世 かいかいめい じゅうれんそうほう 界を解明し、「自由連想法」と呼はれる せいしんびようちりようほうかんがだ きんだいせい 精神病の治療法を考え出すなど、近代精 しんいがくおお はってん 神医学を大いに発展させた。その後も、 むいしきしんりがく おお ちよしょだ 無意識心理学をもとに多くの著書を出 ぶんがくびじゅっしやかいがく おお し、文学・美術・社会学などにも大きな えいきようあた 影響を与えた。 さい 【ナチス】 ねんせつりつ きよくうせいとうよくねん 1 920 年に設立されたドイツの極右政党。翌年 とうしゅ いらいせいりよくの ヒトラーが党首になって以来勢力を伸ばし、 ねん ないかく はんたいはだん 1933 年ヒトラー内閣をつくると、反対派を弾 あっ じんはくがい ほうりよく しはい 圧し、ユダヤ人を迫害するなど暴力による支配を だいにじせかいたいせん ねん 行い、 1939 年には第ニ次世界大戦をおこした。 朝こ七ばのま : ど 36 ます じんいえ ・貧しいユダヤ人の家に生まれる はじ ジクムント = フロイトは、心の病を初めて解 せいしんかい あらわ きあかした精神科医です。ジクムントが現れる せいしんいがく にんげんせいしん までの精神医学では、人間の精神は、すべて意 ころやまい 識によって生み出されるものであり、心の病も、 かんじやじしん かんが 患者自身のゆがんだ意識が原因でおこると考え られていました。しかし、ジクムントは、すべ にんげん むいしき ての人間には、意識には現れない無意識という ひそ ものが潜んでおり、それによって心の病がおこ かんが ると考えたのです。 ジクムントは、 1856 年、東ヨーロッパの小国 いま モラビア ( 今のチェコ ) のフライプルクで、貧 じんかていちょうなん しいユダヤ人の家庭に長男として生まれ、 3 歳 ちちおや かんけい のとき、羊毛商人である父親の仕事の関係で、 オーストリアのウィーンに引っ越しました。そ つぎつぎおとうといもうとう ははおや の後、次々に弟や妹が生まれましたが、母親は、 おさな りはつ あい 幼いころから利発なジクムントをことのほか愛 せいかっ べんきようべやあた し、貧しい生活にもかかわらず、勉強部屋を与 さいのう えて才能を伸ばそうとしました。そのかいあっ ねんゆうしゅうせいせき て、ジクムントは、 1873 年優秀な成績でウィー にゆうがく ン大学に入学しました。 むいしきせかいよ 0 無意識の世界を読みとく はじてつがく ジクムントは、初め哲学を学びましたが、や ころやまい げんいん あらわ ころやまい ねんひがし しようこく まず さい ようもうしようにん だいがく まな いがくみち がて医学の道へと進路を変えました。医学の研 しんろ けん いがく ることで、患者自身も気づかない無意識を呼び覚まそうとした むいしきよ かんじやじしんき 患者を長椅子に横たわらせるジクムント。患者に自由に語らせ かんじゃ じゅうかた かんじゃながいすよこ とうじ ようになります。ジクムントは、精神病患者を せいしんびようかんじゃ ものと考えられていた精神の世界に関心をもつ かんしん せいしんせかい かんが 究を進めるうちに、当時はまだ複雑で神秘的な ふくざっしんびてき きゅうすす
ぶつりがく であ ・物理学との出会い アインシュタインは ねん 1879 年、ドイツのウル ムに生まれました。 ちちおや 工ンジニアの父親は、 むす すうがく かがく 息子が数学や科学に きようみ よろこ 興味を持っことを喜 びよう び、 5 歳のとき、病 き ね 気で寝ていたアイン シュタインに、方位 むちゅう 磁石の不思議さに夢中になる じしやくあた 磁石を与えました。 アインシュタイン。 アインシュタインは、 ひ かならきた じしやく 何かに引かれるように必ず北を指す磁石の針を み め ちからそんざい み 見て、目には見えないカの存在を知り、曇える こうふんかん ほどの興奮を感じたといいます。そして、その 興味を美わす、物理学の道に進んでいきました。 