わり 一週間で生徒総数の 8 割をこえる署名を集めました。 へし、こっ これと並行して、毎晩おそくまで請願書の趣旨や文面 かんせい について話しあい、こちらも一週間で完成させました。 ちょう たんとうしや しかし、教育庁の担当者は、いすにふんぞり返っ がねこうこう 小金高校には 4 の大きな行事があり、どの行事 てニャニヤしながら回答するなど、その対応はわたし せいと うんえし、 けっきよく も生徒が中心となて企画・運営をします。 たちののぞむものとはかけはなれていました。結局、 これらの行事を通して、小金高校の生徒は「自分 わたしたちの思いは現実のものとならず、職務命令は ぎろん せきにん たちで考え、議論を重ね、自分たちで責任をもって行 撤回されることはなかったのです。 じしゅじりつ せいしん 動する」という、「自主自律」の精神を育んでいきま そして卒業式当日。わたしたちは式場の外で、流れ しぜん そっぎようしき す。そして、自然に自分たちの卒業式をどうしようか ていく「君が代」を聞いていました。わきあがってくる いか きょむかん と考えはじめるのです。 のは怒りでも悲しみでもなく、虚無感でした。 卒業委員会は、九月下旬からアンケートや勉強 卒業委員会委員長は、「卒業の言葉」のなかで とうろんかい せんげん 、そして討論会をかさねていき、「卒業式要望書」を 「生徒は国旗・国歌をやっていない」と力強く宣 さくせい ましたよさらに会場には、「こがね ! こがね ! 」と、割 作成しました。卒業式には、国旗・国歌を実施しない そうかい へいしき ことなどをもりこんだ「卒業式要望書」は、生徒総会 れんばかりの f 小金コール」。「閉式の言葉」のあと しんぎ ゆうし ばん で審議され、学年を問わずに活発に意見が飛びか に、卒業生有志が「明日があるさ ( 小金版 ) 」を歌い ねっき ざいこうせい ごしや い、熱気あふれる場となりました。その結果、生徒の だし、卒業生が、在校生が、教員や保護者が加わっ そうい かけつ 総意として「卒業式要望書」は可決されたのです。 ての大合唱となりました。 ぎしき 「卒業式は儀式であり、厳粛な鰥囲気のながで行ご ところが、その数日後、教育長から校長に、「卒業 式で国旗・国歌を実施するものとする」という職務命 われなければいけない」と言いますが、号令とともに れい 令が出されました。このときから、わたしたちは職務命 全員がいっせいに起立させられ、礼にかける時間まで じよういかたっ てき しどう 上意下達という大きな敵と向きあうことになった 指導されることに、いったいなんの意味があるので しよう。卒業生も在校生も自分の言葉で語り、自由に のです。 こうのだい ひがしかっしか きかい 千葉県立国府台高校・東葛飾高校も同じような 自分を表現する機会があたえられ、そのなかに小金 じようきよう 状況にあったので、三校の卒業委員会は合同で、 高校への思いをせいいつばいこめることのほうが、ロ てつかいもと せいがんしよめいていしゆっ 職務命令の撤回を求める請願と署名提出を行うこと ポットのように全体が動くことよりも、はるかに意味を を決めました。わたしたちはすぐに署名活動を開始し、 もっています。それが小金の「卒業式」なのです。 命令よー話しあいを まいばん しゅし きかく げじゅん ようほうしょ じっし こっか こっき けっか くわ だいがっしよう げんしゅ ひょうげん 30
