前 - みる会図書館


検索対象: 文學界 2016年8月号
339件見つかりました。

1. 文學界 2016年8月号

『博物誌』の一章だった。題名はいかにも難しそうだが、赤 毛の少年が主人公の『にんじん』では時代を超えて読み継が れている。前に一度朗読したが、この文章は人を食っている。 たとえ、よ、 〈かたつむり〉 しい天気になると、精いつばい歩きまわる。それでも、 舌で歩くだけのことだ。 い記憶はすらすらと明子の頭の中から引き出されて くるのだ。それからこんなのもあった。 〈ほたる〉 - ( キノ . し 何ごとがあるんだろう ? もう夜の九時、そ れにあそこの家では、まだあかりかついている 「楽しい文章だから喜んでさせていただきます」 「恩に着ます」 鹿小木唯子は明子より少し若いはずだが、古風な言葉を使 。定年退職前は私学の高校の英語教師だったらしいが、そ うは見えない 「わたし、今ちょっとうたた寝してたんです」 と明子は軽い調子で言ってみた。唯子は長いボランティア 仲間の、気持ちの良い女性である。 「そうしたら空を飛んでいたんですよ。変な気持ち。鹿小木 さんは飛ぶ夢見ないですか、空とか : : : 」 何げない調子で聞いてみた。 「飛ぶ夢ですか」 と唯子はやつばり穏やかな声で応じる。 「ええ、わたしも定年前に度々見たことがあります。学級経 営がうまくいってなかった頃です」 その声が少し曇って、 「どうも問題を抱えてるときや辛いときに、夢で飛ぶようで したね」 明子が黙る。大丈夫ですか、と唯子の声がした。 陽はまだ高い 明子は首にタオルを巻き、日よけ帽をかぶった。 綿のゆっくりしたズボンにシャツ。庭仕事をするときは、 朝からこのスタイルだ。ズックを履いて庭に出たとき、ふと 足が止まった。 さっきまで飛んでいたとき、着ている服が風を孕んではた めいていた。それを覚えている。裾の長、にごっこ。 し月ナカこんな ズボン姿ではなかった。家に帰ってその服を脱いだ覚えがな族 飛 疲れと眠気でそのままソフアに体を横たえたのだ 人間は飛びませんよ。 こないだ赤澤千慧子が言った籠もった声が耳に残る。それ

2. 文學界 2016年8月号

教科書 改憲が焦点となり、選挙権年齢が絽歳からに 引き下げられる選挙を前に知っておきたいこと 民主主義の 大型特間歳以上全有権者必読 !

3. 文學界 2016年8月号

『珈琲のことばー木版画で味わう囲人の名一一一一口』という本が みのわ 著者の箕輪邦雄さんから送られてきた、私は箕輪邦雄さんを 著者といっても製 知ってる、読者は誰もこの人を知らない、 作者という方がいいかもしれない、奥付は「著者箕輪邦雄」 これは変わった本で言葉だけで説明すると大変だ、実物が あれば「ほら」とそれを開いてばらばらペ 1 ジをめくれば一 目でわかる、もっともその一目でわかる、一目暸然というそ れかわからない人にはまったくわからない、私はわからない 「ほら、これ全部、活字じゃないんだよ。 彫られた文字 全部、木版画で字を彫ったんだよ。」 「『木版画で味わう』って書いてあるもんね、 わからない人にはわからない、私は嘘をいま言ってるわけ じゃない、わかる人には一目瞭然なものがわからない人には わからない、目の前にあるのにわからない、見えているのに 見えない、あるのにないと言う。 わからないというのかどういうことか私はわかる、もうず いぶん昔、たしか三十年ちかくも前イキリスに行った知り合 いが私にお土産に猫のイラストがふんだんにある本をくれた、 それはオスカー・ワイルドの名言を一ペ 1 ジごとに全部、猫 の視点で言い替えたものになっている、私はこういうおしゃ 保坂和志

