蓬子 - みる会図書館


検索対象: 新潮 2016年8月号
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1. 新潮 2016年8月号

のないものだ。確かに二朗は蓬子に触れられてもしごかれて娘ぶりを随所で発揮していた。だが手紙には、緊急に召集さ もびくりともしないし、小春などから何度も従妹に手をつけれた婚約者と小田原の旅館で落ち合って、一夜を共にしたと ある。婚約者は誠実にも、自分が戦死する可能性がある以 ただろうと問われても事実そのものとしてそんなことはない 上、よもぎさんを末婚の母にするわけにはいかないから、性 と否定して内心においてもそう思っているのだが、にもかか 交には及べないーーだがアナル・セックスはしようとする、 わらず、彼が求めているのは本当は蓬子なのだ。それは読め と言うのだが、蓬子は「わ ここは明らかに笑うところだ ばわかる。そして小説が始まってまもなく、蓬子が伯爵夫人 たくしが今晩あなたとまぐわって妊娠し、あなたにもしもの についてこともなげに言う「あの方はお祖父ちゃまの妾腹に ことがあれば、生まれてくる子の父親は二朗兄さまというこ 決まっているじゃないの」という台詞が呼び水となって、二 とにいたしましよう」と驚くべきことを提案し、それでよう 朗は「一色海岸の別荘」の納戸で蓬子に陰部を見せてもらっ やっと二人は結ばれたのだという。それに続く文面には、赤 たことを思い出すのだが、二人の幼い性的遊戯の終わりを告 げたのは「離れた茶の間の柱時計がのんびりと四時」を打っ裸々に処女喪失の場面が綴られており、その中には「細めに 音だった。この「四」時は、二朗のヰタ・セクスアリスの抑開いた唐紙の隙間から二つの男の顔が、暗がりにまぎれてじ っとこちらの狂態を窺っている」だの「あのひとは一二度も精 圧された最初の記憶として、彼の性的ファンタズムを底支え している。それに蓬子は「ルイーズ・プルックスまがいの短を洩らした」だのといった気になる記述もありはするのだ が、ともあれ二朗はどうしてか蓬子のとんでもない頼みを受 い髪型」をしているのだ。二朗は気づいていないが、あの 「和製ルイーズ・プルックス」は、結局のところ蓬子の身代け人れることにする。彼は小春を相手に現実には起こってい ない蓬子とのふしだらな性事を語ってみせさえするだろう。 わりに過ぎない。蓬子は「二」女だが、彼女の母親も「二」 それは「二」として生まれた自分が「三」からの誘惑を振り 女であり、すなわち「二」十「二」Ⅱ四 ( 「二」 x 「二」で 切って「四」へと離脱するための、遂に歴然とその生々しい も答えは同じだ ) 。そして何よりも決定的なのは、蓬子とい う名前だ。なぜなら蓬Ⅱよもぎは「四方木」とも書くのだか姿を現した「世界の均衡ーの崩壊そのものである「戦争」に 対抗し得るための、おそらく唯一の方法であり、と同時に、 ら。そう、彼女こそ「四」の化身だったのだ。 あるとき突然向こうからやってきた、偶然とも僥倖とも、な重 小説の終わりがけ、ようやく帰宅した二朗は、蓬子からの んなら奇跡とも呼んでしかるべき、因果律も目的意識も欠い蓮 封書を受け取る。彼女は伯爵夫人の紹介によって、物語の最 た突発的な出来事としての「小説」の、意味もなければ正し説 初から「帝大を出て横浜正金銀行に勤め始めた七歳も年上の くもない「原理」、そのとりあえずの作動の終幕でもある。 生真面目な男の許嫁」の立場にあるのだが、未だ貞節は守っ ( 了 ) ており、それどころか性的には甚だ未熟な天真爛漫なおぼこ 四