しんよう からよくないという意見・・・・・・。いろいろな意見を受け てくれるほど、ばくたちを信用してくれているところが せいとかい こうきかん て、生徒会本部は「試行期間」をもうけてみようと提 うれしい。」「自治の心をわすれずに約束を守ってい あん しんけん 案しました。飲みものもちこみをためしにやってみて、 けるといい。」という、真剣に考えた意見がつづきまし そのようすを見て考えていこうというのです。生徒会 0 こうそく の提案に対して、先生たちも OK を出しました。ただし わたしたちの学校よりもっと校則が少ない学校、反 条件がありました。それはペットボトルの問題につい 対に校則がきびしい学校、いろんな中学校かあると て、学習するということです。そこで、資料集めは図 思います。わたしはこの学校の生徒として、ひとつひ せいりよう しんけん 書委員会、リサイクルについては整美委員会、冫月 とつのことを真剣に考えて、いままでの生徒が築いて いんりようすい けんこう 飲料水と健康については健康委員会がそれぞれ担 きた自治というものを、大切にしていきたいと思ってい することになりました。 ます。 入学したばかりのわたしたちも、さっそく飲みものも ちこみの問題について考え、意見を書きました。 「ペットボトルはリサイクルしても、ペットボトルには かんきよう みと ならないから、環境によくない。」「こういうことを認め てい やくそく じようけん し一 - りよう
こくれん こうりよ せい小 日本政府は国連に、「日本では子どもの 考慮されているでしようか。養護施設の子ど けんりじようやく もたちには、子どもの権利について学ぶ機 権利条約は守られていて、問題はあまりな ほうこく い」という内容の報告をしました。そこで、市 会も少ないのです。」 せいふくどうにゆう みん 「今まで自由服だった高校への制服導入 民の手で日本各地からの声をまとめた報告 が強行されてしまったように、日本では『意 書をつくり、日本の子どもの権利の実態を、 見表明権』はきちんととらえられていません。 国連にとどけることになりました。 よびしんさ また、国連で世界中の子どもたちが発言で 1 997 年 1 0 月の予備審査をへて、 1 998 しえん おうしゅう 年 5 月、ジュネーブの国連欧州本部で開か きるように支援システムをつくってください。」 の 「私服登校のために、公立中学校に通学 れた「国連子どもの権利委員会」の本審査 きょひ りよう することを拒否されました。日本の教育のな の昼休みを利用して、日本の中・高校生が じんけんしんがい かでは、こうした人権侵害がまかり通ってい 意見表明をしました。 しせつ 「養護施設で生活している子どもには、子 ます。」 さいぜん ほんしんさ 本審査後、国連子どもの権利委員会は日 どもの権利条約第 3 条の最善の利益』が こくれん ないよう いけんひょうめい ようご りえき じよう
げんばく 原爆投下直後の長崎。勤労動員先で、自宅のある 今でも予告なしに心のなかによみがえってくるので うらかみ す。「あの状況ではしかたなかった。」という自分と、 浦上の方角に大きな雲がムクムクとわき上がるのを ばくしんち ーそれでも、なんとかできなかったのかフ」という自分 見たわたしは、母を気づかい、爆心地をめざしました。 ひとばんじゅう とちゅう のふたりがたたかいはじめると、一晩中ねむれない夜 その途中、足もとからか細い声がしました。全身、焼 せいと も丿ます。わたしは中学校の教員として、生徒に向 けただれた女の人が「水をください。」と言っていまし ? ってりつばなことを言うとき、「おまえ、あのときどう た。わたしは、もっていた弁当箱のふたに水をくんで した ?. おまえはそんなえらそうなことを言える人間な きて、その女の人にわたしました。しはらくするとその のか ? 」という声が聞こえてきて、どうしても自分を責 人は「連れていって。助けてくたさい。」と言うのです。 てしまうのです。 そのとき、わたしはどうしたと思いますか ? 回れ右をしてにげてしまったのです。そのことが、 そんなバカなことってあるもんか。 間をそこまで ひばくしゃ 追いつめたのは原爆じゃないか。被爆者の心を今も いか 苦しめつづけている原爆への強い怒りが、みんなの しゅ・うがくりよこう 心を熱くして修学旅行へのとりくみは、ふたたび活 発になっていきました。 きんろう ながさき じようきよう あっ
