気持ち - みる会図書館


検索対象: 新潮 2016年8月号
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1. 新潮 2016年8月号

そういう思いから、先週、木下の家づくりを手伝ってやっ た柳さんは、とりあえず家のかたちになるようにアド。ハイス しただけで、それ以上はとくに教えなかった。本格的にやる のなら、川が増水しても流されないよう地中に単管。ハイプを 四本打ち込み、家の四隅の柱をそれに固定するのだが。 「おお、ちゃんと動くみたいだ」 木下がうれしそうに言った。 「あとはカセットテープを人れれば、録音できますね」 「録音 ? 何録んだ」 木下はふふふと笑って、自分の背後を指さした。そこには 荷台に板を置いてテープルがわりにしたリャカーがあり、エ 具だのキャットフードの袋だのが無造作に置かれた板の空い たスペースに、ムスビが四肢を折って香箱をつくっていた。 はじめは木下がいると逃げだしたムスビも、最近では近くで くつろぐようになっている。ただ、猫好きだという木下がな でようとすると、そそくさと体を起こしてどこかへ行ってし まうのだった。 「こいつを録る ? ー 怪訝そうな顔をした柳さんに、木下は笑ってうなずいた。 「はい。ムスビさんが喉を鳴らす音、録ったらどうだろうつ 「なんでそんなもんを」 「猫が喉をふるふる震わす音こそ、世界を鎮静させる音です から」 「はあ ? 」 「前におれ、女性誌の仕事で、すごい人気があるっていうョ ガ教室を体験取材したことがあるんですよ。その教室では、 ョガで体動かしたあとに冥想の時間があるんですけど、」 「メイソウ」 「はい、冥想。座禅みたいなやつです。で、そんときに先生 が、猫がふるふる喉を鳴らす音を流したんです。この音の波 動に心身をリラックスさせる効果があるからって」 「なんだか怪しい教室だな」 「ええ、おれも最初、ふざけたとこだなあって内心バカにし て笑ってたんですけど、でもこれが、ウソじ . ゃなかったんで すよ。聴いてるうちにホントにおだやかな気持ちになって、 心底あったかくて愉快な気持ちになって、最後のほうなん か、泣けてきました。なんかもう、この世にあることすべて を許せる気持ちになって」 「あんたは : : : 」 根っからお人好しだなと言いそうになる。それがいいとこ ろではあるが、こういう理屈っぽいくせにウブなやつが、妙 像 肖 な宗教にコロッとはまるのだ。 る 「それまではおれ、なんでこんなに世界全体、戦争だの貧困 上 え だの経済格差だの、いじめだの虐待だのって、人にやさしく ないんだろうってずっと怒ってたんです。やさしくない世のの 中に生きてても、安心できないじゃないですか。でも、その とき思ったんですよ。まず自分がやさしい気持ちになること 良 野 のほうが、大事じゃないかって」 「ほう」