4. 文學界 2016年8月号

評論 日韓両国を騒がせたドラマ 時々新聞や雑誌で、一般読者にやや馴染みの薄い作家の名 前を見かけます。主に日本の作家、それも普通大衆作家に分 類される者たちで、司馬遼太郎もその一人です。司馬は韓国 でよく読まれている作家というわけではない。にもかかわら ず新聞などで異常なくらい彼の名前を見かけます。どうして でしようか。おそらく、ある程度年配の言論人の多くが日本 文化や日本の事情に通じており、それが韓国国内の状況につ 、て語るときに、有用な比較の対象になるからでしよう。 韓国人は司馬遼太郎をどう読むか 高井修訳 ジョ・ヨンイル ところが、最近しばしば彼の名前があがるのには別の理由 があるようです。少し前に私は、新聞紙上で次のような記事 を見かけました。 日本の国民作家として定評がある歴史小説家・司馬遼太 郎 ( 一九二三ー九六 ) の長編『坂の上の雲』 ( 一九六八連載 開始 ) が、日本の公共放送でドラマ化される。二 〇〇九年十一月から十二月まで第一部 ( 全五回 ) が放映さ れ、二〇一〇年と二〇一一年十一一月に第一一部と第三部がそ れぞれ放映される予定だ。同作品は日本の近代化が進んで いた明治中期に勃発した日清戦争 ( 一八九四 ) と日露戦争

5. 文學界 2016年8月号

にまとめたことも知らなかった。また、彼が私の本を数多く 訳していることさえ知らなかった。その人、ジョ・ヨンイル ( 一九七三年生まれ ) に初めて会ったのは、東日本大震災の少 し前にソウルに行ったときであった。しかも、私が論争のお およその内容について知ったのは、一年ほど前に、ジョ・ヨ ンイルの友人で韓国語による人気プログを主宰する高井修に よる翻訳草稿を目にしてからである。私が特に興味を抱いた のは、その続編といってよい『世界文学の構造』 ( 2011 年 ) の翻訳草稿を読んだときである。そこに、関連はするも のの、私とは異質の関心事や斬新な洞察を見いだして私は驚 いたそれは、韓国の文脈、というより日韓の文脈の差異を 通してのみ見えてくるものだ。 「文學界」に掲載されるのは、『世界文学の構造』の第四章 である。この章だけを独立した論文として読んでも理解でき ると思うか、その前までに書かれたことを知らないと誤解 ( 陥る恐れがあるので、少し説明しておきたい。 韓国で近代文学は終っていないという多数派の主張に対し て、ジョ・ヨンイル ( よ、そもそも韓国に近代文学はなかった、 という。彼の考えでは、近代文学は、ナショナリズムを経て 帝国主義にいたるまでの歴史的過程を経験したところに発展 する。ゆえに、韓国に近代文学は無かった。もともと無かっ たものが無くなるわけがない。そのようなことを次々に言い 放っ書物が、韓国で激しい攻撃にさらされただろうことは、 容易に想像がつく。 しかし、彼の主張は実は、私にも思いもよらなかった観占 である。日本の近代文学に関して、確かに私はその起源を、 ( ナナカ私は、近 日清戦争や日露戦争の「戦後」に見、ごしこ。。、、 代文学が本質的にそのような帝国主義戦争と深く関連すると いう点を考えたことがなかった。一方、ジョ・ヨンイルはこ の認識を進めて、西洋諸国の「近代文学」もナポレオンの帝 国主義的な世界戦争のあとに、一種の「戦後文学」として成 立したのだという。その意味で、彼は近代文学を日本や韓国 だけでなく、「世界文学の構造」においてとらえようとした のである。私は「世界史の構造」について考えたが、文学に 関して世界的あるいは世界史的に考えたことがなかった。彼 て がいう「世界文学の構造」は、その点で、私にとって啓発的 6 であった。 したがって、私がジョ・ヨンイルの著作を日本に紹介した構 みびいき いと思ったのは、べつに身贔屓からではない。彼のいうこと文 がク柄谷理論の応用などというものでないことは、一読す紲 れば明らかだろう。大胆不敵な鋭い省察を見て、この人は批墸 ン 評家だ、と私は田 5 った。そんなふうに田 5 うことはめったにな 本書は韓国文学を理解するために、あるいは日本文学を 理解するために役立つだろうが、そんなものを越えて、何し ろその認識が読んでいて痛快なのだ。そのことはこの章を読 むだけでも、納得できるはずである。

