奥泉大いにありますね。僕は山下洋輔さんの影響を強く受ていける。小 説家にはそれができない。相当不思議なジャン けているんですよ。山下さんの音楽ももちろん好きですが、 ルだと思います。 音楽以上に文章から影響を受けている。山下さんが書かれた大友印刷技術が生まれる以前の物語にはライプもあった。 ェッセイなどには、ジャズの自由をめぐる思想が色濃く滲み奥泉そう。小説にライプがあるとすれば、物語性の部分。 出ている。 物語ること自体は、歌ったり踊ったり演じたりすることと同 大友そうですね。 様、普遍的な人間の行為です。しかし小説は、パフォーマ 奥泉その思想を一言でまとめるなら、対話的、ということ テイプに語る位置から距離をとるジャンルなんです。さっき に尽きると思います。例えばアドリプソロをとるのでも、や の比喩で言うと、最初からスタジオワークで、ライプなしで りたければ何コーラスやってもよい。逆に、誰かがアドリブ世界をつくっていく。 しい。ただし ソロをとっているとき途中から入っていっても、 大友長い人類史の中で見たら、変な営みですよね。 相手の音は注意深く聴かなければならない。そのうえで逸脱奥泉ですね。僕は小説というジャンルは永遠不変じゃない を含め応答したり、裏切ったり、刺激したり。自分が全体を と思う。物語ること自体は永遠になくならないと思います 支配するのではなく、相手のプレーと自分のプレーが対話的が。とにかく小説は、書いた文字によって物語ることを批評 に関係を取り結ぶところから、豊かな何かをつくっていく。 するジャンルなんです。非常に間接的なんですよね。 そういう思想ですね。音楽に限らずあらゆる場面で、他者と 世界に存在する良いものはだいたい対話的で、悪いものは かかわるモラルとしての山下洋輔思想が僕の中にあります。 対話を欠いていると、つい決めつけちゃうんだけど ( 笑 ) 、 大友でも小説を書いていると、基本的に一人の世界になり そう思うぐらい僕は山下洋輔思想が身にしみわたっているん がちじゃないですか。 です。だから僕は小説を書くこととなかなか折り合いがっか 奥泉そういう意味では小説家はよくない ( 笑 ) 。音楽家の ないんですよ。小説も当然好きなんだけれども、直接的な対 ほうが絶対面白いですよ。 話性を欠いたこの営みは一体何なのかということが、やれば 大友誰かと話しながら小説を書くわけじゃないですしね。 やるほどわからなくなってきてしまう。 奥泉音楽の比喩で言うと、小説にはライプがないんです ・音楽家がうらやましい よ。音楽も今は、コンピュータで打ち込んで全部つくれたり するじゃないですか。けれど、戻ろうと思えばライプに戻っ 大友音楽家は音楽をやることにそういう疑問を残念ながら
な紺色の空をみつめている。 つきあうようになっていたマーおばさんは、少なからず、た だならぬものを感じたが、占い、まじないを常食のように取 九年前、少女がはじめてやってきた日もこんな風に晴れて いた。甲高いはしゃぎ声に気づいて見上げたとき、マーおば り入れて過ごすこの土地なればこそ、少女の力は、たいして さんは黄色い小舟が、紺色の空に浮かんでいる、とおもっ異様とは、うけとめられずにすんだのかもしれない。休憩時 、工員たちが少女をとりまき、古い指輪や赤ん坊のおも た。黄色いシーツを垂らしたベビーベッドが縦横に張られた ケープルに引っかかっていた。 ちゃのありかについて、アドバイスを求めるのが、いまは日 少女は名前だけを携え、この土地にやってきた。舌が動か課のようになっている。 ふだんは工場の宿直室で寝起きしている。週末にはマーお ないか、他にしゃべりたくないのか、その一語以外、いっさ ばさんの家にやってきて、薄めた安ワインを飲みながら、古 い声を発さない。むろん、うちとけない、というわけではな マーおばさんのようなひとに乳母につかれて、かたくな新聞やビラの上にふたり、他愛のない与太話を書きつける。 