2. 新潮 2016年8月号

トの上を歩きながら、 と、逃げるように実家を飛び出しました。 「この下にママの家があったの ? 」 再び電車に揺られ、帰路を辿りました。鉄橋に差し掛かる 「この下じゃなくて、ここにあったの」 頃、夕暮れでした。川縁のプロックでは、黒い影の人間が、 赤い水面に釣糸を垂らしていました。 午後、遠くから子供の遊ぶ声が聞こえてきて、リビングで 三鷹のマンションのドアを開けると、台所からいい匂いが 漂ってきました。マープル模様の尻尾を振って、胡桃が玄関目を覚ましました。茣蓙に寝転んで涼むうちに、眠りに落ち ていたようです。読みかけのファッション雑誌のページが、 へと駆け寄ってきます。少し遅れて、たどたどしい足取り で、ひなたもやってきました。まだ幼稚園に通っていた頃の首を振る扇風機の風にばらばらと捲れていきました。身体を 起こそうとしたとき、枕にしていた座布団が濡れていること ひなたです。 に気づきました。手の平で顔を触ってみると、睫毛も目蓋も 「今日はね、 。ハ。ハの作ったね、唐揚げの日だよ」 頬も濡れています。何か夢でも見ていたのでしようか 台所から、エプロン姿の夫が顔を出しました。おかえり、 意識がはっきりするに連れて、縁側の風鈴が、凜々と響いて とだけ言うと、すぐに台所へと顔を引っ込めました。 いることに気づきました。木立で鳴く法師嬋の声も。でも微 どうしてか、私は殆ど泣きそうになっていました。 睡の中で意識した、子供の声は聞こえてきません。風鈴の音 と法師蝉の声が重なり、子供の声のように聞こえたのでしょ それから少しして深谷の実家は取り壊され更地になり、私 、私は扇風機の生温い風を頬に浴びながら、勝手に の銀行口座には随分な金額が振り込まれました。千葉の家を 買う頭金を支払い、家具を新調して、自転車を買って、庭に捲れていく雑誌のページを、ぼんやり眺めていました。 立水栓を造って、それでも随分な額が残りました。 その夜、夫が手持ち花火セットを買ってきました。縁側で 何年か前に一度だけ、深谷の実家の跡地に立ち寄ったこと西瓜を食べて、それから花火をしよう、と言います。毎年こ の時期になると、夫の実家から西瓜が送られてきます。ひな があります。家族で秩父の温泉へ行った帰りに、車でふらっ たは果皮をこんこんとノックして、これはいい西瓜です、な と寄ったのです。私の家のあった場所は、スー。ハー銭湯のだ どと洩らしていました。 だ広い駐車場の一部になっていました。考えもしない場所か ひなたの病は、一週間どころか僅か三日で快復し、耳の下 ら途方もない青空が見えて、私は逆に清々しい気持ちにさえ の湿布を剥がしてみると腫れもすっかり引いていました。抗 なりました。ひなたはビーチサンダルで、平坦なアスファル どぎ

3. 新潮 2016年8月号

の眼を仏の眼と重ねた日米開戦後の小林を、さらに追いた に言っていたのだよ〉。優秀な古典文献学者として出発し、 二十四歳でバーゼル大学の教授となったフリードリヒ・ニー 「戦争と平和」の発表から間もなく、「文學界」は同人座談チェは、やがて、自らの専門である古代ギリシアの文献を読 会を行った ( 「即戦体制下文学者の心」 ) 。まず冒頭で小林は み解くだけではなく、その精神を自身が体現しなければなら 「三つの放送」の言葉を繰り返す。〈僕自身の気持ちは、非常ないと考えるに至る。牧師の息子として育ったニーチェは、 に単純なのでね。大戦争が丁度いい時に始ってくれたという古代ギリシアの精神を堕落させた根本の原因を、キリスト教 気持なのだ。戦争は思想上のいろいろな無駄なものを一挙に の内省に見出し、それが近代社会にも通底していると批判し 無くしてくれた。無駄なものがいろいろあればこそ無駄な口 た。つまり西洋文明は無批判に模倣すべきものではない。そ を利かねばならなかった。それがいよいよやり切れなくなっ の内部において痛烈な批判に曝されていた。この問いが半年 た時に、戦争が始ってくれたという気持なのだ〉。この座談後の座談会「近代の超克」につながっていく もう一つは大本営海軍報道部課長にして海軍大佐の平出英 会で小林が積極的に語ったことは二つしかない。一つは小林 がこれまでにもたびたび触れてきた〈近代の毒〉の問題だ。 夫への注目である。小林に四二年一月八日の平出による大本 日本は明治以降、西洋化を推し進めてきたが、西洋の内部で営のラジオ放送について述べる。〈平出大佐が海軍では決死 すでに、それを批判する試みがあった。〈外国文学というも隊とは言わぬ、特別攻撃隊というと放送していたね。あれは のを本当に知っている人は実に少いのだよ。日本人だけでな いい。言葉の問題ではないのだが、生活が違うと言葉も自ら く外国人自身にも少いのだな。ニーチェみたいな人は実に少違って来るというところが面白い〉〈知的というところから いのだよ。近代文学のうちから病的なもの、やくざなものと来たんだよ。ああいう言葉、乃至はああいう言葉が由来する 健全なもの将来あるものとを、択り分ける術を知っていた人生活というものに感動しなければいけないのだよ。何がなん は少いのだと思う〉〈近代の毒を一番よく知った人が、一番でもやり抜くぞーーというようなことを言っているようでは よく毒に当った人だ。それはニイチェを見ればよくわかる。 あんな言葉はわからない。僕は「大洋」の座談会なんか読ん 僕はニイチェの事を考えると毒を克服する方法は、毒に当る でいて、海軍の所謂訓練というようなものの中では非常に違雄 より外はない、毒を避けるという様な方法はない。どうもそ った新しいものが動いているということを感じた。思想的に林 う思われる〉〈自由主義はつまらん、個人主義はつまらん、 だよ。昔の聖人、達人が一生掛ってやった事を、少年航空兵 社会主義なぞ下らない、そういう事は西洋の辛剌な天才は既は三年でやっているからねーーということを言っているよ。