そうたいせいりろんたんじよう ・相対里論の誕生 ぶつりがくしゃ かんが アインシュタインが、物理学者として考え出 りろんなか もっとじゅうよう した理論の中で最も重要とされるのは、于由の あ そうたいせいりろん しくみを解き明かすもとになる「相対性理論」 りろん じかんくうかんみひと うんどう です。この理論は、時間や空間が見る人の運動 へんか によって変化するというもので、その基本には 「晃は動いている人から見ても、止まっている人 おな はや すす ほうそく から見ても同じ速さで進む」という法則があり ぶったいおな はや お ます。ふつう、動いている物体を同じ速さで追 ぶったいせいし み いかけると物体は静止して見えますが、光の場 ちが ほうそく ねんじつけん 合は違うのです。この法則は 1887 年に実験によ かくにん って確認されましたが、アインシュタインはそ じつけんおこな まえ の実験が行われるよりも前、また 16 歳のときに うそくお ひかり 光を晃速で追いかけたらどう見えるかを考えて み かんが いました。 ひかり やま とおす なみせい 光には山と谷を作りながら通り過ぎる波の性 しつ びようかんとおす かずしんどうすう 質があり、 1 秒間に通り過ぎる山の数を振動数 やさしい相対性理論 せいきさいだいぶつりがくしゃ 20 世紀最大の物理学者 アインシュタイン つ 0 ( アルバート = アインシュタイン ) 1879 ~ 1955 年 も ねん じしやく さ し ふ 4 と す じんりようしん つ ドイツに住むユダヤ人を両親に生ま うっす れ、イタリア、スイスと移り住んた。 26 さい ぶつりがくじようしき 歳のときに、物理学の常識をくつがえす とくしゅそうたいせいりろん はっぴょう げんしりよくりよう 「特殊相対性理論」を発表し、原子力や量 しりきがく げんだいかがくささ さまざまぶんや 子力学など現代科学を支える様々な分野 どだいきず ねんだい の土台を築いた。 1930 年代、ナチスの じんはくがいつよ いじゅう ユダヤ人迫害が強まるとアメリカに移住 けんきゅうつづ だいにじせかいたいせんちゅう し、研究を続ける。第ニ次世界大戦中、 しようりおそ げんしばく ナチスの勝利を恐れ、アメリカの原子爆 だんかいはつきようりよく かくはいぜっ せんご 弾開発に協力したが、戦後は核廃絶を うった へいわうんどうつづ 訴え、平和運動を続けた ーリし 0 きほん み ひかり っく やま ”ことばのまど H 第アインシュタイン・ロマン そうたいせいりろん 【相対性理論】 ぶつりがくきほんりろん じゅうりよくあっか ばあい 物理学の基本理論で、重力を扱わない場合につ しんくうすすこう とくしゅそうたいせいりろん いての「特殊相対性理論」では、真空を進む光 そくど ぶへん じかんくうかんかんれんあ の 速度は不変で、時間や空間は関連し合って伸び ちち じゅうりよくと しめ 縮みすることを示した。のちに、重力を取り入 いつばんそうたいせいりろん はっぴょう れた「一般相対性理論」が発表され、ブラック うちゅうげんしようせつめい りろん ホールなど、宇宙の現象を説明する理論として ちゅうもくあっ 注目を集めた。 イシ 0 タイの - 対性理物 面自い、わかケ ・野公実 :. い はっぴょうとうじ りかい 発表当時、理解できるの せかい すうにん は世界でも数人といわれ なんかいそうたいせいりろん たほど難解な相対性理論 かいせつほんかずおおで 解説本も数多く出ている。 0 4
だいがくきようじゅ みちす ・大学教授への道を捨てて カール = マルクスは、プロイセン ( 今のドイ ゆた じんべん ッ ) のトリールで、豊かなユダヤ人弁護士の家 ちちおやえいきよう だいがくほうがくぶ に生まれました。父親の影響でボン大学法学部 に入学しますが、のちにベルリン大学に移って れきし てつがくべんきようねっちゅう 歴史や哲学の勉強に熱中し、将来はボン大学で てつがくきようじゅ のぞ 哲学教授になることを望んでいました。 さんぎようかくめいすす 当時のヨーロッパでは、産業革命が進んで市 じゅうしゅぎしそうひろ みんかいきゅうちからの 民階級が力を伸ばし、自由主義思想が広まって、 はじ せいじ しやかいおお 政治や社会が大きく変わり始めていました。