じゅがくひら じんせいとな 儒学を開き、仁政を唱えた 4 一景イゞ与 集英社刊『孔子画伝』より ろりんこくせいがくおんがく じゅがく とく 魯の隣国の斉で楽 ( 音楽 ) を聞く孔子。儒学では、徳のあ ひときようよう がく れい しやきゅうしゆっ る人の教養として、楽のほか、礼 ( マナー ) ・射 ( 弓術 ) ・ きよばじゅっしょこくこ すうすうがく ろくげいおも 御 ( 馬術 ) ・書 ( 国語 ) ・数 ( 数学 ) の六芸が重んじられた。 がくもんず しようねんじだい ・学問好きの少年時代 いま ねんむかしちゅうごく 孔子は、今から 2500 年も昔の中国で、儒学と がくもんはじ ひと だいちゅうごく 呼ばれる学問を始めた人です。古代中国では、 きげんぜん しゅうおうちょうちから ちゅう 紀元前 770 年ごろから周王朝の力がおとろえ、中 ごくぜんたい 国全体がいくつもの国に分かれ、諸侯と呼ばれ かくち じつりよくしゃ ぶりよくせいりよくあらそ る各地の実力者たちが、互いに武力で勢力争い せんらんよ をしていました。こうした戦乱の世を生きぬく しょこうすぐ がくもん ため、諸侯は優れた思想や学問を取り入れて自 ぶんくに へいりよくつよ ふこくきようへいせいさく 分の国を富ませ、兵力を強める富国強兵政策を すす さまざま かくち 進めていたのです。そのため、各地で様々な学 がくもん 者 ( 諸子 ) が思想や学問をおこしました。それ がくは いっ力、 かま らの思想や学派は、一家を構えていたことから しよしひやっか はじ 「諸子百家」と呼ばれています。孔子の始めた儒 がく しよしひやっか 学も、そうした諸子百家の 1 つでした。 きげんぜん ねんろ くにみやこきよくふ 孔子は、紀元前 551 年、魯という国の都曲阜の なまえきゅう まわ 近くで生まれました。名前は丘ですが、周りの あざなちゅうじ ちちおや 人からは字でイ中尼と呼ばれていました。父親は、 みぶんひくやくにん おさな 身分の低い役人でしたが、孔子がまだ幼いころ ます しようねんじだいおく びん に亡くなり、貧しい少年時代を送りました。貧 きげんぜん ぜん 紀元前 551 ~ 前 479 年 こだいちゅうごくしゅんじゅうじだいろ 古代中国の舂秋時代に魯という国で かきゅうやくにんこ さいだい 下級役人の子として生まれ、 15 歳で大 がくにゆうがく さい ろやくにん 学に入学、 3 0 歳ごろ魯の役人となる。 りそう だいじん せいじ 「仁」にもとづく政治を理想とし、大臣と じつけんにきさんかんしたいりつ なったが、実権を握る三桓氏と対立して やぶ りそうせいじ 破れ、弟子たちとともに理想の政治を実 たびで げん くにもと ゆめ 現する国を求めて旅に出る。しかし、夢を じつげん きこく 実現しないまま 69 歳で帰国。その後は、 いっぽう じゅくひら でしきよういくあ 塾を開いて弟子の教育に当たる一方、『詩 きようしよきよう しゅんじゅう しっ 経『書経などを編さんし、『春秋』を執 びつ しよもつあらわ おお 筆するなど、多くの書物を著した。 ねん じゅがく ねん くに がく じつ さい ちか ひと しよこくるろうたびとちゅうこうとういちみ まちが 諸国流浪の旅の途中で強盗の一味と間違集英社刊「孔子画伝』より じゅうみんとかこ こうしいっこう えられ、住民に取り囲まれた孔子一行。 朝ことばのまど じゅがく 【儒学】 とく こうし ほうりつぶりよく 孔子は、法律や武力によってではなく、徳によ くにおさ って国を治めることを説いた。そのもとになる じぶんりえきす かそくあいあらわじん のが、家族愛を表す「仁」と、自分の利益を捨て とく あいて て相手に尽くす「義」であり、この 2 つの徳によ かんが くにおさ り、国を治めるべきだと考えた。
こだい さいだいてつがくしや 古代ギリシア最大の哲学者といわれた ちゅうしん おか アテネの中心にあるアクロボリスの丘。ギリ かみがみ しんでんたなら シアの神々をまつる神殿が建ち並んでいた。 ぜんどくの 0 ゆう然と毒を飲んで死ぬ かみがみ まっ その日、アテネでは神々をまつる祭りが開か れていました。ろう獄で死を待つソクラテスに ひつう 弟子たちは、悲痛な声でささやきかけました〇 ばん せんせい かねわた 「先生、逃げてください。ろう番にお金を渡して よる ありますから、夜にはここを開けてくれるはず です。」 ほほえ ソクラテスは、微笑みながらこう応えました。 やぶ 「たとえ間違った法律ではあっても、それを破る ことはできない。」 えんき よくじつまっ 翌日、祭りで延期されていた死刑が行われる ひとことべんかい こととなりました。ソクラテスは、 せんどく さ力すき もせず、ゆう然と毒の入った杯をあおると、死 の床に横たわったといわれています。 りようしんこえ 0 良心の声を聞く きげんせん ねん ソクラテスは、紀元前 470 年ごろ、古代ギリシ ちちおやちょうこくか アのアテネで生まれました。父親は彫刻家、母 きげんぜん ぜん 紀元前 470 ごろ ~ 前 399 年 ねん ひら でし ほうりつ まちが こだい ちょうこくか 古代ギリシアのアテネで、彫刻家の子 かねちいおも として生まれる。お金や地位を重んじる ひとびと きもん せいかっ アテネの人々のぜいたくな生活に疑問を まちかどた ひとびとたいわ しんり もち、町角に立って人々と対話し、「真理 なに とは何か」を問いかけるようになる。そ にんげんじぶんむち けっか じかく の結果「人間は自分の無知を自覚するこ しんり ちか みち とこそ、真理に近づく道である」と説い めいせい て、しだいに名声を得た。しかし、ソクラ はんばっ ひとびとむじつつみ かんが テスの考えに反発する人々に無実の罪で こくどくの うった 訴えられ、ろう獄で毒を飲んで死んだ。 しけいおこな はは 【アテネ】 おもとしこっか ぜん こだい 古代ギリシアの主な都市国家の 1 つ。前 454 たいこう ねんしゆくてき 年、宿敵ベルシアに対抗するためにギリシアの とうめいめいしゅ しよとしこっか けっせい 諸都市国家が結成したデロス同盟の盟主とな しみんさんかみんしゅせいじおこな どれいつか る。奴隷を使い、市民参加の民主政治が行われ せいじ ふはい おとろ さか て栄えたが、のちに政治の腐敗によって衰えた。 一 11 、ノ ひろば わかもの たいわ アゴラと呼ばれる広場で、若者たちと対話するソ にちじゅうかたあ クラテス。朝から 1 日中語り合うこともあった。 あさ 26