2. 新潮 2016年8月号

かように虚実の見分けがっきにくい強姦未遂の逸話が、い しものことがあったら、よもぎさんは未婚の母になってしま ま一度の更新によって蓬子のメロドラマに新たな可能性を添う」と心配しつつ「品川の芸者とたった一度だけ経験した」 えるのが、「刈」における帰宅後の場面である。「奇特な報という肛門性交のことを出征間際に打ち明ける婚約者を「懲 らしめる意味」で、事前にこんな取り決めを交わしていたの 告」の綴られた蓬子からの手紙を読了した二朗が、その返信 だという。 を書ききった直後に、それは見事に果たされる。 : 〕ついさっき、蓬子を存分に犯しまくってきたのだと 〔 : ・〕わたくしが今晩あなたとまぐわって妊娠し、あなた にもしものことがあれば、生まれてくる子の父親は二朗兄 不意の思いっきを口にすると、まあ、許嫁までおられるあ さまということにいたしましよう。 の方は激しく抵抗なさいませんでしたかと訊くので、抵抗 する女を手込めにすることを「犯す」というのだと開きな そのようないきさつがあったことを「報告」した上で、蓬 おる。〔 : ・〕たつぶり三度も精を洩らしたので、妊娠は間 違いなし。ひたすらうめきまくっていたあいつは、三度目子はさらに手紙の末尾に「たったひとつのお願い」を書いて いるのだ。 にはとうとう白目を剥いて失神しおったと嘘の追い討ちを かけるが、自分ではそれがまんざら出鱈目とも思えない。 〔・ : 〕わたくしが妊娠したとわかったら、あのひとが戦地 から無事に戻ってくるまで、どれほど魅力的なお嬢様と知 二朗は、夢精への対処のために用意された「いつもの越中 りあわれても、その方との婚約だけはどうかおひかえくだ ふんどし」が今夜は不要であることの理由として、小春相手 さい。 にそんな「不意の思いっきを口にする」。「インカ土人秘伝と いうエキス人りサポン」の効果で「七十二時間の不能」に陥 これで実際に蓬子が身ごもり、出征先で婚約者に「もしも っているため「今夜はお漏らしにならない自信」があること のことがあれば」、「嘘」が嘘のままーーーということはつま も手伝ってか、なんの得にもならないような「嘘」の説明を 、歪曲や誤りがまったくあらためられぬ状態でーー「本当 二朗は選ぶのだ。 のできごと」として世間に流通することになるだろう。なに なぜ彼がそうしたのかは、「敬愛するお兄さまへの蓬子か よりの証拠として、「生まれてくる子」の存在が、出来事の らのたったひとつのお願い」が、「奇特な報告」に記されて いたことと無縁ではないだろう。蓬子は、「戦場で自分にも発生Ⅱ性交の事実をだれの目にもはっきりと裏づけるにちが

