坂の上の雲 - みる会図書館


検索対象: 文學界 2016年8月号
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1. 文學界 2016年8月号

朝鮮の不遇な立場を全身で表現した悲劇的な存在として強く 韓国人だけの話ならば別 浮かび上がらなければならないが、 なふうに語ることもできる。これは韓国近代史における明成 皇后をはたしてどのレベルまで肯定できるかという問題です。 皇后に問題があったにせよ、それは彼女の責任というより時 代の責任だと言う人がいるかもしれません。しかしそのよう に見始めたら、日本の朝鮮侵略まで含めたすべてを時代の流 れのせいにすることができる。 による「目 私たちはある型ー民族であれ国家であれ 動的反応」を越えて事態をもう少し冷静に見る必要がありま す。そうすれば、日本がなぜ近代化に成功し、朝鮮がなぜ失 敗したのかについての、司馬遼太郎の比較が無条件に非難を 受けるほど間違ったものではないということにある程度同意 できるでしよう。これは司馬遼太郎がよく使う表現でいう 「善し悪しの問題」ではありません。私たちが陥りやすい誤 謬なのですが、「近代化自体が絶対善とはなりえないから です。 4 「旅順」という思想 ここで、司馬遼太郎に関する論評をもうひとっ読むことに し土 6 しよ、フ 「まことに小さな国が、開化期をむかえようとしている」。 日露戦争での日本の勝利と国家に身を捧げた日本の若者た ちの活躍を描いた司馬遼太郎の「坂の上の雲』はこのよう に始まる。一九六九 5 七一一年に出版され一一千万部売れた小 説である。これをドラマ化しようというテレビ局の粘り強 い要訃を、司馬遼太郎生前すべて断った。日露戦争の勝 、ナナカ日本をプレ 1 キの利 利はそれ自体としては栄光ごっこ、、、、 かない帝国主義の道へ突き進ませ、四十年後に原爆と敗戦 を招いたという彼なりの史観のためである。 司馬遼太郎が死去してから十三年たった昨年十一一月、日 本の公共放送は「坂の上の雲」を十三部作のドラマ として製作し、第五話までが放送された。年末に第一一部と して第九話までが、来年に最終話がお目見えする予定であ 、くつかの る。ドラマの構成は原作にもとづいている力、し 強調点が異なる。伊藤博文を主人公の一人にして「愚かな ほどの平和主義者」として描こうとするのもそのひとつで ある。ドラマでは伊藤は「渾身のカで戦争を回避しようと した明治時代の英雄」である。 む 一九〇四年一一月八日、日本連合艦隊は仁川と旅順のロシ ア艦隊を奇襲攻撃した。アジアの「取るに足らない」小国 を がヨ 1 ロッパの巨人、ロシアを倒した日露戦争の始まりで ある。日露戦争の勝利は日本には栄光の頂点だったが、韓馬 司 国には奈落の始まりだった。アメリカとイギリス、ロシア から韓国支配を承認された日本は乙巳条約・丁未七条約国 ( 訳者注・第三次日韓協約 ) などを通じて韓国を容赦なく植 民地化した。 日本のある評論家は「民族の物語を記憶できない民族は チョンミ

2. 文學界 2016年8月号

評論 日韓両国を騒がせたドラマ 時々新聞や雑誌で、一般読者にやや馴染みの薄い作家の名 前を見かけます。主に日本の作家、それも普通大衆作家に分 類される者たちで、司馬遼太郎もその一人です。司馬は韓国 でよく読まれている作家というわけではない。にもかかわら ず新聞などで異常なくらい彼の名前を見かけます。どうして でしようか。おそらく、ある程度年配の言論人の多くが日本 文化や日本の事情に通じており、それが韓国国内の状況につ 、て語るときに、有用な比較の対象になるからでしよう。 韓国人は司馬遼太郎をどう読むか 高井修訳 ジョ・ヨンイル ところが、最近しばしば彼の名前があがるのには別の理由 があるようです。少し前に私は、新聞紙上で次のような記事 を見かけました。 日本の国民作家として定評がある歴史小説家・司馬遼太 郎 ( 一九二三ー九六 ) の長編『坂の上の雲』 ( 一九六八連載 開始 ) が、日本の公共放送でドラマ化される。二 〇〇九年十一月から十二月まで第一部 ( 全五回 ) が放映さ れ、二〇一〇年と二〇一一年十一一月に第一一部と第三部がそ れぞれ放映される予定だ。同作品は日本の近代化が進んで いた明治中期に勃発した日清戦争 ( 一八九四 ) と日露戦争

