科学者 - みる会図書館


検索対象: 学問・宗教人物事典
54件見つかりました。

1. 学問・宗教人物事典

そこく 0 祖国ボーランドからバリの大学へ ふじん マリー ( のちのキュリー夫人 ) は、ポーランド しゆと の首都ワルシャワに生まれました。このころポ せんりようか ーランドはロシアの占領下にあり、ぜいたくな せいかっ あいこく 生活ができるのはロシア人ばかりでした。愛国 しんつよ りようしん 心の強いポーランド人だった両親もよい仕事に けっかくわずら はは毳せいかっ はつけず、結核を患っていた母は古しい生活の なかじゅうぶんようじよう 中で十分に養生でき ないまま、マリーか さい な 1 1 歳のときに亡くな かな ってしまいます。悲 しみにくれたマリー は、いつかポーラン ド人が幸せにくらせ る国を取りもどそう けつい そこくやく と決意し、祖国に役 にんげん カゞっこっ べんきようはげ 立つ人間になるために、学校の勉強に励みました。 いちばんせいせきそっぎよう 高校を一番の成績で卒業したマリーは、パリ だいがくすす かんが とうじじよせい の大学に進みたいと考えました。当時女性はワ ルシャワ大学に入れなかったからです。しかし、 かね し、え あねしん 家にはお金もなく、医師をめざしていた姉も進 がく 学をあきらめていました。そこでマリーは、ま あね じぶんかていきようし ず姉にパリ行きをすすめ、自分は家庭教師をし がくひ しおく - つつ・ て学費の仕送りを続けました。そして 24 歳のと あねたよ ねんがん き、医師になった姉を頼ってパリに行き、念願 にゆうがく はな まち の大学に入学したのです。パリは華やかな街で しんしよくわす したが、マリーはおしゃれどころか寝食も忘れ ぶつりがくすうがく けんきゅうねっちゅう て物理学や数学の研究に熱中しました。あまり に粗末な食まを続けたため、栄養失調で倒れた ぶつりがくそっぎようしけん さい こともありましたが、物理学の卒業試験では最 ゆうしゅうせいせきおさ 優秀の成績を修めました。 だいがく せかいはつじよせいかがくしや 世界初の女性科学者 キュリー夫人 ( マリー = キュリー ) ねん 1867 ~ 1934 年 ふじん じんしあわ と イ . だ はい だいがく せんりようか う ロシア占領下のボーランドに生まれ、 そこくすく にんげん かがくここ 祖国を救える人間になろうと科学を志 だいがくぶつりがくすう す。バリのソルボンヌ大学で物理学と数 がくまな きそかがくけんきゅうすすおっと 学を学び、基礎化学の研究に進む。夫ピ しんげんそ 工ール = キュリーとともに新元素ボロニ はつけん ぶつり ウムとラジウムを発見してノーベル物理 がくしようじゅしよう しごじゅんすい 学賞を受賞する。ピエールの死後、純粋 きんぞく ちゅうしゆっせいこう な金属ラジウムの抽出に成功してノーベ かがくしようじゅしよう ル化学賞を受賞した。 さい し、 だいがく ~ ( 下 0 ことけの 【ピエール = キュリー】 ねん ちょうおんば 1859 年、バリに生まれ、兄と共同で、超音波 はっせい せいひんか でんき を発生させる製品に欠かせない「ピエゾ電気」 はつけん じしやくけんきゅう を発見し、また、磁石の研究では「キュリー ほうそく はつけん の法則」を発見した。 あにきようどう つ かていきようし マリーは住み込みの家庭教師をしながら、姉に仕送りを続けた あねしおく つづ ーリし 0 12

2. 学問・宗教人物事典

だいがくきようじゅ みちす ・大学教授への道を捨てて カール = マルクスは、プロイセン ( 今のドイ ゆた じんべん ッ ) のトリールで、豊かなユダヤ人弁護士の家 ちちおやえいきよう だいがくほうがくぶ に生まれました。父親の影響でボン大学法学部 に入学しますが、のちにベルリン大学に移って れきし てつがくべんきようねっちゅう 歴史や哲学の勉強に熱中し、将来はボン大学で てつがくきようじゅ のぞ 哲学教授になることを望んでいました。 さんぎようかくめいすす 当時のヨーロッパでは、産業革命が進んで市 じゅうしゅぎしそうひろ みんかいきゅうちからの 民階級が力を伸ばし、自由主義思想が広まって、 はじ せいじ しやかいおお 政治や社会が大きく変わり始めていました。し おうせい かっこくせい かし、あくまでも王政を守ろうとする各国の政 じゅうしゅぎしゃ だいがく ふおお 府は多くの自由主義者たちを逮捕し、ボン大学 がくしゃ だいがくつい せいふ はんたい でも政府に反対する学者たちが次々に大学を追 み 放されました。これを見たマルクスは、大学教 ねんそうかん みち 授への道をあきらめ、 1842 年、創刊されたばか はんせいふけいしんぶん しんぶん りの反政府系新聞『ライン新聞』の記者となり しゅうせいふ ひはん ます。しかし、ライン州政府を批判する記事を きんし しんぶんはっこう 次々に掲載したため、新聞は発行を禁止され、 マルクスはやめさせられてしまいました。 ろうどうしやだんけつうった ・労働者の団結を訴える けいざい こんぼんてき せいじ 政治を根本的に変えようとすれば、経済や社 しひつよう かんが 会のしくみを知る必要があると考えたマルクス つま ねんけっこん は、 1843 年、結婚したばかりの妻とともにパリ もうれつけいざいがく しやかいしゅぎべんきよう はげ に移ると、猛烈に経済学と社会主義の勉強に励 さんぎようかくめい けっか はったっ みました〇その結果、産業革命後に発達した資 ろうどうしゃ ほんしゅぎ しようすう おお 本主義のもとで、多くの貧しい労働者が、少数 しほんかやすちんぎんちょうじかん つか ゆた の豊かな資本家に安い賃金で長時間こき使われ、 ふえいせい こうじようはたら じよせい 女性や子どもまでも不衛生な工場で働かされ、 病気になったり、ま故で亡くな。たりしている かいけつ ことを知りました。また、それを解決しようと しやかいしゅぎ げんかい おお し する社会主義にも、多くの限界があることを知 ひとびようどう しやかいじつげん しやかいしゅ すべての人が平等にくらせる社会主 社会を実現 ひだり しようと語り合うマル ( 左 ) と ンゲルス た ろうどうしやせいけんう 労働者政権を打ち立てようとした マルクス ( カール = マルクス ) ねん 1 818 ~ 1883 年 し し、え だいがく にゆうがく だいがく しようらい し か まも たいほ つぎつぎ だいがくきよう つぎつぎ けいさい じんべんごし ドイツのトリールでユダヤ人弁護士の だいがくほうがくぶにゆうがく つ 家に生まれ、ボン大学法学部に入学、の れきしてつがくてん てつがくきようじゅゆめみ ちに歴史・哲学に転じて哲学教授を夢見 じゅうしゆきしゃだんあっはんたい せいふ るが、政府の自由主義者弾圧に反対し ねんしんぶんきしゃ さ 学を去る。 1842 年新聞記者となって政 ぼうめい だんあっ ひはん つ 府を批判し、弾圧を受けてバリに亡命。 かがくてきしゃ であ そこでエンゲルスと出会って、科学的社 ねんきようさん かいしゆきとな 会主義を唱えるようになる。 1847 年共産 よくねんきようさんとうせんげん しゆきしやどうめいさんか 主義者同盟に参加し、翌年「共産党宣言」 はっぴょう がつかくめいさいきこく を発表。ドイツの 2 月革命の際、帰国して かくめいしつばいこ せいふひはんさいかい 政府批判を再開したが、革命失敗後、バリ ほうめいこくひんなか をへてロンドンへ亡命。極貧の中で『経 ざいがくひはん しほんろん 済学批判』や『資本論』にまとめた。 さんきようかくめい 【産業革命】 はじ きかい はつめい せいきこうはん 1 8 世紀後半、イギリスで始まった機械の発明に だいへんかくゆた しみんしほんか さんきようしやかい よる産業と社会の大変革。豊かな市民が資本家 れつあくろうどうじようけんろうどうしややと ろうどうもん として劣悪な労働条件で労働者を雇い、労働問 だいしやかいもんだい つ 題・社会問題を生み出した。 しやかいしゅぎ 【社会主義】 しゅうざいさんげんいん しやかい ふびようどう 社会の不平等は私有財産が原因であるとして、 かんが じんどうしゆき ざいさんこうゆう 財産を公有にしようとする考え。人道主義にも おお くうそうてき とづく空想的なものが多かったが、マルクスは、 しんしやかいしゅぎ かくめい ろうどうしやちゅうしん 労働者を中心にした革命により、真の社会主義 しやかいじつげん とな 社会が実現できると唱えた。 いえ か だい せい 力、し ) がく ふ し けい し ”ことばのまど 0 38

