じゅうがくしや ・自由な学者アルキメデス アルキメデスは、シチリア島のシラクサに生 ちちてんもんがくしゃ がくもん まれました。父が天文学者だったことから、学問 がくもんちゅうしんち みちすす せいねんじだい の道に進み、青年時代は学問の中心地アレクサ きかがく まな ンドリアで幾何学を学びました。しかし、この町 がくもん じゅんすい がくもん がくしゃ の学者たちは、純粋な学問だけを愛し、学問を おうよう 仕事のために応用することを嫌っていました。 かんが ろうどう どれいおこないや 労働とは奴隷が行う卑しい行為だと考えていた かずかずはつめいおこな からです。のちに、数々の発明を行うアルキメデ ふんいき あ スには、こうした固苦しい雰囲気が合わなかっ がくもんお はな たのか、学問を終えるとアレクサンドリアを離 けんきゅう じゅう はじ れ、故郷のシラクサで自由な研究を始めました。 げんり はつけん 0 「アルキメデスの原王を発見 はつけんはつめいおお アルキメデスの発見や発明の多くには、シラ クサのヒ工ロン王が関わっています。王とアル しんせき キメデスは親戚でもあり、王がアルキメデスに さまざまそうだんも 様々な相談を持ちかけていたからです。 きんおうかんぎん ひおうしよくにんつく ある日、王が職人に作らせた金の王冠に銀が しんぎ うわさなが 混ざっているという噂が流れました。その真偽 かくにんたの ふ の確認を頼まれたアルキメデスは、たまたま風 かる はい ゆ ろ 呂に入ったとき、湯があふれ、体が軽くなるの みすおも おな みすなか お かん を感じ、水の中では、押しのけた水の重さと同 ものかる じだけ物が軽くなることに気づきました。「アル ふりよく ほうそく げんり キメデスの原理」と呼ばれる、この浮力の法則 はつけん を発見したアルキメデスは、「エウレカ ! ( 解け おう と ふろ た ! ) 」と叫ぶと風呂を飛び出し、裸のまま王 きゅう 宮まで駆けていったといわれています。 だいすうがくしゃ こだい 古代ギリシアの大数学者 アルキメデス つ まち きら きげんぜん ぜん 紀元前 287 ~ 前 212 年 ねん かたくる おう おう だいひょう すうがくしや こだい 古代ギリシアを代表する数学者で、科 とう がくしやはつめいか 学者、発明家でもある。シチリア島のシ きぞくいえう ラクサの貴族の家に生まれ、「アルキメ げんり おお げんり デスの原理」や「てこの原理」など、多 はつけん げん けんり はつけん くの原理を発見した。また、発見した原 り もち 理を用いて、「アルキメデスのらせん」 じつようひんはつめい ようすいき よ と呼ばれる揚水機などの実用品を発明し ぐんこうげき ばんねん た。晩年、シラクサがローマ軍に攻撃さ そこくたす へいきはつめい れると、兵器を発明して祖国を助けたが、 へいころ しんにゆう 侵入してきたローマ兵に殺された。 からだ か よ と はだか さけ か 0 0 0 合 げんり 【てこの原理】 とお ちか してん てこの支点から近いところに重いものを、遠い あ お かる ところに軽いものを置くと、てこがつり合うと ばしょ た げんり いう原理。アルキメデスは、「立つ場所さえあ ちきゅう つこ い げんり れば、この原理で地球でさえ動かせる」と言っ たという。 との三 IJ 1 おも ノ そくはっ 浮力の法 さけ 「エウレカ ! 」と叫ん、、 ふりよく したノルキメデスは、 とだ 、、出した。 6
がっこうひら 魯にもどって学校を開き、弟 じゅがくおし こうし 子たちに儒学を教える孔子。 集英社刊「孔子画伝」より ばうせいかつなか 乏な生活の中でも、孔子は子どものころから学 れ、殺されかけたことさえあったのです。 もんず がくもんじよ りそうせいじ きぼう 問好きとして知られ、 15 歳で国の学問所である 理想の政治への希望をなくした孔子は、 14 年 たかひと かんたびお こきようかえ じゅくひら 間の旅を終えて 69 歳で故郷に帰ると、塾を開い 大学に入学。 30 歳ごろには徳の高い人として評 ばん ろやくにんと きよういくせんねん 判になり、魯の役人に取り立てられました。 て弟子たちの教育に専念するようになります。 じん せいじとな ・「イコにもとづく政治を唱える そのかたわら、周の時代に書かれた『詩経』『書 だいちゅうごくぜんせいおこな 経』の編さん、『易経』の注釈、魯の歴史書『 やがて、孔子は、古代中国で善政を行ったとさ でんせつじようぎようていしゅんていしゅうおうちょう じゅう しっぴっ れる伝説上の堯帝や舜帝、周王朝のもとを築い 秋』の執筆などに打ち込み、 74 歳でこの世を去 けんきゅう せいじ た旦などの考えを研究し、「仁」にもとづく政治を りました。 とな ことば じん おや でし 唱えるようになります。「仁」とは、親の子どもに 孔子の死後、その言葉は弟子たちの手で『論 あい とくつ じんみん おし じゅがく ひろ 対する愛のことで、君主も徳を積んで人民をわ 語』にまとめられ、その教えは儒学として広め あい せいじおこな がくもん が子のように愛して政治を行えば、国がうまく られました。儒学が、国の学問として重んじら こうしめいせい おさ 治まり、豊かになるというものです。