3. 文學界 2016年8月号

一九九九、三〇九ー三一〇頁。 ー三一二頁。傍点は原著者。 ( ) 司馬遼太郎、同書、三一 (E=) このような乃木 ( または乃木の家族 ) に対する偶像化の影は大 日本帝国末期に時代と妥協した朝鮮の作家たちにもあらわれて します。たとえま、。、 ノク・テウオンの『軍国の母』 ( 一九四一 l) 、 キム・サンドクの『母のカ』 ( 一九四三 ) 、チェ・マンシクの 安人戦記』 ( 一九四四 ) のような作品です。 ( リ司馬遼太郎「あとがき二」、上掲書、三一五頁。 ( 四 ) 司馬遼太郎、同書、三一九頁。 ( ) ルカ 1 チ『ルカーチ著作集 3 歴史小説論』、伊藤成彦・菊盛 英夫訳、白水社、一九六九、三三ー三四頁。 ( 幻 ) 拙稿「歴史小説とは何か」、『文化科学』、一一〇一〇年秋号。 ー一一三二頁。 ( ) 司馬遼太郎「あとがき二」、上掲書、三二一 ( ) 司馬遼太郎「あとがき一」、上掲書、三〇九頁。 ( 幻 ) イ・ムニョル『不滅』 ( 第一一巻 ) 、民音社、二〇一〇、一九五ー 一九六頁。 ( ) イ・ムニョル、同書、二〇二頁。 ハトンタッチするか ( % ) 漱石が日本に到着した日 ( 十月十四日 ) 、 のように今度は伊藤博文が満州旅行を始めます。彼もまた漱石 のように大阪商船でひとまず大連に向かいました。そして長春 を経由して十月二十六日にとうとう哈爾浜に到着します。 ( ) 小森陽一『ポストコロニアル』、岩波書店、二〇〇一、六二ー 六四頁。 ( ) 若松伸哉「安重根へのまなざしーー漱石「門」と鵐外訳「歯痛」」、 「日本近代文学』、二〇〇五年七一一号。 ( 四 ) 夏目漱石『門』、『漱石全集』 ( 第四巻 ) 、岩波書店、一九六六、 六四四ー六四五頁、新字・現代仮名遣いに改めた ( 以下同 ) 。 傍点と傍線は引用者。 ( ) 夏目漱石、同書、六四三ー六四四頁。 ( 引 ) 夏目漱石「こころ』、「漱石全集』 ( 第六巻 ) 、岩波書店、一九六 六、二八六ー二八七頁。 ( ) ちなみに乃木希典自身は伊藤博文が暗殺で死んだことを内心羨 います。これは当時明治の元老たちがもっ ましがっていたとい ていた一般的な考えだったようです。畳の上でカなく死ぬより は満州の地で刺客の手にかかって死ぬほうがずっと侍らしい最 期だと考えていたのです。 ( 芻 ) 事実『坂の上の雲』の批判のひとつが当時の朝鮮に対する言及 をほとんどしなかったことです ( この無言及が「無視」、「目を そらすこととして解釈された ) 。ところが司馬遼太郎はすく なくとも日本の相手であったロシアの立場に立って当時戦争を 見つめるのに少なからぬ紙面を割きそれなりのバランスをとっ む ています。 シムチョン ( ) このような日本史の圧縮はファン・ソギョンが『沈静』で試み を 4 こ要」か亠の一り . 土亠 90 イサン ( 肪 ) 私はキム・ヨンスの小説『グッパイ、李箱』に登場する誤謬を 一卩 ひとっ指摘したことがあります。 人 国 ( ) イ・ムニョル「不滅』 ( 第一巻 ) 、民音社、二〇一〇、三六四ー 韓 三六五頁。 ( ) イ・ムニョル、同書、三五七頁。 ( ) 司馬遼太郎「あとがき四」、上掲書、三三六 ー三三七頁。