3. 学問・宗教人物事典

や くち 0 「ロげんか屋」のガリレオ ほうそくみちび きんだいかがくちち 観察から法則を導いた近代科学の父 ガリレオは 1564 年、イタリアに生まれました。 きようかい けんりよくつよ とうじ 当時のヨーロッパはキリスト教会の権力が強 きようせいしょ しぜん く、于宙や自然のしくみは、キリスト教の聖書 ガリレオ あ かんが の考えに合う、古代ギリシアの哲学者アリスト かんが とお テレスの考えの通りだとされていました。その ( ガリレオ = ガリレイ ) げんざい てんどうせつ まちが わ 中には、現在は間違いと分かっている天動説な ねん ひはん 1564 ~ 1642 年 どもありましたが、それらを批判すると、キリ ごうもんけいばっ スト教にそむく者として、拷問や刑罰を受ける ような時代でした。 ちち おんがくりろんはじ すうがく ガリレオの父は、音楽理論に初めて数学を取 しそうか おんがくか り入れた音楽家で、思想家でもありました。ガ ちちえいきようがくもん じもと リレオは、父の影響で学問を志し、地元ピサの けんきゅう だいがく かがくすうがく はじ 大学で科学や数学の研究を始めました。大学の きようじゅゆうじん 教授や友人はみな、アリストテレスを支持して じつけん りろん いましたが、ガリレオは、実験をせず、理論だ ぎもん かんが けを組み立てたアリストテレスの考えに疑問を ゆうじんたいりつ 持っていました。そのせいでよく友人と対立し、 おんこう にんきもの くち ふだんは温厚な人気者だったのですが、「ロげん よ や か屋」とも呼ばれていました。 はつけん ぶったいうご かん ・物体の動きに関する 2 つの発見 だいがくねん 大学 2 年のとき、ガリレオは礼拝堂のつりラ おお ゆ ゆ み ンプが揺れるのを見て、大きく揺れても、小さ おうふく じかんいってい ゆ 1 往復にかかる時間が一定である く揺れても、 はつけん き ことに気づきました。この発見をもとに、ひも じつけんかさ か ふ の長さや重りの重さを変えて振り子の実験を重 とうじせい みちび ふ ね、「振り子の等時性」を導きだしました。 だいがくすうがくこうし ねん ぶっ その 10 年後、同じ大学の数学講師として、物 けんきゅう おも ものかるもの らっか 体の落下を研究していたとき、「重い物は軽い物 はやらっか せつ より速く落下する」というアリストテレスの説 おも さゆう まちが らっかそくど が間違いで、落下速度が重さに左右されないこ しゃとう おも し とを知りました〇そこで、ピサの斜塔から重さ かんさつ つ ねん 、ちゅう てつがくしゃ なか つ と し、 ころざ だいがく く た も かがくみ イタリアのピサに生まれる。科学が未 はじ はったっ 発達だったヨーロッパにおいて、初めて じつけんかんさつひつようせいと ぶつりがくてん 実験や観察の必要性を説き、物理学や天 きんだいか もんがくかか かずかずはつけん 文学に関わる数々の発見をして、近代科 はつけんがく がくみちひら みずか 学の道を開いた。また、自らの発見や学 はっぴょう ちよさく せつ てんもんたいわ 説を『天文対話』などの著作で発表し、 ひとびとりかい ほんなか 人々の理解をうながした。この本の中で、 ちどうせつよう きようかいひてい キリスト教会が否定していた地動説を擁 しゅうきようさいばん 護したことから宗教裁判にかけられ、 はんねんゆうへいせいかつおく 晩年は幽閉生活を送った。 つ れいはいどう ちい お おも なが おな ちどうせつ 【地動説】 ちきゅうちゅうしんてんたいまわ てんどう 地球を中心に天体が回っているという「天動 ちきゅうたいようまわ まわ せつ たい 説」に対し、地球が太陽の周りを回っていると てんもんがくしゃ かんがかた する考え方。ボーランドの天文学者コペルニク ねんはっぴょう せつ スの説で、 1543 年に発表された。 ことうじせい 【振り子の等時性】 ゆはばかんけい ふり いとなが いってい 「糸の長さが一定なら、振り子の揺れ幅に関係な ゆうんどう じかんいってい く、揺れ運動にかかる時間は一定である」とい ふりこどけい はつめいやくだ ほうそく う法則。のちに、振り子時計の発明に役立った。 ことばのま : どレ ぐ 0 ゆ れいはいどう 丿レ拝堂のつりランプ、、 のを見て、「打の等時性」発も発。

