明恵 - みる会図書館


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1. 群像 2016年8月号

恵が八歳となったその日に病死している、翌年の夏、明恵は じようかく じん′」じ 前号までのあらすじ 叔父の上覚に託され、高雄の神護寺で密教を学ぶことにな さきやま 二十八年間の会社員生活を終えた小説家である「私」は女友達と待 る、紀伊国の崎山から高雄までは七日の旅だった、仏弟子と ち合わせをしていた。喫茶店に彼女の姿はまだなく、コーヒーを飲ん なることは幼い頃からの望みだったのだが、馬上の明恵には でいると長身の美人が現れ、気がつくと「私」は女優であるその美女 今更ながらに両親と過ごした幸福な幼少時代が、それこそ死 と京都で落ち合う約束をしていた。京都の湯葉料理の店で、「私」は、 の間際に何十年もの自らの人生をかえりみるかのような愛お 彼女が歩んできた人生を延々と聞かされる。二人は翌朝、「鳥獣戯画」 で有名な栂尾山高山寺を訪れ、「私」は明恵上人に思いを馳せる。 しさとともに、懐かしく思い出されてならなかった。明恵は やくし 父親の呼ぶ声で振り返った、幼い頃、明恵は薬師と呼ばれて しじようばうもん いた、風の強い日だった、満開の桜の木から降り落ちる花び だったのか。京都の四条坊門の宿所でも、明恵はしばしば かんしやく らがときおり口の中にまで入ってきて、唾と一緒に吐き出さ癇癪を起こして、大泣きして両親を困らせた、明恵は武士 ねばならなかった、父親は桜の木の、手を伸ばしても届かな である父親は愛していたが武士は嫌いだった、ほとんど憎ん い高さの枝を指差していた、顔を上げると幾枚もの白い花び でさえいた、日も暮れて、もう寝床に入ろうかという時分に らが目の前を過ぎていった、明恵には青空の背景に鈍く銀色なってから、彼らはいつもいきなり、騒々しくやってきた、 はばき に光る桜の枝が見えるばかりだった。「薬師、ごらん」父親せつかく乳母がきれいに磨き上げた床板に泥土のついた脛巾 は明恵の両肩に手を当てて揺すった、それでも何も見えない のまま上がり、家中に砂を撒き散らした、彼らはみな馬の汗 ことには変わらなかった、一匹のリスがいるのだという、明 と魚の干物の混ざったような堪え難い、強い体臭を放ってい 恵はあいまいな相槌を打ってみたが、自分の目はまだそれを た、日に焼けた真っ赤な顔をして怒鳴るように話し、何がお 捉えられていないという秘かな後ろめたさが、そんな小さな かしいのか大声で笑いながら夜通し酒を飲み続けた、ふだん 生き物になど興味はないという不機嫌さとなって、態度に表はあれほど堂々としている父親が、武士たちの前ではロ数少 れてしまった、一刻も早く、母屋へ戻りたいと泣いて訴え なに作り笑いをしながら、気を遣って酒を注いで回っていた た、このとき明恵は烏帽子を被っていた、漆で固めた硬い烏 のだから、奴らは平家の諸大夫だったのだろうか。子供なり 帽子が頭を締め付けるのが痛くて堪らなかったのを憶えてい に抑えていた怒りが一気に弾けるようにして、明恵はとっぜ るのだが、 ということはあの日は初午祭だったのか、それと ん大声で泣き出した、武士たちにも聞こえるような声をわざ も単なる父親の思い付きで息子に烏帽子を被せてみただけ と張り上げて、今すぐに清水寺に参りたいと訴えた、夜道が はつうま 197 鳥獣戯画

