亮太 - みる会図書館


検索対象: 群像 2016年8月号
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1. 群像 2016年8月号

とを前提にした、一種の気楽なムードが生まれていた。亮太験があるぐらいで、それも受験とともにきれいさつばりどこ は気兼ねなく心身を寛がせることができた。 かへ消えていた。 「そういえば、礼拝のときに何かポケットから出したよね。 「今度、君のためにいくつか大事な箇所をピックアップして あれは何 ? 」 くるよ」 「これか ? 」 それから週に一度 ( それは火曜日の昼だった ) 、二人でこ サジャダがポケットから取り出したのは、ただの小石だっ のレストランへ来るようになった。 た。礼拝は本来、土の上でするのが理想的だけれども、それ が難しい場合は石を床に置いて土とする。これはシーア派だ 亮太はバスで通学している。 けの風習らしい。い つも自分の石を持ち歩いているなんて。 その日、いつも乗る七五三番のバスは空いていたので、坐 亮太は羨望した。イスラム教徒は小石派と非小石派に分かれ ることができた。新しいバスで、坐り心地もわるくなかっ ているらしい。スンナ派とシーア派をいつも混同してしまう た。灰色の絹のスカーフを頭にかぶった女性があとから駆け 亮太は、以後このように区別することにした。イスラム教圏 るように乗ってきて、亮太のとなりに坐った。肩で息をして の学生を見るたびに、あのポケットには小石が入っているか いるのが亮太の二の腕に伝わってきた。 も、と想像してみるのはなかなか楽しかった。だがサジャダ 「家はこっちなの ? 」 には、ただの小石に関心を示す亮太が間抜けで子供つばく その女性は鼻をびくびく膨らませながら、亮太に中国語で 映っているようだった。 話しかけてきた。小麦色の肌、太い眉、大きな瞳 : ライティング 「コーランには、どんなことが書いてあるんだい」 写作で同じクラスのミーナだった。 あの大きな本がコーランだということぐらいは、亮太にも 「ええ」 分かった。 「わたしはこれから仕事なの」 「ううん、急に訊かれても困るなあ」 彼女の話によると、貿易関係の会社で働いているらしい 「ぜんぶ暗記してるの ? 」 働きながら勉強しているなんて、エラいもんだなあ、と年長 「 : : : まあ、だいたいね」 の亮太は思った。 亮太は古典文学のほんの触りをいくつか覚えさせられた経 「あなた日本人でしよ」

2. 群像 2016年8月号

目的もはっきりしたし、あとはそこを目指して前に突き進本だった。アラビア文字が書いてある。 むだけだ。よそ見している暇などない。それなのにどうした 「これってもしかして、コーラン ? 」 わけか、同じところを足踏みしているようで、もともと好き 「そうだ」 な中国語の勉強が一向にはかどらない。亮太は腕組みしなが 開いてみると、一頁一頁に四角い額縁のようなものが描か ら、この空気のよどんだ部屋で、そのわけをずっと考えてい れていて、その内側には判別できないほど小さな文字が細胞 たけれども、脳裏にサジャダの礼拝姿がちらちらするばか のように詰まっていた。亮太は礼を言って、それをポケット りで、そこから何の発展もしていかないのだった。 に入れた。サジャダは亮太のほうに顔を起こして、 そんな日が続いたある日、亮太は校門のところでサジャダ 「わたしは嬉しかった。君がわたしの話を聞いてくれたこと に呼び止められた。 「ああ、久しぶり」 と言うと、微笑んで最後の握手を求めた。 亮太はわざとなんでもないようにつくろったが、どこかぎ こちなく、それはサジャダも同様だった。 「帰国することにしたんだ」 「そうか」 サジャダが帰国したころから、イスラム関連の不穏なニュ 結婚して、親戚のやっている自動車部品の製造会社で働く ースが多くなった。亮太の目には、イスラム圏の学生たちが らしい。ずいぶん急な話だな、と亮太は思ったが、驚きはし 心なしか元気がないように映った。サジャダが変なことに巻 なかった。「よかったじゃないか」 き込まれていないだろうかと心配した。無知ゆえに、不安は そう返したものの、サジャダの浮かない表情から、そのこ余計に煽られた。 とがあまり歓迎できない状況らしいことが察せられた。何か 校庭の銀杏の葉はすっかり枝から落ちて腐り出し、亮太の フォンミイ 言ってやりたいけど、その思いはたとえ日本語でも言い表せ買った蜂蜜は瓶のなかで白く固まりはじめていた。 そうになかった。ノ 彼のことは、ほとんど自分のことのように そのうち雪も降るらしい 思えた。ただ、「元気で」と言うのが精一杯だった。 中間試験の結果が出た。亮太の成績はあまり芳しくなかっ すると、「これをあげよう」とサジャダは言って、亮太に 何かを手渡した。それは土色をした、マッチ箱半分ほどの豆 亮太はときどきペンケースに入れてあるコーランの豆本を か」 っ ) 0

