をかきたてました。また、島 おとず を訪れた博物学者タンドンに はくぶつがく 博物学の手ほどきを受ける きようみ せいぶつ と、生物への興味はいよいよ つよ 強まっていきました〇 1854 年、デュフールという学 ろんぶんはっぴょう 者がハチに関する論文を発表 しました。タマムシフシダカバ チが刺し殺したえさのタマム ばうふこうか シは、ハチの毒液の防腐効果 なが で長い期間腐らないというの こんちゅう けんきゅうかい です。当時、昆虫の研究は解 ばうがくちゅうしん こうどう 剖学が中心で、行動を調べる けんきゅうすく 研究は少なく、ファープルはこ ろんぶんしようげき の論文に衝撃を受けました。 じぶんしようがい けんきゅう それこそが自分の生涯の研究 かん テーマだと感じたからです。さ っそくタマムシフシダカバチの なかま かんさつ ろんぶん イ中間を観察してみると、論文 とは異なり、ハチがえさにな こんちゅうしんけい る昆虫の神経をまひさせ、生 ほぞん ようちゅう きたまま保存して幼虫のえさ けんきゅうほうほうたさい おとたい はんのうにぶ 研究方法は多彩で、セミの音に対する反応の鈍さを確かめるために大砲を撃ったこともある。 にしていることが分かりまし けんきゅうけっか がっかいみと せけんひょうばんじゅうぶんけんきゅうしきんて た。そうした研究結果が学会に認められ、デュ ようやく世間の評判と十分な研究資金を手に入 げきれい てがみとど めあしおとろ まんぞく けんきゅう フールからも激励の手紙が届くと、ますますフ れたときには、目も足も衰え、満足な研究がで こんちゅうけんきゅうむちゅう くる せいかっ なか ァープルは、昆虫の研究に夢中になっていきます きなくなっていたのです。苦しい生活の中で、 こんちゅうき たんじよう けんきゅう ・『昆虫記』の誕生 隹の助けも借りずに偉大な研究を成し遂げたフ ひとすこ けんきゅうひょうか あらわ ファープルの研究を評価する人も少しずつ現 ァープルは、 91 歳で静かに世を去りました。 けんきゅうじたい せいかっ れましたが、研究自体はお金にならず、生活は しよくぶつじゅせい 古しいままでした。その上、講義で植物の受精 せんせい ひなん の話をしてカトリック教会の批難をあび、先生 しよくうしな の職を失ってしまったのです。 47 歳のファープ かがく ほんか ルは、子ども向けの科学の本を書いてなんとか ささ くらしを支えました。 やがて 50 歳を過ぎたころ、ファープルは、観 こんちゅうせいかっ さつ 察した昆虫の生活を『昆虫記』として書き始め こんちゅう しせん ました。自然と詩を愛するファープルの『昆虫 うつく こんちゅうせいかっせいかく ひょうげん 己』は、昆虫の生活を正確に、かっ美しい表現 えが ねんいじよう で描き出していました。ファープルは 30 年以上 さいげつ こんちゅう の歳月をかけて 10 巻を書き上げましたが、昆虫 ぶんがくてき ひはん 学者からは文学的すぎると批判されました。そ かちひょうか の価値が評価されたのは、 87 歳のときでした。 はくぶつがくしゃ ねん どくえき きかんくさ たいほう が」二二ロ かね つえ こ一三 ファープルが愛した「パン屋の労働詩ん きようかい はなし いえまず しようがっこうそっぎよう 家か貧しかったファーブルは、小学校を卒業し てつどうこうし てからしはらく、レモンの立ち売りや鉄道工事を ひびしよくじ はたら せいかつなかしよくじ して働いた。日々の食事にも苦しむ生活の中、食事 代をけすってでも手に 入れたのが、パン屋を しながら詩を書いたル ししゅう ブールの詩集だった。 ししゅうみち ファーブルは詩集に道 ばたの花をはさんで持 ある せいかっ ち歩き、貧しい生活の なか しせんあい 中でも詩と自然を愛す る心を育んでいった。 くる かん こんちゅうき 一三ロ はな まず がくしゃ ころはぐく 35
げんそはつけん あたら ・新しい元素の発見 ぶつりがくしゃ さい 27 歳のとき、マリーは物理学者ピエール = であ ねっしんけんきゅう キュリーと出会い、熱心に研究に打ち込 ねんけっこん しせい む姿勢にひかれて 1895 年に結婚しました。 こうせきふく そのころ、鉱石に含まれるウランとい こうせんはな ぶっしつめ う物質が目に見えない光線を放っことか こうせんしようたい はつけん さが 発見されました。光線の正体を探してい とのぞ たマリーは、ウランを取り除いたあとの こうせき ひかりで 鉱石からも光が出ていることに気づきま こうせきひかり はっ べつげんそふく した。鉱石に光を発する別の元素が含ま かんが れているのだと考えたマリーは、ピエー こうせき ルとともに大量の鉱石を砕いては溶かし じようりゆう さぎようつづ じみち て蒸留する地道な作業を続け、ついに新 げんそはつけん 元素を発見しました。これはマリーの祖 国にちなんで「ポロニウム」と名づけら れました。 のぞ ところが、ポロニウムを除いたあとも こうせきひか 鉱石は光っていました。 2 人は 4 年がか ほうしやせいかごうぶっ えんか ちゅう りで放射性化合物「塩化ラジウム」を抽 こうせき しようじゅ ねん 出し、この功績で 1903 年にノーベル賞を受 びようき ちりよう 賞しました。ラジウムには病気の治療な ようと はつけん こうせき ちゅうしゆっぎ どの用途が発見され、鉱石からの抽出技 じゅっか で 術を買いたいという申し出があいつぎま けんきゅう きら したが、研究でもうけることを嫌った 2 ぎじゅっせかい こうひょう 人は、その技術を世界に公表しました。 