ホテル - みる会図書館


検索対象: 新潮 2016年8月号
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1. 新潮 2016年8月号

いてきた。そういうことかもしれない。芹沢は無意識のうち 何なの、と美雨が言った。 いや、何でもありません。どうでもいい、ちょっとした連に、うん、と深く頷いていた。美雨がこちらを横目でちらり と盗み見したことに気づいたが、何か取り繕うようなことを 絡で : : : と芹沢は早ロで言い、煙草を一本取り出し、マッチ 言うなり態度で示すなりといった気持の余裕がなかった。 の火を煙草の先に持っていった指先がかすかに震えているの ーク・ホテル では、何の目的で国際飯店へ ? 女を連れ込んでお楽しみ に美雨が気づかなければいいが、と願いながら火を点けた。 の時間を : : : ? いやいや、と芹沢は内心で首を振った。あ ひと息大きく吸いこんだ煙をことさらゆっくり吐き出しなが れはそういう振る舞いはしない男だ。直感にすぎないが、そ ら、つまらない話でね、とさらに念を押すように付け加えた のは、ひとこと多すぎたかもしれない。美雨が怪訝そうに片のことには芹沢はほとんど確信があった。 では、仕事上の用件で誰かと会おうというのか。しかし、 眉を上げたからである。 のんびり散歩でもするような歩きかただったという話から、 そう、と呟いて美雨は目を逸らした。 沈黙が下りた。そっぽを向いてぼんやりしたふうを装いな芹沢には思い当たることがあった。競馬場前に二十二階の威 ーク・ホテル 容を誇ってそそり立つ国際飯店には、上海随一とも言われる がらも、芹沢の頭の中にはいろいろな思いが渦巻いていた。 嘉山が上海に来ている。将校とはいえ一軍人が超高級な国際上等なフランス料理を出すレストランがある。 芹沢はまだ在職中だった頃、嘉山について興味を持ち、身 飯店に宿泊していることはまずありえない。休暇中なら別だ 上調査を試みたことがあった。東京警視庁の知り合いを通じ が、この時期、参謀本部詰めの将校が休暇で上海に滞在して いるなどということも考えられない。当然、宿泊は虹ロの軍て陸軍省の人事局に接触させたが、ガードが固くて碌な知見 は得られなかった。それでもあちこちから手を回して情報を 舎のはずだ。いや、ジェスフィールド路にある例の謎めいた 剣呑な「機関」、あれについて乾は何と言っていたか。実質掻き集め、生年月日や本籍地、簡単な軍歴以外に、個人的な 上はもちろん「嘉山機関」だよーー嘲るようにそう言っての事柄について多少わかったことがある。その一つに、部下を けた乾の声が耳元に甦ってくる。楊少年によれば、嘉山は静引き連れて呑み歩くということもしない無趣味な男だが、あ 安寺路を競馬場 ( 向かって歩いてきたという。では、その歩えて趣味らしい趣味と言えば唯一、ワインとフランス料理を 行の出発点はその「嘉山機関」だったのかもしれない。嘉山好み、独りで食べ歩いて楽しんでいるというのがあった。美恍 はいかめしい鉄扉に鎖されたあの黒灰色の建物に寝泊まりし食 ( の嗜好は、陸軍から。ハリへ派遣され日本大使館付武官と誉 して勤務していた頃に身に着けたのだという。たぶんそれな ていて、そこから出発し、ジェスフィールド路を静安寺まで ーク・ホテル 歩き、さらに静安寺路に人り、ずっと進んで国際飯店まで歩のではあるまいか。芹沢は壁に掛かった時計を見た。七時四 ホテル メイユイ メイユイ メイユイ メイユイ ホンキュウ メイユイ