3. 群像 2016年8月号

に濡れてべたっとなっていた。浴室もないような部屋で暮ら 「 : : : ときどき」 しているのかと亮太は同情したが、すぐにそうでないことが サジャダは亮太の言っている意味が分からないというよう 分かった。彼は教室で見るよりずいぶん朗らかな表情をして な顔をした。亮太は中国語で何とか自分の宗教観を述べよう いる。亮太のほうを見ながら、微笑んでこう言った。 と試みたが、しどろもどろで要領を得ない。亮太はそれを自 「これから礼拝するんだ」 分の中国語能力のせいにして、サジャダに詫びた。 サジャダは蛇口をひねり、手を濡らして、得意そうに、額 「いいんだ。それに、仏教は宗教じゃない」 の中心から自分の髪を、ちょうどモヒカンの剃り残す部分に 亮太は反論しなかった。何をもって宗教と認められるの 当たる髪を、すうっと撫でるように濡らした。それから足を か。これについてはいろんな考え方があるのだろうと想像し 交互に洗面台に上げて、びしゃびしやと念入りに洗う。亮太た。 は小便器の前に立ちながら、チャックを閉めるのも忘れてそ 「でも、君は宗教に興味があるようだね」 のようすを見つめていた。 亮太は返事に困ったが、首を縦に振った。 誰もいない教室に入り、サジャダは礼拝を始めた。空港な 「昼飯をいっしょにどうだい ? 」 どには礼拝室を設けているところもあったけれども、この学 : うん」 校にはそういう配慮はなかった。亮太は彼に、見ていてもい 「じゃあ行きつけのレストランへ案内するよ」 、と訊ねた。構わないよ、と彼は言った。亮太は邪魔 その日は珍しく空気も澄んで、マスクをする必要もなかっ にならないように部屋の隅っこで、彼の礼拝の一部始終を見た。 学した。 色づきはじめた校庭の銀杏の樹の下で、二羽の鳥が忙しく 彼はまず、携帯を見ながら方角を確認した。それからポ首を動かしている。虫か何かを啄んでいるのだろう。お腹と ケットから何かを取り出して、床に置き、両手を軽く挙げた羽の先だけが白くて他は黒い小さなカラスのような鳥で、学 あと、小声で何かを呟きながら、それに額をつけるようにし校でも家の近所でもよく見かけた。二人は東側の校門を出 て拝むのだった。 て、左のほうへ歩いていった。向こうから眉毛の垂れた小型 「君は仏教徒か ? 」 大が、何か探し物でもするようにジグザグにやってくる。 礼拝を終えると、サジャダは亮太にそう問うた。 肥りで強面のおじさんに連れられていた。サジャダは歩道を こわもて