孔子の名声か れるようになったのは、孔子の死後 350 年近くた ひと がくもん かんじだい 高まるにつれ、その人がらと学問をしたう弟子 った漢の時代になってからのことです。 たちが、孔子のもとにまるようになりました。 しゆっせ さい しだいに出世した孔子は、 54 歳でついに魯の ほうむだいじん 司寇 ( 今の法務大臣 ) の地位につきます。しかし、 さんかんし 当時魯の実権を握っていた三桓氏と呼ばれる 3 けゆうりよくしゃ ころよおも しゆっせ 家の有力者たちは、孔子の出世を快く思ってい くんしゅ けんりよく ませんでした。君主をしのぐほどの権力をふる さんかんしおうばう う三桓氏の横暴ぶりを目にして、孔子はそれら せいりよくおさ しつばい の勢力を抑えようとしますが、失敗し、とうと くんしゅ とお う君主からさえ遠ざけられるようになりました。 せいじ ゆめでし たく ・政治への夢を弟子たちに託す しつぼう ろせいじ 魯の政治に失望した孔子は、大臣をやめると 自分の理想とする政治を実行してくれる国を漿 じぶん せいじ じっこっ るろう たびで でし めて、弟子たちとともに流浪の旅に出ました。 ふこくきようへい しかし、どの国も富国強兵にはしり、「仁」を せいじ こんほん 政治の根本にしようとする国はありません。そ いちみ ればかりか、孔子たちは強盗の一味と間違えら ねん ひょう にゆうがく だいがく さい しきよう しゅう きず さい かんが たん くんしゅ おも ねんちか じゅがく ゆた でし しゆがく 日本にも伝えられた儒学 にほん じゅきよう じゅがく ちょうせんはんとう せいき 儒学は、朝鮮半島をへて 5 世紀に日本へも儒教と った おし しようとくたいしかんいじゅうにかい して伝えられ、その教えは聖徳太子の冠位十ニ階 じゅうななじようけんぼう や十七条憲法などにも取り入れられている。その みふんじようげおも じゅがく 後、身分の上下を重んじる儒学の一派である朱子 ぶしがくもん 学が、武士の学問とされるようになり、江戸時代 ばくふがくもん おも ほうけんせいどせい には幕府の学問として重んじられ、封建制度の精 しんてきささ こくみんせいかつなか しんとう 神的支えとして国民の生活の中にも浸透した。 じつけんにぎ し、 し、つば しゅし たいじん とうきようとぶんきようく 東京都文京区に こうし ある孔子をまっ ゆしませいどう った湯島聖堂 まちが 17
じゅがくひら じんせいとな 儒学を開き、仁政を唱えた 4 一景イゞ与 集英社刊『孔子画伝』より ろりんこくせいがくおんがく じゅがく とく 魯の隣国の斉で楽 ( 音楽 ) を聞く孔子。儒学では、徳のあ ひときようよう がく れい しやきゅうしゆっ る人の教養として、楽のほか、礼 ( マナー ) ・射 ( 弓術 ) ・ きよばじゅっしょこくこ すうすうがく ろくげいおも 御 ( 馬術 ) ・書 ( 国語 ) ・数 ( 数学 ) の六芸が重んじられた。 がくもんず しようねんじだい ・学問好きの少年時代 いま ねんむかしちゅうごく 孔子は、今から 2500 年も昔の中国で、儒学と がくもんはじ ひと だいちゅうごく 呼ばれる学問を始めた人です。古代中国では、 きげんぜん しゅうおうちょうちから ちゅう 紀元前 770 年ごろから周王朝の力がおとろえ、中 ごくぜんたい 国全体がいくつもの国に分かれ、諸侯と呼ばれ かくち じつりよくしゃ ぶりよくせいりよくあらそ る各地の実力者たちが、互いに武力で勢力争い せんらんよ をしていました。こうした戦乱の世を生きぬく しょこうすぐ がくもん ため、諸侯は優れた思想や学問を取り入れて自 ぶんくに へいりよくつよ ふこくきようへいせいさく 分の国を富ませ、兵力を強める富国強兵政策を すす さまざま かくち 進めていたのです。そのため、各地で様々な学 がくもん 者 ( 諸子 ) が思想や学問をおこしました。それ がくは いっ力、 かま らの思想や学派は、一家を構えていたことから しよしひやっか はじ 「諸子百家」と呼ばれています。孔子の始めた儒 がく しよしひやっか 学も、そうした諸子百家の 1 つでした。 きげんぜん ねんろ くにみやこきよくふ 孔子は、紀元前 551 年、魯という国の都曲阜の なまえきゅう まわ 近くで生まれました。名前は丘ですが、周りの あざなちゅうじ ちちおや 人からは字でイ中尼と呼ばれていました。父親は、 みぶんひくやくにん おさな 身分の低い役人でしたが、孔子がまだ幼いころ ます しようねんじだいおく びん に亡くなり、貧しい少年時代を送りました。貧 きげんぜん ぜん 紀元前 551 ~ 前 479 年 こだいちゅうごくしゅんじゅうじだいろ 古代中国の舂秋時代に魯という国で かきゅうやくにんこ さいだい 下級役人の子として生まれ、 15 歳で大 がくにゆうがく さい ろやくにん 学に入学、 3 0 歳ごろ魯の役人となる。 りそう だいじん せいじ 「仁」にもとづく政治を理想とし、大臣と じつけんにきさんかんしたいりつ なったが、実権を握る三桓氏と対立して やぶ りそうせいじ 破れ、弟子たちとともに理想の政治を実 たびで げん くにもと ゆめ 現する国を求めて旅に出る。しかし、夢を じつげん きこく 実現しないまま 69 歳で帰国。