4. 学問・宗教人物事典

すうがくおうじゃ けいざいがくちち 「数学の王者」といわれる 「経済学の父」といわれる 力、ウス ( カール = フリードリヒ = ) アダム = スミス ねん 1777 ~ 1855 年 1723 ~ 1790 年 すうがくしゃおさな けいざいがくしやどうとくてつがくしや ドイツの数学者。幼いころから並外 イギリスの経済学者・道徳哲学者。 はっき だいがくじだい けいさんのうりよく だいがく りんりがくてつがくおし れた計算能力を発揮し、大学時代には、 グラスゴー大学で倫理学と哲学を教 えが じようぎ せいかつけい どうとく ねんかんこう こうぎきろく え、 1759 年に刊行した講義記録『道徳 定規とコンパスだけで正 17 角形を描く ふかのう ていせつくつがえ ほうはうしようめい かんじようろん じゅうめいせいひろ 方法を証明して、古代から不可能とされてきた定説を覆 感情論』でヨーロッパ中に名声を広める。その後、大 すうがくあたら けんじつけんきゅうつづ はっぴょう ぶんや がくや こくふろん しょこくみん とみ ねん 学を辞めて、 1776 年に『国富論』 ( 『諸国民の富』 ) を発表。 した。その後も堅実な研究を続けて、数学の新しい分野 こうせきのこ かすおおかいたくすうがく はってんおお かんり はじ しほんしゅぎしやかい たいけいか こっか を数多く開拓、数学の発展に大きな功績を残した。また、 初めて資本主義社会を体系化し、国家の管理を廃した、 はんえい 天文学では小惑星の軌道計覽、物理学では測地学や電磁 ひとびと じゅう けいざいかつどう こっ力、 人々の自由な経済活動こそが、国家の繁栄につながると ぎようせきおお じりよくあらわたん きがく すうがくいがいすぐ いう「自由放住主義」を説いて占由主義経済学を完成、 気学など、数学以外の優れた業績も多い。磁力を表す単 かれな てんはけいざいがくひら いガウス 位 G は、彼の名にちなんだものである。 古典派経済学を開いた。 しゅうきようかいかく すす ばんがくそ がくもんたいけい 宗教改革をおし進めた あらゆる学問を体系づけた万学の祖 カルバン ( ジャン = ) アリストテレス ねん きげんぜん ぜん 1509 ~ 1564 年 紀元前 384 ~ 前 322 年 しゅうきようかいかくしゃ ねん さいだいてつがくしゃ フランスの宗教改革者。 1533 年、カ 古代ギリシア最大の哲学者。 17 歳か えんぜっおこな ひてい てつがくしゃ やくねんかん トリックを否定する演説を行ってフラ ら約 20 年間にわたってアテネの哲学者 かくちてんてん ねんとうじ お ぜん さい ンスを追われる。各地を転々としなが プラトンに学ぶ。前 343 年、当時 13 歳 かんこう きようこうよう ひとせいしょ ねん おうじ ら 1536 年に『キリスト教綱要』を刊行、人は聖書に書か のマケドニア王子アレクサンドロスの家庭教師となっ ことばふくいん ふくいん てつがくれきしせいじがく かみ おし れた神の言葉 ( 福音 ) によってのみ救われるという福音 て哲学や歴史、政治学などを教える。その後、アテネに まね しゅぎ けんきゅうばっとう がっこうひら はん 学校を開いて誨義と研究に没頭したが、反マケドニア運 主義を唱えた。その後、スイスのジュネープに招かれ、 しゅうきようかいかくつ きんろ、 ちょちく どうし さんだんろんばう かくりつ な お 同市の宗教改革に尽くした。勤髣と貯蓄をすすめる彼 動でアテネを追われて亡くなった。三段論法を確立した しみんかいきゅう し しぜんかがくせいじがく しがく ろんりがく りんりがくてつがく の教えは、特に市民階級に支持され、死後、プロテス 論理学や、倫理学、哲学のほか、自然科学や政治学、詩学 じゅうひろ いつば しよがくもんきそきず タントの一派としてヨーロッパ中に広まった。 など、その後のヨーロッパの諸学間の基礎を築いた。 かんねんろんかくりつ たいりくいどうせっとな ドイツ観念論を確立した 大陸移動説を唱えた カント ( イマヌエル = ) ウ工ゲナー ( アルフレート = ロタール = ) ねん ねん 1724 ~ 1804 年 1880 ~ 1930 年 てつがくしゃ きしようちきゅうぶつりがくしゃみなみ ドイツの哲学者。ケーニヒスプルク ドイツの気象・地球物理学者。南ア 大学で数学・占然科学・哲学を学び、 たいりく たいりく かいがんせん メリカ大陸とアフリカ大陸の海岸線 かがくてき はじ たいせいよ、 が、大西をはさんでびったり合わさ のちに母校の講師となる。初め科学的 ねんだい , 1 , 彎 : ) んは・。びよう てつがくてん たいりくぶんれつ おお 于由論を発表したが、 1760 年代から哲学に転じる。人 ることから、もともと 1 つの大きな大陸が分裂、移動し かんせいてきけいけん けんかいあき げんにんしき げんざい かくたいりく ちしつ せい かんが 間の認識の限界を明らかにし、それまでの感性的経験を て現在の各大陸になったと考えた。各大陸の地質や古生 おも けいけんろん せつうらづ ねんたい おも きようつうてんちょうさ ぶつ 重んじるイギリスの経験論や、理性だけを重んじるフラ 物などの共通点を調査してこの説を裏付け、 1912 年に大 じゅう じんかく ごうりろんひはんてつがく どくりつ たいりくいどう げんどう ) よく はっぴょう りくいどうせつ ンスの合理論を批判。哲学は独立した自由な人格をもつ 陸移動説として発表した。しかし、大陸移動の原動力が けいけんろん ごうりろん にんげん がくもん ねん とうじ し かいめい つ 人間のための学問であるべきだとして、経験論と合理論 解明できなかったため当時は受け入れられず、死後 20 年 かんねんろんかくりつ せいとうせいみなお を統合してドイツ観念論を確立した。 あまりたってようやく正当性が見直された。 きんだいけいざいがくかくりつ じんぶんがくしゃ だいひょう 近代経済学を確立した ルネサンスを代表する人文学者 ケインズ ( ジョン = メイナード ) 工ラスムス ( テシデリウス = ) ねん ねん 1883 ~ 1946 年 1466 ~ 1536 年 けいざいがくしゃだいいちじせかいたい じんぶんがくしやしんがく てんまな イギリスの経済学者。第一次世界大 オランダの人文学者。神学や古典を学 せかいてき だいふきよう てん こうゆうふか せん 戦後の世界的な大不況のなかで、古典 び、思想家トマス = モアらと交友を深め はけいざいがく じゅうほうにんしゅぎ ひはん げんてんけんきゅう せいしよ 派経済学の自由放任主義を批判。 1936 ながら、聖書の原典を研究する。 1509 しつぎよう いつばんりろん あらわ そうりよおうこうきぞく ねん こよう ねんてつがくしゃ しんがくしゃ 年に『雇用・利子および貨幣の一般理論』を著し、失業 年、哲学者や神学者、カトリックの僧侶や王侯貴族の堕 をなくすためには、国家が積極的に公共竈業を進めて はっぴょう かくち きび ぐしんらいさん らく ひはん 落を厳しく批判した『愚神礼賛』を発表、ヨーロッパ各地 しゅちょう りろん じゅうよう えいきようあた しゅうきようかいかく うんどうおお 雇用をつくりだすことが重要と主張した。この理論は、 のルネサンス運動に大きな影響を与え、宗教改革のひ おお しゅうきようかいかくうんどう げきか けいざいがく かくめい せかい 世界の経済学に「ケインズ革命」と呼ばれるほどの大き きがねとなった。しかし、ルターの宗教改革運動が激化 せかいつうかききん たいにじせかいたいせん ろんそう しようげきあた へいわしゅぎ たちば たいりつ な衝撃を与えた。第二次世界大戦後は世界通貨基金 すると、平和主義の立場からルターと対立し、論争をく せかいぎんこうせつりつじんりよくしょだいそうさい しゅうにん きんだいじゅうしゅぎしそうせんくしゃ ( 川 F ) 、世界銀行の設立に尽力、初代総裁に就任した。 り広げた。近代自由主義思想の先駆者といわれる。 44 なみはす ねん まな か かていきようし とな おし こ一三 かくたいりく りせい し、 よ ひろ