4. 群像 2016年8月号

グカヅプを手にとり、俯きがちに教室を出ていった。この老 先生がマグカップを片手に戻ってくると、サジャダは亮太 教師はどういうわけか、しゃべらないときも口が半開きだっ のとなりの席が空いているにもかかわらず、後ろのほうへ た。学生も半数以上は席を離れたが、亮太はいつものよう 行った。おや、と亮太は思った。サジャダの席の斜め前には に、お尻の皮を椅子に縫いつけたみたいにじっとしていた。 ミーナがいた。亮太にしてみたら、そこは特等席だった。勇 後ろを振り向いてミーナのようすを見てみたいけど、それが気を出して自分がそこへ移動しておくべきだった。二人は知 できないでいた。 り合いだろうか。この学校にイラン人は少ないだろうから、 「やあ」という男の声が、ふと背後から聞こえた。サジャダ その可能性は高い。もしかしたら、このクラスにサジャダが 移ってきたのは、彼女がいたからではないだろうか。 「あれ、どうしたの ? 」 「前の時間割だとゆっくり礼拝できないから、クラスを移ら モスクでの課外授業を経て、亮太とサジャダはだいぶ打ち せてもらったんだ」 とけて話すようになっていた。火曜の昼、食後にコーランの 「そっか」 抜粋をレストランのテープルに広げるのが常だった。それに 「何を書くか決めたかい ? 」 はアラビア語と日本語が併記されていた。どういうわけか、 「いや、まだ。君は ? 」 日本語は文語訳が採用されていた。 「わたしは『人間は宗教なしに生きられるのか』というテー 「人間はこんなふうに書けない」サジャダは鸚鵡のようにそ マで書こうと思う」 う繰り返した。そして、亮太が納得できないような顔をして 相変わらずだな、と亮太は思った。サジャダは授業中での いると、「これは原文で読まないと分からないんだ」と一言う 発言でも、何かと宗教をからませて話し、教師たちを困らせ のだった。亮太はアラビア文字が読めない。・ とちらが前で、 ていた。イスラム圏の学生の多くも、そのような彼の姿勢を どちらが上かすら分からない。その文字はまだ亮太にとっ こころよく思っていないようだった。彼の干渉は学校内に収て、文字として認識できないほど遠いものだった。 まらず、なかでも亮太をもっとも驚かせたのは、道端に落ち 亮太はアラビア語と日本語の文語訳を目で見ながら、耳で ていた名刺大のテレクラの広告を拾い、そこに載っている番はサジャダの訛りの強い中国語の解説を聴いた。拠りどころ 号に電話して、いきなり懇々と説教を始めたことだった。 が定まらなくて、かえって本当にアッラーの声が聞こえたよ

5. 群像 2016年8月号

サジャダに話した。サジャダは静かに頷きながら、特に関、い 列してあり、小口のところは黒く変色していた。 もなさそうに亮太の話を聴いていた。 授業が終わると、亮太は教室を出て階段のほうへ向かっ 「君は ? 」と亮太は訊いた。 た。階段を下りながら、ひとの気配を感じた。振り向くと、 「わたしは毎日、フォンミイを舐めている」 すぐ後ろにサジャダがいた。 サジャダの口元からは勝ち誇ったような余裕が感じられ 亮太はどんな顔をしたらいいのか分からなかったが、軽く 微笑んで、いつもより少しゆっくりと階段を下りた。彼らは 「フォンミイ ? フォン、ミイ。それって、蜂が方々の花か 一一言三一一 = ロ、たわいもない話をしながら階段を下りた。誰かと ら集めてつくる、あの甘いやつのことかい ? 」 おしゃべりをしながらこの階段を下りるのは、亮太にとって フォンミイ 「そうだ。蜂蜜は健康にいいんだよ。イラン人は蜂蜜がな初めてのことだった。階段が短く感じられた。サジャダは一 いと生きていけない」 階に着くと、となりの棟のインターネット室へ行くのだと 言って、右手を差しのべた。亮太も右手を出して、軽い握手 サジャダはイラン人だった。他にイラン人はいなかったの で、教室はこれで九カ国共同体になった。 をしてから別れた。二人は年が近かった。 「。ハンにつけて食べるの ? 」 リーディング 「いや、直接スプーンで」 次の日、亮太は閲読の授業を終えたあと、いつものよう 「一日にどれくらい舐めるんだい ? 」 に階段で一階ぶん下りてから、突き当たりの遠いほうのトイ レヘ向かった。エレベーターもそうだが、トイレでも知った 「朝と夜に大さじ三杯ずつだ」 亮太は蜂蜜を大さじで呑んだことはなかったが、想像する顔とは会いたくない。特に、粋がっていて、カッコばかり気 だけでロのなかが甘ったるくなってきた。 にしていて、旅行気分で留学に来ているような輩とは。そう 休み時間のあいだ、サジャダはずっと百科事典のような大 いう輩ほどトイレに屯する。亮太はイヤホンで中国語ニュー きな本を膝にのせて熱心に読んでいた。落ち着きがなくいっ スを聴きながら、トイレに入った。 洗面台の前にサジャダが立っていた。思わず「あっ」と声 もきよろきよろしている亮太の目と違って、サジャダの奥 が出た。 まった目は見るものがあらかじめ決まっているかのように、 サジャダの捲り上げた腕の毛は、水浴びした鳥の羽みたい 無駄なく動いた。その本には亮太の読めない異国の文字が羅 フォンミイ 11 アジアの純真

