と、ばくに注意をした。 「カエルを触ったら、手を洗わないとダメなんだよ。イエア メは毒ガエルではないんだけど、イエアメに限らず、全ての カエルの体の表面の粘液には若干毒があるみたい。毒って言 っても、カエルに触った手で目を擦ると目が腫れるとかって 程度なんだけど、まあ、洗うに越したことはないからね」 と、ママが洗面所に手洗いに行っている間に、ばくはイエ アメガエルを見てみた。 カエルに興味を示していると思われたくなかったから、見 たかったのに見れなかったのである。 ロ角が上がっているせいか、 につこり笑ってるよ - フに見え なくもない 鼻は二つ穴が開いているだけ。 前足の指は四本で、後ろ足は五本、全ての指先に丸い吸盤 が付いている。 十っト 6 , っ - い」 黒目が細い金色の目は、色といい大きさといし ママが手首に付けてるプレスレットのタイガーアイの珠みた いだった。珠の一つを取って蝋粘土に半分埋め込んだみたい な目玉だ。タイガ 1 アイには、悪意や呪いを跳ね返すパワ 1 があるんだって。ママは昔からとっても迷信深い。 何かにつ けて縁起を担ぐし、お守りや魔除けなんかもいくつも財布や バッグにぶら下げてるから、「パワーとパワ 1 か、ハッティン グして帳消しになるんじゃないの ? ーと言ったら、「相乗効 果。神仏混交」と真顔で睨まれた。おそらく、ママはおじさ んとの込み入った関係を続ける中で、誰かさんの悪意や呪い を常に意識していたんだろう、罪悪感の裏返しで カエルの色は、タッパ 1 の蓋を開けた時は黄緑に見えたけ れど、も , フちょっと亠月みかかっているとい , フカ、これかまた ママのプレスレットのトルコ石の色に似ていた。 「トルコ石は、新しい一歩を踏み出す時に必要な勇気を与え てくれるんだって。人間関係に悩まされている時に身に付け ると、波立った感情を穏やかに鎮める効果があるの。あと、 持ち主の身に危険が及ぶと、変色したり欠けたりするって言 い伝えもある。だから、大昔はトルコ石を盾に嵌め込んで出 陣したんだって」 ママから何十回と聞かされているから、パワースト 1 ンの 効用についてはやたら詳しい。ばくは全く関心が無いし、全 く信じていないけど ママが戻ってきたので、ばくはカエルから目を逸らした。 「イエコを入れてあげて」ママはまたばくに命令した。 「イエコ ? 」 「ヨーロッパイエコオロギ」 ョ 1 ロッパイエコオロギを「イエコ」と略すなんて、ばく は知らなかった。ママはネットでその筋のマニアのホ 1 ムペ 工 ージやプログを覗いては俄かマニアになるけれど、その知識メ 工 は浅く不安定なものだから、あっという間に関心を失くす。 「わたしは手を洗った。あんたはまだ手を洗ってない」 ママは手洗いで腕まくりをしたシャツの袖を下ろした。 「何匹 ?