に育て、というほうが無理だろう。物心がつくかっかないか 少女はたぶん、十歳か十一歳。工場長からも一目置かれてい るマーおばさんは、今年とってまだ二十九歳だ。 の頃から、少女は、ノートに書き記す字や、絵柄、模様など で、ひとと会話をかわすようになった。サイズや色など、規 大木のような膝の上に、開いたノートが乗せられる。マー おばさんはのそきこみ、ふん、ふん、とうなずくと、 格外ではじかれたくずエンピッなら、工場の裏手でいくらで も手に入る。 「今朝、また、これに会えたんだね」 ふしぎな才能がある。対面する相手の気分、こころの状態 少女は、今度は強くうなずく。 「前にみせてもらった絵よりか、ずいぶん、大きくなったよ を、たった一個の図形で正確に言い当てるのだ。中央で二分 うにみえるけど」 割された正三角形、重なり合った平行四辺形、連なった正六 角形 しくつもの円の重なり、などなど、目の前に描き出さ 少女はポケットからちびたエンピッを取りだし、 れた相手は、そうしたかたちを見ているうち、いつのまに そだったのよたべるから か、こころのひっかかり、くすみが、きれいさつばり取れて いるのを感じる。 「ふうん、どんなもの ? 」 また、失せ物、落とし物がいまどこにあるか、ほば正確に 少女は少し考え、 言い当てる能力も、少女がやってきて五年も経っころには、 あきらかになっていた。乳母でなく、年の離れた友人として 123 工ンピッが一本
は的確な映画評を颯爽と披露しはじめる。 聖は、田中丸が一般人にとっては苦痛であるはずの内容 あの映画における最大の成功は、青年役のあの役者に喋ら を、他ならぬこの自分の前で淡々とこなしていくのを見て、 せなかったところにあるだろう。田中丸の論点はあくまで冷 しだいに自分の明らかな筋量が無きもののように扱われてい ることに気づくのだ。 静で、油断がないものである。 それから二人はどちらからというわけでもなく道の途中に そういうことか。この女は、私の筋肉を無視しているの あったサイゼリヤに入る。店内はイタリアの演歌のような歌 か。だからこそ当たり前のように、ハードなトレーニングを こなしている。体面上、私の与えるウェイトに躊躇するわけ声が響き渡っている。そこで尚も二人は映画について語り続 けるのだ。ときに考えがまとまらないとでも言わんばかり ~ 。いかないのだ。なるほど、これは私が面談において田中 に、髪を掻き毟り、それから一人ごとを言っていたかと思う 丸の含意を無視するのと同じ図だ。この女は建前のために、 と、泣き切った後みたいな顔で相手を見詰めている。 私の身体を無視しているというわけだ。 二人が語っているのは、見た事もない映画の話である。だ トレーニング後、ロッカールームで聖は田中丸に声をかけ がそれでいて話題としての屋台骨は堂々たるものがある。 る。熟練の歌手が本番前に自分の声の調子を確認するような 翌朝、聖は目覚めるなり、ネットの相談サイトで、自分の 声の出し方でもって、彼女は田中丸を映画に誘う。 田中丸は断らない。そのあと、訪れた名画座で鑑賞するこ現状について意見を求める。上司との面談中だが、友達づき あいみたいなことがはじまった。どうすればいいのか とになったのは、誰もが知る香港映画である。殺し屋の男と そのあと、彼女は自分がそんなものを書き込んだことを忘 発声障害のある青年。それそれ二人の視点を軸に、話は進ん れるが、一週間後の朝、ふと思い出し見てみる。すると思っ でいく。青年は夜間使われていない屋台を勝手に開いては、 そこで商売をはじめる。肉屋、床屋、アイスクリーム屋。青た以上に反響があり、なかでも一人の回答者に至っては田中 丸本人ではないのかと思えてくる。もちろんそんなはずはな 年の振る舞いは清々しいほど狂気的で、そんなつもりもなく いのだが、聖は汚らわしいものでも触るような手つきでパソ 押し売りを続ける。