4. 新潮 2016年8月号

ばらったから」 となど記憶から消し去っただろうあいつのもとに、今ごろに 「ハイ。どうぞどうぞ」 なって自分が、しかも野宿者となった自分が突然現れたら、 「あんたは、自分の人生そのものがまちがいだったって、思 一体どう思うのか。 - っことあ一るか ? 」 しかし今、木下にそう言われて、柳さんはなぜか、それも 「え ? そりゃあ、おれなんかしよっちゅうですけど : あるかという気持ちになっていた。気まぐれにそのつもりに 柳さんもそんなふうに考えること、あるんですか ? 」 なっただけなのかもしれないが、思えただけでも、ほんの少 「あるよ。ふだんは忘れてつけどな」 し心が軽くなったような気もする。 柳さんはぼっぽっと、田舎に置いてきた息子のことを話し 「でもおれ」と木下が遠慮がちに言った。 た。離婚して家をでたあと、隠れて様子を見に行ったとき、 「負け惜しみかもしれないんですけど、こうも思うんです 息子がぼんやりと玄関のほうを見上げていたこと。声をかけ よ。ホントの意味で、まちがった人生ってあんのかなって」 ないまま、それきり東京にでてきてしまったこと。 「ん ? 」 「それだけっちゃそれだけなんだけど、今でも思いだすよ。 「おれらは、何を基準に " まちがい〃って言ってんだろうつ たぶん一生、忘れねえだろ」 て。経済的な失敗とか、家庭とか人間関係がうまくいかない 思いだすたびに、けして晴れない悔いの苦さが胸に広が とか、場合によっては過ちを犯してしまうとか、あると思い る。だれにも話したことがないことを、なぜ木下に話してい ます。でも、その " まちがい〃は、ホントに " まちがい〃な るのか。無精ヒゲだらけの頬をさすりながら柳さんは自嘲気んですかね。言ってること、わかりますか ? 」 味に笑い、 「よくわかんねえな」 像 肖 「人生まちがったってわかってても、こんなふうに生きてか 「ですよね」木下は激しく頭をかいた。 る なきゃならねんだよな」 「なんていうか : : : 、結論からいえば、生きてることに本 上 え すると、黙って話に耳を傾けていた木下が、 来、 " 正しい〃もなければ、 " まちがい〃もないんじゃないか 「会いに行ったらどうですか ? 」 って。このたとえがいいかわかんないですけど、たとえばこの 「え ? 」 の河川敷で、だれにも拾われないで悲惨な状態で生きてる猫 「息子さんを探して、その気持ちを伝えたら」 たちは、 " まちがい〃ですか ? 」 良 野 柳さんもそれを考えなかったわけではない。だが、考えが 「そりゃあ、ちがう。 " まちがい〃なんかじゃねえ」 浮かんだそばからバカな話と打ち消していた。もう父親のこ 「ですよね ? だから、人生に失敗したとかしないとか、そ〃

