歳 - みる会図書館


検索対象: 学問・宗教人物事典
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1. 学問・宗教人物事典

ちい かんさっしや ・小さな観察者 ファープルは、 4 歳から 7 歳までを山の中に し、え そふば かちくむしあそあいて ある祖父母の家で、家畜や虫を遊び相手に過ご じぶんじしん しました。このころからどんな疑問も自分自身 で確かめなければ気がすまず、 5 歳くらいのと たいよう ぶふん き、「太陽を見ているのはどの部分だろう」と疑 もんいだ くちひら つぎ 問を抱くと、大きく口を開いて目をつぶり、次 に、目を開けて口を閉じてみて、ものを見てい おさな るのが目であることを確かめました。これが幼 はじ じつけん いファープルの初めての実験でした。 りようしん むら 両親のいるサン一レオンの村にもどっても、 くさき ファープルの興味の対象は虫や鳥や草木でした〇 おがわっ ちい 家畜のカモを小川に連れていけば、小さなポケ かいがら うんも いつばい ットは貝殻やきらきら光る雲母で一杯になりま じぶん した。ファープルには自分を取り巻くすべての きようみぶか しようがっこっ ものが興味深かったのです。小学校に入ると、 しよくぶつどうぶつ なまえおば むちゅう 植物や動物の名前を覚えるために夢中で文字を おば なまえ 覚え、ラテン語の名前も読めるようになりまし た。やがて詩を読むようになると、そこに描か しぜんふうけい ころうば れる自然の風景に心を奪われました。 し寺 ん 砿南 やま さい なか ぎもん ファープル ( アンリ = ファープル ) ねん 1823 ~ 1 915 年 おお くち きようみたいしようむし かちく ひか はい みなみ のうか きゅう 南フランスの貧しい農家に生まれ ひせい しはんがっこうそっきよう さい 費生として師範学校を卒業し、 19 歳で しようがっこうせんせい さいちゅうがっこうせんせい 小学校の先生に、 26 歳で中学校の先生 はくぶつがくしゃ はく になる。博物学者タンドンのすすめで博 ぶつがくこころざきようしよくいつほうみちかどうしよくぶつ 物学を志し、教職の一方で身近な動植物 けんきゅうつづ しせいかっ つまこ の研究を続けた。私生活では、妻と子ど さきだ かな もたちに先立たれるという悲しみを負 びんぼうとなあ せいかっ い、つねに貧乏と隣り合わせの生活だっ さい はじ たが、 5 0 歳を過きてから書き始めた こんちゅうき さいかんせい はんねんけん 昆虫記』を 84 歳で完成させ、晩年は研 きゅうせいかみと さいえいみん 究の成果を認められ、 91 歳で永眠した。 おがわきんいろ かかやうんも むちゅうあっ ファーブルは小川で金色に輝く雲母を夢中で集めた はくぶつがく めざ ・博物学への目覚め しようがっこっせんせい ファープルは 19 歳で小学校の先生になり、さ どくがくすうがくぶつりがくべんきよう ちゅうがっこっ らに独学で数学と物理学を勉強して、中学校の せんせい せんせい ふにん 先生になります。先生として赴任したコルシカ とうゆた しぜん きようみ せいぶつ 島の豊かな自然は、ファープルの生物への興味 うんも 【雲母】 がんせきなかぶく けっしよう 岩石の中に含まれる、薄くはがれやすい結晶。 はくぶつがく 【博物学】 ( → p. 28 ) 34

2. 学問・宗教人物事典

みつりんせいじゃ アフリカの医療に生きた密林の聖者 シュバイツアー ( アルベルト = シュバイツアー ) 1875 ~ 1965 年 いりようい ねん ねが ・みんなの幸せを願って おさな さかな シュバイツアーは幼いころから、鳥打ちゃ魚 いのち どうぶったいせつ 釣りさえも嫌い、命あるものは人も動物も大切 ころもぬし やさ にする優しい心の持ち主でした。あるときは、 ともだち まえ けんかして組み伏せた友達から「お前のように 肉のスープが飲めたら、けんかに負けたりしな せいかっ いのに」と、ぜいたくな生活をとがめられて、 肉のスープを飲めなくなってしまいました。た しゅうい しかに、シュバイツアーの周囲には、めったに ます くち かてい 肉を口にできない貧しい家庭もあ。たからです 3 じぶん シュバイツアーはこのころから、「自分だけが幸 おも ふく 福であればいい」と思うこ しようねん とのできない少年だっ たのです。 21 歳になり、音 がくもんあい と学問を愛す せいねん せい る青年へと成 長していたシ ュバイツア じぶんしよう は、自分の将 おお 来について大き けつい な決意をしまし た。それは、 30 歳 いえう てつがくしゃ ほくし ドイツの牧師の家に生まれ、哲学者・ そうしや しんがくしや けんきゅうか 神学者・バッハの研究家・オルガン奏者 めいせいえ さい として名声を得る。 29 歳のとき、アフ いりようかつどう けつい おくち リカ奥地で医療活動をしようと決意し、 わた とちゅう さい 38 歳でアフリカに渡った。途中、 2 度の いりようかっ せかいたいせんま 世界大戦に巻き込まれながらも、医療活 かくへいき どうつづ だいにじせかいたいせんご 動を続け、第ニ次世界大戦後は核兵器の はいぜっせかいうった さい 廃絶を世界に訴えた。 78 歳でノーベル へいわしようじゅしよう 平和賞を受賞した。 しあわ きら ひと あい シュバイツアーは、けんか相 てにく 手に肉のスープをとがめられ、 くち それを口にできなくなる。 おん 【ガポン】 わんめん くに ちゅうせいぶ アフリカ中西部にあり、ギニア湾に面した国。 ねん りよう ねん 1 889 年にフランス領となったが、 1 960 年に きようわこく どくりつ 独立してガポン共和国となった。 ちょう 朝了とばのまど らい 22