2. 新潮 2016年8月号

それが、あまりに意外で、この世界は、こんな変わり方を歩いていく。判決が出て、受刑が始まるときには護送車で送 するものなのかという驚きが、いまもいくらか体のなかに残られてきた。だから、今度初めて歩く道だった。 院加駅で電車を降りたのは、この日、午後三時過ぎ。た っている。自分がどこにいるのかわからなくなり、頭のなか だ、町だけ見ておきたいと思っていたので、ここで暮らして がひどく混乱したまま、あのあたりの場所に一人で立ってい いる息子に連絡はしなかった。駅前でホテルを見つけてチェ た。まもなく中学に人るころのことだったか。 ックインするつもりでいた。けれど、改札口を出てみても、 ため息を一つ軽くつき、彼は、じよじょに両方の瞼を開き はじめる。 それらしい建物は見当たらない。 駅前通りを先へと歩いた。赤青白のサインポールが店先で 回る床屋があり、白衣を着け小肥りな主人らしい中年男が、 店の前の路上で片手に携帯灰皿を持ち、たばこをくゆらせて いた。 逮捕のときから領置されたままだったので、少し流行遅れ 「ごめんなさい。ホテルは、このあたりにありますか ? 」 になった薄いべージュの。ハンツスーツをやはり着ることにし と、彼に訊く。 た。鏡の前で、日焼け止めを肌に伸ばして、口紅を引く。領 「ありますよ」 置金も数日旅することができるくらいは残っていた。これも 素晴らしくよく響くバリトンの声で、彼は答えた。そし 財布に戻して、当時と同じトートバッグに人れている。 て、こちらの姿を頭の先から靴まで、ゆっくりと眺めわたし 「それでは、西崎サクラさん、出獄です」 こ 0 部屋まで迎えにきてくれた刑務官に見送られ、通用門まで 「ーー残念ながら、こんな美しいご婦人にお似合いな宿とは の内庭を一人で横切った。受刑者番号ではなく、ひさしぶり 言えませんがね。観光名所ってのがない町ですから。工事業 に本名で呼ばれたことが、どこか芝居じみて、面映いような ら 違和感がしばらく残った。 者とかセールスマンが仕事で泊るようなホテルですが、それ の それが月曜日、朝八時過ぎ。渡されていた地図を手に、駅でよろしければ、すぐ近くですから、連れてってあげましょ 場 岩 う。どうせ店は暇ですから」 までの道を歩いた。逮捕時、梅雨どきだったので、領置品の 男が顎をしやくって、店のほうを指す。ガラス越しの店の なかに帽子はなかった。てのひらで晩夏の朝日を遮りながら

3. 新潮 2016年8月号

は、問答を交わした直後に暴行沙汰が起きて馮が手首を折てどこへ行くか見届けようとして、おれも続いてロビーに人 り、ついで香港移住の話が急始動し、雑事の渦に巻きこま ったんですが、ベルポーイに見咎められて、手荒に追い出さ れちまって : れ、目の回るような日々が続くという成り行きになったから だ。しかし、馮は忘れなかったのだ。彼は洪に言い、洪は子 彼、ホテルの宿泊客みたいだったかい ? 飼いの少年たちに指令を発し、上海市街での嘉山の動向を探 さあ、どうでしよう。もし部屋をとっているなら、その番 らせていた。そういうことだろう。どのようにしてかわから 号を突き止めようと思ったんですよ。でも、駄目でした。昇 ないが嘉山の写真を人手し、洪はそれを配って情報を集めよ降機の方へ真っ直ぐに行く後ろ姿を見たのが最後で・ うとしたが、いっこうに反響がなく、それで、こんなやりか で、ともかく一刻も早く洪さんに伝えようと : それはいっ頃のことなんだ ? たではどうせ見込みがなかろうと半信半疑になり、だから無 駄な期待を持たせないためにおれにはひとことも言わなかっ そう : : : 三十分くらい前ですかね。今日はいつもの相棒と た。そういうことに違いない、と、めまぐるしく頭が回転し 一緒じゃなかったんです。相棒がいれば見張りに残しておい たんだがなあ : てほんの半秒ほどの間にすぐ見当がついた。いや、あえて言 。おれはこの公衆電話を見つけるのに苦労 わなかったわけでもなく、洪自身、九月初め以来の繁忙に取して、そしたら、今度は小銭がなくて、金を崩すのにも手間 り紛れてしまったのだろう。嘉山を見つけるーー芹沢にとっ取って : : : と、楊少年は申し訳なさそうな声になった。 よし、わかった。 ' てそのことにどんな意味があるのか彼にはよくわからず、大 こ苦労だったね。いや、本当に有難う。 して重大なこととも思わず、いっしか洪自身もすっかり忘失洪にも伝えておくよ。 してしまったに違いない。 よかったです、報告できて。おれ、ホテルに戻って玄関を 気がつくと、阿媽が心配そうな表情のまままだ芹沢の後ろ見張っていましようか ? ひょっとしたらもうあの男、出て きてしまったかもしれないけれど : に立っているので、大丈夫、というように作り笑いを浮かべ て頷いてみせた。それでもあまり安心したようではなかった いやいや、それには及ばない。ともかく、感謝する。有難 が、とにかく阿媽は軽くお辞儀をして自室の方へ戻っていっ 芹沢は受話器をフックに掛けて通話を切ると、興奮が全身 その男、嘉山は、独りだったかい ? と芹沢は電話の向こ に満ちてくるのを感じながら、強いてそれを抑えるような うの楊小鵬に尋ねてみた。 表情を取り繕って、美雨のところへ戻り、元の椅子に座り直 した。 独でした。連れはありませんでした。で、ホテルに人っ ャン・シャオペン フェン メイユイ 378