3. 新潮 2016年8月号

を構成する細部や構文には、やはり明白な相違が見られる。 神して見せますから、ご覚悟よろしくね」などと宣言するの このように照らし合わせれば、『伯爵夫人』に認められる だが、無邪気な好奇心も相まっての買い言葉ゆえ、この時点 重なりとずれの組み合わせは、同一シチュエーションの反で彼女がどこまで本気なのかはさだかでない。 復・変奏の試みであるとひとまず理解できるだろうが、そう それが「刈」になると、蓬子は「強羅のホテルの商標が印 した構造上の連関とは別に、物語上、「Ⅳ」と「刈」には直刷された厚い封書」を二朗に送りつけてきて、「とうとう卒 接の因果関係を否定できない挿話も編み込まれている。蓬子倒に成功致しましたという奇特な報告」をおこなうまでにみ ずからの更新を果たす。「緊急に召集されて舞鶴に向かう婚 が、いかにして卒倒への意志を抱き、それを成就させたかに ついてのなりゆきである。 約者と、彼が途中下車して待っていた小田原で落ち合」い 「粗末な旅館で一夜をともにしました」と、蓬子はその「奇 〔・ : 〕でも、あちらのお宅では、お母さまを始め、お女中特な報告」をつづける。そこで「朝までもつれあ」い、婚約 さんたちまでが、二朗兄さまの剥きだしにされた「おみお者は「三度も精を洩らしたので、妊娠は間違いなし」などと 玉」に触れたり、位置を変えたり、じっと眺めたりしてお彼女は書き添えもするのだが、肝心の「卒倒」に関しては本 られたと」うやありませんかと蓬子が間近から二朗の顔文のあとにこう記して」る。 をのぞきこむ濱尾の野郎、相変わらずおしゃべりだなあ む 追伸として、朝早くのプラットホームで軍服姿のあの人読 と舌打ちしつつ、いや、肝心のおれは失神してたんで、詳 しいことは何もわからんのだというと、まあ、気絶なさっ の乗った列車を見送りながら、それが見えなくなるまでひ 人 とり萬歳、萬歳と絶叫していたわたくしは、いっしか意識夫 たの。あたくしも、結婚前に一度は気絶してみたいとひそ かに憧れておりました。歐洲の小説を読むと、ヒロインた を失ってしまったらしく、気がつくと駅長室に寝かされて ちは肝心なときに決まって卒倒するじゃありませんか。 いました。 ( イヤーを雇って強羅まで戻りましたが、晴れ一 て失神を経験しましたことをご報告いたします。 これが、「Ⅳ」ではじめて蓬子が卒倒への意志を表明する かくして「Ⅳ」と「刈」は、卒倒への意志をめぐる挿話に くだりである。「でも、卒倒って、本当はどんなことなんで おいても因果関係で結ばれ、「歐洲の小説」さながらの「ヒ すの」と問うてみれば、「きみには失神はまだ無理だね」と 二朗にすっかり子どもあっかいされてしまった蓬子は、「あ ロイン」を蓬子に演じさせて、ひとつのメロドラマを完結さ れこれ修業をつんで、いっか二朗兄さまの目の前で晴れて失せるーーただしそれが、物語上の現実世界に生じた「本当の 775 Sign ・ 0 ' the Times

4. 新潮 2016年8月号

だいじなところまで舌をのばそうとなさる。そこだけは堪 忍してと懇願するあの方を組み伏せ、カずくで操を奪おう となさったのは、いったいどこのどなたなのですか。 この話が真実であるのかどうかを読者が確定させるのは至 難の業だが、二朗自身は「そんな法螺話を手伝いの女にいっ てのける従妹の真意はにわかには測りかね」ている。蓬子の 「腹いせ」か小春の「戦術」かと内心疑りもするが、かとい って二朗は、出来事それ自体を口に出して否定することはせ ず、どっちつかずな態度を示すのみだ。「あいつには、そん なまねはいっさいさせておらぬ」との彼の明言は、「非力な 力士が強い相手に土をつける」のに効果的な「足取りという 離れ業」での反撃に出た蓬子の「お手々が玉々をめりこませ るほどしめあげてしま」った挙げ句、「まるだしのおちんち んから大量の白濁した液体を畳に迸らせてしまわれた」ので はないかと指摘を受けたことに対する、受け身の返答にすぎ ない。「出まかせもいい加減にしろ」とか「あんな小娘のロ から洩れた出鱈目を本気で信じているのかと声を荒だて」た 対応についても、「あいつにおれのをしゃぶらせたことな ど一度としてない」という反論に付随して発せられた苦言を 超えるものではないのだ。 ではなぜ、二朗はなにもなかったのだとはっきり否定しな いのだろうか。いくつかの「思いあたること」があるから だ。「足取りという離れ業」を教えてやったこと以外にも、 二朗の記憶には、蓬子の証言と一致する部分がこれだけあっ たようなのだ。 そういわれると、確かに、従妹の細い臀部をおおってい た花柄のズロースには見覚えがあった。とはいえ、それは 一色海岸でのことで、鵠沼ではなかったなどといえば小春 がつけあがるばかりだから黙っていたが、柱時計のうつ四 時の響きにも聞き覚えがあったし、二朗兄さまの「尊いも のーという言葉も、あいつの口から洩れるのを確かに耳に したことがあると思い始めると〔 : ・〕 もっとも、物語上ではこれを機に、自分は本当はクロでは ないかと二朗が怪しみだす自問自答的な展開にはおよばない そもそも当の小春とのやりとり自体、彼の回想として示 されているわけだが、会話を想起している最中の現在の二朗 む が、蓬子の告白内容をどうとらえているかが明かされること読 もない。 人 二朗の態度は煮え切らないものの、なにもかもがあいまい夫 なままというわけではない。ひとつの出来事をめぐる ( 真偽 不明の ) 告白Ⅱ伝達の反復運動のなかで、またもや昨日性か一 ら翌日性への経時変化が生じているという作品構造上の事実 は明らかだからだ。そこで二朗は、出来事の当事者ながらも 思い出せるはずの記憶を持たない、というねじれを経験しつ つも、どっちつかずな態度を通すことにより ( 昨日から翌日 へとつづく通路をさえぎらぬことにより ) 、さらなる更新の道だ けは閉ざさない。 777 Sign 、 0 ' the Times