3. 学問・宗教人物事典

しようねんじだいゆめ ・少年時代の夢 えが 「お父さん、この絵を描いた人はトロイを見 さい たことがあるんだね ! 」 7 歳のシュリーマンは せかいれきし ほんえが 『子どものための世界歴史』という本に描かれた あ さしえ みさけ 燃え上がるトロイの挿絵を見て叫びました。 シ = リーマンの父はしい牧師で、古い歴史 きようみ むす はなし に興味があり、息子にいろいろな話を聞かせて えいゆう かつやく いました。なかでも、英雄たちが活躍するトロ えが イ戦争を描いた『イリアス』は、シュリーマン き ちちわら のお気に入りだったのです。父は笑いながら 「トロイは焼け落ち、埋もれてしまった。」と応え ほんえが ましたが、それでもシュリーマンには、本に描 あっ かれたトロイの厚 いしづく じようへき い石造りの城壁 が、焼けたくらいで おも なくなるとは思え ませんでした。「ト ロイの城はきっと したねむ 今も土の下に眠っ ちが ているに違いない。 だ いつか僕が掘り出 おさな そう」と、幼い心 ちち き おく クリスマスに父から贈られた本 に決めたのです。 じんせいき ながみち ゆめ が、シュリーマンの人生を決めた。 ・夢までの長い道 さい がっこっそっぎよう あと 14 歳で学校を卒業した後も、シュリーマンの はっくつゆめか トロイ発掘の夢は変わりませんでした。しかし、 しい青年は、まず莫大な資金をつくらなけれ ひと ばなりませんでした。人のってを頼ってベネズ ふねの なんば 工ラ行きの船に乗ったものの、難破してオランダ あ かね つ に打ち上げられてしまいました。宿もお金もな ぐんたい よわ く、軍隊に入ろうとしても体が弱くて許可され ません。 しようしゃ っか やと ようやく商社の使い走りに雇われたシュリー とば きゅうりよう はんぶんつか んし、こ マンは、乏しい給料の半分を使って英語やフラ おば ひっし ンス語を覚えました。必死の努力で 6 か国語を おぼ 力、し、カゞし、 つうしんやくやと しよう 覚えて海外への通信役に雇われ、ロシアとの商 だん ひつよう しゅうかん 談にロシア語が必要となると、たった 6 週間で おば しようだんまか ロシア語を覚え、商談も任されるようになりま しようにん ことばはなし した。どんな国の商人ともその国の言葉で話か しようにん さいのう できるシュリーマンは、商人としての才能をめ さいむか の きめきと伸ばし、 40 歳を迎えるころには、押し お だいしようにん も押されぬ大商人になっていました。 でんせつ 伝説のトロイを発掘した シュリーマン はっくつ ひと も ( ハインリヒ = シュリーマン ) 1822 ~ 1890 年 ねん せんそう し、 や ぼくし いえ おさな つ ドイツの牧師の家に生まれ、幼いころ、 ー訌よしき こだい 話に聞いた古代ギリシアのトロイの城を さが けっしん さいじつきようがっこうで 探そうと決心した。 14 歳で実業学校を出 ざっかてんっと ると雑貨店に勤め、 20 歳でオランダに こがく まな ほうえききよう 行き、語学などを学んで貿易業につく。 さい わた ほう あい さらに 24 歳でロシアに渡ると、藍の貿 きょまんとみきず さい じきよう 易で巨万の富を築いた。 41 歳で事業を せかいりよこうあと ちょうさ やめ、世界旅行の後、トロイの調査にか しさいとう おか はっ かり、私財を投じてヒッサリクの丘を発 くつ いせきはつけん つづ 掘し、トロイの遺跡を発見した。続いて いせきはっくつ ギリシアのミケーネの遺跡を発掘し、考 こがくはってんこうけん 古学の発展に貢献した。 0 いまっち ほ ほん し、 やど っ はい からだ 朝ことばのど「 はし どりよく 【『イリアス』】 こだい しじん じよじし 古代ギリシアの詩人ホメロスが書いた叙事詩。 おうひ おうじ つ トロイの王子がギリシアの王妃を連れ去ったこ はじ たたか とに始まるトロイとギリシアとの戦い ( トロイ せんそう ようすえが 戦争 ) の様子を描いている。 か さ 24