5. 新潮 2016年8月号

小滝橋の交差点で自動運転のタクシ 1 を拾おうと、彼女は 絵美は、躊躇する。 たしかに、光一には会いたい。会って自分の気持ちを伝え携帯電話で送信する。位置情報がおのずと先方に伝わり、目 ておきたいし、彼の気持ちも聞いておきたい。この目で無事の前にタクシーが来て停まる。 「まったく、けったいな世の中になっちまったね。わたしが を確かめ、自分の姿も見せることが、孤立した立場に置かれ どこにいて何をやっているのか、こっちからは姿が見えない ている彼への励ましにもなるだろう。 やつらに丸見えだ。それを " 便利〃と称賛しながら、こうや けれども、そんな理由を押し立てて無理にも会おうとする って暮らしていくしかないんだもの」 ことが、彼を逮捕の危険にさらすかもしれない。それを思う タクシーのなかで、モモョさんは、あんたが待ち受ける人 と、これが利己的な短慮にも感じる。けれども・ は札幌から「女」の姿で現われるかもしれない、とほのめか 「わたし、自分で行きます」 した。だけど、石垣行きの便に乗り換えるまでのあいだに、 と絵美は答えた。 もう「男」の姿に戻っていることも考えられる。そのあたり 「そうかい。どちらにせよ、絶対に安全という手だてはな は、これからも、当人の機転任せで切り抜けていくしかない い。だから、あとから悔いが残らないほうを選んだほうがい だろう、とも。 「どっちにしても、そのときのお楽しみ いと、わたしも思う。 : ボクサーが、きっと喜ぶよ」 だ」 素っ気ない口調でモモョさんは答えた。サングラスをした 早稲田通りでの信号待ちのあいだに、タクシーの窓から、 ままなので、表情はわからない。 かって光一が所属していたボクシング・ジムが見えた。大き ーー受け渡しは、朝五時三〇分、羽田空港の国内線の保安 なガラス窓ごしに、スキンヘッドのトレーナーのジョーさん 検査場前、ということにしておこう。これだけ先方に伝えて が、新人りらしい若者にサンドバッグの打ち方を指導してい おく。あとのことはあんたに任せるよ。 た。信号機が青に変わって、タクシーは音もなく走りだす。 : ともかくね、あんたは、これから高田馬場の旅行代理 ら 店でフェリーの乗船券の購人手続きを取ってほしい。わたし光一が働いていたトンカッ屋の店先も、窓をかすめるように も、まだこれからあちこち連絡取りあったりしなくちゃなら流れていく。 ・ : どれも数カ月前まで、日ごと続いていた生場 岩 活なのに、なぜだか、とても長い歳月を経たようにも感じ ないから、そこまで一緒に行こう そう言いながらモモョさんは立ち上がる。

6. 新潮 2016年8月号

首もとは頼もしいくらいに太くて、もっと若いときには大と うに思える。つまり、柳さんの話を書いても、やむなくこう だって喧嘩した。歳のせいか、近頃はだいぶ気性が丸くなっ いう暮らしに追い込まれた野宿者の気持ちを代弁するような たように田 5 う。 記事にはならない、ということだった。聞きたいのは、現代 「じゃあ、行ってくっぞ。留守してろ」 社会の不条理を痛みとともに読者に突きつける、そんな深刻 そう声をかけて自転車にまたがり、ゆっくり漕ぎだした。 な話だという。 拾った焦茶色の帽子に袖まくりした白いシャツ、サイズが二 「だって、そうじゃないですか ? 好きに暮らして、それで 回りも大きいぶかぶかの茶色のズボンに、黒い革靴というい いよいよ病気になったら、施設に人るか入院すんですよね ? でたち。どれもだいぶ汚れて擦りきれてはいるが、柳さんと生活保護を受ければ、医療費はタダだから。今まで税金をお してはそれが正装のつもりだった。ネクタイまではしない さめてこなかったのに、結局は行政の世話になるってことで が、冬にはセーターの上にジャケットも着る。空き缶拾いだすよね ? 」 からこそ、わざわざそうするのである。 困ったような表情でこちらをうかがう木下の言いたいこと ひと月ほど前に雑誌記事の取材だといっていきなりやって はわかっていた。「虫がよすぎる」と思っているのだ。 来た、まだ二十代後半に見える木下という男は、柳さんを 話を聞かせろと勝手にやって来て、それで一方的に聞きた 「ロマの男みたいですね」と言った。「ロマ」とは「ジプシ い話とはちがうと一言う。楽をして生きているように言うけれ ー」のことらしいが、木下が昔観たジプシー映画のなかに、 ど全然そんなことはないし、税金だって、大企業を助けるた 同じような格好をした楽器を弾くおじいさんがでていたとい めというわけのわからない「助け合い消費税」は当然払わさ う。ジプシーと聞いてもピンと来ない柳さんには、だからな れている。煙草税に関しては人一倍払ってる。それに、野宿 んだとしか思えなかった。 の人間が人院するときというのは、柄本さんのように大概も 自転車を走らせながらその木下のことを思いだすと、また う助からないところまで病状が悪化したときだ。さすがに腹 不愉快な気持ちになった。木下は柳さんの話を聞いたあと、 が立って、柳さんはこう言って追い返したのだった。 「おれは、あんたの記事のために生きちゃいねえんだよ。帰 「せつかくたくさん話を聞かせてもらってなんですけど、ち れ。もう二度と来んじゃねえ」 よっとこれは、記事にならないですねえ : : : 」 昨日。ハンクを修理した後ろのタイヤは問題なさそうだっ 木下によれば、たとえア。ハートを与えられたとしても人り ペ久ルを踏む足も軽く、スイスイ走る。今の生活になく たくないと言う柳さんは、自ら好んで今の生活をしているよ てはならない自転車の修理を、柳さんは自分ですべてやる。 「う—ん」と顔をしかめて言ったのだった。