黒田貴子 [ 文 ] ( くろたたかこ ) 1 953 年、東京都生まれ。現在、東京都小金井市立南中学校教諭。 中学校社会科歴史教科書 ( 日本書籍 ) の編集に参加。 共著として 『新たのしくわかる中学社会科歴史の授業 ( 下 ) 』 ( あゆみ出版 ) 、 『歴史の事実をどう認定しどう教えるか』 ( 教育資料出版会 ) 目良誠二郎 岩川直樹 石山久男 『平和と戦争の絵本』 ( 全 6 巻 ) 編集委員 http: 〃 white. saku 「 a. ne. jp/ ¯tabletalk/ いろんな国、いろんな生き方』なと。 『シェンダー・フリーの絵本 5 さし紵に 個展 ( 日本、 (Y) 、クループ展、多数。 3 年前からちりめん小物を駒込の店「もりもと」にて製作、販売している。 オリジナルの技法て作品を制作している。 イラストレーターに。ステンシルと砂絵、型染めをミックスした 1958 年、横浜生まれ。幼稚園関係の本のテサイナーを経て、 ( いしはし・ふしこ ) 石橋富士子 [ 絵 ] なと。 平和と戦争の絵本 0 定価はカハーに表示してあります 2003 年 3 月 20 日第 1 刷発行 [ 著者 ] 黒田貴子 石橋富士子 [ 発行者 ] 中川定 [ 発行所 ] 株式会社大月書店 〒 1 1 3-0033 東京都文京区本郷 2 ー 1 1 ー 9 TEL03-3813 ー 4651 ( 代表 ) FAX03-3813 ー 4656 振替 00130-7 ー 16387 http://www.otsukishoten.co.jp わたしたちは平和をめざす [ テサイン ] 釣巻敏康十持田直子 ( 釣巻テサイン室 ) [ 印刷 ] 精興社 [ 製本 ] 中條製本 Printed in 」 apan ◎ 2003 本書の内容の一部あるいは全部を無断で複写複製 ( コピー ) することは、 法律で認められた場合を除き、著作者およひ出版社の権利の侵害となりますので、 その場合にはあらかしめ小社あて許諾を求めて下さい。 ISBN 4-272 ー 40475- X C8337
・取材協力者およひ団体 ( 敬称略 ) 阿原成光 ( 世界の子どもの平和像を東京につくる会 ) 富山稔子 ( 東大和の戦災建造物の保存を求める市民の会 ) 小澤長治 ( 多摩地区の空襲犠牲者を確認する会 ) 桐藤直人 土屋光男 ( 松代大本営の保存をすすめる会 ) 島重明 崔鐘順 笠井英彦 千野貴裕、鈴木規容 子どもの声を国連に届ける会 CHANCE! ・参考文献 「ガイドブック東京の戦争・平和』 ( 東京平和委員会編、新日本出版社 ) 467 号 ) 「『お墓調べ』から十五年戦争を考える」 ( 桐藤直人、『歴史地理教育』 平和文化 ) 「フォトガイド東京の戦争と平和を歩ぐ ( 東京都歴史教育者協議会編、 「軍需工場と基地と人びと」 ( 東大和市 ) 央公民館・図書館「戦争を伝える第 4 集」 ) 「ヒロシマ、ナガサキの体験をどう生かしていくか」 ( 永坂昭、田無市立中 井増夫、『婦人通信』 2001 年 8 月号 ) 「『最後の子ども』になりたくない一高校生平和セミナールの活動」 ( 小岩 男、『歴史地理教育』 634 号 ) 「『せこへい』の誕生ー『世界の子どもの平和像』広島に建つ一」 ( 澤野重 くる会編、部落問題研究所 ) 「せこへい平和をつくる子どもたち』 ( 世界の子どもの平和像を東京につ 