2. 群像 2016年8月号

を超えていた、明恵と同じく武士の家に生れながら武士の生もいない : : : 殴られたのではない、 これは猛烈な腐臭だっ 活には馴染めずに十四歳で仏道に入った、神護寺の僧房に た、辺りには戦死者や処刑された罪人、溺死人の死体が土も おおかみ あっても、騒がしい若い僧侶たちがやってくると静かに自ら筵もかぶせすに捨て置かれていた、狼や犬がかじった後 の場所を譲り、一人月光の下で歌を詠むことを好んだ。その の、血のこびり付いた手足の骨もあった、明恵は堪らずその 上覚の優しさ、温厚さでさえも単なる鈍感さとしか思えぬほ場で嘔吐したが、こんな弱いことでは駄目だと肝を据えて、 ど、十代の頃の明恵は苛立っていた、煩悩に取り憑かれた僧座禅を組んで呼吸を整えると、なぜだか腐臭は徐々に消えて 侶たちとほんの短時間話すだけでも、身体じゅうの血液が頭 いった。獣が食いっきやすいように着物を脱いで、両手両足 に集まってめまいがした、日ごとに募る怒りに夜もろくに眠をまっすぐに伸ばした格好でうつ伏せになったのだが、しば れず、自らを見失いつつあった。どんな時代にあっても思春らくは何も起きなかった、風も吹いていなかった、草むらに 期の少年であれば多かれ少なかれ自暴自棄ではあるものだ棲む虫の声だけが聞こえた、これから死のうとする人間がお が、明恵もその例外ではなかったということなのかもしれな かしいと思いつつ、耳元に集まってくる藪蚊を払い続けた。 、師匠とすべき、尊敬できる人物などただの一人も現実に 二時間ほどが経過した、そしていい加減もうそろそろだろう 生きてはいない、 こんな絶望的な末世で自分が十三年間も生と思って顔を上げたときに、草原の向こうの杉木立に五つ、 き延びられたことの方がむしろ不思議なぐらいだ、ここまで 六つの青白い光が見えた、ついに狼がやって来たのだ、狼た 生きればもう十分ではないかー こんな欲望の種にしかなら ちは鳴き声は発しなかったが、鋭い歯で死体から肉を剥ぎ取 けだもの ない肉体は獣にでも食わせてやって、今すぐ、今晩にでも、 り、骨を噛み砕く音が大きく辺りに響き渡った、動物なりの しやくそん 釈尊の導きによって来世での悟りへと向かおうではない 律儀さで、一体一体順番に食い尽くしてから次に移っている か ! 思い立ったらすぐに自ら動かずにはいられない、恐ら ようだった。いよいよ今度こそは明恵の番だった、右の肩か くこの衝動的とも、直情的ともいえる行動への急絡が、生涯ら背骨に沿って濡れた鼻を密着させて、狼は明恵の体臭を嗅 を通じて明恵が嵌まり続けた型のようなものなのだろう、そ いだ、狼の吐く息は馬糞の臭いがした、少年の明恵は恐ろし のまま明恵は墓地へと向かった、既に夜半を過ぎていた、月 くて、うつ伏せになってずっと目を瞑ったままでいた、別の 明かりだけを頼りに山道を下り小川を渡って、草原に出たと 狼も来て、尻と太腿の臭いを嗅いでいた。狼たちが去った後 ころで暗闇からいきなり何者かの手が飛び出して、鼻先と鳩 に起き上がると、山の稜線は朱色に輝き、空は深い青に染 尾の二箇所を同時に殴られた、不意を衝かれた明恵は思わずまっていた、晴れた夏の朝だった。 ( 以下次号 ) よろけ、尻もちをついた、周囲を見回し、目を凝らしたが誰 むしろ 202