アイスクリームの販売車に客とその家族 コンを強制終了する。 を押し込み、無理やりアイスクリームを食べさせる場面は、 一週間後、所属部署の納会が催される。 荒つばさを通り越して爽快で、哀しくすらある。 一次会は社食で行われ、二次会は外に出て赤提灯、三次会 映画の最中、隣の席の田中丸はすっと眠っている。 はカラオケに流れる。 だがどういうわけか、映画館を出た後、自分はまるでどん いざカラオケルームに入ったものの、誰もが咳き込んだ な瞬間の光も見逃さなかったとでも言わんばかりに、田中丸 105 ln My Room
「北村がええって言うたんや、堪忍やで雪ちゃん ! 」 「雪ちゃん、北村のチンポはどんな味がしたんや ? 」 「雪ちゃんも楽しんだらええんや ! 最期にわしらを楽しむ 私は俯いて皿を洗いながら、両目を剥きました。北村さん んや ! せやろ雪ちゃん、せやろ ? 」 が私達の事をこの人達にペラベラと喋ったとは、決して思い 彼等は口々に勝手な事を叫びました。少し精神がおかしい たくありませんでした。確かに私は北村さんが訪ねてくれば けれども、美しい街の心優しい絶望者達、というそれまでの 部屋に上げますが、あれ以来キスもしていません。北村さん 彼等のイメージが音を立てて崩れていきます。私はカウンタ は愚直を絵に描いたような人で、殆ど会話らしい会話もない ーの上に寝かされ、押さえ付けられて、何本もの手によって のです。私達はただ、日の暮れて行く部屋の中でじっとして 服を脱がされていきました。もう殆ど裸同然にされた時、男 います。時には手を繋ぎますが、ただそれだけの事です。そ の悲鳴のようなものが聞こえました。私の上に覆い被さって して、それで充分な気がするのでした。 いた二階堂さんの巨体も離れ、私は上体を起こして様子を窺 「雪ちゃん ! 雪ちゃん ! 」 いました。血が噴き上がっていました。男達の向こうに鉈を 私が全く相手にしないので、酔いも手伝って彼等は次第に 荒々しくなり、私は怖くなってきました。今日も来ると言っ手にしたママが立っていて、肩で盛んに息をしています。斬 り付けられたのは蒲田さんでした。頸動脈から夥しく出血 ていた北村さんは、いつまで経っても姿を見せません。 し、床の上で悶絶しています。一瞬静かになった店内に「バ 「雪ちゃん、大変やろ。わしが皿洗い手伝うで」 バアっ ! 」という声がして、次の瞬間男達は一斉にママに襲 そう言いながら、浅野さんがカウンターの中に入ってきま い掛かっていきました。ママの細い脚が宙に躍り上がるのを した。すると木村さんも二階堂さんも入ってきて、私は浅野 私は見ました。すると二階堂さんが再び私に覆い被さり、剥 さんに腕を握られ、手からスポンジを取り上げられました。 浅野さんは洗剤のヌルヌルを私の腕に擦り付け、撫で回し始き出しにした一物を私の中に捩じ込んできました。私は首を カウンターの中の流しに向け、アイスピックを見付けて手に めました。木村さんが私の背後から胴体を抱き、二階堂さん が胸に手を入れてきました。私は叫びましたが、その声は男取ると、夢中で腰を振っている二階堂さんのこめかみに正確の に宛がいました。そして「ママ」と呟いて、渾身のカで突き 達の歓声に掻き消されました。 刺しました。その瞬間、股の間の一物が鋼のように固くなっ 「毒ガス爆弾はもう打ち上げられたんや ! 」 て、熱いものが迸り出たのが体の中で分かりました。 「もうおしまいなんやて ! 」