失敗するのを布がらなくてもいいんだ、スト モテ読書 犬山紙子 レスに感じなくていいんた そして、彼女が欲しいのに「女に飆びたく 第 + 五回恋愛指南本のバイプル ない」とカッコつけて、レベルアップを課す く、小さくまとまっているキャパシティを広 前にそこから降りてしまってはいけないと。 げる行為だ」だったり「携帯をチェックした 巷にあふれるたくさんの恋愛指南本。なんこれは女も同じですよね。 くなるのは相手が好きだからじゃなくて「そ でしようね、少し敬遠しちゃうのは。そんな その後も素晴らしい回答が続くんですよ。 ういうことをしても良い相手』と見くびって こと言いながら私も過去恋愛指南本を出した いるから」だったり。 「もし告白して『友だちでいましよう』と言 こともありますが、私にも苦手な恋愛指南本われてしまっても、そんな友たちを軽視する私がすごく好きなのが女性のすっぴんが別 があります。「自分の個性を殺せ」とばかり ようなことを言う相手にふられてもおおいに 人でショックだったという悩みに、「お化粧 言ってる本だったり「相手に嘘をついてその結構じゃないですかーだったり、「彼女の手がいつもかわい くしたいという気持ちでされ 気にさせろ」たったり。 編みのセ 1 ターを着られない男は小さい。そ るものであれば、化粧している状態こそがレ しかし ! 中にはこれは人生のバイプルに れは好きな人のために自分を抑えるのではなギュラ 1 だと考えればいいんです。だから化 したい : : と思うくらいの素晴らしい名著に 粧をとったが別人だって驚かなくていし 出会うこともありまして。私がそれぐらい感 というもの。「化粧して可愛くなりたいとい 銘を受けたのが杉作太郎さんの「恋と股 う気持ち込みで、それはあなただ」って認め てもらっているようなものじゃないですか 間』。この本、弱い人に寄り添い励まし、女 性に誠実なのであります。 この本を読んでると、恋愛観というか人間 まず、恋愛がうまくいくことなんてちょっ として「余計なプライドを捨て去り相手のこ とおかしいことだってはっきり書いてあるん とを考える」というとても大切な姿勢が見え 書 です。恋愛は成就させねばならぬ、カッコ悪 てくる。恋愛指南本とはコミュニケーション読 モ い姿は人には見せてはいけない、それが当た の本、当たり前ですがこういった良本がたく り前だって考える方がおかしいって。そうだ さんあるわけで、偏見を持っていたらもった そうだ。失敗するのが当たり前なんだから、 いないなあと思うのです。 祚 + えのようになワたいな 0 0 や 文とイラスト
く変わっていく。事故に遭ったり病気 沢山の課題と不平等を、大人たちは になったりもするだろう。その時に 山積みにしてきた。彼らの半分は、投 身体にハンディを負うことだってない 票所に行かない。白票も投じない。不 あなたの仲間の多くが、固定化されたシ とは言えない。 数年もすれば、あなた 都合な問題は見て見ぬふりの先送り、 ステムの中で身動きが取れなくなってい の頭には色んなハテナが湧いている。 若者たちにツケを回して生きている。 る 社会の仕組みはどうしてこんな風なの 彼らはそのまま逃げ切れる。だけど、 しか浮かばないだろう。だけど、ひと か、目の前に立ちふさがるとてつもな あなたはそうはいかない。背中に負わ つだけ、言っておきたいことがある く大きな問題を、誰が解決してくれる された見えない荷物は、もう駆けだす のか とにかく、投票所に行ってみよう。 こともできぬほど重くなっている。だ 準備もいらない、ワケが分からなくて その時、あなたは真剣に考えるだろ から、投票所に行ってほしい。それは . し . しキ / キ / / ′、た、ナンじ、、 0 運転免 う。白紙で投じたその紙に、何を書い 無力なあなたにやっと与えられた、た たらいいのかを。 