4. 文學界 2016年8月号

をともにできないと言って彼のもとを去ります。さらには彼 と義兄弟の契りを結んでいた人物までも彼を見捨てる。 そしてこの混乱の真只中で日本軍の守備隊の急襲がなされ ( 解放された捕虜が知らせたのです ) 、安重根が率いていた部 隊は肝を潰して散り散りになります。以後安重根と何名かの 部下は数日間食うや食わずで山中を彷徨った後、紆余曲折を 経て帰還しますが、他の部隊とは違い惨憺たる様子で帰って きた安重根に対する評価は地に落ちる。しかし、この経験も 安重根を変えることはできない。彳 ( 皮よ自分の判断と行動に んな疑いも抱いていないからです。皇帝やドン・キホーテの このような人物の共通点は判断や行動について疑い を抱くようになる瞬間が死ぬまで訪れないという点です。 思想家としての安重根 イ・ムニョルはこの小説を最初は「自己形成」小説として 書こうとしていたようです。しかし、それは最初から不可能 なことだった。それが単純に安重根という人物を再構成する 作業である以前に、韓国人に存在する集団的無意識との戦い だったからです。前に日らかにしたように、彼はこの計画を 途中で放棄します。しかしそのような試み自体は無意味では ありませんでした。安重根を一点の曇りもない人物に変えて ゆく過程で「自己形成」に替わるものとして「本性的剛直 性」を選ぶほかなかったのですが、その変更は「自己形成の 不在」がまさに現実認識の歪曲でもあるということを見せて くれるからです。 言い換えれば、ひたすら伊藤博文を殺すために生まれた安 重根は自分の最終目的を妨害するすべてのものを副次的なも のとみなすほかなかったが、そうなるとある意味で彼は空っ ばの人間 ( 人形 ) になるほかなかった。ところが皮肉にもこ の「内面のなさ」が彼の強い行動性を「思想」にまで引き上 げた。そう、安重根神話で重要なのは彼が「伊藤博文を殺し た」ことにあるのではありません。それは結局ただの暗殺に すぎない。 重要なのは彼が「思想をもって伊藤博文を殺し た」ところにあるのです。 「東洋平和」というのがまさにそれなのですが、他の多くの 人たちと同様にイ・ムニョルもまたこれに基づいて作品の中 で「安重根の思想」を披瀝します。問題はそれが思想として は意味をもっているかもしれませんが、肉体をもったひとり の人間の生涯と結びついて展開されるときには時代錯誤的な ものになるという点です。小説の中で安重根はたびたび洞察 のひらめきを見せ、感動的な演説もしますが、現実的な活動 ではひっきりなしに敗北する ( 実際に安重根は起こした事業 はすべて失敗します ) 。すなわち、思想家安重根はひたすら 自分の非現実主義的な態度によってのみ血肉をそなえた人間 であることができた。肉体を身にまとった思想、それが見せ てくれるユーモアとは、このような自己形成の不可能性に根 付いていると言えます。 『不滅』を『坂の上の雲』と並べてみたとき、目立つのはあ るもどかしさです。おなじ激変の時期を取り上げながら、