について私が言いうることのかなたに、この結合の仲立ちと は、あらかじめ長い交際によって充分に用心することが必要 なったなにか説明のつかない運命的な力がある」といって、 なのだ。ところが、われわれの友情はそれ自身のほかには 二人の友情が運命による「結合」だったことを認めていた。 まったく理想とするものがなく、それ自身に比べることしか それを彼は最晩年の加筆のなかでは、「◎天が下した命令に できない。 ) いそれは友情に関する一つの特別な評価でも、二 よるもの」だとさらに強く言い切った。 つのでも、三つのでも、四つのでも、千のでもなく、それら こうして彼らはそこまで互いに自分を相手のなかに溶け込 すべてを混ぜ合わせたものの得体の知れない精髄が、私の ませたことで俗にいう一心同体となり、互いに相手の分身に いっさいの意志を鷲づかみにすると、それを彼の意志のなか に飛び込ませ、没入させたのである。◎またそれは彼のいっ等しい存在となった。そんな魂の融合を彼は次のように説明 している。 さいの意志を鷲づかみにすると、私とおなじ渇望と競争心を 「@世間のあらゆる議論をもってしても私の友人の意図と判 もってそれを私の意志のなかに飛び込ませ、没入させたので あった。私はただしく没入させるといったが、それはわれ断について私が持っている確信を私から奪い取ることはでき ない。彼の行動は、たとえそれがどんな様相を見せていて われに固有のものも、彼のものであり私のものであるもの も、それが私に示されればたちどころにその動機を見出さず も、なにひとつ自分たちに残さなかったからである」 にはおかない。われわれの魂はこんなにも一つになって進ん これを読んでいると、モンテーニュが言葉で表現しがたい でゆき、こんなにも熱烈な愛情をもって見詰め合い、またお ものを表現しようと一心に努めているのが感じられる。それ は二人が祭りのなかで遭遇して一瞬で互いに惹かれ合い、相なじような愛情をもってはらわたの底の底まで晒し合ったか ら、私は彼の魂を自分の魂のように知っていたばかりか、 手のなかに自分を没入させた理知を超えた不思議さを説明し きっと私のことは私よりも彼に喜んで託したことだろう」 ようとしているからである。二人の意志に魂の完全な融合を こう説明されて、二人の精神の状態をわずかに掴みかけた斎 もたらすように促したいちばん肝腎なものを示すために、中 の ようにも思うのだが、正直なところ、まだ充分わかったとは 世の錬金術で、ある物質を五たび蒸留して得られたそのもっ いえないもどかしさが残る。深い友情を誓い合ったことのあニ とも純化された部分を指す「精髄 quintessence 」という用語 をあえて選び、なおかっそれに「得体の知れない」という形る人には自明のことかもしれないが、そうでないものには容テ ン モ 容を添えたところにそれがあらわれている。それだけ友情の易に探ることの許されないこころの境地である。 そこで、具体的な例をあげて友情の篤さを語った次の一節 始まりが彼にとって名状しがたい神秘だったのである。 を読んでみよう。 それゆえ彼は「私のあらゆる説明と、特別に友情の理由
たいして人間の自由を称揚した論文である。ただし実際は彼かに稀有なものであったかを伝えたかったのだろう。 彼らがはじめて顔を合わせたのは、モンテーニュが一五五 がオルレアンの大学を卒業する一五五三年、二十三歳のとき に書かれたようである ( 関根秀雄訳『モンテーニュ全集 9 』、白七年にポルドーの高等法院に移ってから、なおしばらく時が 水社、一九八三年 ) 。モンテーニュによると、これはその稿本経ってからのことであった。その時期については諸説があっ が「久しい以前から知性ある人びとの手に渡って、当然受て確定されていないが、おそらく一五五九年の初めではな かったかと思われる。モンテーニュ二十五歳、ラ・ポエシー けるべき非常に大きな評価を得ていた」 ( —の二十八。以下— の二十八からの引用にはこの表記を略す ) といわれたものであっ 二十八歳のときである。彼はその記念すべき偶然の出会いに ついて、ずっと後になってこう回想している。 て、彼もそのなかの一人だった。