6. 文學界 2016年8月号

「オ・ネ・ガイツ ! 」 チラホラと帰る人も出始め、空のジョッキや皿を女性編集 者がまとめ、連なっていた卓も元の位置にもどり、正体のな いオジさんカメラマンとそれに付き合う新人、何やら相談を 始める編集長とライタ 1 。忘年会も終盤。もう今年が終わる わたしは、マイコさんに背中を押されカウンタ 1 についた ハイトくんは、皿を洗っていた。 「ご注文ですか ? 」 「いや、あの : : : 三年くらい前に会ったことがあるんですけ 「 , ん ? ・どこで ? ・ 「ココで。」 「いや : : : えっといつだろう。」 「あの : : : わたし文雄の友だちで。」 「えっ ! そうなの ? 「そう・ : ・ : ココで知り合って。」 「・ : ・ : ああ 5 。覚えているかも。お持ち帰りされた : 「えっ ! 安藤さん ! そんなことあったんですかー されてない ! 「ちか - フ ! その後文雄は戻ってきたでし 「そうでしたつけ ? 「そうよ ! 送ってもらっただけで : ・・・・。」 つ、」 0 「文雄さん、昨日来ましたよ。」 「そうなの」 「ええ。静さんと。お祝いで。」 一瞬、身体がビクッと反応してしまった。もしかしたら、 マイコさんにも、、ハイトくんにも、ハレたかもしれない 「いや、わかんないんすよねえ。仕事仲間らしいんだけど。 文雄さん、賞獲ったんですよ。よく知らないんですけど、映 画かなんかのカメラやって。」 「ふうん : : : 。」 「行きます ? 受賞パーティ 1 あるらしいっすよ。」 「一一一口っときますよ。文雄さんに。名前なんでしたつけ ? マイコ : 「安藤さん、なんでわたしの名前言うんですか。」 : 冗談・ : ・ : シオです。シオで : : : わかると思う。 たぶん。」 「了解で 5 す。」 ( しカー ) 、ら マイコさんは、二次会からだったら潜入しても、 とちゃっかり、ハイトくん : : : 本当はバイトじゃなくて社員に なっていたイカリくんと飲む約東をとりつけていた。 わたしは、その後、店の前で吐いた。 〈つづく〉 尹 0