ひとびとねっきようてきむか ロバに乗ってエルサレムに入ったイエスを人々は熱狂的に迎えた。 多くの貧しい人々に希望をなえたのです。 むらむら あるなか イエスは、村々を説き歩く中で 12 人の弟子を きせき びようき なお 選び、病気を治すなどの奇跡をおこしました。 さきざきひとびとねっ たび イエスの名は高まり、旅をする先々で人々に熱 ぐん きようてきむか 狂的に迎えられました。イエスこそ、ローマ軍 きゅうせいしゅ かんが おはら を追い払い、神の国をつくる救世主だと考えら ひとびと せいじおこな れたからです。イエスは政治を行わず、人々に しさい かみあい 神の愛を語るだけでしたが、ユダヤ教の司祭や ちいおびや じぶん ローマ人にとっては、自分たちの地位を脅かす きけんそんざい 危険な存在になっていました。 しふつかっ じゅうじかじよう ・十字架上での死と復活 しんでんはい しゆと 首都工ルサレムの神殿に入ったイエスは、そ しようにん かね しようにんお こにいた商人を追いだし、商人とともに金もう かみおし ひなん しさい けをしている司祭たちを非難し、神の教えを説 しさい つみき きました。イエスに罪を着せようとした司祭た じぶん ちは、イエスが自分を「ユダヤの王」と言った じゅうじか はんぎやく ことがローマ帝国への反逆だとして十字架にか けました。 イエスに期待をかけていた人々は、ローマ軍 しつばう おはら を追い払えないイエスに失望し、あるいは、罪 ふあん にんみかた 人に味方する不安から、イエスをののしり、死 じゅうじか うえいきた もと けい 刑を求めました。イエスは十字架の上で息絶え はか すがた ましたが、その 3 日後に墓から姿を消し、それ まえあらわっづ にちかんでし しんじゃ から 40 日間、弟子や信者の前に現れ続けたとい きゅうせいしゅ われています。弟子たちは、イエスが救世主 さまざま あらた かくしん ( キリスト ) であったことを改めて確信し、様々 いのち おし はくがい な迫害を受けながらも、命がけでその教えを口 かくちひろ ていこく ーマ帝国の各地に広めました。 イを丿 はい にんでし えら かみくに きよう じゅうじか 十字架にかけられたイエスに神と聖霊が寄りそう。 ヤコボ = テル = セライオ作奉納祭壇画『聖三位一体、聖母マリア、聖ヨハ ネと寄進者』国立西洋美術館蔵 かみせいれいよ たんじようび イエス = キリストの誕生日はいつ ? きげんがんねんさだ せいたんねん こよみ せいれき 西暦はイエスの生誕年を紀元元年と定めた暦だ げんざい せいたんねんすうねんまえ が、現在イエスの生誕年が数年前にずれているのは、 しゅうどういんちょうけいさんちが せいきせいれきさだ 6 世紀に西暦を定めたローマの修道院長の計算違 げんざい いだとされている。現在 きげんぜん がくしや は学者によって紀元前 4 ねん ねん ねん せつ 年、 8 年、 12 年などの説が かくてい あって、確定はしていない。 せいたんいわ キリストの生誕を祝う がつ 1 2 月 25 日のクリスマス せいき せいしよ は、 4 世紀ころに聖書の記 たんしようびすいてい じゅっ 述から誕生日を推定して 定められた祭りだが、 いろんおお ちらも異論が多く、キリ たんじようびせいかく ストの誕生日は正確には 分かっていない。 おう ていこく ぐん ひとびと
しんにゆう 侵入してきたローマ兵 ゆかすけいかげお が床の図形に影を落とす と、「私の図を乱すな ! 」 とどなったという。 へい - つ - つ、 ねんかん きんかい おうきゅう たローマ軍は、 3 年間もシラクサを包囲し続けま 王宮ではさっそく、王冠と、同じ重さの金塊 まちしんにゆう きげんぜん ねん おうかんきん かる したが、紀元前 212 年、ついに町へ侵入しました。 が用意されました。もしも王冠に金よりも軽い だいすうがく じぶん ばあいおうかんたいせききんかい ぎん ローマの将軍は、自分たちを苦しめた大数学 銀が混ざっていた場合、王冠の体積は金塊より さいのうみと みずなか ぶんかる おお 者アルキメデスの才能を認め、殺さずに保護す も大きくなり、水の中ではその分軽くなるはす めいれい あんじようすいちゅうおうかんきんかい かる るように命令を下していたのですが、それを知 です。案の定、水中の王冠は金塊よりも軽く、 いちへいし みごとあば ふせい らない一兵士が切り殺してしまいました。 この 不正は見事に暴かれました。 っぇ すな しんへいきかいはってんさいすうかくしやさいこ ときもアルキメデスは、床にまいた砂の上に図 ・新兵器の開発と天才数学者の最期 もんだい すうがく ちよくぜん えが しんおう 形を描き、殺される直前まで、数学の問題に夢 ヒ工ロン王が亡くなると、その孫が新王となり、 ちゅう ぐん きようりよく あらそ はじ 中になっていたといいます。こうして、ギリシア ローマと争いを始めました。強力なローマ軍の攻 てき みかた てんさいすうがくしゃ だいひょう じよりよく げき しんおう を代表する天才数学者は、敵からも味方からも 撃に、新王はアルキメデスに助力を求め、強力 ねんしようがい しんへいき かいはつ 惜しまれつつ、 75 年の生涯を閉じました。 な新兵器を開発して対抗しました。攻めあぐね ぐん おなおも おうかん しようぐん ほ ゆか おう きようりよく しんべいき アルキメデスの新兵器 ぐんたたか アルキメテスは、ローマ軍と戦 かずかずかっき うシラクサのために、数々の画期 てききようりよくへいき はつめい 的で強力な兵器を発明した。てこ とうせき の原理を利用して石を投げる投石 てきぐんふねつ みなと 機や、港から敵軍の船を釣り上げ おうめんきようたいようこう きょだいてつ る巨大な鉄かぎ、凹面鏡で太陽光 ふねやそうち てき あっ を集めて敵の船を焼く装置などの 兵器は、ローマ軍を苦しめた。敵 ふね の武将マルケルスは、大きな船を かるがる 軽々ともてあそぶアルキメデスを たた きかがくきよじん 「幾何学の巨人」と讃えたという。 げんり てこの原理でローマ軍の大き ふねつあ な船を釣り上げるシラクサ軍 げんり りよう てき ぐんくる へし、き おお ふしよう ぐんおお ぐん
