一人 - みる会図書館


検索対象: 文學界 2016年8月号
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1. 文學界 2016年8月号

だ、今ここで孤独は大げさだ、一人の時間ぐらいかちょうど . し一。し 『珈琲のことば』には一人の時間はずうっと漂ってい るが孤独はない。 孤独であるかどうかより一人の時間かどうか、私のまた別 の友人はたぶん七〇年前後、カメラがだいぶ高級品だった時 代に友達と二人でカメラをはじめた、一年目に彼はいきなり カメラ雑誌のコンテストで第二席になった、それで翌年彼は 第一席を狙って応募すると今度は第三席止まりだった、それ で彼はバカらしくなってやめた、その一年目だか二年目に第 一席になったのは一緒にカメラをはじめた彼の友達だった、 それが彼が一一年目に第一席を狙ったか一一年目に第三席に下が ってカメラをやめたかどっちかの原因ともなった。 カメラをはじめたばかりの友達同士で第一席を競い合った ことがカメラ人口の意外な少なさを意味するのかコンテスト で選ばれるような人は愛好家の人数とは比例せずすごく少な いということなのか、ビ 1 トルズでジョンの天才によって並 だったポ 1 ルの才能が一気に伸びたと言われることがあるよ 親密な二人のどちらか一方にすごい能力があるともう 一方も引っ張られてすごく伸びるそれが第一席になった方の 友達と彼との関係にも当てはまると考えるか、あるいはジョ ンとポールはもともと二人とも突出した才能を持っていたの でない、二人の親密な語り合いによってお互いの能力が奇跡 のように伸びた、それと似たことが私の友達とその友達のあ いたでも起こったのか そこはいろいろだ、これに今さら正答はない、 し」い - っ・か私 が関心があるのはそこではない、少なくとも彼の言葉を聞く かぎり、彼は写真を褒められはしたが写真の面白さは見つけ ていなかった、面白さというのは箕輪さんのように終着点が あるかどうかわからない状態の中で一人でそれをやりつづけ られることだ、子どものファーブルが虫のやることを来る日 も来る日も見ていたようにそれが何かに結実することなど考 えずに、ということは報酬を求めずにそれをすることだ。 この芸術観なり創作観は美化しすぎかもしれない、美化し すきたとい、フ亠尸がどこかから聞こえる、他の人はど , 2 言 - フと しても深沢七郎がこれを聞いたら何と言ったか、何も言わず にうすら笑いを浮かべただけだったか、「白笑」と書いて 「うすらわらい」と読ませる小説がたしかあった、しかし私 は思うのはここだけは美化と言われようと純化と言われよう とまずここは純化された状態で考えておくべきだ、箕輪さん が完璧にそうだったと私は田 5 っているわけではない。 私は箕輪さんという人をじかに知っている、箕輪さんとい う人をじかに知っている人はみんな、こんなに純化した創作 姿勢をこの人に重ねたら、首を傾げるか、ニャニヤ笑うか、 とにかく疑問や留保をやんわり出す、強い拒絶や否定でなく ゃんわり。生身の人間としての、なんと言うのがいいか、あ る理想化された像があったとしてそれを実際のその人の像に 二枚のフィルムを重ねるように重ねると二つの像はびったり 重なり合わず、ズレがあったりプレがあったり輪郭がばやけ ているところがある、それが欠点や失望になる人もいるが箕 輪さんは「箕輪さんだなあ」ということになる。 7

