活動写真 - みる会図書館


検索対象: 新潮 2016年8月号
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1. 新潮 2016年8月号

つの扉があると、客の男女が滑りこむ空間は必然的に九十扉を小走りにすり抜け」る存在とはなにか。いよいよ本論 は、伯爵夫人の「正体を本気で探ろうと」しなければならな 度と手狭なものとなり、扉もせわしげにぐるぐるとまわる プロシア ばかり。ところが、北普魯西の依怙地な家具職人が前世紀いときにきているのかもしれない。 その「活動写真」は、物語上の現実に則して考えれば、夢 末に発明したという三つ扉の回転扉の場合は、スーツケー スを持った少女が大きな丸い帽子箱をかかえて人っても扉想する二朗の脳裏に上映された夢のなかの夢みたいなものと に触れぬだけの余裕があり、一度に一・三倍ほどの空気を解釈できるだろうーー・それはあの、「ひとまわりづつ小さく なりながらどこまでも切れ目なく続く」ことで「無に向けて とりこむかたちになるので、ぐるぐるではなく、ばふりば ふりとのどかなまわり方をしてくれる。 の無限連鎖ーを起こしているかのように見える「ココア缶」 の「図柄」にも似た仕組みだと、ひとまず理解していい。あ ホリス・ るいは「Ⅳ」の消灯と「刈」の日没のあいだに挟まるすべて バルネットの単独初監督作への言及があると言い の場面が、意識のとぎれた二朗の見る夢に内包されているの たいのではない。作中でくりかえし示される「回転扉」が、 だとすれば、『伯爵夫人』において組み立てられているのは、 わざわざ「三つ扉」であると強調されているところに注目し たいのだ。なぜ「三つ扉の回転扉」が問題となるのか。それ映画に侵食されきった精神の見る夢と記憶の混交により脳裏 は「いかにもいかがわしい発明品」たる「活動写真」の一部に上映される「活動写真」の夢、ということになるのかもし む れないーーとなると必然的に、冒頭の「日陰の歩道」でのや読 をなす、映写機の機構と関係している。映写機には通常、上 りとりからホテルの電話ポックスで伯爵夫人に「金玉をねじ 映中のフリッカー ( 映像のちらっき ) を低減させるための部分 人 りあげ」られる「Ⅳ」の直前までの経緯も、「活動写真」に夫 品として、三枚羽根の回転シャッターが取りつけられてい 伯 - 犯された一一朗の夢想と彼自身の覚醒中の経験がひとつに重な る。映写機の稼働中、その三枚羽根の回転シャッターがまわ って意識のスクリーンに映し出された夢の映画化だととらえ りつづけて光路を開閉することで、観客はちらっきによる眼 るべきだろう。いやいっそ、ここはあえて単純に、映画的に 精疲労から解放され、「活動写真」をいっそう快く「お楽し みになること」が可能になったと言われている。 構造化された夢と言ってしまいたい。そんな夢をしよっちゅ う見ているからこそ、二朗は「夢精で下着をよごしてばかり これを踏まえて、いま一度『伯爵夫人』を冒頭から読み進 0 いる」のだ。 めてみよう。「回転扉」が回転シャッターと同義なのだとす したがって、「目の前の現実がこうまでぬかりなく活動写 れば、「傾きかけた西日」は起動した映写機の発する光とい うことにはならないだろうか。その光を「受け」っつ「回転真の絵空事を模倣してしま」うのは至極当然のことなのだ。

