まど なにから話せばいいのか、わからなし 、。いちばんにカローラの窓にはりついたリンリンの顔か幻 うかんだ。それだけで、胸がつまった。 「とうちゃん、またなんか失敗したか。見栄っ張りだけなあ。ひやひやするわ。」 しす わたしは静かに首をふる。 : とうさんは、なんにも失敗なんてしていない顔が赤黒くむく ひっし むまで働いて、必死に店を維持しようとしていただけだ。 わる つご、つ 「あんたらのかあちゃんがでていったときもそうだった。なあんも都合の悪いことはいわんと、 ばあちゃんのところにふたりを置いていった。まあだよしひろは生まれて半年そこそこだったの おは 知らなかった。わたしが覚えていたのは、そのときのことだったんだ。山崎のおばあさん か、「あんときの赤ん坊がこがあに大きゅうなって。」といったのは、そういう意味だったんだ。 「いまだにばあちゃんは、どういう事情でそうなったんか、聞かしてもろうとらん。あん子は わる つごう いつつもそうじゃ。都合の悪いことがおきると、なあんもいわんと逃げだす。」 胸がつまった。ばあちゃんの家にきた日のことを思いだして、ふわふわと体が浮きあがりそう になった。 「 : : : 年とってできたひとりつ子だけえ、甘やかしすぎたんだろか。だらすけでなあ。」 むね はたら むね じじよ、つ あま やまざき
た。それからふいに声をあらためて、 「なんか、なっき、かわった ? 」 とたずねた。 「しゃべるの、ゆっくりになった。」 そうかもしれない。わたしは少しかわったのかも。いままで地上しか知らなかったわたしの世 界に、海が加わった。目を閉じると、いまのわたしには海の底で必死に岩場にはりついてるアワ しお ビや、潮だまりでゆれてるカニの姿まで見える。 「あーん、会いたいよお、なっき。」 いちどむね もう一度胸きゅんの恵理のセリフ。 「 : : : わたしだって。」 れんあい すなお ふたりして恋愛ドラマやってる、とこそばゆかったけれど、素直にいえた自分がうれしかった。 、えり ばんご、つ ことば 電話番号教えてという恵理に、ばあちゃんちの番号を伝えて、電話をきった。恵理の言葉と声 げんかん にエネルギーを注入されて、じっとしていられないほど体が動きたがっていた。玄関の引き戸を おもて 勢いよくあけて表にでた。路地のきゅうくつな空を切りとって、ツバメかとんだ。 ばんごう くわ ちゅうにゆう えり すがた そこ ひっし 、んり ノ 78
げんかん 首ったまにかじりついた。ほおずりし、お腹の下にもぐりこみ、緒に玄関をころげまわった。 だけど狂ったようなそのよろこび方に、みんなが救われた。とうさんは、何年もまたいでいな かった自分の家の敷居を、抵抗なくまたぐことができたし、とまどいながらもリンリンは、よし ひろを受け入れた。ばあちゃんはロをもごもごと動かすだけですんだし、わたしはにこにこわ らっていれば、それでよかった。 「じいちゃんにあいさっしとけ。」 ぶつま すなお とうさんの顔を見ないでばあちゃんがいった。素直にとうさんは仏間へと足をむけた。 「ほ 1 、何年帰らんでも、仏さんのおるところはわすれとらんだったようだな。」 とげのある言い方にドキリとした。聞こえないふりのとうさんは、長いあいだ仏壇に手をあわ せていた。 あたた 温かな食卓だった。 あじ もの ばあちゃんのサバのみそ煮のおいしさが、体じゅうにしみとおる。久しぶりだ。食べ物の味が するのは。 「おかわり ! 」 はん わたしはご飯を何杯もおかわりした。それはとても、ばあちゃんをよろこばせた。 くる しよくたく なんばい ていこう なか すく ひさ ぶつだん