こうせんひじようゆうがい ぶっしつはな しかし、これらの物質が放つ光線は非常に有害 けんきゅうつづ ほうしやせん な放射線だったので、知らずに研究を続けてい ふたり たいちょうくす た 2 人は、しだいに体調を崩していきました。 はつじよせいかがくしや 0 初の女性科学者として 1906 年、ピエールが交通ま設で亡くなると、 マリーは、その悲しみを研究に向けることで占 ぶんささ 分を支えました。ピエールのあとを継いで女性 はつだいがくきようじゅ じゅんすい 初の大学教授となり、化合物でない純粋なラジ ぶんりせいこう どめ しようカ功や ウムの分離に成功して 2 度目のノーベル賞に輝 いたのです。 だいいちじせかいたいせんちゅう しやしんいりよう 第一次世界大戦中、レントゲン写真の医療へ の応用を思いついたマリーは、占ら危険な戦場 ちりようて せん せかいはつ におもむいて治療に手を貸し、戦後は世界初の かがく じよせいかがくしゃ けんきゅうへいわりよう 女性科学者として、科学の研究と平和利用の訴 こうはんせい - つつ・ ほうしやのうしようがし、 5 えを続けました。後半生は放射能障害に古しみ けんきゅうつづ ねんはつけつびようたお ながらも研究を続け、 1934 年、白血病に倒れて ねんしようがい 66 年の生涯を閉じました。 つ み たいりよう ねん ふたり しゆっ しよう ふた しんげんそさが けんきゅうおこな 研究を行うマリーとピエール。新元素を探すマリー じぶんけんきゅうやす きようりよく のために、ピエールは自分の研究を休んで協力した。 り しようじゅしよう 親子 2 代でノーベル賞を受賞 し あいだ マリーとピエールの間には、イレーヌとエーヴ ふたりむすめう という 2 人の娘が生まれた。工ーヴはピアニストに ちょうじよ りようしんけんきゅうひ なり、長女イレーヌは両親の研究を引き継いで、 おっと じんこうほうしやのう 夫のフレデリック = ジョリオとともに人工放射能を つく せい 作りだすことに成 功し、ノーヘル化 がくしよう 学賞を受賞した。 マリーが亡くなっ よくねん た翌年のことで、 おや キュリー親子にと どめ っては 3 度目のノ しよう ーベル賞となった。 つ じよせい か かごうぶつ じゅしよう な を / か : こを うった ぶたりむすめ みき マリーと 2 人の娘右が′ ひだり イレーヌ、左がエープ。 と 3
と にんげんかんが はんぶつこんげんかず とな 「人間は考える葦である」と説いた 「万物の根源は数である」と唱えた バスカル ( ブレーズ = ) ピタゴラス ねん きげんぜん せん ねん 1623 ~ 1662 年 紀元前 582 ころ ~ 前 497 年ころ すうがくしゃふつりがくしゃてつがく すうがくしゃてつがくしゃ フランスの数学者・物理学者・哲学 古代ギリシアの数学者・哲学者。ェ きかがくていり ほうせきちょうこくし 者。 12 歳でユークリッド幾何学の定理 ーゲ海のサモス島で宝石彫刻師の子 どくりよくかんが えんすいきよくせん いちじちち つ を独力で考え、 17 歳で円錐曲線につい として生まれ、一時父の仕事を受け継 こうさつはっぴょう てんさい しはいしやたいりつ ての考察を発表するなど、天才ぶりを発揮。その後、真 いだ。しかし、その後、島の支配者と対立し、 70 歳ごろ くうきおも じつけんおこな ねんみつべい しゅうだんみなみ し、じゅう よげん 空や空気の重さについての実験を行い、 1653 年「密閉し に集団で南イタリアのクロトンに移住する。そこで預言 ようき なかえきたいあつりよく きせきおこな ぶふん いっていはたら しゅうきようひら ばんぶつ た容器の中の液体の圧力は、どの部分でも一定に働く」 や奇跡を行ってアポロンをまつる宗教を開き、万物の はっぴょう げんり こんげんかす すうがくてんもんがくおんがく てつがく とする「パスカルの原理」を発表した。また、哲学では 根源は数であるとして弟子たちと数学や天文学、音楽を あらわ にんげんむげん けんきゅう せいためんたいえが 『パンセ』を著し、「人間は無限な斈宙の中では、考える 研究し、「ピタゴラスの定理」や正多面体の描き方など、 あし よわそんざい おお 葦のような弱い存在である」と説いた。 多くの成果を残したといわれている。 うちゅうほうちょう とな えいきゅうふへん おもと 「宇宙は膨張している」と唱えた 永久不変のイデアを追い求めた ハップル ( ェドウイン = バウェル = ) プラトン ねん きけんせん ぜん ねん 1889 ~ 1953 年 紀元前 427 ころ ~ 前 347 年ころ てんもんがくしや だいがく てつがくしゃ アメリカの天文学者。シカゴ大学を 古代ギリシアの哲学者。アテネの名 そっぎようごべんごし てんもんがく かんしん もん つ 卒業後弁護士となるが、天文学に関心 門に生まれ、 20 歳ごろソクラテスの弟 ねん てんもんたい むじつつみ を抱き、 1914 年からャーキス天文台や 子となるが、ソクラテスが無実の罪で さんてんもんだいてんたいかんそくつづ かくちてんてん ぜん ウイルソン山天文台で天体観測を続ける。そうした中で 処刑されると、アテネを離れて各地を転々とした。前 387 ぎんがけいいがい ちゅうもく はしばし とお ぎんが がくえん ひら つ 銀河系以外の星々の動きに注目し、遠くにある銀河ほど 年ごろアテネにもどり、アカデメイア ( 学園 ) を開いて ぎんがけい とお はや はつけん てつがくおし かんが げんじつ 速いスピードで銀河系から遠ざかっていることを発見。 アリストテレスらに哲学を教えた。