6. 群像 2016年8月号

はじめた。その場に坐り込んで、心配するミーナには「大丈 使館の大気質観測モニターが赤くなっているのに、彼女はマ スクをしていない。亮太は即座にマスクを外して、「作好」夫、ちょっと貧血で。よくあることなんだ」と言って一人で バスに乗ってもらった。亮太はこの日、風邪をひいた。 と自分からミーナに声をかけた。彼は二日前に散髪したばか りだった。中国語で理髪師に細かい指示などできないから、 オーラル その次の日にロ語の授業があった。当然、そこには川田君 「清爽」とだけ言って伝えたのだった。亮太はこの頃、自分 ま、た。亮太には川田君の声がいつも以上に耳障りなのだ の陰気さをなんとか誤魔化すことに腐心している。彼は何か が、授業中でも休み時間でも、彼の耳はいつも以上にそれを をミーナに期待していた。期待は放っておくとどんどん膨ら んでいくのだった。 拾ってしまう。 こんなときに、よりによって川田君は亮太に話しかけてき ところが彼女は開口一番、 た。今度国別対抗の出し物があるので、亮太さんにもぜひ参 「ねえ、川田って人いるでしよ」 と言った。亮太は頷きながら、いやな予感がした。 加してほしいというのだった。チャンバラショーをやるらし 、。亮太はもちろん断った。鼻をずうずう鳴らしながら、 「あの人、おもしろい人ね」 つも以上に丁重にお断りした。「無造作ヘア 1 」の頭をばり 亮太の目には、そう言うミーナの頬が少し赤らんだように ばり掻いている川田君のほうに顔を向けもしない。君は汚ら 見えた。 わしい男だよ ! と心のうちで大きな声を出した。 「ええ、彼はなかなかおもしろいやつだね」 中間試験が近づいていた。亮太は休み時間のあいだ、多音 亮太はやむなく同調する言葉を吐いたが、顔はカチコチに うなじ ャ一わば 節単純詞の一覧をながめていた。その日のサジャダはいたっ 強張り、剃り上げた項のあたりには早くも汗が見えた。 て寡黙だった。授業が終わっていっしょに階段を下りている 「あの人、ベルシア語が少し話せるのよ」 あいだも、一言も口を利かない。別れ際にいつも交わす握手 ・ : 僕は知っている。君は女の子に近づくために韓国語で も、老衰したお婆さんのように弱々しかった。それ以来、 もタイ語でも少しだけやっておいて、そうやってきっかけを オーラル ライティング ロ語にも写作にも、彼は姿を見せなくなった。学校ではた つくっていることを。それが君の常套手段だ。それにしても まに見かけるので、他のクラスに移ったのかもしれず、そう リ田君、君は、君はベルシア語までやっていたー なると彼は、亮太を避けているとしか思えなかった。サジャ 亮太は平静を装ってその場に立っていようとしたが、脚が ダとは別に深い仲だったわけではないし、もともとそれを求 ぶるぶる震えてきて、頭も張り子の虎のようにぐらぐら揺れ さわやか