許を取りに教習所に通うより、面倒く った一つの権利だただ行くだけでい さいアルバイトに行くより、面白くも もしかすると、あなたは既に生き辛 。その一歩はきっと、遠い未来の、 ない授業で居眠りするよりもずっと簡 さを感じている。世界の中で、十五歳あなた自身に、繋がっている。 単だ から三十四歳の若者の死因のトップが 投票所の貼り紙に並ぶ政党や名前を 自殺という国は先進七カ国では日本だ 見ても、あなたにはピンとこないかも ( 内閣府二〇一四 ) 。そう、この国変な声、天の声 しれないか、ピンとこなくていい。知 で生き延びていくのは並大抵じゃない りたくなれば、調べればいい。知りた 貧しくて進学をあきらめる人もいる くなければ、白紙でいし 。白紙でい ( し、バイトやハケンで酷使されている から、投票しよう。 人もいる。格差は広がるばかりか再生 十八歳のあなたはやがて、社会に出産され続けている。あなたの仲間の多 る。恋愛に結婚、子育てに教育、いず くが、固定化されたシステムの中で身 れは親の介護へと、生活はめまぐるし動きが取れなくなっている。 ( 作家 ) かって自民党総裁選において、現職 でありながら思いがけず敗北した福田 赳夫総理が、天の声にも変な声がある 青来有一
き合い」なるものをする。生活圏内の は、世界から自分を切り離し、編集す ること。そして、そのカテゴリ 1 内に 団地では、「ラムちゃんのパパ」や、 居さえすれば、思考停止出来る夢の仕「臼井さん家のご主人」と言われるわ けで、「アッシ」ではなかった。こん 組みなのかもしれない。 なところまで身を落としたアッシを 人は、ある時は「会社員」、ある時 は「お母さん」、またある時は「日本「アッシ」呼ばわりされるのも辛い 人」といった感じに、その時々で肩書そんな気持ちを知ってか知らずか、近 所の人や、子どもの父母らは俺を「ア きに逃げ込む。そして、自分の都合の ッシーとは呼ばなかったことも大きい 良いタイミングで、例えばそれは同窓 要は、圧倒的に自分の中でリアルなの 会などに赴いたとき、肩書きではない ク個人名で呼ばれることで、東の間 が今は「パパ」なのだ。それにより面 倒な事を考えなくて済む。 の「本当の自分」という気分を味わっ たり・す・る 全く、こんな人生になるなんて思い もよらなかった。 人間の行動基準のほとんどは「習 慣」と「面倒くさい」で出来てはいま いか。己が規定した「常識」の範囲外 ) 誰にも解けない先のことは見え にあるものは、「え 5 い面倒くさい ! 」 微妙な位置バランスに差しかかっ の一言で片付けてしまえるものなのだ。 てるんだ それが最後の属性、「常識人ーである。 言いたいことなんてさ何にもない 逆に言えば、恐怖心や好奇心に歯止め をかけてくれるのが「常識」である。 目の前まだまだ長い道は続く 反面、その省略作業をしなかったら、 好きな映画や好きな音楽とかに 考えてばかりで、疲れてしまう。とて も安心していられやしない 影響されすぎて今を見失うなよ 。、。、になった俺は、今や、「近所付 Let lt Be Your Life 不器用で下手く そそれでも人生さ Le 【 ItB 。と一 g 印真似じゃない真 実に 理想通りになれやしない運命 くだらないことを話して笑い合っ て わかりあうほうがなんか深い気が する Let lt Be ざ日 Life 不器用で下手で も愛しい人生さ Le ItBe と一 R 一 g 印賢くはやれないよ Let lt Be Your Life 下手なりに伝わ る気持ちが恋愛じゃない ? LetItBe と一を g 印泣けるほど純粋 占いなんて怠け者の運命 「 LetItBe 」 その昔、は「正義の味方は という歌を唄ってい あてにならない」 た。ヒ 1 ロ 1 不在の時代の先鞭を付け + る、アンチヒ 1 ロ 1 の代名詞、等身大伏 のヒ 1 ロ 1 が ()n < p-«だ。それがいみ じくも、デビューホャホヤの頃に歌っ ていたのが「正義の味方はあてになら