7. 文學界 2016年8月号

律子の一人娘である千鶴が、この相楽に惚れている。 もちろん相談などしてくれないが、毎日狭い事務所で一緒 に働いていれば、そんなことはすぐ分かる。だが、その手の 事に極端に鈍感な夫は気づいていない。律子としても、教え るつもりはない。ただ千鶴の熱が早く冷めてくれるか、どち らかが早く会社をやめてくれればいいのにとっている。 おそらく相楽にとってはたった一度の過ち。でも千鶴には 運命の出会い 律子は「よいしよと自転車をこぎ出した。家の前は急な 上り坂道で、電動機付きでもなかなかこたえる。この坂道を 登ると、新宿通りに出る。右に折れ、四谷四丁目の五差路を 越えれば、すぐに新宿御苑の大木戸門に着く 駐輪場に自転車を止め、チケットを買って園内に入る。そ の途端、しばらくやんでいた風が立ち、園内の樹木を大きく 揺らした。風に揺れる大木が、曇天の低い空に触れているよ , フに見 , んる 律子は園内のべンチに腰を下ろすと、ぐるりと辺りを見回 した。喉が渇く。入園する前に水を買っておくべきだったと 後悔する。 目の前に三十メートルはありそうな立派なユリノキがあっ 太い幹がすらりと伸び、こんもりと濃い葉々を茂らせて 律子は携帯のカメラをこのユリノキに向けた。いつものよ うに木の上のほうへ向け、曇天の空とユリノキだけが写るよ - フにす・る 風が立つのを待ち、ビデオ撮影を始める。画面のなかでゆ つくりと葉が揺れ始める。 それは本当にゆっくりとした動きで、一枚一枚の葉が思い 思いに動く。同じ風を受けているのに、それぞれが勝手気ま まに動く。葉の形のせいだと分かっていても、何百、何千と いう葉が勝手気ままに動く姿にはいつも目を奪われる。 娘の千鶴は大学を卒業後、一度は中堅の広告代理店に就職 したが、何か思うところがあったらしく一年で退職し、一一年 間のロンドンへの語学留学を経て、帰国後は父親の会社を手 伝っている。 「わざわざロンドン留学までしたのに、うちの手伝いでい ( の ? 」と律子は心配するが、「だって、語学留学くらいじゃ、 別に就職に有利でもないし」と千鶴は身も蓋もないことを言 千鶴が惚れている相楽には妻子がある。今年、七歳になる 相楽の娘は先天性の脊椎の病気があり、重障の部類に入る障 碍児だという。なんでも以前はずっとあぐらをかいたままだ ったのだが、子供にはつらい何度もの手術に耐え、現在は松 葉杖でゆっくりとなら歩けるようになった。だが、相楽の話 によれば、完全快癒は難しいらしい 女 の 「転んだら僕が抱き起こします。階段なら僕が背負います。 痛いと言えば、一晩中だって僕が足を摩ります。でもね、人住 工膀胱を腰に吊るしてるあの子を見るとね、なんだか悔しく あれだけはかわいそうで見てられないんです。あれ ごけは、僕にも、悔しくてたまらない :

8. 文學界 2016年8月号

つ、」 0 わずか数行ですが、ここで私たちは誤謬を五つ取り出すこ とができます。 ( 一 ) まず叙述者は「「松下政経塾」として知 られる松下村塾」という表現を使っていますが、最近有名政 治家と財界人を多数輩出することで有名になった松下政経塾 は松下電器産業の創業者であり「経営の神様」と呼ばれる松 下幸之助 ( 一八九四ー一九八九 ) が一九七九年に設立した人 材養成所であり、百年も前に設立された松下村塾とは何の関 係もありません。 ( 一 l) また彼は「松下村塾は日本開国派の 先駆者である吉田松陰が建てた私塾であり」と書いています が、松下村塾は吉田松陰の叔父であった玉木文之進が設立し た ( 一八四一 l) 私塾であり、吉田松陰も幼い頃ここで学びま した。もちろん以後彼がそこを引き継いで優秀な人材を多く 輩出したのは事実ですが ( ただ安政の大獄で処刑されたので 彼が実質的に運営した時期はほんの一年間 ( 一八五七ー一八 五八 ) にすぎない ) 、彼が建てたとむやみに言うのは事実と 大きくはずれていると言えます。 また彼は吉田松陰が松下村塾で蘭学 ( オランダ語 ) と英語 をはじめとする西洋文物について教えたと一言うのですが、 ( 三 ) まず「蘭学」とは彼が補足説明するように「オランダ 語」を指すのではなく、江戸時代にオランダを通じて入って きた西洋の文化や技術を研究する学問を指すものであり、事 実上「洋学ーに近い意味でした。それが当時「蘭学」と呼ば れたのは、江戸幕府が布教をしないオランダにのみ制限的に 交易を許可してー強力な鎖国政策が維持されていた時期で したーオランダが事実上西洋文物に接する唯一の通路だっ たからです。 そして ( 四 ) 吉田松陰が師匠である佐久間象山に蘭学を学 んだのは事実ですが、条件上彼がオランダ語や英語を他人に 教えるほどであったとは考えにくく、松下村塾が有名になっ たのは単純に西洋文物を教えたからというよりは、師匠が一 方的に弟子に教えるのではなく弟子と師匠がともに意見を交 わすという教育方針をとっただけでなく、知識伝授以外の授 業や登山をともにすることにより「生きた学問」を志向した 点にあります。 またイ・ムニョルは ( 五 ) 「伊藤は吉田松陰を尊敬し、松 陰からも寵愛され」たと書いているのですが、前に司馬遼太 郎が言及したように思想家というよりは現実主義者であった 伊藤は師匠の吉田松陰からにらまれており、伊藤もまた師匠 をそれほど尊敬していませんでした。このようにそれほど長 くない分量で五つもの誤謬が見いだせます。この間違いは意読 図的なものでしようか。でなければ単純な手違いでしようか を 周知のとおりこの小説は《朝鮮日報》に連載されたものです。 多くの読者や、編集者によって本になる前に修正する機会が 一口 あったのに、それがまったくなされなかったのはひょっとしは て近代日本の巨人伊藤博文によって安重根の存在感が薄まら国 ないように私たち全員が自動的に ( 無意識的に ) 没理解とい う機制を作動させたからではないでしようか ここで浮かぶもうひとつの疑問は、次のようなものです。

