きものを表現しており、やはりこれまでと同様、レネの採り つくり出す、つねに揺動してやまない人工的なライティング である。それは、そのあまりの変化の激しさにより、「表象あげる戯曲に共通するメタ演劇性を証していると考えられる。 そこでは、人は孤独な生を強いられており、ダンとガエルの ( 再現 ) の概念自体を疑わせる」。ポノムは、ヴァンサン・ア 場合のように新たな出会いが生じても、 ( ニコルの唐突な登 ミエルの『六つの心』に関する評論を引用しながら、この作 テアトラリテ シネマリテ 場という ) 偶然の介入により、別れをあらかじめ決められて 品では、演劇性より映画性に重点が移動されることで、作品 いるかのようだ。そして、そうした劇場的世界の象徴のよう 世界のシミュラークル性の意識が極限化され、人間の視覚自 な存在が、ティエリそしてアルチュールを ( さらにはリオネ 体への懐疑すら生じていると言う。我々のコンテクストから ルをも ) 誘惑するシャルロットである。彼女は信心家である すれば、Ⅱの時期までの、演劇 ( の人工 ) 性の強調による登 が、本当の地獄は人の心のなかにあると言い、それを試すか 場人物たちを囲む世界の劇場性・シミュラークル性、また人 のように、自分を取り巻く男たちを演技によって誘惑する。 物たちの生の浮遊性が、この作品では、映画 ( の人工 ) 性の こうした行動は、彼女が愛読する旧約聖書の世界観を映して 強調によって、その傾向がさらにラジカル化され、人間の視 ( るようだ。そこでは、神は新約におけるような愛の神では 覚への懐疑が生じ、またそのことにより表象や存在概念自体 なく、はるかに残忍な人を試みる神なのである。そしてさら にまで懐疑が及んでいるということだ。その結果として、登 こうした神の性格は、劇中で父親の存在と関連付けられ 場人物は亡霊化することになる。ゴーティエの発言を聞こう ていると考えられる。リオネルは、彼が幼いころ家を出た父 「登場人物を囲む世界は、存在はするが、もう確固とし たものではありません。肝要なことは、人物を、半透明の亡 アルチュールとの葛藤を抱えており ( それはリオネルがゲイ 霊的な存在にすることでした。アラン〔レネ〕は、もがいて であることと関係しているのだろう ) 、ダンもまた、不祥事 いる人物たちの壊れやすさが、つねに感じられることを望ん から退役せざるをえなかったことで、優秀な軍人であった父 ( 幻 ) 親から勘当されている。さらにレネは、ティエリのアパルト ここにおいて、『巴里の恋愛協奏曲』に関する でいました」。 マンに父親の肖像を掛け、その威圧的な視線にティエリをつ レネの発言において垣間見られていた心霊体という表現が、 ねにさらすことで、こうした図式を完璧にしている。この作 映像表現を通じて、実際に亡霊として立ち現われてきたので ある 品に登場する三人の男は、みな強圧的な父親との葛藤により、 抑圧的な生を送らざるをえないように描かれているのである さてところで、エイクポーンの原作戯曲自体の内容はどう そして最後に付け加えるなら、以上見てきたような、旧約的 だろうか。それは、いわば〈孤独の世界劇場〉とでも言うべ
待を持たせたとしても、次の場がトボスの構造においてすで に、それを裏切ってしまっている。たとえば『スモ 1 キン グ』で、海辺のリゾ 1 トでのヴァカンスがトビーとセリアの 夫婦関係の変化への期待を生んだとしても、次の場で現れる ホテルのテラスが前の場と同一の地勢的構造を示すことで、 あらかじめ期待が裏切られ、幽閉がシンポリックに示される ことになるの、た。 また、人間の生のシミュラ 1 クル性ーそれは、意識的有 意味的行動の後退によって徴づけられるだろうーーの意識は、 「スモ 1 キング / ノ 1 スモ 1 キング』という作品全体に漂う、 メロドラマへの参照とも関連づけられるかもしれない。