4. 新潮 2016年8月号

0 新潮クレスト・ブックス 。誰もいないホテルで ペーター・シュタム松永美穂〔訳〕 日常を一変させるできごとと、 それに向き合う人々の痛切な思い。 スイス人作家によるの物語。 978 ー 4 ー 1 P591005 ー 1 0 新潮モダン・クラシックス 。プーの細道にたった家 内Ⅷ < ・ < ・ミルン阿川佐和子〔訳〕 0 社 永遠の少年、永遠の森 新Ⅷ世界が愛読し続ける児童文学最高峰を アガワが新訳 , 978 ー 4 ー 1 P599 28 ー 8 森の中のホテルで出会った不思議な 女性。ロック・フェスを見物に来た 近所の農夫。工場から姿を消したも の静かな警備員。食堂の二階で暮ら し始めた若いカップル 平穏な 日々を揺るがすような一瞬と、それ に向き合う人々の驚き、悲嘆、喜びを 丹念に鮮やかに映し出す川篇。世界 的な名声を誇るスイス人作家による 短篇集。月四日発売◎ 1700 円 「プー、僕のこと、ぜったい忘れないっ て約東して。たとえ僕が百歳になっせ ても」。とことん間の抜けた冒険、 お ささかも袞えぬ食欲、いつも賑やかれ な森、そしてクリストファー ・ロビ含 ンとクマのプーの永遠の友情。『ウィ税 ニー・ザ・プ 1 』に続き、完結篇たる消 『プ 1 横丁にたった家』が清爽で軽快 な現代日本語で甦った画期的新訳。価 月四日発売◎ 1400 円示 表

5. 新潮 2016年8月号

メイユイ 十五分。ちょうど夕食どきだ。その芹沢の視線の動きを美雨 りたいことを言い、訊き出したいことを訊き出す。十五分 がさりげなく追っている気配を感知しつつ、それには気づか か、せいぜい二十分もかかるまい。それですぐまたタクシー ないふりで、芹沢はふたロ、三ロしか吸っていない煙草を灰を飛ばして外灘の桟橋へ向かう。まだ八時前だ。船が出るの 皿で揉み消し、さっと立ち上がった。 は十時半。時間の余裕はたつぶりある。 ちょっと、洪に電話してきます。あいつ、何してるのかな いやいや、と首を振りながら芹沢は受話器をフックに掛け た。この期に及んで何を馬鹿なことを、と自分に言い聞かせ る。 そして、美雨の返事を待たず、彼女の顔を見ないようにし ウライエ オモティエ て、電話機のある裏家のホールへそそくさと向かう。 渡り廊下を抜けて表家の玄関ホールに戻ってゆく途中も、 まず馮の家へ、次いで〈花園影戯院〉へ掛けてみたが、呼芹沢はずっと首を振りつづけていた。嘉山が食事をとりに来 び出し音を十数回鳴らしても誰も出ない。洪がいる可能性は たなどというのはおれの推測にすぎない。たとえば、彼は散 ーク・ホテル 低いと思いつつ、念のために維爾蒙路の骨董時計店の番号に歩の途中、国際飯店の煙草売り場に単に葉巻を買いに寄った も掛けてみたが、ここは呼び出し音さえ鳴らない。たぶん電だけかもしれない。あの男の愛好している高級品のミニシガ 話回線をもう取り外してしまったのだろう。他にはもう洪の ーはどこの煙草屋でも売っているといった代物ではない。も 立ち寄り先の心当たりは芹沢にはなかった。 しそうならさっさと葉巻を買って、今頃はもうとっくにホテ 何も聞こえない受話器を耳から離し、それをぼんやり見つ ルから立ち去ってしまっているだろう。また、レストランで めながら芹沢は何秒かの間思いをめぐらせた。楊の話を聞夕食をとるのが目的だったとしても、彼は独りではなく、た き、美味いワインとフランス料理への期待に口元を弛めなが とえばそこで日本軍将校たちの会合でも開かれているのだっ ら国際飯店のロビーへ人ってゆく嘉山の姿が思い浮かんだ瞬 たらどうする : しかし、レストランの人り口まで行って 間から、もう一度だけあいつに会いたいという猛烈な衝動が そんな気配を察したら、すぐ引き揚げてくればいいではない 嘔の底から沸騰してくるのを感じていた。これが間違いな か。そもそも嘉山は平服姿だという。もし軍関係の集まりな く、あいつに会える最後の機会だ、これを逃したらもう死ぬ ら軍服を着て現われるはずだ。だからやはり : : : いやいや、 まで、二度とふたたびあいつの顔を見ることはあるまい、と危険を冒すわけにはいかない。もし何か不慮の事態でも起き いう痛切な思いが込み上げてきて、その衝動に寄り添った。 たら、ここまで手間暇をかけておれの上海脱出のお膳立てを 1 ク・ホテル ここから国際飯店まで : : : ほんの三キロかそこらだろう。 整えてくれた馮にも洪にも顔向けが出来ない。洪に相談し打 タクシーで十分程度だ。あいつの胸ぐらを掴んで、言ってや ち合わせをしたうえでというならまだしも、彼を捕まえるこ ーク・ホテル フェン メイユイ シアター フェン