4. 学問・宗教人物事典

がっこうひら 魯にもどって学校を開き、弟 じゅがくおし こうし 子たちに儒学を教える孔子。 集英社刊「孔子画伝」より ばうせいかつなか 乏な生活の中でも、孔子は子どものころから学 れ、殺されかけたことさえあったのです。 もんず がくもんじよ りそうせいじ きぼう 問好きとして知られ、 15 歳で国の学問所である 理想の政治への希望をなくした孔子は、 14 年 たかひと かんたびお こきようかえ じゅくひら 間の旅を終えて 69 歳で故郷に帰ると、塾を開い 大学に入学。 30 歳ごろには徳の高い人として評 ばん ろやくにんと きよういくせんねん 判になり、魯の役人に取り立てられました。 て弟子たちの教育に専念するようになります。 じん せいじとな ・「イコにもとづく政治を唱える そのかたわら、周の時代に書かれた『詩経』『書 だいちゅうごくぜんせいおこな 経』の編さん、『易経』の注釈、魯の歴史書『 やがて、孔子は、古代中国で善政を行ったとさ でんせつじようぎようていしゅんていしゅうおうちょう じゅう しっぴっ れる伝説上の堯帝や舜帝、周王朝のもとを築い 秋』の執筆などに打ち込み、 74 歳でこの世を去 けんきゅう せいじ た旦などの考えを研究し、「仁」にもとづく政治を りました。 とな ことば じん おや でし 唱えるようになります。「仁」とは、親の子どもに 孔子の死後、その言葉は弟子たちの手で『論 あい とくつ じんみん おし じゅがく ひろ 対する愛のことで、君主も徳を積んで人民をわ 語』にまとめられ、その教えは儒学として広め あい せいじおこな がくもん が子のように愛して政治を行えば、国がうまく られました。儒学が、国の学問として重んじら こうしめいせい おさ 治まり、豊かになるというものです。孔子の名声か れるようになったのは、孔子の死後 350 年近くた ひと がくもん かんじだい 高まるにつれ、その人がらと学問をしたう弟子 った漢の時代になってからのことです。 たちが、孔子のもとにまるようになりました。 しゆっせ さい しだいに出世した孔子は、 54 歳でついに魯の ほうむだいじん 司寇 ( 今の法務大臣 ) の地位につきます。しかし、 さんかんし 当時魯の実権を握っていた三桓氏と呼ばれる 3 けゆうりよくしゃ ころよおも しゆっせ 家の有力者たちは、孔子の出世を快く思ってい くんしゅ けんりよく ませんでした。君主をしのぐほどの権力をふる さんかんしおうばう う三桓氏の横暴ぶりを目にして、孔子はそれら せいりよくおさ しつばい の勢力を抑えようとしますが、失敗し、とうと くんしゅ とお う君主からさえ遠ざけられるようになりました。 せいじ ゆめでし たく ・政治への夢を弟子たちに託す しつぼう ろせいじ 魯の政治に失望した孔子は、大臣をやめると 自分の理想とする政治を実行してくれる国を漿 じぶん せいじ じっこっ るろう たびで でし めて、弟子たちとともに流浪の旅に出ました。 ふこくきようへい しかし、どの国も富国強兵にはしり、「仁」を せいじ こんほん 政治の根本にしようとする国はありません。そ いちみ ればかりか、孔子たちは強盗の一味と間違えら ねん ひょう にゆうがく だいがく さい しきよう しゅう きず さい かんが たん くんしゅ おも ねんちか じゅがく ゆた でし しゆがく 日本にも伝えられた儒学 にほん じゅきよう じゅがく ちょうせんはんとう せいき 儒学は、朝鮮半島をへて 5 世紀に日本へも儒教と った おし しようとくたいしかんいじゅうにかい して伝えられ、その教えは聖徳太子の冠位十ニ階 じゅうななじようけんぼう や十七条憲法などにも取り入れられている。その みふんじようげおも じゅがく 後、身分の上下を重んじる儒学の一派である朱子 ぶしがくもん 学が、武士の学問とされるようになり、江戸時代 ばくふがくもん おも ほうけんせいどせい には幕府の学問として重んじられ、封建制度の精 しんてきささ こくみんせいかつなか しんとう 神的支えとして国民の生活の中にも浸透した。 じつけんにぎ し、 し、つば しゅし たいじん とうきようとぶんきようく 東京都文京区に こうし ある孔子をまっ ゆしませいどう った湯島聖堂 まちが 17