5. 新潮 2016年8月号

伯爵夫人が姿を消したあと、ホテル地下の「お茶室」にいる解釈を提出すれば、あれは「活動小屋」において上映開始を 二朗が「またしてもひとりとり残されてしまったこの「どこ 告げるブザーの音ということになるだろう。なぜなら「ぶへ でもない場所」では、すべてがとりとめもなく推移してとら ー」が鳴るとき、『伯爵夫人』はたびたびこのようなイメー えどころがない」と思うのも、「ふと、「伯爵夫人」などとい ジをベージ上に展開させているのだから。 う女には、初めから出会ったりしていなかったような気が」 【 : ・〕その衝撃にぶヘーとうめいてうつぶせに崩れ落ちる するのも、帰宅後に「床に人ってから、一日のできごとをあ れこれ思い浮かべようとするが、どれひとっとして確かな輪 瞬間、首筋越しに、見えているはずもない白っぽい空が奥 郭におさまるものはない」と感ずるのも、きわめて自然なな 行きもなく拡がっているのを確かに目にしたと思う。だ りゆきなのだと言える。 が、そこで記憶は途絶えている。 ようやっとここで、「Ⅳーにおいて、「天井から吊された電 灯を消して小春が出ていったのと入れ替わりに、こざっぱり 「そこで記憶は途絶えている」ということは、先述の通り、 とした浴衣姿の蓬子が、四つ切りにしたメロンを盆に乗せて 二朗の意識という「活動小屋」の照明が落とされたことを意 姿を見せ」た際、「小春が出ていった」時点で二朗は「眠っ味する。場内が暗くなり、映画がはじまる合図として、「ぶ てしまっ」ていると本論が推しはかる理由を述べることがで ヘー」が響いているわけだが、それにつづいて「首筋越し きる。「電灯を消」すとは、二朗の意識という「活動小屋」 に、見えているはずもない白っぽい空が奥行きもなく拡がっ の照明が落とされたことを意味する。そのあとにつづく経緯ている」と語られているイメージが、白い平面であるスクリ は、二朗の見る映画的に構造化された夢なのだと言える。そ ーンを指しているのはもはや疑うべくもない。意識の中絶は う言いきれる証拠に、当の場面で「姿を見せ」た蓬子は、 たいていの場合「白っぽい空が奥行きもなく拡がっている」 「枕もとのランプの脇にべたりと座る」 ( 傍点引用者 ) 。これは イメージをともなって生ずる。そのたびに「活動写真」が上 「傾きかけた西日を受けてばふりばふりとまわっている重そ映されているのだ。 うな回転扉を小走りにすり抜け」る存在と同様に、映写機の 発する光が形づくる映像として蓬子が示されていることを物 語っている。 ならばなぜ、作品のいたるところに、「活動写真」への直 それならば、作中の随所でくりかえし響くことになる「ぶ接の言及が多々あるにもかかわらず、「傾きかけた西日」や ヘーという低いうめき」とはなんなのか。ただちにひとつの 「回転扉」や「枕もとのランプ」や「ぶヘーという低いうめ