メロ ドラマはなによりも、登場人物の行動不全と象徴性の支配に よって特徴づけられてきたのである。典型的なのは、第三・ 第四挿話が描く「恋する庭師」である。それは庭師と身分違 いの女性との恋という設定からして、メロドラマの大家ダグ ラス・サ 1 クの『天はすべて許し給う』 ( 一九五五年 ) を想起 させずにはおかないが、レネはそこで、メロドラマの常套的 映像をパロディ化して見せる。トビーとセリアがリゾ 1 トホ テルをあとにしたあと、残されたリオネルは天を見上げなが ら、セリアへの変わらぬ愛を誓う。カメラはゆっくりと空へ ハンし、カモメの泣き声が聞こえ、情緒的な音楽が高鳴る : ところで、観客はこのとき、登場人物に同化と異化を同 時に ( あるいは交互に ) 感じるのではないか。レネはかねが ね、同化と異化の交代のうちに、独自のドラマツルギ 1 を目 指していると公言してきた 「プレヒトは同化を断罪しま したが、私はあるときは同化あるときは異化というように使 い分けを行おうとしており、いつの日か一種独特の劇的ム 1 ヴメントを創造できるのではないかと思っているのです。観 客はある登場人物に同化し、突然その人物を拒絶し、つぎに また同化します。私は、観客に作品を飽きさせないためにも、 こうした感情的行き来を重要視しているのです : : : 」。レネ とメロドラマの関係は、生のシミュラ 1 クル化の問題、また 同化と異化の問題というふたつのプロブレマティックにおい て、興味深い意味を孕んでいると考えられる。 さて以上、レネの戯曲映画化第一作と第一一作を検討してき たが、そこで共通して見られたのは、演劇的世界の忠実な再 論 現というアプロ 1 チ方法と、原作戯曲におけるメタ演劇的テ 試 1 マの存在、およびレネのそれへの拘りの姿勢であった。ア新 ン プローチ方法には、これ以降、しだいに変化が見られること ア であろう。それにたいし、メタ演劇的テ 1 マは、次章以降で 扱われる作品にも、その形を変えながら執拗に表れ続けるこ とになるたろ - フ 『巴里の恋愛協奏曲』と『恋するシャンソン』 『巴里の恋愛協奏曲、ミミ ~ 』三〇〇三年公開 ) 『スモ 1 キング / ノースモ 1 キング』ののち、レネは一九九 七年に、登場人物のせりふの途中で突然有名シャンソンが挿 2 他者へと開かれる映画
動を効率的モンタ 1 ジュのもとに粛々と描く古典映画的表象や世界を操るイメ 1 ジに反転したことを明らかにしたが、ヌ にたいする、オルタナティヴ的作品世界を形成してきたので 1 ヴェル・ヴァ 1 グの三作家の作品においては、いわばいま はないかということだ。ドウミはそのほとんど全作品で、 一度、伝統的世界劇場イメージへの回帰が見られるのである。 このことじたい、 「世界劇場」のイメージを提示している。その典型と言える 精神史的に非常に興味深い現象である。だ か、ここでまずもっておさえておきたいのは、ドウミ、リヴ のが、『シェルプールの雨傘』や『ロシュフォ 1 ルの恋人た ち』といったミュージカル作ロ聞であり、そこでは、ミュージ ェット、レネの作品が、 その演劇との関わりにおいて、それ カルという極度に人工的な劇場的空間において、登場人物た ぞれのかたちで、古典映画の現実的リアリズム的作品世界に ちは歌い踊ることがもたらす魔法のような煌めきによっての たいするオルタナティヴとしての、虚構的シミュラ 1 クル的 み、出会いと別れを永遠的に繰り返す運命の翻弄を耐えてい 作品世界を提示していることであり、それゆえ、これまであ るよ , フに見えるのである。リヴェットは、演劇リハーサルを まり試みられてこなかったことであるが、演劇との関係を通 最重要テーマとし、一貫して事前に準備されたシナリオを用 じてヌーヴェル・ヴァーグ映画を再考することが、幾分とも いず、俳優の即興演技によって新しい映画世界を切り開こう 批評的有効性を有しているのではないかということである。 