5. 学問・宗教人物事典

さばくたびとう しんぶつきようった 砂漠を旅し、唐に真の仏教を伝えた ねん 602 ~ 664 年 70d おも ・インドへの思い げんじようホーナンしよう ちち 玄奘は河南省に生まれ、 10 歳で父を亡くすと、 しゆっけさき きようてん 兄の出家先である浄土寺に引き取られて経典を そうりよ 学び、僧侶をめざすようになりました。 さいしゆっけ たび 13 歳で出家すると、兄とともに旅をしながら とうみやこちょうあん こうそうおし 高僧に教えを請い、 17 歳のとき唐の都長安に行 げんじようねっしんきようてんまな きました。玄奘は熱心に経典を学びましたが、 さまざま ぎもんいだ まな 学べば学ぶほど、様々な疑問を抱くようになり ことば ました。もともとシャカの国インドの言葉で書 きようてん ちゅうごく ほんやくしゃ かれた経典は、中国語に直されるまでに翻訳者 さまざま ないよう いちょう かいしやく の様々な解釈が加わるため、内容が一様ではな ほんとう おし く、どれが本当のシャカの教えか分からなかっ ほんとうおし たからです。本当の教えを知るためにはインド くにぶつきようまな へ行き、シャカの生まれた国で仏教を学ばなけ げんじようかん ればならないと玄奘は感じました。 さばくこ 0 砂漠を越えてシャカの国へ さいいき とうじ , うてい たび きん 当時、唐の皇帝は西域に旅することを禁じて げんじよう ころざしおな いました。玄奘は志を同じくする僧とともに出 きよか もと きよか 国の許可を求めましたが、国からの許可は下り ねん ませんでした。あきらめきれない玄奘は、 629 年、 きんれいやぶ ちょうあんた げん ひそ 密かに長安を発ちました。国の禁令を破った玄 おって 奘には追手がかかり、めざすインドとの間には げんじよう さばくひろ さばく 広大な砂漠が広がっていました。玄奘は砂漠に まえ きろ ひがし 入る前に「インドからの帰路でなければ東には ほとけちか ろうば すす 進まない」と仏にい、やせた老馬にまたがっ じようどじ まな ちゅうこくホーナンしよう さいしゆっけ 中国河南省に生まれ、 13 歳で出家し きようてんにゆうしゅ ぶっ ねん た。 629 年、インドの経典を入手し、仏 きようまな しゆっこくきよか ちょう 教を学ぶために出国許可のないまま長 あん 安からインドに向かう。インドに入ると ねんかんしゆきようつ ナーランダ寺で 5 年間の修行を積み、さ ぶつきようまな かくち らにインド各地をまわって仏教を学ん ねん ねん ちゅうこくかえ だ。 645 年、 1 6 年ぶりに中国に帰り、 きようてんほんやく こうてい もかえ 持ち帰った経典の翻訳をしながら、皇帝 めいたびきろくだいとうさいいきき あらわ の命で旅の記録『大唐西域記』を著した。 はい まな なお くわ しゆっ さんぞう 【三蔵】 きよう そう ぶつきようせいてん 仏教の聖典には、シャカの教えの「経」と、僧 きようりつ りつ けんきゅう まも きりつ が守るべき規律の「律」、経と律について研究 しめ さんそう ろん した「論」の 3 つがあり、これらを示す「三蔵」 せいてんそうしよう は、のちに聖典の総称とされるようになる。 ”こ ' とはのまど ~ げんじよう あいだ 1 4