6. 新潮 2016年8月号

きごと」なのかを言い当てるのはむつかしい。そもそも主人 公たる二朗本人にとってさえ、「床に人ってから、一日ので きごとをあれこれ思い浮かべようとするが、どれひとっとし て確かな輪郭におさまるものはない」のだから。 したがって、以下の議論はあくまでひとつの解釈にとどま らざるをえないが たとえいかなる形であれ、徴睡のなか から『伯爵夫人』その人を呼び起こし、せめて一瞬でもじか に見つめあうことがかなうのなら、本論にそれ以上の望みは ない。 はおつつけ演舞場からお戻りでしようが、私の方から詳し くご説明申しあげておきます故、どうか朝まで熟睡なさっ て下さいませ。そういいながら股間に氷嚢をあてがい、こ れでいいかしらと陰茎の位置を指先で確かめながら、軽い 蒲団をそっとかけてくれる。たまたま睾丸を痛めただけ で、濱尾夫人をはじめ、まわりの女たちがいつもとはまる で違う親密さでおれに接してくれるのはなぜなのだろう。 一一朗は、いささか複雑な思いにとらえられる。 この直後、物語上では「天井から吊された電灯を消して小 春が出ていったのと人れ替わりに、こざっぱりとした浴衣姿 二朗が「知らぬ間に眠ってしまった」のはいつのことなの の蓬子が、四つ切りにしたメロンを盆に乗せて姿を見せる」 かーーあえてわざわざこう問うのは、先に引用した「もうタ のだが、じつのところ二朗は「小春が出ていった」時点で 暮れでございます」と、作中でその直前に記されている一 「眠ってしまっ」ているのではないかと、本論は勘ぐってい 節、「だが、それは母自身の声だろうか、それとも伯爵夫人 る。それ以降、彼にとっては「敬愛する従妹」である蓬子と の仲むつまじいやりとりをしばらくつづけているにもかかわ の声なのだろうか」との行間が、人眠のタイミングではない 可能性をこれから探ろうとしているためである。多くの読者らず、その手前で二朗は寝人ったのではないか、という推論 には意外に思われるかもしれないが、作品前半部「Ⅳ」にお を立てているわけだがーーそう考える理由は、いずれ明らか にする。 ける以下の場面に、本論は睡魔の出現を見ている。 二朗が「知らぬ間に眠ってしまった」のが、そこから八章 へ 1 いという車夫の声が到着を告げる。女中頭は二朗の もさかのぼらねばならぬ「Ⅳ」の上記引用箇所だとすれば、 むきだしの下腹部をタオルでおおい、懐からとりだした製 たしかに不自然な部分は出てくる。まず、「帝國・米英に宣 紙にくるまれていた安全ピンで落ちないように腰のまわり 戰を布告す」と報ずるタ刊が、作品最終盤の「タ暮れ」場面 に固定する。電話で詳細を知らされていた小春が玄関に迎で示されるということは、物語上の現実世界の現在は一九四 えに出ており、お床はのべてありますという。〔・ : 〕奥様 一年一二月八日月曜日であると ( 現実の史実に照らし合わせれ