6. 新潮 2016年8月号

かどったのは、これが夢の中だからに違いないという埒もな き、あなたがわたくしを本気で犯したとしても、そんなこ い思いに誘われながら、ぶるぶる震えていました」 ( 傍点引用 となど起こりはしなかったかのようにすべてが雲散霧消し 者 ) と語っている。 てしまうような場所がここだといってもかまいません。さ 先述の通り、森戸少尉をめぐるエピソードは、伯爵夫人の あ、どうされますか。 語る伝聞の再現話であり、それはホテル地下の「お茶室」で 二朗相手に伝えられている。加えて、仇討ち成功後の逃走と ここに描き出された「どこでもない場所」を、フィクショ いう伯爵夫人自身の経験も、当の再現話につづいておなじ場 ン生成の現場と見ることも、あるいは歴史修正主義の土壌と 所で述べられている。本論は、ホテルでの経緯のいっさいを 読みとることもできるだろうがーーいずれにせよそこでは、 二朗の見る映画的に構造化された夢だと見なしているわけだ 事実の抹消が生じている。 だとすれば、ここに登場している森一尸少尉と伯爵夫人 伯爵夫人は「さあ、どうされますかーと問うている。「す べてが雲散霧消してしまう」などありえない、それは「錯は実際は、各々が現実の当人自身からは切り離された、二朗 の思い浮かべる「夢の中」のキャラクターみたいな存在なの 覚」だと、だれかが休まず伝えつづけなければならないだろ だと言える。そんな「夢の中」のキャラクター的な存在たち う。ならばどのように伝えればいいのか。たとえば、伯爵夫 が、難事への直面に際して「すべてがうまくはかどったのは 人の語る伝聞の再現話に登場する森戸少尉は、「誰が見ても む これが夢の中だからではないか」と指摘してみせているの読 愚かというほかはない作戦に捲きこまれながら、十二人もの だ。その通りだと、ふたりに答えてやらねばならない。つま 部下を救」おうとする最中、突如こんな疑問を呈してみせる 人 りはそこでふたりとも、自分たちの働く場は、「それがどれ夫 のだ。 【 : ・〕負傷した者はおらず、これほどすべてがうまくはか どったのはこれが夢の中だからではないかとあやしみつつ も、少尉はよくやったと全員を賞讃し、長い行軍になるぞ と声をかける。 ( 傍点引用者 ) また同様に伯爵夫人自身も、大佐の「金玉潰し」という仇 討ちを成し遂げた直後の逃走中、「これほど事態がうまくは ス松家仁之〔編〕◎定価 ( 本体 190 。円 + 税 ) ク 三作のフランク・オコナー国際短篇賞受賞作 潮 のほか、マンロ 1 、シュリンク、ウリッカヤなど、 新 全一〇一篇から選んだ傑作短篇アンソロジ 1 美しい子ども 新潮社 789 Sign 、 0 ' the Times