2. 文學界 2016年8月号

深沢七郎のことを書いたあと私は外に出て一日つづきを書 かなかったとき書きかけの小説はつづきをどう書こうかなど いろいろ考えているものだ、この小説をもし映画にするなら 妻には深沢七郎と一人一一役を演じてもらおうなどとも考えた が人にはいろいろな顔も引き出しもある、深沢七郎自身やさ しいやわらかみのある工芸品を好んでいたとしてもおかしく 十′ . し 、人形の裏をひっくり返したら男女の交合の人形が人形 の中に秘かに造り込まれていたような人形ばかりを、人はど うしてもその人を理解しやすい一つ二つの面からだけでイメ 1 ジを作りがちだが深沢七郎が愛でていたわけではない。 それより一年か一一年前だ、さんから私いや保坂に電話が かかってきた、私は今あることを考えていてコーヒ 1 をめぐ るエッセイや詩や小説の一節を集めているんだけど保坂さん にはコーヒ 1 のことを書いた小説でもエッセイでもそういう 一節はありませんか ? さんは年齢からいって一九九一年 かその前後に退職してその頃からそれ以前の呼び捨てからさ ん付けにかわっていた。 保坂には一歳年上の昔なじみの女性がいた、母親同士が知 り合いだった、向こうの家はすぐに鎌倉から別のところに引 っ越したがその人が鎌倉に来るたびに保坂の母親を訪ねたそ れで一つ年上の女の子と保坂はそのたびに遊んだ、中学にな った頃には二人は会ってもそれまでのように遊ぶことはなく なった、中学生の男の子は女の子に対して意識が過剰になる、 しかし二人の関係はそれつきりにならなかった、高校になる と横須賀線でたまに偶然乗り合わせるようになり大学でも年 に二、三回ずつも偶然電車の中でバッタリ会った、 「よくバッタリ会うね。」 というのが二人の久しぶりに会ったときの挨拶になった、 「またバッタリしたね。」と。 東京駅で三時頃とか早い時間に横須賀線の始発に乗って出 発までの十分間ぐらいをガラ空きの車内のポックス席に一人 ですわっていると向こうが車輛から車輛を前に歩いてきた、 それで二人は鎌倉まで中学か高校の同級生のようにずうっと しゃべった、二人には母親同士ということとほんの小さかっ たときに遊んだことしかもともとの共通の話題はなかったが 今何をしている、映画は何を観た、ロックは何が好きだとい う話をしていれば鎌倉までの一時間は気まずい間などまった くなかった。 それで鎌倉に着くと保坂はまた明日 ! とでも言うように あっさり降り、向こうも自分の降りる逗子までそのまま乗っ 保坂は誘いたくないわけがなかったが一歳上の向こうは 年齢の差以上にあまりに大人だった、誰が見ても男なら放っ ておかない、それから一週間保坂は彼女のことばかり考える ことになるが次にバッタリ会うまでに忘れはしないが気持ち の波は静まった。 大学を出て保坂は就職すると東京に住むようになり横須賀 線でバッタリ会うことはなくなった。二十七歳の十二月、保 坂は芸能プロダクション主催のクリスマスパ 1 ティに「 xx △△子も来るぞ」という友達の誘いにつられて特にそのアイ ドル歌手のファンだったわけじゃないが生でアイドルが見ら れるならそれはやつばり行く、彼を誘った友達はちゃっかり ガ 1 ルフレンドをつれて来た、アイドル歌手の x x △△子は