編、平和文化 ) 「ひまわりは太陽に向かって』 ( 世界の子どもの平和像を東京につくる会 レット ) 「てるてるぼうずを窓につるして』 ( 阿原成光、三友社出版 21 世紀ブック 「松代大本営ガイドブックマッシロへの道」 ( 松代大本営の保存をすす める会 ) 『生徒たちのマッシロ大本営」 ( 篠ノ井旭高校郷土班、土屋光男編、 郷土出版社 ) 『学び・調べ・考えようフィールドワーク松代大本営』 ( 松代大本営の保 存をすすめる会編、平和文化 ) 「「慰安婦」問題 Q & A 』 ( アジア女性資料センター編、明石書店 ) 『「従軍慰安婦」にされた少女たち』 ( 石川逸子、岩波ジュニア新書 ) 『「従軍慰安婦」をめぐる 30 のウソと真実』 ( 吉見義明・川田文子編著、 大月書店 ) 「ソウルの初等学校と交流して」 ( 島重明、『歴史地理教育』 633 号 ) 「子どもたちの日韓交流から」 ( 木村誠、『平和教育』 59 号 ) にれだけは知っておきたい日本と韓国・朝鮮の歴史』 ( 中塚明、高文研 ) にれならわかる韓国・朝鮮の歴史 Q & A 』 ( 三橋広夫、大月書店 ) VTR 「大久保小学校の一学期」 ( NHK 教育トゥティ ) 一郎・川村千鶴子、明石書店 ) 『ブラジルと出会おう』い APE ポルトガル語教室、谷啓子・富本潤子、 国土社 ) 「国際理解教育をどうつくる ? ~ 交流から多文化共生へ ~ 」 ( 2001 『子ど ものしあわせ』 10 月臨時増刊号 ) 「 " ダブルの文化”を持っ子どもたち」 ( 小倉敬子、季刊『子どもの権利条 約』 2002 年 2 月号 ) 「火焔樹の花』 ( 小山道夫、小学館 ) 「ベトナムの「子どもの家」一ストリートチルドレンと生きる日本人一』 ( 岡 本文良、金の星社 ) VT 日「中学生が見たベトナム」 ( ベトナムの「子どもの家」を支える会 ) にれならわかる沖縄の歴史 Q & A 』 ( 楳澤和夫、大月書店 ) 「命令より話し合いを一学校自治を貫こうとした 3 ヶ月間の記録」 ( 国府 台・小金・東葛飾高校生編集会 ) 『子ども期の回復ー子どもの“ことば”をうはわない関係を求めて』 ( 子ど もの権利を守る国連 NGO ・ DC 旧本支部編、花伝社 ) 『平和学習実践選集』 ( 満川尚美監修、汐文社 ) ・色文字で記してある本は小学校高学年から読めます。 『多文化教育を拓く一マルチカルチュラルな日本の現実の中で』 ( 渡戸 「日の丸・君が代 50 問 50 答』 ( 歴史教育者協議会編、大月書店 )
たちかわやまなかざか つぎに、わたしたちの住む立川の山中坂にあるン ぺいぐんき 空壕跡に行ってみまた。ここの防空壕は米軍機力 , ちよくげき の直撃を受け、避難していた子ども、女の人、お年 より 41 人全員が亡くなったということです。戦後、遺 じぞう " 、どう 族の方たちによって小さた地蔵堂がフくられ、今でも 命日の 4 月 4 日には、法要か行りイて 0 、るそうです。 地蔵堂の横の慰霊碑には、 41 人の方がたが亡くなっ たようすが書いてありました。それを読んで、わたしは 悲しい気持ちになりました。 くうごうあと せん この防空壕跡にいるあいだに、たくさんの通行人が 横の道路を通っていきました。わたしは「この人たち ひげき は、ここでこんな悲劇があったことを知っているんだ ろうか。」と思いました。 ・ " 帰り道自転車を走らせながら「わたしたちの町に も戦争なつだんだ。」と思いました。あたりを見まわ ふうけいはをド・第 すとよ 5 会イ ; そ 0 、るはずの町の風景か、今までとち がって見えてきました。 こ : い . ょ 15