わる 「景気が悪いんは、なっきも知っとるじやろ。」 むろん知っていた。 はたら しやっきん 「働いても働いても借金が増える。もう限界じゃ。」 頭をかかえたとうさんの声が、水の中みたいに遠くひびいた。去年あたりから、店の売れ残り ゅ、つはん のスパゲテイやカレーがタ飯にあてられる日が増えた。そのうちとうさんは、近所にできた二十 四時間営業のスー ノ 1 に早朝パ 1 トにではじめた。それでも、「フォックステール」がつぶれる なんて思いもしなかった。 「おまえとよしひろが夏休みのあいだ、鳥取に行ってくれたら、そのあいだとうさん、生活のた てなおしに集中できる。」 、」とば もの とうさんの言葉に傷ついた。じゃま者っていわれた気がした。 「 : : : とうさんはやつばりだらすけじゃ。」 細長い体が食卓のいすからずりおちて、頭を後ろの壁にゴンゴンうちつけた。 「ばあちゃんのいうとおりじゃ。」 たいへん 大変なことになった。 かべ とうさんのたてる壁の音が、わたしにそう教えていた。とうさんは、いじめられて泣いて帰っ はたら えいぎよう しゅうちゅう しよくたく きず ふ げんかい とっとり ふ かべ きよねん きんじよ な のこ 4
さんほ リンリンにおしつこをさせるために、周囲を散歩した。岡山じゃずっと三十五度をこえていた すす のに、中国山地のど真ん中はさすがに涼しくて、エノコログサが風にゆれていた。 「リンリーン。」 リンリンとよしひろが、草の海でじゃれまわるのを、とうさんはばんやりながめていた。魂の ぬけた人みたい。 「アチョ 1 。」 ぎしき 魂込めの儀式。わたしは、とうさんの背中にとびついた。すじばった体を両足ではさんでよ じのばる。上から見ると、とうさんの頭のてつべんはタンポポの綿毛みたいにほよほよしていた。 「とうさん。はげかけてるよ。」 「わかっとる、そのくらい。お、重たいなあ、おまえ。いったい何キロあるんだ ? 」 「三十六キログラムで 1 す。」 「 : : : 十倍かあ。」 よろけながら体勢をたてなおしたとうさんは、背中のわたしをゆすりあげた。 「十倍って ? 「生まれたときのおまえの体重、三千六百グラム。でつかい女の子ですねえって、看護婦さんに たましいご なか たいじゅう おも しゅうい せなか せなか おかやま わたげ りようあし かんごふ たましい
て寝返りをうった。 「リンリンて、なにか、大か。」 コクンとうなずくと、ばあちゃんは枯れ枝のような大きな手でわたしの背中をゆっくりとなで しんばい : だいじようぶだけえ、なっき。心配するな 「よしひろがゆうとったのも、その大のことか だいじようぶだけえ。大は十日やそこらたべんくらいで死にゃあせんよ。」 でも、でも。 首をふりつづけるわたしに、ばあちゃんはかさねていった。 さいぜん 「生き物はみいんな、生きるために最善の努力をするもんだ。アワビでも見てみい。とられる思 ひっし うたら岩に必死ではりついて、ひつばってもどうしてもとれんようになるだろ。カレイやヒラメ そこ すな は体の色を砂に似せて、海の底にそっとかくれとる。それぞれがそれぞれにおうたやり方で、一 しん しようけんめい 生懸命生きる工夫をするもんだ。リンリンもがんばる。信じてやれ。」 わたしの脳裏にふっと、昼間岩場をうろついていて出会ったヤドカリの姿がうかんだ。 そうかもしれない。ばあちゃんのいうとおりかも。あのヤドカリもわたしに見つかったと ねがえ もの の、つり・ ・、ふ、つ えだ レ」りよ / 、 すがた せなか
「 : : : たべてるよ。」 「そうはゆうても、ここにきてからあんたはやせていく一方で、目ばっかりぎろぎろしてきとる じゃないか。ばあちゃんは、気が気じゃないよ。ばあちゃんの飯がロにあわんか。」 そうじゃない。そうじゃない。わたしはばあちゃんがいいおわる前から、ぶんぶん首をふった。 丿ンリンが」 リンリンの名を口にしたとたん、わたしの心の堰がはずれた。決壊したダムのように閉じこめ ことば てた言葉があふれでた。 「と、つさん、 : 山に、リンリンを捨てた。もう、・ : ・ : 飢え死にしとるかもしれん。」 自分がロにした言葉のおそろしさにおしつぶされそうだった。えつ、えつ、えつ、体じゅうに たたみ けいれんがとりついた。なんとか止めようとこころみる。でもだめだった。わたしはとうとう畳 につつぶして、わあわあ声をあげて泣きだした。うるさそうによしひろか、タオルケットをはね そっか。わたしもよしひろもおじゃま虫なんかじゃないんだ。なんだか、ふふんと鼻を高くか % かげたいような気分になった。 「だけんど、なっき。もうひとつだけ、ばあちゃんに教えてくれ。なんでしつかり、飯を食わ ん ? 」 せき めし けつかい めし
