ムスビ - みる会図書館


検索対象: 新潮 2016年8月号
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1. 新潮 2016年8月号

た影になる草木に覆われた川べりでも、空に雲があるため暗 の職員に注意されたという経験から、境界は越えないように している。そうしているのは柳さんだけではなかった。彼と闇の濃度はだいぶ薄まっていた。ふたつの都市が夜通し発す る光を雲がスクリーンのように反射するためで、家の周囲の 同じように川のそばで暮らす者たちの家は、みな鴨崎市側に モノや小道の輪郭を把握できるほどには明るかった。これ はみでないように建てられていた。 が、夜空に雲がなく月もでていない場合には、足元がおぼっ 河川敷に面した家の左には大きな胡桃の木が生え、家を守 かないほど暗くなる。 る天然の屋根のように枝葉を広げている。家の出人り口のあ 柳さんは、庭にとめていた自転車をいったんバックで道ま る右脇から裏手の川へ下りていけるようになっており、丈高 で出し、向きを変えて乗り込もうとした。すると、家のほう く繁った草むらの間の細道を下っていくと、ほどなく川岸に から音もなく現れて近づいてくる白いものがあった。それは でた。家から川までは十五メートルも離れていないかもしれ ない。 足元まで近寄ってから、前足を投げだしてぐうっと伸びをす る。ふだんの三倍もあるような長さになる。十歳になるオス ふだんは流れというものをほとんど感じさせないのどかな 川の対岸はいきなりコンクリートの堤防になっていて、そこ猫のムスビだった。ほぼ白地だが、耳と額にかけて生えた黒 から先は東京都恩田区の高級住宅地となっていた。大正時代い毛が、おにぎりの海苔のように見える。しかし「おにぎ り」とか「にぎり」だと呼びづらいしカッコ悪いから、「お に「庭園都市」をコンセプトに開発された町らしいが、はず むすび」の「お」を省いて「ムスビ」と呼ぶことにした。元 れのほうだからか、案外「高級」という感じのしない古ぼけ の飼い主だった柄本さんは、まだ子猫だったムスビのことを た家も多い。堤防沿いに走る道路の向こうには古墳群が眠る 「ネコ」としか呼ばなかったから、柳さんが名づけ直したの という木々に覆われた丘が横たわっていて、その背後にある 像 肖 である。 閑静な住宅地はここからは見えなかった。いわば柳さんは、 る 柄本さんがムスビを預けていったのは、足のむくみがひど 前面を鴨崎市と国交省の境界、背面を東京都と神奈川県の都 いからと野宿者支援団体の者に人院を勧められたからだっえ 県境という、ふたつの境界に挟まれた場所で暮らしていた。 た。しかし、人院して一週間もしないうちに、柄本さんは他の 住所としては存在しないその家から、起きだした柳さんが ち た 煙草に火をつけながらでてきた。少しばかり右脚を引きずつ界してしまった。 体が元の長さにもどり、見上げるムスビの額を、柳さんはビ ている。六十一二歳となる彼のホームレス歴は、すでに二十年 肉厚のふしくれだった手でなでた。手のひらにちょうどよく野 を越えていた。 おさまる頭の大きさ。毛皮の下の頭骨の感触もよくわかる。 七月下旬の午前一時半。そんな夜更けの、夜には黒々とし