2. 新潮 2016年8月号

「刈」の日没場面が構造的に連続していると考える本論は、 両場面をつないでいるのは二朗の長い睡眠なのだと解釈して ここには一見、「活動写真」への直接の言及がひと言もな いるーーそうだとすれば、作品構造的には、消灯と日没のあ いかのように思われるかもしれない。だが、この書き出しは いだに挟まるすべての場面が、意識のとぎれた一一朗の見る夢まぎれもなく、映画の上映開始を文字通り物語る表現だと本 に内包されていることを意味するわけだ。すなわち伯爵夫人論は考える。 とすごしたひとときも、ホテルでの官能的な経験も、そこで ただでさえ、『伯爵夫人』には「活動写真」にまつわる明 見聞きした秘事も思い起こされた過去の記憶も、それらいっ 示的な記述が頻出するし、受験生にもかかわらず「やたら閑 さいは二朗の脳裏に浮かぶ心象として示されているのではな そうに活動写真ばかり見てあるく」ほどの無類の「活動好 いかと考えられるのだ。 き」が主人公役をまかされてもいる。それらの事実を踏まえ だが、それは単なる夢想でしかないのだろうか。ただの夢て、作品の冒頭場面を、まるで映画でも観ているような印象 にはおさまりようもない、複雑なからくりがそこに見え隠れ をもたらす映像的な表現だと形容したいのではない。あくま してはいまいか。また、点いたり消えたりする規則性が認め でも、映画の上映開始それ自体がそこでじかに描かれている られる夢というのが仮にあるのだとすれば、その点滅には、 と言いたいのだ。 どういう仕組みが隠されているのだろうか。 「傾きかけた西日を受けてばふりばふりとまわっている重そ 作品全体を通して、二朗が視覚的体験として受けとめてい うな回転扉」は、書き出しに据えられるのみならず、いくら るものは、夢でも心象でも記憶でも、どれとも無関係でない か形を変えながらも作中の随所でくりかえし語られるイメー ことは疑いえないがーー・いずれにせよ、『伯爵夫人』という ジのひとつだ。つまりそれだけ、『伯爵夫人』を成り立たし 散文はこのようにはじまっているのだから、その総称として める創作上のルールにおいて重い役割をになっていると読み 「活動写真」の一語をつぶやいてしまってもそろそろ許され とれるのだがーーならばその、「回転扉」なる装置には、い るのではなかろうか。 ったいどんな意味が込められているのだろうか。ヒントはこ こにある。 傾きかけた西日を受けてばふりばふりとまわっている重 そうな回転扉を小走りにすり抜け、劇場街の雑踏に背を向 けて公園に通じる日陰の歩道を足早に遠ざかって行く和服 姿の女は、どう見たって伯爵夫人にちがいない。 【 : ・〕あそこの回転扉に扉の板は三つしかありません。そ の違いに気づかないと、とてもホテルをお楽しみになるこ となどできませんことよと、伯爵夫人は艶然と微笑む。四 780

3. 新潮 2016年8月号

ば ) 読みとれる。つまり季節は冬なのだが、いつぼう、「冷 りながら笹に囲まれた道を進むと、それらの植物は、その たそうなカルピスのコップを二つ乗せた盆をかかえた若い女 ことごとくが、活動写真の舞台装置のように人工的なもの 中」「せめてものお見舞いにと、冷えたメロンを二つも提げ にすぎまいとおよその察しがつく。あたかもこちらの心の た」「こざっぱりとした浴衣姿の蓬子」といった記述が見ら 乱れを読んでいたかのように、左様、この庭の造作は、さ れる「Ⅳ」は、世間一般の慣習に照らせば、夏の出来事を物 る活動写真の美術の方が季節ごとに作り変えておりますと 語っていると考えられるのだーー仮にその「メロン」が、マ 無ロな男は振り返りぎみにつぶやく。 スクメロンだとすれば ( 「浜松情報 BOOK 」というウエプサイト によれば、明治期に新宿御苑で英国産の品種が温室栽培されたのが むろん、伯爵夫人に誘われて二朗が迷い込んだホテルの 「日本で初めての温室メロン」とのことであるが ) 、同種の別名と 「地下二階」に「さる活動写真の美術の方」が「舞台装置の されるアールスフェポリット ( 伯爵のお気に人り ) を踏まえて ように人工的」な「巴旦杏」などの造花を「季節ごとに」設 採用された小道具なのかもしれない。 けているからといって、濱尾家の「カルピス」や「メロン」、 季節感を示す一二つの符牒たる「冷たそうなカルピス」「冷または蓬子のまとう「浴衣」までもが「美術の方」の手がけ えたメロン」「こざっぱりとした浴衣姿」を真に受ければ、 た紛い物として読んでいいことにはならない「そもそも「カ ルピス」や「メロン」や「浴衣」は偽物であると補足する記 「Ⅳ」は夏季の場面と読むほかない。だが、日付や季節の直 む 接表記を周到に避け、史実への言及ないしは衣裳や日用品と述も見当たらないのだから、少なくとも物語上ではそれらは読 いった小道具でそれらを示唆する『伯爵夫人』には、同時に本物としてあっかわれていると見るべきだろう。 人 あまたのイミテーションがちりばめられてもいるため格段の だが、上の引用箇所にかぎらず、物語の開始早々、「目の夫 注意を要する。読み手が一度でも作品の深みにはまってしま 前の現実がこうまでぬかりなく活動写真の絵空事を模倣して しまってよいものだろうか」などと主人公につぶやかせ、終 ったら、読解の混迷から脱けだすのはたやすいことではない だろう。 盤でもまったくおなじフレーズを同人の脳裏に浮かべさせる一 『伯爵夫人』は終始、イミテーションに埋めつくされた世界 〔・ : 〕そこには熊笹が生い茂り、何本かの白樺が痩せた枝の複製性を強調してやまず、どこか、本物の価値を軽んじて 0 を伸ばした小さな庭が拡がっており、白樺の木蔭には、季さえいるかのようでもある。その複製性への傾倒と反復の規 はたんきよう 節はずれの巴旦杏が花をつけている。ここは地下であるは 則性は、なんらかのルールの存在を暗にほのめかしているの ずだから、いったいどのように光合成が行われるのかと訝ではないかと、絶えず読み手を煽り立ててくるのだ。