し おうせい かっこくせい かし、あくまでも王政を守ろうとする各国の政 じゅうしゅぎしゃ だいがく ふおお 府は多くの自由主義者たちを逮捕し、ボン大学 がくしゃ だいがくつい せいふ はんたい でも政府に反対する学者たちが次々に大学を追 み 放されました。これを見たマルクスは、大学教 ねんそうかん みち 授への道をあきらめ、 1842 年、創刊されたばか はんせいふけいしんぶん しんぶん りの反政府系新聞『ライン新聞』の記者となり しゅうせいふ ひはん ます。しかし、ライン州政府を批判する記事を きんし しんぶんはっこう 次々に掲載したため、新聞は発行を禁止され、 マルクスはやめさせられてしまいました。 ろうどうしやだんけつうった ・労働者の団結を訴える けいざい こんぼんてき せいじ 政治を根本的に変えようとすれば、経済や社 しひつよう かんが 会のしくみを知る必要があると考えたマルクス つま ねんけっこん は、 1843 年、結婚したばかりの妻とともにパリ もうれつけいざいがく しやかいしゅぎべんきよう はげ に移ると、猛烈に経済学と社会主義の勉強に励 さんぎようかくめい けっか はったっ みました〇その結果、産業革命後に発達した資 ろうどうしゃ ほんしゅぎ しようすう おお 本主義のもとで、多くの貧しい労働者が、少数 しほんかやすちんぎんちょうじかん つか ゆた の豊かな資本家に安い賃金で長時間こき使われ、 ふえいせい こうじようはたら じよせい 女性や子どもまでも不衛生な工場で働かされ、 病気になったり、ま故で亡くな。たりしている かいけつ ことを知りました。また、それを解決しようと しやかいしゅぎ げんかい おお し する社会主義にも、多くの限界があることを知 ひとびようどう しやかいじつげん しやかいしゅ すべての人が平等にくらせる社会主 社会を実現 ひだり しようと語り合うマル ( 左 ) と ンゲルス た ろうどうしやせいけんう 労働者政権を打ち立てようとした マルクス ( カール = マルクス ) ねん 1 818 ~ 1883 年 し し、え だいがく にゆうがく だいがく しようらい し か まも たいほ つぎつぎ だいがくきよう つぎつぎ けいさい じんべんごし ドイツのトリールでユダヤ人弁護士の だいがくほうがくぶにゆうがく つ 家に生まれ、ボン大学法学部に入学、の れきしてつがくてん てつがくきようじゅゆめみ ちに歴史・哲学に転じて哲学教授を夢見 じゅうしゆきしゃだんあっはんたい せいふ るが、政府の自由主義者弾圧に反対し ねんしんぶんきしゃ さ 学を去る。 1842 年新聞記者となって政 ぼうめい だんあっ ひはん つ 府を批判し、弾圧を受けてバリに亡命。 かがくてきしゃ であ そこでエンゲルスと出会って、科学的社 ねんきようさん かいしゆきとな 会主義を唱えるようになる。 1847 年共産 よくねんきようさんとうせんげん しゆきしやどうめいさんか 主義者同盟に参加し、翌年「共産党宣言」 はっぴょう がつかくめいさいきこく を発表。ドイツの 2 月革命の際、帰国して かくめいしつばいこ せいふひはんさいかい 政府批判を再開したが、革命失敗後、バリ ほうめいこくひんなか をへてロンドンへ亡命。極貧の中で『経 ざいがくひはん しほんろん 済学批判』や『資本論』にまとめた。 さんきようかくめい 【産業革命】 はじ きかい はつめい せいきこうはん 1 8 世紀後半、イギリスで始まった機械の発明に だいへんかくゆた しみんしほんか さんきようしやかい よる産業と社会の大変革。豊かな市民が資本家 れつあくろうどうじようけんろうどうしややと ろうどうもん として劣悪な労働条件で労働者を雇い、労働問 だいしやかいもんだい つ 題・社会問題を生み出した。 しやかいしゅぎ 【社会主義】 しゅうざいさんげんいん しやかい ふびようどう 社会の不平等は私有財産が原因であるとして、 かんが じんどうしゆき ざいさんこうゆう 財産を公有にしようとする考え。人道主義にも おお くうそうてき とづく空想的なものが多かったが、マルクスは、 しんしやかいしゅぎ かくめい ろうどうしやちゅうしん 労働者を中心にした革命により、真の社会主義 しやかいじつげん とな 社会が実現できると唱えた。 いえ か だい せい 力、し ) がく ふ し けい し ”ことばのまど 0 38