3. 群像 2016年8月号

ることはあるまい、今更ながら自分の失った過去の大きさ 真っ暗だって構わない、風が吹いて寒くたって構わないか に、明恵は激しい後悔の念に飲み込まれそうになっていた。 ら、今すぐに参りたいのだ ! 既に幼い明恵の中に、静かに そのとき、ちょうど川の真ん中で、馬が立ち止まった、ゆっ 読経する法師への憧れと共感の気持ちがあったことは間違い くりと首を下げて流れる川に器用に舌を伸ばして、水を口に 、しかしその気持ちの何割かは粗暴な武士たちに対する 反発だった、いずれ自分も巻き込まれてしまうのであろう権含んだ、明恵は泣きながら手綱を引いた、馬は従順に再び歩 み始めたが、悪びれることなく歩きながらもう一度、二度、 力と必要悪に怖ろしさも感じていた。不具者になってしまえ ば法師になる他ないだろう、そう考えて縁先から転げ落ちて舌を水に付けた、首を上げ鼻から息を吹き出し後ろを振り みたり、焼け火箸を頬に当ててみようとしたことさえあっ返った一瞬、ロ角がめくれ上がって、意外なほど真っ白い 馬の奥歯が見えた、明恵は自分が嘲笑されたような気がし た、それらはただ親の後を追って武士にならねばならないと た。だが確かにそうだ、自分なんてそんな程度の人間でしか いう運命から逃げていただけだというのか ? 仏道に身をや ない、自分に比べたら動物たちの何と立派なことか ! 肝の っしたいと願ったのは、あれは本心からではなかったのか ? なるたきがわ 旅は国境を越えて鳴滝川に差し掛かっていた、崎山の親類据わっていることか ! 彼らにこそ学ぶべきの多いことかー 高雄の神護寺は二度の火災によって堂塔も焼け落ちて、二、 の家を出発して二日目の、よく晴れた夏の朝だった、乾いた るり くさはら 熱い風が南から吹いて草原を揺らしていた、鮮やかな瑠璃色三の粗末な僧房が杉林の中に建つばかりだと聞かされていた のだが、じっさいに到着してみると真新しい金堂に薬師三尊 のカワセミが飛んできて、すばやく川に潜ったかと思うと、 が安置され、弘法大師空海を祀る納涼殿も再建されていた、 小魚を咥えて森の中へと消えていった。カワセミという鳥は もんがくしようにん 夏の空と同じ色をしているな、 ) その様子を明恵は馬の背で揺熊野での荒行で名高い文覚上人による功績とのことだった。 られながら見ていた、馬は怖れることなく、日 , の流れの中へ神護寺では明恵は母方の叔父に当たる上覚と同房で寝起きし けデ」ん′】きようしようばんじ と足を踏み入れていった、川面の波に反射した太陽の光が眩て、華厳五教章や梵字を学んだ、仏教の入門書である「倶 しやじゅ しくて、明恵は目をつぶった、すると大粒の涙が流れ出て両舎頌」も、その一部を暗誦した、文治四年 ( 一一八八年 ) 、十 かいだんいんぐそくかい 頬を伝った、いったん自分が泣いていることに気づいてしま六歳のときに剃髪出家して、東大寺の戒壇院で具足戒を受け た、十三歳から十九歳になるまでの七年間は、金堂に入り祈 うと涙はますます溢れて止まらなくなった、寺に入ったらも う故郷に戻ることもないだろう、この銀色に輝く川も、苔色願することを一日も怠らなかった。 神護寺に移ってからの明恵はしばしば悪夢を見た、夢の中 の山々も、柔らかな稲田も、優しい叔母の笑顔も、二度と見 198