一文學界新人賞曇原稿募集 【受賞作】賞金五十万円および記念品 【締切】 2016 年 9 月日 ( 当日消印有効。ウ = プ応募は 2016 年 8 月より受付開始、 9 月日四時締切 ) 【発表】「文學界」 2017 年 5 月号 ( 同年 4 月号に予選の通過者と作品名を発表します ) 選考委員 どんなタイプの才能 松浦理英子 も見逃がさない意気 円城塔応募の前に読み返すことをお込みで選考に臨んでいるが、欲を言うなら、ま 小説が古典と並んだときにどう見えるのか、現自分自身を疑い、道なき道を切り拓く、不幸で 代の他の小説と並べたときにはどうか、他のジ勇敢でなまめかしい異能を待つ。 ャンルからはどう見えるのかを確認しましよう。 無論、こんなアドバイスなど無視してしまって 小説の強みは一人で在る 構いません。 吉田修一 , ) とではないかと考えて います。 , ) れはたぶん孤独とは対極にある場所 で、そこから聞こえてくる声のようなものを新 見えるもの・見えな人賞の応募作では聞きたいと思っています。 いもの。語りえるも の・語りえないもの。生きている・生きていな まだ読者の目に触れてな 綿矢りさ ここ・どこか死んでいる・死んでいない 微かに緊張した、新 知っているもの・知らないもの。在る・無し しい才能にあふれた応募作を、たくさん読みた 文学はそれらの両端を行き来する、なんかの玉。 いです。応募作の文章に込められた思いをくみ 「 ! 」のある小説を楽しみにしています。 取るために、一語一語を見落とさぬよう、丁寧 に作品を読み、また多様な解釈にもうなすける よう、やわらかい頭を持って、選考に励みます。 川上未映子 【募集要項】 ・応募作品は新人の未発表原稿に限る。同人雑誌に 発表したもの、他の新人賞に応募したもの、自費出 版したものは対象外とする。 ・枚数は四〇〇字詰原稿用紙で七〇枚以上一五〇枚 以下。ワープロ原稿の場合、判の紙に印刷し四 〇〇字詰換算の枚数を明記のこと。 ・原稿には、題名、枚数、筆名、本名、住所、電話 番号、メールアドレス ( 所有の場合 ) 、年齢、現職、 略歴を明記した表紙をつけ、必ず右肩を綴じること。 表紙と同じものをもう一枚、綴じずに原稿に添付す るこ -u ウエプでの応募の場合は、文學界ホームページ上の 新人賞原稿募集のページ (http://www.bunshun. CO, 」 p/mag/bungakukai/bungakukai—prize. htm) の指示に従って必要項目を入力のこと。 ( これらの個人情報は厳重に管理し、本賞の目的以外 には用いない ) ・募集要項、選考についての問い合わせには一切応 じない。また一旦応募した作品の訂正、返却依頼も 受け付けない。 ・新人賞受賞作の複製権 ( 出版権を含む ) 、公衆送信 権等は文藝春秋に帰属します。 【宛先】 〒 102 ー 8008 東京都千代田区紀尾井町 3 ー 文藝春秋文學界編集部文學界新人賞係 ワ」
『マノン・レスコ 1 』河盛好蔵訳 ) しかしふたりがそのままわかりやすい「恋した若いイラク人女性「ジャリ 1 ラ」がイラ 愛」に突き進むことができないのは、たとえクから亡命しようとしてフランスの「洋子」 そこには「彼の物語」が真実であるという 作者の強い確信がある。そしてそのために作ば「蒔野」には一一十年の経歴がある演奏家とのもとに辿りつく。それからふたたびスカイ 者自身は黒子に徹し、登場人物である「彼のしての生活があり、また「洋子」には自ら一一プで会話をする時間を経て、関係を決定的な 言葉」や行動によって作品を語らせようとす度目の赴任を希望したイラクのバグダッドでものとすゑ主疋で「洋子」が壅只に住む「蒔 るのだが、そうした感触は平野啓一郎の『マの報道の仕事があるからである。