7. 新潮 2016年8月号

賞応募規定 0 0 【当選作】正賞ー特製記念プロンズ楯、副賞ー五十万円 二〇一七年三月三十一日 ( 当日消印有効 ) 【締切】 【発表】「新潮」一一〇一七年十一月号誌上に発表 ( 予選通過作品・作者名は十月号に掲載 ) 【選考委員】 ( 五十音順・敬称略 ) 大澤信亮 君が何かを期待しているなら、私はそれを殺す門になろう。 君が何もかもに絶望しているなら、その闇に残る最後の光とな ろう。半端な気持ちなら止めてくれ。ここに立っために支払っ た代償のすべてを賭けて読む。 川上未映子 小説にとっての動脈は複数あるけど、あとから学ぶしかない ことも多い処女作は、自分にとって世界にとって、こればっ かりはまだ決着がついていないのだ、足掻くよりほかないのだ と思うことだけを絶体絶命で書いてください。 鴻巣友季子 日本語なのに異言語で書いてある気がする小説を読みたい。 遠い彼岸に架けられない橋を架けようとする小説、自分がだれ だかわからなくなるような小説を読みたい。読ませてください 762

8. 新潮 2016年8月号

加えて、地面のひと動きでそれまでの計 の恵によるものに他ならない。それによっ すごい揺れが身体を襲った。揺れは長く、 ギュッと眼を瞑り、早く止んで、と頭の中て今の私は生かされていると分かっている画が一瞬で消えてしまい、一年先やもっと で叫んでいたが恐怖で声は出ず、呻くようし、阿蘇の新緑を見れば美しいと感じる自先の未来の話をすることの不確かさも痛感 していた。思い悩むばかりで日常は戻ら な叫びが口から漏れるだけだった。頭には分がいてやるせなかった。 へ戻ると、在庫置きず、大事な今が過ぎ去っていく。ならばい 道が開通しア。ハート 土壁がばらばらと降ってくる。急いで家か ら飛び出すと、真っ暗で何も見えないが裏場として作った押人れの本棚から本たちがっそ、周りや未来にとらわれず今できるこ 山の方からガラガラと岩が崩れてくる音が部屋中に飛び出し、その上から天井板が崩とからはじめたい、今の気持ちに嘘をつき たくない、と思うようになった。そして、 聞こえる。この裏山は阿蘇大橋を押し流しれ落ちていた。折れ曲がったまま重なった た山と同じ連なりの山であり、家はそこか本は死にかけている人の群れのようで部屋本屋をやるという想いは被災したからとい 全体までも生気を失ったように冷たく感じう理由でそのまま諦めてしまえるほどのも ら車で約 2 分のところにあった。 どうにか家族全員無事で避難することがられた。ずっと見ているのが苦しくて早くのではないと気付いた。どうすれば本屋を できたが、自宅や職場、駅舎へ行く道も寸どうにかしなければと、できるだけ箱に詰再開できるだろうか。そもそも本屋とはな 断され、近くの親戚宅の駐車場で一週間ほめて職場の隅に置かせてもらった。幸い駅んだ。お気に入りの場所に本棚を作り、本 ど車中泊を余儀なくされた。道が復旧する舎は無傷だったのでそちらに運べばいいのを並べて、それを手にとる人がいれば、そ だが、道が復旧しないのと、飲食店の従業れはもう本屋なのかもしれない。形にこだ までは携帯電話も使えず、移動もできなか ったため知り合いや家や職場、駅は無事だ員も地震によって来られないのとで、運ぶわらなければどんな場所も本屋にできるは ろうかとただ考えるばかりで具体的に何か余裕もない。このままでは本屋を再開できずだ。そう思えば気持が軽くなった。 そして現在、飲食店の敷地に一坪ほどの できることはなかった。晴れた日には飲料ないと感じていた。けれど働かないわけに はいかない。そして働いていればどうして移動式の書庫をつくり、営業を再開した。 