7. 新潮 2016年8月号

「刈」の日没場面が構造的に連続していると考える本論は、 両場面をつないでいるのは二朗の長い睡眠なのだと解釈して ここには一見、「活動写真」への直接の言及がひと言もな いるーーそうだとすれば、作品構造的には、消灯と日没のあ いかのように思われるかもしれない。だが、この書き出しは いだに挟まるすべての場面が、意識のとぎれた一一朗の見る夢まぎれもなく、映画の上映開始を文字通り物語る表現だと本 に内包されていることを意味するわけだ。すなわち伯爵夫人論は考える。 とすごしたひとときも、ホテルでの官能的な経験も、そこで ただでさえ、『伯爵夫人』には「活動写真」にまつわる明 見聞きした秘事も思い起こされた過去の記憶も、それらいっ 示的な記述が頻出するし、受験生にもかかわらず「やたら閑 さいは二朗の脳裏に浮かぶ心象として示されているのではな そうに活動写真ばかり見てあるく」ほどの無類の「活動好 いかと考えられるのだ。 き」が主人公役をまかされてもいる。それらの事実を踏まえ だが、それは単なる夢想でしかないのだろうか。ただの夢て、作品の冒頭場面を、まるで映画でも観ているような印象 にはおさまりようもない、複雑なからくりがそこに見え隠れ をもたらす映像的な表現だと形容したいのではない。あくま してはいまいか。また、点いたり消えたりする規則性が認め でも、映画の上映開始それ自体がそこでじかに描かれている られる夢というのが仮にあるのだとすれば、その点滅には、 と言いたいのだ。 どういう仕組みが隠されているのだろうか。 「傾きかけた西日を受けてばふりばふりとまわっている重そ 作品全体を通して、二朗が視覚的体験として受けとめてい うな回転扉」は、書き出しに据えられるのみならず、いくら るものは、夢でも心象でも記憶でも、どれとも無関係でない か形を変えながらも作中の随所でくりかえし語られるイメー ことは疑いえないがーー・いずれにせよ、『伯爵夫人』という ジのひとつだ。つまりそれだけ、『伯爵夫人』を成り立たし 散文はこのようにはじまっているのだから、その総称として める創作上のルールにおいて重い役割をになっていると読み 「活動写真」の一語をつぶやいてしまってもそろそろ許され とれるのだがーーならばその、「回転扉」なる装置には、い るのではなかろうか。 ったいどんな意味が込められているのだろうか。ヒントはこ こにある。 傾きかけた西日を受けてばふりばふりとまわっている重 そうな回転扉を小走りにすり抜け、劇場街の雑踏に背を向 けて公園に通じる日陰の歩道を足早に遠ざかって行く和服 姿の女は、どう見たって伯爵夫人にちがいない。 【 : ・〕あそこの回転扉に扉の板は三つしかありません。そ の違いに気づかないと、とてもホテルをお楽しみになるこ となどできませんことよと、伯爵夫人は艶然と微笑む。四 780