その考えは、現実の ねん ひれい えいきゅうふへん せかい りそうてきじつざい 1929 年、その速度と距離は比例するとする「ハップルの 世界はイデアの影であり、永久不変の理想的実在であ ほうそく はっぴょう ばうちょう じつげん てつじんせいじ にんげんしやかい 法則」を発表し、のちに于由が膨張しているというビ るイデアを実現しようとする哲人政治こそが、人間社会 りろん こんきょ ッグバン理論の根拠となった。 を救うというものであった。 じようけんはんしや かんが かくりつ きようひら 「条件反射」という考えを確立した イスラム教を開いた バブロフ ( イワン = ペドロビッチ = ) マホメット 1849 ~ 1936 年 570 ころ ~ 632 年 せいりがくしやりくぐんぐんいがっこうそっ きようかいそ ロシアの生理学者。陸軍軍医学校卒 イスラム教の開祖。ムハンマドとも じゅういがくけんきゅうじよせいりがくけんきゅつじよ ぎようこ 業後、獣医学研究所生理学研究室の助 いう。サウジアラビアのメッカで生ま りゆうがく りようしんうしな たいしようさんか おさな 手となる。その後ドイツに留学し、帰 れ、幼くして両親を失う。隊商に参加 ぐんいがっこうきようじゅ ねんじつけんいがくけんきゅうじよしゅ さまざましゅうきようであ かくち 国後軍医学校教授となり、 1891 年に実験医学研究所主 して各地を旅するうち、様々な宗教と出会い、 40 歳ごろ じゅんかんきせいりがく けんきゅう にんむか さんちゅうしゅぎようちゅうかみ 任に迎えられる。初めは循環器生理学を研究していた 山中で修行中に神アッラーの声を聞いて預言者となる。 しようかきせいりがくてん せいしんじよう しげきしようかき かみ ことば 神の言葉を『コーラン』にまとめ、イスラム教を開いて が、のちに消化器生理学に転じ、精神上の刺激が消化器 えし、きよう けんきゅう せいりがくいがくしようじゅしよう かみ せったいふくじゅう はくがい に与える影響を研究してノーベル生理学医学賞を受賞 神への絶対服従を説いた。 622 年、貴族の迫害を受けて たいのうせいり けんきゅう きよてんしんじゃ ふ した。さらに、大脳の生理について研究し、イヌを用い メディナに移り、以後、そこを拠点に信者を増やしてア じつけんじようけんはんしゃ かくりつ はんとうぜんたいせいりよくひろ た実験で条件反射という考えを確立した。 ラビア半島全体に勢力を広げた。 すいせいしゅうきうんどうはつけん いでんほうそく 「遺伝の法則」を発見した 彗星の周期運動を発見した メンデ ) レ ( グレゴール = ) ハレー ( ェドモンド = ) ねん ねん 1656 ~ 1742 年 1822 ~ 1884 年 てんもんがくしゃ しよくふつがくしやまず イギリスの天文学者。ロンドンの富 オーストリアの植物学者。貧しい農 し、え てん 豪の家に生まれ、子どものころから天 家に生まれ、古学してチェコの聖トマ もんすうがく きようみ せかいかくちてん しゅうどういんはい りかきようし 文・数学に興味をもち、世界各地で天 ス修道院に入る。やがて理科教師をめ ねんだいすいせい たいかんそくおこな かんそく しけんしつばい ねん しゅうどういんにわ ちよくこ 体観測を行う。 1682 年、大彗星を観測して、それがほば ざしたが、試験に失敗。その直後の 1865 年、修道院の庭 いっていしゅうきあらわ し ねん一 いでんけんきゅうかいし せいしつ つ 一定の周期で現れることを知り、 76 年後に現れることを にエンドウを植えて遺伝研究を開始する。異なる性質 すいせい よげん ほうそくつぎせたい し、ってし、 予言した。その後、ニュートンに弟子入りして彗星の軌 のエンドウを交配させると、一定の法則で次の世代に遺 どうけいさん しゆっぱん でん はつけんがっかいし はっぴょう とうじちゅうもく 道計算を試みる一方、ニュートンカ学についての出版 伝することを発見。学会誌に発表したが、当時は注目 かつどう ねんたいすいせい よげんどお し ねん さいはつけん 活動を支援した。ハレー死後の 1758 年、大彗星は予言通 されす、死後の 19 開年、ド = フリースらに再発見され、 ふたたあらわ すいせい ほうそく 「メンデルの法則」と名付けられた。 り再び現れ、ハレー彗星と名付けられた。 つ つ ていり かんが と せいかのこ めい 1 で し 【身彡 しよけい ねん なか そくど ねん ねん さい き よげんしゃ きようひら きぞく と もち かんが はつけん つ か せい あらわ き こうはい でしい りきがく いっぽう し 46
けんきゅうねっしん しようねん ・研究熱心なニュートン少年 のう力、 ニュートンはイギリスの農家に生まれました。 ちち はは そのときすでに父は亡く、母も 3 歳のときに再 いえで そだ そば 婚して家を出ていたので、祖母の手で育てられ き よわ なむし こうさく どくしょ ました。気が弱く、泣き虫でしたが、工作と読書 す じぶんみすどけい ひどけい つく が好きで、自分で水時計や日時計を考えて作り、 むらじゅうひょうばん べんきよう 村中の評判になったこともありました。勉強が だいす さいこんあいて な 大好きでしたが、 14 歳のとき、再婚相手を亡くし はは せいかっ し、え た母が 3 人の子どもと家にもどると、生活のた カゞっこっ はたけしごとてつだ めに学校をやめて畑仕事を手伝うようになりま あたまべんきよう した。しかし、頭は勉強のことでいつばいで、仕 かんが 事をしながら考え事ばかりしていました。 ねん す はげ たいふう それから 2 年ほど過ぎたころ、激しい台風か むらおそ あらしなか じつけんはじ 村を襲うと、ニュートンは嵐の中で実験を始め かぜむ しやめん ました。