6. 学問・宗教人物事典

たんじよう ・シャカの誕生 ほくとうぶ しやか シャカ ( 釈迦 ) は、インド北東部にあったマガ たんじようこ おうこくおうじ ダ王国の王子として生まれました。誕生後間も すくひと なく「人間を古悩から救う人が生まれた」との せんにんおうきゅうおとず おうじ かみ 神のお告げを聞いた仙人が王宮を訪れ、「王子は とうとおし さと ひら やがて悟りを開き、尊い教えを世に広める人に なるだろう。」と言いました。 たいせっそだ たいへんよろこ 王は大変喜び、王子を大切に育てました。上 きぬ いふくつく なっふゆ 等の絹で衣服を作り、夏と冬と雨期とを快適に きゅうでんた すうじゅうにん じじよ 過ごすために 3 つの宮殿を建て、数十人の侍女 を仕えさせ、ぜいたくな食を与えました。し せいかっ なか かし、そんな生活の中でも、シャカは、老いや ころうば にんげん こんげんてき 5 やまい 病、死といった人間の根元的な古しみに心を奪 うつく ものおも われ、物思いに沈みがちでした。やがて美しい おうじよ つま おとこ 王女を妻とし、男の子も生まれましたが、シャカ なや の悩みは深まるばかりでした。 ほだいじゅしたさと ひら ・菩提樹の下で悟りを開く であ ある日、シャカは 1 人の修行僧に出会いまし よ、す ころも しっそ た。質素な衣をまとった僧の落ちついた糅子に しゅぎようそう 心をひかれ、シャカは声をかけました。修行僧 は、占分はすべての欲を捨て、老・病・死の古 さと しゆっけ のう ひら 悩を乗り越えて悟りを開くために出家し、苦行 をしている者だと答えました。らも出家を決 おも 意したシャカは、 29 歳のとき、交や妻子への思 しゅぎようたびで いを断ち切り、 1 人で修行の旅に出ました。 もの シャカは物乞いをしな こうめいふた たび がら旅をし、高名な 2 りせんにんたす おし 人の仙人を訪ねて、教 えを受けました。しか おし し、教えを受けるだけ さと では悟りを開けないと 知り、山林にこもって くぎよう いき 息を止める苦行や長 だんじきおこな い断食を行いまし た。シャカの体はや ほそ せ細り、骨と皮ばか りになりました さと が、それでも悟 りは得られませ んでした。 くきようおこな 苦行を行うシャカ。 ぶつきようひら おういす 王位を捨て、仏教を開いた ( ゴータマ = シッダッタ ) ねん 463 ? ~ 383 ? 年 シャカ ひと ひろ じよう おうじ かいてき ふか しゅぎようそう ひとり ほくとうぶ そくくに インド北東部にあったシャカ族の国マ おうこくおうじ ガダ王国の王子として生まれるが、 29 たいし しゆっ 歳のとき、太子としての地位を捨て、出 しゆきようたびで さまざましゆきようすえ 家して修行の旅に出る。様々な修行の末、 えぶつきようひら さいさと 35 歳で悟りを得て仏教を開いた。すべて むじよう かんが へんか のものは変化するという「無常」の考え おこな よくす に立って、欲を捨て、正しい行いをすれ じゅうきようち ねはん ば、誰もが自由の境地「涅槃」にたどり かわりゆういきふきよう 着けるとして、ガンジス川流域で布教 おこな さい を行い、 80 歳でこの世を去った。 くぎよう さい け さいし ひとり ただ さんりん なが からだ ほねかわ ”ことはのま : ど、 第を第を しゆっけ 【出家】 ぶつもんはい せそくちいせいかっす 世俗の地位や生活を捨てて仏門に入ること。イ いぜん げんし ぶつきよう ンドには、シャカが仏教をおこす以前から原始 さまざましそうも ぶつきようよ しゅうきよう 仏教と呼ばれる宗教があり、様々な思想を持つ しゆきよう しゆきようそうさと もと 修行僧が悟りを求めて修行をつんでいた。 20