7. 群像 2016年8月号

うな気がして狼狽したこともある。 「君は結婚してないだろ」と早口に言った。 サジャダはいつも一節ごとに朗誦してくれた。彼の母語は 「してないよ。母親がそのことでうるさいけどね」 ベルシア語だから、古いアラビア語で書かれたコーランを覚 「交際相手は ? 」 えるのに、意味は後回しだったという。彼が詠うと、その場 亮太のロぶりは尋問でもするようだった。サジャダは怪訝 に昼寝のような風が吹いて、彼の眉間から何かがうねりなが そうに眉をくもらせて、「いないよ」と言った。 ら天井へ昇っていくようだった。その調べを聴くのが実のと 「アッラーに誓って、いないと言えるかい ? 」 ころ、亮太のいちばんの愉しみであり、サジャダもそんな亮 「 : : : ああ、もちろん」 「そうか。 太のようすに目を細めていた。 : でも、君にはきっと、意中のひとがいるん が、その日の亮太はまったくレクチャーに身が入らず、と じゃないか」 , っと , フ、 「今日はコーランはやめよう」 そのとき判然と、サジャダの顔色が変わったのだった。だ と一一 = ロった。 が亮太にはそれが、羞恥からなのか憤りからなのか、はたま サジャダはそれを聞くなり体を硬直させて、亮太の目を覗たそれ以外の感情に起因するのかが分からなかった。 きながら次の言葉を待った。けれども亮太は、サジャダの視 「わたしは勉強しに来てるんだ。そんな暇など : : : 」 線をよけて俯くだけ。二度ほど「君は : : : 」と言いかけるも サジャダは親指を口に持っていき、爪を噛みはじめた。急 のの、ロごもって一一一一口葉が続かない。右手のポールペンはその に瞬きの回数が増えた。まずいことを訊いてしまったのでは みみずか あとを埋め合わせるように蚯蚓を描いている。サジャダはそ ないかと亮太は後悔した。けれどもサジャダが今、ミーナを の蚯蚓をしばらく目で追っていたが、そいつがコーランの原想っているのだろうと勝手に推察するに及び、オスらしい対 文に触れそうになったところで、亮太の手を制した。 抗心が自ずと頭をもたげてもくるのだった。 「君はなんだか、女々しいね」とサジャダは呆れ顔で呟い またバス停でミーナと会った。この前と同じで、木曜の三 この一言は、図らずも亮太をしゃべらせるに十分な便秘薬限が終わったあとだった。その日のスカーフは白地に紫の花 となった。亮太は挑発されたように思ったのだった。 柄。手には青いラ・ヘルのペットボトルを持っていた。米国大 17. アジアの純真