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で明恵はまだ両親と乳母と暮らす幼い子供で、しかしそれな ほど険しい山の頂に寺が建っとも信じられなかったが、その しよう のに自分一人で、恐らく神護寺なのであろう山上の寺に聖険しさによって訪れる者をふるいに掛けているのかもしれな 教の経典を受けに上がらねばならないのだった。出発は真 、ここから先は切り立った崖沿いの道を進まねばならな 新しい足袋と草履も嬉しく、演じているかのように勇ましく 、すれ違うことなどとてもできない、人一人分の肩幅ほど 声を上げて家の門を出たのだが、じっさい明恵の気持ちも高 しかない、馬も踏み外すであろう細い道だから、一瞬でも気 揚していた。しばらくすると、今まで見たこともない一面の を抜いた途端に崖底に落とされてしまう、と考えた矢先、明 ススキの原を歩いていた、風は湿って生ぬるく、穀物のすえ 恵は柔らかい砂に左足裏を滑らせた、とっさに右手で岩の隙 間から生えていた草を掴んだが、草はあっけなく抜けた、崖 たような臭いがした、風が吹くたびにススキの白い穂が生き 物のように激しく揺れた、目指す山上の寺はまったく見えな を転がり落ちながら死を覚悟したが、しかしなかなか谷底に いどころか、延々と続くススキの遥か先に小指の先ほど小さ 叩き付けられない、ずいぶんと長い時間がかかるものだな、 く、尖塔のような黒い山の頂が顔を出しているばかりなの そもそも私は崖道を登り始めたばかりなのだから、谷が深い てんじく ということもあるまい、それともそういう地形も天竺には存 だった。あれほど遠くては、今日の内に屋敷に戻ることな ど、ぜったいに不可能だろう : : : 明恵は自らの思慮の足らな在するのか : : : そんな疑問が芽生えたところで目が覚めた、 さを悔いるというよりも、そのような場所に幼い自分を向か夜が明ける前だったが、ぐっしよりと寝汗をかいていた。八 っ裂きになった乳母の遺体と対面する夢を見たこともあっ わせた両親や家臣に対する不信感がいや増すことを抑えられ なかった、聖教を受けることに私が知らされていない別の意た、胴から両足と左腕をもぎ取られ、首も刎ねられていた むご 味があるのか ? それとも幼いと思っているのは自分だけ が、「誰に斬られた ? 誰がこんな惨いことをしたのだ ? 」 で、じっさししし と問うても、首だけになった乳母は涙を流しながら、恥ずか 、こよもう元服した成人なのだろうか ? 太陽は まだ西の空の高い位置にあった、振り返って背伸びをして屋しそうに、「こんな場所にいてはなりませぬ、薬師様は早く 敷を探してみたが既に屋敷も見えなかった、もし途中で日が お逃げ下さい、お逃げ下さい」と繰り返すばかりなのだっ 画 暮れてしまったら寺の僧房で休ませて貰う方が無難なように 思えた、意を決して、明恵は道を急いだ。 , 日没間際になっ 悪夢を見るのもまだまだ修行が足りていないからに違いな て、ようやく山のふもとに到達したがふもとと呼ぶには無理 骨も心も内臓もとろけて消えてしまうまでに、徹底して がある、いきなりの壁のように山はそびえ立っていた、これ華厳の修学に取り組まねばならないと明恵は考えたのだが、 ぎよう

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を責める気持ちと相まって、怯懦が肉体を支配しつつあっ た、清盛は太宰府に逃げることを真剣に考えていた、すると 型のようなもの 囲炉裏の向こう側の暗がりの中から、一人の若者が立ち上 偶然なのだろうが明恵は親鸞が生まれたのと同じ年、承安がって、つぶやくようにいった。「二十の兵であれば、明日 いしがきのしようよし 三年 ( 一一七三年 ) の正月八日に、紀伊国有田郡石垣庄吉 までに揃えてみせましよう」その場にいた者はみな若者の言 はらむら たいらのしげくに 原村で生まれている。父親は平重国という平氏方に仕えた葉を無視した、気不味い空気が流れた、若者は濃い口髭を蓄 武士だったが、明恵が八歳のときに上総国で戦死している、 えた田舎侍だった、何を意味するのかも分からぬままに不吉 ゅあさむねしげ 母親は紀伊国の武将、湯浅宗重の四女だった。湯浅宗重は平な予感が清盛の胸中を過った。しかしその二日後の朝には、 ぐかんしよう 治の乱の際に平清盛を助けている、「愚管抄」にもそう書か清盛は三十七騎の兵に守られてこともなく入京し、六波羅の くまのもうで れている。平治元年十二月、清盛は一族を率いて熊野詣に 邸に戻ることができた、反乱の首謀者として捕らえられた藤 のぶより 向かっていた、京都を出て三日目の晩に田辺の宿に到着した原信頼は六条河原で斬首された。 とき、京都に反乱の起こったことを知らされた、自らの油断 これもまた偶然に過ぎないのだろうが、明恵の母親は「明 0 連載小説 鳥獣戯画〔第七回〕 磯﨑憲一郎