や食事用に水源へ水を汲みに行き、その川 屋 の流れで軽く洗濯をする。たまに無料開放も隅にある本に目が留まり、その度に本がそこは元々本屋を開く前、晴れの日だけ本本 してある温泉に入り、雨の日には車の中でそこにあることを生理的に拒絶していた。棚を設置し誰でも読めるようにしていた場な このままにしておくことはどうしてもでき所だ。一年で振り出しに戻ってしまった。 読書をする、そんな生活が一週間続いた。 でも今はそれでいい。あの場所へ戻るとい限 至る所で土砂崩れが起きていたがそれはなかった。 阿蘇の土壌が火山灰質であることも影響し震災後、生きることだけに専念する生活う希望さえあれば。私はまたこの場所からい て ているらしい。こんなに地盤がもろく危険のなか、本を読んでいる時だけは心の落ち本を届ける。 生 な場所に住んでいたのかと恨めしく思った着きを取り戻せた。しかし同時に、本を読 が、物資の届かない状況で、湧水が飲めたむことに後ろめたさや不謹慎さも感じ、葛 り温泉に人ることができるのは阿蘇の土地藤が続いていた。

9. 新潮 2016年8月号

消すと、みんな消える。 ライチョウは、一九三〇年代に姿を消し、白山を棲息地とす るグループは絶滅したとされていた。 雨の土日が終わって月曜日になった。気温が急にあがっ 二〇〇九年五月、ある登山者が雪のちらっく白山で、一羽 た。雨をいつばい吸った地面から、蒸し暑い蒸気があがって のライチョウを目撃し、カメ一フで撮影した。雌であることが くる。ひたいやのどのあたりに汗をかいた。 わたしは消えていなくなったほうがいい。 確認できる写真が保護センターに届けられた。 一枝ねえさんがふふふと笑うのは、わたしに徴笑んでいる ライチョウはいったん捕獲され、観察のための足輪をつけ のとちがうとおもう。自分で笑っているだけだ。かなしい気られた。やがて、研究者によって、白山に単独で棲息するこ 持ちをごまかすために笑っているんだとおもう。一枝ねえさ のライチョウは、北アルプスに棲息するライチョウのグルー プに属していたであろうことが突きとめられた。 んをかなしい気持ちにしているのは、わたしだ。 わたしはいないほうがいい。 ライチョウの飛行距離は、せいぜい二十キロあまりといわ れている。 自分じゃないような泣き声がこみあげて出てくる。 ずっと泣いているうちに自分がとけてなくなればそのほう 北アルプスから白山まで、いったいどのようにして飛来し がいい。 たのか。北アルプスから白山までのあいだに連なる十を超え 泣くのはいつまでも終わらなかった。わたしじゃないひと る山々は、最長で二十キロあまり離れている。飛んで渡れな が泣いているうちにわたしになった。 い距離ではない。この雌のライチョウは、山づたいに白山ま 「恵美子さん。どうしたの。だいじようぶ」 で飛んできたのではないかと推測された。それぞれの山頂が 大の鎖の音がして、それから登代子ちゃんの声がした。 雪でおおわれる厳冬期に、白い峰をめざして渡ってゆくこと はありうるだろう。そのようにして白山にたどりついたもの わたしの涙はもっとふえて、わたしはどうにもならなくな の、もうもどることはできなくなったのではないか。 った。登代子ちゃんはわたしの手にハンカチをにぎらせよう としていた。 雌のライチョウは、いったいなにをもとめて飛んできたの か。研究者にも、その動機を知る手立てはなにもなかった。 ライチョウの数は減少している。 かっては浅間山にも八ヶ岳にも棲息していた。石川県と岐 阜県にまたがる白山にも、ライチョウはいた。しかし白山の 参考文献は単行本刊行時に明示いたします。 ( つづく ) 357 光の大