2. 新潮 2016年8月号

「やあ、ムスビ」 「だから、ムスビさんが安心して気持ちよさそうにしてる音 を、今朝みたいにおれらを追っ払おうとしてる町の人たち 板の上のムスビににつこり笑いかけた。ムスビは驚くこと に、聴かしてやりたいんです。できれば、その人たちだけじ もなく、落ち着いた様子で小池さんのほうに目を向けてい る。 ゃなくて、全世界の人たちに。みんな、仲直りしようって」 木下は徴笑みを浮かべてそう言った。こいつは頭がいいの 「ああ、まだ残ってるよ。いつもありがと。そのでかい西 かただの阿呆なのか、どっちなんだと柳さんは思う。 瓜、またもらったの ? 」 「まあ、猫が喉鳴らしたり、寝たり飯食ってる姿ってのは、 「そうなんだよ。あっちの、橋をずっと越えた先で飼われて いいもんだけどな」 る犬がご飯食べないっていうから、別のフードを持ってった 半分だけ同意した柳さんは、木下の横顔に目をとめた。 んだよね。そしたら、お礼にこれあげるって」 「木下さん、あんた、太ったか ? 」 「そりややけに立派だな。弧間川西瓜だ」 「え、おれですか ? 太りました ? 」 「弧間川西瓜 ? 」 「ちがうか。顔つきがやわらかくなって、そう見えるのか」 小池さんとはすでに何度か顔を合わせている木下が不思議 そうに聞くと、 「ああ、それはあるかも。ここに来る前より、気持ちが安定 してる気がしますもん」 「その人んちの近くにゴロゴロ生えてるんだよ。だれかが捨 てた種から育ったんだろうね」 左手の下流側から自転車に乗った男が通りかかり、急プレ ーキをかけて止まった。弧間川全域の猫たちのために毎日駆 「へえ、ここには西瓜もあるんですね」 け回っている、小池さんという五十代後半の男だった。自腹 「なんだってあるよ。ゴーヤにプチトマト、南瓜、じゃが で用意したキャットフードをあげたり、具合の悪い猫がいれ芋、玉葱、無花果。銀杏を集めて売る人もいるし」 ば手当てをしたり、病院に連れて行ったりしていた。自転車 「細田さんとこの筍もあるよ」 の荷台にのせたカゴからはいつもキャットフードの袋がのぞ 柳さんが付け加えた。細田さんの家の周りは孟宗竹の林に いているのだが、このときはなぜか、はちきれそうなほど大なっている。 きな西瓜がはみでていた。 「それを梶さんがだし人れて煮てくれっと、これがうめんだ 「ヤナさん、抗生物質足りてる ? 」 よね。とれたてだから、えぐみもねんだ。栗みてえな味がす る」 メガネをかけたロひげの小池さんは、開口一番そうたずね つくしのびるせり ると、 「そうそう。春には土筆、野蒜、芹に浜大根もね」

3. 新潮 2016年8月号

ばかりを報道し、人々はその結果に一喜一憂していた。あた ないのだから、すでに柳さんはムスビを迎えに来て連れてい ったとは考えられないだろうか。 かも、船底のあちこちに穴が開いて沈没しかけているのを一 数日前もぼくは、柳さんの家があったところへ向かいなが 切知らされず、またおかしいと気づこうともせずに、船内で ら、罪のない笑顔が散らばる河川敷グラウンドをぼんやり眺 。ハーティーを楽しむ人たちのように。 めていた。 ぼくは人院中に川島さんの助けを借りて生活保護の手続き 罪のない : : : ? それはたしかにそうだろう。彼らの中に をし、ア。ハートに人ることができていた。それがなければぼ は、疲弊する日々をやりくりしてどうにかっくった休日を楽 くはいつまでも、社会の内側にもどることができなかっただ しみに来た者たちもいるはずだ。だけど、それでもぼくは、 ろう。当初ぼくはその受給に否定的だったけれど、一度失っ た住まいと、仕事探しするためにも必要な生活資金を確保すホントにそうなのかと重ねて聞いてみたくなる。彼らがいる まさにその場所で、ぼくらは逃げまどった。無惨としか言い るのは、自力ではほぼ無理だということがわかった。しか し、そうした唯一といっていい公的な救済策である生活保護ようのないあんな事態を引き起こしたのは、一体、だれなの 制度も、深刻な財政圧迫と、こうした制度があるから働かな ぼくがそう問うたとしても、答えはわかっている。彼らは くなるのだという理屈によって、段階的に廃止していく方向 口をそろえてこう言うだろう。自分は何も手を下してない。 で検討がはじまっていた。 ぼくはハローワークに通いながら、暇ができれば徒歩で河そんなことになってたなんて知らなかったんだから、なんの 川敷を訪れていた。日当りが悪くクーラーのきかない部屋で責任があるの、と。 もう何度も訪れていたが、やはり、柳さんの家があったと 書けない悶々を抱えているよりはマシだろうというのと、も ころには丈の高い雑草が生い茂っていた。その奥の、一度す しかして、ムスビに会えるのではないかという期待があった からだ。 べて焼けてしまった川べりに新たに生えた草も、ほとんど以 あれ以来、ムスビとともに、柳さんたちの消息はつかめて前と変わらないくらい生長している。住人たちの情報をノー トに記録した「住人録」も焼失したのか破片すら見つから いなかった。今も弧間川流域を自転車で駆け回っている小池 さんには会うことができたが、小池さんも柳さんたちがどこず、もとからここにはだれも住んでいなかったようにさえ思 えてくる。だが、それでもあの胡桃の木だけは、幹に焼けこ にいるのかわからないという。ムスビの姿もまだ見ていない げた跡を残しながらまだ立っているのだった。家を覆ってい けれど、見かけたら保護するよと小池さんは言っていた。し た枝の部分はほとんど焼けて半分ほどの長さになっていたも かし、あれだけ弧間川を見回っている小池さんが見つけられ ゝ 0