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の歌題のほうが原題に近いのではないか。いずれにせ誘惑には打ち勝ちがたい。だからこそ「さとりうべくもな よ、この歌は、西行が『大日経疏』を見ていたというこ かりつるーなのだ、と。とはいえ、いずれにせよ、西行の この歌、およびその周辺の歌が『大日経』、『大日経疏』の と、しかもさきほど記したように、その特異な和歌観の 典拠になったと思われる部分と同じ場所から選んだ歌題圧倒的な影響下にあったことは、もはや疑いないと思え る。 だったことを明快に示している。 一首は、「迷い続けてきて、遂に悟ることのできな むろん、小林もその辺の事情はたしかに掌握していたの である。知られているように「西行」発表の七年後に かったあわれな我が心を知るものは、これまたわが心以 つまり戦中と戦後の違いがあるわけだが 刊行された 外にはないのだ」と解されよう。悟れなかったというこ 『私の人生観』 ( 一九四九 ) で、小林は、人生観の「観」の とを自ら悟るという論法は、「、い自ら心を覚る」に通じ、 また「心自ら心を証す」に通ずることでもあろう。高雄字の解釈からはじめて観無量寿経に触れ、十六観の例とし て日想観、水想観などについて具体的に説明している。さ 歌論の典拠となったあたりの『大日経』には「実の如く らにそのうえで、禅とその前身である止観について述べ 自心を知る」「自心に菩提と及び一切智とを尋求す」の ような句が散見され、『疏』の「心自証心、心自覚心」 は初め観と呼ばれていたと小林は強調している 鑑真僧都、明恵上人、恵心僧都の生き方の例を挙げ はまさにそうした経句の延長線上に出てくるのである。 と考えるとこの一首、わずか一首にすぎないが、『栂尾ているのだ。戦争中、小林ははとんど沈黙していたが、そ 明恵上人伝』に載せるいわゆる高雄歌論なるものを、実際の間、何を考えていたのか窺わせて興味深い その後に、次の一節が続く。 の西行と結びつける実に貴重な資料として浮上してく る。 観法といふものが、文学の世界にも深く這入って行っ たのも無論の事であって、その著しい例が西行でありま 引用が長くなったが、先に引いた歌の解釈の問題をも含 むのでいたしかたない。山田の訳はさきほどのこちらの解 す。前にお話しした明恵上人の伝記を書いた喜海といふ 人の伝へるところによると、或る時西行がかういふ意味 釈とはかなり異なる。専門家の言に従うほかないが、しか の事を明恵上人に語ったのを、傍で聞いた事があるとい し、小林の読者としては、「まどひきて」の歌は上下で ふ。自分が歌を詠むのは、遥かに尋常とは異ってゐる。 切って、「心をしるは心なりけり」を独立した一句と見る 240

