あわてて、私は変なことばで井上靖氏の疑惑を否定するの信じられない。そんなけちなことおっしやる方じゃありませ に躍起になっていた。 ん。私は先生を河野多惠子ほどじゃないけれど尊敬していま 金沢から帰っても、私は河野多惠子に、金沢の夜の井上靖すし、何より『文学者』の恩義を忘れてはおりません」 氏の酔っぱらい話を告げなかった 9 初めて聞いた多惠子はた と啖呵を切ってしまった。もちろん、丹羽さんにも夫人に ちまち柳眉をさか立てて、青白んで怒りだした。 もその件であやまりになど行きもしなかった。 「ほらね、だからかねがね私があの人を嫌ってるわけわかっ 河野多惠子はその時も、人々の後ろの方に身をすくめてい たでしよ。そういう下司な空想しか出来ない人間なのよ。丹たが、事が終ると、そっと寄ってきて、 羽先生の方が、ずっと精神が高尚ですよ」 「相変らず元気ね : : : でも盆暮の御挨拶くらいは、奥 ( 夫 私が彼女のためにどれほど熱弁を振ったかということには人 ) へした方が : : : 」 一言の礼も言わず、彼女は怒りつづけていた。 終りまでいわせず、私は河野多惠子にも喰ってかかった。 私の知らない間に河野多惠子は丹羽家の奥座敷にいつでも 「奥さんに聞いてよ。私が、ーたいしたものじゃないけど、盆 通される間柄になっていて、丹羽さんだけでなくその家族か暮の挨拶くらいはしたかしなかったか」 と、まくしたてた。 らも身内のように親しくされていた。私が丹羽さんに対して 弟子らしく謙虚でないと、丹羽夫人が心よく思っていないな 時たま、そうした食いちがいはあっても、私はやつばり、 ど、旧い早稲田系の「文学者ーの人々から注意されたことが物書き仲間としては、一番旧い友人だし、文学的才能を誰よ あった。丹羽夫人がそう怒っているというその説に私は呆れ りも早く認め、尊敬している友人として歳月が長かったの で、河野多惠子を嫌いにはなれなかった。 はて、悪い癖でその場でどなり返してしまった。 河野多惠子と大庭みな子が誰から見てもライバルと見なさ 「芸術家に師匠とか弟子とかなどないのが当然じゃないです か。私は『文学者』でお世話になった御恩は忘れたことない れながら、表面何事もなくつきあっている中で、二人からな けれど、文学上で弟子と思ってないし、先生だって、私のこ ぜか好意的に扱われている私の立場は何なのだろうと、ふつ と弟子なんて思っていらっしやらないです。今だって私の名と思うことはあっても、私は私で、私流の生き方で、自分の 前を先生はしつかり覚えてらっしやらないくらいです。セト 道を切り開くのに暇がなかったので、そのことにこだわって クン、あるいはセトグチクンなんて呼ばれるほどです。奥さ考えこむようなゆとりはないのであった。 ( 以下次号 ) まが、私が弟子の礼をとらないと怒っていらっしやるなんて 192
体の芯をつつ走った。 「わたしから、そう話そうか ? 」 ペンを握ったまま、乱雑極める書斎の机の上にうつ伏して 「そんなことしてほしくない。わたしはいつだって、蔭であ ざま 息絶えている。そういう私の切実な憧れの死に様も、夢では の人をかばって、あなた以外の人には、当り障りのないほめ ないような予感が頭をよぎっていく。 方しているのに、あの人は、私に聞えないと思って、露骨に さて、話を本道にもどそう。 悪口云ってるのよ」 大庭みな子は、私と二人の時、河野多惠子の作品について 「そんなことないと思う。手放しであなたの小説ほめたのは は殆んど話題にしたがらなかったが、 河野多惠子は私と逢う聞いたことないけど、他の誰よりも強敵と思ってるみたい。 度、と一一一一口うより、電話で話す度、大庭みな子の活字になった と、言うことは、それだけ河野多惠子の才能を認めていると ものの読後感を熱心に私に告げたがった。特に小説は必ず読 い , っことでしょ , つ」 「ま、 んでいて、たいていの時は、私が感じたことと同じ感想を告 しいわ、どっちみち、私たちはライバルとしては相手 げてくる。私がみな子の小説を好きなのを知っていて、まず に不足はないと認めあってるけど好きにはなれない縁なの ね」 私の感想を聞きだしてから自分の感想を言う。一一人の意見が 共鳴しあうのは、人より濃厚なエロチシズムのあふれる描写 「その二人が、わたしにはいつでも気を許してお互いの本音 のところである。 を喋ってしまうのはどうして ? 」 「何しろ公認のポルノグラフィーなのだから」 「あなたはおっちょこちょいでそそっかしいけれど、公平さ 私がしつこく根に持っマスコミの評にこだわっているのを を認めているからよ」 承知の上で、多惠子はみな子のエロチックな描写を持ちあげ 私は無遠慮にけたけた笑いながら言う。 る。 「つまり、二人ともわたしのことを同じ土俵にはあげられな こもの そのついでのようにそれが言いたかった本音といわんばか い小者と思ってるからだ」 りにつけ加えるのだった。 「そんなことないー それはひがみよ。わたしも彼女も、寂 「わたしがこんなにあの人のことを認めていて、蔭でこんな聴さんには一目も二目もおいてますよ」 にはめていることなんか、あの人は想像できないのよ、自分 「それは嘘だ ! 」ということばは腹の奥にしまったまま、私 本位の人だから : : : 」 は他の話にそらす。