としてきた。そしてレネは、後期作品でエイクポーンを初め さて最後に、本論文の題名にも使われている、レネの映画 とする劇作家の作品をもとに映画を撮るようになり、原作戯 と、他者あるいは他性との関係について語っておこう。と言 曲のメタ演劇的テ 1 マを扱った虚構性の高い作品世界を、精 っても、読者はすでにこれまでの分析から、レネが、 ( 古典 ) 緻な装置や多彩な映像技法によってさらに増幅させ、浮遊的 映画にたいする演劇 ( あるいはーー場合によっては 芝居的な生の在り方を浮かび上がらせた。このように三作家 ックス ) 、生 ( 者 ) という他者を導入す にたいする死 ( 者 ) の演劇へのアプロ 1 チはそれぞれ異なるものだが、そこに共 ることで、自らのフィルモロジーをなしてきた作家であり、 通して見られるのは、有意味的な現実的行為にたいする不信 そのことが彼の映画の既存の映画にたいするオルタナティヴ と、人間の生をシミュラ 1 クル的なもの、つまり芝居と等価性を形成してきたことを理解されているであろう。それゆえ ( 西 なものとして観じる視点である。私は『演戯の精神史』とい ここでは、その映画が他者に開かれたものであることを示す、 う著作で、演劇史において古代から一七世紀半ばまでは、人 もうふたつの側面に簡単に言及しておこう。ひとつは、その 間を神の操り人形とする古代以来の伝統的世界劇場のイメ 1 映画製作の実際的プロセスに関するものだ。レネが、作家主 ジが生きていたのが、一七世紀後半以降ぎやくに人間が他者義を旗頭とするヌ 1 ヴェル・ヴァ 1 グ映画作家のなかにあっ 4
登場人物と関連した事件を通じてあらわすよりは、叙述者が 一言えますが、死後近代日本の英雄として仰ぎ見られたのは伊 直接登場して教科書的に ( 中立的に ) 整理する傾向がありま 藤ではなく乃木ごっこ。 たナこのような「現実に対する精神の優 す。このとき発生する問題のひとつは、そのような説明だ ( 位」は「近代文学的なもの」なしにはおそらく不可能だった でしょ , フ で描写された人物とそうでない人物のあいだの不均衡です。 たとえば『不滅』に登場する伊藤博文と安重根のあいだには 伊藤博文に関して次のようなことを付け加えることができ るでしょ - フ 深刻な不均衡が存在します。 もちろんこの小説で前者の登場は専ら後者によって襲撃さ 一伊藤博文の葬式は十一月四日日比谷公園 ( 日露戦争後 れるところにあるため、このような追及そのものがビントの 暴動が起ったところ ) で国葬として盛大に行われた 一一伊藤博文死去一一十周年の頃、朝鮮総督府は伊藤の功績外れたものであるかもしれません。しかし、少なくともそれ が「歴史」小説ならば何らかのバランス感覚が伴わなければ を讃えるために彼の名前をつけた博文寺という寺を建 ならないのではないでしようか ( もちろん完全に「内需用小 てた ( 今の新羅ホテルがある場所がまさにその寺があ 説」として作られたものならば、話が若干違ってくるかもし ったところです ) 。何と四万坪余りの敷地に建物だ れませんが ) 。私たちが叙述者の積極的介入 ( そして教科書 でも五百坪になる大規模寺院でした。 的な羅列 ) にもっ不満は、「作者の過度な介入による芸術的 三伊藤博文死去三十周年の頃、一九三九年十月十五日安 効果の減少」 ( 形象化不足 ) よりは、おそらくこのバランス 重根の次男安俊生は総督府官吏とともに博文寺を訪れ の喪失と関係があるでしよう。 て父の行為について謝罪した ( どういう理由か彼はす む もう少し具体的に取り上げてみましよう。 でに親日派になっていました ) 。そして十六日に伊藤 『不滅』には事 実上この小説の隠れた軸である伊藤博文の生涯についての叙 博文の次男伊藤文吉 ( 日本鉱業社長だった彼は少し前 を ビョンアンプクトウンサン に買収した平安北道雲山炭鉱を視察するために朝鮮に 述が出てきます ( 第一巻、三六四ー三六五頁 ) 。