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そんなささいな出来事が、『伯爵夫人』ならではの反復形式 いない。部分的には記憶上で一致しているところもあるとは ( 規則性と逸脱の並行的追求 ) を通じてメロドラマ的な経時変化 いえ、みずからの経験と当の事実を構成する細部はおおきく ここで見すごしてはならぬのは、「ど を遂げるわけだが 異なり、そもそも子種の提供者としては身におぼえがなく、 れひとっとして確かな輪郭におさまるものはない」事実のあ 完全に否定していい立場にあるはずの二朗自身が、認知する りようである。「法螺話」や「出鱈目」の指摘を受ける蓬子 気まんまんなのである。 による ( 真偽不明の ) 強姦未遂被害告白と、「不意の思いっ き」でしかない二朗による強姦告白の「嘘」ーーこれらふた 〔・ : 〕まずはご貫通とのご報告、心からめでたいことだと つの虚偽的な挿話が、時差の矛盾もそのままに小春への伝達 受けとめた。敬愛する従妹との約束は必ず守ってやるか を経てひとつの事実として重なることにより、「妊娠」の可 ら、安心しているがよい。 能性という「本当のできごと」へと更新されるのだ。 かようにあざやかな変転の過程が、ごく自然なことのよう 当の返信に、「きみのからだの芯が、みだりに妊娠するほ ど「熟れた」仕組みであるとはとても思えないが」などと皮に組み立てられている『伯爵夫人』においては、虚実や真偽 や夢現つの境は、かくもあいまいなものとなってゆく。なら 肉を書き添えることも二朗は忘れていないが、小春相手に ば本論は、ここでこう問わなければならない。口にしたばか 「蓬子を存分に犯しまくってきたのだと不意の思いっきを口 む りのみずからの「嘘」を「まんざら出鱈目とも思えな」くな読 にする」のはその直後だから、どうやら彼は「約束は必ず守 、虚実の境を意識すること自体をもはや放棄してさえいる ってやる」ことに本気であり、早速そこで将来への布石を打 人 かのように見える主人公は、「目の前の現実」で進行中の出夫 っておいたのだとも読みとれる。しかも彼は、「嘘の追い討 ちをかけるが、自分ではそれがまんざら出鱈目とも思えな来事と、自分の思い浮かべる回想との区別が果たしてついて い」などと心でつぶやいているくらいなのだから、虚実の境いるのだろうか。ホテルの電話ポックスで伯爵夫人に「金玉 を意識すること自体をもはや放棄してさえいるかのように見をねじりあげ」られた際の苦悶と、キャッチボールにおける えるのだ。 「おみお玉」の災難は、いったいどちらが自身の脳裏に浮か ぶ心象なのか、二朗はただしく理解しているのだろうか。 もともとは、「一色海岸の別荘」の「薄ぐらい納戸に二人 0 して身を隠し」て「さわやかに毛の生えそろった精妙な肉の 仕組みをじっくりと観察させてくれた」という程度の、あど けない秘め事として語られていた、いとこ同士による痴戯。 ここまでの議論からも明白なように、「Ⅳ」の消灯場面と

8. 新潮 2016年8月号

ば ) 読みとれる。つまり季節は冬なのだが、いつぼう、「冷 りながら笹に囲まれた道を進むと、それらの植物は、その たそうなカルピスのコップを二つ乗せた盆をかかえた若い女 ことごとくが、活動写真の舞台装置のように人工的なもの 中」「せめてものお見舞いにと、冷えたメロンを二つも提げ にすぎまいとおよその察しがつく。あたかもこちらの心の た」「こざっぱりとした浴衣姿の蓬子」といった記述が見ら 乱れを読んでいたかのように、左様、この庭の造作は、さ れる「Ⅳ」は、世間一般の慣習に照らせば、夏の出来事を物 る活動写真の美術の方が季節ごとに作り変えておりますと 語っていると考えられるのだーー仮にその「メロン」が、マ 無ロな男は振り返りぎみにつぶやく。 スクメロンだとすれば ( 「浜松情報 BOOK 」というウエプサイト によれば、明治期に新宿御苑で英国産の品種が温室栽培されたのが むろん、伯爵夫人に誘われて二朗が迷い込んだホテルの 「日本で初めての温室メロン」とのことであるが ) 、同種の別名と 「地下二階」に「さる活動写真の美術の方」が「舞台装置の されるアールスフェポリット ( 伯爵のお気に人り ) を踏まえて ように人工的」な「巴旦杏」などの造花を「季節ごとに」設 採用された小道具なのかもしれない。 けているからといって、濱尾家の「カルピス」や「メロン」、 季節感を示す一二つの符牒たる「冷たそうなカルピス」「冷または蓬子のまとう「浴衣」までもが「美術の方」の手がけ えたメロン」「こざっぱりとした浴衣姿」を真に受ければ、 た紛い物として読んでいいことにはならない「そもそも「カ ルピス」や「メロン」や「浴衣」は偽物であると補足する記 「Ⅳ」は夏季の場面と読むほかない。だが、日付や季節の直 む 接表記を周到に避け、史実への言及ないしは衣裳や日用品と述も見当たらないのだから、少なくとも物語上ではそれらは読 いった小道具でそれらを示唆する『伯爵夫人』には、同時に本物としてあっかわれていると見るべきだろう。 人 あまたのイミテーションがちりばめられてもいるため格段の だが、上の引用箇所にかぎらず、物語の開始早々、「目の夫 注意を要する。読み手が一度でも作品の深みにはまってしま 前の現実がこうまでぬかりなく活動写真の絵空事を模倣して しまってよいものだろうか」などと主人公につぶやかせ、終 ったら、読解の混迷から脱けだすのはたやすいことではない だろう。 盤でもまったくおなじフレーズを同人の脳裏に浮かべさせる一 『伯爵夫人』は終始、イミテーションに埋めつくされた世界 〔・ : 〕そこには熊笹が生い茂り、何本かの白樺が痩せた枝の複製性を強調してやまず、どこか、本物の価値を軽んじて 0 を伸ばした小さな庭が拡がっており、白樺の木蔭には、季さえいるかのようでもある。その複製性への傾倒と反復の規 はたんきよう 節はずれの巴旦杏が花をつけている。ここは地下であるは 則性は、なんらかのルールの存在を暗にほのめかしているの ずだから、いったいどのように光合成が行われるのかと訝ではないかと、絶えず読み手を煽り立ててくるのだ。