せい 本正寸に対し、「すべての子どもたちが、と は、子ども自身が子どもの声を集めてとどけ せいど さんか ようと、「子どもの声を国連に届ける会」が りけ学校制度の中において、その参加の け こうし こんなんとく せつりっそうかい オ利を行使する際に直面している困難に特 2001 年夏の設立総会に つくられました。 けねん きようそうてき リの懸念を表明する。」「高度に競争的な は、全国から 50 人の子ども・若者たちが集 教育制度によるストレスにさらされ、かっそ まりました。ふとしたことでこの会を知り参 こうそく の結果として余暇、身体的活動及び休息を 加してきた中学生から大学生まで、校則の じゅけんたいばっ かんけい 欠くにいたっており、子どもが発達のゆがみ と禹験体罰、おとなと子どもの関係な ぎもん をきたしていることを懸念する。」などの、最 ど、自分のもっている疑問や思いを言葉に しゅうしよけん 終所見を出しました。しかし、 2001 年 11 月 し、他の人の意見にも耳をかたむけます。そ ほうこくしょ に出された第ニ回政府報告書は、この所見 んな場をかさね、たくさんの子どもの生の声 しんさ を無視したものになっています。 をリアルに国連にもっていきたいと、審査が しみん そこでふたたび、市民と N G 0 の手で報 行われる 2004 年 1 月に向けて活動をして 告書をつくるとりくみがはじまりました。今回 います。 とど こくれん わかもの さん およ はったっ けっか か か
ちょうへいけんさ 「徴兵検査って 20 歳でするんじゃなかったつけ ? 」 ン人の死者は、数十万とも、百万とも、 2 百万とも言 「お墓に書いてあった戦死した場所を、白地図に書 われ、はっきりした数字がわからない。』って書いてあ き入れてみたんだ。中国がとても多いよ。それから る。」 「もっといろいろ調べてみよう。」 アツツ島、ガダルカナル・・ フィリピンも多かっ 0 「日本軍は、こんな場所まで行って戦争したってこ 発表会には、町のお年よりも来てくださって、戦死 とだよね。」 者の名前を書いたところをじっと見ておられました。 「日本の兵隊も戦死しているけど、戦場となった国 「子どもたちがこうやって調べてくれるのはうれしい の人たちはどうなったんだろう ? 」 ことだねえ。あんな時代をくり返してはいけないよ。」 「この本を見て ! 『フィリピンにおける戦死者の数 お年よりは、なみだをうかべて話してくださいまし し、か は、アメリカ軍 2 万人以下、日本軍 50 万人。フィリピ た。 せんし はか せんそう せんじよう へし、たし、
世界の子どもの平和像 げんばく 「アメリカに原爆の子の像の姉妹像をつくろう ! 」 きねん 1989 年、広島の平和記念公園に建つ、原爆の子 ささきさだ こなった佐々木禎子さんのことを、 の像のモデ丿 ニューメキシコ州アルバカーキーのアロヨ・テル・オ 当学校 ? 子どもたちが学びました。子どもたちは、 もの、イキッス・コミッティ〉をつくり、運動を なじめたのです。 ニュメヤシコ州には、広島に落とした原爆を製造 した町、目ス、アラスがあります。子どもたちは、そ の地に平和像をてることによって、ロス・アラモス を「原爆発祥の地」から「平和発祥の地」にしたい をしぎかい 、市議会に働きかけました。 公聴会に出席した子どもたちは、全世界から集め しよめいていしゆっ られた 1 万人以上の署名を提出するとともに、日本 せんばづる の中学生からおくられた千羽鶴をかって、歌や詩を はんのう まじえてうったえました。しかし、大人オちの反応はつ めたいものでした。 「原爆の子の姉妹像を建てるのなら、パールハー バーがいちばんよい。」 「像に、原爆は百万人の命を救ったと書くべきだ。」 こ せいぞう はたら しゆっせき こうちょうかい いじよう