8. 群像 2016年8月号

理のレストランがあったけれども、彼はそこよりも学校から 外れて、その犬を避けて通った。 少し離れたこの時代がかった小さなレストランのほうが気に 「大は苦手なのかい ? 」 入っているらしかった。ガラス張りの厨房では、桶状の小さ ~ 売太は少一しからか , つよ , つに訊いた な白い帽子をかぶった回族の青年が、ラバーチュープでスト 「ちがうよ。犬は悪魔の手先なんだ」 レッチをやるみたいに麺を伸ばすのが見られた。 意外な返答に亮太は驚いた。あまり穏やかな表現ではな 亮太は麺料理を、サジャダはご飯ものを頼んだ。それから 羊肉串を四本。頼みおわってから、サジャダは亮太のほうを 「じゃあ、猫は ? 」と亮太は訊かずにいられなかった。 とてもいい動物だ。ムハンマドは猫を可愛がつ見て何か考えているようだったが、亮太に何も言わず不意に 腰を上げて、店の外へ出ていった。 ていた」 しばらくして、サジャダがペットボトルのコーラを二本 すいぶんな格差だ。亮太は犬に同情した。 道の傍でばろばろの毛布にくるまっている浮浪者の前のア持ってテープルに戻ってきた。となりの売店で買ってきたら このコーラはいくぶん亮太をがっかりさせたが、「謝 ルミ缶に、サジャダはしわくちゃの紙幣を落とした。亮太は はにか 謝」と礼を言って一本受け取った。サジャダは少し含羞むよ ただそれを見ていた。 うに笑って応えた。 「君は天国へ行けないよ」 「じゃあまず、スンナ派とシーア派の違いを言うから、ノー 亮太は苦笑いをしてごまかした。 トを出してくれ」 「天国では美味しい食べ物もたくさんあるし、美女に囲まれ 教師が学生に指示するような口ぶりでサジャダは言った」 て暮らせるんだ」 亮太は面喰らったが、言われるままにリュックからルーズリ 「喜捨はそのため ? 」 ーフを一枚取り出す。こうしてサジャダのレクチャーが始真 「そうだ」サジャダは臆面もなくそう答えた。 の となりの鉱業大学の門を横切って、そのとなりの林業大学まった。 ア ジ 飯を食っているあいだもレクチャーが止むことはなかっ の門も横切って、その先の角を曲がったところにサジャダの ア た。が、サジャダは本気で布教しにかかるというわけでもな 行きつけのレストランはあった。サジャダはレストランへ入 ると少し横柄になった。校内にはここより立派なイスラム料かった。二人のあいだには、外国人同士の分かり合えないこ シェ シェ

9. 群像 2016年8月号

なってもらうか、前に坐っている韓国人のペアに入れても オーラル らって三人で会話をした。 三回目のロ語の授業のとき、中東系の男が前のドアから遅 亮太の前に坐っていた韓国人の二人は男と女で、仲がよ れて入ってきて、宋先生と黒板のあいだを無理に通りぬけよ く、付き合っているようにも、そうでないようにも見えた。 うとした。宋先生はその男に気づくと、通路を遮り、「教室 グラマー こういう男女は他の授業でもよく見かけた。女のほうは語法まちがってません ? 」と低い声で言った。男はうす汚れた黒 の授業でも亮太といっしょだった。黒くてまっすぐだった髪 いカバンから時間割表を取り出して、つんとしたさまで教師 。いつの間にか金色になり、ウェープしていた。二人はい の眼前に掲げた。教師は出席簿に目を落とし、 ちばん前に坐ってはいるものの、お世辞にも熱心な学生とは 「サジャダ ? 」 いえなかった。最前列というのは意外と隠れ蓑になる。その と言うと、男は頷いた。どうして二回も休んだのかと宋先 ことをこの二人はよく知っていた。 生は眼鏡越しに問いつめる。サジャダは訛りの強い中国語で 亮太の斜め後ろに坐っているのは、このクラスのもう一人何か言い返す。宋先生は納得していない表情のまま、早く着 の日本人で、川田君といった。明るくて、ユーモアがあっ席するよう手を振って急かした。サジャダは亮太のとなりに て、おしゃれで、国を跨いで多くの友人を持っていた。ど 空席をみつけて、そこへ腰を下ろした。エスニックな匂いが かとばけたようなところがある青年だった。二年生のときの 亮太の鼻をおそった。 有志のスピーチ大会では、過去に暗い不登校児だったことを サジャダは色白で、ひげが顎やロのまわりだけでなく、頬 吐露したこともあったが、編入学の亮太はこのことを知らな の半分を覆っていた。後頭部はだいぶ薄くなっていたが、そ い。彼は亮太とも友好的関係を築きたいようで、何度か亮太れがどうしたというように堂々としていた。色の暗い眼鏡と をカラオケや飲みに誘ってきたけれど、「また今度」と断り黒っぱい服を着ているせいか、少し陰気に見えた。 続けるうちに、その気がないと分かったのか、いっしか声を その日の会話のテーマは「健康」だった。 かけてこなくなった。二人は多くの点で対照的で、まるで二 亮太は健康のために日頃から気をつけていることなど一つ 種類の日本人の標本のように他の学生の目に映った。亮太に もなかったが、毎日七階や八階にある教室まで階段で上って はそれがあまり面白くなかったし、日本人をしばらく休んで いることは、消極的な理由ながら結果的に健康につながって いたかったから、川田君とは距離をとって接していた。 いるのではないかと思ったので、そのことを新バートナーの ソン