5. 文學界 2016年8月号

を試みようとして、相対的に認知度が低い作品を多く入れる ほかなかった。その結果市場から冷たい反応がかえってきた。 文学トンネ内では「村上春樹を売って儲けた金で『世界文学 全集』を出している」と言われるほどだそうです。 そうなるとファンサービスという点で多少傲慢な村上春樹 ( 9 ) ですが、彼は文学トンネという出版社を通じて韓国読者に立 派なサ 1 ビスをしているというわけです。彼のおかげで韓国 の読者は相対的に知名度が低い世界の名作に出会うことがで きた。韓国最高の文学出版社がひとりの日本人作家を頼りに しているのはたい へん皮肉なことだと言わざるをえません。 しえ、見方によってはこれが正常なのかもしれない。韓国の 読者はすでに日本の小説によって占領されて久しく、村上春 樹はその占領の象徴的な存在として逆に韓国人の原本に対す るノスタルジーを充足させてくれているのですから。 私は少し前に、最近起こっている村上春樹再評価 ( 正確に はカミングアウト ) の動きを問題にしたことがあります。わ ずか数年前はタブー視されていた村上春樹に対する愛情表現 ゞ、いまはいっそんなことかあったのかと言うように露骨 ( なされている。そしてこれは日本文学全体に対する再評価に 結びついているように見えます。にもかかわらずその動きか ら除外されている人がいて、それが司馬遼太郎です。彼はな ぜ救われないのでしようか。結論から言えば、私はふたりの 作家に対する韓国人の相異なる待遇が実は「裏返ったかた ち」で互いに結びついていると考えます。 韓国で村上春樹が幅広く受けいれられたのは、彼が韓国に オリジナル ( 川 ) 無関心であったためです。したがって、韓国人としては彼と 「倫理的に結びつく余地がそもそもなく、純粋に「文化的 に」対することが可能だった。これに対して司馬遼太郎は歴 史小説の運命上必然的に韓国人と「倫理的に」結びつくほか ない関係におかれていました。前に言及したように、韓国人 は他のことはどうでも「倫理的な面でだけは日本に先んじ ることができる特権を持っていると考えます。それゆえ、司 トよ韓国で文学的次元というよりイデオロギ 1 馬遼太郎の / 説 ( 的次元で一方的にしりぞけられるのかもしれません。 3 司馬遼太郎と韓国 では、はたして司馬遼太郎は一方的に批判を受けねばなら ない作家であり、また彼の代表作『坂の上の雲』は韓国人な ら心ゆくまで唾を吐きかけてもいい作品なのか。結論から言 えば、私はそれに同意しかねます。もちろん、司馬遼太郎の む すべてを肯定するのではありません。たしかに彼は韓国人が読 聞きたい言葉を言わない人です。逆に被害者の立場で聞くと を 多少気に障る話をたびたびします。ひとっエピソードをあげ るなら、次のようなものです。 馬 一九八八年に第一回新潮学芸賞受賞作として角田房子の国 『閔妃暗殺ーー朝鮮王朝末期の国母』が選ばれたとき、当時 選考委員であった司馬遼太郎がこれに関して多少長い審査評 を書いた。日清戦争 ( 一八九四ー一八九五 ) と日露戦争 ( 一九

6. 文學界 2016年8月号

〇四ー一九〇五 ) を背景とする「坂の上の雲』で再び朝鮮問 題を意図的に避けたと言って批判された彼ですが、それなり ウルミ に乙未事変 ( 明成皇后殺害事件 ) に対する自らの立場ー肯 定的であれ否定的であれーを明らかにしたかといえば、残 念ながらそうではなかった。 彼は明成皇后殺害事件を扱った作品に対する評で、明成皇 后についてはほば触れず、逆に当時朝鮮はなぜそのような参 憺たる状況におかれるようになったのかを語るのにほとんど の紙面 ( 約十頁 ) を費します。すなわち、彼にとって重要な のは日本が朝鮮にどれほどひどいことをしたのかではなく、 朝鮮がどんな国であったがゆえに自国の皇后が刺客の手にか かって死ぬのを防げなかったのかを問うたのです。 彼はその原因として時代の変化にいち早く対処できなかっ た点をあげます。何が朝鮮をして時代的変化にまともに対処 できなくさせたのでしようか。司馬遼太郎は、それは朝鮮時 代にドグマとして機能した朱子学 ( 観念論 ) のせいだと語り ます。中国より極端なかたちで存在していた東洋的専制主義 が、第三の勢力ー彼はひとつの例として東学党運動をあげ ますーーが成長するのを妨げ、結局自滅するほかなかったと いうのです。 日本の場合、徳川幕藩体制が封建的多様性をもっていた ため、もし徳川氏が衰えたり、非があるとされれば、これ にかわる他の勢力が常住内蔵されていた。明治維新はク国 その革命の主導 民を創出するためにおこった革命だが、 力は、藩という封建下の内蔵勢力だった。 朝鮮の体制は、この点、透きとおるほどに単純だった。 王権と、米をつくる農民しか存在しなかったとさえいえ る。 むろん、科挙制による官僚勢力とその基盤の両班勢力が 存在した。しかしかれらは王権外の勢力ではなくク王の股 肱 ( 手足プとして王権に寄生するひとびとだったし、と に李朝末期にはその多くは王の外戚 ( 閔一族 ) に寄生し、 さらにはそのエネルギ 1 を党争に消費していて、結局は国 家をすくう第三の勢力にはなりえなかった。 同じ言葉でも誰が言うかによってその意味は異なって解釈 という等式を念頭におく されます。特に「加害者と被害者」 ときにはいっそうそうなる。正直に言って、右のような発言 が韓国人の口から出たら、立場により若干のロ喧嘩が起こる としても、大きな問題にはならなかったでしよう。しかし、 それが日本人の口から出たものなら、韓国人は少なからぬ不 快感を抱く。加害者が自分の加害事実を正当化しているよう に思えるからです。私は韓国人としてその不快感がどのよう なものであるかよくわかっており、またその反応にある妥当 性があることもまた認めます。 しかしここにおける妥当性とは、事実よりは判断を優先し たときはじめてつくられるものではないでしようか。すなわ ち、加害者である日本を念頭においたとき、明成皇后は当時

