小説 - みる会図書館


検索対象: 文學界 2016年8月号
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1. 文學界 2016年8月号

片岡義男の短編小説における物語とは何か。は「展開させるにはこの電話に出ないといけ 1 テンダー、ただし明らかにその「息子」が ーテンダーになっていたイラストレ 1 タ かっての片岡作品には、まだ何物でもない ない」と電話を取るのである。 歳前後の若者たちの日常が描かれていた。犯 2 人の行動は、小説の実験である。彼は、 1 は言う。示説にしてくれよ」。小説家は答 罪小説的な奇抜なことが突然、降ってわいた 小説家、彼女は漫画家。ここまでの展開をそ える。「ならないよ」。 りはしない。日常の中から立ち上がる物語がのまま記すことで短編小説として成立するの たが、イラストレーターは、実は 3 度同じ 1 こ一丁亠こ 存在した。だけど、その物語って何 ? 本短か否か。それを電話で呼び出した担当編集者 ( 彳ナ話を隠し持っており、それを語 編集が示すのは、そんな片岡の「物語」の成に判定してもらうというところで物語は終わり出す。その中身によって、短編小説は成立 る。題名は「アイスクリ 1 ム・ソーダ」。 立、非成立を巡る境界線である。 するのか。もし、しているのだとすれば、彼 巻頭で掲載される短編小説は、歳の男と 一方、表題作の「ジャックはここで飲んでのエピソードのどの部分が物語の成立のポイ ントだったのか ? 少し若い女が、喫茶店で初対面にもかかわら いる」は、イラストレ 1 ターが、とあるバ ず、ふたりでソーダとアイスクリームを買い で女性編集者、友人の小説家とバ 1 ポンを飲 クこれは物語として成立しているのか ? クそ に出かける話である。 みながら「俺が語る話を小説 ( こ書いてくれ」れに悩むのは短編小説を読んでいる読者以上 2 人は、彼女の自宅にたどり着く。なぜそ としゃべり始める 小説家自身だ。その疑間がそのまま提示 ういう状況になったのか説 , 得的な説明はな イラストレーターは、ある地方都市に仕事され、そして、読者をも翻弄しながら物語を 、。丕女定な展明そして、シャワ 1 を浴びで出かけた折りに「素晴らしい」バ 1 を見つ目の前で成立させてしまう作家という仕事、 始める彼女。そこに、部屋の電話が鳴る。彼けた。 1 年経って同じバ 1 に行くと、別のバ本当に恐るべしである。 「ジャックはここで飲んでいる 片岡義男 「物語」の境界線 速水健朗 ジャックは ここで 飲んでいる 片岡義男 あの頃はもうないけ、 そ 0 続きを生きることはできる 文藝春秋 18 開円 + 税

2. 文學界 2016年8月号

野杯物小説集曵 精緻な文体が織りなす、澄明な世界ー芥川賞受賞作「草のつるぎ、 野呂邦暢小説集成 1 定価 2 800 円 ( 税別 ) 野呂邦暢小 諫早 棕櫚の葉を風にそよがせよ 内なるアメリカを描いた第一作「壁の絵」ほか、初単故郷・諫早の歴 行本化短篇一一篇、エッセイ「諫早探訪」 ( 青来有一 ) 収録。 小説群。初単行本化短篇四篇収録。ェッセイ・池内紀 野呂邦暢小説集成 6 定価 3300 円 ( 税別 ) 野呂邦暢小説集成 2 定価 3200 円 ( 税別 ) 猟銃・愛についてのデッサン 日が沈むのを 一冊の古書の謎と秘められた過去ーー後期の傑作に 干潟の原初的な沈黙ーー「鳥たちの河口」ほか、初単 加え、初単行本化短篇十篇収録。ェッセイ・福間健一一 行本化短篇一一篇、エッセイ「幻の戦争」 ( 宮原昭夫 ) 収録。 野呂邦暢小説集成 7 定価 3600 円 ( 税別 ) 野呂邦暢小説集成 3 定価 3000 円 ( 税別 ) 團水瓶座の少女 草のつるぎ 謎を秘めた同級生の少女、少年の思慕と死への衝動 新人自衛隊員の日常を描き芥川賞を受賞した表題作 幻想小説・ジュニア小説など、多彩な後期傑作群。 ほか、連作小説「水辺の町」初収録。ェッセイ・堀江敏幸 「水の中の絵馬」「飛ぶ男」 野呂邦暢小説集成 4 定価 3300 円 ( 税別 ) 「島にて」「顔」「幼な友達」土 冬の皇帝 「水のほとり」「神様の家」 遊 東京での日々を描いた自伝的な表題作からミステリ ほか初単行本化作品十三 までを収録。初単行本化短篇七篇。ェッセイ・川本三郎 篇収録。 = ッセイ・坪内祐一一一文 をいタま と広クとコ 7 ・世にマ、′ 1 し 〒 113 ー 0033 東京都文京区本郷 4-9-1 ー 402 TEL: 03-3 5-7740 FAX: 03-3815 ー 8716 http://www.bunyu-sha ・ jp