彼はラ・ポエシーに出会う 「◎われわれは出会う以前から、たがいに耳にしたそれぞれ 前からこの論文を読んで感銘を受け、ひいてはそれが二人の の噂によって相手を探し求めていたが、その噂はわれわれの 友情を生むきっかけともなったのである。 感情に通常の噂以上に強い印象をもたらしていた。私はそれ 彼はそのことを回想してこう記している。 がなにかしら天の命令によるものだったと思っている。われ 「@私はこの作品にはことのほか恩義を感じている。という のもこれが仲立ちとなってわれわれをはじめて出会わせてくわれは相手の名前が告げられるのを聞くだけでたがいにここ ろが結ばれたのだった。われわれが最初に出会ったのは、偶 れたからである。実際これはその著者に出会うよりずっと以 前に私に示されて、著者の名を私に教え、あの友情に道を開然、〔ポルドーの〕町の盛大な祭りの集いでのことだったが、 いたのである。われわれはあまりにも完璧なその友情を、神そのときわれわれはたがいにあまりにも強く惹かれ合い、知 り合、、結ばれてしまったのである。だからそれからという さまがお望みになるかぎり二人のあいだで育んできた。それ もの、われわれ以上にたがいにちかしいものはだれ一人とし ほどの友情だったから、たしかにこれに匹敵するものはほと 斎 んど本で読んだことがなく、同時代の人間のなかにそれが生ていなかった」 おそらくモンテーニュはポルドーの高等法院に着任して以の これほどの友情を きているいかなる痕跡も見たことがない。 築き上げるにはじつに多くの偶然の巡り合わせが必要だか来、刮目してラ・ポエシーとの出会いを待ち望んでいたであニ ろう。それがある日、賑わう祭りのなかで、偶然、彼に遭遇 テ ら、運命が三世紀に一度そこに到達すればそれだけでも大し ン すると、たちまち二人は意気投合して固い友情で結ばれたの たものである」 モ 三世紀に一度の友情というのはずいぶん思い切った言い方である。 いったい、なぜこの友人はそこまでモンテーニュのこころ躪 であるが、彼はその誇張とも取れる言い方で二人の友情がい
ろう。 台詞が繰り返される。この女は、と聖は思う。明らかに厄介 な相手である自分にここまで労力を注ぐ必要があるのだろう 聖は帰宅すると、ネットで検索して田中丸の歌っていた音 か。同時に面談を行っている対象者は他にもいるはずなの 源を聴いてみる。 十数年ぶりに耳にしたその曲を繰り返し再生し、実に十数だ。よっぱど仕事に斑をつくりたくないのか、あるいは自分 以上に厄介な人間ばかりを相手にしているということなの 回目に聴いたとき、彼女はぞっとする。なんだこの曲は。一 体、どうなっているんだ : 大体、いくらあいつが上長とはいえ、あの面談にあいつが 軽く聴き流す限りには、思春期特有の、分裂気味な恋心を 選ばれるのは、それだけの根拠があってのことなのだろう。 描いたペタな歌と捉えられなくもない。だが実のところは、 セクハラ対策的な観点から田中丸が選ばれたというのは大 と聖は思うのだ。これは後戻りするつもりなどないような、 決死の足取りで人間の実存へと迫った作品だ。社会的にも、 いにあり得る。だとしたら、あいつはその点について上の人 間からなんらかの指示が与えられているはずだろう。とする 言語的にも引き裂かれた少女の気持ちの、本当のありかを、 「ウソもホントウも君がいるなら同じ / いないなら同じ」と と、あの女は、否が応でも私の性的特徴というか身体そのも のについて考えないはずはないのだ。 いう、相矛盾するふたつの言い回しで追い込み漁的にあぶり 出している。 なんというか、この人選自体、自分にとってはセクハラと 、と聖はつぶやいている。田受け取れなくもない。そもそも、自分のボディビルという趣 居場所を探している人間 中丸という女は、居場所のない私が身体という小部屋に逃げ味について言及するのが、セクハラ行為に類するだろうこと に、あいつは気づいているのだろう。 込んでいるとでも言いたいのだろうか。