4. 新潮 2016年8月号

伯爵夫人が姿を消したあと、ホテル地下の「お茶室」にいる解釈を提出すれば、あれは「活動小屋」において上映開始を 二朗が「またしてもひとりとり残されてしまったこの「どこ 告げるブザーの音ということになるだろう。なぜなら「ぶへ でもない場所」では、すべてがとりとめもなく推移してとら ー」が鳴るとき、『伯爵夫人』はたびたびこのようなイメー えどころがない」と思うのも、「ふと、「伯爵夫人」などとい ジをベージ上に展開させているのだから。 う女には、初めから出会ったりしていなかったような気が」 【 : ・〕その衝撃にぶヘーとうめいてうつぶせに崩れ落ちる するのも、帰宅後に「床に人ってから、一日のできごとをあ れこれ思い浮かべようとするが、どれひとっとして確かな輪 瞬間、首筋越しに、見えているはずもない白っぽい空が奥 郭におさまるものはない」と感ずるのも、きわめて自然なな 行きもなく拡がっているのを確かに目にしたと思う。だ りゆきなのだと言える。 が、そこで記憶は途絶えている。 ようやっとここで、「Ⅳーにおいて、「天井から吊された電 灯を消して小春が出ていったのと入れ替わりに、こざっぱり 「そこで記憶は途絶えている」ということは、先述の通り、 とした浴衣姿の蓬子が、四つ切りにしたメロンを盆に乗せて 二朗の意識という「活動小屋」の照明が落とされたことを意 姿を見せ」た際、「小春が出ていった」時点で二朗は「眠っ味する。場内が暗くなり、映画がはじまる合図として、「ぶ てしまっ」ていると本論が推しはかる理由を述べることがで ヘー」が響いているわけだが、それにつづいて「首筋越し きる。「電灯を消」すとは、二朗の意識という「活動小屋」 に、見えているはずもない白っぽい空が奥行きもなく拡がっ の照明が落とされたことを意味する。そのあとにつづく経緯ている」と語られているイメージが、白い平面であるスクリ は、二朗の見る映画的に構造化された夢なのだと言える。そ ーンを指しているのはもはや疑うべくもない。意識の中絶は う言いきれる証拠に、当の場面で「姿を見せ」た蓬子は、 たいていの場合「白っぽい空が奥行きもなく拡がっている」 「枕もとのランプの脇にべたりと座る」 ( 傍点引用者 ) 。これは イメージをともなって生ずる。そのたびに「活動写真」が上 「傾きかけた西日を受けてばふりばふりとまわっている重そ映されているのだ。 うな回転扉を小走りにすり抜け」る存在と同様に、映写機の 発する光が形づくる映像として蓬子が示されていることを物 語っている。 ならばなぜ、作品のいたるところに、「活動写真」への直 それならば、作中の随所でくりかえし響くことになる「ぶ接の言及が多々あるにもかかわらず、「傾きかけた西日」や ヘーという低いうめき」とはなんなのか。ただちにひとつの 「回転扉」や「枕もとのランプ」や「ぶヘーという低いうめ