3. 文學界 2016年8月号

由を最大限享受しながら『坂の上の雲』は書かれたわけです。 るものでもあります ( 実際中盤部を越えてからは前半とは違 ところが結果的にこの作品は大衆作家という彼の作家的位置 い小説というより戦争ノンフィクションに近づきます ) 。『坂 とは関係なく彼を「国民作家」として屹立させます。 の上の雲』は文学的にはそれほど成功した作品と見ることは できません。後半に行くと話題が戦争の過程に没入しすぎる 8 韓国の国民作家 ? 小説としての安重根 あまり、他のことをすべて放り出しているという感じをぬぐ い去れない。彼の「没入しすぎ」に何らかの底意を探すのは 先述のキム・ティクはコラムを次のように終えています。 もしかすると当然なことかもしれません。 だから前に言及したように司馬遼太郎も単行本を出すたび 日本のある評論家は「民族の物語を記憶できない民族は に長いあとがきをつけて不必要な誤解を遮断しようとしたの いっか減びる」と言った。い ま日本の国内外の事情は日露 でしよう。多くの人はこのあとがきを文学の外的なもの ( 贅 戦争の勝利の記憶を思い浮かべ、その時のエネルギ 1 を取 言 ) とみなしそれほど重要に扱わなかったようです。しかし、 り戻さなければならないほど切迫しているのかもしれない。 私はこれを本文と有機的に結びつくものとして、すなわち小 しかし日本は戦争の結果として強制合併の国辱を受けてか 説の一部として見なければならないと思います。彼にとって ら今年で百年を迎える隣国の立場を少しは慮っているのだ 小説とはこのようなものまで全部含めるジャンルであったか つつ - フカ らです。 む ここで私が注目したいのは「民族の物語」 ( または国民叙読 小説という表現形式のたのもしさは、マヨネーズをつく るほどの厳密さもないことである。小説というものは一般事詩 ) という表現です。近代文学が発達した国の特徴のひと を に、当人もしくは読み手にとって気に入らない作品があり つはその国の国民叙事詩をもっていることだと言えるのです えても、出来そこないというものはありえない。 が ( ロシアの場合は『戦争と平和』、日本の場合は『坂の上馬 の雲』 ) 、韓国にもそのような作品が存在しているでしようか そういう、つまり小説がもっている形式や形態の無定義、 すぐに思いつく『林巨正』と『張吉山』は盗賊小説の枠を大国 非定型ということに安心を置いてこのながい作品を書きは じめた。 きく外れておらず、『土地』は家族史小説という形式に縛ら れており ( 後半に行くほどその関係が緩くなり、そのために また別の問題が発生します ) 、『アリラン』はあまりにも受難 「一般的な意味での文学性」を犠牲にしてまでも、小説的自

4. 文學界 2016年8月号

9 0 と撫でする。 店を出ると目の前が地下鉄の駅だっ たので、帰りは東池袋駅から有楽町線 に乗って戻った。 『こころ』はかなり青臭い小説だし、 教科書に載っていて一般的過ぎるとい うこともあって、大人になってからこ の作品を褒める人に私は出会ったこと かない。今、読み返してみたところ、 やつばり、「小説としての完成度が高 いーたとか、「画期的な作品」だとか といった感じはしないので、褒めづら でも、高校生だったときには、私は この小説を教科書で読んで、かなり夢 中になった。 「精神的に向上心のないも のは、馬鹿だ」という科白が好きで、 友人との会話や交換日記の中で、何度 も引用した覚えがある。 この小説が、十代の心をわしづかみ にする理由は明白だ。男女の恋愛を描 112