4. 新潮 2016年8月号

れる。 やはりそうかと柳さんは苦笑し、 町と遮断され、いよいよ食べ物を得るのがむずかしくなっ 「もしなんか困ったことあったら、おれか木下さんに言って た河川敷では、川べりに寄る川鵜や鴉や鼠をつかまえて食べ くれ」 たり売ったりする者が現れた。死んだ赤ん坊が翌日にはどこ そう言ってもどろうとすると、「あたしには言わないのか かへ消えたという話までささやかれていた。赤ん坊の話は疑 よ」とサクラがまた傘を振り下ろしながら大声を上げるのだ っ ( 。 わしいとしても、このままではいっか、河川敷にいる猫たち が食用としてねらわれてもおかしくなかった。 「このエロ気狂い、だから油断なんねんだ、男はジジイにな 肉を調達する者が現れるなら、当然、魚を調達する者も現 ってもやれつからなっ」 れる。自作の仕掛けで釣りをする者もいれば、投網で本格的 に漁をする者もいた。大きなコイやボラ、ウグイのほか、時 もはやかってののどかな日々が思いだせないほどに河川敷 には「ガー」という種類の体長二メートル以上にもなる北米 の様相は一変したものの、夜更けに起きだして缶を集めに行 く生活リズムは変わらなかった。ムスビがちょこんと座って原産の古代魚をとったりしているようだった。自分の食用に 見送りするのも変わらない。ただ、自転車を家のなかから庭するとともに、生かしておいて売る場合もあるという。弧間 川には巨大化して飼いきれなくなったり、飼養と販売が禁じ 先にだすようになったのは、やはり以前とはちがうことだっ られた「特定外来生物」の指定を受けたために捨てられた外 のそのそと家からでてきて道の上に丸くなったムスビに向来魚が数多く棲息していた。そのなかには闇市場で高値で取 引されるものもあって、柳さんが下流にできた野宿者の集落 かって、「じゃあ、行ってくんぞ」と声をかけた。「何かあっ 像 たら、すぐ逃げんだぞ」。ムスビは大口を開けてあくびをし で聞いた話では、そうしためずらしい魚をねらった漁師集団硝 もいるということだった。 た。空気を吸い込み、吐きだして。ハクッと口を閉じる音まで 上 昼前に缶集めからもどってくると、まずムスビの安否を確 はっきりと聞こえ、柳さんは笑った。 認した。日中は大体散策にでかけていてタ方近くにならないの 自転車を走らせながら土手のほうを見やると、百メートル くらいの間隔で立っている人影が点々と見えた。土手向こう ともどらないが、このときは家の屋根の上でくつろいでい た。仏様のように目を細めてこちらを見下ろしている。 の町に雇われた警備員だと思われた。土手の外へ野宿者があ 良 のんきな野郎だと舌打ちしつつも安堵して、自転車から空野 ふれないように見張っているらしかったが、彼らがいるだけ き缶の人った袋を下ろした。その軽さに、おれももう漁師に で、河川敷と町とをへだてる透明な壁ができたように感じら