9. 文學界 2016年8月号

『不滅』ではまわりでどんなことがどのように進行している のかよくわからない ( 作家が介入して詳しく説明をしてもな おわからない ) 。それはひとまず安重根の狭い視野と関係が あるのかもしれませんが、それ以上になぜこのようになって しまったのかよくわからないまま滅亡に向かう、朝鮮という 国の限界と関連があるでしよう。 安重根は自分が何をしなければならないのかよくわかって いましたが、 その行為が正確にどんな意味をもっているのか、 またそれによりどんな結果が導かれるのかの予測につねに失 敗する。なぜか。それは日本という国家と争っていたが、彼 自身は国家ではなかったからではないでしようか。実際、当 時はまだ国家というもの自体が存在していない時期であり、 彼が国家に対する明確な観念をもっていたのかさえ疑問です。 個人と国家の対決は常識的に不可能です。しかし、事前 ふたつの前提が与えられれば必ずしも不可能ではありません。 第一に「思想」を媒介とすること。しかしそうするためには 自分の「現実感覚」をまず返納しなければなりません。第二 、対抗しようとする国家をそれを代表する個人で代替する こと。しかしこの場合も依然として問題が残る。すなわち、 当時伊藤博文は日本という国家に必ずしも必要な存在ではな かったのです。彼はたしかに日本という近代国家を作った人 物ですが、日露戦争を起点に彼が作った国家はすでに彼の統 制から離れて自ら動く存在になっていました。安重根が対決 したのは日本という国家というよりドン・キホ 1 テの風車だ ったのかもしれません。 夏目漱石と伊藤博文 ここで私たちは夏目漱石を呼び出してみます。私はこの節 の題を「夏目漱石と伊藤博文」としましたが、それはふたり のあいだの関係をあらためて強調しようとすることではない。 実際にふたりは遠くからでもお互いを見たこともありません。 しかしまったく虹 ~ 縁かというと必ずしもそうとも言えない 日本紙幣を見ると、もっとも多く使われる千円札の場合、現 在野口英世という科学者が描かれています。少し前まではそ こに夏目漱石がいました ( 一九八四年から二〇〇四年まで ) 。 漱石の前は誰だったでしようか。まさに私たちが問題にして いる伊藤博文 ( 一九六三年から一九八四年まで ) でした。事情 はどうあれ伊藤博文が夏目漱石に自分の座を譲ったというわ けです。偶然だと言わねばならないかもしれませんが、明治 の元老だった伊藤博文は紙幣のモデルとして日本の高度成長 む 期をともにし、神経症患者だった漱石はバブルがはじけ長期川 沈滞に陥った憂鬱な日本をともにした。もちろんそれは彼ら を の意志とは無関係になされたことでした。 にもかかわらず私がこのふたりを並べて置くのは、安重根馬 司 のせいです。夏目漱石は一九〇九年に同窓生だった満鉄総裁 中村是公に招かれて約四十日間 ( 九月二日ー十月十四日 ) 満国 州と朝鮮を旅行した。そして帰国してまもない十月一一十一日 から『満韓ところどころ』を新聞に連載します。ところが連 載が始まるやいなや、彼もまた少し前に訪れたことのある哈