と にんげんかんが はんぶつこんげんかず とな 「人間は考える葦である」と説いた 「万物の根源は数である」と唱えた バスカル ( ブレーズ = ) ピタゴラス ねん きげんぜん せん ねん 1623 ~ 1662 年 紀元前 582 ころ ~ 前 497 年ころ すうがくしゃふつりがくしゃてつがく すうがくしゃてつがくしゃ フランスの数学者・物理学者・哲学 古代ギリシアの数学者・哲学者。ェ きかがくていり ほうせきちょうこくし 者。 12 歳でユークリッド幾何学の定理 ーゲ海のサモス島で宝石彫刻師の子 どくりよくかんが えんすいきよくせん いちじちち つ を独力で考え、 17 歳で円錐曲線につい として生まれ、一時父の仕事を受け継 こうさつはっぴょう てんさい しはいしやたいりつ ての考察を発表するなど、天才ぶりを発揮。その後、真 いだ。しかし、その後、島の支配者と対立し、 70 歳ごろ くうきおも じつけんおこな ねんみつべい しゅうだんみなみ し、じゅう よげん 空や空気の重さについての実験を行い、 1653 年「密閉し に集団で南イタリアのクロトンに移住する。そこで預言 ようき なかえきたいあつりよく きせきおこな ぶふん いっていはたら しゅうきようひら ばんぶつ た容器の中の液体の圧力は、どの部分でも一定に働く」 や奇跡を行ってアポロンをまつる宗教を開き、万物の はっぴょう げんり こんげんかす すうがくてんもんがくおんがく てつがく とする「パスカルの原理」を発表した。また、哲学では 根源は数であるとして弟子たちと数学や天文学、音楽を あらわ にんげんむげん けんきゅう せいためんたいえが 『パンセ』を著し、「人間は無限な斈宙の中では、考える 研究し、「ピタゴラスの定理」や正多面体の描き方など、 あし よわそんざい おお 葦のような弱い存在である」と説いた。 多くの成果を残したといわれている。 うちゅうほうちょう とな えいきゅうふへん おもと 「宇宙は膨張している」と唱えた 永久不変のイデアを追い求めた ハップル ( ェドウイン = バウェル = ) プラトン ねん きけんせん ぜん ねん 1889 ~ 1953 年 紀元前 427 ころ ~ 前 347 年ころ てんもんがくしや だいがく てつがくしゃ アメリカの天文学者。シカゴ大学を 古代ギリシアの哲学者。アテネの名 そっぎようごべんごし てんもんがく かんしん もん つ 卒業後弁護士となるが、天文学に関心 門に生まれ、 20 歳ごろソクラテスの弟 ねん てんもんたい むじつつみ を抱き、 1914 年からャーキス天文台や 子となるが、ソクラテスが無実の罪で さんてんもんだいてんたいかんそくつづ かくちてんてん ぜん ウイルソン山天文台で天体観測を続ける。そうした中で 処刑されると、アテネを離れて各地を転々とした。前 387 ぎんがけいいがい ちゅうもく はしばし とお ぎんが がくえん ひら つ 銀河系以外の星々の動きに注目し、遠くにある銀河ほど 年ごろアテネにもどり、アカデメイア ( 学園 ) を開いて ぎんがけい とお はや はつけん てつがくおし かんが げんじつ 速いスピードで銀河系から遠ざかっていることを発見。 アリストテレスらに哲学を教えた。その考えは、現実の ねん ひれい えいきゅうふへん せかい りそうてきじつざい 1929 年、その速度と距離は比例するとする「ハップルの 世界はイデアの影であり、永久不変の理想的実在であ ほうそく はっぴょう ばうちょう じつげん てつじんせいじ にんげんしやかい 法則」を発表し、のちに于由が膨張しているというビ るイデアを実現しようとする哲人政治こそが、人間社会 りろん こんきょ ッグバン理論の根拠となった。 を救うというものであった。 