5. 新潮 2016年8月号

ぎた雑草を刈り込むように、いよいよここにも行政の手が人 が人らずに空き地のままである。 る。ムスビと別れて船に閉じ込められて暮らすなんて、到底 小道を下りかけた途端、柳さんは動きが止まった。草むら 考えられなかった。いっそ紅梅あたりまで行ってしまおうか の間から、弓を横にしたかたちの黒光りするクロスボウがの と考えながら、どうやって食べているのかわからない者たち ぞいていた。草に隠れて人の姿はよく見えない。狙いをさだ で埋まったグラウンドのほうを眺めやる。 めるように動きが固定されたクロスボウの、矢が飛んで行く と、どこかから、ヴワアアアアンと蜂の群れが塊で来たの だろう方向に目を向けて、とっさに柳さんは叫んだ。 かと思うような音が聞こえてきた。気持ちを波立たせる不愉 「ムスビッ」 快な音だった。頭上を覆う木の枝葉のせいか、いつまでも姿 草地に一本だけ生えた木の上にムスビがいた。枝に腹ばい が見えないと思っていると、突然それは視界に落ちてきた。 になってしつぼを機嫌よさそうに揺らしていたが、柳さんの 前にも飛んでいるのを見かけたことのある、あの小型無人機異様な大声に驚いてビクリと起き上がった直後、放たれた矢 だった。 がムスビの胸元をかすめて枝葉の向こうに消えていった。葉 四隅についたプロペラを人れて幅と奥行きがそれぞれ四十が。ハラ。ハラと落ち、ムスビはすぐに枝から飛び降りて、草む センチほどのそれは、大きな音を立てながら、柳さんの視界らのなかに逃げ込んでいった。 の高さで静止していた。筒型の機体の鼻先にあるのはビデオ 柳さんはクロスボウが見えている草むらのほうへ駆けだし カメラのレンズのようで、その目は柳さんを真正面からとら た。殺してやる、それしか頭になかった。次の矢をセットす えている。なんて失礼な野郎だと柳さんが立ってつかまえよ るために揺れていたピストル型のクロスボウが、今度は猛然 うとすると、予期していたようにふわりと浮いて、また頭上 と駆け寄っていく柳さんのほうに向けられた。その動きが固 の枝葉にかくれて見えなくなった。 定されたと認識した瞬間、視界に一瞬何かが閃き、左肩の付 柳さんは小道のほうにでて、無人機の行方を追った。それ け根にドンツ、と重い衝撃を受けた。が、柳さんは勢いをゆ は空高くを飛びながら、家の裏手の川のほうへ向かっている るめずに走り寄り、そのままクロスボウだけが見えている草 ようだった。コウモリは翌日の天気を教えてくれるとした むらに躍りかかっていた。 ら、あれも何かの報せなのか。追いかけてみようと、家の脇 こちらに向けられたクロスボウごとなぎ倒すようにして、 を通って川のほうへ下る坂道のほうへ急いだ。なだらかな坂 相手にのしかかる。思ったよりもだいぶ小柄な相手は、サン がやがて平坦になるその小道の両側には、高さが一メートル ドベージュ色の野球帽を被り、同じ色合いの長袖シャッと、 以上も伸びた草が生い繁っていて、そこは今のところまだ人 十ケットのたくさんついたベストを着ていた。透明なゴーグ

6. 新潮 2016年8月号

おそらくケンさんは、何かの原因で急死し、そのため父親 ムスビがふいに頭をもたげ、外のほうを見た。すると間も がだれにも助けを求められずに餓死してしまったのかもしれ なくだれかが庭に人る音がして、 ない。もっと早く気づいてやれなかったか、周りに住みはじ 「柳さん、寝てますか ? 」 めた人たちはあれほどの臭気でなぜだれもおかしいと思わな 遠慮がちに聞いてくる声がした。木下だった。柳さんは体 かったのかと、柳さんは父親が息絶えるまでのことを何度も を起こし、「おう、起きてるよ」と答えた。 想像して痛ましい思いに駆られた。警官から聴取を受けた 外にでると、木下が頼りなげな表情で立っていた。柳さん が、ケンさん親子について知っていることはごくわずかだっ を見て「朝早くすいません」と頭を下げる。「なんだ、どう ( 0 した」と聞かれて木下は「いや」と言いよどみ、 哀れに思うと同時に、思いだすのはどうしても、あの溶け 「昨日のことが、ちょっとショックで : : : 」 かけた姿と腐臭のことだった。思いだすだけで胃が引き攣れ 「まあ、はじめてなら、そうなるだろ」 そうになる。けれど自分も、死ねばあれほどまでに形を失 柳さんはそう言いながら、庭先にだしたままの木の椅子が い、獰猛な臭気を発するのだと思った。 濡れていないかたしかめ、軽く手で払ってから座った。そこ 濃い枝葉に光をさえぎられて、トタンを透かして見る屋根は木の枝葉が屋根のようになっているため、多少の雨ならあ の上は暗かった。それでもグラウンド側にあつらえた窓から たらないのだった。木下もいつものアウトドア用のちいさな は、曇天なりに光が差し込んでいる。枕元の腕時計を見る椅子に腰かける。しばらくふたりで黙ったまま、霧雨を吸っ と、朝の七時だった。 てしっとりとした黄緑色を見せる芝生のほうを眺めていた。 枕元でムスビも一緒に寝ている。腕時計に手をやったつい 雨はやんだのか、視線の先の芝生の上に、うっすらと靄が でにしばらくその体をなでた。指のなかに、コリコリした感漂っている。その下には、丸くてちいさな黒い影が点々と散 触のムスビの耳がある。おれは最後までこいっと一緒にいら らばっていた。なんという鳥かわからないが、スズメよりも れるだろうかと思う。野良猫の平均寿命は約五年、家猫は約少し大きい鳥たちだった。何かをついばみながらちょんちょ 十五年と聞いたことがあるが、すでに十年も生きているムス んと跳ね、つらなるように全体がちょっとずつ右に移動して ビは、あと何年生きられるのか。何があっても、おれのほう いく。遅れたものは、ハッと気づいたように羽ばたいて群れ が先に逝くことは避けたいが : に加わった。その光景の先には、土手下の家からでて、両腕 やがてムスビの喉を震わす音が聞こえだし、その響きが室を振り回したり脚を前後に大きく開いたりして体操する人影 . 、フレレレ . 内を満たしていった。フルル・ が見えていた。背が高くしなやかな動きをみせるその人は、