5. 学問・宗教人物事典

びようどうしやかいにんげんじゅう せいせんせつ 平等な社会と人間の自由を説いた 「性善説」による王道政治を説いた もうし 孟子 ) レソー ( ジャン = ジャック = ) ねん きげんぜん せん 1 712 ~ 1778 年 紀元前 372 ころ ~ 前 289 年ころ けいもうしそうか ちゅうごくせんごくじたい 中国の戦国時代の思想家。孔子の孫 フランスの啓蒙思想 ~ 。 豕スイスのジ もんじんじゅがく まな すうねんかんほう の子思の門人に儒学を学ぶ。のちに数 ュネープに生まれ、 16 歳から数年間放 かっこくめぐ たびで もんじん ひ 百人もの門人を引き連れて各国を巡 浪の旅に出たのち、パリに出てデイド けいもうしそうか こうゆうぶんびっせいかつはい えきせいかくめい しょこうおうどうせいじ り、諸侯に王道政治と易姓革命を説いた。その考えは、 ロらの啓蒙思想家と交遊、文筆生活に入る。 1755 年に にんげんふびようどうきげんろん せいじ にんげんはんしようせん せいぜんせつ 『人間不平等起源論』、 1762 年には『社会約論』『エミ 人間の本性を善とし ( 性善説 ) 、徳のある政治によって あらわ ふびようどう ふせんひとぜんか しやかい きようわせい じつげん ひはん 不善の人も善に変わり、徳のない君主はやがて徳のある ール』を著して不平等な社会を批判し、共和制の実現 ふりよく にんげんじりつと ものたお かんけんお み 者に倒されるというものであった。しかし、武力によっ や人間の自立を説いて官憲に追われる身となった。その しつばい びようどう にんげん てんか しやかい じゅう つったつつ・ て天下をねらう諸侯たちに受け入れられず、失敗。やが 後も平等な社会と人間の自由を訴え続け甲相・ 、ツ L ム、バン、 - ノ : ヾ じゅっきよういく こきようかえ もんじんいくせいせんねん えいきようあた て故郷に帰り、門人の育成に専念した。 術・教育などに大きな影響を与えた。 さんけんぶんりつ とな みちほうしやせん はじ せん はつけん 初めて「三権分立」を唱えた 未知の放射線「 X 線」を発見した モンテスキュー ( シャルル = ) レントケンウイルヘルム = コンラード = ) ねん ねん 1689 ~ 1755 年 1845 ~ 1923 年 けいもうしそうか ふつりがくしやせいごすうねん フランスの啓蒙思想家。地方貴族の ドイツの物理学者。生後数年でオラ ほうりつまな たいがく こうかたいがくそっ つ 家に生まれ、ボルドー大学で法律を学 ンダに移住。チューリヒ工科大学を卒 ぎようご しゆとく かくち たいがくこう 業後、博士号を取得し、各地の大学講 んで弁護士となる。のちにボルドー ねんせったいおうせいか しやかいふう きようじゅれきにん ねんいんきよくせんけんきゅうちゅうぐうぜん とうほういんいんちょう 等法院の院長となるが、 1721 年、絶対王政下の社会を風 師や教授を歴任する。 1895 年、陰極線を研究中に偶然 あらわ ふっしっとおぬ せいしつ ほうしやせん はつけん てがみ 刺した『ベルシア人の手紙』を著して人気を得る。 1725 物質を通り抜ける性質をもっ放射線があることを発見。 ねんいんちょう かくち たび ほうしやせん せんなづ しっぴっ 年、院長をやめてヨーロッパ各地を旅し、帰国後、執筆 それまで未知の放射線だったことから、 X 線と名付けら さんけんぶんりつおうけんせいげん せんけんこうしんだんようせんさつえい ねん せんねん に専念。 1748 年、『法の精神』で三権分立と王権の制限 れた。のちに、 X 線は健康診断用 X 線撮影をはじめ、多 こうせき がっしゅうこくけんほう かんが ぶんや を説くと、その考えは、のちのアメリカ合衆国憲法や くの分野で利用されるようになった。その功績により、 えいきようあた ふつりがくしようじゅしよう かくめいおお ねん フランス革命に大きな影響を与えた。 1910 年ノーベル物理学賞を受賞した。 かせきじんこつはっくつ どうかしそうひら さいこ 最古の化石人骨を発掘した 道家思想を開いたといわれる ろうし 老子 リーキー ( ルイス = ) せいほっねんふしよう ねん 1903 ~ 1972 年 生没年不詳 じんるいがくしゃ じんばくし だいちゅに一くせんごくじたい 古代中国の戦国時代の思想家。『老 ケニアの人類学者。イギリス人牧師 せいふつがく どうかしそうひら の子としてケニアで生まれ、古生物学 子』を著して道家思想を開いたとされ じつざい ねんいこうひがし かくち じんふつ まな を学ぶ。 1926 年以降、東アフリカ各地 ているが、実在の人物ではないという きゅうせつきぶんか いせき はっくっちょうさおこな ろうし 、ちゅうにんげんちからおよ せんしじたい 説もある。『老子』によれば、斈宙は人間のカの及ばな で先史時代の遺跡の発掘調査を行い、特に旧石器文化 い占然の「道」によって支配されており、それに逆らわ の研究に大きな成果をもたらした。 1931 年からは、妻 そんちょう むす おし ずに自由に生きることを尊重した。その教えは荘子に メアリーや息子リチャードの協力でオルドバイ谷の遺 みんかんしんこう ーかん せきちょうさおこな つ よって受け継がれ、さらに民間信仰と結びついて、後漢 跡調査を行い、アウストラロヒテクスやホモーハビリス しゅうきよう ひろみんしゅうあいた かせき はっくつ よ とうしさい 時代末期には道教と呼ばれる宗教として広く民衆の間 など、当時最古とされた古人類の化石を発掘して人類の けんきゅうおお で信仰されるようになった。 進化の研究に大きく貢献した。 じんみんしゆけんきそきず しよくぶつぶんるいがくきそきず 人民主権の基礎を築いた 植物分類学の基礎を築いた ロック ( ジョン = ) リンネ ( カール = フォン = ) ねん ねん 1632 ~ 1704 年 1707 ~ 1778 年 しよくふつがくしゃ 近代イギリスの思想家。大学在学中 スウェーデンの植物学者。ルンド大 に医学・占然科学・哲学を学び、 1667 たいがくしよくぶつがく 学で医学、ウブサラ大学で植物学を学 ねんはんおうばうどう さんか 年、反王暴動に参加してオランダへ亡 び、 1735 年、オランダで医学の学位を にんげんちせいろん ぐたいてき けいけん こうふつかん はっぴょう しゆとく どうねん どうふつしよくふつ めい 命。そこで『人間知性論』を発表し、具体的な経験の 取得する。同年、オランダで動物・植物・鉱物に関す にんしきぜんてい しゅちょう しゆっぱん かたちしよくふつ つかさ しぜんたいけい る『自然の体系』を出版、おしべとめしべの形で植物 積み重ねこそが知識や認識の前提であると主張した。 ねんめいよかくめい しみんせい ふんるいはう とな ねん たいがくしよくぶつ ねん さらに 1688 年に名誉革命がおこると、 16 年に『市民政 を区別する分類法を唱えた。 1742 年ウブサラ大学植物 あっせいおこなせいふたおけんり あらわ じんみん 学教授となり、 1753 年朝直物の種』で植物を属名と種 ふにろん 府二論』を著し、人民は、圧政を行う政府を倒す権利を がっしゅうこく しゅちょう かくめい 名の組み合わせで分類する二名法を提唱、 1758 年龕然 もっと主張して革命を支持し、のちのアメリカ合衆国 しんけんせんげんえいきようあた ばん どうふつにめいほう かくりつ 憲法やフランス人権宣言に影響を与えた。 の体系 10 版』で動物の二名法を確立した。 と おうどうせいじ と ねん つ ひやくにん と かんが ねん くんしゅ つ おお ちはうきぞく いじゅう し、ん し おお ほうせいしん と あらわ し きようりよく つ じんるい どうきよう じだいまっき じんるい こうけん ・ンイラ こノー、 たいがくざいがくちゅう まな いがく ねん 0 たいけい けんはう 47