3. 文學界 2016年8月号

のだというイメ 1 ジが箕輪さんのしたことにつかないか ? 箕輪さんは木の中に眠っていた、あるいは埋もれていた文字 を彫り出したわけでない、箕輪さんは文を彫った、もっと言 えば文章を彫った。深沢七郎は小説なんてものは作家がひり した、こ , フい - フことを一言われる 出した糞みたいなものだと書、 と、作品は作家その人より大きいという言葉がグサリと刺さ れ、そんな言葉は一気にきれいごとになる、 「小説を書くのはオナニーするようなものだ。小説家はそれ が必要だからするが、あんなもんザーメンと同じだと思えば、 自分はそれでもまだその人の書いた小説をありがたがる覚暦 があるか ? と胸に手を当てて考えてみるがいし と深沢七郎は言ったわけではないが言ったのはだいたいそ ういうことだ、深沢七郎の露悪趣味またはリアリズム、露悪 的な言い方はロマンティックな考え、その人が一人でいる時 間の内面を大切にする言い方を踏みつけにすると見えるが露 悪的な言い方がそもそも踏みつけにされた人の口から出るも のじゃないのか、深沢七郎は作品も残した言葉もヒンヤリし ている、あの人の目こそ冷酷という一一一口葉にふさわしいと私は いつも感じる、それでもすべてそれだけでできてる人がいる これはまったく深沢七郎が露悪的でひんやりしたリアリズ ムだけの人だったわけではないと言ってることにならない、 ならなくてもそういうものだ、十年以上も木版で文章を彫り つづけた箕輪さんには芸術は人の立っ足元の深淵の深さを指 し示すものでなく人が生きるその人のまわりを包む工 1 テル のようなものとしてある、こういうことは一一者択一でなくど ちらでもありうる、どちらが正しいとそんなことにこだわっ ても意味がない。 一日三時間 一人の人が十年以上も木版画を彫りつづけた か四時間かそんなものだろう、七十すぎた人に一日八時間も ( ナししち一日八時 十時間も彫りつづけるのは無理だ、それこご、、 間もつづけたら労働になってしまう、それは創造行為から外 れる。私より二十歳くらい若い知り合いの君はロシア語が できて、三十歳になる前後に五百ページちかい小説を訳しき 「日曜日だけ、写経するようにこっこっ訳しました。」 と君は写経したこともないくせに言って、私は写経する のを見たこともないくせにその言葉に納得した、写経という だけで通じ合うこの、日本人の共通了解は何なのか、写経が いっからそんな広く共有されるイメージになったのか、お寺 が日曜の写経をやるようになったのはいつだったか、八〇年 代の半ばくらいだったとするとバブル期とリンクする、リン クすれば話は筋が通って面白いだろうがするかどうかわから 十 / 。し 君が「写経するように」と言ったように箕輪さんもそう 字 文 君はたしか フ風に珈琲にまつわる文章を彫りつづけた、 原著出版から二、三年という、 長さから考えて驚く早さで訳 彫 した。箕輪さんはもっとずっと終着点があるかどうかわから べンヤミンが言った孤独の中から文〃 ないまま彫りつつけた、 うや 学が生まれる、孤独こそが文学の産屋であるというイメ 1 ジ

4. 文學界 2016年8月号

トルを超えるほどの高さだったらしい 国道六号線を挟んで海側は津波の被害で草原のようになっ たところか広がり、海外線に出るまでの道すがらには、黒し 御影石の慰霊碑や、子どもの顔をしたお地蔵さんや、白い大 きな観音像が点在している。 海に行く途中、黒い御影石を見つけて車を降り、慰霊碑に 刻まれた津波の犠牲者の名前と年齢を読んで、ママと二人で 手を合わせたこともあった。 でも、ばくは、その人たちの顔を知らない。その人たちが 暮らしていた家や畑や田んばがあった元の風景を知らない。 遺体となったその人たちが発見された瓦礫だらけの風景も、 テレビの画面でしか知らない。引き波で海に持って行かれて 未だに行方不明のままの一一一人のことを、何も知らない やま 知らないことの疚しさから、ばくたちは海に近づくことを敬 遠するようになっていた。 「歳のお誕生日、おめでとう」 1 ト型のいちごショ 1 トの上のチョコレ 1 トプレートに 書かれていたのはメッセ 1 ジだけで、ばくの名前はなかった。 ママは自分のことをママと言う。 ばくも、ママのことはママと呼ぶ。 中学時代に既に、母親のことをママと呼ぶのは一部の女子 だけで、男子はお母さんとか母親とか親とか呼んでいたけれ ど、途中で変更するのも恥ずかしいし、そのタイミングは逃 してしまったように感じるから、ばくはママで通している。 でも、この十ヶ月間は、ママしか話す人がいなかったのに 「ママ」と呼び掛けたことは一度もないし、ママもばくの名 前を呼ぶことはなかった。 ママは、チョコプレ 1 トを皿によけて、流し台の引き出し から銀色のケーキサー 1 を取り出した。おそらくクリスマ スの失敗を挽回するためにネット通販で買ったのだろう。 ママは、ケーキサ 1 ーのハンドルを握ってケーキの真上 からゆっくりと下ろし、 ハートを真っ二つにした。 これって、なんか不吉じゃない ? 1 トって、たしカ ( 割れたハ 、失恋とか嫌いになったとかそ - っ了い一フ - 意味だし : 「切ったらいちいち拭くのが、きれいにケ 1 キを切るコッみ たいたよ。いちごがのってなかったら、テグスとか糸を使っ て切るのもアリみたいだけど」と、ママはケ 1 キサ 1 いた生クリームとスポンジクズをベ ーパータオルで拭き取 つ、」 0 なんだか、心臓手術をする外科医みたいな顔付きだな・ : ママは、半分になっこ、 ートを放射線状に三等分にした。 ちゃんと一切れずつ字に切れている。 今のところ失敗はない。 一フまくいってる 完璧、と言っても、 ママはケーキの右側に皿を横付けして、ケ 1 キサー ケ 1 キの底に水平に差し込み、そっと浮かせて引き出した。 ばくはケーキの断層を見た。スポンジの真ん中に挟んであ る生クリ 1 ムといちごが少しだけ飛び出ているけれど、気に Ⅱ 6