風の向きにそって丘の斜面を飛び、次 かせさか と かぜ に風に逆らって飛んで、その距離の差から風の ちからはか いっとき けんきゅう そば 力を計ったのです。母や祖母は、一時も研究を わす がっこっ 忘れられないニュートンを学校にもどすことに ちゅうがっこっ しました。こうして中学校にもどったニュート いちばんせいせきそっぎよう だいがく ンは、一番の成績で卒業し、ケンプリッジ大学 すす すうがくぶつりがく けんきゅうせい に進んで数学と物理学を学び、卒業後も研究生 けんきゅうつづ として研究を続けました〇 ばんゆういんりよくはつけん だいかがくしや 万有引力を発見した大科学者 ーユートン ( アイザックーニュートン ) 1642 ~ 1727 年 つ な て かんが ねん し と おか はは そっぎようご まな むらのう イギリスのウルスソープという村の農 そほそだ さい 家に生まれ、祖母に育てられた。 19 歳 だいがくにゆうがくすうがくぶつり でケンブリッジ大学に入学、数学と物理 がくまな そっきようこだいがくけんきゅうつづ 学を学び、卒業後も大学で研究を続けて はんゆういんりよくびせきぶんほう さいきようじゅ 26 歳で教授となる。万有引力、微積分法、 ひかりせいしつ げんだいかがく きそきず 光の性質など、現代科学の基礎を築く かずかずはつけん ねんけんきゅう 数々の発見をし、 1687 年、研究をまと はっぴょう めいせい めた『プリンキピア』を発表して名声を ばんねんそうへいきよくちょうかんしごと え 得た。晩年は造幣局長官の仕事もこな ねんしようがいと し、 84 年の生涯を閉じた。 ノ : ィ きようふらなが : しつけん = 1 ートは強風の中で実験をタ最 らっか ばんゆういんりよくはつけん ・リンゴの落下で万有引力を発見 りゆうこう だいがくへいさ ベストの流行で大学が閉鎖された 1664 年から ねんかん こきようかえ 3 年間、ニュートンは故郷に帰って「ニュート さんだいはつけん じゅうよう はつけん ンの三大発見」と呼ばれる重要な発見をしまし ばんゆういんりよく はつけん た。その 1 つが万有引力の発見です。 ちきゅう かいてん このころニュートンは、地球のまわりを回転 とお している月が遠くへ飛んでいかない理由につい ひにわ て考えていました。そんなある日、庭のリンゴ つ か ノし 0 ねん ロ はんしやぼうえんきよう 【反射望遠鏡】 くっせっぽうえんきよう つか それまで使われていた屈折望遠鏡の、色がにじ けってんおきな ほうえんきようせんめい がぞうえ むという欠点を補った望遠鏡。鮮明な画像を得 てんもんがくはってんおお やくわり られ、天文学の発展に大きな役割を果たした。 と虧のまど いろ は と つき りゆう かんが 30
チンバンジーとジェーン。 にんげんいがい チンバンジーは人間以外で みりよくてきどうぶつ はもっとも魅力的な動物だ かた とジェーンは語っている。 ともだちりようしん どうぐっかどうぶつにん を買った友達の両親から、そこに一緒に来ない めに木の枝を使うことは、道具を使う動物が人 さそ じゅうよう かんがかた かと誘われたのです。ジェーンはアルバイトで 間だけだというそれまでの考え方を変える重要 ふなちん としよかんかよ はつけん 船賃をため、その間も図書館に通ってアフリカ な発見となりました。 どうぶつ かんさつ の動物について学び、 23 歳のとき、ついにあこ 観察すればするほどチンパンジーにひかれて たびだ けんきゅう はじ おな いったジェーンは、研究を始めた同じ森で、も がれのアフリカへと旅立ちました。 だいめ かんさつ - つつ・ 0 チンバンジーに魅せられて う 4 代目になるチンパンジーの観察を続けてい どうぶつ けんきゅう みりよくった じんるい ます。その一方で、チンパンジーの魅力を伝える ジェーンは、アフリカで動物と古人類の研究 かつどう はかせ であ やせいどうぶつほ をしているルイス = リーキー博士と出会いまし ために本を書き、野生動物保護のための活動も はかせどうぶつくわ ひしょやと おこな た。博士は動物に詳しいジェーンを秘書に雇い、 行っています。チンパンジーを愛するジェーン けんきゅうしゃ せかいじゅうひろ そしつし けいかく おも かつどう ジェーンの研究者としての素質を知ると、計画 の思いと活動は、日本をふくめ、世界中に広が していたチンパンジーの調査を任せてくれまし っています。 そしつ た。ジェーンの素質、つまりわずか 5 じかん みつづ 歳で 4 時間もニワトリを見続けたほど ねが しぜん の忍耐力と、知りたいと願う自然への きようみみと 尽きない興味を認めてくれたのです。 ねん やせい 1960 年、ジェーンは、野生のチンパ かんさつ せかいはつけんきゅうしゃ ンジーを観察する世界初の研究者とし ちのう てタンザニアの森に行きました。知能 けいかいしんつよ が高く、警戒心の強いチンパンジーの かんさつむずか じかん 観察は難しく、長い時間がかかりまし つよ た。やがて、チンパンジーには強い個 かぞくどうしつよむす せい 性と家族同士の強い結びつきがあるこ と、あいさつや情報を伝える数十の違 った声があることなどが分かりまし っか た。なかでも塚のシロアリを食べるた えだっか いっしよ げん あいだ まな いつばう ほんか あい にっぽん ちょうさ まか にんたいりよく つか チンバンジーはアリ塚に木の枝をさしこみ、枝 に食いついてくるシロアリを釣りあげて食べる。 なが えだ きえた