7. 文學界 2016年8月号

だとすればイ・ムニョルは乃木希典をどのように見ていたの でしようか。前に少し言及しましたが、イ・ムニョルは伊藤 博文に対しては否定的な立場を、乃木希典に対しては同情的 な立場を見せているのですが、これは司馬遼太郎の立場と正 反対です。その意味で私たちは『不滅』を『坂の上の雲』一 対する韓国の応答とみなすことができるでしよう。この小説 で司馬遼太郎の名前が直接呼び出されるのは正確に乃木希典 について叙述する部分においてです。 乃木は勝利したものの、すでに始まった近代戦を理解で きず、堅固な要塞と最新兵器である機関銃で武装した大軍 が守る高地を正面から無謀にも攻撃し歩兵の被害を大きく したと陰口をたたかれた。しかしそのとてつもない徴集兵 たちの被害を自分のせいにして自決しようとした乃木の淡 白な侍気質と、自分が生きているかぎり乃木は自殺できな よ、息子ふた いという明治天皇の勅命が合わさった後日談 ( りか死んだという 事実もあって神話となった。 「一人息子と泣いてはすまぬ、一一人亡くした方もある」 そのころ流行した歌には乃木に向かう日本人の愛情と信 頼が込められている。そうして明治天皇が死ぬや自決で殉 死した乃木は軍神として仰ぎ見られた。 同じ日本人でありながら小説家司馬遼太郎のように乃木 大将の軍事的才能を疑い旅順陥落の損得を異なって見る者 もいる。しかしともかくそのことはひとつの戦闘の勝利と しても輝いているのみならず、膠着状態だった日露戦争の 局面をいっきに転換するきっかけになったという意味も大 きい。地球を半周したロシアのバルチック艦隊は旅順陥落 の衝撃に士気が大きく下がり、それに続く奉天会戦にも大 きな影響を与えた。 司馬遼太郎に対するイ・ムニョルの批判はあまり公正では ありません。まず彼は司馬遼太郎が乃木を批判する脈絡を見 落としています。司馬遼太郎は決して旅順陥落の損得を問題 にしているのではありません。彼も日露戦争で旅順がもつ重 要性を何度も強調しています。旅順を陥落できなかったなら 日本は戦争に負けたかもしれないということは大部分の戦争 史家が指摘するところです。問題はたとえそうだとしても不 必要な死傷者があまりにも多く出たこと、そしてそれは戦場 の状況をまともに把握できずー乃木は指揮所を銃声もよく どう戦わねばならないか 聞こえない後方に設置しました 勘さえもっかめなかった指揮官乃木の責任が大きいという点 です。司馬遼太郎のこの批判は乃木という一人物に対してだ けではない。彼は乃木の無能力よりは戦争にまったくそぐわ ない彼を戦場に送った「何か」をより問題としているからで す。 かれの最大の不幸は、かれの参謀長として少将伊地知幸 介という能力も協調性もひくい人物をあてがわれたことで あった。陸軍の総帥である山県有朋の人事感覚は、軍司令 官に一人の長州人もいないことを不満として第一二軍には乃