9. 新潮 2016年8月号

小説家蓮實重彦の第三作『伯爵夫人』はどうなのか。この小 にさりげなく記されている。たとえば濱尾は、伯爵夫人の怪 説は「三」なのだから、仮説に従えば「四」もしくは「二」 しげな素性にかかわる噂話として「れつきとした伯爵とその を志向せねばならない。もちろん、ここで誰もが第一に思い奥方とを少なくとも三組は見かけた例の茶話会」でのエピソ 当たるのは、主人公の名前である「二朗」だろう。たびたび ードを語る。また、やはり濱尾が二朗と蓬子に自慢げにして 話題に上るように、二朗には亡くなった兄がいる。すなわち みせる「昨日まで友軍だと気を許していた勇猛果敢な騎馬の 彼は二男である。おそらくだから「二」朗と名づけられてい連中がふと姿を消したかと思うと、三日後には凶暴な馬賊の るのだが、しかし死んだ兄が「一朗」という名前だったとい群れとなって奇声を上げてわが装甲車部隊に襲いかかり、機 う記述はどこにもない、というか一朗はまた別に居る。だが関銃を乱射しながら何頭もの馬につないだ太い綱でこれを三 それはもっと後の話だ。ともあれ生まれついての「二」であ つか四つひっくり返したかと思うと、 ( 略 ) あとには味方の る二朗は、この小説の「三」としての運命から、あらかじめ特務工作員の死骸が一二つも転がっていた」という「どこかで 逃れ出ようとしているかに見える。そう思ってみると、彼の聞いた話」もーー・「四」も人っているとはいえーーごく短い 親しい友人である濱尾も「二」男のようだし、従妹の蓬子も 記述の間に「三」が何食わぬ顔で幾つも紛れ込んでいる。 「二」女なのだ。まるで二朗は自らの周りに「二」の結界を しかし、何と言っても決定的に重要なのは、すでに触れて 張って「三」の侵人を防ごうとしているようにも思えてく おいた、二朗と伯爵夫人が最初の、贋の抱擁に至る場面だ。 る。 謎の「ふたり組の男」に「二朗さんがこんな女といるところ だが、当然の成り行きとして「三」は容赦なく襲いかか をあの連中には見られたくないから、黙っていう通りにして る。何より第一に、この作品の題名そのものであり、二朗に下さい」と言って伯爵夫人が舞台に選ぶのは「あの三つ目の ははっきりとした関係や事情もよくわからぬまま同じ屋敷に街路樹の瓦斯燈の明かりもとどかぬ影になった幹」なのだ 寝起きしている、小説の最初から最後まで名前で呼ばれるこ が、演出の指示の最後に、彼女はこう付け加える。 とのない伯爵夫人の、その呼称の所以である、とうに亡くな っているという、しかしそもそも実在したのかどうかも定か 連中が遠ざかっても、油断してからだを離してはならな ではない「伯爵」が、爵位の第三位ーー侯爵の下で子爵の上 い。誰かが必ずあの二人の跡をつけてきますから、その三 であるという事実が、彼女がどうやら「三」の化身であ 人目が通りすぎ、草履の先であなたの足首をとんとんとた るらしいことを予感させる。『オペラ・オペラシオネル』の たくまで抱擁をやめてはなりません、よござんすね。 「二」と同じく、『伯爵夫人』も題名に「三」をあらかじめ埋 め込まれているわけだ。確かに「三」はこの小説のあちこち そう、贋の抱擁の観客は「二」人ではなかった。「三」人 2