めんえきげんしようはつけんぐうぜん 免疫現象の発見は偶然の めんみつけん できごとだったが、綿密な研 。、 = 三 : イをンっィ ~ 一 究を続けてきたバスツール ぐうぜんこころじゅんび は「偶然は心の準備のある 一 " ー一人間に味方する」と語った。 ていおんさづきんほう パスツルの名が付いた低温殺菌法 ほぞんちゅう あじお 保存中にワインの味が落ち りゆう けんきゅう る理由を研究していたパスツ げんいんびせいぶつ ールは、その原因か微生物に いじようはっこう よる異常な発酵にあり、 50 ~ 60 ℃で 30 分ほど熱すれはワイ さっきん か ンの味を変えずに殺菌できる ことを発見した。この方法は、 な パスツールの名をとって「パ スチュアライセーション」と げんざいぎゅうにゆう 名付けられ、現在も牛乳やヒ さっきんひろもち ールの殺菌に広く用いられて いる ′んク / ク はつけん 0 きようけんびようしようねん とうよ 0 狂犬病の少年にワクチンを投与 ねん きようけんびよう けんきゅうおこな 1880 年、パスツールは狂大病の研究を行い、 きようけんびよう かいはつ そのワクチンを開発しました。狂大病は、それ にんげん かんせん にかかったイヌにかまれると、人間にも感染し、 いのち びようき おそ 命さえ奪われるという恐ろしい病気でしたが、 げんいん びせいぶつ かんが どうぶつき にんげんゆうこう カゞし、 膿の原因も微生物ではないかと考えたのです。 動物に効くワクチンが人間に有効か、害がない さっきんじっこう やく ふめい そこで消毒や殺菌を実行すると、約 50 % あった かは不明でした。 しゅじゅっご さ ねんがつきようけん 手術後の死亡率は、 3 % にまで下がりました。 1885 年 7 月、狂大にかまれた少年がパスツー ぐうぜんみかた はつけん しようねんきずふか ・偶然が味方したワクチンの発見 ルのもとに運ばれてきました。少年の傷は深く、 ねん でんせんびようけんきゅう すうじっ はつびよう かくじっし 1870 年、カイコの伝染病を研究していたパス 放っておけば数日のうちに発病して確実に死ぬ げんいんびようげんきん はっぴょう ツールは、その原因が病原菌であることを発表、 だろうと医師は言います。パスツールは、何も ねん かちくでんせん ま 1876 年には、ドイツの医師コッホが家畜の伝染 せずに死を待つよりワクチンを びようびようげんきんはつけん けっか ちゅうしゃ けつい 病の病原菌を発見します。これらの結果から、 注射してみようと決意しまし た。はたして、少年は回復し、・ 0 にんげんでんせんびよう びせいぶつげんいん かんが 人間の伝染病も、微生物が原因でおこると考え どうぶつ にんげん られるようになりました。 動物のワクチンが人間にも効 しようめい その後、パスツールはニワトリコレラという くことが証明されたのです。 びようき けんきゅう びようげんきんばい はじ こうして医学はパ ニワトリの病気の研究を始め、その病原菌の培 ようせいこう なっきゅうか と 養に成功しました。しばらく夏の休暇を取り、再 スツールにより、 けんきゅう にんげん び研究に取りかかったとき、ふとした思いっき 人間へのワクチ ーンノ、 きゅうかまえ とうよ つく ふるばいようきん れき で、休暇前に作っておいた古い培養菌をニワト ン投与という歴 ちゅうしゃ すうじつ してきいっぽ ふ リに注射してみました。そのニワトリは数日で 史的一歩を踏み かるびようき し 死ぬはずですが、軽く病気にかかっただけです 出しました。 げんき おどろ ぐに元気になりました。驚いたパスツールは、今 きようりよく どあたら ばいようきんちゅうしゃ 度は新しい強力な培養菌を注射してみました びようき めんえき が、ニワトリは病気にかかりませんでした。免疫 ができていたからです。パスツールは、その後 さまざまびようげんきんどうよ、 じつけんかさ も様々な病原菌で同様の実験を重ねて免疫のし し かちく たんそびよう くみを知り、ついに家畜の炭疽病に効くワクチ かいはつ ンを開発しました。 7 0 うば のう しようどく しばうりつ しようねん はこ し、 し ー刀 ふたた と おも めんえき どうぶつひめい 動物が悲鳴をあげると、 どうじよう ひっ バスツールは同情し、必 死になってなぐさめたり 励ましたりした。 き し はげ 33
ちゅうこくはつれきししよ し き 中国初の歴史書史記』を書いた しはせん 司馬遷 せん きげんぜん ねん 紀元前 145 ころ ~ 前 86 年ころ ちゅうごくぜんかんじだいれきし か 中国の前漢時代の歴史家。早くから けんきゅう てんした 古典に親しむとともに、歴史の研究を 重ねる。やがて父のあとを継いで亟官 れきしたんとうやくにん ちゅうごくさいしよっう ゆいごんしたが ( 歴史担当の役人 ) になると、遺言に従って中国最初の通 こうふく しようぐん はじ せんねんてき 史『史記』の編さんを始めた。前 99 年、敵に降伏した将軍 りりようべん たんせいきせつだんけい 李陵を弁護して武帝の怒りをかい、男性器切断の刑を受 きゅうてい かんせい けた。しかし、『史記』完成のために恥をしのんで宮廷に ちゅうごく やくせんすうひやくねんれきし せんかん もどり、中国の太古から前漢まで約 2 千数百年の歴史 きでんたい けいしきぜんかん を、紀伝体という形式で全 130 巻にまとめあげた。 そうがくしゅしがく たいせい 宋学 ( 朱子学 ) を大成した しゆき ねん 1 130— 1200 年 ちゅうごくそうだい 中国の宋代の思想家。朱子ともいう。 