じようけんはんしや かんが かくりつ きようひら 「条件反射」という考えを確立した イスラム教を開いた バブロフ ( イワン = ペドロビッチ = ) マホメット 1849 ~ 1936 年 570 ころ ~ 632 年 せいりがくしやりくぐんぐんいがっこうそっ きようかいそ ロシアの生理学者。陸軍軍医学校卒 イスラム教の開祖。ムハンマドとも じゅういがくけんきゅうじよせいりがくけんきゅつじよ ぎようこ 業後、獣医学研究所生理学研究室の助 いう。サウジアラビアのメッカで生ま りゆうがく りようしんうしな たいしようさんか おさな 手となる。その後ドイツに留学し、帰 れ、幼くして両親を失う。隊商に参加 ぐんいがっこうきようじゅ ねんじつけんいがくけんきゅうじよしゅ さまざましゅうきようであ かくち 国後軍医学校教授となり、 1891 年に実験医学研究所主 して各地を旅するうち、様々な宗教と出会い、 40 歳ごろ じゅんかんきせいりがく けんきゅう にんむか さんちゅうしゅぎようちゅうかみ 任に迎えられる。初めは循環器生理学を研究していた 山中で修行中に神アッラーの声を聞いて預言者となる。 しようかきせいりがくてん せいしんじよう しげきしようかき かみ ことば 神の言葉を『コーラン』にまとめ、イスラム教を開いて が、のちに消化器生理学に転じ、精神上の刺激が消化器 えし、きよう けんきゅう せいりがくいがくしようじゅしよう かみ せったいふくじゅう はくがい に与える影響を研究してノーベル生理学医学賞を受賞 神への絶対服従を説いた。 622 年、貴族の迫害を受けて たいのうせいり けんきゅう きよてんしんじゃ ふ した。さらに、大脳の生理について研究し、イヌを用い メディナに移り、以後、そこを拠点に信者を増やしてア じつけんじようけんはんしゃ かくりつ はんとうぜんたいせいりよくひろ た実験で条件反射という考えを確立した。 ラビア半島全体に勢力を広げた。 すいせいしゅうきうんどうはつけん いでんほうそく 「遺伝の法則」を発見した 彗星の周期運動を発見した メンデ ) レ ( グレゴール = ) ハレー ( ェドモンド = ) ねん ねん 1656 ~ 1742 年 1822 ~ 1884 年 てんもんがくしゃ しよくふつがくしやまず イギリスの天文学者。ロンドンの富 オーストリアの植物学者。貧しい農 し、え てん 豪の家に生まれ、子どものころから天 家に生まれ、古学してチェコの聖トマ もんすうがく きようみ せかいかくちてん しゅうどういんはい りかきようし 文・数学に興味をもち、世界各地で天 ス修道院に入る。やがて理科教師をめ ねんだいすいせい たいかんそくおこな かんそく しけんしつばい ねん しゅうどういんにわ ちよくこ 体観測を行う。 1682 年、大彗星を観測して、それがほば ざしたが、試験に失敗。その直後の 1865 年、修道院の庭 いっていしゅうきあらわ し ねん一 いでんけんきゅうかいし せいしつ つ 一定の周期で現れることを知り、 76 年後に現れることを にエンドウを植えて遺伝研究を開始する。異なる性質 すいせい よげん ほうそくつぎせたい し、ってし、 予言した。その後、ニュートンに弟子入りして彗星の軌 のエンドウを交配させると、一定の法則で次の世代に遺 どうけいさん しゆっぱん でん はつけんがっかいし はっぴょう とうじちゅうもく 道計算を試みる一方、ニュートンカ学についての出版 伝することを発見。学会誌に発表したが、当時は注目 かつどう ねんたいすいせい よげんどお し ねん さいはつけん 活動を支援した。ハレー死後の 1758 年、大彗星は予言通 されす、死後の 19 開年、ド = フリースらに再発見され、 ふたたあらわ すいせい ほうそく 「メンデルの法則」と名付けられた。 り再び現れ、ハレー彗星と名付けられた。 つ つ ていり かんが と せいかのこ めい 1 で し 【身彡 しよけい ねん なか そくど ねん ねん さい き よげんしゃ きようひら きぞく と もち かんが はつけん つ か せい あらわ き こうはい でしい りきがく いっぽう し 46