7. 群像 2016年8月号

三〇年で、その影響は半世紀ほど続いた。『私の人生観』 月も花も郭公も雪も凡そ相ある所、皆是虚妄ならざるは で説かれている「観法といふもの」がその流れを汲むこと ない。分り切った事である。であるから、花を詠んでも はいうまでもない。一貫しているのである。むろん、幻視 花と思った事もなければ、月を詠ずるが実は月だと思っ た事はない、「虚空ノ如クナル心ノ上ニオイテ、種々ノ者の伝統は、古今東西変わることなく流れているともいえ る。 風情ヲ色ドルト云へドモ更ニ蹤跡ナシ」と言ったとい だが、サンポリスム以後の、一種、作品中心主義とでも ふ。歌を詠んでゐるのではない、秘密の真一言を唱へてゐ いうべき考え方からすれば、これは大きな逸脱であるよう るのだ、歌によって法を得てゐるのだ。さやうな次第で に思われる。小西は間違いなくそう考えただろう。作品は 歌と言っても、たゞ縁に随ひ興に随ひ詠み置いたまでの ものである、さう言ったさうです。 作者の意図を超えるのであって、自作解説などというもの を信じるならば解釈を本分とする文芸批評はそもそも成立 指摘するまでもなく、小林が引いているのは山田が「西しないことになるのである。作者はしばしば自身の意図を 行の高雄歌論」と呼んだ『栂尾明恵上人伝』の一節であ知らないのだ。フランスのサンポリスムの直接的な帰結に 思えるヌーヴェル・クリティック、その姉妺現象のような る。文治五年の頃とされているから、西行七十一歳、明恵 ・クリティシズム、あるいはドイツの解 アメリカのニュー 十六歳のときということになる。実話かどうか疑問もある ようだが、山田はともかく、少なくとも小林はそんなこと釈学の新展開などを見ると、そう思えてくる。作者の死が 云々されるようになって久しい はどちらでもよいと考えている。感動を与える逸話のその たカ、小林にしてみればそんなことは痛くも痒くもない 感動にこそ真実が潜むと考えているからであって、自分の 話だっただろう。作品が作者の意図を超えるのは、人生が 文学の手がかりはその真実にしかないと思っているのだ。 小西とは違って、小林は、宗教的感動も文学的感動も本質それを生きる人間の意図を超えるのと同じであって、当た 学 り前のことだからである。「神よ、許したまえ、彼らは自 治 的に違わないと思っている。自分が書くものが、最終的に 宗教に近いものになったとしても、それが必然ならばいた分のしていることを知らないのです」と叫んだのは十字架の 語 上のイエスであり、「人間は歴史を作るが思うようにでは しかたないと思っているのだ。 ない」と述べたのは青年マルクスである。人は自分の人生 「見者」ランポーを当時の青年の憧れの的にしたのは若き 小林秀雄である。小林の翻訳『地獄の季節』の刊行は一九を生きるということになっているが、意図通りにではな 241