6. 学問・宗教人物事典

きんだいせいしんいがく 近代精神医学のもとを築いた フロイト きず ( ジクムント = フロイト ) ねん 1856 ~ 1939 年 まず モラビアのフライブルクで、貧しいユ じんしようにんこ ダヤ人商人の子として生まれ、 3 歳でウ いじゅう だいかくてつがく ィーンに移住する。ウィーン大学で哲学 まな いがくてん せいしんいがく を学び、のちに医学に転じて精神医学の けんきゅう ゆめぶんせき せいしんぶんせき 研究に打ち込む。「夢分析」「精神分析」 ほうほう にんげんむいしきせ と呼ばれる方法により人間の無意識の世 かいかいめい じゅうれんそうほう 界を解明し、「自由連想法」と呼はれる せいしんびようちりようほうかんがだ きんだいせい 精神病の治療法を考え出すなど、近代精 しんいがくおお はってん 神医学を大いに発展させた。その後も、 むいしきしんりがく おお ちよしょだ 無意識心理学をもとに多くの著書を出 ぶんがくびじゅっしやかいがく おお し、文学・美術・社会学などにも大きな えいきようあた 影響を与えた。 さい 【ナチス】 ねんせつりつ きよくうせいとうよくねん 1 920 年に設立されたドイツの極右政党。翌年 とうしゅ いらいせいりよくの ヒトラーが党首になって以来勢力を伸ばし、 ねん ないかく はんたいはだん 1933 年ヒトラー内閣をつくると、反対派を弾 あっ じんはくがい ほうりよく しはい 圧し、ユダヤ人を迫害するなど暴力による支配を だいにじせかいたいせん ねん 行い、 1939 年には第ニ次世界大戦をおこした。 朝こ七ばのま : ど 36 ます じんいえ ・貧しいユダヤ人の家に生まれる はじ ジクムント = フロイトは、心の病を初めて解 せいしんかい あらわ きあかした精神科医です。ジクムントが現れる せいしんいがく にんげんせいしん までの精神医学では、人間の精神は、すべて意 ころやまい 識によって生み出されるものであり、心の病も、 かんじやじしん かんが 患者自身のゆがんだ意識が原因でおこると考え られていました。しかし、ジクムントは、すべ にんげん むいしき ての人間には、意識には現れない無意識という ひそ ものが潜んでおり、それによって心の病がおこ かんが ると考えたのです。 ジクムントは、 1856 年、東ヨーロッパの小国 いま モラビア ( 今のチェコ ) のフライプルクで、貧 じんかていちょうなん しいユダヤ人の家庭に長男として生まれ、 3 歳 ちちおや かんけい のとき、羊毛商人である父親の仕事の関係で、 オーストリアのウィーンに引っ越しました。そ つぎつぎおとうといもうとう ははおや の後、次々に弟や妹が生まれましたが、母親は、 おさな りはつ あい 幼いころから利発なジクムントをことのほか愛 せいかっ べんきようべやあた し、貧しい生活にもかかわらず、勉強部屋を与 さいのう えて才能を伸ばそうとしました。そのかいあっ ねんゆうしゅうせいせき て、ジクムントは、 1873 年優秀な成績でウィー にゆうがく ン大学に入学しました。 むいしきせかいよ 0 無意識の世界を読みとく はじてつがく ジクムントは、初め哲学を学びましたが、や ころやまい げんいん あらわ ころやまい ねんひがし しようこく まず さい ようもうしようにん だいがく まな いがくみち がて医学の道へと進路を変えました。医学の研 しんろ けん いがく ることで、患者自身も気づかない無意識を呼び覚まそうとした むいしきよ かんじやじしんき 患者を長椅子に横たわらせるジクムント。患者に自由に語らせ かんじゃ じゅうかた かんじゃながいすよこ とうじ ようになります。ジクムントは、精神病患者を せいしんびようかんじゃ ものと考えられていた精神の世界に関心をもつ かんしん せいしんせかい かんが 究を進めるうちに、当時はまだ複雑で神秘的な ふくざっしんびてき きゅうすす