そうしてメ墅と一緒に夏期休暇を過ごすはずだった初 1 ルでのやりとりがありながら「蒔野」は自日に、演奏家としての「蒔野」が唯一頭が上 チネの終わりに』にも通じる。 らの演奏の壁と向き合う時間を過ごし、一方がらない老いた師「祖父江」が倒れる。そこ 十八歳でデビュ 1 したときから「天才」と 言われ、世界的な評価を得ながら音楽活動を「洋子」はバグダッドで自爆テロに遭遇してに感情的にはすでに決定的に見えながら、一 してきた「蒔野聡史」は、ちょうど演奏家と間一髪で助かるという経験をする。だからふ通のメ 1 ルでふたりの関係にもう取り返しの して壁にぶつかりつつあった時期のコンサ 1 たりが再会し、初めてふたりきりとなるのはつかない亀裂が入る原因がある。 トのあとで、レコード会社の担当者を介して「蒔野」のヨーロッパでの演奏の予定と、フ個人的な好みとしては、そうした経験のな い大多数の読者はそのまま受け入れるしかな 「小峰洋子」と知り合う。フランスの「ランスに戻って結婚のエ鳰が控えた「洋子」 、世界的な人脈をもって国際的な評価を得 通信」の記者をしていて、アメリカ人のフの日常が重なる、パリでのことである 四十歳という年齢がもたらす経験で、目のているというふたりの設宀鳰が少し気になり、 ィアンセもいる「洋子」はパリの国際コンク またさまざまなものの基準がややヨ 1 ロッパ ールで優勝した直後に「蒔墅の演奏を聞い前にいる相手が人生でもう一一度と出会えない たことがあり、また「蒔墅の大好きな映画かもしれないぐらい貴重な、自分にとってかに寄りすぎて、せつかく重要な舞台として設 けがえのない存在となりうることが、おたが定されたバグダッドに生きる人々の顔が見え 『幸福の硬貨という作品の高名な監督「イ くいのが残念だが、フランス心理小説の傑 エルコ・ソリッチ」が「洋子」の父親である いにわかる。しかし四十歳まで積み重ねてき ことがわかり、ほかに関係者もいる打ち上げた経歴と人間関係が、そのふたりだけの関係作『ドルジェル伯の舞踏会』 ( 一九二四年 ) 室 に集中することを妨げる、というのがふたりで知られる、一一十歳で夭折したレイモン・ラ図 の席でふたりは初めて出会ったとは思えない ディゲにはけっして書けない、主人公たちと學 ほど親密な会話を交わす。アメリカ合衆国が にあたえられた根源的な矛盾である。たとえ ば再会を経て、まさに「洋子」が婚約を解消おなじ四十代に差しかかった作者が人間観察 イラクに侵攻したあとの戦後処理に苦しみ、 リーマンショックで世界的な金融危機が起きして「蒔墅と結はれることを決意したときと文章の粋を凝らした、日本語による端正な 、ハグダッドの仕事場で一緒の時間を過ご心理小説がそこにある る前の一一〇〇六年のことである。
よな。俺はお前みたいにタメな人間じ 「うるせーな ! 」 ゃないから修行をする。」 言っておきながら、自分で確認をし 「他で学びますよ。」 ていた。妻メグミとはこれからも戦っ 「お前、漫才やってるだろ ? それつ ていかなくてはダメなのかと。気が遠 て結婚生活みたいなもんじゃねえか くなる。それだけ手強い女だからだ。 しかし、漫才コンビがいいネタを作 「たしかに : ることとなんら違いはないのは本当か 「お前らコンビとして中途半端だよな。 もしれない。その二人でしか作れない メンテナンスを怠った夫婦と同じなん 「コンビネーション」という作品を創 だよ。」 造するようなものか。何度も書き直し、 「そうか ! 」 練り直し、微に入り細に入り、隅々ま 「漫才なんかは本来的には不必要なも で研究し切ったものが暫定的にク正 んだろ ? 余分な自己表現じゃん、そ解クとなる。