5. 新潮 2016年8月号

録音にもかかわらず、それが、夜ごとに兄貴と聞かされて その意味では、「亡くなった兄貴」が「まだ元気だった」 きた母の嬌声であると気づくのに、さしたる時間はかから 頃、「幼い二朗」に「語ってくれた」という「長い無声の活 なかった。誰が録音したのか。父とは考えられない。だと 動写真」の「魅力」などは、当のルールをいっそう色濃く照 するなら、伯爵夫人だろうか。まさか蓬子でもなかろうか らし出しているように読めぬでもない。 ら、ことによると小春かもしれない。 〔 : ・〕まあ、この役者が面白いのは、まぎれもない偽物 その「録音」された「嬌声」に耳を傾けるうち、二朗は が、いつの間にか本物以上に本物らしく見えてしまうとい う役柄にびったりだからなのだが、活動写真なんて、所詮「不意に、兄貴と毎晩聞かされていた母の嬌声が、じつはあ らかじめ録音されていたレコードではなかったのかと思いあ は本物より本物らしく見える偽物の魅力にほかなるまい。 たる」。重要なのは、そこで彼が、反復の規則性を音声の特 まさしくこの二十世紀にふさわしい、いかにもいかがわし い発明品というべきものだ。もっとも、それが正式に発明徴として思い起こしていることである。「そういえば、あれ はいつも同じように高まり、ゆっくりと引いていったもの されたのは十九世紀末のことだがね。 だ」 ( 傍点引用者 ) 。 それが「いつも同じように高まり、ゆっくりと引いてい」 その「魅力」を称えるためなのか、「活動写真」に加えて 「歐洲の裸婦たちの卑猥な写真」や「「高等娼婦」でもあった く規則性を持 0 た音声なのであれば、たしかに「あらかめ 伯爵夫人の裸婦像」などの印画も作中でひときわ存在感を放録音されていたレコード」である可能性が高いと言える逆 に考えれば、「いつも」と異なる場合には単に複製物が再生 つが、だからといって、複製されるのは見えるものばかりと されているのではなく、なんらかの異物が取りこまれたか、 はかぎらない。聞こえるものも容赦なく記録され、別種の もしくはどこか一部が削りとられたことを示す、更新の意味 「いかにもいかがわしい発明品」を介して明け透けに披露さ をそこから読みとるべきなのかもしれない。 れることになる。 「Ⅷ」で再生された「レコードの母の声」は、「息たえだえ 〔 : ・〕では、この女の声を録音した特別なレコードを電蓄にのぼりつめたかと思うと一瞬とだえ、やがてコロラチュ ラ・ソプラノのようにア行ともハ行ともっかぬ高音を、あた でお聴かせしますから、そのなだらかな抑揚にあわせてご かも深い森の中で見たこともない小鳥がさえずるように長く ゆるりとご放出ください。すると、どこかで聞いたことの あるぶヘーという低いうめきがゆっくりと高まり、粗悪な長く引きのばしてゆく」と詳細に形容されるが、この記述は 772

6. 新潮 2016年8月号

る」が、「騙されちゃあいけませんよと伯爵夫人は顔をしか絶え間なく疲弊させ、ときには誉め殺しの目に遭わせるなど め」てこう指摘する。 して、「不能」へと追いこまねばならない 「いったん出 すべきものを出してしまえばあとはあえなく無条件降伏」な 〔 : ・〕銀幕に描かれる銃撃戦なんて、所詮は殿方がお好き のだから、あらゆる「特技」をもちいて女たちは「尊いも なスポーツの域をでるものではなく、戦争というこの世界の」を骨抜きにするはずである。また、『伯爵夫人』が際立 の大がかりな失調ぶりのほんの一側面を描いているにすぎ たせようとする「殿方」の「愚かさ」には、「失敗をすべて ない。そもそも、人類の半分を占めているわたくしども女現場のせいにして無傷に生きのびている大佐」なども確実に の姿がそこにはまったく見あたらず、それがどれほど妻惨含まれているだろう。すなわち「あぶなっかしいこの世界」 なものであろうと、塹壕をはさんでの銃撃戦など、戦争に において、さらに問われているのは、一種の責任回避的なシ とってはごく中途半端なものでしかありません。【 : ・〕戦ステムと一一一口えるのではないか。 争は、都市であろうと農村であろうと、敵の空爆にさらさ れていようがいまいが、いたるところで世界がおさまって 【 : ・〕どこでもない場所。そう、何が起ころうと、あたか いるただでさえあぶなっかしい均衡を狂わせ、銃を構えて も何ごとも起こりはしなかったかのように事態が推移して いない男女からも時間を奪って行く。 しまうのがこの場所なのです。二 ・二六のとき、隠密の対 策本部が設けられたのもここでして、それが青年将校たち 「姿がそこにはまったく見あたら」ないばかりか、たとえ登 に予期せぬ打撃をあたえたのですが、そんな記録などどこ 場しても「信仰深くも献身的な看護婦ばかり」であり、単な にも残されていない。だから、わたくしは、いま、あなた る「添えものでしか」ない「活動写真」のなかの女たち。か とここで会ってなどいないし、あなたもまた、わたくしと ように不当なあっかいを受ける女たちの活動写真的現実は、 ここで会ってなどいない。だって、わたくしたちがいまこ 当然ながらスクリーン上にかぎられた処遇ではありえないど こにいることを証明するものなんて、何ひとっ存在してお ころか、むしろそれらの「銀幕に描かれる」イメージは、現 りませんからね。明日のあなたにとって、今日ここでわた 実の世界で広く共有されている価値観の反映ですらあるだろ くしがお話ししたことなど何の意味も持ちえないというか う。むろんその価値観とは、現実の世界で男根中心主義と呼 のように、すべてががらがらと潰えさってしまうという、 ばれているものにちがいなかろうから、レジスタンスに従事 いわば存在することのない場所がここなのです。ですか する女たちは、作中で「尊いもの」と名指されている存在を ら、多少は抵抗するかもしれないわたくしを無理に組みし 788