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ところが驚いたことに、神護寺の学僧はとんでもない俗物ば か ? 在俗の人は麦米が尽きてもひもじい思いをするだけだ 8 かりだった、四六時中彼らが頭の中で考えていることといえ が、僧侶は勧進が途絶えれば死んでしまうとまでいって、景 ば、金集めか、集めた金を使って派手な織物で袈裟を仕立て徳は皇族や貴族に訴えているそうだが、しかしその結果とし じきとっ ることぐらいしかなかった、じっさい境内を純白の直綴に赤て、延暦寺には昨年も近江国の百六十四町の田地が寄進され 紫色と金色の五条袈裟で着飾った僧侶が歩いているのを見たばかりだというのに、近々また別の荘園が寄進されるとい て、明恵は目を疑った、その僧侶は熊のように背が高く肥え う噂もある、どうにも虫の好かない人物であることには間違 てもいた、目つきはうつろで焦点が定まらず、重そうな両足 しなし、だが今に限っては、嫌悪される者をこそ我々の手本 とすべきではないのか : を蟹股にして引きずりながら歩いたので、後には二本の線が : どこまでが本当の話なのか、どこ 玉砂利に残った。朝の早い時間に神護寺の僧侶たちは金堂に からが嫉妬からくる捏造なのかも判然としないままに、日暮 集まり、一つの丸い円になって座禅を組んだ、ということは れ近くまで神護寺の僧侶たちはとりとめのない話を続けてい 本尊に尻を向けて座っていた者もいたということにもなるの た。聞くに堪えなかった、余りに酷かった、迷える俗界の だが、そうして読経をするわけでもなく、おもむろに話し始・人々を導く立場にある彼らは、もっとも卑しく貧しい人々で けいとく めるのは延暦寺の僧侶の悪口なのだった。景徳という僧侶は さえ憐れむであろうほどに俗欲に囚われていた、互いに牽制 京都の洛東に家族を持ち、それを憚ることなく公言してい し合いながら、財・色・法の三欲に埋もれて生きていた、山 かじきとう る、自らは加持祈疇をすることもなく貴族への出仕ばかりを寺にこもっているからこうなってしまうのか、いやいや、そ ′、じよ・つ / 、じようよしつね 続けている、桜の季節に九条良経の子弟と舟遊びをしてい ういうことでもない、華厳宗興隆のための公請出仕依頼に て、景徳は川に落ちたのだそうだ、一羽の、藍色と橙の羽を よって東大寺に赴いたときにも、そこで目にした光景に明恵 持っ水鳥が川を渡っていた、良経の五歳になる息子があの鳥 は愕然とした、修復中の大仏殿の北側裏手、僧房が焼け落ち を見たいと望んだ、景徳は舟から大きく身を乗り出して、両た跡の更地を十四、五人の僧侶が一列になって歩いていた、 先頭には金色の地の上に同じ金色の糸で無数の菊の花をあし 手を伸ばして水鳥を捕らえようとしたところ舟は傾き、景徳 きゅうたい ひおうぎ は頭から川に落ちた、もちろん水は膝丈ほどの深さしかない らった裘代を纏い、右手には檜扇、左手には翡翠の数珠を 持って紫色の五条袈裟を懸けた、ロを真一文字に結んだ険し ので溺れることもなかったが、しかし僧侶が袈裟衣のまま川 に落ちてすぶ濡れになるなどという恥ずかしい話をかって聞 い表情をした高僧が不可解なほどゆっくりと、やはり両足は いたことがあっただろうか ? それこそ前代未聞ではない 地面から上げずに、重そうに引きずりながら歩いていた、後

9. 群像 2016年8月号

には白の直綴の若い学僧たちが続いた、学僧はみな合掌し、 剃髪した頭を垂れ、両目を瞑ったまま歩いている、何人かは 念仏ではない、言葉にもならない唸り声をときおり発しなが ら、しかし列だけはけっして乱すことなく、高僧の丸い背中 にびったりと寄り添うようにして付いていく、人間というよ りは列全体が一匹の大蛇のようにさえ見えた。それだけでも う十分に異様な、葬列めいて不吉な光景だったのだが、その 上さらに信じ難いことが起こった、向かい側から一人の老い た僧侶が歩いてきた、合掌させた痩せ細った両手を震わせな がら、極端に腰をかがめた姿勢でこちらに近づいてくる、一 見して怯え方が尋常ではない、畏れの気持ちが強過ぎるのだ ろう、前のめりになったまま歩く速度が上がり、ほとんど駆 け抜けるようにして、その年老いた僧は金色の裘代の高僧と すれ違った、高僧の視線は正面に固定されたままだった、怯 えた老僧はそのまま列の右手を走り去ろうとしたのだが、土 に埋もれた石に草履を当てて、前方に身を投げ出すように地 面に突っ伏してしまった、自らわざと転んだようにも見え た。するとあろうことか、列の最後尾にいた大柄な学僧が手 しやく にしていたを振り上げて、起き上がれずにいる老僧の額を 二度、三度と打ったのだ、老僧の額は割れて眉間に赤い血が 流れた、それでも金色の裘代の高僧はそちらに一瞥たりとも くれよ、つとはしなかった。 叔父の上覚は明恵よりも二十歳以上も年長だったが、権威 的なところのない、優しく真面目な大男だった、背丈は六尺 内 学 頭セ野球 滝ロ悠生 工 区大 港塾 都議聞 随米海兵隊に拘束されて目取真俊瞿 8 1 3 8 つ」 /. 特集遠藤周作 行 2 田にä. 発〒三血 『沈黙』を書かせたもの 第囀山睦美一若松英輔學 加賀乙彦 / 加藤宗哉 / 井口時男 / 田中和生 / 今井真理 / 山根道公 / 富岡幸一郎 ディンドンガー ( 仮 ) 捨子 小池昌代 山下澄人 予報 きもちの悪いきみたちへ 小山田浩子岡英里奈 久保田万太郎の俳句を語る 対黛まどか >< 平田オリザ謌会 6 囲版 田価出 2 定し学 ノ大 5 ロ発塾冂 月売に ・人間とは戦争する 梅原猛 連〔動物である ・ラカンど女たち . ・・立木康介 小説 0 住 201 鳥獣戯画