その後は、 いっぽう じゅくひら でしきよういくあ 塾を開いて弟子の教育に当たる一方、『詩 きようしよきよう しゅんじゅう しっ 経『書経などを編さんし、『春秋』を執 びつ しよもつあらわ おお 筆するなど、多くの書物を著した。 ねん じゅがく ねん くに がく じつ さい ちか ひと しよこくるろうたびとちゅうこうとういちみ まちが 諸国流浪の旅の途中で強盗の一味と間違集英社刊「孔子画伝』より じゅうみんとかこ こうしいっこう えられ、住民に取り囲まれた孔子一行。 朝ことばのまど じゅがく 【儒学】 とく こうし ほうりつぶりよく 孔子は、法律や武力によってではなく、徳によ くにおさ って国を治めることを説いた。そのもとになる じぶんりえきす かそくあいあらわじん のが、家族愛を表す「仁」と、自分の利益を捨て とく あいて て相手に尽くす「義」であり、この 2 つの徳によ かんが くにおさ り、国を治めるべきだと考えた。
すうがくおうじゃ けいざいがくちち 「数学の王者」といわれる 「経済学の父」といわれる 力、ウス ( カール = フリードリヒ = ) アダム = スミス ねん 1777 ~ 1855 年 1723 ~ 1790 年 すうがくしゃおさな けいざいがくしやどうとくてつがくしや ドイツの数学者。幼いころから並外 イギリスの経済学者・道徳哲学者。 はっき だいがくじだい けいさんのうりよく だいがく りんりがくてつがくおし れた計算能力を発揮し、大学時代には、 グラスゴー大学で倫理学と哲学を教 えが じようぎ せいかつけい どうとく ねんかんこう こうぎきろく え、 1759 年に刊行した講義記録『道徳 定規とコンパスだけで正 17 角形を描く ふかのう ていせつくつがえ ほうはうしようめい かんじようろん じゅうめいせいひろ 方法を証明して、古代から不可能とされてきた定説を覆 感情論』でヨーロッパ中に名声を広める。その後、大 すうがくあたら けんじつけんきゅうつづ はっぴょう ぶんや がくや こくふろん しょこくみん とみ ねん 学を辞めて、 1776 年に『国富論』 ( 『諸国民の富』 ) を発表。 した。その後も堅実な研究を続けて、数学の新しい分野 こうせきのこ かすおおかいたくすうがく はってんおお かんり はじ しほんしゅぎしやかい たいけいか こっか を数多く開拓、数学の発展に大きな功績を残した。また、 初めて資本主義社会を体系化し、国家の管理を廃した、 はんえい 天文学では小惑星の軌道計覽、物理学では測地学や電磁 ひとびと じゅう けいざいかつどう こっ力、 人々の自由な経済活動こそが、国家の繁栄につながると ぎようせきおお じりよくあらわたん きがく すうがくいがいすぐ いう「自由放住主義」を説いて占由主義経済学を完成、 気学など、数学以外の優れた業績も多い。磁力を表す単 かれな てんはけいざいがくひら いガウス 位 G は、彼の名にちなんだものである。 古典派経済学を開いた。 しゅうきようかいかく すす ばんがくそ がくもんたいけい 宗教改革をおし進めた あらゆる学問を体系づけた万学の祖 カルバン ( ジャン = ) アリストテレス ねん きげんぜん ぜん 1509 ~ 1564 年 紀元前 384 ~ 前 322 年 しゅうきようかいかくしゃ ねん さいだいてつがくしゃ フランスの宗教改革者。 1533 年、カ 古代ギリシア最大の哲学者。 17 歳か えんぜっおこな ひてい てつがくしゃ やくねんかん トリックを否定する演説を行ってフラ ら約 20 年間にわたってアテネの哲学者 かくちてんてん ねんとうじ お ぜん さい ンスを追われる。各地を転々としなが プラトンに学ぶ。前 343 年、当時 13 歳 かんこう きようこうよう ひとせいしょ ねん おうじ ら 1536 年に『キリスト教綱要』を刊行、人は聖書に書か のマケドニア王子アレクサンドロスの家庭教師となっ ことばふくいん ふくいん てつがくれきしせいじがく かみ おし れた神の言葉 ( 福音 ) によってのみ救われるという福音 て哲学や歴史、政治学などを教える。その後、アテネに まね しゅぎ けんきゅうばっとう がっこうひら はん 学校を開いて誨義と研究に没頭したが、反マケドニア運 主義を唱えた。その後、スイスのジュネープに招かれ、 しゅうきようかいかくつ きんろ、 ちょちく どうし さんだんろんばう かくりつ な お 同市の宗教改革に尽くした。勤髣と貯蓄をすすめる彼 動でアテネを追われて亡くなった。三段論法を確立した しみんかいきゅう し しぜんかがくせいじがく しがく ろんりがく りんりがくてつがく の教えは、特に市民階級に支持され、死後、プロテス 論理学や、倫理学、哲学のほか、自然科学や政治学、詩学 じゅうひろ いつば しよがくもんきそきず タントの一派としてヨーロッパ中に広まった。 など、その後のヨーロッパの諸学間の基礎を築いた。 かんねんろんかくりつ たいりくいどうせっとな ドイツ観念論を確立した 大陸移動説を唱えた カント ( イマヌエル = ) ウ工ゲナー ( アルフレート = ロタール = ) ねん ねん 1724 ~ 1804 年 1880 ~ 1930 年 てつがくしゃ きしようちきゅうぶつりがくしゃみなみ ドイツの哲学者。