ところが比重 にふさわしい説明までは望めないにしても、作家は最初から馬 来ていました ) に会った後、翌日いっしょに博文寺を 彼を他の朝鮮の仇 ( ? ) である豊臣秀吉と比較することによは 訪れて「和解」 ( ? ) をしました。 り客観的事実よりは否定的イメ 1 ジを刻み込むのに懸命で国 す。のみならずそれにつづいて出てくる説明も日本近代史 歴史小説の衝突ーーイ・ムニョル対司馬遼太郎 を高度に ( 悪く言えば適当に ) 圧縮したかたちなので、日 本近代史についての知識がない一般読者が自分なりに伊藤 最近の歴史小説は作品の時代背景を設定するとき、それを ジュンセン
ー・デュプレー ) 、スタビス ビスキ 1 の愛妻アルレット ( アニ られていた ) と公言してはばからない。 一」一」には興味休い一」 キー夫妻を温かく見守る、財産を蕩尽しつくした男爵 ( シャ とに、一瞬の蕩尽に生きる「バロック的人間」のすべてがあ ルル・ボワイエ ) 、主人公の腹心だが最後は彼を冷酷に見捨て り、レネとバロックの意外な共鳴が三たび表れている。だが、 るポレツリ ( フランソワ・ペリエ ) ら多彩な人物を配し、ま 我々にとってもっとも肝要なことは、こうした主人公の生に た当時フランスに亡命していたソ連の革命家レフ・トロッキ は、我々がまさにこれまでレネの戯曲映画化作品に共通して ーの動向、フランコ政権への援助のためムッソリーニから武 見出してきた、死に脅かされた浮遊的芝居的シミュラ 1 クル 器を調達するスペイン貴族の暗躍など、同時代史への目配り 的生が、ほとんどそのままのかたちで見出されることなので ある。 も効いた重厚な作りをなしている。 さて、この作品で我々を驚かせるのは、レネがこの実在の 最後に、主人公の生が実際、演劇に徴づけられていること 歴史的人物をも、徹底して演劇的人間として造形しているこ を確認しておこう。彼は これは歴史的事実でもあるわけ とだ。「つねに芝居の登場人物としてふるまおうとするこの だが、ー・、帝国劇場 7 ま「 e de 一・ Empi 「 e の劇場主でもあり、 男にとっては、すべてが見世物と化している」。この妻にも 作品中の劇場の場面では、公演のポスターに、レネの愛する 行きずりの女にも大量の薔薇を贈ってやまない男は、すべて オペレッタとかサッシャ・ギトリの作品名が踊っている。ま をこれ見よがしに行い、豪華な生活を誇示することにしか興 たより興味をそそられるのは、オ 1 ディションの場面であり、 味がない。そして、彼にそうした生活を可能にしている財カ そこではスタビスキーが、ドイツから亡命してきた若い女優 と言えば、架空のハンガリー遺産とか、一一重発行された債券 の相手役を演じることになるのだが、その役というのが、ジ ほとんど実体性のないものばかりである。さらに、彼 ャン・ジロドウ 1 ( ちなみにジロドウ 1 はレネがもっとも愛 は死に憑りつかれた男でもある。実直な歯医者だった父親は、 した劇作家である ) の戯曲『間奏曲守ミ。』 ( 一九三三年 彼が起こした最初のスキャンダルのさい それを苦に自殺し 初演 ) のなかの、幽霊の役なのである。ここでレネが描き出 たのだが、スタビスキーは突然宴会を抜け出して父の眠る墓 す主人公の生が、いかに芝居と死に徴づけられた浮遊的な色 地へと赴き、その墓のうえに身を横たえることまでする。彼 彩のものなのかを、これ以上見事に表す事例も他にないであ はいわば、生と死Ⅱ虚無が紙一重でしかないことに完全に自 ろう。さらに死と一言えば、ここでスタビスキ 1 とともにジロ 覚的であり、人は一瞬の幸福を得るためにだけ生きている ドウ 1 作品を演じるのが、ユダヤ人でナチスの迫害を逃れて ( 作品は当初、「ビアリツツ、幸福き 4 こと名づけ 亡命してきた女優であることにより、この後すぐ起きるホロ