7. 学問・宗教人物事典

けんきゅうねっしん しようねん ・研究熱心なニュートン少年 のう力、 ニュートンはイギリスの農家に生まれました。 ちち はは そのときすでに父は亡く、母も 3 歳のときに再 いえで そだ そば 婚して家を出ていたので、祖母の手で育てられ き よわ なむし こうさく どくしょ ました。気が弱く、泣き虫でしたが、工作と読書 す じぶんみすどけい ひどけい つく が好きで、自分で水時計や日時計を考えて作り、 むらじゅうひょうばん べんきよう 村中の評判になったこともありました。勉強が だいす さいこんあいて な 大好きでしたが、 14 歳のとき、再婚相手を亡くし はは せいかっ し、え た母が 3 人の子どもと家にもどると、生活のた カゞっこっ はたけしごとてつだ めに学校をやめて畑仕事を手伝うようになりま あたまべんきよう した。しかし、頭は勉強のことでいつばいで、仕 かんが 事をしながら考え事ばかりしていました。 ねん す はげ たいふう それから 2 年ほど過ぎたころ、激しい台風か むらおそ あらしなか じつけんはじ 村を襲うと、ニュートンは嵐の中で実験を始め かぜむ しやめん ました。風の向きにそって丘の斜面を飛び、次 かせさか と かぜ に風に逆らって飛んで、その距離の差から風の ちからはか いっとき けんきゅう そば 力を計ったのです。母や祖母は、一時も研究を わす がっこっ 忘れられないニュートンを学校にもどすことに ちゅうがっこっ しました。こうして中学校にもどったニュート いちばんせいせきそっぎよう だいがく ンは、一番の成績で卒業し、ケンプリッジ大学 すす すうがくぶつりがく けんきゅうせい に進んで数学と物理学を学び、卒業後も研究生 けんきゅうつづ として研究を続けました〇 ばんゆういんりよくはつけん だいかがくしや 万有引力を発見した大科学者 ーユートン ( アイザックーニュートン ) 1642 ~ 1727 年 つ な て かんが ねん し と おか はは そっぎようご まな むらのう イギリスのウルスソープという村の農 そほそだ さい 家に生まれ、祖母に育てられた。 19 歳 だいがくにゆうがくすうがくぶつり でケンブリッジ大学に入学、数学と物理 がくまな そっきようこだいがくけんきゅうつづ 学を学び、卒業後も大学で研究を続けて はんゆういんりよくびせきぶんほう さいきようじゅ 26 歳で教授となる。万有引力、微積分法、 ひかりせいしつ げんだいかがく きそきず 光の性質など、現代科学の基礎を築く かずかずはつけん ねんけんきゅう 数々の発見をし、 1687 年、研究をまと はっぴょう めいせい めた『プリンキピア』を発表して名声を ばんねんそうへいきよくちょうかんしごと え 得た。晩年は造幣局長官の仕事もこな ねんしようがいと し、 84 年の生涯を閉じた。 ノ : ィ きようふらなが : しつけん = 1 ートは強風の中で実験をタ最 らっか ばんゆういんりよくはつけん ・リンゴの落下で万有引力を発見 りゆうこう だいがくへいさ ベストの流行で大学が閉鎖された 1664 年から ねんかん こきようかえ 3 年間、ニュートンは故郷に帰って「ニュート さんだいはつけん じゅうよう はつけん ンの三大発見」と呼ばれる重要な発見をしまし ばんゆういんりよく はつけん た。その 1 つが万有引力の発見です。 ちきゅう かいてん このころニュートンは、地球のまわりを回転 とお している月が遠くへ飛んでいかない理由につい ひにわ て考えていました。そんなある日、庭のリンゴ つ か ノし 0 ねん ロ はんしやぼうえんきよう 【反射望遠鏡】 くっせっぽうえんきよう つか それまで使われていた屈折望遠鏡の、色がにじ けってんおきな ほうえんきようせんめい がぞうえ むという欠点を補った望遠鏡。鮮明な画像を得 てんもんがくはってんおお やくわり られ、天文学の発展に大きな役割を果たした。 と虧のまど いろ は と つき りゆう かんが 30

8. 学問・宗教人物事典

おもさんこうぶんけん 0 主なー 並木雅俊著『アインシュタインと時空の旅』 ( 丸善 ) ェルンスト = カッシーラー著 / 山本義隆訳『アイ ンシュタインの相対性理論』 ( 河出書房新社 ) 寺村輝男著『アフリカのシュバイツアー』 ( 童心社 ) レイチェル = カーソン著 / 上遠恵子訳『海辺生 命のふるさと』 ( 平河出版 ) 大宮信光著『面白いほどよくわかる相対性理論』 論』 ( 精興社 ) 大林辰蔵監修『サイエンスコミック 3 山田大隆著『心にしみる天才の逸話 20 』 ( 講談社 ) 加地伸行著『孔子画伝』 ( 集英社 ) ( 日本文芸社 ) 相対性理 毎日新聞社 藤田美術館 PANA 通信社 東京国立博物館 集英社学芸編集部 国立西洋美術館 京都外国語大学付属図書館 小田原市役所 岩崎宗純 0 協力一覧 きようりよくしゃいちらん えた科学者ダーウイン』 ( 岩波書店 ) スティーヴ = パーカー著 / 八杉龍一訳『世界を変 中沢釜夫著『世界の伝記 18 釈迦』 ( ぎようせい ) た先駆者たち』 ( 教育社 ) 竹内均監修『世界の科学者 100 人未知の扉を開い ゴッホキュリー夫人』 ( 講談社 ) 式馬隆三郎・崎川範行著『世界伝記全集第 8 巻 松原哲明ほか『図説三蔵法師の道』 ( 河出書房新社 ) 植田三郎著『数学を創った人たち』 ( 国土社 ) ( 講談社 ) 三木卓著『少年少女伝記文学館 13 ファープル』 ( 講談社 ) 森禮子著『少年少女伝記文学館 1 イエス』 佐藤一美著『シュリーマン』 ( 講談社 ) で』 ( 宝島社 ) レイチェル = カーソン著 / 上遠恵子訳『潮風の下 グドール自伝チンパンジーの森へ』 ( 地人書館 ) ジェーン = グドール著 / 庄司絵里子訳『ジェーン・ スティーピー = パーカー著 / 百々佑利子訳『世界 を変えた科学者マリー・キュリー』 ( 岩波書店 ) 中野美代子著『中国の英傑 6 三蔵法師』 ( 集英社 ) 『中国の歴史 7 シルクロードの旅』 ( 中央公論社 ) レイチェル = カーソン著『沈黙の春』 ( 新潮社 ) 『伝記世界の偉人 3 キリスト』 ( 中央公論社 ) 『伝記世界の偉人 12 ファープル』 ( 中央公論社 ) ジェームズ = ヘントリー著 / 菊島伊久栄訳『伝記 世界を変えた人々 7 シュバイツアー』 ( 偕成社 ) = バーチ著 / 菊島伊久栄訳『伝記世界 ビバリ を変えた人々 10 パストゥール』 ( 偕成社 ) アンナ = スプロウル著 / 乾侑美子訳『伝記世界 を変えた人々 13 ダーウイン』 ( 偕成社 ) フィオナ = マクドナルド著 / 日暮雅道訳『伝記世 界を変えた人々 19 アインシュタイン』 ( 偕成社 ) 野田彰著『ニュートン』 ( ポプラ社 ) 林達夫編訳『ファープル昆虫と暮らして』 ( 岩 波書店 ) フリーデンタール著 / 笠利尚ほか訳『マルティ ン・ルターの生涯』 ( 新潮社 ) NHK アインシュタイン・プロシェクト『やさしい 相対性理論』 ( 日本放送出版協会 ) ヴィーセ著 / 大塚勇三訳『夢を掘りあてた人』 ( 岩 波書店 ) 森田安一著『ルターの首引き猫』 ( 山川出版社 ) ジンジャー = ワズワース著 / 上遠恵子訳『レイチ ェル = カーソン』 ( 偕成社 ) レイチェル = カーソン著 / 日下実男訳『われらを めぐる海』 ( 早川書房 ) 『 21 世紀こども人物館』 ( 小学館 ) ユニフォトプレス レイチェル・カーソン日本協会 Rachel Carson History Project * 著作権については十分配慮いたしましたが、お気づきの方がいらっしゃいましたら、弊社まで御一報ください。