マラソンの記録のように、 こには自分はこうしたいとか、相手か 「更新ーを前提としたレ 1 スだ。 自分のことをちゃんと見てくれないと 「あ : : : また、喩えが増えた : か、欲望が絡むじゃん ? さらに言え ししネタを、良き作ロ叩を作り上げる 才能が自分にあるのかはわからない。 ば、皆に自慢出来るコンビでいたい、 という名誉欲もあるよな ? 夫婦も全 でも、俺は、メグミとやり合いながら く同じだよ。」 も、螺旋状にそれを上昇させていきた 「勉強になるな 5 。」 いと田 5 っている。己の才能はそうやっ 「言ってみれば、将棋の対局の山場を て磨くものだと思うし、また、俺のパ 一枚の絵画として切り取った感じ ? ートナ 1 は「結婚とは作品である」と 俯瞰した盤面は、案外美しかったりす いうことを気づかせてくれた恩人なの かもしれない。 る。俺は夫婦の関係をそう考えたい。」 「喩えが多くて : : : 一つにまとめても と、そんなことを考えてはみたが、 らえませんか ? 」 現実は辛かった。酒の量が増す一方な のだ その頃、俺は朝から酒を飲んではバ イトをして、その後、ライブハウスへ 行ってもビ 1 ルを片手に仕事をし、終 わって帰宅する頃にはヘべレケになっ ていたしかも帰宅後も飲まずにはい られず、また飲む。帰宅後に飲むのは、 ようやく一人になれた自分に対して 「お疲れさまという意味で飲むもの で、外で飲んでいる酒の意味とは違っ ていた。もう酒の入っていない状態で 人に会うことがあり得ないほどで、シ ラフでいることが段々と布くなってい 「手、震えてますよ ? アル中じゃな いんだから。」 、ハイト先で入れ墨ロッカーに言われ 「そんなことねえよー どういう証拠 かあるっていうんですか、おまわりさ 「ブハ " 】酔ってんじゃん ! 面白え な 5 アッシさんは。」 わざとポケて、おどけて見せている か本当は不安だった。 る
て、例外的に共同的製作を実践してきたことは知られていよ う。彼は自ら脚本を書くことをせず、ジャン・ケロ 1 ル、マ ルグリット・デュラス、アラン・ロプグリエら著名な作家 たちにシナリオ執筆を委ねてきた ( と言っても、そこに綿密 な打ち合わせの過程があったことは当然である ) 。そして実 際の撮影に入っても、美術監督のジャック・ソルニエ、歴代 レナ 1 ト・ の撮影監督たち、サッシャ・ヴィエルニ 1 夕、エリック・ゴーティエらとの緊密な分業Ⅱ共同システム を確立し、さらには演技に関しても、サビーメ・アゼマを初 めとするレネ組の俳優たちとの濃密な共同作業を行ったので ある。レネは、リヴェットのような即興演技による俳優の積 極的参加は行わなかったが、俳優自身に登場人物の詳細な来 歴を書かせるなど、スタニスラフスキー・システムの実践者 という側面もあったのである。このように、製作過程におい ても、レネ映画は一貫して他者に開かれたものであった。さ て、レネの映画を彩る最後の他者性の影は、レネが「あるい は oubien 」「ところで or 」という並列的表現に異様に拘った ことに見られる。「あるいは」は、『スモ 1 キング / ノースモ 1 キング』での無数の人生のヴァリアントを導入する際に使 われており、「ところで」は、『あなたはまだ何も見ていな い』の結末部分でー死んだと思われていたアントワ 1 メの 登場のさいに 使われ、さらにレネは『ところで 0 工と ( 貯 ) いう名を持っ作品さえ構想していた。ところで、「あるいは : あるいは : という表現は、当然キルケゴ 1 ルの代表 作『あれか、これか』 ( その仏訳名は 0 ミ : きき ) を想 起させるが、キルケゴ 1 ルの美的なもの・倫理的なもの・宗 教的なもののあいだでの並列的選択は、スラヴォイ・ジジェ ( 絽 ) ノララ クによれば、複数の要素のあいだに存在するゆえに、 ックス ( 視差 ) 的なものであり、それゆえ必然的に他者的視 点を含みこむものなのである。