7. 学問・宗教人物事典

をかきたてました。また、島 おとず を訪れた博物学者タンドンに はくぶつがく 博物学の手ほどきを受ける きようみ せいぶつ と、生物への興味はいよいよ つよ 強まっていきました〇 1854 年、デュフールという学 ろんぶんはっぴょう 者がハチに関する論文を発表 しました。タマムシフシダカバ チが刺し殺したえさのタマム ばうふこうか シは、ハチの毒液の防腐効果 なが で長い期間腐らないというの こんちゅう けんきゅうかい です。当時、昆虫の研究は解 ばうがくちゅうしん こうどう 剖学が中心で、行動を調べる けんきゅうすく 研究は少なく、ファープルはこ ろんぶんしようげき の論文に衝撃を受けました。 じぶんしようがい けんきゅう それこそが自分の生涯の研究 かん テーマだと感じたからです。さ っそくタマムシフシダカバチの なかま かんさつ ろんぶん イ中間を観察してみると、論文 とは異なり、ハチがえさにな こんちゅうしんけい る昆虫の神経をまひさせ、生 ほぞん ようちゅう きたまま保存して幼虫のえさ けんきゅうほうほうたさい おとたい はんのうにぶ 研究方法は多彩で、セミの音に対する反応の鈍さを確かめるために大砲を撃ったこともある。 にしていることが分かりまし けんきゅうけっか がっかいみと せけんひょうばんじゅうぶんけんきゅうしきんて た。そうした研究結果が学会に認められ、デュ ようやく世間の評判と十分な研究資金を手に入 げきれい てがみとど めあしおとろ まんぞく けんきゅう フールからも激励の手紙が届くと、ますますフ れたときには、目も足も衰え、満足な研究がで こんちゅうけんきゅうむちゅう くる せいかっ なか ァープルは、昆虫の研究に夢中になっていきます きなくなっていたのです。苦しい生活の中で、 こんちゅうき たんじよう けんきゅう ・『昆虫記』の誕生 隹の助けも借りずに偉大な研究を成し遂げたフ ひとすこ けんきゅうひょうか あらわ ファープルの研究を評価する人も少しずつ現 ァープルは、 91 歳で静かに世を去りました。 けんきゅうじたい せいかっ れましたが、研究自体はお金にならず、生活は しよくぶつじゅせい 古しいままでした。その上、講義で植物の受精 せんせい ひなん の話をしてカトリック教会の批難をあび、先生 しよくうしな の職を失ってしまったのです。 47 歳のファープ かがく ほんか ルは、子ども向けの科学の本を書いてなんとか ささ くらしを支えました。 やがて 50 歳を過ぎたころ、ファープルは、観 こんちゅうせいかっ さつ 察した昆虫の生活を『昆虫記』として書き始め こんちゅう しせん ました。自然と詩を愛するファープルの『昆虫 うつく こんちゅうせいかっせいかく ひょうげん 己』は、昆虫の生活を正確に、かっ美しい表現 えが ねんいじよう で描き出していました。ファープルは 30 年以上 さいげつ こんちゅう の歳月をかけて 10 巻を書き上げましたが、昆虫 ぶんがくてき ひはん 学者からは文学的すぎると批判されました。そ かちひょうか の価値が評価されたのは、 87 歳のときでした。 はくぶつがくしゃ ねん どくえき きかんくさ たいほう が」二二ロ かね つえ こ一三 ファープルが愛した「パン屋の労働詩ん きようかい はなし いえまず しようがっこうそっぎよう 家か貧しかったファーブルは、小学校を卒業し てつどうこうし てからしはらく、レモンの立ち売りや鉄道工事を ひびしよくじ はたら せいかつなかしよくじ して働いた。日々の食事にも苦しむ生活の中、食事 代をけすってでも手に 入れたのが、パン屋を しながら詩を書いたル ししゅう ブールの詩集だった。 ししゅうみち ファーブルは詩集に道 ばたの花をはさんで持 ある せいかっ ち歩き、貧しい生活の なか しせんあい 中でも詩と自然を愛す る心を育んでいった。 くる かん こんちゅうき 一三ロ はな まず がくしゃ ころはぐく 35

8. 学問・宗教人物事典

けんきゅうねっしん しようねん ・研究熱心なニュートン少年 のう力、 ニュートンはイギリスの農家に生まれました。 ちち はは そのときすでに父は亡く、母も 3 歳のときに再 いえで そだ そば 婚して家を出ていたので、祖母の手で育てられ き よわ なむし こうさく どくしょ ました。気が弱く、泣き虫でしたが、工作と読書 す じぶんみすどけい ひどけい つく が好きで、自分で水時計や日時計を考えて作り、 むらじゅうひょうばん べんきよう 村中の評判になったこともありました。勉強が だいす さいこんあいて な 大好きでしたが、 14 歳のとき、再婚相手を亡くし はは せいかっ し、え た母が 3 人の子どもと家にもどると、生活のた カゞっこっ はたけしごとてつだ めに学校をやめて畑仕事を手伝うようになりま あたまべんきよう した。しかし、頭は勉強のことでいつばいで、仕 かんが 事をしながら考え事ばかりしていました。 ねん す はげ たいふう それから 2 年ほど過ぎたころ、激しい台風か むらおそ あらしなか じつけんはじ 村を襲うと、ニュートンは嵐の中で実験を始め かぜむ しやめん ました。風の向きにそって丘の斜面を飛び、次 かせさか と かぜ に風に逆らって飛んで、その距離の差から風の ちからはか いっとき けんきゅう そば 力を計ったのです。母や祖母は、一時も研究を わす がっこっ 忘れられないニュートンを学校にもどすことに ちゅうがっこっ しました。こうして中学校にもどったニュート いちばんせいせきそっぎよう だいがく ンは、一番の成績で卒業し、ケンプリッジ大学 すす すうがくぶつりがく けんきゅうせい に進んで数学と物理学を学び、卒業後も研究生 けんきゅうつづ として研究を続けました〇 ばんゆういんりよくはつけん だいかがくしや 万有引力を発見した大科学者 ーユートン ( アイザックーニュートン ) 1642 ~ 1727 年 つ な て かんが ねん し と おか はは そっぎようご まな むらのう イギリスのウルスソープという村の農 そほそだ さい 家に生まれ、祖母に育てられた。 19 歳 だいがくにゆうがくすうがくぶつり でケンブリッジ大学に入学、数学と物理 がくまな そっきようこだいがくけんきゅうつづ 学を学び、卒業後も大学で研究を続けて はんゆういんりよくびせきぶんほう さいきようじゅ 26 歳で教授となる。万有引力、微積分法、 ひかりせいしつ げんだいかがく きそきず 光の性質など、現代科学の基礎を築く かずかずはつけん ねんけんきゅう 数々の発見をし、 1687 年、研究をまと はっぴょう めいせい めた『プリンキピア』を発表して名声を ばんねんそうへいきよくちょうかんしごと え 得た。晩年は造幣局長官の仕事もこな ねんしようがいと し、 84 年の生涯を閉じた。 ノ : ィ きようふらなが : しつけん = 1 ートは強風の中で実験をタ最 らっか ばんゆういんりよくはつけん ・リンゴの落下で万有引力を発見 りゆうこう だいがくへいさ ベストの流行で大学が閉鎖された 1664 年から ねんかん こきようかえ 3 年間、ニュートンは故郷に帰って「ニュート さんだいはつけん じゅうよう はつけん ンの三大発見」と呼ばれる重要な発見をしまし ばんゆういんりよく はつけん た。その 1 つが万有引力の発見です。 ちきゅう かいてん このころニュートンは、地球のまわりを回転 とお している月が遠くへ飛んでいかない理由につい ひにわ て考えていました。そんなある日、庭のリンゴ つ か ノし 0 ねん ロ はんしやぼうえんきよう 【反射望遠鏡】 くっせっぽうえんきよう つか それまで使われていた屈折望遠鏡の、色がにじ けってんおきな ほうえんきようせんめい がぞうえ むという欠点を補った望遠鏡。鮮明な画像を得 てんもんがくはってんおお やくわり られ、天文学の発展に大きな役割を果たした。 と虧のまど いろ は と つき りゆう かんが 30