5. 文學界 2016年8月号

める。ニコラはと言えば、じつは失業しており、ロンドンに 1 キン ) からも見放され、タクシ 1 運 住む妻 ( ジェ 1 ン・ 転手として金持ちの女性の買い物の送り迎えをしているだけ であった。 前述のとおり、懐かしい名作シャンソンを台詞の途中で挿 入すると言う卓抜なアイディアを採用した ( そのもともとの 発想は、おもにテレビ畑で活躍したイギリスの脚本家デニ ス・ポッタ 1 によるものであり、作品の冒頭にはポッタ 1 に たいする献辞がある ) この作品は、フランスだけで二六〇万 人の観客動員という、レネ作品としては未聞の大ヒットとな り、またセザ 1 ル賞でも最優秀作品賞・最優秀脚本賞など主 要部門を含む七冠を達成した。だがスト 1 リ 1 を読んでも分 カるトフに、 この作品の扱うテ 1 マはレネらしいひねりの利 いたものであり、それはとうてい、たとえば日本で上映され たさいに付けられたキャッチコピ 1 「フランスを幸せいつば しに包んだ : : : 愛の讃歌ーのようなものに収まる内容ではな この作品のキ 1 タ 1 ムは、〈外観 appa 「 ence 〉だと言ってよ 、 0 まず外観は、偶然によって人を欺く。作品の冒頭近く いくつか オディ 1 ルは眼のまえで交通事故にあった老人を、 の偶然の一致から、自分が会社で首を切ったばかりの若者の 父親だと勘違いし、見舞金まで渡して不審がられる。また彼 女は、ニコラが富裕そうな女性と歩いているのを見、てつき り不倫だと思い込むが、じつは単なるバイトでの買い物エス コ 1 トであった。そしてより重要な意味を持つものとしては、 カミーユが初めてマルクと会ったさい、彼が風邪気味で鼻を かんでいるのをーそのさいの彼の電話でのやり取りと考え 合わせてー失恋の悲しみのためだと誤解し、彼を繊細な人 間だと思いこんで、恋に落ちてしまうことがある。だが実際 には、マルクは極めて冷酷で打算的な男であり、その魅力的 ルック な〈外観〉を利用して人を欺く〈仮面〉の人間であったこと は、スト 1 リ 1 か示したとおりである。またこの作品には、 シモンが愛するカミ 1 ュに自分の職業を偽ったように、さま ざまな嘘が存在するが、それもみずからの外観をよく見せよ うとするがためであろう。さらにここには、人の外観と内実 のずれとでもいうべきものも描かれている。オディ 1 ルやカ ミーユ、またニコラは、人との付き合いがうまく、有能性の 外観を誇示しているが、じつは内面に弱さを抱え、またあと のふたりは、それを抑えようとするあまり、鬱病を発症して いる。そしてぎやくに、外観的には脆弱な人間に見えるクロ 1 ドやシモンが、逆境にあって強さや思いやりを見せること になり、作品の前半と後半では、ほとんどすべての登場人物 像が反転することになるのである。さらにいまひとっ付け加 えるならば、台詞中で挿入されるシャンソンも、レネに関す る最新のモノグラフを書いた映画評論家ジャンⅱリュック・ ( 加 ) ドウエンも指摘するように、内面の弱さを隠し、外的イメ 1 ジを一種の役割演技によってつくり上げる方策だと見ること