つくえ うだったけど。机に「バニラ味。なめてみ。」と市村君の字で落書きがしてあって、 ( へえ、けっ こうおちやめじゃん ) ってなんだかうれしくなった。 「なっき、ええか ? ねまき姿のばあちゃんが、部屋に入ってきた。反射的にほっぺたが赤くなる。やだ、わたしつ かく たら、心の中が見えるわけないのに。照れ隠しに柱の時計を見あげた。 「まだ寝んかったん。もうすぐ十時だよ。」 ばあちゃんは、いつも九時にはふとんに入る。今日はなにごと ? 「なあ、なっき。あんたらふたりがうちにきて、今日でもう一週間だ。」 せいざ ばあちゃんはきちんと正座して、芝居みたいな一本調子でいった。くっと体が固くなる。ばあ ちゃんのいいたいこと、わかる 「その、っち、とうちゃんがなにかゆ、ってくるだろう思うて待っとったけど、いっこうになんにも ゅ、ってこん。」 ときどき、ばあちゃんが漁にでている昼間かかってくる電話のことはだまっていた。 : 岡山でなにがあった ? 」 「そろそろ聞かせてくれてもええかな。 すがた おかやま いちむらくん はんしゃてき つばんぢようし らくカ 779
よしひろが、わたしのシャツをにぎりしめるのがわかった。 「冬の海はさみしゅうてなあ。さすがのばあちゃんもこおうて、こおうて。どうか、仏さんと会 いいなからもぐっとったらな。」 いませんように。なんまいだーなんまいだー あかむらを 板戸のすきまから入りこんでいた赤紫の光が消えて、、よしひろの体がぶるっとふるえた。 ひとかげ そこ こあわせて 「底の岩場に足をはさまれて、海の中で立っとる黒い人影が見えてなあ。髪の毛が波。 ゅうらりゅうらりゆれとるんだわ。ばあちゃんはもう、海ん中じゃゅうこともわすれてさけびそ 、つになった。」 こわいよお。」 「ぎゃあー よしひろがわたしの胸にしがみつく。いつもだったらおしのけるところだけれど、わたしも しつかりとしかみついた。 けいさっ 「ところがな。いったん海面にあがって息を整えて気を静めてから、警察にいう前にもいっぺん たし 確かめてみよう思うてもぐったんだわ。そしたらな、なんと人に見えたんは大けな大けなコンプ だってなあ。はつはつは。」 「ばあちゃんのバカ、バカ、バカ。」 べそをかいたよしひろが、本気でばあちゃんになぐりかかった。 むね かいめん ととの しず かみ なみ 776
げんかん ふすまのかげから四つんばいで、玄関のようすをうかがっていたよしひろが、ずずっとあとず跖 さった。わたしは、手にしていたぞうきんをもみしだく。 「なにしとる ? はよ、いの、つや。 しず ばあちゃんの声は、静かな家にりんとひびきわたった。はじかれたように、わたしとよしひろ げんかん は玄関にむかった。 「よう、お礼いわんと。」 げんかん 玄関にならんで立って気がついたけれど、ばあちゃんのくの字に曲がった体は、わたしの肩ま でしかなかった。 「お礼なんか、そんなもんええけえ、気イつけていんなれよ。」 どく けんまく ばあちゃんのあまりの剣幕に、すっかりうろたえたようすの山崎のおばあさんが気の毒だった。 せつかく親切にしてくれたのに。 医、ーも わたしは精いつばいの気持ちをこめておじぎをすると、いそいでばあちゃんのあとを追った。 ぐるま てお はや 手押し車をおしながら、ばあちゃんはぐんぐん先を行く。めちゃくちゃ速い。海と同じに、ば あっぞこ あちゃんの背中はおこっていた。わたしはすべらないように、厚底サンダルの足に力を入れてあ ひょうじよう きんちょう とを追うのが精いつばいだった。よしひろも緊張しきった表情でついてくる せなか やまざき