9. 学問・宗教人物事典

ちゅうこくはつれきししよ し き 中国初の歴史書史記』を書いた しはせん 司馬遷 せん きげんぜん ねん 紀元前 145 ころ ~ 前 86 年ころ ちゅうごくぜんかんじだいれきし か 中国の前漢時代の歴史家。早くから けんきゅう てんした 古典に親しむとともに、歴史の研究を 重ねる。やがて父のあとを継いで亟官 れきしたんとうやくにん ちゅうごくさいしよっう ゆいごんしたが ( 歴史担当の役人 ) になると、遺言に従って中国最初の通 こうふく しようぐん はじ せんねんてき 史『史記』の編さんを始めた。前 99 年、敵に降伏した将軍 りりようべん たんせいきせつだんけい 李陵を弁護して武帝の怒りをかい、男性器切断の刑を受 きゅうてい かんせい けた。しかし、『史記』完成のために恥をしのんで宮廷に ちゅうごく やくせんすうひやくねんれきし せんかん もどり、中国の太古から前漢まで約 2 千数百年の歴史 きでんたい けいしきぜんかん を、紀伝体という形式で全 130 巻にまとめあげた。 そうがくしゅしがく たいせい 宋学 ( 朱子学 ) を大成した しゆき ねん 1 130— 1200 年 ちゅうごくそうだい 中国の宋代の思想家。朱子ともいう。 ごうかく やくにん 19 歳で科挙に合格して役人となり、そ じゅがく さいやくにん のかたわら儒学を学ぶ。 28 歳で役人を がくもんせんねん しゅうとんい じゅがくそうごう や 辞めて学問に専念し、周敦頤らの儒学を総合して宋学 ばんぶつき しゅしがく たいせい けいせい ( 朱子学 ) を大成。万物は気によって形成されるが、天 き むす から与えられた理が備わっており、理と気が結びついて せかいちつじよ 世界の秩序が保たれるとした。また、君主と家臣はそれ ほんぶんただ しやかいちつじよ ぞれの本分を正すことで社会秩序が保たれると説き、朝 えいきようあた せんにほん おお 鮮や日本にも大きな影響を与えた。 きんだいこうりしゅぎてつがくはじ 近代合理主義哲学を始めた デカルト ( ルネ = ) ねん 1596 ~ 1650 年 てつがくしやすうがくしゃ フランスの哲学者・数学者。法律家 ころざ がくもん つ の家に生まれ、学問を志したが、当時 しはい 学界を支配していたキリスト教のスコ ラ学に不満をもつようになり、各国を転々として占然科 ねんほうほうじよせつ がくてつがく こうさつふか あらわ 学や哲学の考察を深めた。 1637 年『方法序説』を著して、 かんじよう にんげん りせい かがくてき かんかく 感覚や感情ではなく人間の理性によって科学的に真理 きわ ごうりろんとな すべうたが さい を究めようとする合理論を唱えた。全て疑い、最後に残 そんざい しゆっぱっ おも じふん った自分という存在から出発しようとした「われ思う、 ことばゆうめい ゆえにわれあり」の言葉は有名。 うちゅう はっぴょう 「ハーシェルの宇宙」を発表した ハーシェル ( フレデリック = ) 1738 ~ 1822 年 イギリスの天文学者。ドイツで音楽 ねん 家の家に生まれる。 1757 年イギリスに えんそうか わた 渡りオルガン演奏家となるが、そのか じさくおおがたばうえんきよう かんしん たわら自作の大型望遠鏡で子どものころから関心のあ ねんみちわくせい てんたいかんそく った天体観測に打ち込む。 1781 年、未知の惑星であった てんのうせい ごうけい せいうんせいだん はつけん ねん 天王星を発見し、 1802 年には合計 25 固もの星雲・星団 せいうんせいだんもくろく あらわ かくにん の位置を確認し、『星雲・星団目録』を著した。さらに 全天の星の分布と距離を計覽して区画毎に集計し、「ハ はっぴょう てんたい よ ーシェルの斈宙」と呼ばれる天体の体系を発表した。 か さいきんがくちち 「細菌学の父」といわれる コッホ ( ロベルト = ) ねん 1843 ~ 1 9 1 0 年 さいきんがくしゃ ちほう ドイツの細菌学者。地方の医師とし けんびきようたよ っと て勤めるかたわら、顕微鏡を頼りに炭 けんきゅう ねんたんそきんはつけん そびよう 疽病を研究し、 1876 年に炭疽菌を発見。 さいきんせんしよくじゅんすいばいようはう かいはつ でんせんびよう 細菌の染色や純粋培養法を開発して、伝染病にはそれ しようめい つつ′ ねん とくていびようげんきん ぞれ特定の病原菌があることを証明した。続いて 1882 年 けっかくきんよくねん きんはつけん ねん に結核菌、翌年にはコレラ菌を発見。 1890 年にはツベル ねんいこう でんせんびよう はっぴょう わだい クリンを発表して話題となる。 1891 年以降は、伝染病 しょだいしょちょうしゅうにん けんきゅうじよ けんきゅうじよ 研究所 ( コッホ研究所 ) の初代所長に就任し、日本の きたさとしばさぶろう さいきんがくしやそだ おお 北里柴三郎など多くの優れた細菌学者を育てた。 ちどうせっとな 地動説を唱えた コペルニクス ( ニコラウス = ) 1473 ~ 1543 年 せいしよくしや てんもんがくしやかく ポーランドの聖職者、天文学者。各 だいがくてんてん しんがくすう 地の大学を転々としながら、神学や数 とくてんもんがく 学、医学などを学ぶ。特に天文学に打 てんどうせつあやま き ち込み、古代から信じられてきた天動説の誤りに気づい ちきゅうたいよう まわ ちどうせつしん て、地球が太陽の周りを回っているという地動説を信じ いしやばくし っと るようになった。その後、医者や牧師として勤めるかた けんきゅうすす ちどうせつかくしん てんたいかんそくつづ わら、天体観測を続けて研究を進め、地動説を確信した てんどうせつ きようかいおし が、天動説をとる教会の教えに反するものだったため、 しちよくぜん 爿イナ 死の直前まで公にすることはなかった。 へいわねが こくさいこ 平和を願って国際語をつくった サメンホフ ( ラザロ = ルドウィック = ) ねん 1859 ~ 1 9 1 7 年 はつあん 工スペラント語を発案したポーラン こきようとうじ がんかい ドの眼科医。故郷は当時ロシア領で、 ことばっか さまざまみんぞく 様々な民族が、それぞれの言葉を使っ た てくらしていたため、いさかいが絶えなかった 。っし こくさいきようつう かんきようそだ だれ つうあ かんたん た環境で育つうち、誰もが通じ合える簡単な国際共通 はっぴょう げん 【ナつし一 ねん 語をつくろうと決意し、 1877 年に国際語を発表。この言 はっぴょうじ 語は発表時のペンネームからエスペラント語と呼ばれ、 めいじじたいふたばていし せかいひろ その後、世界に広まった。日本では明治時代に二葉亭四 めいふきゅうつ げんざいおお かいいん 迷が普及に尽くし、現在も多くの会員がいる。 てんねんとうよぼうほうかいはつ 天然痘の予防法を開発した ジェンナー ( 工ドワード = ) ねん 1749 ~ 1823 年 し一し一ん力、し、 イギリスの医師。 1773 年に医院を開 しゅぎようじたい いちどぎゅうとう ぎようご 業後、修業時代に聞いた「一度牛痘 びようき てんねんとう ( 天然痘に似たウシの病気 ) にかかっ てんねんとう はなし てんねんとうよ ひと た人は、天然痘にかからない」という話から、天然痘予 ねんぎゅうとうかんじゃ けんきゅうすす 防の研究を進める。 1796 年、牛痘患者からとったうみ じつけん てんねんとう つ を子どもに植えて実験し、天然痘にかからないことを実 ぎゅうとうせっしゅはう あんぜんてんねんとう よほうほう 正した。この牛痘接種法は、安全な天然痘の予防法とし おお ひとびとてんねんとう きゅうそくせかいひろ て急速に世界に広まり、多くの人々を天然痘から救う めんえきがく きばん とともに、その後の免疫学の基盤ともなった。 はや れきし かん つ し、カ、 ぶてい 0 - リノタッ ねん しゅし ち まな つ まな いがく がく そうがく てん まわ り りそな くんしゅ ちょう と はん ほう丿つか とうじ し、ん V ン がっかい こくさい よ にほん / ン第 ねん てんもんがくしゃ ん お つ か し、ん つ し一三ロ たいけい 45 9