ほんとうかみおし 0 本当の神の教えを求めて しはいか イエスは、ローマ帝国の支配下にあるユダヤ 人の土地パレスチナに生まれました。このころ ひとびと ていこくあっせい パレスチナの人々はローマ帝国の圧政に苦しん でいましたが、いずれ神の遣わした救世主が睾 かみくに よげん せな「神の国」をつくるというユダヤ教の預言 まのぞ を信じて、その日を待ち望んでいました。しか しさい しんでんぜい しんでん し、ユダヤ教の司祭たちは、神殿税や神殿への しふく かんが ささげもので私腹を肥やすことばかりを考え、 しゅうきようがくしゃ きび 丿つほう 宗教学者たちも、ユダヤ教の厳しい律法を守る かみくに むか 正しい者だけが神の国に迎えられるとして、律 まも まず もの さげす 法を守れない貧しい者たちを蔑んでいました。 いつほう かみほんとうおし かんが ′ヾ - つ 一方、神の本当の教えは別にあるのだと考え ひと よげんしゃ る人もいました。預言者ヨハネは、荒れ野でイ ひとびと 力、し ) ナゴとハチミツだけを食べてくらし、人々に改 さい 心を呼びかけていました。イエスは 30 歳を過ぎ こうや たび たころ、ヨハネの教えを聞くために荒野へと旅 立ちました。 ひとびとかみあいと ・人々に神の愛を説く せんれい ヨハネから洗礼を受け、荒野で古しい修行を かみあい だれうえ びようどうあた つんだイエスは、神の愛は誰の上にも平等に与 ひとびと あい えられるのだと知り、人々にその愛を説きまし ツつほう ばつあた た。律法をやぶれば罰を与えるユダヤ教の厳し かみ ひとすく じあい かみ い神とは異なり、人を救う慈愛の神を説いて、 じゅうじか きゅうせいしゅ 十字架にかけられた救世主 とち イエス = キリスト きよう きげんぜん 紀元前 4 ? ~ 30 ? 年 ねん きよう きよう まも おし ほくぶ すだいく バレスチナ北部のナザレに住む大工ヨ さいす ハネの子として生まれる。 30 歳を過き こうや にちかんしゆきようおこな かみ るころ荒野で 40 日間の修行を行い、神 でしひとびと あいと の愛を知ると、弟子や人々にその愛を説 よく きようし いて歩いた。欲にまみれたユダヤ教の司 さい りつほう こしつ がくしや ひはん 祭や、律法に固執する学者たちを批判し きようしさい て、ユダヤ教の司祭にとらえられ、ロー はんきやくつみじゅうじかけいしょ マ帝国への反逆の罪で十字架刑に処され しご た。死後、その教えは「キリスト教」と せかいじゅうひろ して世界中に広められた。 きよう きび あい ある ていこく きよう 【バレスチナ】 げんざい がわにしがわふくち 現在のイスラエルとヨルダン川の西側を含む地 ほう ていこく 方。イエスが生まれたころにはローマ帝国に支 はい おうこく 配されたユダヤ王国があった。 よげんしや 【預言者】 かみことはった 神の言葉を伝えるために神から選ばれた人。 せんれい 【洗礼】 しんじゃ せいしよくしゃあたま ぎしき みず 信者になるための儀式で、聖職者が頭から水 をそそぐ。 えら かみ ひと せんれい イエスはヨハネから洗礼を受けた。
じゅうがくしや ・自由な学者アルキメデス アルキメデスは、シチリア島のシラクサに生 ちちてんもんがくしゃ がくもん まれました。父が天文学者だったことから、学問 がくもんちゅうしんち みちすす せいねんじだい の道に進み、青年時代は学問の中心地アレクサ きかがく まな ンドリアで幾何学を学びました。しかし、この町 がくもん じゅんすい がくもん がくしゃ の学者たちは、純粋な学問だけを愛し、学問を おうよう 仕事のために応用することを嫌っていました。 かんが ろうどう どれいおこないや 労働とは奴隷が行う卑しい行為だと考えていた かずかずはつめいおこな からです。のちに、数々の発明を行うアルキメデ ふんいき あ スには、こうした固苦しい雰囲気が合わなかっ がくもんお はな たのか、学問を終えるとアレクサンドリアを離 けんきゅう じゅう はじ れ、故郷のシラクサで自由な研究を始めました。 げんり はつけん 0 「アルキメデスの原王を発見 はつけんはつめいおお アルキメデスの発見や発明の多くには、シラ クサのヒ工ロン王が関わっています。王とアル しんせき キメデスは親戚でもあり、王がアルキメデスに さまざまそうだんも 様々な相談を持ちかけていたからです。 きんおうかんぎん ひおうしよくにんつく ある日、王が職人に作らせた金の王冠に銀が しんぎ うわさなが 混ざっているという噂が流れました。その真偽 かくにんたの ふ の確認を頼まれたアルキメデスは、たまたま風 かる はい ゆ ろ 呂に入ったとき、湯があふれ、体が軽くなるの みすおも おな みすなか お かん を感じ、水の中では、押しのけた水の重さと同 ものかる じだけ物が軽くなることに気づきました。「アル ふりよく ほうそく げんり キメデスの原理」と呼ばれる、この浮力の法則 はつけん を発見したアルキメデスは、「エウレカ ! ( 解け おう と ふろ た ! ) 」と叫ぶと風呂を飛び出し、裸のまま王 きゅう 宮まで駆けていったといわれています。 だいすうがくしゃ こだい 古代ギリシアの大数学者 アルキメデス つ まち きら きげんぜん ぜん 紀元前 287 ~ 前 212 年 ねん かたくる おう おう だいひょう すうがくしや こだい 古代ギリシアを代表する数学者で、科 とう がくしやはつめいか 学者、発明家でもある。シチリア島のシ きぞくいえう ラクサの貴族の家に生まれ、「アルキメ げんり おお げんり デスの原理」や「てこの原理」など、多 はつけん げん けんり はつけん くの原理を発見した。また、発見した原 り もち 理を用いて、「アルキメデスのらせん」 じつようひんはつめい ようすいき よ と呼ばれる揚水機などの実用品を発明し ぐんこうげき ばんねん た。晩年、シラクサがローマ軍に攻撃さ そこくたす へいきはつめい れると、兵器を発明して祖国を助けたが、 へいころ しんにゆう 侵入してきたローマ兵に殺された。 からだ か よ と はだか さけ か 0 0 0 合 げんり 【てこの原理】 とお ちか してん てこの支点から近いところに重いものを、遠い あ お かる ところに軽いものを置くと、てこがつり合うと ばしょ た げんり いう原理。アルキメデスは、「立つ場所さえあ ちきゅう つこ い げんり れば、この原理で地球でさえ動かせる」と言っ たという。 との三 IJ 1 おも ノ そくはっ 浮力の法 さけ 「エウレカ ! 」と叫ん、、 ふりよく したノルキメデスは、 とだ 、、出した。 6