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録音にもかかわらず、それが、夜ごとに兄貴と聞かされて その意味では、「亡くなった兄貴」が「まだ元気だった」 きた母の嬌声であると気づくのに、さしたる時間はかから 頃、「幼い二朗」に「語ってくれた」という「長い無声の活 なかった。誰が録音したのか。父とは考えられない。だと 動写真」の「魅力」などは、当のルールをいっそう色濃く照 するなら、伯爵夫人だろうか。まさか蓬子でもなかろうか らし出しているように読めぬでもない。 ら、ことによると小春かもしれない。 〔 : ・〕まあ、この役者が面白いのは、まぎれもない偽物 その「録音」された「嬌声」に耳を傾けるうち、二朗は が、いつの間にか本物以上に本物らしく見えてしまうとい う役柄にびったりだからなのだが、活動写真なんて、所詮「不意に、兄貴と毎晩聞かされていた母の嬌声が、じつはあ らかじめ録音されていたレコードではなかったのかと思いあ は本物より本物らしく見える偽物の魅力にほかなるまい。 たる」。重要なのは、そこで彼が、反復の規則性を音声の特 まさしくこの二十世紀にふさわしい、いかにもいかがわし い発明品というべきものだ。もっとも、それが正式に発明徴として思い起こしていることである。「そういえば、あれ はいつも同じように高まり、ゆっくりと引いていったもの されたのは十九世紀末のことだがね。 だ」 ( 傍点引用者 ) 。 それが「いつも同じように高まり、ゆっくりと引いてい」 その「魅力」を称えるためなのか、「活動写真」に加えて 「歐洲の裸婦たちの卑猥な写真」や「「高等娼婦」でもあった く規則性を持 0 た音声なのであれば、たしかに「あらかめ 伯爵夫人の裸婦像」などの印画も作中でひときわ存在感を放録音されていたレコード」である可能性が高いと言える逆 に考えれば、「いつも」と異なる場合には単に複製物が再生 つが、だからといって、複製されるのは見えるものばかりと されているのではなく、なんらかの異物が取りこまれたか、 はかぎらない。聞こえるものも容赦なく記録され、別種の もしくはどこか一部が削りとられたことを示す、更新の意味 「いかにもいかがわしい発明品」を介して明け透けに披露さ をそこから読みとるべきなのかもしれない。 れることになる。 「Ⅷ」で再生された「レコードの母の声」は、「息たえだえ 〔 : ・〕では、この女の声を録音した特別なレコードを電蓄にのぼりつめたかと思うと一瞬とだえ、やがてコロラチュ ラ・ソプラノのようにア行ともハ行ともっかぬ高音を、あた でお聴かせしますから、そのなだらかな抑揚にあわせてご かも深い森の中で見たこともない小鳥がさえずるように長く ゆるりとご放出ください。すると、どこかで聞いたことの あるぶヘーという低いうめきがゆっくりと高まり、粗悪な長く引きのばしてゆく」と詳細に形容されるが、この記述は 772