ケーニヒスプルク ドイツの気象・地球物理学者。南ア 大学で数学・占然科学・哲学を学び、 たいりく たいりく かいがんせん メリカ大陸とアフリカ大陸の海岸線 かがくてき はじ たいせいよ、 が、大西をはさんでびったり合わさ のちに母校の講師となる。初め科学的 ねんだい , 1 , 彎 : ) んは・。びよう てつがくてん たいりくぶんれつ おお 于由論を発表したが、 1760 年代から哲学に転じる。人 ることから、もともと 1 つの大きな大陸が分裂、移動し かんせいてきけいけん けんかいあき げんにんしき げんざい かくたいりく ちしつ せい かんが 間の認識の限界を明らかにし、それまでの感性的経験を て現在の各大陸になったと考えた。各大陸の地質や古生 おも けいけんろん せつうらづ ねんたい おも きようつうてんちょうさ ぶつ 重んじるイギリスの経験論や、理性だけを重んじるフラ 物などの共通点を調査してこの説を裏付け、 1912 年に大 じゅう じんかく ごうりろんひはんてつがく どくりつ たいりくいどう げんどう ) よく はっぴょう りくいどうせつ ンスの合理論を批判。哲学は独立した自由な人格をもつ 陸移動説として発表した。しかし、大陸移動の原動力が けいけんろん ごうりろん にんげん がくもん ねん とうじ し かいめい つ 人間のための学問であるべきだとして、経験論と合理論 解明できなかったため当時は受け入れられず、死後 20 年 かんねんろんかくりつ せいとうせいみなお を統合してドイツ観念論を確立した。 あまりたってようやく正当性が見直された。 きんだいけいざいがくかくりつ じんぶんがくしゃ だいひょう 近代経済学を確立した ルネサンスを代表する人文学者 ケインズ ( ジョン = メイナード ) 工ラスムス ( テシデリウス = ) ねん ねん 1883 ~ 1946 年 1466 ~ 1536 年 けいざいがくしゃだいいちじせかいたい じんぶんがくしやしんがく てんまな イギリスの経済学者。第一次世界大 オランダの人文学者。神学や古典を学 せかいてき だいふきよう てん こうゆうふか せん 戦後の世界的な大不況のなかで、古典 び、思想家トマス = モアらと交友を深め はけいざいがく じゅうほうにんしゅぎ ひはん げんてんけんきゅう せいしよ 派経済学の自由放任主義を批判。 1936 ながら、聖書の原典を研究する。 1509 しつぎよう いつばんりろん あらわ そうりよおうこうきぞく ねん こよう ねんてつがくしゃ しんがくしゃ 年に『雇用・利子および貨幣の一般理論』を著し、失業 年、哲学者や神学者、カトリックの僧侶や王侯貴族の堕 をなくすためには、国家が積極的に公共竈業を進めて はっぴょう かくち きび ぐしんらいさん らく ひはん 落を厳しく批判した『愚神礼賛』を発表、ヨーロッパ各地 しゅちょう りろん じゅうよう えいきようあた しゅうきようかいかく うんどうおお 雇用をつくりだすことが重要と主張した。この理論は、 のルネサンス運動に大きな影響を与え、宗教改革のひ おお しゅうきようかいかくうんどう げきか けいざいがく かくめい せかい 世界の経済学に「ケインズ革命」と呼ばれるほどの大き きがねとなった。しかし、ルターの宗教改革運動が激化 せかいつうかききん たいにじせかいたいせん ろんそう しようげきあた へいわしゅぎ たちば たいりつ な衝撃を与えた。第二次世界大戦後は世界通貨基金 すると、平和主義の立場からルターと対立し、論争をく せかいぎんこうせつりつじんりよくしょだいそうさい しゅうにん きんだいじゅうしゅぎしそうせんくしゃ ( 川 F ) 、世界銀行の設立に尽力、初代総裁に就任した。 り広げた。近代自由主義思想の先駆者といわれる。 44 なみはす ねん まな か かていきようし とな おし こ一三 かくたいりく りせい し、 よ ひろ
かみなり せいしよくしや ・雷をおそれて聖職者に ルターはドイツのアイスレーベンに生まれま こうざんいとなちち そうめい した。鉱山を営む父は、幼いころから聡明だっ さい たルターに期待をよせ、 5 歳のころからラテン ざいさん ー・カゞつっ かよ めいせい 語学校に通わせました。名声や財産を得られる ほうりつか かんが 法律家にさせようと考えたのです。ルターは大 がくすす と べん 学に進んで文学の学位を取り、さらに法律の勉 きようつつ・ 強を続けていました。ところが 22 歳の夏のある りよこうちゅう らいうおそ とつぜんはげ ひ みみ 日、旅行中に突然激しい雷雨に襲われます。耳 なひびカみなり きようふかん おん 元で鳴り響く雷のこう音に死の恐怖を感じたル かみさま わたししゅうどうし ターは、「神様たすけて下さい、私は修道士に いちめい ひっし いの なります」と必死に祈り、一命を取りとめると、 ちちはんたい しゅうどうし お 父の反対を押しきって修道士になりました。 きようこうたいりつしゅうきようかいかくおこな 教皇と対立し、宗教改革を行った ルター ( マルティン = ルター ) 1483 ~ 1546 年 つ おさな ほうツつ ぶんがく ねん 3 ミ もと し と ををイ 0 し ちゅうぶ う ほうがくまな 中部ドイツに生まれ、法学を学んだの ねんしゅうどういんはい ねんこ ち、 1505 年に修道院に入る。 