ごうかく やくにん 19 歳で科挙に合格して役人となり、そ じゅがく さいやくにん のかたわら儒学を学ぶ。 28 歳で役人を がくもんせんねん しゅうとんい じゅがくそうごう や 辞めて学問に専念し、周敦頤らの儒学を総合して宋学 ばんぶつき しゅしがく たいせい けいせい ( 朱子学 ) を大成。万物は気によって形成されるが、天 き むす から与えられた理が備わっており、理と気が結びついて せかいちつじよ 世界の秩序が保たれるとした。また、君主と家臣はそれ ほんぶんただ しやかいちつじよ ぞれの本分を正すことで社会秩序が保たれると説き、朝 えいきようあた せんにほん おお 鮮や日本にも大きな影響を与えた。 きんだいこうりしゅぎてつがくはじ 近代合理主義哲学を始めた デカルト ( ルネ = ) ねん 1596 ~ 1650 年 てつがくしやすうがくしゃ フランスの哲学者・数学者。法律家 ころざ がくもん つ の家に生まれ、学問を志したが、当時 しはい 学界を支配していたキリスト教のスコ ラ学に不満をもつようになり、各国を転々として占然科 ねんほうほうじよせつ がくてつがく こうさつふか あらわ 学や哲学の考察を深めた。 1637 年『方法序説』を著して、 かんじよう にんげん りせい かがくてき かんかく 感覚や感情ではなく人間の理性によって科学的に真理 きわ ごうりろんとな すべうたが さい を究めようとする合理論を唱えた。全て疑い、最後に残 そんざい しゆっぱっ おも じふん った自分という存在から出発しようとした「われ思う、 ことばゆうめい ゆえにわれあり」の言葉は有名。 うちゅう はっぴょう 「ハーシェルの宇宙」を発表した ハーシェル ( フレデリック = ) 1738 ~ 1822 年 イギリスの天文学者。ドイツで音楽 ねん 家の家に生まれる。 1757 年イギリスに えんそうか わた 渡りオルガン演奏家となるが、そのか じさくおおがたばうえんきよう かんしん たわら自作の大型望遠鏡で子どものころから関心のあ ねんみちわくせい てんたいかんそく った天体観測に打ち込む。 1781 年、未知の惑星であった てんのうせい ごうけい せいうんせいだん はつけん ねん 天王星を発見し、 1802 年には合計 25 固もの星雲・星団 せいうんせいだんもくろく あらわ かくにん の位置を確認し、『星雲・星団目録』を著した。さらに 全天の星の分布と距離を計覽して区画毎に集計し、「ハ はっぴょう てんたい よ ーシェルの斈宙」と呼ばれる天体の体系を発表した。 か さいきんがくちち 「細菌学の父」といわれる コッホ ( ロベルト = ) ねん 1843 ~ 1 9 1 0 年 さいきんがくしゃ ちほう ドイツの細菌学者。地方の医師とし けんびきようたよ っと て勤めるかたわら、顕微鏡を頼りに炭 けんきゅう ねんたんそきんはつけん そびよう 疽病を研究し、 1876 年に炭疽菌を発見。 さいきんせんしよくじゅんすいばいようはう かいはつ でんせんびよう 細菌の染色や純粋培養法を開発して、伝染病にはそれ しようめい つつ′ ねん とくていびようげんきん ぞれ特定の病原菌があることを証明した。続いて 1882 年 けっかくきんよくねん きんはつけん ねん に結核菌、翌年にはコレラ菌を発見。 1890 年にはツベル ねんいこう でんせんびよう はっぴょう わだい クリンを発表して話題となる。 1891 年以降は、伝染病 しょだいしょちょうしゅうにん けんきゅうじよ けんきゅうじよ 研究所 ( コッホ研究所 ) の初代所長に就任し、日本の きたさとしばさぶろう さいきんがくしやそだ おお 北里柴三郎など多くの優れた細菌学者を育てた。 ちどうせっとな 地動説を唱えた コペルニクス ( ニコラウス = ) 1473 ~ 1543 年 せいしよくしや てんもんがくしやかく ポーランドの聖職者、天文学者。各 だいがくてんてん しんがくすう 地の大学を転々としながら、神学や数 とくてんもんがく 学、医学などを学ぶ。特に天文学に打 てんどうせつあやま き ち込み、古代から信じられてきた天動説の誤りに気づい ちきゅうたいよう まわ ちどうせつしん て、地球が太陽の周りを回っているという地動説を信じ いしやばくし っと るようになった。その後、医者や牧師として勤めるかた けんきゅうすす ちどうせつかくしん てんたいかんそくつづ わら、天体観測を続けて研究を進め、地動説を確信した てんどうせつ きようかいおし が、天動説をとる教会の教えに反するものだったため、 しちよくぜん 爿イナ 死の直前まで公にすることはなかった。 へいわねが こくさいこ 平和を願って国際語をつくった サメンホフ ( ラザロ = ルドウィック = ) ねん 1859 ~ 1 9 1 7 年 はつあん 工スペラント語を発案したポーラン こきようとうじ がんかい ドの眼科医。故郷は当時ロシア領で、 ことばっか さまざまみんぞく 様々な民族が、それぞれの言葉を使っ た てくらしていたため、いさかいが絶えなかった 。っし こくさいきようつう かんきようそだ だれ つうあ かんたん た環境で育つうち、誰もが通じ合える簡単な国際共通 はっぴょう げん 【ナつし一 ねん 語をつくろうと決意し、 1877 年に国際語を発表。この言 はっぴょうじ 語は発表時のペンネームからエスペラント語と呼ばれ、 めいじじたいふたばていし せかいひろ その後、世界に広まった。日本では明治時代に二葉亭四 めいふきゅうつ げんざいおお かいいん 迷が普及に尽くし、現在も多くの会員がいる。 てんねんとうよぼうほうかいはつ 天然痘の予防法を開発した ジェンナー ( 工ドワード = ) ねん 1749 ~ 1823 年 し一し一ん力、し、 イギリスの医師。 