10. 文學界 2016年8月号

を試みようとして、相対的に認知度が低い作品を多く入れる ほかなかった。その結果市場から冷たい反応がかえってきた。 文学トンネ内では「村上春樹を売って儲けた金で『世界文学 全集』を出している」と言われるほどだそうです。 そうなるとファンサービスという点で多少傲慢な村上春樹 ( 9 ) ですが、彼は文学トンネという出版社を通じて韓国読者に立 派なサ 1 ビスをしているというわけです。彼のおかげで韓国 の読者は相対的に知名度が低い世界の名作に出会うことがで きた。韓国最高の文学出版社がひとりの日本人作家を頼りに しているのはたい へん皮肉なことだと言わざるをえません。 しえ、見方によってはこれが正常なのかもしれない。韓国の 読者はすでに日本の小説によって占領されて久しく、村上春 樹はその占領の象徴的な存在として逆に韓国人の原本に対す るノスタルジーを充足させてくれているのですから。 私は少し前に、最近起こっている村上春樹再評価 ( 正確に はカミングアウト ) の動きを問題にしたことがあります。わ ずか数年前はタブー視されていた村上春樹に対する愛情表現 ゞ、いまはいっそんなことかあったのかと言うように露骨 ( なされている。そしてこれは日本文学全体に対する再評価に 結びついているように見えます。にもかかわらずその動きか ら除外されている人がいて、それが司馬遼太郎です。彼はな ぜ救われないのでしようか。結論から言えば、私はふたりの 作家に対する韓国人の相異なる待遇が実は「裏返ったかた ち」で互いに結びついていると考えます。 韓国で村上春樹が幅広く受けいれられたのは、彼が韓国に オリジナル ( 川 ) 無関心であったためです。したがって、韓国人としては彼と 「倫理的に結びつく余地がそもそもなく、純粋に「文化的 に」対することが可能だった。これに対して司馬遼太郎は歴 史小説の運命上必然的に韓国人と「倫理的に」結びつくほか ない関係におかれていました。前に言及したように、韓国人 は他のことはどうでも「倫理的な面でだけは日本に先んじ ることができる特権を持っていると考えます。それゆえ、司 トよ韓国で文学的次元というよりイデオロギ 1 馬遼太郎の / 説 ( 的次元で一方的にしりぞけられるのかもしれません。 3 司馬遼太郎と韓国 では、はたして司馬遼太郎は一方的に批判を受けねばなら ない作家であり、また彼の代表作『坂の上の雲』は韓国人な ら心ゆくまで唾を吐きかけてもいい作品なのか。結論から言 えば、私はそれに同意しかねます。もちろん、司馬遼太郎の む すべてを肯定するのではありません。たしかに彼は韓国人が読 聞きたい言葉を言わない人です。逆に被害者の立場で聞くと を 多少気に障る話をたびたびします。ひとっエピソードをあげ るなら、次のようなものです。 馬 一九八八年に第一回新潮学芸賞受賞作として角田房子の国 『閔妃暗殺ーー朝鮮王朝末期の国母』が選ばれたとき、当時 選考委員であった司馬遼太郎がこれに関して多少長い審査評 を書いた。日清戦争 ( 一八九四ー一八九五 ) と日露戦争 ( 一九