10. 学問・宗教人物事典

げんそはつけん あたら ・新しい元素の発見 ぶつりがくしゃ さい 27 歳のとき、マリーは物理学者ピエール = であ ねっしんけんきゅう キュリーと出会い、熱心に研究に打ち込 ねんけっこん しせい む姿勢にひかれて 1895 年に結婚しました。 こうせきふく そのころ、鉱石に含まれるウランとい こうせんはな ぶっしつめ う物質が目に見えない光線を放っことか こうせんしようたい はつけん さが 発見されました。光線の正体を探してい とのぞ たマリーは、ウランを取り除いたあとの こうせき ひかりで 鉱石からも光が出ていることに気づきま こうせきひかり はっ べつげんそふく した。鉱石に光を発する別の元素が含ま かんが れているのだと考えたマリーは、ピエー こうせき ルとともに大量の鉱石を砕いては溶かし じようりゆう さぎようつづ じみち て蒸留する地道な作業を続け、ついに新 げんそはつけん 元素を発見しました。これはマリーの祖 国にちなんで「ポロニウム」と名づけら れました。 のぞ ところが、ポロニウムを除いたあとも こうせきひか 鉱石は光っていました。 2 人は 4 年がか ほうしやせいかごうぶっ えんか ちゅう りで放射性化合物「塩化ラジウム」を抽 こうせき しようじゅ ねん 出し、この功績で 1903 年にノーベル賞を受 びようき ちりよう 賞しました。ラジウムには病気の治療な ようと はつけん こうせき ちゅうしゆっぎ どの用途が発見され、鉱石からの抽出技 じゅっか で 術を買いたいという申し出があいつぎま けんきゅう きら したが、研究でもうけることを嫌った 2 ぎじゅっせかい こうひょう 人は、その技術を世界に公表しました。 こうせんひじようゆうがい ぶっしつはな しかし、これらの物質が放つ光線は非常に有害 けんきゅうつづ ほうしやせん な放射線だったので、知らずに研究を続けてい ふたり たいちょうくす た 2 人は、しだいに体調を崩していきました。 はつじよせいかがくしや 0 初の女性科学者として 1906 年、ピエールが交通ま設で亡くなると、 マリーは、その悲しみを研究に向けることで占 ぶんささ 分を支えました。ピエールのあとを継いで女性 はつだいがくきようじゅ じゅんすい 初の大学教授となり、化合物でない純粋なラジ ぶんりせいこう どめ しようカ功や ウムの分離に成功して 2 度目のノーベル賞に輝 いたのです。 だいいちじせかいたいせんちゅう しやしんいりよう 第一次世界大戦中、レントゲン写真の医療へ の応用を思いついたマリーは、占ら危険な戦場 ちりようて せん せかいはつ におもむいて治療に手を貸し、戦後は世界初の かがく じよせいかがくしゃ けんきゅうへいわりよう 女性科学者として、科学の研究と平和利用の訴 こうはんせい - つつ・ ほうしやのうしようがし、 5 えを続けました。後半生は放射能障害に古しみ けんきゅうつづ ねんはつけつびようたお ながらも研究を続け、 1934 年、白血病に倒れて ねんしようがい 66 年の生涯を閉じました。 つ み たいりよう ねん ふたり しゆっ しよう ふた しんげんそさが けんきゅうおこな 研究を行うマリーとピエール。新元素を探すマリー じぶんけんきゅうやす きようりよく のために、ピエールは自分の研究を休んで協力した。 り しようじゅしよう 親子 2 代でノーベル賞を受賞 し あいだ マリーとピエールの間には、イレーヌとエーヴ ふたりむすめう という 2 人の娘が生まれた。工ーヴはピアニストに ちょうじよ りようしんけんきゅうひ なり、長女イレーヌは両親の研究を引き継いで、 おっと じんこうほうしやのう 夫のフレデリック = ジョリオとともに人工放射能を つく せい 作りだすことに成 功し、ノーヘル化 がくしよう 学賞を受賞した。 マリーが亡くなっ よくねん た翌年のことで、 おや キュリー親子にと どめ っては 3 度目のノ しよう ーベル賞となった。 つ じよせい か かごうぶつ じゅしよう な を / か : こを うった ぶたりむすめ みき マリーと 2 人の娘右が′ ひだり イレーヌ、左がエープ。 と 3