5. 文學界 2016年8月号

爾浜駅で伊藤博文が安重根に暗殺される事件が発生します 日後 ) に設定されて二面に載った記事を約四ヶ月前に起った ( 十月二十六日 ) 。そして二ヶ月後『満韓ところどころ』は十 暗殺事件から見るように作られています。そして小説の中の 二月三十日付で突然中断される ( 偶然かもしれませんが彼の 話も安重根が処刑される頃に終わります。 旅行記は哈爾浜以前である撫順部分で終わっています ) 。 そして内容的に見ると主人公である宗助の財産を彼の叔父 それから二ヶ月後、つまり翌年の三月一日から漱石は『門』 が横取りすることと、その叔父が死ぬことは、朝鮮が日本に しゆかい を《朝日新聞》に連載し始めます。同じ年の六月十一一日に完 よって簒奪される過程と、その簒奪の首魁であった伊藤博文 結したこの小説は『三四郎』 ( 一九〇八 ) 、『それから』 ( 一九 の死を思い浮かべさせもする。だから若松伸哉のような研究 〇九 ) とともにいわゆる《前期三部作》をなす作品です。私者は『門』 という作品を解釈する鍵として自信たつぶりに たちの立場でこの作品に注目する価値があるのは、ひとまず 「安重根ーを語っています。のみならず彼はこれを同じ時期 満州旅行後はじめて書かれた小説として作品内に伊藤博文に 森鵐外によって翻訳されたアンドレ 1 エフの小説『歯痛』と ついての言及があるという理由からですが、一方では作品的 結びつけもします。この小説はあるエルサレムの商人が、イ に言及はされていないが作品全体に安重根の影が色濃くさし エスが十字架にかけられたことを見ても歯痛のせいで顔を背 ているという一部の主張のためでもあります。 けるという内容なのですが、ここでのイエスの死は安重根の たとえば「伊藤博文暗殺」後の三月一一十六日に、旅順刑務 死を意識したものだと主張します。そういえば『門』にも主 所で死刑が執行されるまで安重根という名前はほとんど一日 人公宗助が歯痛をこらえきれず歯医者に行く場面が出てきま す。 も欠かさず日本の新聞に登場したのですが、漱石が専属作家 をしていた《朝日新聞》も例外ではありませんでした。とこ しかしこの解釈には少なからぬ問題が存在します。まず ろが興味深いことに安重根についての記事は当時主に二面を 「信じていた誰かに裏切られるモチ 1 フ」は漱石の小説に頻 飾った反面、漱石の『門』は正確にその次の面である三面に 繁に登場するものであり ( たとえば代表作『こころ』 ) 、もし 連載されていました。したがって読者は本意ではなくこのふ 『門』をそのように解釈できるなら ( 説得力がまったくない たつの記事を重ねて見るほかなかったでしよう。もちろんこ というわけではありませんが ) 、他の漱石の小説にも同じ解 こには多くの漱石研究者が指摘したように『門』という小説釈が導き出されねばなりません。しかしそれはどう考えても そのものがそのように重ねて見ることを促す面もあります。 無理です。そして『門』で問い直されているのは「なぜ暗殺 この作品は伊藤博文が死んで約四ヶ月後に連載が始まった作 されたのか」であって「なぜ暗殺したのか」ではありません。 品ですが、小説の中の時間は暗殺事件の頃 ( 正確には五 5 六 「暗殺された者」が問題になっているのであって「暗殺者」 ルビン