6. 文學界 2016年8月号

私は箕輪さんという人はただ無償で、無心のまま黙々と珈 琲とカフェをめぐる文章を木版で彫るというイメ 1 ジは箕輪 さんは、い外だと思うだろう、そういうのはアウトサイダ 1 ア 1 トだと箕輪さんは言うに違いない、アウトサイダ 1 ア 1 ト は今でこそ芸術の一画に認められているが箕輪さんが学んだ 時代の芸術観あるいは芸術の定義では異端にさえも入らない というより異端は芸術性の過剰だから異端を芸術かどうか誰 も疑わない。カルチャ 1 センターである人が蝶の講座を企画 した、箕輪さんはその講座説明に、 「自然が生んだ芸術」 という一節があったのをふだんは他の人の企画にロ出しす いやはじめて、 ることはまったくなかったのに珍しく、 「芸術はアートでしよ。ア 1 ティフィシャルの語源だから、 人の手が入ることではじめて芸術になるということなんです よ。だから自然に向かって芸術的という形容をするのは間違 いなんですよ。」 と強硬に反対した、箕輪さんは芸術とはこうこう、こうで なければならないと保守的な芸術観にそのとき立っていたと も考えられる、世間の人が簡単に美しいものを芸術的と形容 してしまう世間の言葉の軽さや雑さに反発したとも考えられ る、私はあのときどう感じたのかあのときの自分が感じたこ とをそのまま憶えているはずはない、私はこの場面を今にな ってもずっと忘れてないんだから何か感じたことは間違いな い、私はたぶん保守的な芸術観と感じた、しかし保守的であ ろうがなかろうが私はこの瞬間抵抗と感じた。 私はきっとそうだった、私は誰かが人はふつうに通りすぎ ること、きわめてふつうのことに、 いやそれは違うんだと場 街を歩いていてビ 1 トル 違いに停滞する瞬間が忘れがたい ズの何かあまり有名でない曲がかかっている、私はビ 1 トル ズは特に好きではない、しかしこういう通りすかりにビ 1 ト し曲を ル、スの曲が耳に入ってくるとやつばりビートルズはい、 作ってたんだなと自然と思う、私は人が何かその人がいなか ったら何もなく通りすきていたことにそれはおかしいと停滞 する瞬間がそのように心が動く、そのような、どうでも、 ことをどうでもよくないこととすることを一番素朴でプリミ テイプー原初的 ? 本源的 ? 初歩 ? 素 ? ーな抵抗と 感じる、その場で声をあげたり拍手したりまさかするわけが というより、いはあいにく私はそんなに機敏に反応しな い、私は反応を表現しそびれる、しかし私は内側がその抵抗 に共振して喜ぶ。 それをこだわりと言ってしまうとなんか小さい この抵抗 はきわめて個人的なあらわれだが個人であることでいっせい に個人とつながる、その個人はどこかすごく遠くにいるかも しれない、 こだわりはふつうに個人的な気持ちのあり方だか ら個人的なものとしてまわりにやすやすと承認される、 「誰にでもこだわりはあるもんだよ。」 とその場の何かに吸収される それじゃあ、円空上人が彫った荒削りで素朴な仏像は箕輪 さんはどう思うか ? ああいう木彫りの仏像が広く受け入れ 8 ) 彫られた文字