1773 年に医院を開 しゅぎようじたい いちどぎゅうとう ぎようご 業後、修業時代に聞いた「一度牛痘 びようき てんねんとう ( 天然痘に似たウシの病気 ) にかかっ てんねんとう はなし てんねんとうよ ひと た人は、天然痘にかからない」という話から、天然痘予 ねんぎゅうとうかんじゃ けんきゅうすす 防の研究を進める。 1796 年、牛痘患者からとったうみ じつけん てんねんとう つ を子どもに植えて実験し、天然痘にかからないことを実 ぎゅうとうせっしゅはう あんぜんてんねんとう よほうほう 正した。この牛痘接種法は、安全な天然痘の予防法とし おお ひとびとてんねんとう きゅうそくせかいひろ て急速に世界に広まり、多くの人々を天然痘から救う めんえきがく きばん とともに、その後の免疫学の基盤ともなった。 はや れきし かん つ し、カ、 ぶてい 0 - リノタッ ねん しゅし ち まな つ まな いがく がく そうがく てん まわ り りそな くんしゅ ちょう と はん ほう丿つか とうじ し、ん V ン がっかい こくさい よ にほん / ン第 ねん てんもんがくしゃ ん お つ か し、ん つ し一三ロ たいけい 45 9
えが ひかりじつけんず ニュートンが描いた光の実験の図 うえ じつけんようすひだりひかり ( 上 ) と、実験の様子 ( 左 ) 。光の けんきゅう 研究をしていたニュートンは、プ にじつくだ つか リズムを使って虹を作り出し、弟 おどろ や妹たちを驚かせた。 だいかがくしや ちきゅう じめんお み ・『プリンキピア』で大科学者に ーこが地球の裏 の実が地面に落ちるのを見て、 かずかずはつけん じぶん がわ つ ニュートンは数々の発見をしましたが、自分 側なら、リンゴは下から上に動いたことになる りろんぎろんよ ろんそう じかんさ かんが お の理論が議論を呼び、論争に時間を割かれるこ と考えました。それならば、リンゴは落ちたの きら はっぴょう ちきゅうひ とを嫌って発表を避けていました。ところが ではなく、地球に引っ張られたことになります。 けいんほう ちきゅう ねんわくせい ちきゅう てん ひ つ 1684 年、惑星の動きの計算法をたずねてきた天 地球にものを引っ張る力があるのなら、地球の もんがくしゃ ろんぶんおく つき とお と ろんぶん かいてん 文学者ハレーに論文を送ると、ハレーから論文 まわりを回転している月が遠くへ飛んでいかな こうひょうつよすす けんきゅう おも の公表を強く勧められました。こうして研究を い理由にもなります。この思いっきから、のち しゆっぱん すい ばんゆういんりよく あいだ まとめた『プリンキピア』が出版されました。彗 に、すべてのものとものの間には「万有引力」 ば はつけんし あちからはたら はつけん ひ という引っ張り合う力が働いていることを発見 星の発見で知られるハレーは、のちに じぶんもっとめいよ ろんぶんはつけん トンの論文を発見したことが自分の最も名誉な したのです。 しゆっぱん びせきぶんほう さんだいはつけんのこ 発見だと語ったといわれています。この出版で 三大発見の残りの 2 つは、微積分法という数 しわた な せかい ほうほう ひかりせいしつかん はつけん ニュートンの名は世界に知れ渡り、 62 歳のとき 学の方法と、光の性質に関する発見です。特に ねんしようがい じよおう しようごう はんしやほうえんきようはつめい さんだいはっ ひかりけんきゅう に女王からナイトの称号を受け、 84 年の生涯を 光の研究によって反射望遠鏡を発明し、三大発 おうぞく そうぎおく きんだいかがく はってんたす お 終えたときには王族なみの葬儀で送られました。 見とともに近代科学の発展を助けました。 ) 0 ) 1 0 0 0 0 0 おとうと いもうと うら み つえ さ ばちから りゆう せい はつけん さい がく つ けん 第第 , 、ロロ O ニュートンのリンゴの木 ばんゆういんりよくはつけん 万有引力発見のきっ かけになったといわれ き るリンゴの木は、 1 814 ねん 年に枯れてしまった。 まえ しかし、枯れる前に接 き き ぎ木で増やされた木が せいか 生家の庭に植えられ、 ノこしい たいほく いま 今では大木に育ってい にほん る。この木は日本にも とうきようこいし わ 分けられ、東京の小石 かわしよくぶつえんう こいしかわしよくぶつえんう 川植物園に植えられて 小石川植物園に植えられて き いるリンゴの木 いる。 0 らっかばんゆう リンゴの落下が万有 いんりよくはつけん 引力の発見をうんだ。 き 0
ったのです。 ねん 1844 年、マル クスは、パリで しようがい 生涯の同志と なるエンゲルス うんめいてきであ と運命的出会い を果たすと、そ よくねん の翌年、ベルギ ーのプリュッセ ルに移って、工 ンゲルスととも こ『ドイツーイデ はっ オロギー』を発 なかふた 行〇その中で 2 人は、それまで かっかくめいみんしゅう せいぶたたか しやかいしゅぎ フランスの 2 月革命。民衆はバリケードを築いて政府と戦い、 の社会主義を きようわせいじつげん しやかいしゆきしやせいりよくうしな 共和政を実現させたが、まもなく社会主義者は勢力を失った。 くうそうてきしやかいしゅ 「空想的社会主 ろうどうしやせいけん ひはん 義」と批判し、経済学にもとづき、労働者政権 てられると、マルクスは、すべてをなげうって かがくてきしやかいしゅぎ とな しえんかつどうおこな じゅりつ ねんながねん の樹立をめざす「科学的社会主義」を唱えます。 