9. 学問・宗教人物事典

シュバイツアーは、治 りようびよういんけんせつ 療と病院の建設のた まいにちじかんていど め、毎日 4 時間程度の すいみんはたらつづ 睡眠で働キ続けた C—リし C— 0 むし はこ さい ちほう ねん じんせい おんがく 人が命を落としていたのです。シュバイツアー ひといのちお は、ジャングルの虫たちが運ぶ病気で、多くの おお びようき ていることを知りました。赤道直下のガポンで せきどうちょっか アフリカ奥地のガポン地方で、医者を必要とし いしやひつよう おくち 30 歳が近づいた 1904 年、シュバイツアーは、 ちか ・アフリカへの旅立ち たびだ うものでした。 の後は、人々への奉仕に人生をささげようとい ひとびと になるまでは、大好きな音楽と学問を続け、そ がくもんつづ だいす ふさい つま かん いがく いりよう いた診療所の建設をあきらめ、 けんせつ しんりようじよ ねていました。 2 人は、予定して よてい ふたり は、噂を聞いた患者たちが列を連 つら れつ うわさ かんじゃ 夫妻がガポンに着くと、翌日に よくじつ ・「オガンガ」と呼ばれて フリカに旅立ちました。 たびだ ァーは、 38 歳の年、妻とともにア としつま そして、医師になったシュバイツ と、自分も看護婦をめざしました。 じぶんかんごふ ネはシュバイツアーの夢を知る ゆめ ヘレーネと出会いました。ヘレー であ 部に入り、そこでのちに妻になる 事だと感じ、医師をめざして医学 は、それらの医療こそが自分の仕 じぶん やかいぞう しんさつはじ ワトリ小屋を改造して診察を始めました。たし びようきおお かに当時のアフリカには病気が多く、医療が遅 げんいんひと れていました。その原因の一つは、アフリカを しよくみんち 植民地として苦しめていたヨーロッパにもあっ にんげん たのです。シュバイツアーは「人間は、白人も かんが こうどう じぶん 黒人もみな兄弟だ」と考え、自分の行動を「善 つぐな 行」ではなく「償い」なのだと言いました。そ くすりどうぐ ちりようつづ して、持ち込んだ薬や道具で治療を続けるうち げんち まじゅっし いみ に現地で魔術師を意味する「オガンガ」と呼ば もち れるようになりました。麻酔を用いるシュバイ ちりようほう ひとびと どころ ツアーの治療法を、ガポンの人々は「 1 度殺し かえ まじゅっ おも てから生き返らせる魔術」と思ったのです。 へいわ 0 平和のために生きる ねんだいいちじせかいたいせんかいせん 1914 年、第一次世界大戦の開戦でドイツとフ てきたい ランスが敵対すると、フランス領ガポンにいる す、ねん ドイツ人のシュバイツアーは捕らえられ、薮年 せんそう を捕虜として過ごしました。戦争が終わると、 ョーロッパ各地で講演し、病院再建の資金を粲 ねん ふたた め、 1924 年には、再びアフリカに渡りました。 だいにじせかいたいせんはじ 第二次世界大戦が始まっても、シュバイツア ちりようつづ かくへいき せん ーはアフリカでの治療を続け、戦後は、核兵器 はいぜっせかい せいめい の廃絶を世界に向かって訴えました。生命の大 切さを身をもって説く医師のガポンからのメッ せかいじゅうひとびと セージは、世界中の人々の心を打ち、 1952 年、 へいわしようじゅしよう シュバイツアーはノーベル平和賞を受賞しまし えし一よ せいかっか た。しかし、どんな栄誉を受けても、生活を変 えることなく、 90 歳で亡くなるまでガポンの病 いんはたらつづ みつりんせいじゃ 院で働き続け、「密林の聖者」と呼ばれました。 とうじ いりようおく はくじん きようだい ぜん し、 ますい い りよう ほりよ わた うった せつ ねん びよう いどう ガポンでの移動にはカヌーが使われた。 23 つか