7. 文學界 2016年8月号

られたのかいっかわからない、そこかヒミョウなところだ、 に言わせればダメだね。」と言う人の方こそ仲間を売る、理 円空仏が広く認知されていなかったとしたら私がもし、こう 由を訊かれても私は答えられない、 こんなことは直観だ、も う木彫りの仏像いいですねと水を向けても、 っと言えば感じだ、とにかく仲間を密告するような人間にだ 「こういうのは信仰の対象としてはいいんだけど、美術的観 けはなってはいけよい、仲間を売らないためならいくら卑法 なことをしてもいし 点から言うと評価の対象外なんだよ。」 と言うだろう、しかし仏教美術の権威とか現代の人間国宝 アウトサイダ 1 ア 1 トを認めないとしたら箕輪さんはこっ 級の仏師がそれを評価していると知ると箕輪さんの評価はこ こっと一人で木版を彫りつづけたことをロシア語の長篇小説 ろっと変わる。 を一人で訳し通した君が言ったみたいな写経に喩えられる って一」カ ( ( のを迷惑がるかもしれない、写経もアウトサイダ 1 ア 1 トも 「権威ある人が何て言ってるか知らないけど、あんなものは 成果・報酬を求めない、 写経は心の平安なり何なり金銭的に 俺に言わせればダメだね。」と中年男は言うようになる、こ は測ることができない報酬を求めてはいる、しかしそれを作 れがつまらない。 品として評価されようとは田 5 っていない、その無償さを箕輪 箕輪さんはと ZO のあいだに広い広いグレ 1 ゾ 1 ン さんは違うと言う。無償であることはむしろ傲慢なのだ、そ を持っていて、あっちの権威がと言えばと言い れは妻が言った。 向こうの権威が ZO と言ってると聞けば ZO と言う、これが もう十年以上も前だった、テレビで休日の公園のフリ 1 マ 冗談の通じない人には通じない、 これは自分の保身のために ーケットの情景が映った、そこに四十代のアーティストが来 仲間を売るような裏切りと同じではない、形勢が不利だと判 た、彼は着るものや家具の類いは全部フリ 1 マ 1 ケットで買 断したらさっさと投降して捕虜になるのも一つの戦い方だ い揃えた、生活費はグンと抑えられる、そして油絵を描く 捕虜になって収容所に入れられたら収容所で人権や自治権を 「ええ、発表しようとは田 5 いませんね。 主張し後方をできるだけ混乱させるように励む、捕虜になっ 人から評価されることに関心ないですから。」 て収容所の自治でなく敵方に寝返り敵方の手先として仲間を それを見ていて妻は、 監視したり密告したりするやつは戦争が終わって収容所が解 「むしろ傲慢だよね。」 放されると真っ先に味方からボコボコにされて死ぬのが繰り と言った、またも私が考えをはっきり形にする前に妻のロ 返し映画で観た場面だ が私の考えを形にした、妻にそう言わせたのは彼の話し方、 「権威ある人が何て言ってるか知らないけどあんなものは俺立居振舞いにかわいくないものがあったからだろう、彼は自