れる。ところが次の日、 、ハーでガエルを待っダンのもとに、 ニコルが現れ、彼が花を持っているのを見て、新しい出会い があったことを祝し、きつばりと別れるまえに少し話をしょ うと言いだす。そしてふたりか話をしているさいちゅうに、 ガエルがやって来て、ダンが花を横に美しい女性と話をして いるのを見て、また別の女との出会いを求めたのだと勘違い して、何も言わず立ち去ってしまう。さてその後、リオネル からガエルが去ってしまったことを聞いたダンは、狂ったよ 、ナ、、、 1 を飛び出していく。というのも、彼 うに彼女を追いカ ( ノ は彼女の名字も連絡先もまったく聞いていなかったのだ : さてこのようにして作品は、登場人物たちの孤独な姿を捉え て終わることになる。リオネルは、父が淫らな譫言を呟きな がら気がおかしくなって病院に担ぎ込まれたことを、 ( 当の ) シャルロットに話したあと、ひとり住み慣れた部屋を出てい く。ニコルと、けつきよくカエルを見つけることかできなか ったダンは、ともに置れない独居生活に入る。ティエリは、 放送のとうに終わったテレビをまえにひとりばつねんと座っ ている。とそこに、ガエルが入って来、兄の隣に腰をおろし、 彼の肩に身をもたせ掛けて、テレビを消すのだった : ェイクポ 1 ンは原作戯曲初演のさい、「舞台上の映画 6 一 m 、くつもの装置を並列して on stage 」という技法を用いたし おき、それに順にライトを当てて、映画同様のすばやいシ 1 ン展開を行おうとしたのである。レネは戯曲映画化にあたっ て、もちろんそうした演出を踏襲することはしなかった。彼 は、作品全体にわたりつねに降り続く雪を導入し、登場人物 全員を覆う底冷えするような閉塞感を表現したのである。こ この作品においては、『巴里の のことに象徴されるように、 恋愛協奏曲』までの、基本的に舞台再現的であったレネの表 現様式が大きく変わり、非常に積極的に映像技法を駆使して、 新しい作品世界を創造する試みが行われている。そしてその ことはたぶん、撮影監督として、『スモ 1 キング』以来起用 ベルタに代わり、それ されてきた名カメラマン、レナ 1 ト・ までアルノ 1 ・デブレシャンらの撮影を統括してきたエリッ ク・ゴ 1 ティエが抜擢されたことと無関係ではないだろう。 では、そうした映像技法とは具体的にはどのようなものか 論 まず、この作品にはズ 1 ムが多用されていることが指摘でき 試 レ る。それは作品の冒頭から表れる。雪の降りしきるべルシ 1 ン 地区の設定ショットから、急速度のズ 1 ムにより、カメラは あるアパルトマンに侵入し、登場人物のニコルの唇が「 ( 不ア 動産物件が ) 小さすぎるわ」という言葉を発話するのを捉え るのだ。そして、このようなかたちで多用されるズ 1 ムまた映 れ クロ 1 スアップは、マリ = アンヌ・リ 1 プも一言 - フよ - フに、 「仮面の背後に隠されたいわく言い難いもの」が現れる瞬間、 「肉体的精神的な苦痛が集約する」身体部分を強調するので者 ヘレニス・ポ ある。だが、ここでもっとも注目したいのは、。 ノムも指摘する、この作品と次作「風にそよぐ草ト H 』 、』三〇〇九年公開 ) における、エリック・ゴ 1 ティエが