8. 新潮 2016年8月号

できごと」と言えるのかどうかについては、個別の検証が必 要となるだろう。 ば、「どう見ても皇族としか思えぬ無ロな紳士」が「赤坂の % 有名な魚屋さんのご用聞きに変装」することもあるのだが、 その反転ーーというよりも変転ぶりが最もあざやかに際立っ のが、蓬子の強姦未遂被害告白をめぐって作中に形成される 「ルー・ゲーリックのサイン」が「印刷」された「硬球」が文脈の移り変わりである。 「Ⅶ」の序盤、ホテルの電話ポックスで身を寄せあうなか 「二朗の股間を直撃する」顛末 ( 太平洋戦争の敗戦を予見するエ 「ごく他愛もなく勃起し始め」た二朗に対し、伯爵夫人が ピソードと読めぬこともない ) を描く「Ⅳ」の前章は、ホテル の電話ポックスで伯爵夫人に「金玉をねじりあげ」られた二 「指先を股間にあてがうと、それを機に、亀頭の先端から大 朗の苦悶を物語っている。「この痛みは未知のものではない。 量の液体が下着にほとばし」ってしまう。「半時もしないう ちに二度もお洩らし」などしでかしたため、着替えねばなら そう思ってからだで記憶をよみがえらせようと足掻き始めた ところで、新たな鈍痛とともに意識が薄れる」 ( 傍点引用者 ) なくなった二朗は、案内された「殺風景な一二つのシャワーの とあって次章へ移行するのだから、むしろ「Ⅳ」で展開され ついた浴場」に「閉じこめられて」いるうちに、回想に人 る「濱尾家でのルー・ゲーリック事件」のほうこそが「よみ る。「毎朝、洗面器にぬるい湯をみたし」て夢精の後始末を してくれる女中の小春からーー、「法科の人学試験が終わるま がえらせ」られた過去の「痛み」の「記憶」であり、気絶中 の回想であると読むのが自然の摂理にかなっているのかもし で禁欲しておられるのなら」とあるので、そう遠くない過日 れない。 に交わされたと思われる会話中ーー次のように問いただされ たことを彼は思い出すのだ。 にもかかわらず、本論がこれまで「Ⅳ」を回想の挿人とは あっかわずに議論を進めてきたのは、世界の複製性を強調 〔・ : 〕一部始終をすっかりお話しいただきましたよと小春 し、「本物より本物らしく見える偽物の魅力」を称えている は座り直し、鵠沼海岸のお屋敷のお納戸で、二朗さまがよ かのようにも見える『伯爵夫人』では、構造的な連続性もさ コスチュ 1 ムプし 1 ることながら、変装・変身をはじめとした虚実の反転劇もま もぎさまにどんな仕打ちをなさったのか、ご本人からしか と伺っておりますと横目で二朗をうかがう。いつもの二朗 た、創作上のルールに則して緊密に組み込まれていると考え られるためだ。 兄さまからは想像できないほどの粗暴さでズロースを引き 裂かれると、そそり立つおちんちんを隠そうともせず馬乗 たとえば「日本橋のさる老舗の鰹節屋のご長男と次男の りになり、胸からおなかへと唇をはわせ、あろうことか、 方」が「憲兵大尉と特高警察の幹部に変身」することもあれ

9. 新潮 2016年8月号

沈さんが探しているっていう : して、洪さんがいないのなら沈さんを出してくれ、と・ : 嘉山少佐か、日本陸軍の ? 誰ですか、相手は、と芹沢はロを挟んだ。 シャオペン 少佐 : : : かどうか、おれはよく知らないけれど、そうで 楊・ : : ・小鵬とか、言いましたか・ 芹沢はその名前にかすかな聞き覚えがあった。洪の使い走す、そのカヤマです。軍服ではなくてスーツにネクタイ姿で りで小遣い稼ぎをしている少年たちのうちの一人のような気したが、渡されていた写真に顔がそっくりで、まず間違いあ りません。競馬場へ向かって、のんびりした歩きかたで、ぶ がする らぶらと、散歩でもするみたいに静安寺路を上って、 バ 1 ク・ホテル 国際飯店へ人っていったので : ち上がり、阿媽に先導され、渡り廊下を抜けて裏家のホール よりにもよって、と芹沢は思い、歯を喰いしばった。より に人った。壁に据えられた電話機のところまで行って受話器 にもよって今日この日の、それもさあいよいよ出発しようと を取り、耳に当て、 いうこのぎりぎりの時刻になって、嘉山の姿が目撃されたと はい、沈ですが、と送話口に口を寄せて言うなり、受話器 から安堵と焦燥がないまぜになったような急きこんだ声が流いうのか。上海を去る前に一度でいいから嘉山に会いたい 骨董時計店で馮に会ったあの夜、おれはそう言い、役に れ出し、その子供つぼい声を聞くとまだあどけなさを残した 立ってあげられるかもしれないと馮は答えた。自分で言い出 楊の顔がくつきりと浮かんできた。洪には彼を慕って後をつ しておきながらその問答をすっかり忘れてしまっていたの いて回り、呼び出されると嬉々として駆けつけてくる、雇い 人というよりはむしろ子分のような若衆が何人かおり、十 ャン・シャオペン 梗概 五、六の楊小鵬もたしかその一人、というかその中の末弟 魔都・上海。日本人警官の芹沢一郎は、知人の馮老人を通 のような存在だったはずだ。 じ、陸軍の嘉山少佐に頼まれた蕭炎彬との面会の仲介を成功 ああ、良かった、沈さん、あのですね、見つけたんです させたが、その件で上司から依願退職を迫られる。年が明け よ、静安寺路で。あっと思ったけど、おれ、目を合わせない 一九三八年、芹沢は自分を罠に陥れた同僚の乾を問いつめる うち、殺してしまう。一年の逃亡の末、馮に映写技師の職を ように、知らん顔してすれ違ったうえで、後戻りして、距離 バーク・ホテル あてがわれた芹沢は、蕭の第一二夫人・美雨に同居しないかと を置いて後をつけていったら、国際飯店に 誘われ、彼女と関係を持つ。切迫する戦況下、さらに馮に、 待て待て、と芹沢は遮って、見つけたって、何を見つけた 一緒に香港に居を移そうと誘われ、十月十五日の引っ越しの んだ。 日を迎える。 あの日本人ですよ。カヤマと言いましたか ? 馮先生や シェン ウライエ フェンシェンシェン フェン フェン 377 名誉と恍惚