2 年後に しさい ねん 司祭になり、 1 512 年にウィッテンベル だいがくしんがくきようじゅ ねんきよう ク大学の神学教授になる。 1517 年、教 かいたいりようめんざいふ う 会が大量の免罪符を売り出すと、これに だ こうき じようろんだい 抗議して「 95 か条の論題」を出し、ヨ じゅうきろんま しゅうきよう お ーロッパ中に議論を巻き起こして、宗教 かいかく つく ねん 改革のきっかけを作った。 1521 年にロ さまざまあつりよくけ、 きようこう はもん ーマ教皇から破門され、様々な圧力と戦 しゅうきようかいかくしようがいささ いながらも宗教改革に生涯を捧げた。 4 かみなり しゅうきようみちみちび 激しい雷がルターを宗教の道に導いた。 しゅうどういんはい けんめい しゅぎよう ねっしん 修道院に入ったルターは懸命に修行し、熱心 しんがく まな おこな に神学を学びました。しかし、いくら行いを正 わるかんが しても、心に浮かぶ悪い考えを消すことはでき ぜっぱう なか なやぬ ませんでした。絶望の中で悩み抜いたルターは、 にんげんしゅぎよう こうどう つみ 人間は修行などの行動で罪を消すのではなく、 かみしん つみくあらた かみ ただ神を信じ、罪を悔い改めることによって神 かんが に救われるのだと考えるようになりました。そ ねん しんがくはかせ だいがくてつがく して 1512 年には神学博士になり、大学で哲学と しんがくおし 神学を教えるようになりました。 きようかいひはん じようろんだい ・ローマ教会を批判する「 95 か条の論題」 きようちゅうしん 当時、キリスト教の中心であるローマ教会に かっこくおう きぞく けんきんあっ おお は、各国の王や貴族から多くの献金が集まって とみあっ せいしよくしゃ いました。そのため、富の集まる聖職者の地位 いみうしな しんがく きぞく は本来の意味を失い、神学に無知な貴族によっ きようこう て占められていました。当時の教皇レオ 10 世さ ものがたり ものがたり え「『キリストの物語』はもうかる物語だ」と こうげん 公言していたのです〇 はげ け とうじ きようかい じいん 【サン一ピエトロ寺院】 ねんいじようねんげつ つく ねん 1452 年から 200 年以上の年月をかけて作られ きようかいちゅうしんちけんちく たローマ教会の中心地。建築にはミケランジェロ ゆうめいげしもゆっか かか やラファ工ロら有名な芸術家も関わっている。 むち ほんらい し せい 40
けんきゅうねっしん しようねん ・研究熱心なニュートン少年 のう力、 ニュートンはイギリスの農家に生まれました。 ちち はは そのときすでに父は亡く、母も 3 歳のときに再 いえで そだ そば 婚して家を出ていたので、祖母の手で育てられ き よわ なむし こうさく どくしょ ました。気が弱く、泣き虫でしたが、工作と読書 す じぶんみすどけい ひどけい つく が好きで、自分で水時計や日時計を考えて作り、 むらじゅうひょうばん べんきよう 村中の評判になったこともありました。勉強が だいす さいこんあいて な 大好きでしたが、 14 歳のとき、再婚相手を亡くし はは せいかっ し、え た母が 3 人の子どもと家にもどると、生活のた カゞっこっ はたけしごとてつだ めに学校をやめて畑仕事を手伝うようになりま あたまべんきよう した。しかし、頭は勉強のことでいつばいで、仕 かんが 事をしながら考え事ばかりしていました。 ねん す はげ たいふう それから 2 年ほど過ぎたころ、激しい台風か むらおそ あらしなか じつけんはじ 村を襲うと、ニュートンは嵐の中で実験を始め かぜむ しやめん ました。風の向きにそって丘の斜面を飛び、次 かせさか と かぜ に風に逆らって飛んで、その距離の差から風の ちからはか いっとき けんきゅう そば 力を計ったのです。母や祖母は、一時も研究を わす がっこっ 忘れられないニュートンを学校にもどすことに ちゅうがっこっ しました。こうして中学校にもどったニュート いちばんせいせきそっぎよう だいがく ンは、一番の成績で卒業し、ケンプリッジ大学 すす すうがくぶつりがく けんきゅうせい に進んで数学と物理学を学び、卒業後も研究生 けんきゅうつづ として研究を続けました〇 ばんゆういんりよくはつけん だいかがくしや 万有引力を発見した大科学者 ーユートン ( アイザックーニュートン ) 1642 ~ 1727 年 つ な て かんが ねん し と おか はは そっぎようご まな むらのう イギリスのウルスソープという村の農 そほそだ さい 家に生まれ、祖母に育てられた。 19 歳 だいがくにゆうがくすうがくぶつり でケンブリッジ大学に入学、数学と物理 がくまな そっきようこだいがくけんきゅうつづ 学を学び、卒業後も大学で研究を続けて はんゆういんりよくびせきぶんほう さいきようじゅ 26 歳で教授となる。万有引力、微積分法、 ひかりせいしつ げんだいかがく きそきず 光の性質など、現代科学の基礎を築く かずかずはつけん ねんけんきゅう 数々の発見をし、 1687 年、研究をまと はっぴょう めいせい めた『プリンキピア』を発表して名声を ばんねんそうへいきよくちょうかんしごと え 得た。