愛協奏曲』の後も、すぐクルト・ワイルのオペラ『ロシア皇 いうか欲望 ) を生じさせる。レネが惹きつけられたのは、こ 帝は写真を撮らせ給う』の映画化を企画したが、そちらは実 うした虚実のあいだの薄い膜、演技からあまりに容易に現実 現には至らなかった。その意味で、『巴里の恋愛協奏曲』は、 が生まれ出る世界、ほとんど現実と虚構の区別がっかなくな 彼のオペラへの欲望をまがりなりにも実現した唯一の作品で った浮遊的登場人物たちの、痴愚的世界ではないだろうか あり、彼の演劇にたいする思いを忖度するうえで重要な作品 レネは、あるインタビューで以下のように語っている ェクトプラズム であると考えることかできるのである。レネは、アンドレ・ 「私は〔『巴里の恋愛協奏曲』を〕、心霊体や墓地、毎夜同じ バルドによる台本の、いわば痴愚性に衝撃を受けたと、また 儀式を、それが何を意味するかまったく理解することなく繰 テクストの韻律、その「言葉遊び、音の響き、異様に思われ り返している登場人物といったイメ 1 ジのもとに撮りまし ( 燔 ) るほどの母音の執拗な繰り返し」の虜になったと語っている。 ここには、この作品の浮遊的登場人物たちの背後に、 こうしたテクストの音楽性への固執は『メロ』に見られたし、 死のイメージが存在することが表現されており、非常に興味 芝居の心理的次元の超越は『スモーキング / ノ 1 スモーキン 、冫したしかにこれまで見てきた作品でも、『メロ』のロメ グ』にも確認できよう。 1 ヌの自死、『スモーキング / ノースモ 1 キング』でほとん たカ、ここでやはりもっとも注目したいのは、。、ルドの脚 どの挿話の最後に墓地ないしは教会が現れていることからも、 本に、これまで見て来たレネの戯曲映画化第一・一一作と同様、 死がレネのメタ演劇的テーマを扱った作品において重要な意 ( メタ ) 演劇的テ 1 マが見られることである。とくに第二幕味を持っていることが予想される。レネが一九二〇ー三〇年 ( 四 ) は、芝居上演の舞台裏が背景となっており ( 上演自体は描か 代という時代に惹きつけられるのも、バブル期 ( とその崩壊 れない、つまり劇中劇構造は生じていないが ) 、まさに虚実 期 ) 独特の狂乱的祝祭的雰囲気のなかの、演劇的仮想性と、 が融合する作品世界が展開されている。まずジルベルトが、 そのうちに濃厚に立ち込めるエロスとタナトスの臭いに魅せ られていたからではないか。 元夫のエリックに見せつけるために、シャルレに偽りの接吻 を与えるのだが、だしに使われていらついたシャルレがユゲ ところで、心霊体というイメ 1 ジとも関係するが、レネは ットに戯れのキスをすると、まだうぶな彼らは、本気で恋に この作品で興味深い映像表現を導入している。ファラデルや 落ちてしまう : : : そして第三幕の大団円につながる鍵となる ジルベルトのサロンに出入りする若い娘たちが、居間の敷居 場面でも、ジョルジュを欺くために行われる芝居としての、 を出ると同時に、姿がふっと消えるのである。また第二幕最 エリックとアルレットの唇への接吻は、彼らに本物の恋 ( と 後の全員の合唱の場面では、居間にいままでなかったはずの
世界劇場の存在を、レネはカメラワ 1 クによって、いわば確 を行っているようだ。彼は、何度か俯瞰カメラによってア 。、ルトマンを上から映し、またティエリとシャルロットのい るオフィスを突然背後から映すことで、それが ( 世界劇場 の ) 装置であることを裸形化しているのである。このように テアトラリテ レネは、原作戯曲の持っ世界劇場というテ 1 マ ( 演劇性 ) を、 映像表現 ( 映画性 ) によって増幅させ、登場人物と彼らを取 り巻く世界のシミュラ 1 クル性を、これまでになく尖鋭に描 き切っていると言える。 『六つの心』は、セザール賞では八部門にノミネートされな がら無冠に終わったが、ヴェネチア映画祭では銀獅子賞 ( 監 督賞 ) を受賞し、レネに『去年マリエンバ 1 トで』での金獅 子賞以来の成果を収めさせた。 あなたはまだ何も見ていないミゞミいききミ 三〇一二年公開〔日本未公開〕 ) 二〇〇九年公開の『風にそよぐ草』 ( これはクリスチャ ン・ガイイの小説の映画化であり、我々の考察対象からは外 れる ) を挟んだ二〇一二年、レネは、フランスの劇作家ジャ ン・アヌイ ( 一九一〇ー八七 ) のふたつの戯曲『アントワ 1 ヌ 0 ゝミミミごミ。