と にんげんかんが はんぶつこんげんかず とな 「人間は考える葦である」と説いた 「万物の根源は数である」と唱えた バスカル ( ブレーズ = ) ピタゴラス ねん きげんぜん せん ねん 1623 ~ 1662 年 紀元前 582 ころ ~ 前 497 年ころ すうがくしゃふつりがくしゃてつがく すうがくしゃてつがくしゃ フランスの数学者・物理学者・哲学 古代ギリシアの数学者・哲学者。ェ きかがくていり ほうせきちょうこくし 者。 12 歳でユークリッド幾何学の定理 ーゲ海のサモス島で宝石彫刻師の子 どくりよくかんが えんすいきよくせん いちじちち つ を独力で考え、 17 歳で円錐曲線につい として生まれ、一時父の仕事を受け継 こうさつはっぴょう てんさい しはいしやたいりつ ての考察を発表するなど、天才ぶりを発揮。その後、真 いだ。しかし、その後、島の支配者と対立し、 70 歳ごろ くうきおも じつけんおこな ねんみつべい しゅうだんみなみ し、じゅう よげん 空や空気の重さについての実験を行い、 1653 年「密閉し に集団で南イタリアのクロトンに移住する。そこで預言 ようき なかえきたいあつりよく きせきおこな ぶふん いっていはたら しゅうきようひら ばんぶつ た容器の中の液体の圧力は、どの部分でも一定に働く」 や奇跡を行ってアポロンをまつる宗教を開き、万物の はっぴょう げんり こんげんかす すうがくてんもんがくおんがく てつがく とする「パスカルの原理」を発表した。また、哲学では 根源は数であるとして弟子たちと数学や天文学、音楽を あらわ にんげんむげん けんきゅう せいためんたいえが 『パンセ』を著し、「人間は無限な斈宙の中では、考える 研究し、「ピタゴラスの定理」や正多面体の描き方など、 あし よわそんざい おお 葦のような弱い存在である」と説いた。 多くの成果を残したといわれている。 うちゅうほうちょう とな えいきゅうふへん おもと 「宇宙は膨張している」と唱えた 永久不変のイデアを追い求めた ハップル ( ェドウイン = バウェル = ) プラトン ねん きけんせん ぜん ねん 1889 ~ 1953 年 紀元前 427 ころ ~ 前 347 年ころ てんもんがくしや だいがく てつがくしゃ アメリカの天文学者。シカゴ大学を 古代ギリシアの哲学者。アテネの名 そっぎようごべんごし てんもんがく かんしん もん つ 卒業後弁護士となるが、天文学に関心 門に生まれ、 20 歳ごろソクラテスの弟 ねん てんもんたい むじつつみ を抱き、 1914 年からャーキス天文台や 子となるが、ソクラテスが無実の罪で さんてんもんだいてんたいかんそくつづ かくちてんてん ぜん ウイルソン山天文台で天体観測を続ける。そうした中で 処刑されると、アテネを離れて各地を転々とした。前 387 ぎんがけいいがい ちゅうもく はしばし とお ぎんが がくえん ひら つ 銀河系以外の星々の動きに注目し、遠くにある銀河ほど 年ごろアテネにもどり、アカデメイア ( 学園 ) を開いて ぎんがけい とお はや はつけん てつがくおし かんが げんじつ 速いスピードで銀河系から遠ざかっていることを発見。 アリストテレスらに哲学を教えた。その考えは、現実の ねん ひれい えいきゅうふへん せかい りそうてきじつざい 1929 年、その速度と距離は比例するとする「ハップルの 世界はイデアの影であり、永久不変の理想的実在であ ほうそく はっぴょう ばうちょう じつげん てつじんせいじ にんげんしやかい 法則」を発表し、のちに于由が膨張しているというビ るイデアを実現しようとする哲人政治こそが、人間社会 りろん こんきょ ッグバン理論の根拠となった。 を救うというものであった。 じようけんはんしや かんが かくりつ きようひら 「条件反射」という考えを確立した イスラム教を開いた バブロフ ( イワン = ペドロビッチ = ) マホメット 1849 ~ 1936 年 570 ころ ~ 632 年 せいりがくしやりくぐんぐんいがっこうそっ きようかいそ ロシアの生理学者。陸軍軍医学校卒 イスラム教の開祖。ムハンマドとも じゅういがくけんきゅうじよせいりがくけんきゅつじよ ぎようこ 業後、獣医学研究所生理学研究室の助 いう。サウジアラビアのメッカで生ま りゆうがく りようしんうしな たいしようさんか おさな 手となる。その後ドイツに留学し、帰 れ、幼くして両親を失う。隊商に参加 ぐんいがっこうきようじゅ ねんじつけんいがくけんきゅうじよしゅ さまざましゅうきようであ かくち 国後軍医学校教授となり、 1891 年に実験医学研究所主 して各地を旅するうち、様々な宗教と出会い、 40 歳ごろ じゅんかんきせいりがく けんきゅう にんむか さんちゅうしゅぎようちゅうかみ 任に迎えられる。初めは循環器生理学を研究していた 山中で修行中に神アッラーの声を聞いて預言者となる。 しようかきせいりがくてん せいしんじよう しげきしようかき かみ ことば 神の言葉を『コーラン』にまとめ、イスラム教を開いて が、のちに消化器生理学に転じ、精神上の刺激が消化器 えし、きよう けんきゅう せいりがくいがくしようじゅしよう かみ せったいふくじゅう はくがい に与える影響を研究してノーベル生理学医学賞を受賞 神への絶対服従を説いた。 622 年、貴族の迫害を受けて たいのうせいり けんきゅう きよてんしんじゃ ふ した。さらに、大脳の生理について研究し、イヌを用い メディナに移り、以後、そこを拠点に信者を増やしてア じつけんじようけんはんしゃ かくりつ はんとうぜんたいせいりよくひろ た実験で条件反射という考えを確立した。 ラビア半島全体に勢力を広げた。 すいせいしゅうきうんどうはつけん いでんほうそく 「遺伝の法則」を発見した 彗星の周期運動を発見した メンデ ) レ ( グレゴール = ) ハレー ( ェドモンド = ) ねん ねん 1656 ~ 1742 年 1822 ~ 1884 年 てんもんがくしゃ しよくふつがくしやまず イギリスの天文学者。ロンドンの富 オーストリアの植物学者。貧しい農 し、え てん 豪の家に生まれ、子どものころから天 家に生まれ、古学してチェコの聖トマ もんすうがく きようみ せかいかくちてん しゅうどういんはい りかきようし 文・数学に興味をもち、世界各地で天 ス修道院に入る。