10. 群像 2016年8月号

めていなかったのだから、彼と会わなくても平気といえば平断ったことを少し後悔した。 四限まである曜日の場合は、授業が終わるころには日も暮 気、ただ少し淋しくなるだけだった。 オーラル れており、照明灯に照らされた並木道を通って学校を出るこ ロ語では再び前に坐る韓国人のペアに入れてもらうことに なった。男のほうは休みがちだったので、亮太はときどき女とになる。そのときに、駐輪場の片隅でサジャダを見かける ことがあった。彼はそこで、フェンスの向こう側の暗闇に向 のはうと一対一で話すこともあった。彼女は一人で淋しそう にしているほうが魅力的に見えた。亮太はもとよりこの女性かって、己の体を小さく折り畳んで、一心に額すいていた。 以前よりいっそう熱心にやっているように見えた。声をかけ の八の字の眉に惹かれていた。以前の黒髪のほうが似合って ることは憚られた。その姿には、胸をうつものがあった。 いたのに、とひそかに残念に思っていた。たまに会話が弾む が、亮太は同時に彼に対して、かすかに不満を覚えた。どう こともあって、そんなときは休み時間までおしゃべりが続い 、じゃないか、ずるいじゃないか、と思ってしま も都合がいし たりもしたが、どういうわけか、いつの間にか川田君が ( ま うのだった。 たしても川田君 ! ) 二人のあいだに座敷ばっこのように侵入 頼るあてのない無宗教者の亮太は、ひとり置いてきばりを していて、彼女の喜ぶような、そして亮太にはまるで興味の 食ってしまったように感じていた。自分も何かに専念して、 ない話題を振りまいては去っていくのだった。 このうじうじした気分を払拭したかった。そうだ、勉強しょ 二階のホールで国別対抗の出し物が行われる日、午前中の う。勉強に専念しよう。勉強 ? そうだった。そもそも学校 授業は休講になった。ただし出演しようがしまいが出席はと へ通っているのは勉強のためではなかったか。しかもわざわ るので、亮太は観客として登校した。各国の留学生が五百人 ざ北京まで来ている。何を勘違いしていたのだろう。 ほどホールに集まった。 o のロシア人留学生のデビッドは 家ではなかなか集中できないし、ろくな机も置いていな ネイテイプが舌を巻くほどに中国語がうまかった。サジャダ かったので、亮太は学校の地下の自習室に残って勉強するよ の姿はなかった。 韓国人がアリランを歌い、ウクライナ人がコサックを踊うになった。自習室の壁には多くの集合写真が飾られてお真 り、学校の来歴を右回りに順に紹介していた。ここにいるのの り、インドネシア人がガムランを演奏するなか、日本人は たて はほとんどが中国人の学生で、英語やフランス語や日本語のジ チャンバラショーをやった。 , 田君の殺陣は大したものだっ っ ) 0 、 オしっそ斬られ役として彼の刀をこの身に受けたなら、男教科書を机に山積みにして熱心に勉強している者もあれば、 ヘッドホンをしてパソコンでゲームをしている者もあった。 と亮太は思い、 として気持ちよく蘇生できたかもしれない、