リアンドラ = ギグとルトラも、 レネ作品がたがいに相補的関係の一一部作をなす傾向があると いうロべ 1 ル・べナュ 1 ンの指摘を受けながら、レネが自ら のうちに根本的に他者的な眼を含みこんだ作家であり、『ス モ 1 キング / ノ 1 スモーキング』という一一部作の「あるいは : あるいは : ・・ : 」という並列構造が、そのことを象徴して ( 測 ) いると喝破している。レネの思考はこのように、深く他者性 またひとつの見方〈の固着を排する懐疑主義によって穿たれ ていると考えられる。以上述べてきたように、レネという映ⅵ 画作家は、他者・他性にたいしさまざまな面で開かれたじっン に稀有な存在であり、そのことが、彼の作品が帯びる映画史ア 上最大級のオルタナティヴ性の根源となっているのである。 画 映 れ 開 へ 者 他 註 ( 1 ) Cf. ミシェル・マリ、『ヌ 1 ヴェル・ヴァ 1 グの全体像」、矢橋 透訳、水声社、二〇一四年、二五ー三一頁。 ( 2 ) 矢橋透、「輪舞の世界劇場ーージャック・ドウミ試論」、「文學
裏に終わり、打ち上げが行われた夜、ジョルジュが、ジャッ クとタマラの娘ティリ 1 ( アルバ・ガイア・クラゲード・ 1 ジ ) とテネリフェに出発したことが分かり、娘を溺愛する ジャックは狂気のようになるのだった : 一一月の薄暗い朝、コリンとカトリ 1 ヌ、ジャックとタマ ラ、そしてシメオンとモニカは、葬式に臨もうとしている ジョルジュが旅先で急死したのだ。三組のカップルは、それ ぞれ複雑な思いを胸に、花を棺のうえに投げかける : : : 彼ら が立ち去ったあと、ティリ 1 がひとり来て、髑髏が写った写 真にキスしてから、それを棺のうえに放り投げるのだった。 ェイクポ 1 ン戯曲の原題である『ライリ 1 の生活 ( 生涯 ) 』 とは、一九四〇年代のアメリカの人気ラジオ番組 ( その後映 画化・テレビ番組化もされた ) の題名から採られており、そ の内容から英語圏では現在でも理想的生活を示す言葉として 使われているようだ。レネの用いたフランス語題名 ( 『愛す ること、飲むこと、そして歌うこと』 ) は、ヨハン・シュト ラウス二世のワルツ『酒・女・歌』のフランス語名に由来し ている ( 曲は映画でも主題曲のように使われている ) 。よっ て、戯曲原題・映画題名ともに、その描かれる内容との距離 から、皮肉な意味合いが含まれていると考えられる。 レネのこの作品における戯曲へのアプローチは、Ⅲで扱わ れた二作でのきわめて積極的な介入Ⅱ改変から、—やⅡの時 期での演劇的世界の忠実な再現という方向に戻った感がある。 そこには、撮影監督エリック・ゴ 1 ティエがスケジュールの 都合で参加できなかったことも影響しているのかもしれない ここでは、きわめて様式化された舞台装置 ( 背景幕さえ使わ れている ) のもと、特別な映像技法が用いられることなく、 役者の動きが無駄のないカメラワ 1 クで追われている。 だが同時に、ここには、ふたつの方向での新しい試みも垣 間見られる。ひとつは、シ 1 ンとシーンの合間に、実際のヨ ークの街の、車からの移動撮影が挿入されていることであり、 もうひとつは、やはりシーン間に、 ( クレジットがないが、 たぶん美術監督のジャック・ソルニエによる ) 舞台となる三 組のカップルの住居を描いたイラストが挟まれることである。 イラストは、『スモーキング』でもすでにフロッシュのもの がシーン間に挿入されていたが、『愛して飲んで歌って』で はさらに、登場人物が台詞を言っている背景に、コミックス におけるような抽象的背景が何度か用いられている。