やがて理科教師をめ ねんだいすいせい たいかんそくおこな かんそく しけんしつばい ねん しゅうどういんにわ ちよくこ 体観測を行う。 1682 年、大彗星を観測して、それがほば ざしたが、試験に失敗。その直後の 1865 年、修道院の庭 いっていしゅうきあらわ し ねん一 いでんけんきゅうかいし せいしつ つ 一定の周期で現れることを知り、 76 年後に現れることを にエンドウを植えて遺伝研究を開始する。異なる性質 すいせい よげん ほうそくつぎせたい し、ってし、 予言した。その後、ニュートンに弟子入りして彗星の軌 のエンドウを交配させると、一定の法則で次の世代に遺 どうけいさん しゆっぱん でん はつけんがっかいし はっぴょう とうじちゅうもく 道計算を試みる一方、ニュートンカ学についての出版 伝することを発見。学会誌に発表したが、当時は注目 かつどう ねんたいすいせい よげんどお し ねん さいはつけん 活動を支援した。ハレー死後の 1758 年、大彗星は予言通 されす、死後の 19 開年、ド = フリースらに再発見され、 ふたたあらわ すいせい ほうそく 「メンデルの法則」と名付けられた。 り再び現れ、ハレー彗星と名付けられた。 つ つ ていり かんが と せいかのこ めい 1 で し 【身彡 しよけい ねん なか そくど ねん ねん さい き よげんしゃ きようひら きぞく と もち かんが はつけん つ か せい あらわ き こうはい でしい りきがく いっぽう し 46
びようどうしやかいにんげんじゅう せいせんせつ 平等な社会と人間の自由を説いた 「性善説」による王道政治を説いた もうし 孟子 ) レソー ( ジャン = ジャック = ) ねん きげんぜん せん 1 712 ~ 1778 年 紀元前 372 ころ ~ 前 289 年ころ けいもうしそうか ちゅうごくせんごくじたい 中国の戦国時代の思想家。孔子の孫 フランスの啓蒙思想 ~ 。 豕スイスのジ もんじんじゅがく まな すうねんかんほう の子思の門人に儒学を学ぶ。のちに数 ュネープに生まれ、 16 歳から数年間放 かっこくめぐ たびで もんじん ひ 百人もの門人を引き連れて各国を巡 浪の旅に出たのち、パリに出てデイド けいもうしそうか こうゆうぶんびっせいかつはい えきせいかくめい しょこうおうどうせいじ り、諸侯に王道政治と易姓革命を説いた。その考えは、 ロらの啓蒙思想家と交遊、文筆生活に入る。 1755 年に にんげんふびようどうきげんろん せいじ にんげんはんしようせん せいぜんせつ 『人間不平等起源論』、 1762 年には『社会約論』『エミ 人間の本性を善とし ( 性善説 ) 、徳のある政治によって あらわ ふびようどう ふせんひとぜんか しやかい きようわせい じつげん ひはん 不善の人も善に変わり、徳のない君主はやがて徳のある ール』を著して不平等な社会を批判し、共和制の実現 ふりよく にんげんじりつと ものたお かんけんお み 者に倒されるというものであった。しかし、武力によっ や人間の自立を説いて官憲に追われる身となった。その しつばい びようどう にんげん てんか しやかい じゅう つったつつ・ て天下をねらう諸侯たちに受け入れられず、失敗。やが 後も平等な社会と人間の自由を訴え続け甲相・ 、ツ L ム、バン、 - ノ : ヾ じゅっきよういく こきようかえ もんじんいくせいせんねん えいきようあた て故郷に帰り、門人の育成に専念した。 術・教育などに大きな影響を与えた。 さんけんぶんりつ とな みちほうしやせん はじ せん はつけん 初めて「三権分立」を唱えた 未知の放射線「 X 線」を発見した モンテスキュー ( シャルル = ) レントケンウイルヘルム = コンラード = ) ねん ねん 1689 ~ 1755 年 1845 ~ 1923 年 けいもうしそうか ふつりがくしやせいごすうねん フランスの啓蒙思想家。地方貴族の ドイツの物理学者。生後数年でオラ ほうりつまな たいがく こうかたいがくそっ つ 家に生まれ、ボルドー大学で法律を学 ンダに移住。チューリヒ工科大学を卒 ぎようご しゆとく かくち たいがくこう 業後、博士号を取得し、各地の大学講 んで弁護士となる。のちにボルドー ねんせったいおうせいか しやかいふう きようじゅれきにん ねんいんきよくせんけんきゅうちゅうぐうぜん とうほういんいんちょう 等法院の院長となるが、 1721 年、絶対王政下の社会を風 師や教授を歴任する。 1895 年、陰極線を研究中に偶然 あらわ ふっしっとおぬ せいしつ ほうしやせん はつけん てがみ 刺した『ベルシア人の手紙』を著して人気を得る。 1725 物質を通り抜ける性質をもっ放射線があることを発見。 ねんいんちょう かくち たび ほうしやせん せんなづ しっぴっ 年、院長をやめてヨーロッパ各地を旅し、帰国後、執筆 それまで未知の放射線だったことから、 X 線と名付けら さんけんぶんりつおうけんせいげん せんけんこうしんだんようせんさつえい ねん せんねん に専念。 1748 年、『法の精神』で三権分立と王権の制限 れた。のちに、 X 線は健康診断用 X 線撮影をはじめ、多 こうせき がっしゅうこくけんほう かんが ぶんや を説くと、その考えは、のちのアメリカ合衆国憲法や くの分野で利用されるようになった。その功績により、 えいきようあた ふつりがくしようじゅしよう かくめいおお ねん フランス革命に大きな影響を与えた。 1910 年ノーベル物理学賞を受賞した。 かせきじんこつはっくつ どうかしそうひら さいこ 最古の化石人骨を発掘した 道家思想を開いたといわれる ろうし 老子 リーキー ( ルイス = ) せいほっねんふしよう ねん 1903 ~ 1972 年 生没年不詳 じんるいがくしゃ じんばくし だいちゅに一くせんごくじたい 古代中国の戦国時代の思想家。『老 ケニアの人類学者。イギリス人牧師 せいふつがく どうかしそうひら の子としてケニアで生まれ、古生物学 子』を著して道家思想を開いたとされ じつざい ねんいこうひがし かくち じんふつ まな を学ぶ。 1926 年以降、東アフリカ各地 ているが、実在の人物ではないという きゅうせつきぶんか いせき はっくっちょうさおこな ろうし 、ちゅうにんげんちからおよ せんしじたい 説もある。『老子』によれば、斈宙は人間のカの及ばな で先史時代の遺跡の発掘調査を行い、特に旧石器文化 い占然の「道」によって支配されており、それに逆らわ の研究に大きな成果をもたらした。 