をかきたてました。また、島 おとず を訪れた博物学者タンドンに はくぶつがく 博物学の手ほどきを受ける きようみ せいぶつ と、生物への興味はいよいよ つよ 強まっていきました〇 1854 年、デュフールという学 ろんぶんはっぴょう 者がハチに関する論文を発表 しました。タマムシフシダカバ チが刺し殺したえさのタマム ばうふこうか シは、ハチの毒液の防腐効果 なが で長い期間腐らないというの こんちゅう けんきゅうかい です。当時、昆虫の研究は解 ばうがくちゅうしん こうどう 剖学が中心で、行動を調べる けんきゅうすく 研究は少なく、ファープルはこ ろんぶんしようげき の論文に衝撃を受けました。 じぶんしようがい けんきゅう それこそが自分の生涯の研究 かん テーマだと感じたからです。さ っそくタマムシフシダカバチの なかま かんさつ ろんぶん イ中間を観察してみると、論文 とは異なり、ハチがえさにな こんちゅうしんけい る昆虫の神経をまひさせ、生 ほぞん ようちゅう きたまま保存して幼虫のえさ けんきゅうほうほうたさい おとたい はんのうにぶ 研究方法は多彩で、セミの音に対する反応の鈍さを確かめるために大砲を撃ったこともある。 にしていることが分かりまし けんきゅうけっか がっかいみと せけんひょうばんじゅうぶんけんきゅうしきんて た。そうした研究結果が学会に認められ、デュ ようやく世間の評判と十分な研究資金を手に入 げきれい てがみとど めあしおとろ まんぞく けんきゅう フールからも激励の手紙が届くと、ますますフ れたときには、目も足も衰え、満足な研究がで こんちゅうけんきゅうむちゅう くる せいかっ なか ァープルは、昆虫の研究に夢中になっていきます きなくなっていたのです。苦しい生活の中で、 こんちゅうき たんじよう けんきゅう ・『昆虫記』の誕生 隹の助けも借りずに偉大な研究を成し遂げたフ ひとすこ けんきゅうひょうか あらわ ファープルの研究を評価する人も少しずつ現 ァープルは、 91 歳で静かに世を去りました。 けんきゅうじたい せいかっ れましたが、研究自体はお金にならず、生活は しよくぶつじゅせい 古しいままでした。その上、講義で植物の受精 せんせい ひなん の話をしてカトリック教会の批難をあび、先生 しよくうしな の職を失ってしまったのです。 47 歳のファープ かがく ほんか ルは、子ども向けの科学の本を書いてなんとか ささ くらしを支えました。 やがて 50 歳を過ぎたころ、ファープルは、観 こんちゅうせいかっ さつ 察した昆虫の生活を『昆虫記』として書き始め こんちゅう しせん ました。自然と詩を愛するファープルの『昆虫 うつく こんちゅうせいかっせいかく ひょうげん 己』は、昆虫の生活を正確に、かっ美しい表現 えが ねんいじよう で描き出していました。ファープルは 30 年以上 さいげつ こんちゅう の歳月をかけて 10 巻を書き上げましたが、昆虫 ぶんがくてき ひはん 学者からは文学的すぎると批判されました。そ かちひょうか の価値が評価されたのは、 87 歳のときでした。 はくぶつがくしゃ ねん どくえき きかんくさ たいほう が」二二ロ かね つえ こ一三 ファープルが愛した「パン屋の労働詩ん きようかい はなし いえまず しようがっこうそっぎよう 家か貧しかったファーブルは、小学校を卒業し てつどうこうし てからしはらく、レモンの立ち売りや鉄道工事を ひびしよくじ はたら せいかつなかしよくじ して働いた。日々の食事にも苦しむ生活の中、食事 代をけすってでも手に 入れたのが、パン屋を しながら詩を書いたル ししゅう ブールの詩集だった。 ししゅうみち ファーブルは詩集に道 ばたの花をはさんで持 ある せいかっ ち歩き、貧しい生活の なか しせんあい 中でも詩と自然を愛す る心を育んでいった。 くる かん こんちゅうき 一三ロ はな まず がくしゃ ころはぐく 35