会社に居場所がない このあとも聖は留まる様子を見せない。 ことを暗に通達しているとも取れる。いかんせん問題は、ど れぐらいあいつがこの曲をベタに歌っているのか、というこ 聖はさらなる駆け引きを田中丸に挑むのである。 とだ。それにしても一体、なんて自閉的な歌なのだろうか。 この身体が問題なのだと、田中丸からその言質を取らん と、ボディビルの大会に招待するのだ。そして実際、二人で g 聖は減量期の最終段階に入っている。一日の摂取カロリー は八百までだ。 観客として大会を見に行くことになる。まずひくだろうと聖 は思っている。どういう反応をするのか待っているが、田中 面談は続く。面談は週に二回行われる。ジムは週六だ。 あなたの仕事はここにはありません。 丸は特になにか言うわけでもなく黙って帰る。 この三日後、ジムにテレビ局が取材に来る。 手を替え品を替え、機械で自動生成したような紋切り型の 107
マメの上にまたマメができた。夜が遅くなると寝不足でアル しかし私は相応しいの相応しくないのと言う立場ではなくそ バイトにも支障が出た。 んな機会もないわけで、まったく関係のない者なのだ、とい 以前はれいこよりも弟の方が帰りが遅かったので、私が素う地点にいろいろ考えては立ち返る。誰か私の思いに同意し 振りをしている姿は弟に見られずにすんだが、最近は弟の帰てくれる人、同じ危機感を共有してくれる人と語らいたい、 宅時も私は素振りを続けているので、弟が不審そうにこちら願わくば、親とは別の立場から、そんな男はやめておけ、と を見て家に入っていった。 彼女に伝えてほし、。、 しや、どんな男か私は全然知らないの あ もしかすると家の門限がなくなったのかとも思ったが、 だが、直接知らすとも毎日見ていればそれはわかるのだ。毎 る日れいこが九時を大きく過ぎて帰宅したあと、耳をすませ 日の帰宅を見守るいち近隣住民としてのそんな意見を、いっ ていると家のなかから母親がれいこを叱責する声が聞こえ、 たいどう彼女に伝えたらいいのか考えながら連日素振りを続 それに言い返すれいこの声も聞こえ、ふたりをなだめつつれ けていると、ある日思わぬ人物が私の前に現れた。 いこを諭すような父親の声も聞こえた。何やら御手洗家は不 その日もれいこは九時を回っても帰らず、私はまた新たな 穏な空気だ。 マメを手のひらにつくりながらも、邪心を捨て美しいスイン れいこが平気で門限を破り、急速に反抗を隠さぬように グをすることだけを考えて、駐車場で素振りをしていた。 なったのは、わかりやすく夏休みを境に訪れた変化だった。 十時を回った頃、駅方面からの道をこちらに歩いてくる若 私は門限が厳しすぎることについて元々はれいこに同情的な い女の姿があったので一瞬れいこかと思ったが、それはれい 立場であったのだが、 れいこが明らかに酒を飲んだ様子で帰 こではなかった。女はまっすぐ私の方に歩いてくる。アバ 宅したり、以前は決まって女友達だった電話の相手が最近は トの住人にこんな人はいなかったはずだが、と思いながらも 明らかに男、それも何かべたべたと親しげな感じであったり素振りを続けていると、私の前に立ち止まってスカートのポ することについては、憂慮していると言わざるを得なかっ ケットから携帯電話を出しながら、あなた玲夏のこと毎晩待 た。言わざるを得ないと言ったところで、そんなことを一言う ち伏せしてますよね、と言うので、私はたじろいだ。 相手など誰もいない、 というか、男が原因であることはほば いや、と応えたがその後を継げず、待ち伏せだなどと人聞 確定的なのであり、かっ帰宅するれいこの様子や、以前とや きの悪い、心外だ、と思ったが、よく考えてみるとそう思わ や雰囲気の変わった服装や髪型、化粧の感じなどを見るに、 れても無理がないことではある。しかしそれは誤解だ。 その男はれいこにとって相応しくない男のように思われた。 あなた、ストーカーなんですか ? と女は言い、私はさら