10. 学問・宗教人物事典

どうぶつがくしや ちい ・小さな動物学者 そらと ロンドンに生まれたジェーンは、空飛ぶ鳥か ちい もの きようみ ら小さな虫まで、どんな生き物にも興味を持つ おんな むすめき 女の子でした。ジェーンの母は、そんな娘の気 おさなむすめ たいせつ ね 持ちを大切にし、幼い娘がミミズとべッドに寝 すがたみ じめん じめん ている姿を見つけても「地面にいる虫は地面に かえ むし かな 返してあげないと、虫が悲しんでしまうわよ。」 おし と教えてくれました。そんなときジェーンはあ っち つ わててミミズを土に埋めに行きました。 さい こうがいのうじよう し、つ力、 ジェーンが 4 歳のとき、一家は郊外の農場へ ひ 引っ越しました。農場でのジェーンの仕事はニ たまこあっ 第三にちたまごあっ ワトリの卵集めでした。毋日卵を集めているう ちに、ジェーンはニワトリがどこから卵をむ ふしぎおも のか不思議に思うようになりました。ニワトリ からだ とお あな の体には、卵が通れるほどの穴など見当たらな や いからです。ジェーンはニワトリ小屋のわらに じかんま しゅんかんもくげき 隠れて 4 時間待ち、ついに卵を産む瞬間を目撃 どうぶつがくしゃ さい はじ しました。こうして 5 歳の動物学者は、初めて かんさっせいこう の観察を成功させたのです。 やせいどうぶつこえった どうぶつがくしゃ 野生動物の声を伝える動物学者 ジェ - ン = グド—J レ つ むし も はは も む ねん 1934 年 ~ のうじよう つ つ こっこうそっ イギリスのロンドンに生まれ、高校卒 きようご しかくと だいがく ひしょ 業後、秘書の資格を取り、大学の事務や えいがせいさく しごと ドキュメンタリー映画製作などの仕事に い つ 就く。 23 歳でアフリカに行き、 1960 ねん 年からタンザニアのゴンべでチンバンジ けんきゅうはじ ねん ーの研究を始める。 1962 年からケンブ だいがくどうぶつこうどうがくまな はくしこう リッジ大学で動物行動学を学び、博士号 しゆとく ねん を取得。 1 975 年、チンバンジーとヒヒ ちょうさおこな けんきゅう の調査を行うゴンべーストリーム研究セ しょちょうっと いっぽうや せつりつ ンターを設立し、所長を務める一方、野 せいどうぶつほごかつどうかつばつおこな 生動物の保護活動を活発に行っている。 0 さい き さんらんみまも ジェーンはニワトリに気づかれないよう、じっと産卵を見守った。 ・アフリカ行きの夢 しようじよじだい 少女時代、ジェーンの心をとらえた本は『ドリ せんせいものがたり トル先生物語』と『ターザン』のシリーズでした。 ものがたりえが どうぶつ これらの物語に描かれたアフリカの動物たちと みりよくみ のくらしは、魅力に満ちていました。ジェーン どうぶつ どうぶつほんか はアフリカで動物とくらし、動物の本を書きた いつばん ゆめみ いと夢見るようになりました。しかし、・一般の せいよ、じん みち とお 西洋人にとって、アフリカは未知の遠い場所で こうこうそっぎよう した。ところが、高校を卒業してしばらくたっ おとす のうじよう たころ、チャンスが訪れました。ケニアに農場 ゆめ い ロ ほん せんせいものがたり 【『ドリトル先生物語』】 さく じどうしよどうぶつことは ヒュー = ロフティング作の児童書。動物の言葉が どうぶつ こうりゆうえが わ じゅうい 分かる獣医ドリトルと動物たちの交流を描く。 【ターザン』】 さくぜんかんぼうけん 工ドガー = ライス = バローズ作、全 26 巻の冒険 そだ おうじゃ しようせつ 小説。サルに育てられジャングルの王者になっ かつやくえが たターザンの活躍を描く。