晩年は造幣局長官の仕事もこな ねんしようがいと し、 84 年の生涯を閉じた。 ノ : ィ きようふらなが : しつけん = 1 ートは強風の中で実験をタ最 らっか ばんゆういんりよくはつけん ・リンゴの落下で万有引力を発見 りゆうこう だいがくへいさ ベストの流行で大学が閉鎖された 1664 年から ねんかん こきようかえ 3 年間、ニュートンは故郷に帰って「ニュート さんだいはつけん じゅうよう はつけん ンの三大発見」と呼ばれる重要な発見をしまし ばんゆういんりよく はつけん た。その 1 つが万有引力の発見です。 ちきゅう かいてん このころニュートンは、地球のまわりを回転 とお している月が遠くへ飛んでいかない理由につい ひにわ て考えていました。そんなある日、庭のリンゴ つ か ノし 0 ねん ロ はんしやぼうえんきよう 【反射望遠鏡】 くっせっぽうえんきよう つか それまで使われていた屈折望遠鏡の、色がにじ けってんおきな ほうえんきようせんめい がぞうえ むという欠点を補った望遠鏡。鮮明な画像を得 てんもんがくはってんおお やくわり られ、天文学の発展に大きな役割を果たした。 と虧のまど いろ は と つき りゆう かんが 30
ちゅうこくはつれきししよ し き 中国初の歴史書史記』を書いた しはせん 司馬遷 せん きげんぜん ねん 紀元前 145 ころ ~ 前 86 年ころ ちゅうごくぜんかんじだいれきし か 中国の前漢時代の歴史家。早くから けんきゅう てんした 古典に親しむとともに、歴史の研究を 重ねる。やがて父のあとを継いで亟官 れきしたんとうやくにん ちゅうごくさいしよっう ゆいごんしたが ( 歴史担当の役人 ) になると、遺言に従って中国最初の通 こうふく しようぐん はじ せんねんてき 史『史記』の編さんを始めた。前 99 年、敵に降伏した将軍 りりようべん たんせいきせつだんけい 李陵を弁護して武帝の怒りをかい、男性器切断の刑を受 きゅうてい かんせい けた。しかし、『史記』完成のために恥をしのんで宮廷に ちゅうごく やくせんすうひやくねんれきし せんかん もどり、中国の太古から前漢まで約 2 千数百年の歴史 きでんたい けいしきぜんかん を、紀伝体という形式で全 130 巻にまとめあげた。 そうがくしゅしがく たいせい 宋学 ( 朱子学 ) を大成した しゆき ねん 1 130— 1200 年 ちゅうごくそうだい 中国の宋代の思想家。朱子ともいう。 ごうかく やくにん 19 歳で科挙に合格して役人となり、そ じゅがく さいやくにん のかたわら儒学を学ぶ。 28 歳で役人を がくもんせんねん しゅうとんい じゅがくそうごう や 辞めて学問に専念し、周敦頤らの儒学を総合して宋学 ばんぶつき しゅしがく たいせい けいせい ( 朱子学 ) を大成。万物は気によって形成されるが、天 き むす から与えられた理が備わっており、理と気が結びついて せかいちつじよ 世界の秩序が保たれるとした。また、君主と家臣はそれ ほんぶんただ しやかいちつじよ ぞれの本分を正すことで社会秩序が保たれると説き、朝 えいきようあた せんにほん おお 鮮や日本にも大きな影響を与えた。 きんだいこうりしゅぎてつがくはじ 近代合理主義哲学を始めた デカルト ( ルネ = ) ねん 1596 ~ 1650 年 てつがくしやすうがくしゃ フランスの哲学者・数学者。法律家 ころざ がくもん つ の家に生まれ、学問を志したが、当時 しはい 学界を支配していたキリスト教のスコ ラ学に不満をもつようになり、各国を転々として占然科 ねんほうほうじよせつ がくてつがく こうさつふか あらわ 学や哲学の考察を深めた。 1637 年『方法序説』を著して、 かんじよう にんげん りせい かがくてき かんかく 感覚や感情ではなく人間の理性によって科学的に真理 きわ ごうりろんとな すべうたが さい を究めようとする合理論を唱えた。全て疑い、最後に残 そんざい しゆっぱっ おも じふん った自分という存在から出発しようとした「われ思う、 ことばゆうめい ゆえにわれあり」の言葉は有名。 うちゅう はっぴょう 「ハーシェルの宇宙」を発表した ハーシェル ( フレデリック = ) 1738 ~ 1822 年 イギリスの天文学者。ドイツで音楽 ねん 家の家に生まれる。 1757 年イギリスに えんそうか わた 渡りオルガン演奏家となるが、そのか じさくおおがたばうえんきよう かんしん たわら自作の大型望遠鏡で子どものころから関心のあ ねんみちわくせい てんたいかんそく った天体観測に打ち込む。 1781 年、未知の惑星であった てんのうせい ごうけい せいうんせいだん はつけん ねん 天王星を発見し、 1802 年には合計 25 固もの星雲・星団 せいうんせいだんもくろく あらわ かくにん の位置を確認し、『星雲・星団目録』を著した。さらに 全天の星の分布と距離を計覽して区画毎に集計し、「ハ はっぴょう てんたい よ ーシェルの斈宙」と呼ばれる天体の体系を発表した。 か さいきんがくちち 「細菌学の父」といわれる コッホ ( ロベルト = ) ねん 1843 ~ 1 9 1 0 年 さいきんがくしゃ ちほう ドイツの細菌学者。