7. 新潮 2016年8月号

る行為にほかならないーーそれを形式的に還元すれば、異種うか。 同士による摩擦運動であると言い替えられるだろう。 〔 : ・〕すると、謎めいた徴笑を浮かべてこちらに視線を向 これを踏まえれば、『伯爵夫人』を成り立たしめる創作上 けている角張った白いコルネット姿の尼僧の背後に、真っ のルールがまた新たに判明する。なぜなら作品の随所でくり 赤な陰毛を燃えあがらせながら世界を凝視している「蝶々 かえし示される主たるイメージは、「熟れたまんこ」と「魔 夫人」がすけて見え、音としては響かぬ声で、戦争、戦争 羅」の演ずる摩擦運動だからだ。下半身を使うにせよ、ロ腔 と寡黙にロにしているような気がしてならない。 ( 傍点引用 をもちいるにせよ、「尊いもの」を「不能」に陥れるにはや 者 ) はり相応の摩擦運動が必要とされる。そしてなにより、二朗 の見る映画的に構造化された夢ーーすなわち「活動写真」と 「歯を磨きながら時計を見る」ーー異種間の摩擦運動に取り は、縦に流れるフィルムと横向きに射す光が交差し、摩擦し つづけることによって見るのが可能となるメディアであるの組みながら今を見ることにより、二朗はレジスタンスの残像 は、いまさら説明するまでもない事実だ。 を知覚する。「金玉潰し」は「歯を磨」く行為へと経時変化 を遂げ、「たったひとつだけ本当のできごとが起こった」こ それは自己増殖的ないしは自己陶酔的な「無に向けての無 とをそのとき明らかにする。『伯爵夫人』において真に胚胎 限連鎖」をくりかえす合わせ鏡の反復とは似て非なるもので む を経験し、更新されたのは二朗である。彼には当の残像の意読 ある。『伯爵夫人』の描き出す摩擦運動は自己自身の愛撫で はなく、常に異種間でこそ試みられ、「画面の外に向ける視味がよくわかっているはずだからだ。少なくとも彼は、「休 人 夫 線によって、その動きをきつばりと断ちき」るものだからで戦なんて見えすいた嘘」にだまされることはないだろう。 「あんなもの」は「錯覚」だと、彼はこの先、休まず伝えっ ある。「活動写真」を見る者は、スクリーンから視線を外せ づけることになるのだから。 ばたやすく虚構と現実の区別をつけることができるだろう。 ( 了 ) 虚実は「画面」の内外でわかれており、そこには「錯覚」の 蔓延が起こる余地はない。 そのときーーっまりは「画面の外に向け」られた視線の先 にあるものとはなにか。それは昨日性と翌日性のあいだに挟 まれた現在たる、今日性にほかならない。ならば作品閉幕の 際、二朗の瞳がとらえた今日性とはいかなるものだっただろ 本稿を含めたニ十七名の筆者による蓮實重彦論およびェッセ イを収めた『論集蓮實重彦』 ( 工藤庸子編 ) は羽鳥書店よ り刊行されています。 ( 編集部 ) 197 Sign 。 0 ' the Times