7. 新潮 2016年8月号

そういう思いから、先週、木下の家づくりを手伝ってやっ た柳さんは、とりあえず家のかたちになるようにアド。ハイス しただけで、それ以上はとくに教えなかった。本格的にやる のなら、川が増水しても流されないよう地中に単管。ハイプを 四本打ち込み、家の四隅の柱をそれに固定するのだが。 「おお、ちゃんと動くみたいだ」 木下がうれしそうに言った。 「あとはカセットテープを人れれば、録音できますね」 「録音 ? 何録んだ」 木下はふふふと笑って、自分の背後を指さした。そこには 荷台に板を置いてテープルがわりにしたリャカーがあり、エ 具だのキャットフードの袋だのが無造作に置かれた板の空い たスペースに、ムスビが四肢を折って香箱をつくっていた。 はじめは木下がいると逃げだしたムスビも、最近では近くで くつろぐようになっている。ただ、猫好きだという木下がな でようとすると、そそくさと体を起こしてどこかへ行ってし まうのだった。 「こいつを録る ? ー 怪訝そうな顔をした柳さんに、木下は笑ってうなずいた。 「はい。ムスビさんが喉を鳴らす音、録ったらどうだろうつ 「なんでそんなもんを」 「猫が喉をふるふる震わす音こそ、世界を鎮静させる音です から」 「はあ ? 」 「前におれ、女性誌の仕事で、すごい人気があるっていうョ ガ教室を体験取材したことがあるんですよ。その教室では、 ョガで体動かしたあとに冥想の時間があるんですけど、」 「メイソウ」 「はい、冥想。座禅みたいなやつです。で、そんときに先生 が、猫がふるふる喉を鳴らす音を流したんです。この音の波 動に心身をリラックスさせる効果があるからって」 「なんだか怪しい教室だな」 「ええ、おれも最初、ふざけたとこだなあって内心バカにし て笑ってたんですけど、でもこれが、ウソじ . ゃなかったんで すよ。聴いてるうちにホントにおだやかな気持ちになって、 心底あったかくて愉快な気持ちになって、最後のほうなん か、泣けてきました。なんかもう、この世にあることすべて を許せる気持ちになって」 「あんたは : : : 」 根っからお人好しだなと言いそうになる。それがいいとこ ろではあるが、こういう理屈っぽいくせにウブなやつが、妙 像 肖 な宗教にコロッとはまるのだ。 る 「それまではおれ、なんでこんなに世界全体、戦争だの貧困 上 え だの経済格差だの、いじめだの虐待だのって、人にやさしく ないんだろうってずっと怒ってたんです。やさしくない世のの 中に生きてても、安心できないじゃないですか。でも、その とき思ったんですよ。まず自分がやさしい気持ちになること 良 野 のほうが、大事じゃないかって」 「ほう」