10. 群像 2016年8月号

かなる衝迫にもとづいて伊勢神宮に奉納されることになっ たかが論じられている。またそれが、白楽天がその全作品 を自ら編集して洛中香山寺や蘇州南禅院の経蔵に納めた故 事に倣ったものであることが示唆されている。「狂言綺語 を転じて讃仏乗の因、転法輪の縁にしたいとの願が込めら れた」のだというのである。和歌を寄進するのも、仏像を 寄進するのも同じだという論理である。伊勢神宮が選ばれ たのは本地垂迹説にもとづく。 だが、さらに興味深いのは、『西行の和歌と仏教』第三 章「西行高雄歌論の典拠と釈義」である。「高雄歌論」と は『栂尾明恵上人伝』に載る西行の歌論を指す。歌論その ものがきわめて刺激的だが、 それはとりあえす措く。山田 はこれを西行晩年に到達した境地と考え、その典拠を『大 日経』と『大日経疏』に求めている。本地垂迹説にもとづ く和歌即陀羅尼観から、『大日経』と『大日経疏』に導か れた和歌即真一一一一口観へと、思想が深まったと考えているので ある。その後に展開される一節を引く。 西行が『大日経疏』を読んでいたという事実を指摘す ることは、上述の推論を補強する上で重要である。西行 が『大日経疏』の句を題にした詠歌が『山家集』中に一 首だけある。 そのもん 疏文に悟心証心々 まどひきてさとりうべくもなかりつる心をしるは心な 一 = ロ 中巻雑部の釈教歌群の中に見える一首であるが、詞書の 「疏の文」は『大日経疏の文』という意味であろう。そ こで『大日経疏』を繰ってみると、前掲『大日経』本文 ⑧の、 虚空の相は是れ菩提なり。知解の者も無く亦た開暁の ものも無し。何を以ての故に。菩提は無相なるが故 とある部分について注解したところに次の文が存在する のである。 虚空の戯論分別を遠離するが故に、知解の相もなく、 開暁の相もなきが如く、諸仏自性の三菩提も、当に知 る可し、亦爾なり。唯し是れ心自ら心を証し、心自ら 心を覚る。是の中には知解の法もなく、知解の者も無 し。始めて開暁すべきに非す、亦開暁の者もなし。 傍点部分を原文のまま表記すると「唯是心自証心心自覚 心」となる。前掲『山家集』の歌題はこの部分を拾い出 したものとみてまちがいあるまい。ただ歌題は「悟心証 心々」とあって原文と食い違っている。久保田淳編『西 行全集』所載六家集板本『山家集』には「心自悟心自証治 政 心」とある。これも原文と一致しないが、「心自証心」 の 語 と「心自覚心」の順序が逆転して、いったん「心自覚 言 心、心自証心」になり、さらに「覚」 ( さとる ) が訓読の 一致によって「悟」にあてられたとみれば、六家集板本