ミミ ( 一九六九年初演 ) と『ュリデ イス斗 ce 』 ( 一九四一一年初演 ) を合体した映画を発表する。 ストーリ 1 。ある夜、劇作家アントワ 1 ヌ ( ドゥニ・ポダ リデス ) の執事マルスラン ( アンジェイ・セヴェリン ) から、 シネマリテ サビーメ・アゼマ ( 実名登場 ) ら、かってアントワーメの戯 曲『ュリディス』を演じたことがある俳優たちに電話が入る そして、アントワ 1 ヌが死んだこと、彼を偲ぶため、田舎に ある屋敷を訪ねてほしいことが告げられる。翌日アゼマらが 屋敷に着くと、大広間に通され、そこで、あらかじめ撮られ たビデオを通じアントワーヌ自身から、若手劇団による『ュ リディス』試演の映像を見てほしいむねが告げられる。だが ビデオ上演が進むにつれ、見ている役者たちのうちにかって の上演の記憶が蘇り、彼らの意識のなかで『ュリディス』の 上演が始まる。しかも、その想像上の上演は、アゼマとビエ 1 ル・アルディティ、アンヌ・コンシニとランべ 1 ル・ウィ ルソンという一一組の主演キャストによるものが併存するので、 ビデオでの上演と合わせて、三つの『ュリディス』が同時進蝨 ネ レ 行するという前代未聞の展開となる。 劇中劇『ュリディス』のストーリー。ある日南仏のとあるン ア 駅で、老いた父親 ( ミシェル・ビコリ ) とともに流しで日銭 を稼ぐヴァイオリニストのオルフェ ( アルディティ、ウイル ソン ) と、母親 ( アニ ー・デュプレー ) やその愛人 ( ミシェ映 ル・ヴュイエルモーズ ) ら劇団員とともに巡業公演を行って畩 いる女優のユリディス ( アゼマ、コンシニ ) が出会う。ふた りはたちまち恋に落ち、ユリディスを愛していた若者は線路者 他 に飛び込み自殺する。だがふたりの恋人は、父や母とのしが らみを断ち切り、逃避行を敢行するのだった : : : マルセイユ の場末のホテルの一室、オルフ工とユリディスはふたりだけ
石川義正 三人称の叙述はつねに潜在的な一人称とみ「神様」であり、その神様としての能力が物な自我の分裂を顕在化するのが、「私」にべ なすことが可能である。たとえば ( 物語に登 語を解決に導くのである。ここでの人称表現ラスケスについて解説する一卵性双生児の兄 場しない ) 話者による「 : ・と私は思った」とのパラドクスは物語の展開と不可分なのだ。 である。それは人間社会の統合作用の失調 いった枠構造が叙述から省略されたものと想 だが、こうした個と全体の視点の安定的なのアレゴリ 1 でもあるのだ。 定するわけだ。 一方、一人称の「私」は話者統合が成立しないのが「現在」の強いる固有同じことは太田靖久「ろんど」 ( 新 ) の「私」 であると同時に登場人物の一人でもある。その条件ではないか。・カサヴェテスの映画 ⅱ自己意識をもっコンビュ 1 タにもいえる。 れはさながらであり人であるといった矛「ハズバンズ』の一シ 1 ンで録音マイクが見コンビュータが人間の自我を代替し、その製 盾を露呈するのだが、この矛盾を破綻なく処切れていたのが、べラスケスがラレダの開作者を「神」、製作者の娘を「母ーと呼ぶ 理するのが小説的技巧とされる。わかりやす城』にはめ込んだ自画像を思わせるという内 これは人間ならざるシステムによってオ い例は今村夏子「あひる」 ( たべるのがおそい ) 村薫風「鏡」 ( 新潮 ) のコメントは、あきらか イデイプス・コンプレックスを回復しようと で、話者である「わたし」は「のりたま」と にこうしたパラドクスを念頭に置いている。 、現在もっともありふれた保守反動イデ 呼ばれるあひるが死んで別のあひるに入れ替つまり三人称とはマイクがフレームの内側 にオロギ 1 である。社会全体がコンピュ 1 タに わっていると語りながら、しかし一方でその映り込んでいない映像の謂いであり、映ってよって統御されるようになれば、人間はコン 事実を知りつつ周囲には黙っているのが登場いるマイクは一人称の「私」である。