6. 文學界 2016年8月号

( 一九〇四 ) を主な背景とし、十九世紀末から二十世紀初 頭の東アジアの急変する国際情勢における日韓関係を詳細 に描写している。 歴史小説と歴史書は、どちらも史実に基づいて書かれる が、読者も違えば、書き手ー小説家なのか、歴史家なの かーーも異なる。当然、それによって一般国民の歴史意識 に大きな影響を及ばす。また、歴史をどう解釈するか、史 実にどのような価値を与えるかも書き手によって異なる。 司馬遼太郎の死後、歴史小説に内在している彼の歴史観が 研究者によって「司馬史観ーとしてとりあげられ、現在ま で脚光を浴びている。まさにこの司馬史観の集大成が『坂 の上の雲』である。日露戦争の勝利を称揚し、栄光の明治 国家を作った人物たちにスポットライトを当てたフィクシ ョンであり、現在まで約一八〇〇万部売れたベストセラ 1 だ。司馬遼太郎は同書で一八九四年の日清戦争が、朝鮮の 地理的位置が大きな要因となって起ったと主張している。 半島国家という存在が維持しにくいという司馬の理論を、 ドラマは濾過することなく伝えている。また、ロシアが一 九〇〇年に清の「義和団事件」以後満州に駐屯することに より、朝鮮半島の植民地化を積極的に推進したのだが、こ のロシアの危険な南下政策に日本が対抗することで起きた 日露戦争を、司馬遼太郎は「祖国防衛戦争」と呼んでいる。 このような司馬史観を大衆にアピ 1 ルするの企画 意図は次のようなものである。「『坂の上の雲』は明治国民 の一人が少年のような希望を抱いて国家の近代化に邁進し、 国家の存亡がかかった日露戦争を克服した「少年の国、明 治」の物語であり、現代の日本と同じく、新しい価値観の 創造に苦悩し奮闘した明治という時代の精神が生き生きと 描かれている。同作品に込められた明治は、日本がこれか ら進む道を示す大きなヒントをもたらしてくれるに違いな つまり明治の復活というわけだ。富国強兵をスローガン に坂の上の青い空の雲 ( 希望と目標 ) に向かってひとつに なった明治期の日本的精神を、この大衆小説は想起させる のである。明治は日本では領土拡張の時代とみなされてい るが、隣国からは侵略の時代と認識されている。日本国内 では明治の復活が国民に希望を与えてくれるとしても、 我々の耳には苦々しく響く。韓国併合百年を迎える二〇一 〇年に大衆媒体で日本国民を刺激する歴史小説の威力を、 我々は注意深く見守るべきではないか。 む 読 多少長めに引用しました。右の記事でわかるのは大まかに 言ってふたつ。第一に、でその小説をドラマ化するこ を とによりふたたび司馬遼太郎プームか起こっているというこ と。第二に日露戦争を称揚し明治国家を作った人物をクロー 馬 ズアップする『坂の上の雲』を、日本の公共放送である が放送するのは問題があるということです。ここにはもち国 ろん『坂の上の雲』をめぐり形成されている日本の雰囲気が 穏やかでないという立場が表明されています。それは日本の 軍国主義化 ( 右傾化 ) の延長線上にあるように見え、東アジ