1931 年からは、妻 そんちょう むす おし ずに自由に生きることを尊重した。その教えは荘子に メアリーや息子リチャードの協力でオルドバイ谷の遺 みんかんしんこう ーかん せきちょうさおこな つ よって受け継がれ、さらに民間信仰と結びついて、後漢 跡調査を行い、アウストラロヒテクスやホモーハビリス しゅうきよう ひろみんしゅうあいた かせき はっくつ よ とうしさい 時代末期には道教と呼ばれる宗教として広く民衆の間 など、当時最古とされた古人類の化石を発掘して人類の けんきゅうおお で信仰されるようになった。 進化の研究に大きく貢献した。 じんみんしゆけんきそきず しよくぶつぶんるいがくきそきず 人民主権の基礎を築いた 植物分類学の基礎を築いた ロック ( ジョン = ) リンネ ( カール = フォン = ) ねん ねん 1632 ~ 1704 年 1707 ~ 1778 年 しよくふつがくしゃ 近代イギリスの思想家。大学在学中 スウェーデンの植物学者。ルンド大 に医学・占然科学・哲学を学び、 1667 たいがくしよくぶつがく 学で医学、ウブサラ大学で植物学を学 ねんはんおうばうどう さんか 年、反王暴動に参加してオランダへ亡 び、 1735 年、オランダで医学の学位を にんげんちせいろん ぐたいてき けいけん こうふつかん はっぴょう しゆとく どうねん どうふつしよくふつ めい 命。そこで『人間知性論』を発表し、具体的な経験の 取得する。同年、オランダで動物・植物・鉱物に関す にんしきぜんてい しゅちょう しゆっぱん かたちしよくふつ つかさ しぜんたいけい る『自然の体系』を出版、おしべとめしべの形で植物 積み重ねこそが知識や認識の前提であると主張した。 ねんめいよかくめい しみんせい ふんるいはう とな ねん たいがくしよくぶつ ねん さらに 1688 年に名誉革命がおこると、 16 年に『市民政 を区別する分類法を唱えた。 1742 年ウブサラ大学植物 あっせいおこなせいふたおけんり あらわ じんみん 学教授となり、 1753 年朝直物の種』で植物を属名と種 ふにろん 府二論』を著し、人民は、圧政を行う政府を倒す権利を がっしゅうこく しゅちょう かくめい 名の組み合わせで分類する二名法を提唱、 1758 年龕然 もっと主張して革命を支持し、のちのアメリカ合衆国 しんけんせんげんえいきようあた ばん どうふつにめいほう かくりつ 憲法やフランス人権宣言に影響を与えた。 の体系 10 版』で動物の二名法を確立した。 と おうどうせいじ と ねん つ ひやくにん と かんが ねん くんしゅ つ おお ちはうきぞく いじゅう し、ん し おお ほうせいしん と あらわ し きようりよく つ じんるい どうきよう じだいまっき じんるい こうけん ・ンイラ こノー、 たいがくざいがくちゅう まな いがく ねん 0 たいけい けんはう 47
ちゅうこくはつれきししよ し き 中国初の歴史書史記』を書いた しはせん 司馬遷 せん きげんぜん ねん 紀元前 145 ころ ~ 前 86 年ころ ちゅうごくぜんかんじだいれきし か 中国の前漢時代の歴史家。早くから けんきゅう てんした 古典に親しむとともに、歴史の研究を 重ねる。やがて父のあとを継いで亟官 れきしたんとうやくにん ちゅうごくさいしよっう ゆいごんしたが ( 歴史担当の役人 ) になると、遺言に従って中国最初の通 こうふく しようぐん はじ せんねんてき 史『史記』の編さんを始めた。前 99 年、敵に降伏した将軍 りりようべん たんせいきせつだんけい 李陵を弁護して武帝の怒りをかい、男性器切断の刑を受 きゅうてい かんせい けた。しかし、『史記』完成のために恥をしのんで宮廷に ちゅうごく やくせんすうひやくねんれきし せんかん もどり、中国の太古から前漢まで約 2 千数百年の歴史 きでんたい けいしきぜんかん を、紀伝体という形式で全 130 巻にまとめあげた。 そうがくしゅしがく たいせい 宋学 ( 朱子学 ) を大成した しゆき ねん 1 130— 1200 年 ちゅうごくそうだい 中国の宋代の思想家。朱子ともいう。 ごうかく やくにん 19 歳で科挙に合格して役人となり、そ じゅがく さいやくにん のかたわら儒学を学ぶ。 28 歳で役人を がくもんせんねん しゅうとんい じゅがくそうごう や 辞めて学問に専念し、周敦頤らの儒学を総合して宋学 ばんぶつき しゅしがく たいせい けいせい ( 朱子学 ) を大成。万物は気によって形成されるが、天 き むす から与えられた理が備わっており、理と気が結びついて せかいちつじよ 世界の秩序が保たれるとした。また、君主と家臣はそれ ほんぶんただ しやかいちつじよ ぞれの本分を正すことで社会秩序が保たれると説き、朝 えいきようあた せんにほん おお 鮮や日本にも大きな影響を与えた。 きんだいこうりしゅぎてつがくはじ 近代合理主義哲学を始めた デカルト ( ルネ = ) ねん 1596 ~ 1650 年 てつがくしやすうがくしゃ フランスの哲学者・数学者。法律家 ころざ がくもん つ の家に生まれ、学問を志したが、当時 しはい 学界を支配していたキリスト教のスコ ラ学に不満をもつようになり、各国を転々として占然科 ねんほうほうじよせつ がくてつがく こうさつふか あらわ 学や哲学の考察を深めた。 1637 年『方法序説』を著して、 かんじよう にんげん りせい かがくてき かんかく 感覚や感情ではなく人間の理性によって科学的に真理 きわ ごうりろんとな すべうたが さい を究めようとする合理論を唱えた。全て疑い、最後に残 そんざい しゆっぱっ おも じふん った自分という存在から出発しようとした「われ思う、 ことばゆうめい ゆえにわれあり」の言葉は有名。 うちゅう はっぴょう 「ハーシェルの宇宙」を発表した ハーシェル ( フレデリック = ) 1738 ~ 1822 年 イギリスの天文学者。ドイツで音楽 ねん 家の家に生まれる。 1757 年イギリスに えんそうか わた 渡りオルガン演奏家となるが、そのか じさくおおがたばうえんきよう かんしん たわら自作の大型望遠鏡で子どものころから関心のあ ねんみちわくせい てんたいかんそく った天体観測に打ち込む。 