8. 文學界 2016年8月号

ったんじゃないかと言った、あの人にバレたら半殺しだな、 「大丈夫よ ! お兄ちゃんはアタシが男と寝たなんて絶対思 わないから。 お兄ちゃんはアタシは処女だと思ってるから。」 「ウッソ 1 ! 」 とことか兄弟って、そういうものよ。」 さんが「蝶は自然が生んだ芸術だ」という文の芸術の使 い方に場違いな異を唱えたことを書いていたとき私はこれを 後になってだが思い出した、誰もが素通りするところでさ んが止まったのと逆に誰が見たって処女であるはずのない二 十八歳のケバい女を女性を見極めることを職業としている男 が処女だと思っている。 病気だったか事故だったか原因は忘れたが突然 ( 病気なら ゆっくりだったのかもしれない ) 視力を失ったがその人はそ れを認めない、私は見えています、ほらいま先生がしている ネクタイの色も柄もわかります、燕脂の地に細いシルバ 1 の ストライプが斜めに入っていますね、とても似合っています よ、私には全部見えています、と言い張る、そういう信じが たいことまで人の気持ちというのはやってのける、それは超 能力や超自然現象の本ではないのでこの視力を失った人が見 えていると言い張ったネクタイの色や柄が合っていたという ことは書いてなかったはずだ。 彼は彼女のその部屋で冬至をはさんだ何週間かのあいだに 何日も朝目を覚ました、彼女の部屋はマンションの八階で東 に向いていたのでサンル 1 ムのように陽が射し込んだ、暖房 はたしかスチ 1 ムヒ 1 タ 1 だった、ということはマンション の全室共通の暖房システムだった、あの時代にしてもすでに 築年数はだいぶ経っていたマンションだったから一九七〇年 代の前半くらいに全室共通のスチ 1 ム暖房のマンションが流 行ったことがあったのだろうか 彼 ( 保坂 ) と彼女には共通の知り合いがまったくいない、 恋人同士は関係がだらけると共通の友人の x x 君はいま何を している、△△さんはもう結婚して、その相手が誰だと思 う ? 山本先輩だよ ! みたいな話ならまだいい、 職場内恋 愛ならそのまま会社の話のつづきになる、「今日 x x さんが 部長に呼ばれてうんぬんかんぬん」セックスのあとでシャワ 1 入るより先にそういう話をするカップルがうじゃうじゃ、 る、こういうことが私は受け入れられない、だから私は会社 でやった適性検査で帰属意識が「 0 点ーがついた、 セックスのあとすぐに職場の人の噂話をすることがある ( しえどちらとも一言えない し、し 私は当然 えに丸をつけた。 彼と彼女はただ二人が彼女の部屋でもそこのべッドの上で も、レストランや定食屋でも ( 味噌汁が染みた週刊誌がある ような定食屋でなく割烹のようにちゃんとしていた ) 二人が いることだけが二人の接点だった、まったく違う環境を経て きてもメンタリティに似たものがあると話はまったく尽きな かった、大きな大きな歯車が二つあってそれが一つの接点だ けで接して回転する、歯車はとても大きいから接点はなかな か一回転を終わらない、 歯車の歯はまだまだ同じものが戻っ

9. 文學界 2016年8月号

たのたろう ? 戦国時代、駿河のなんとか氏の軍勢と伊勢のなんとか氏の軍 勢が尾張のどことかで合流したという話を聞くと私はそれを と問う人がいたら、答えはこれた、つまり『珈琲のこと 確信し、実際にそうした昔の人の意志に胸が熱くなるほどの ば』というこの本の一ペ 1 ジ一ペ 1 ジ、一ページ一ペ 1 ジ木 不動さを感じる、現代人である私はこう書くそばから私がそ 版で彫られたページが東ねられたこの本それ自体が答えだ、 れを信じなかったと書いたという読み方までされる可能性を 「夜の風景ばかりを描きつづけたこの画家が生涯通じて表現 考えてしまう、意志の伝達とはそのようなぶよぶよしたもの したかったのは彼自身 ( の心の中 ) だったのです。」 ではなかった、だからさんか言った権威はそういうことだ という最近よく出会う言い方が私は大嫌いだというかこれ ったんだろう。 は端的に間違っている、これでは彼自身 ( または彼の心 ) が 意志が明確だったから文字が権威を持った、意志が不明確作品より大きいことになる、彼より作品の方が大きい、大き な時代、伝達手段そのものがグ 1 グルのように権威になる、 いとカ月さいとカそ - フい , フ一一一口い方も本ョはよくないカ禾 ( し もともと文字の権威は意志が確固たるものであったそこから まだそれにかわる言い方がわからない。 来ていた、文字それ自身に権威があったわけじゃない、グ 1 『珈琲のことば』、一ペ 1 ジ一ページが木版で彫られたペー グルはカン違いしないでほしい。文字がペン先という尿道を ジを束ねたこの本が箕輪邦雄その人より大きいかと言ったら 伝って書かれるというイメ 1 ジが将来いっかなくなったとき そんなことはない、私は木版で彫るという言い方をしている 文字を支える尿道にかわるものはあるのか。尿道的支えを失 ここか気になる人には気になるだろう、木版は刷るものだと った文字は権威をなくす運命にあるのか。文字は西洋のペン か、彫るのは木の板だとか気になるだろう、しかし木版を彫 も東洋の筆もインクや墨という液体が紙に吸われて形をなし るで伝わらない人はいよい、 いちいち違和感があるならそれ て文字となった、しかしそれ以前、文字は液体の変形でなく ここで重点があるのは刷ったことでなく彫ったこと 石や板、硬いものを削って記すものだった、 だ、私はここを説明してなかったかもしれないが王羲之の書 ここで私は木版画で文字を彫った箕輪さんの『珈琲のこと を石に彫った拓は地が黒で文字が白く抜いてある、『珈琲の ば』にまるで計算があって戻ってきたみナし ( こ、こ戻ってきた、 ことば』は地は白だ、白いペ 1 ジに活字と同じように字が刷 計算などあるわけがないがそのつどそれに戻るのだとしたら られてある、だからもっと正しく言うなら彫ったでなく、箕 それは本質的な何かであるだろう。 輪さんは字を彫り出した。 箕輪邦雄という一九三一年 ( 昭和六年 ) に生まれた人は十 しかしこれはこれで正しさにこだわると漱石の『夢十夜』 年以上もこの木版の文字を彫りつづけて、何を表現したかっ の中の一つ、昔の仏師は木の中に眠っている姿を彫り出した