10. 新潮 2016年8月号

に幾つも転がっている。「二」っ並んだ食堂兼ホテルには 「反復Ⅱ循環性」ということだった。それは「一」と「二」 「二」階があるし しかもこの「二階」は物語の重要な の区別がっかなくなること、すなわち「一」が「二」でもあ 「事件の現場」となるーー、市役所前から砂丘地帯までを走 り「二」が「一」でもあり得るという事態だ。しかしそれだ る路面電車は「一一」輛連結であり、一時間に「一一」本しかな って、まず「二」度目とされる何ごとかが召喚されたからこ い。とりわけ路面電車にかかわる二つの「二」は、ほぼ省略そ起こり得る現象だと言える。 されることなく常にしつこく記されており、そこには奇妙な また、この物語には「大伯父とその義理の弟」以外にも幾 執着のようなものさえ感じられる。陥没地帯は、どうしてか組ものペアやダブルが、これまたこれみよがしに配されてい はともかく、ひたすら「二」を召喚したいがゆえに、ただそ る。あの「二人の老人」は二人一役のために互いを似せてい れだけのために、相似という意匠を身に纏ってみせているの たというのだが、他にも「船長」や「女将」や「姉」や ではないか。 「弟」、或いは「男」や「女」といった普通名詞で呼ばれる登 「二」であることには複数の様態がある ( 「複数ーというの場人物たちが、その時々の「いま」において複雑極まる一人 は二つ以上ということだ ) 。まず、順序の「二」。二番目の 二役 / 一一人一役を演じさせられている。この人物とあの人物 二、一の次で三の前であるところの「二」がある。次に、反が、実は時を隔てた同一人物なのではないか、いやそうでは 復の「二」。二度目の二、ある出来事が ( あるいはほとんど なく両者はやはりまったくの別の存在なのか、つまり真に存 同純出来事が ) もう一度繰り返される、という「二」があ在して」るのは「一」なのか「二」なのか、という設問が、 るそして、ペアの「二」。二対の二、対立的 ( 敵味方 / ラ決して真実を確定され得ないまま、切りもなく無数に生じて イバル ) か相補的 C ハディ ) か、その両方かはともかく、二 くるように書かれてあり、しかしそれもやはりまず「二」っ つで一組を成す、という「二」がある。それからダブルの のものが召喚されたからこそ起こり得た現象であり、もちろ 「二」、二重の二があるが、これ自体が二つに分かれる。一つ んこのこと自体が「反復Ⅱ循環性」によって強化されてもい るわけだ。 の存在が内包 / 表出する一一、二面性とか二重人格とかドッペ ルゲンガーの「二」と、二つの存在が一つであるかに誤認 / こう考えてみると、もうひとつの特性である「無名状態」 錯覚される二、双児や他人の空似や成り澄ましなどといっ にも、抽象化とはまた別の実践的な理由があるのではないか た、つまり相似の「二」。オーダー、リピート、ペア、ダブ と思えてくる。ひどく似ているとされる二者は、しかしそれ ル、これらの「二」どもが、この小説にはあまねくふんだん ぞれ別個の名前が与えられていれば、当然のことながら区別 に取り込まれている。オーダーとリピートが分かち難く絡み がついてしまい、相似の「二」が成立しなくなってしまうか 合って一緒くたになってしまっているさまこそ、前に見た らだ。だから「二軒並んだ食堂兼ホテル」が名前で呼ばれる 2 側