8. 文學界 2016年8月号

分と合わないということに気づいて、兄の助言にしたがって しかも一定の資格を取得すれば、国家生長の初段階にあ 海軍兵学校に進学します。そして以後アメリカに渡り米西戦 っては重要な部分をまかされる。大げさにいえば神話の 争に立ち会う機会を得ます。真之にとってこのときの経験は 神々のような力をもたされて国家のある部分をつくりひろ その後のバルチック艦隊との対戦で決定的に役に立ちます。 げてゆくことができる。素姓さだかでない庶民のあがりが、 このように当時の日本は、たとえ家柄がそれほどでなくて である。しかも、国家は小さ、 も若干の努力と根気さえあれば身分上昇が可能であった時代 政府も小世帯であり、ここに登場する陸海軍もうそのよ でした。しかもまだ日本はとても小さな国であり組織がまだ うに小さい。その町工場のように小さい国家のなかで、部 整備されていなかったので、各自が自分に任された分野で信 分々々の義務と権能をもたされたスタッフたちは世帯が小 さいかために田 5 うぞんぶんにはたらき、そのチームをつよ 念にしたがって働くだけで国家に直接的間接的に影響を与え くするというただひとつの目的にむかってすすみ、その目 ることができる時代でもありました。 過渡期とは、不合理な事件が無数に発生する混乱期のこと 的をうたがうことすら知らなかった。この時代のあかるさ オプテイミズム ( 炻 ) です。逆に見れば社会的組織がゆるい時代でもあるため人的 は、こういう楽天主義からきているのであろう。 資源の流動性が強く、個々人が自分の意志を心ゆくまで発揮 できる、とても活力あふれる時期でもある。司馬遼太郎も指 明治維新とともに着々と進行した官僚制が多くの問題を生 摘したように、経済的安定という観点から見れば明治時代は んだのは事実ですが、一方で下級武士や一般国民には簡単な きわめて不幸な ( 悲劇的な ) 時期だったかもしれません。しか ことではなかったにせよ、ある「豊かさ」を与えました。こ かし、もしそれだけだったらいくら過去といえども、そして読 の小説の冒頭部分には下級武士の息子に生まれた秋山兄弟が 私たちの脳に基本的に過去を歪曲する装置が存在するとして 故郷を出て社会に足を踏み入れる過程がつぶさに書かれてい を も、大多数の日本人がその時期を「明るく」追想することは ます。兄の好古は生活費と授業費がまったくかからないとい できないでしよう。 馬 う理由だけで師範学校に入り、弟の真之は好古の援助で上京 司 問題は、司馬遼太郎が「坂の上の雲」で明治時代を楽天的 し、大学予備門に入るために共立学校で勉強し始めます。 にのみ描いているのではないということです。見方によって国 以後、好古はフランスに留学し、そこで学んだ騎兵戦術を は、実は正反対だと言えます。明治的な楽天性をとても高い 日本に導入して、日本騎兵隊の創始者となり日露戦争で大き 純度でもっていた正岡子規が死ぬと、作品の雰囲気が少しず な功をあげるようになり、真之は大学予備門まで進学し正岡 っ変わり、それは日露戦争が本格的に展開するにつれいっそ 子規とともに文学の徒としての夢を育てますが、まもなく自 システム システム

9. 文學界 2016年8月号

主義的な回復では駄目です。 ・自衛隊という「徳川の回帰」 柄谷徳川的なものをそのまま肯定したらひどいものにな るのは決まっています。そもそも、徳川体制は封建制 ( 地方 分権 ) のようでいて、じつは非常に中央集権的です。大名は 各地にいましたが、参勤交代を強制された。あのようなシス また、徳川は、 テムは中国の帝国の全盛期でもありえない。 戦国時代の間に事実上消滅していた身分制社会を復活させた ある面からいえばじつに反動的で、耐えがたいものです。坂 ロ安吾の「日本文化私観」も事実上、徳川文化批判ですね。 が、それを単に否定すると、どういうことになるか。明治に なると、征韓論が起きて「秀吉万歳ーとなった。その意味で、 戦国時代が回帰したのです。だから、徳川の「高次元での回 復」というのは、同時に、徳川のマイナス面を否定すること でなければならない。その意味では開国ではあるけれど、明 治のような開国なら、鎖国のほうがましです。丸山真男が幕 末を「第一の開国」、戦後を「第二の開国」と言いましたが、 第二の開国は徳川の平和すなわち鎖国の回復という要素が入 っていないと、真の開国にならないでしよう。だから、むし ろ今後に「第三の開国」が必要ですね。第三の開国とは、憲 法九条を実行することです。 「高次元での回復ーがポイントで、徳川体制に戻れとか、 それを日本固有の文化として評価するという立場ではないの ですね。 柄谷そうですね。それに、僕は戦後に人々が徳川のこと を思い出したとは思わないんです。すでに明治維新以後七十 年以上経っていたから。しかし、無意識に徳川を思い出した のだと思います。 『憲法の無意識』で僕は歌人の与謝野晶子が一九〇四年 ( 明 治三十七 ) に発表した、自分の弟を歌った「君死にたまふこ となかれ」を引用しました。僕は明治の人はあの歌を平気で 歌っていたのだろうかと思うんです。だって、「驪の街のあ 、 0 ・つカ きびとの / 舊家をほこるあるじにて / 親の名を繼ぐ君なれば、 あきびと / 君死にたまふことなかれ」という、その商人というのは階 級でしよう。だから、この歌は非戦を訴えると同時に、ある 意味で身分制度を肯定しているんです。同じ歌の中で、侍の ことは「かたみに人の血を流し、 / 獣の道に死ねよとは」と か、差別的なんですよ。要するに、明治末期では、戦争であ識 れ非戦であれ、人々の意識の中にまだ徳川の体制が十分に残無 人 っていたとい - フことです 本 一方、戦後の日本人にはそんな意識はまったくなかったと 思います。日本人はみんな武士だ、あるいは武士であるべき 許 だ、と田 5 っていたんじゃないでしようか。徳川時代に町人やを 農民がそんなことをいったら大変です。その上、徳川時代に改 は、武士は人を殺さなかった。武士の大多数が生涯一度も刀 を抜いたことがなかったと思います。そもそも十六世紀半ば