10. 新潮 2016年8月号

た。「そんなんじゃ、またすぐとれちゃう。ねえさんにやつ の話は好き「やな」。ほんとうはやめてほし」。ケチみた」 てもらったほうがいいんじゃない」わたしが袖ボタンをつけ に聞こえるでも智世はお金を使うのが好きだ。札幌でおい しいものを食べたり、高い服を買ったり、両手に荷物をさげ かけていたプラウスを取りあげた。 「自分のことくらいは、自分でできるようになさい」 て枝留に帰ってくると、うるさいくらい機嫌がよくて、声が おおきい。でも、ふだんは高い服は着ない。登代子ちゃんと 一枝ねえさんも智世もいないときに、かあさんは、わたし いっしょになるようなとき、お正月とか、お盆のときには、 の顔をみて、そう言った。怒っているのかなとおもった。で 買ってきた高い服を着る。真珠のネックレスもする。美容院もかあさんは怒っていなかった。心配して言っているとわか っ ( 。 にもいく。いい服を持っているのを登代子ちゃんに見せたい んだとおもう。得意なんだとおもう。 自分のことくらい、というのはわかるけど、でもほんとう お茶を教えていたときも、お道具は高いものを揃えてい に自分のことを自分でやるとしたら、料理だって裁縫だって た。どれがどういうふうだから高いのよ、と値段の高かった掃除だって全部だとおもう。智世がいないところなら、でき 理由をいつも得意そうにしゃべっていた。 る気がする。時間をかければきっとできる。でも智世は一枝 わたしは料理も、掃除も、洗濯も、苦手だ。お茶も苦手ねえさんより家にいることがおおいから、わたしのやること だ。ほんとうは洗濯は好きだった。ひとつひとっとりこん を見て、のろいとか遅いとか言って、とりあげたり、やめさ で、ひとつひとったたむのが好きだった。洗濯物が乾いて、 せたりしようとする。 野木一二郎はなんでも自分でできるひとだった。わたしのや 太陽の匂いがするのが好きだった。でも智世がわたしのたた みかたに文句を言う。ちょっとやだこの人、あれから十分も ることを見て、苦笑いばかりしていた。あんなふうに神経質 に、なんでもかんでも自分でやるひとが、どうして再婚しな 経ってるのにまだたたんでる、早くしなさいよ、もうほんと に遅いんだから。いやんなっちゃう。 ければいけなかったのか。ああいうことをしたいから、再婚 智世がいないときは洗濯物をたたむ。いるときはたたまな したかったんだとすぐにわかった。亡くなった奥さんがおな い。智世のたたみかたは丁寧じゃない。だけど、そんなこと じことをしていたのかとおもうと、ますます気持ちがわるく 言ったら、もっとひどいことを言われるから、黙っている。 なった。時計屋だから、一日中、一階の店にいる。それもい 裁縫も苦手だ。小 さな針の穴に糸をとおすだけで一苦労やだった。あのへんな片目の眼鏡みたいなものも嫌いだっ だ。手がふるえる。ボタンっけをしていたら、智世が笑っ