1781 年、未知の惑星であった てんのうせい ごうけい せいうんせいだん はつけん ねん 天王星を発見し、 1802 年には合計 25 固もの星雲・星団 せいうんせいだんもくろく あらわ かくにん の位置を確認し、『星雲・星団目録』を著した。さらに 全天の星の分布と距離を計覽して区画毎に集計し、「ハ はっぴょう てんたい よ ーシェルの斈宙」と呼ばれる天体の体系を発表した。 か さいきんがくちち 「細菌学の父」といわれる コッホ ( ロベルト = ) ねん 1843 ~ 1 9 1 0 年 さいきんがくしゃ ちほう ドイツの細菌学者。地方の医師とし けんびきようたよ っと て勤めるかたわら、顕微鏡を頼りに炭 けんきゅう ねんたんそきんはつけん そびよう 疽病を研究し、 1876 年に炭疽菌を発見。 さいきんせんしよくじゅんすいばいようはう かいはつ でんせんびよう 細菌の染色や純粋培養法を開発して、伝染病にはそれ しようめい つつ′ ねん とくていびようげんきん ぞれ特定の病原菌があることを証明した。続いて 1882 年 けっかくきんよくねん きんはつけん ねん に結核菌、翌年にはコレラ菌を発見。 1890 年にはツベル ねんいこう でんせんびよう はっぴょう わだい クリンを発表して話題となる。 1891 年以降は、伝染病 しょだいしょちょうしゅうにん けんきゅうじよ けんきゅうじよ 研究所 ( コッホ研究所 ) の初代所長に就任し、日本の きたさとしばさぶろう さいきんがくしやそだ おお 北里柴三郎など多くの優れた細菌学者を育てた。 ちどうせっとな 地動説を唱えた コペルニクス ( ニコラウス = ) 1473 ~ 1543 年 せいしよくしや てんもんがくしやかく ポーランドの聖職者、天文学者。各 だいがくてんてん しんがくすう 地の大学を転々としながら、神学や数 とくてんもんがく 学、医学などを学ぶ。特に天文学に打 てんどうせつあやま き ち込み、古代から信じられてきた天動説の誤りに気づい ちきゅうたいよう まわ ちどうせつしん て、地球が太陽の周りを回っているという地動説を信じ いしやばくし っと るようになった。その後、医者や牧師として勤めるかた けんきゅうすす ちどうせつかくしん てんたいかんそくつづ わら、天体観測を続けて研究を進め、地動説を確信した てんどうせつ きようかいおし が、天動説をとる教会の教えに反するものだったため、 しちよくぜん 爿イナ 死の直前まで公にすることはなかった。 へいわねが こくさいこ 平和を願って国際語をつくった サメンホフ ( ラザロ = ルドウィック = ) ねん 1859 ~ 1 9 1 7 年 はつあん 工スペラント語を発案したポーラン こきようとうじ がんかい ドの眼科医。故郷は当時ロシア領で、 ことばっか さまざまみんぞく 様々な民族が、それぞれの言葉を使っ た てくらしていたため、いさかいが絶えなかった 。っし こくさいきようつう かんきようそだ だれ つうあ かんたん た環境で育つうち、誰もが通じ合える簡単な国際共通 はっぴょう げん 【ナつし一 ねん 語をつくろうと決意し、 1877 年に国際語を発表。この言 はっぴょうじ 語は発表時のペンネームからエスペラント語と呼ばれ、 めいじじたいふたばていし せかいひろ その後、世界に広まった。日本では明治時代に二葉亭四 めいふきゅうつ げんざいおお かいいん 迷が普及に尽くし、現在も多くの会員がいる。 てんねんとうよぼうほうかいはつ 天然痘の予防法を開発した ジェンナー ( 工ドワード = ) ねん 1749 ~ 1823 年 し一し一ん力、し、 イギリスの医師。 1773 年に医院を開 しゅぎようじたい いちどぎゅうとう ぎようご 業後、修業時代に聞いた「一度牛痘 びようき てんねんとう ( 天然痘に似たウシの病気 ) にかかっ てんねんとう はなし てんねんとうよ ひと た人は、天然痘にかからない」という話から、天然痘予 ねんぎゅうとうかんじゃ けんきゅうすす 防の研究を進める。 1796 年、牛痘患者からとったうみ じつけん てんねんとう つ を子どもに植えて実験し、天然痘にかからないことを実 ぎゅうとうせっしゅはう あんぜんてんねんとう よほうほう 正した。この牛痘接種法は、安全な天然痘の予防法とし おお ひとびとてんねんとう きゅうそくせかいひろ て急速に世界に広まり、多くの人々を天然痘から救う めんえきがく きばん とともに、その後の免疫学の基盤ともなった。 はや れきし かん つ し、カ、 ぶてい 0 - リノタッ ねん しゅし ち まな つ まな いがく がく そうがく てん まわ り りそな くんしゅ ちょう と はん ほう丿つか とうじ し、ん V ン がっかい こくさい よ にほん / ン第 ねん てんもんがくしゃ ん お つ か し、ん つ し一三ロ たいけい 45 9
すうがくおうじゃ けいざいがくちち 「数学の王者」といわれる 「経済学の父」といわれる 力、ウス ( カール = フリードリヒ = ) アダム = スミス ねん 1777 ~ 1855 年 1723 ~ 1790 年 すうがくしゃおさな けいざいがくしやどうとくてつがくしや ドイツの数学者。幼いころから並外 イギリスの経済学者・道徳哲学者。 はっき だいがくじだい けいさんのうりよく だいがく りんりがくてつがくおし れた計算能力を発揮し、大学時代には、 グラスゴー大学で倫理学と哲学を教 えが じようぎ せいかつけい どうとく ねんかんこう こうぎきろく え、 1759 年に刊行した講義記録『道徳 定規とコンパスだけで正 17 角形を描く ふかのう ていせつくつがえ ほうはうしようめい かんじようろん じゅうめいせいひろ 方法を証明して、古代から不可能とされてきた定説を覆 感情論』でヨーロッパ中に名声を広める。その後、大 すうがくあたら けんじつけんきゅうつづ はっぴょう ぶんや がくや こくふろん しょこくみん とみ ねん 学を辞めて、 1776 年に『国富論』 ( 『諸国民の富』 ) を発表。 した。その後も堅実な研究を続けて、数学の新しい分野 こうせきのこ かすおおかいたくすうがく はってんおお かんり はじ しほんしゅぎしやかい たいけいか こっか を数多く開拓、数学の発展に大きな功績を残した。また、 初めて資本主義社会を体系化し、国家の管理を廃した、 はんえい 天文学では小惑星の軌道計覽、物理学では測地学や電磁 ひとびと じゅう けいざいかつどう こっ力、 人々の自由な経済活動こそが、国家の繁栄につながると ぎようせきおお じりよくあらわたん きがく すうがくいがいすぐ いう「自由放住主義」を説いて占由主義経済学を完成、 気学など、数学以外の優れた業績も多い。