地方の医師とし けんびきようたよ っと て勤めるかたわら、顕微鏡を頼りに炭 けんきゅう ねんたんそきんはつけん そびよう 疽病を研究し、 1876 年に炭疽菌を発見。 さいきんせんしよくじゅんすいばいようはう かいはつ でんせんびよう 細菌の染色や純粋培養法を開発して、伝染病にはそれ しようめい つつ′ ねん とくていびようげんきん ぞれ特定の病原菌があることを証明した。続いて 1882 年 けっかくきんよくねん きんはつけん ねん に結核菌、翌年にはコレラ菌を発見。 1890 年にはツベル ねんいこう でんせんびよう はっぴょう わだい クリンを発表して話題となる。 1891 年以降は、伝染病 しょだいしょちょうしゅうにん けんきゅうじよ けんきゅうじよ 研究所 ( コッホ研究所 ) の初代所長に就任し、日本の きたさとしばさぶろう さいきんがくしやそだ おお 北里柴三郎など多くの優れた細菌学者を育てた。 ちどうせっとな 地動説を唱えた コペルニクス ( ニコラウス = ) 1473 ~ 1543 年 せいしよくしや てんもんがくしやかく ポーランドの聖職者、天文学者。各 だいがくてんてん しんがくすう 地の大学を転々としながら、神学や数 とくてんもんがく 学、医学などを学ぶ。特に天文学に打 てんどうせつあやま き ち込み、古代から信じられてきた天動説の誤りに気づい ちきゅうたいよう まわ ちどうせつしん て、地球が太陽の周りを回っているという地動説を信じ いしやばくし っと るようになった。その後、医者や牧師として勤めるかた けんきゅうすす ちどうせつかくしん てんたいかんそくつづ わら、天体観測を続けて研究を進め、地動説を確信した てんどうせつ きようかいおし が、天動説をとる教会の教えに反するものだったため、 しちよくぜん 爿イナ 死の直前まで公にすることはなかった。 へいわねが こくさいこ 平和を願って国際語をつくった サメンホフ ( ラザロ = ルドウィック = ) ねん 1859 ~ 1 9 1 7 年 はつあん 工スペラント語を発案したポーラン こきようとうじ がんかい ドの眼科医。故郷は当時ロシア領で、 ことばっか さまざまみんぞく 様々な民族が、それぞれの言葉を使っ た てくらしていたため、いさかいが絶えなかった 。っし こくさいきようつう かんきようそだ だれ つうあ かんたん た環境で育つうち、誰もが通じ合える簡単な国際共通 はっぴょう げん 【ナつし一 ねん 語をつくろうと決意し、 1877 年に国際語を発表。この言 はっぴょうじ 語は発表時のペンネームからエスペラント語と呼ばれ、 めいじじたいふたばていし せかいひろ その後、世界に広まった。日本では明治時代に二葉亭四 めいふきゅうつ げんざいおお かいいん 迷が普及に尽くし、現在も多くの会員がいる。 てんねんとうよぼうほうかいはつ 天然痘の予防法を開発した ジェンナー ( 工ドワード = ) ねん 1749 ~ 1823 年 し一し一ん力、し、 イギリスの医師。 1773 年に医院を開 しゅぎようじたい いちどぎゅうとう ぎようご 業後、修業時代に聞いた「一度牛痘 びようき てんねんとう ( 天然痘に似たウシの病気 ) にかかっ てんねんとう はなし てんねんとうよ ひと た人は、天然痘にかからない」という話から、天然痘予 ねんぎゅうとうかんじゃ けんきゅうすす 防の研究を進める。 1796 年、牛痘患者からとったうみ じつけん てんねんとう つ を子どもに植えて実験し、天然痘にかからないことを実 ぎゅうとうせっしゅはう あんぜんてんねんとう よほうほう 正した。この牛痘接種法は、安全な天然痘の予防法とし おお ひとびとてんねんとう きゅうそくせかいひろ て急速に世界に広まり、多くの人々を天然痘から救う めんえきがく きばん とともに、その後の免疫学の基盤ともなった。 はや れきし かん つ し、カ、 ぶてい 0 - リノタッ ねん しゅし ち まな つ まな いがく がく そうがく てん まわ り りそな くんしゅ ちょう と はん ほう丿つか とうじ し、ん V ン がっかい こくさい よ にほん / ン第 ねん てんもんがくしゃ ん お つ か し、ん つ し一三ロ たいけい 45 9
0 もくじ アインシュタイン アルキメテス イエス = キリスト ガリレオ キュリー夫人 げんじよう 玄奘 こうし ジェーン = グドール シャカ シュバイツア シュリーマン ソクラテス ダーウイン ニュートン バスツール ファーブル フロイト マルクス ルター レイチェル = カーソン ふじん はん つか 14 20 22 24 26 28 30 32 34 36 38 40 42 かた アタム = スミス アリストテレス ウェゲナー 工ラスムス コッホ コペルニクス サメンホフ ジェンナー バスカル ハップル バブロフ ハレー もうし 孟子 モンテスキュー リーキー リンネ 総索弓に そうさくいん そうさくいん 0 総索引 ほん ガウス カルバン カント ケインズ しはせん 司馬遷 しゆき デカルト ハーシェル ピタコラス プラトン マホメット メンテル レントゲン 老子 ロック ろうし ぜんかんとうじよう 44 45 ー 46 47 .. 48 じんぶつめい 0 この本の使い方 および現代中国人名については現地音を採用。 ) げんちおんさいよう げんだいちゅうこくじんめい 用し、五十音順に配列してあります。 ( 朝鮮人名 ちょうせんじんめい こじゅうおんじゅんはいれつ よう 0 人物名は、日本でよく使われている呼び方を採 よかたさい つか じんぶつめい 取り上け、巻末にまとめて解説してあります。 あ かいせつ かんまっ と そのほか、同じ分野で活躍した 32 人の人物を にんじんぶつ おなぶんやかつやく イラストとともに紹介してあります。 しようかい な功績を残した人物 20 人を選び、写真やカラー しやしん にんえら こうせきのこ じんぶつ 0 この本では、学問および宗教の分野で特に大き しゅうきようぶんやとくおお ほん がくもん 本シリーズ全 5 巻に登場する人物名 ごじゅうおんじゅんはいれつ そうさくいんもう を五十音順に配列した総索引を設 けてあります。 りかいたす ほんぶんちゅうむずか 理解を助けるため、本文中の難しい かいせつ ことばを解説してあります。
監修者 : 山口昌男 ( やまぐちまさお ) 1931 年北海道生まれ。東京大学文学部国史学科卒業後、東京都立大 学大学院で文化人類学を専攻。東京外国語大学アジア・アフリカ言 語文化研究所教授、静岡県立大学国際関係学部教授を経て、現在、 札幌大学学長。世界各地へのフィールドワークを展開し、 70 年代以 降の文化人類学を牽引する。その領域は精神史から記号論にまでお よび、新しい知のあり方をテーマとする著作活動は、文化人類学界 のみならず演劇・文学・歴史・思想の各分野に影響を与える。 主著『道化の民俗学』 ( 筑摩書房 ) 、『歴史・祝祭・神話』 ( 中央公論社 ) 、 『知の祝祭』 ( 河出書房 ) 、『「敗者」の精神史』 ( 大佛次郎賞受賞、岩波 書店 ) など多数。 【表紙カバーデサイン】 【本文レイアウト】 【イラストレーター】 ハュマ / イ中沢祐美 ハュマ / 太田朋子洞難裕己 柳柊二梅田紀代志藤田正純 進士絵里子イ中沢祐美 中尾雄吉 【編集・企画・構成・執筆】 ハュマ / 戸松大洋近藤哲生 長井静 大石佐世 せかいじんぶつひやっか め 目でみる世界人物百科 5 学問・宗教人物事典 初版第 1 刷発行 2003 年 2 月 25 日 [ 監修者 ] 山口昌男 [ 発行者 ] 高野義夫 [ 発行所 ] 株式会社日本図書センター 〒 112 - 0012 東京都文京区大塚 3-8-2 しゅうきようじんぶつじてん がくもん ー SBN4-8205-8739-3 C0500 \ 4400E ( 第 5 巻 ) BN4-8205-8734- X C0500 \ 22000E ( 全 5 巻・セット ) [ 印刷・製本 ] 図書印刷株式会社 http ・ //www.nihontosho.co.」 p 電話営業部 03 ( 3947 ) 9387 出版部 03 ( 3945 ) 6448
みつりんせいじゃ アフリカの医療に生きた密林の聖者 シュバイツアー ( アルベルト = シュバイツアー ) 1875 ~ 1965 年 いりようい ねん ねが ・みんなの幸せを願って おさな さかな シュバイツアーは幼いころから、鳥打ちゃ魚 いのち どうぶったいせつ 釣りさえも嫌い、命あるものは人も動物も大切 ころもぬし やさ にする優しい心の持ち主でした。あるときは、 ともだち まえ けんかして組み伏せた友達から「お前のように 肉のスープが飲めたら、けんかに負けたりしな せいかっ いのに」と、ぜいたくな生活をとがめられて、 肉のスープを飲めなくなってしまいました。た しゅうい しかに、シュバイツアーの周囲には、めったに ます くち かてい 肉を口にできない貧しい家庭もあ。たからです 3 じぶん シュバイツアーはこのころから、「自分だけが幸 おも ふく 福であればいい」と思うこ しようねん とのできない少年だっ たのです。 21 歳になり、音 がくもんあい と学問を愛す せいねん せい る青年へと成 長していたシ ュバイツア じぶんしよう は、自分の将 おお 来について大き けつい な決意をしまし た。それは、 30 歳 いえう てつがくしゃ ほくし ドイツの牧師の家に生まれ、哲学者・ そうしや しんがくしや けんきゅうか 神学者・バッハの研究家・オルガン奏者 めいせいえ さい として名声を得る。 29 歳のとき、アフ いりようかつどう けつい おくち リカ奥地で医療活動をしようと決意し、 わた とちゅう さい 38 歳でアフリカに渡った。途中、 2 度の いりようかっ せかいたいせんま 世界大戦に巻き込まれながらも、医療活 かくへいき どうつづ だいにじせかいたいせんご 動を続け、第ニ次世界大戦後は核兵器の はいぜっせかいうった さい 廃絶を世界に訴えた。 78 歳でノーベル へいわしようじゅしよう 平和賞を受賞した。 しあわ きら ひと あい シュバイツアーは、けんか相 てにく 手に肉のスープをとがめられ、 くち それを口にできなくなる。 おん 【ガポン】 わんめん くに ちゅうせいぶ アフリカ中西部にあり、ギニア湾に面した国。 ねん りよう ねん 1 889 年にフランス領となったが、 1 960 年に きようわこく どくりつ 独立してガポン共和国となった。 ちょう 朝了とばのまど らい 22