8. 新潮 2016年8月号

没後年。写真と文章に刻まれた魂の軌跡を追う、星野道夫論の決定版ー 星野道夫風の行方を追って そこで語られるのは、自然と人間についての深い「物語」 アラスカに魅了され、自然と動物、そして極北の大地に 生きる人々の姿を追いつづけた星野道夫。彼の作品は、 なぜ人々を惹きつけるのか。彼が表現しようとしたものは 何だったのか。元担当編集者の著者が、その生涯を辿り、 強い磁力のような魅力を放っ作品の根源に迫るー 月四日発売◎ 1600 円 978 ・ 4 ム 0-3 一 4932 乙 ■お申込みは 0120 ・ 323 ・ 900 ( フリーコール ) 午前 9 時 5 午後 6 時・平日のみ 判 毎月、確実に「波」をお手元にお届けする便利な・購読料金 ( 税込・送料小社負担 ) 読書人 " の雑誌、冫定期購読をお勧めします「年ー。。。円 , 年 " , 。。。円 次の号からになります。 S H I N C H 0 S H A Publishing Co., Ltd. 星野道夫 風の行方を 湯川豊 追って 7000 点を超える 新潮社の本・雑誌の 全アーカイプスと全 出版活動を網羅。 表示の価格には消費税が含まれておりません。ⅢⅡⅡⅢⅢⅢⅢ

9. 新潮 2016年8月号

よりも丁寧にびかびかと磨きあげたカメラ親父か。とまれ、それでは仕事は成り立た受けた。この写真屋は自らの知覚の営為に ぬ。視えにくいけれど本当に在るもの、底まっすぐ生きて、そのあとに累々写真が残 で、「居合抜き」するスナップシュ 1 ター 名人芸と称される早撮りで、人間を、人々流するもののほうが彼の写真の秘密でありされた。その写真たちは、カメラを手に彼 の暮らしを、活写していった。明治三十四磁力、その流れを通じて写真が人々に沁みが掘り進めたただひとつの道を、持続する 世界の永遠の流れ、人間の深淵にまで知覚 年の 1901 年、下町は下谷で製紐業を営人るのではないか、と思う。 で降りていった写真の道を、それ自体にお 高名な人だがその名も何も知らずとも、 む家に生まれた短気でシャイな江戸っ子で もあって、「粋なもんです」「オッなもんで多くの者がその写真に惹かれてしまう。数いて示して底光りしている。 「一フ す」がキメ台詞。華やかで軽快な数々のエ年前のこと、半世紀以上昔に撮影された木冒頭の写真は、木村の本格デビュー ピソードに彩られて、昭和を代表する「巨村伊兵衛の代表作、秋田「おばこ」の、菅イカによる文芸家肖像写真展」の一枚だっ 匠」の人生は語られてきた。人に沁み人る笠に田植え姿の涼やかで瑞々しい面差したことは既に言った。三脚に据えた大型カ 写真の魅力とこの人の魅力とは、勿論、無が、駅構内やビルの壁面を飾り、大きな評メラの前で固まる肖像の写真しか見たこと 判を呼んだ。魅了してやまぬのは、斯々のない当時の目には、ライカⅢによるス 関係ではあるまい。 けれど、この人の他人に向けた上機嫌の然々の時や所に生きた女の表情ではなかろナップという手法も、それがもたらす活き 日常の奥深くには、〈在るものを愛する〉う。そのような現実のはるか下を流れる活きとした印象も、実に新鮮と映ったろ いのち という、人が人として粛々と為すべき仕事生命の領域で、古びることなく生き続けるう。だが、手法の新しさなどすぐに古び をただ為すということが、あったのではな〈日本の娘〉というビジョンそれ自体だろる。スナップは、写真屋のメチェが手繰り 寄せた方法であって、目的ではない。書く いか。語られはしないけれど、そう思わせう。それが共感を呼ぶ。 るほど、その人生の底の底では、世界に人自分は「写真屋」。写真談義する言葉のことを、まさに書くことをもって生きる、 間が在ることへの尽きせぬ想い、世界が在人でもなければ、様式で美を追求する芸術〈文芸家〉という特異で純粋な精神の態勢 かたち り人間が在ることを抱き留めんとする純信の写真家でもない。しつかりとした技を持を象で見出したのは、ライカという機械で って生きると言葉にならぬ決意をして、こはなく、木村という人間だ。己のビジョン 仰がいつでも滾々と湧き出ていて、それが この人を突き動かしていたように思われての人は実際にそう生きた。写真の技術者、をより純粋かっ明確に彫り出すため、木村 道 ならない。それが、ただただ人間のありよ科学者たちと渡り合えるほど、「写真屋」は流動を押しとどめるスナップ写真で、古大 うを、この人に観続けさせたのだろう。工だった。カメラという機械による知覚をそびることを知らぬ知覚の道を歩んだ。こん ピソードとして結ばれる人間の魅力も、この本性とする写真は、途轍もなく大きく恐なふうに始まった木村伊兵衛の「写真屋」真 の底流があればこその魅力。それがなけれろしいほど深い。世界それ自体に直接連なの大道を、私は書きたいと思っている。 ひとたら っていて、芸術に収まるどころではない。 ば単なる女蕩し、いや、人間蕩しじゃない か。誰も傷つけはしないのなら、気のいいそうであるほかないと信じて、写真を引き たら