7. 文學界 2016年8月号

のだというイメ 1 ジが箕輪さんのしたことにつかないか ? 箕輪さんは木の中に眠っていた、あるいは埋もれていた文字 を彫り出したわけでない、箕輪さんは文を彫った、もっと言 えば文章を彫った。深沢七郎は小説なんてものは作家がひり した、こ , フい - フことを一言われる 出した糞みたいなものだと書、 と、作品は作家その人より大きいという言葉がグサリと刺さ れ、そんな言葉は一気にきれいごとになる、 「小説を書くのはオナニーするようなものだ。小説家はそれ が必要だからするが、あんなもんザーメンと同じだと思えば、 自分はそれでもまだその人の書いた小説をありがたがる覚暦 があるか ? と胸に手を当てて考えてみるがいし と深沢七郎は言ったわけではないが言ったのはだいたいそ ういうことだ、深沢七郎の露悪趣味またはリアリズム、露悪 的な言い方はロマンティックな考え、その人が一人でいる時 間の内面を大切にする言い方を踏みつけにすると見えるが露 悪的な言い方がそもそも踏みつけにされた人の口から出るも のじゃないのか、深沢七郎は作品も残した言葉もヒンヤリし ている、あの人の目こそ冷酷という一一一口葉にふさわしいと私は いつも感じる、それでもすべてそれだけでできてる人がいる これはまったく深沢七郎が露悪的でひんやりしたリアリズ ムだけの人だったわけではないと言ってることにならない、 ならなくてもそういうものだ、十年以上も木版で文章を彫り つづけた箕輪さんには芸術は人の立っ足元の深淵の深さを指 し示すものでなく人が生きるその人のまわりを包む工 1 テル のようなものとしてある、こういうことは一一者択一でなくど ちらでもありうる、どちらが正しいとそんなことにこだわっ ても意味がない。 一日三時間 一人の人が十年以上も木版画を彫りつづけた か四時間かそんなものだろう、七十すぎた人に一日八時間も ( ナししち一日八時 十時間も彫りつづけるのは無理だ、それこご、、 間もつづけたら労働になってしまう、それは創造行為から外 れる。私より二十歳くらい若い知り合いの君はロシア語が できて、三十歳になる前後に五百ページちかい小説を訳しき 「日曜日だけ、写経するようにこっこっ訳しました。」 と君は写経したこともないくせに言って、私は写経する のを見たこともないくせにその言葉に納得した、写経という だけで通じ合うこの、日本人の共通了解は何なのか、写経が いっからそんな広く共有されるイメージになったのか、お寺 が日曜の写経をやるようになったのはいつだったか、八〇年 代の半ばくらいだったとするとバブル期とリンクする、リン クすれば話は筋が通って面白いだろうがするかどうかわから 十 / 。し 君が「写経するように」と言ったように箕輪さんもそう 字 文 君はたしか フ風に珈琲にまつわる文章を彫りつづけた、 原著出版から二、三年という、 長さから考えて驚く早さで訳 彫 した。箕輪さんはもっとずっと終着点があるかどうかわから べンヤミンが言った孤独の中から文〃 ないまま彫りつつけた、 うや 学が生まれる、孤独こそが文学の産屋であるというイメ 1 ジ

8. 文學界 2016年8月号

登場人物と関連した事件を通じてあらわすよりは、叙述者が 一言えますが、死後近代日本の英雄として仰ぎ見られたのは伊 直接登場して教科書的に ( 中立的に ) 整理する傾向がありま 藤ではなく乃木ごっこ。 たナこのような「現実に対する精神の優 す。このとき発生する問題のひとつは、そのような説明だ ( 位」は「近代文学的なもの」なしにはおそらく不可能だった でしょ , フ で描写された人物とそうでない人物のあいだの不均衡です。 たとえば『不滅』に登場する伊藤博文と安重根のあいだには 伊藤博文に関して次のようなことを付け加えることができ るでしょ - フ 深刻な不均衡が存在します。 もちろんこの小説で前者の登場は専ら後者によって襲撃さ 一伊藤博文の葬式は十一月四日日比谷公園 ( 日露戦争後 れるところにあるため、このような追及そのものがビントの 暴動が起ったところ ) で国葬として盛大に行われた 一一伊藤博文死去一一十周年の頃、朝鮮総督府は伊藤の功績外れたものであるかもしれません。しかし、少なくともそれ が「歴史」小説ならば何らかのバランス感覚が伴わなければ を讃えるために彼の名前をつけた博文寺という寺を建 ならないのではないでしようか ( もちろん完全に「内需用小 てた ( 今の新羅ホテルがある場所がまさにその寺があ 説」として作られたものならば、話が若干違ってくるかもし ったところです ) 。何と四万坪余りの敷地に建物だ れませんが ) 。私たちが叙述者の積極的介入 ( そして教科書 でも五百坪になる大規模寺院でした。 的な羅列 ) にもっ不満は、「作者の過度な介入による芸術的 三伊藤博文死去三十周年の頃、一九三九年十月十五日安 効果の減少」 ( 形象化不足 ) よりは、おそらくこのバランス 重根の次男安俊生は総督府官吏とともに博文寺を訪れ の喪失と関係があるでしよう。 て父の行為について謝罪した ( どういう理由か彼はす む もう少し具体的に取り上げてみましよう。 でに親日派になっていました ) 。そして十六日に伊藤 『不滅』には事 実上この小説の隠れた軸である伊藤博文の生涯についての叙 博文の次男伊藤文吉 ( 日本鉱業社長だった彼は少し前 を ビョンアンプクトウンサン に買収した平安北道雲山炭鉱を視察するために朝鮮に 述が出てきます ( 第一巻、三六四ー三六五頁 ) 。ところが比重 にふさわしい説明までは望めないにしても、作家は最初から馬 来ていました ) に会った後、翌日いっしょに博文寺を 彼を他の朝鮮の仇 ( ? ) である豊臣秀吉と比較することによは 訪れて「和解」 ( ? ) をしました。 り客観的事実よりは否定的イメ 1 ジを刻み込むのに懸命で国 す。のみならずそれにつづいて出てくる説明も日本近代史 歴史小説の衝突ーーイ・ムニョル対司馬遼太郎 を高度に ( 悪く言えば適当に ) 圧縮したかたちなので、日 本近代史についての知識がない一般読者が自分なりに伊藤 最近の歴史小説は作品の時代背景を設定するとき、それを ジュンセン