支援活動を行います。しかし、 1883 年、長年の きようさんしゅぎしやどうめい よくねん けんきゅうせいかっ やまい ねん 1847 年には共産主義者同盟に参加し、翌年ロン 無理な研究生活によって病に倒れ、ロンドンの ドンで開かれた同盟の第 2 回大会では、に共産 自宅でエンゲルスらに見守られながら、 64 年の とうせんげん はっぴょう ばんこくろうどうしやしよくんだんけっ しようがい 党宣言」を発表して「万国の労働者諸君、団結 生涯を閉じました〇 せよ ! 」と訴えました。 あらわ ひんこんなか しほんろん ・貧困の中で『資本論』を著す がつかくめい 1848 年、フランスやドイツで 2 月革命がお こると、マルクスは帰国してケルンで『新ラ そうかん ふたたせいふひはんかいし しんぶん イン新聞』を創刊して、再び政府批判を開始 いきお おうせいは します。しかし、王政派が勢いを盛り返し しつばい さいばん かくめい て革命は失敗に終わり、マルクスは裁判でパ ついほう よくねん リ追放となり、翌年にはさらにロンドンへ亡 めい 命することとなりました。 いっ力、 ロンドンでマルクス一家を待っていたの ます ひさんひんこんせいかっ は、悲惨な貧困生活でした。あまりの貧し つぎつぎ さのため、 3 人の子どもたちは次々に亡く まず たたか なります。そうした貧しさと闘いながら、 けいざいがくせいじがく けんきゅうつづ マルクスは経済学や政治学の研究を続け、 けいざいがく ひはん 1859 年にそれまでの経済学を批判した『経 ざいがくひはん かがくてきしやかいしゅぎ ねん 済学批判』を、 1867 年には科学的社会主義 しほんろんたい かんはっこっ 思想をまとめた『資本論』第 1 巻を発行し ました。 ねん 1871 年、ついにパリで史上最初の労働者 じちせいけん による自治政権パリーコミューンがうち立 物を物み つをク .3 ト けいざいがく たお さんか うった ねん かえ ねん たいえいはくぶつかんけんきゅう まいあさしにゆうかん ロンドンの大英博物館で研究するマルクス。毎朝 9 時に入館し せいかっくかえ せきどくしょ よるしかえ て決まった席で読書し、夜 7 時に帰るという生活を繰り返した。 39 しじようさいしよろうどうしゃ
そこく 0 祖国ボーランドからバリの大学へ ふじん マリー ( のちのキュリー夫人 ) は、ポーランド しゆと の首都ワルシャワに生まれました。このころポ せんりようか ーランドはロシアの占領下にあり、ぜいたくな せいかっ あいこく 生活ができるのはロシア人ばかりでした。愛国 しんつよ りようしん 心の強いポーランド人だった両親もよい仕事に けっかくわずら はは毳せいかっ はつけず、結核を患っていた母は古しい生活の なかじゅうぶんようじよう 中で十分に養生でき ないまま、マリーか さい な 1 1 歳のときに亡くな かな ってしまいます。悲 しみにくれたマリー は、いつかポーラン ド人が幸せにくらせ る国を取りもどそう けつい そこくやく と決意し、祖国に役 にんげん カゞっこっ べんきようはげ 立つ人間になるために、学校の勉強に励みました。 いちばんせいせきそっぎよう 高校を一番の成績で卒業したマリーは、パリ だいがくすす かんが とうじじよせい の大学に進みたいと考えました。当時女性はワ ルシャワ大学に入れなかったからです。しかし、 かね し、え あねしん 家にはお金もなく、医師をめざしていた姉も進 がく 学をあきらめていました。そこでマリーは、ま あね じぶんかていきようし ず姉にパリ行きをすすめ、自分は家庭教師をし がくひ しおく - つつ・ て学費の仕送りを続けました。そして 24 歳のと あねたよ ねんがん き、医師になった姉を頼ってパリに行き、念願 にゆうがく はな まち の大学に入学したのです。パリは華やかな街で しんしよくわす したが、マリーはおしゃれどころか寝食も忘れ ぶつりがくすうがく けんきゅうねっちゅう て物理学や数学の研究に熱中しました。あまり に粗末な食まを続けたため、栄養失調で倒れた ぶつりがくそっぎようしけん さい こともありましたが、物理学の卒業試験では最 ゆうしゅうせいせきおさ 優秀の成績を修めました。 だいがく せかいはつじよせいかがくしや 世界初の女性科学者 キュリー夫人 ( マリー = キュリー ) ねん 1867 ~ 1934 年 ふじん じんしあわ と イ . だ はい だいがく せんりようか う ロシア占領下のボーランドに生まれ、 そこくすく にんげん かがくここ 祖国を救える人間になろうと科学を志 だいがくぶつりがくすう す。バリのソルボンヌ大学で物理学と数 がくまな きそかがくけんきゅうすすおっと 学を学び、基礎化学の研究に進む。夫ピ しんげんそ 工ール = キュリーとともに新元素ボロニ はつけん ぶつり ウムとラジウムを発見してノーベル物理 がくしようじゅしよう しごじゅんすい 学賞を受賞する。ピエールの死後、純粋 きんぞく ちゅうしゆっせいこう な金属ラジウムの抽出に成功してノーベ かがくしようじゅしよう ル化学賞を受賞した。 さい し、 だいがく ~ ( 下 0 ことけの 【ピエール = キュリー】 ねん ちょうおんば 1859 年、バリに生まれ、兄と共同で、超音波 はっせい せいひんか でんき を発生させる製品に欠かせない「ピエゾ電気」 はつけん じしやくけんきゅう を発見し、また、磁石の研究では「キュリー ほうそく はつけん の法則」を発見した。 あにきようどう つ かていきようし マリーは住み込みの家庭教師をしながら、姉に仕送りを続けた あねしおく つづ ーリし 0 12