「なんでですか ? 」 あのね、なんでそんなバカなことをやってるかというと 「はい」 バカだからだよ。バカのすごいところはね、自分がバカげ たことやってるって、気がっかないとこだよ。 「そうなんですか ? 」 そうなんだよ。もう日本は、。 スーツと則からバカばっかり だから、自分がバカかどうか分かんなくなってんだよ。 「そうなんですか ? 」 だって、周りがバカばっかりだったら、判断基準がないか ら、自分がバカかどうか分かんないじゃな、 : 「あ、それはよく分かります」 ね。 「任期満了問題」って、それか ? 「そうです」 なんでそんなバカなことやってんの ? 「どうしてですかね ? 」 俺が考えんの ? 「はい」 あんた、五十だよな。 「はい」 分かる ? 「はい」 小学生だね。 政治家だとさ、周りはみんなバカだろ。バカに「バカ だ ! 」って言ったって分かんないしさ、政治家は自分がバカ かどうかよりも、相手に勝てばいいんだ。 「勝てば官軍、座れば火鉢、歩ぐ姿は百合の花」って知って る ? 「なんですか、それ ? 」 意味のないことだから知らなくていい。たまに人が来たか ら、意味のないこと言いたカたた 「そうですかーー」 一人で意味のないこと言ってたら、頭がおかしくなるじゃ オしか。そうだろ ? 「そこら辺、よく分かりません」 あ、そう。でもさ、日本に政党がいくつあるか知ってる ? 「いくつですか ? 」 分かんないから聞いてんの。三十くらいあんだろ ? 「でも、また増えたんですよ。『日本の足音』が分裂して、 『日本の栄光』と『白菊党』になって、もう一つどっかで 『日本をなんとかしたい』っていうのも出来たんです」 それでさ、なんとかなると思う ? 172
エンピッが一本、エンピッが一本。 す暑気が、ゆっくりと、だるく波打つ。虹子は席を立つ。 虹子のポケットに。 川土手の道に、葦の群生を揺らし、水気をふくんだぬるい 夏の制服の白いプラウス。授業中なにげなく手を当てた 川風が吹きあがる。まっすぐに足をのばし、前へ前へ、スニ ら、固いものにさわった。 ーカーを運んで、黄金色にふくらんだ夏の底を虹子は歩く。 とりだしてみると、入れたおばえのない、見たおばえもな と、電動アシスト自転車が、給水塔の道をあがって、左右に 、夏山のキャンプの朝みたいにすみわたった、青い、振れながら、むこうからやってくる。待ち受けてたわけなん のエンピッ。新品じゃない。八分目くらいまで削ってある てない、むろん、そうとわかってはいても、虹子は横をむい し、角のところどころ塗料が剥げ、木地がのぞいている。 て、草の土手を駆け下りていってしまいたい衝動に、浅く駆 られる。 ほおづえをついて、右手でつまんで漫然と眺める。なにも 見るものがないんで、とりあえず見る、といった風に。金の 自転車が目の前でとまる。信金の長田さん。ミーアキャッ アルファベットの文字列は、英語がわりと得意な虹子なの トがめがねをかけている姿が頭に浮かぶ。 に、ぜんぜん読めない。お尻に近い端っこに、白い塗料でぐ 「学校帰り ? 」 るぐるぐる、うずまきが三周。どこか外国の、文房具メーカ 。ししま」 ーのマークなのかも。 ぶつきらばうに響かなかったかな。 ひらいたノートの隅に、ほとんど筆圧をかけず、支えただ 長田さんは短い足を両方おろして虹子の前に立つ。底の底 けの指を動かして、ぐるぐる、ぐるつ、と三周、うずまきを から心配げに、サネばあちゃんのこと、おかあさんのこと、 かいてみる。かすかにふるえた線が、細い煙みたいにたなび来年小学校にあがる兜太の様子を、頭を揺らせながらたずね いて、そうして気がついたら、猪首の教師の姿は消え、椅子る。ぶつきらばうに、響かないように、響かないように。は ががりごり床をこする音がほうばうで響くなか、教室を満た 、わかってます、学資保険のことは、かあさんも今 114