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なかった。家の下のほうから勢いよく火柱が立ったのが見え発して燃えさかるだれかの家のそばで、茫然と立ちつくして ( 0 いた。手にはあの男たちと同じ、火のついた棒を持ってい 「ムスビ、ムスビッ」 柳さんが木下の制止を聞かずに燃えはじめた家に向かいか 柳さんが自転車を止めて呼んでも、気づかない。降りてい けたとき、家の右脇にある人り口から、ひょいとムスビが顔つて名前を呼ぶと、アルは周囲に目を向けたまま、 をだした。炎の色を宿してまん丸く見開かれた目は、一瞬た 「こんなふうに焼かれたのか ? 」と震える声で言った。 しかに柳さんをとらえた。が、すぐに柳さんの脇を駆け抜け 「ボクのお父さん、お母さんも」 て小道にでると、あっという間にグラウンドの炎と炎の間を 「なんだって ? 」 縫うようにして下流のほうへ走り去っていった。 柳さんがアルの顔をのぞき込むと、アルは突然、肩に置か 柳さんは、ムスビが消えた暗がりのほうを凝視した。体の れた柳さんの手を振り払った。そして形相を一変させて、 「ニホンジンツ」と叫んだ。 一部が引きちぎられたようで、追いかけたいのを歯を食いし ばってこらえ、逃げろ、と思った。逃げろ逃げろ逃げろ、逃 「お前たちも、ボクらを、いじめるのか ? ボクらをつかま げて生きのびろ。そして自分を励ますように、あいつなら大えて、売るのか ? ボクのオジさんにやったみたいに、ニュ 丈夫だ、と思った。おれも生きて、絶対に迎えにいくから ウカンにずうっと閉じ込めて、頭おかしくさせるのか ? 」 な。 「何言ってんだ」 柳さんはリャカーを接続した自転車を道にだし、荷物のい 「だったら、ボクも、お前たち殺す。ヒトをノロわばアナふ くつかを下ろして、そこに三村親子を乗せた。自転車のほう たつだ、でもちがう、ボクが一回呪えば、ポケツが百もでき 像 肖 が遠くまで逃げられると思ったからだが、乗せるつもりのな る、千もできる。ボクは世界中にポケッ掘る。たくさんたく る かったサクラも勝手に乗り込んでしまったので、ペダルが重さんポケッ掘る。ヒイ 、、、ツ、、、、、ツ ! 燃えろ燃えが え くて動かない。リャカーの後部を木下に押してもらい、よう ろ、もっと燃えろおお ! 」 やくのろのろと出発することができた。 火勢をあおるように棒を振り回しながら、アルはけたたまの 行き先もわからず、とりあえずみんなが逃げていく上流の しく笑った。体を折り曲げ、歯を見せて笑っているのに、顔 ほうへ向かう。走り疲れて小道の脇にうずくまる者。焼死体中に涙をあふれさせている。 良 野 とおぼしき人影。立ちこぎしつつもそれらを轢かないように 「アル。おいアルツ」 慎重に。へダルを踏んでいると、アルがいた。もうもうと煙を 柳さんは棒を振り回すアルの腕をおさえた。