磁力を表す単 かれな てんはけいざいがくひら いガウス 位 G は、彼の名にちなんだものである。 古典派経済学を開いた。 しゅうきようかいかく すす ばんがくそ がくもんたいけい 宗教改革をおし進めた あらゆる学問を体系づけた万学の祖 カルバン ( ジャン = ) アリストテレス ねん きげんぜん ぜん 1509 ~ 1564 年 紀元前 384 ~ 前 322 年 しゅうきようかいかくしゃ ねん さいだいてつがくしゃ フランスの宗教改革者。 1533 年、カ 古代ギリシア最大の哲学者。 17 歳か えんぜっおこな ひてい てつがくしゃ やくねんかん トリックを否定する演説を行ってフラ ら約 20 年間にわたってアテネの哲学者 かくちてんてん ねんとうじ お ぜん さい ンスを追われる。各地を転々としなが プラトンに学ぶ。前 343 年、当時 13 歳 かんこう きようこうよう ひとせいしょ ねん おうじ ら 1536 年に『キリスト教綱要』を刊行、人は聖書に書か のマケドニア王子アレクサンドロスの家庭教師となっ ことばふくいん ふくいん てつがくれきしせいじがく かみ おし れた神の言葉 ( 福音 ) によってのみ救われるという福音 て哲学や歴史、政治学などを教える。その後、アテネに まね しゅぎ けんきゅうばっとう がっこうひら はん 学校を開いて誨義と研究に没頭したが、反マケドニア運 主義を唱えた。その後、スイスのジュネープに招かれ、 しゅうきようかいかくつ きんろ、 ちょちく どうし さんだんろんばう かくりつ な お 同市の宗教改革に尽くした。勤髣と貯蓄をすすめる彼 動でアテネを追われて亡くなった。三段論法を確立した しみんかいきゅう し しぜんかがくせいじがく しがく ろんりがく りんりがくてつがく の教えは、特に市民階級に支持され、死後、プロテス 論理学や、倫理学、哲学のほか、自然科学や政治学、詩学 じゅうひろ いつば しよがくもんきそきず タントの一派としてヨーロッパ中に広まった。 など、その後のヨーロッパの諸学間の基礎を築いた。 かんねんろんかくりつ たいりくいどうせっとな ドイツ観念論を確立した 大陸移動説を唱えた カント ( イマヌエル = ) ウ工ゲナー ( アルフレート = ロタール = ) ねん ねん 1724 ~ 1804 年 1880 ~ 1930 年 てつがくしゃ きしようちきゅうぶつりがくしゃみなみ ドイツの哲学者。ケーニヒスプルク ドイツの気象・地球物理学者。南ア 大学で数学・占然科学・哲学を学び、 たいりく たいりく かいがんせん メリカ大陸とアフリカ大陸の海岸線 かがくてき はじ たいせいよ、 が、大西をはさんでびったり合わさ のちに母校の講師となる。初め科学的 ねんだい , 1 , 彎 : ) んは・。びよう てつがくてん たいりくぶんれつ おお 于由論を発表したが、 1760 年代から哲学に転じる。人 ることから、もともと 1 つの大きな大陸が分裂、移動し かんせいてきけいけん けんかいあき げんにんしき げんざい かくたいりく ちしつ せい かんが 間の認識の限界を明らかにし、それまでの感性的経験を て現在の各大陸になったと考えた。各大陸の地質や古生 おも けいけんろん せつうらづ ねんたい おも きようつうてんちょうさ ぶつ 重んじるイギリスの経験論や、理性だけを重んじるフラ 物などの共通点を調査してこの説を裏付け、 1912 年に大 じゅう じんかく ごうりろんひはんてつがく どくりつ たいりくいどう げんどう ) よく はっぴょう りくいどうせつ ンスの合理論を批判。哲学は独立した自由な人格をもつ 陸移動説として発表した。しかし、大陸移動の原動力が けいけんろん ごうりろん にんげん がくもん ねん とうじ し かいめい つ 人間のための学問であるべきだとして、経験論と合理論 解明できなかったため当時は受け入れられず、死後 20 年 かんねんろんかくりつ せいとうせいみなお を統合してドイツ観念論を確立した。 あまりたってようやく正当性が見直された。 きんだいけいざいがくかくりつ じんぶんがくしゃ だいひょう 近代経済学を確立した ルネサンスを代表する人文学者 ケインズ ( ジョン = メイナード ) 工ラスムス ( テシデリウス = ) ねん ねん 1883 ~ 1946 年 1466 ~ 1536 年 けいざいがくしゃだいいちじせかいたい じんぶんがくしやしんがく てんまな イギリスの経済学者。第一次世界大 オランダの人文学者。神学や古典を学 せかいてき だいふきよう てん こうゆうふか せん 戦後の世界的な大不況のなかで、古典 び、思想家トマス = モアらと交友を深め はけいざいがく じゅうほうにんしゅぎ ひはん げんてんけんきゅう せいしよ 派経済学の自由放任主義を批判。 1936 ながら、聖書の原典を研究する。 1509 しつぎよう いつばんりろん あらわ そうりよおうこうきぞく ねん こよう ねんてつがくしゃ しんがくしゃ 年に『雇用・利子および貨幣の一般理論』を著し、失業 年、哲学者や神学者、カトリックの僧侶や王侯貴族の堕 をなくすためには、国家が積極的に公共竈業を進めて はっぴょう かくち きび ぐしんらいさん らく ひはん 落を厳しく批判した『愚神礼賛』を発表、ヨーロッパ各地 しゅちょう りろん じゅうよう えいきようあた しゅうきようかいかく うんどうおお 雇用をつくりだすことが重要と主張した。この理論は、 のルネサンス運動に大きな影響を与え、宗教改革のひ おお しゅうきようかいかくうんどう げきか けいざいがく かくめい せかい 世界の経済学に「ケインズ革命」と呼ばれるほどの大き きがねとなった。しかし、ルターの宗教改革運動が激化 せかいつうかききん たいにじせかいたいせん ろんそう しようげきあた へいわしゅぎ たちば たいりつ な衝撃を与えた。第二次世界大戦後は世界通貨基金 すると、平和主義の立場からルターと対立し、論争をく せかいぎんこうせつりつじんりよくしょだいそうさい しゅうにん きんだいじゅうしゅぎしそうせんくしゃ ( 川 F ) 、世界銀行の設立に尽力、初代総裁に就任した。 り広げた。近代自由主義思想の先駆者といわれる。 44 なみはす ねん まな か かていきようし とな おし こ一三 かくたいりく りせい し、 よ ひろ