10. 新潮 2016年8月号

書くこと、生きることの特異な融合である 横光の精神、である。そしてその底で、そ 潮「写真屋」の大道 の個に閉じられた生、持続に流れ込む、こ の世界それ自体であるような時間を、写真 は静寂のうちに深く湛えている。同年十一一 月、木村伊兵衛はこの写真を含む、文士た 日高優 ちの肖像写真で初の個展を開催、本格デビ ューを鮮烈に果たした。スタジオ撮影で速 ここに一枚の写真がある。男の顔が、暗「機械」を書いてから丁度一二年後、昭和八写性の高い小型カメラ、ライカの威力がい がりからふっと浮き出てくる。暗がり、と年 ( 1933 年 ) に撮影された。撮影者はかんなく発揮されたと称賛され、好評を博 いうより沈んだ暗い色調のなかから。あら木村伊兵衛。写真を研究する私は次の仕事した。 ぬ方を見る、若さを幾分か宿した白い顔。で、この人の写真について書きたいと思っ その上に、アンバランスなほど豊かな髪がている。木村は、横光と機械繋がりの主題無名の人々から有名人まで、結局どこで のたうつ。厳しく限定された矩形のなかを狙った、という訳では勿論なく彼一身のもどこまでも、木村伊兵衛は人間を撮っ で、男は画面の左方に寄せた和服姿の半身理由で、同じ昭和八年の八月に「カメラはた。浅草や銀座の街路で、文人や画家の書 をさらに左へと捻り、顔を傾けるように軽機械である」という愚直にして当然の主題斎やアトリエで、歌舞伎や演劇の舞台で、 く突き出し見ている。何を ? わからなを巡るエッセイを書いた。木村には、カメ秋田や沖縄など地方で、何よりも市井の い。視線の先は、フレームの外にあるかラという機械を使って、誰も知る由もない人々の暮らしのなかで。木村の写真は深く ら。だが実際このとき、さして何も見てい横光の心理心情などというものを写真に捕一般の人々に親しまれ、生きられ、浸透し なかったかもしれない。写されたのは見よらえ得た、と主張する詐術を働く気は毫もた。木村伊兵衛の写真を、他の写真家の仕 うとする男の態勢だ、自身の意識も超えて無い。表情を通した性格描写など、しよう事から明瞭に際立たせているのは、この写 見ようとしている男の。夢のなかのようもない。機械による知覚で捕らえたのは、真の浸透力だ。その浸透性はどこから来る に、白く光る手が素直に右に伸びている。「『私』は自分の『心が默々として身體の大のだろう ? しばしば語られる、彼の人間 時間は流れるほかないものだが、この男のきさに從って存在してゐる』のを靜かに眺的魅力、だろうか ? 確かにこの男、相当 ありよう、生の持続と共に打ち震える時間めてゐる」 小林秀雄が「機械」の批評に魅力的ではある。 が、カメラという機械の知覚によって〈永でそう書いた、言うなればそういう「私」帽子道楽の洒落もので、酔っぱらうため 遠の現在〉となって、氷結されている。 である ( 「私ーは直接には「機械」の主人に呑んだ陽気な艶福家。呑めば周囲に人が 写真の男は、横光利一だ。横光が小説公であり、横光自身でもある ) 。観ること、集まる。そうかと思えば、恐らく女を扱う 220