10. 文學界 2016年8月号

う。考え方も違う。そんな多様な人々 半数以上が「閲覧ーを維持しているも のの、徐々に「名簿」を提出する自治 がケンカせず、何とかやっていく方法 を模索するのが政治の仕事です。 体が増えてきている。閲覧ならば面倒、政治にできない , ) と 名簿ならばラク、という差に過ぎない しかし、政治は決定的な限界を有し 中島岳志 のだが、もうこれ以上、若者を取りこ ています。世界が平和を享受し、豊か な生活がもたらされても、どうしても ばすのを避けたいだろうから、より的 確な「高三情報」を得る働きを強めて 救われない「一匹」 ( 百人中の一人 ) しくたろ - フ 政治と文学には、それぞれの「場 が存在します。政治は環境を整備する 十八歳の君には、程よいタイミング 所」が存在します。 ことはできます。しかし、存在そのも で自衛隊から募集通知が届く。新聞を のに密着する苦悩までも解決すること 評論家の福田恆存は戦後間もない一 はできません。 開けば、君と同い年のアイドルが、 投九四六年に書いた「一匹と九十九匹 とーの中で、「政治と文学とは本来相 一方、文学は「一匹の失意と疑惑と 票する心構えとは何かを問いつつ、 反する方向にむかふべきものであり、 「心を磨くことーが大事だ、なんて語 苦痛と迷ひ」に肉薄します。政治から っている ( 前出記事 ) 。やつばり君た たがひにその混同を排しなければなら 零れ落ちた「一匹」に手を差し伸べ、 ちは、舐められている気がする。クア 文学者はその「一匹」を通じて、全人欲 ない」と述べています。 イドルに頼み込んでもらうクという 政治は、「九十九匹」 ( 百人中の九十類を見つめようとします。 考 しかし、人は得てして百人すべてを 選択肢しか思いつけない大人たちな 九人 ) を救おうと様々な調整を試みま す んて、ひとまず無視してい ( す。国民から広く税を徴収し、社会的 票 投 たことを思ったままに一一一口い放てばい 弱者に多くを再配分します。対立する 政治は人の心の領域まで侵食してはなり 君 の 。「あなたの可能性へ」なんて言わ勢力を調停し、安定した社会基盤を構 ません。政治には政治の場所があります 歳 れたくないよ、と鼻で笑う選択肢を築しようとします。政治とは、異なる 残すべき。それは君たちの特権だと他者同士の利害調整を行うものです。 田じ、フ 所得も違う。育った環境も、仕事も違 ( 政治学者 )