めんえきげんしようはつけんぐうぜん 免疫現象の発見は偶然の めんみつけん できごとだったが、綿密な研 。、 = 三 : イをンっィ ~ 一 究を続けてきたバスツール ぐうぜんこころじゅんび は「偶然は心の準備のある 一 " ー一人間に味方する」と語った。 ていおんさづきんほう パスツルの名が付いた低温殺菌法 ほぞんちゅう あじお 保存中にワインの味が落ち りゆう けんきゅう る理由を研究していたパスツ げんいんびせいぶつ ールは、その原因か微生物に いじようはっこう よる異常な発酵にあり、 50 ~ 60 ℃で 30 分ほど熱すれはワイ さっきん か ンの味を変えずに殺菌できる ことを発見した。この方法は、 な パスツールの名をとって「パ スチュアライセーション」と げんざいぎゅうにゆう 名付けられ、現在も牛乳やヒ さっきんひろもち ールの殺菌に広く用いられて いる ′んク / ク はつけん 0 きようけんびようしようねん とうよ 0 狂犬病の少年にワクチンを投与 ねん きようけんびよう けんきゅうおこな 1880 年、パスツールは狂大病の研究を行い、 きようけんびよう かいはつ そのワクチンを開発しました。狂大病は、それ にんげん かんせん にかかったイヌにかまれると、人間にも感染し、 いのち びようき おそ 命さえ奪われるという恐ろしい病気でしたが、 げんいん びせいぶつ かんが どうぶつき にんげんゆうこう カゞし、 膿の原因も微生物ではないかと考えたのです。 動物に効くワクチンが人間に有効か、害がない さっきんじっこう やく ふめい そこで消毒や殺菌を実行すると、約 50 % あった かは不明でした。 しゅじゅっご さ ねんがつきようけん 手術後の死亡率は、 3 % にまで下がりました。 1885 年 7 月、狂大にかまれた少年がパスツー ぐうぜんみかた はつけん しようねんきずふか ・偶然が味方したワクチンの発見 ルのもとに運ばれてきました。少年の傷は深く、 ねん でんせんびようけんきゅう すうじっ はつびよう かくじっし 1870 年、カイコの伝染病を研究していたパス 放っておけば数日のうちに発病して確実に死ぬ げんいんびようげんきん はっぴょう ツールは、その原因が病原菌であることを発表、 だろうと医師は言います。パスツールは、何も ねん かちくでんせん ま 1876 年には、ドイツの医師コッホが家畜の伝染 せずに死を待つよりワクチンを びようびようげんきんはつけん けっか ちゅうしゃ けつい 病の病原菌を発見します。これらの結果から、 注射してみようと決意しまし た。はたして、少年は回復し、・ 0 にんげんでんせんびよう びせいぶつげんいん かんが 人間の伝染病も、微生物が原因でおこると考え どうぶつ にんげん られるようになりました。 動物のワクチンが人間にも効 しようめい その後、パスツールはニワトリコレラという くことが証明されたのです。 びようき けんきゅう びようげんきんばい はじ こうして医学はパ ニワトリの病気の研究を始め、その病原菌の培 ようせいこう なっきゅうか と 養に成功しました。しばらく夏の休暇を取り、再 スツールにより、 けんきゅう にんげん び研究に取りかかったとき、ふとした思いっき 人間へのワクチ ーンノ、 きゅうかまえ とうよ つく ふるばいようきん れき で、休暇前に作っておいた古い培養菌をニワト ン投与という歴 ちゅうしゃ すうじつ してきいっぽ ふ リに注射してみました。そのニワトリは数日で 史的一歩を踏み かるびようき し 死ぬはずですが、軽く病気にかかっただけです 出しました。 げんき おどろ ぐに元気になりました。驚いたパスツールは、今 きようりよく どあたら ばいようきんちゅうしゃ 度は新しい強力な培養菌を注射してみました びようき めんえき が、ニワトリは病気にかかりませんでした。免疫 ができていたからです。パスツールは、その後 さまざまびようげんきんどうよ、 じつけんかさ も様々な病原菌で同様の実験を重ねて免疫のし し かちく たんそびよう くみを知り、ついに家畜の炭疽病に効くワクチ かいはつ ンを開発しました。 7 0 うば のう しようどく しばうりつ しようねん はこ し、 し ー刀 ふたた と おも めんえき どうぶつひめい 動物が悲鳴をあげると、 どうじよう ひっ バスツールは同情し、必 死になってなぐさめたり 励ましたりした。 き し はげ 33