レネは グラフィックアート、アメリカン・コミックスや、ハンドニア シネの大ファンであり、その影響が表れていると考えられる。 影響は古くからあり、『ミュリエル』や『戦争は終った』と いった初期作品からすでに見られるというが、一九八九年 『メロ』のあとに製作された、アメリカ人漫画家を主人公に した『お家に帰りたい、ミミざミ、』では、その漫画家 の描く猫のキャラクターが画面に登場し、登場人物と会話を 交わす設定が採られている。また『戦争は終った』では、イ ヴ・モンタンとジュヌヴィエ 1 ヴ・ビュジョルドが絡むシ 1
動を効率的モンタ 1 ジュのもとに粛々と描く古典映画的表象や世界を操るイメ 1 ジに反転したことを明らかにしたが、ヌ にたいする、オルタナティヴ的作品世界を形成してきたので 1 ヴェル・ヴァ 1 グの三作家の作品においては、いわばいま はないかということだ。ドウミはそのほとんど全作品で、 一度、伝統的世界劇場イメージへの回帰が見られるのである。 このことじたい、 「世界劇場」のイメージを提示している。その典型と言える 精神史的に非常に興味深い現象である。だ か、ここでまずもっておさえておきたいのは、ドウミ、リヴ のが、『シェルプールの雨傘』や『ロシュフォ 1 ルの恋人た ち』といったミュージカル作ロ聞であり、そこでは、ミュージ ェット、レネの作品が、 その演劇との関わりにおいて、それ カルという極度に人工的な劇場的空間において、登場人物た ぞれのかたちで、古典映画の現実的リアリズム的作品世界に ちは歌い踊ることがもたらす魔法のような煌めきによっての たいするオルタナティヴとしての、虚構的シミュラ 1 クル的 み、出会いと別れを永遠的に繰り返す運命の翻弄を耐えてい 作品世界を提示していることであり、それゆえ、これまであ るよ , フに見えるのである。リヴェットは、演劇リハーサルを まり試みられてこなかったことであるが、演劇との関係を通 最重要テーマとし、一貫して事前に準備されたシナリオを用 じてヌーヴェル・ヴァーグ映画を再考することが、幾分とも いず、俳優の即興演技によって新しい映画世界を切り開こう 批評的有効性を有しているのではないかということである。 としてきた。そしてレネは、後期作品でエイクポーンを初め さて最後に、本論文の題名にも使われている、レネの映画 とする劇作家の作品をもとに映画を撮るようになり、原作戯 と、他者あるいは他性との関係について語っておこう。と言 曲のメタ演劇的テ 1 マを扱った虚構性の高い作品世界を、精 っても、読者はすでにこれまでの分析から、レネが、 ( 古典 ) 緻な装置や多彩な映像技法によってさらに増幅させ、浮遊的 映画にたいする演劇 ( あるいはーー場合によっては 芝居的な生の在り方を浮かび上がらせた。このように三作家 ックス ) 、生 ( 者 ) という他者を導入す にたいする死 ( 者 ) の演劇へのアプロ 1 チはそれぞれ異なるものだが、そこに共 ることで、自らのフィルモロジーをなしてきた作家であり、 通して見られるのは、有意味的な現実的行為にたいする不信 そのことが彼の映画の既存の映画にたいするオルタナティヴ と、人間の生をシミュラ 1 クル的なもの、つまり芝居と等価性を形成してきたことを理解されているであろう。それゆえ ( 西 なものとして観じる視点である。私は『演戯の精神史』とい ここでは、その映画が他者に開かれたものであることを示す、 う著作で、演劇史において古代から一七世紀半ばまでは、人 もうふたつの側面に簡単に言及しておこう。ひとつは、その 間を神の操り人形とする古代以来の伝統的世界劇場のイメ 1 映画製作の実際的プロセスに関するものだ。レネが、作家主 ジが生きていたのが、一七世紀後半以降ぎやくに人間が他者義を旗頭とするヌ 1 ヴェル・ヴァ 1 グ映画作家のなかにあっ 4