9. 文學界 2016年8月号

作品の中盤を過ぎて、主人公のひとりであて、もし「事実。を記すなら、作者自身も登は匿名で刊行することが一般的だったようだ 、、、、たとえばその作者による「序」は『マノ るクラシック・ギター奏者「蒔野聡史」のマ場しなくてはならないが、作品のなかではい ネ 1 ジャ 1 「三谷早苗」が、もうひとりの主なかったことになっている、とも書きつけらン・レスコ 1 』の本文がはじまる直前に置か れた、次のような言い方と呼応している。 人公であるジャ 1 ナリスト「小峰洋子」へとれ、そこから「小説」がはじまる。 こうした書き出しは、明らかにフランス文《私がここで読者に告げなければならないの メールを送る場面で、愕然としながら「ひで は、彼の物語を聴くやいなやただちに私がそ えな : ・ : ・」とつぶやいてしまったわたしは、学の心理小説の伝統に連なろうとしている。 れを筆に上したことである。それゆえ、この 作品で展開される登場人物の心理が生々しく、 すっかり作品に引き込まれていたらしい またあまりに激しいものであるために、ラフ物語以上に正確で忠実なものは決してないの 冒頭に置かれた「序」で、作者はこれから この年若い恋の冒険 アイエット夫人の『クレ 1 ヴの奥 ( 一六を人は信じてよろしい 語られるのは「蒔野聡史」と「小峰洋子」と いう「二人の人間の物巴である、と説明す七八年 ) もアベ・プレヴォ 1 の『マノン・レ者が世にも秀れた雅かさをもって語ったとこ る。しかも彼らは「四十歳という、一種、独スコ 1 』 ( 一七三一年 ) も、ラクロの『危険ろの、さまざまな反省と、さまざまな感慨と 特の繊細な丕女の年齢」に差しかかっていて、な関係』 ( 一七八一一年 ) もコンスタンの『アの関係に至るまで、私は忠実であることを志 ドルフ』 ( 一八一六年 ) も、その序文や書きした。ではここにその物語がある。最後に至 どうやら恋愛と呼ばれるに類するような、た 力しに強い感情をもつにいたったという顛末出しで作品自体と作者自身を切り離そうとするまで、彼の言葉でないようなものは一言も る。もっとも十八世紀中盤までは、恋愛小説私は混えないであろう。》 ( アベ・プレヴォ 1 も先に明かされる。モデルとなった人物がい 「マチネの終わりに」 平野啓一郎 人間観察と文章の粋を凝らした心理小説 田中和生 マチネの終わりに 第野ー 結短した相手はい 年異愛人ですか 毎日新聞出版 1 网円 + 税 322

10. 文學界 2016年8月号

大岩壁 , 一一。 4 一 文藝舂秋の新刊 セックスがなくても 私は幸せ・・・ 「天空への回廊」「還るべき場所」「未踏峰に続く「緊迫の山岳小説 奥は クレイジー ノルーツ 柚木麻子 画・ヒラノトシュキ・ 1600 円 0 夫と安寧な結婚生活を ・送りながらも、 セックスレスに悩む初美。 同級生と浮気未満の キスをして、 こ , 義弟に良からぬ妄想をし、 果ては乳房を触診する 女医にまでムラムラする始末。 この幸せを守るためには、 性欲のはけ口が 別に必要・ : なのかワ ・ 130 。円 『還るべき場所』文春文庫・ 820 円 『春を背負って』文春文庫・ 590 円 『その峰の彼方』単行本・ 1900 円 笹本稜平 山岳小説 画・網中いづる ・表示した価格は本体価格です。これに所定の税がかかります