10. 文學界 2016年8月号

渋々した作り笑いであってもだ、ふとした拍子に涙がこばれ ると悲しいとか辛いとか思っていた小さな芽が一気に大きく なるのと同じことか、表情を侮ってはならない。 これとは逆に箕輪さんの笑いはこっちの警戒を解く、解い て警戒とか油断とかそういうものではない違うところに持っ ていく、入社二年目私はカルチャーセンタ 1 の中で講座を企 画する課に移った、会社では課といったが会社を離れて長い 時間が経っと七、八人という人数だったんだから班の方がび んとくる、私は入社一年目はラインでなく部長のスタッフと されてる班にいたが面白くなかった、講座企画はスタッフで なくラインとされていた、私のこういう理解は関心がなかっ たから間違っているかもしれない ラインはそれぞれ現場を 持つ、講座企画も講師を相手するという現場がある、部内で はラインよりスタッフの方が上という了解とか幻想があった、 講座企画の中には自分がラインであってスタッフでないこと とかスタッフの人がラインより上であることに反感を持つ人 かいて事務所の中はいつもギクシャクしていた、私はそうい うギクシャクは平気だがないに越したことはない。 私がそのラインである講座企画の班に移ってわりと間もな い日、そこの一員である箕輪さんが、 「 x x x ( 箕輪さんは私を呼んだ ) 、時間ある ? じゃあ、ちょっと、コ 1 ヒーでも飲も , フよ。」 と声をかけた、箕輪さんは今は私をさんづけで呼ぶがあの 頃は当然呼び捨てだ、箕輪さんは私を連れて外に出て道を歩 、さなが、ら、 「 xxx ( 箕輪さんは私を呼んだ ) 、空に向かってツバを吐 くとねえ、 と顔を上に向けて唇の先に右手を持っていった。右手は握 るのでなく五本の指先を小さな豆つぶでもつまむようにすば めていた、その手を空に向かって吐いたツバのつもりで上ま で高く持っていって、今度はそれが落ちてきた、そして、 「べちゃっと、ね、ー」 と落ちてきたツバのつもりの五本の指先を自分のおでこの 上で広げた。その指先の動きが妙にたくみで私は牛乳くらい の粘性のある液体が箕輪さんのおでこにべちゃっと落ちたの か見えたみたいたた 「自分に戻ってくるんだよ。 わかるだろ ? あの人たちのやってることはそういうこと ごよ。」 私はあの十何秒間くらいの箕輪さんの動きが今になっても 忘れられない、絵を描く人の字は不思議に風格があったり格 好よかったりするものだ、箕輪さんの字も木版で彫った文字 と似ているようなそうでもないような字だがとにかく特徴が あり私は好きだ、美術系の人のそういう手先の器用さまで連 想させるたくみな、天にツバすると自分に返ってくるツバの 指先の動きだった。私は箕輪さんというとたいていの人にこ の話をしてきた、もっとも私はただ自分の顔を上に向けて指 先の動きを真似して見せるだけだ。 し」い - フ、」し」は 5 か 四月中頃の晴れた午後、外が見えない、 ない事務所から気持ちのいい外に出た、もう一年私はそこに