そしてピュ 1 タの自己意識という一部品にすぎない 人物としての振る舞いである。西崎憲「日本マイクが見えるほうがより「真実味」がある ものとなる。村田沙耶香「コンビニ人 ( 文 のランチあるいは田舎の魔女」 ( た ) の三人 というわけだ。その背景には三人称客観描写學界 ) の「私」は人間である以上にコンビニ 称の焦点人物「くもり」は一人称と交換可能がすでに不可能な形式ではないのか、というの部品である。性は「私」から徹底して排除 だが、彼女はまさしく見えないものが見える不信がある。「私」という超越的かっ経験的される。コンビニの窓ガラスに映る「ガラス 斫人小乱月評 人称表現のパラドクス 尹 4
裏に終わり、打ち上げが行われた夜、ジョルジュが、ジャッ クとタマラの娘ティリ 1 ( アルバ・ガイア・クラゲード・ 1 ジ ) とテネリフェに出発したことが分かり、娘を溺愛する ジャックは狂気のようになるのだった : 一一月の薄暗い朝、コリンとカトリ 1 ヌ、ジャックとタマ ラ、そしてシメオンとモニカは、葬式に臨もうとしている ジョルジュが旅先で急死したのだ。三組のカップルは、それ ぞれ複雑な思いを胸に、花を棺のうえに投げかける : : : 彼ら が立ち去ったあと、ティリ 1 がひとり来て、髑髏が写った写 真にキスしてから、それを棺のうえに放り投げるのだった。 ェイクポ 1 ン戯曲の原題である『ライリ 1 の生活 ( 生涯 ) 』 とは、一九四〇年代のアメリカの人気ラジオ番組 ( その後映 画化・テレビ番組化もされた ) の題名から採られており、そ の内容から英語圏では現在でも理想的生活を示す言葉として 使われているようだ。レネの用いたフランス語題名 ( 『愛す ること、飲むこと、そして歌うこと』 ) は、ヨハン・シュト ラウス二世のワルツ『酒・女・歌』のフランス語名に由来し ている ( 曲は映画でも主題曲のように使われている ) 。よっ て、戯曲原題・映画題名ともに、その描かれる内容との距離 から、皮肉な意味合いが含まれていると考えられる。 レネのこの作品における戯曲へのアプローチは、Ⅲで扱わ れた二作でのきわめて積極的な介入Ⅱ改変から、—やⅡの時 期での演劇的世界の忠実な再現という方向に戻った感がある。 そこには、撮影監督エリック・ゴ 1 ティエがスケジュールの 都合で参加できなかったことも影響しているのかもしれない ここでは、きわめて様式化された舞台装置 ( 背景幕さえ使わ れている ) のもと、特別な映像技法が用いられることなく、 役者の動きが無駄のないカメラワ 1 クで追われている。 だが同時に、ここには、ふたつの方向での新しい試みも垣 間見られる。ひとつは、シ 1 ンとシーンの合間に、実際のヨ ークの街の、車からの移動撮影が挿入されていることであり、 もうひとつは、やはりシーン間に、 ( クレジットがないが、 たぶん美術監督のジャック・ソルニエによる ) 舞台となる三 組のカップルの住居を描いたイラストが挟まれることである。 イラストは、『スモーキング』でもすでにフロッシュのもの がシーン間に挿入されていたが、『愛して飲んで歌って』で はさらに、登場人物が台詞を言っている背景に、コミックス におけるような抽象的背景が何度か用いられている。レネは グラフィックアート、アメリカン・コミックスや、ハンドニア シネの大ファンであり、その影響が表れていると考えられる。 影響は古くからあり、『ミュリエル』や『戦争は終った』と いった初期作品からすでに見られるというが、一九八九年 『メロ』のあとに製作された、アメリカ人漫画家を主人公に した『お家に帰りたい、ミミざミ、』では、その漫画家 の描く猫のキャラクターが画面に登場し、登場人物と会話を 交わす設定が採られている。また『戦争は終った』では、イ ヴ・モンタンとジュヌヴィエ 1 ヴ・ビュジョルドが絡むシ 1