9. 新潮 2016年8月号

も見えていた。ほのかなオレンジ色をまとった白さが、朝日 スウ、とムスビが寝息を立てて、箱の中でもぞりと寝返り を浴びたっくりものの霊峰でもあるかのように、夜空に冴え する音が聞こえた。ふたりの前方では、ロウソクや懐中電灯冴えと浮き上がっている。 どこか別の世界から現れたようにも思えるそれらのほうを の明かりを灯したテントやプルーシートの家々が、色とりど りの盆灯籠のようにやわらかな光をにじませていた。ただ、 木下も見ていたが、もはや何も言わなかった。以前木下が言 ったように、あれらが踏みつけにしているのがおれらなの それは全体の一部で、ほとんどが明かりもなく、ひっそりと 闇にまぎれている。取り込んでいない洗濯物の衣類が白く浮か。それともおれらが、ああいうものが建つのを許している のか。どっちなのかは柳さんにはわからなかったが、あれら き上がって風に揺れていた。 「惨憺たる有様なのに、それでもきれいなような、いじらし みんな、コンクリとガラスと金属の筍みてえだなと思う。あ いような : ヘンな感じですね」 りゃあ根っこを殺さねえかぎり、いつまでもいつまでも生え てくんだろ。 「ああ、そうだな。いつまでこれがつづくんだかな」 「さあ、いつまでなのか : 。とりあえず今は、みんながぐ 「今さらですけど」と木下が言った。 っすり眠れるように、ムスビさんのふるふるを聴かせたいで 「柳さんて、家庭を持ったことあるんでしたつけ ? それと すね : : : って、そういえば、しまった。まだ録音してなかっ も、ずっと独身でしたつけ。言いたくなければいいですけ ど」 た」 「いいよ、録音なんか」 「結婚はしてたよ。息子もいた」 「息子さんも ? へええ、はじめて聞きました。もう会って 木下が言うとおり、どんなに粗末であってもそれが″家〃 として明かりを灯している光景は、痛ましさとともに不思議ないんですか ? 」 にきれいだという感情を呼び起こすものだった。なんともい 「うん。会ってない」 えず心がさざ波立つのを感じながらそれらを眺めているうち 笑って言ったつもりが、胸の奥にうずきを感じた。あの矢 の痛みなどより、もっと内深くからえぐられるような痛みだ に、柳さんの視線はいつの間にか、土手の上に広がる空のほ の背った。 うに向けられていた。近場にある低層のビルやア。ハート 「木下さん」 後から、なおも空を突くようにそそり立つ、何棟もの高層タ ワー群。ライトアップされてそびえているそれらの列柱の奥 には、あのヒューマンなんとかのギザギザに尖った二本の塔 「あんたにこんなこと聞くのはあれなんだけど、おれも酔っ

10. 新潮 2016年8月号

「うわあ、なんか豊かだなあ。お腹にはたまらなそうだけ ら、注意したほうがいいよ」 「わかった。みんなにも声かけて、見張るようにするよ」 「畑をつくってる人もいるし、だれかが放棄した畑のもの 小池さんは少し疲れた顔でうなずくと、 が、そのまま育ってたりして。でも、どこに何があるか、み 「ホントに、人が増えたよね」 んな知ってても教えないけどね」 グラウンドのほうに目を向けてつぶやいた。 「教えないね」と柳さんも笑った。 「上流のほうもこんな感じなのか ? 」 「しかし、小池さんもご苦労だな。猫だけだって大変なの 「ここがいちばんひどいけど、野茂登あたりまではえらい増 に、大の面倒までみてんだからな」 えてるね。瀬知柄方面から流れてんじゃない ? あそこは野 「みんな生きてんだから、仕方ないよ。でも、ここの大たち宿者の締めだしがキッいとこだから。もっと奥の、羽根町、 はほとんどみんなキャットフードしか食べないから、楽とい紅梅あたりまで行けば、まだだいぶ落ち着いてるよ」 えば楽だけどね」 「そうか。今度ちょっと、様子見に行ってみつかな」 「大がキャットフード ? 」また木下が驚く。 小池さんは「じゃ」と片手を上げ、また慌ただしく自転車 「そうだよ。ドッグフードは粗悪な油を使ってたりするから を走らせて去っていった。 ね。ドッグフードあげても、みんなまたいで通るよ。『猫ま 「抗生物質って、ムスビさんのためですか ? 」 たぎ』ならぬ『犬またぎ』」 木下に聞かれて柳さんはうなずき、 そう言って笑わせた小池さんは、ふとまじめな顔になり、 「ムスビが喧嘩して傷だらけになったとき、持ってきてくれ 「ところで、あれから猫は狙われてない ? 」 たんだ。傷口から入ったばい菌が命取りになるからって。あ 像 柳さんが見つけた、殺された猫のことを言っているのだっ の人は、そうやって猫の様子みながら、野宿する人たちの面硝 た。小池さんはあの猫のように無惨に殺されたり傷を負わせ 倒もみてんだよ」 上 え られたりした猫を、この弧間川流域でいやというほど見てい 「そういう団体の人なんですかね」 「いや、小池さんは奥さんとふたりだけでやってる。団体での た 「ああ。あれからはおれは見てねえな」 やってるとこは、大体力ネが原因でおかしくなるからって。 「ならいいんだけど。だけど、ここは人間の汚い部分が流れ本業はカメラマンだってえけど、稼ぎをぜんぶつぎ込んでんビ 野 込むところだからね、またあるかもしれない。とくに今は、 じゃねえか ? 」 野宿の人が増えたことをよく思ってない輩もいるみたいだか 「すごいですね。尊敬します。ある意味、うらやましいで ど」 べにうめ