「ところで知ってる ? 丹羽さんが、どこかで、『文学者』 い人ばかりだったが、ほとんど朝まで呑み通す井上靖さんに を長年つづけたが、河野多惠子一人を世に出しただけで悔は つき合いきれる者はいなかった。 ないっておっしやったそうよ」 ある晩みんなが早々と逃げだして私ひとりが井上さんにつ 「まさか ! 」 き合うはめになってしまった。私も酒には強い方だが、一晩 にプランディ二本もひとりで呑みほす酒豪につき合いきれる 「それで旧くからいた文学者の連中は、あんまりだって、か んかんに怒ってるって ! 」 ものではない。それでも私は覚悟をきめ、せっせと井上さん のグラスにプランディをつぎながら、早く酔い倒そうとは 「そりゃあ、そんなこと言われたら怒るでしようよ、まさか そんな阿呆なことおっしやる筈がない」 かっていた。呑むほどに目の前のうわばみは益々元気にな り、饒舌になり、上機嫌になってゆく。素面だと、ほとん 言いながら、多惠子の表情は押えきれない歓喜の表情を目 の前の私にかくそうと赤くなったり蒼ざめたりしている。そ ど、私などに話しかけないのに、あれこれと親しげに話しか けてくる。そのうち、井上さんが上機嫌の表情をいっそう和 の表情の変化をしつかりと見極めながら、お喋りを自認する 私がよくぞこれまで黙って来られたと思うことを、もう待ち らげ、ちょ、つと声を落してつぶやいた。 きれないと、ロにする気になってきた。す速く、私のそんな 「丹羽さんと河野多惠子はそういう仲なんですか ? 」 表情を見てとった多惠子が半分笑いながらつぶやいた。 聞きまちがいかと思って私はきよとんとしていた。 「いや、なに : いつでもね、文学賞の選の時、丹羽さん 「まだ、喋ってしまいたいことがありそうね」 私や吉行淳之介さんが井上靖さんと一緒に毎年、室生犀星の河野多惠子を押す熱心さが目に余りましてね。わたしは、 賞の選者として金沢へ出かけていた。五木寛之さんの夫人の あ、また始ったと思って聞いてるんですけどね、ああ、いっ 父上が金沢市長の時、生れた地方文学賞第一号だったので、 でも一途に押しちゃ誰だってそう思いますよ」 「あ、いえ、それは全く、誤解です。たしかに丹羽さんは河 その賞のあれこれは、ほとんど五木さんの肩にかかってい た。選者もすべて五木さんの選んだ人々であった。選者の筆野さんを御ひいきですけれど、そんな関係はないと思いま ち 頭は井上靖氏だった。一緒に旅をしてみて井上靖さんの酒豪す。私、彼女とは親しいので、何でも話し合う仲ですからわ 9 かります。それに丹羽さんは、代々の愛人を見ても有名な美 ぶりに驚嘆させられた。大体二晩泊りになる夜は、井上靖さ んの酒の相手に選者の誰かが侍ることになる。みんな酒に強人好みでしよ」 191
にしても、ニューヨークで市川さんと仲好く暮していると思 いやると、自分の心まで、のどかになっていた。 アラスカから帰国した大庭みな子が、突如彗星のような現 われ方をして衆目の的になってしまった。「三匹の蟹」とい 秘密三 う作品は芥川賞を取り、批評家はこそって絶讃した。新鋭の 批評家はかってない女流作家の天才現るとまで持ちあげあが 河野多惠子がニューヨークに暮している間、私は源氏物語 めた。彼女の出現によって、それまでの女流作家は、作家と の現代語訳に熱中していたので、歳月の経っ実感がなかっ も呼べないようにおとしめられてしまった。次々に出る大庭 た。後に多惠子に訊くと、十四年の歳月がすぎていたとい みな子の本の帯には「ポルノグラフィーの絶品」という文字 う。そんな長い間、遠く離れて暮した実感がないのは、彼女が躍っていた。それを目にした時、私は、他の女流作家の誰 はアメリカから原稿を送っては、文芸誌に時々その作品が よりも強烈なショックを受けたと信じている。かって私の 載っていたからだった。始終かかってきていた長電話はない 「花芯」が否定された時は、ポルノグラフィーと評され、そ 連載小説 いのち 〔第五回〕 瀬戸内寂聴 182
私がとん狂な声をあげると、みな子さんはけろりとした表していいかわからずおろおろしていた。 情で、 「こちらに帰ってらしてお仕事は ? 」 「日本舞踊も習ってるけど、仕事が忙しくて休んでばかり」 「完全奴隷ですよ、他の仕事なんか出来ないわ」 「利雄さんの御趣味 ? 」 アイロンの当った白いワイシャツに仕立のいいズボンをき 「ええ、まあ。アラスカではしよっちゅう日本からお偉いさ りつとつけたスタイルのいい利雄さんは、平然とした表情 で、 んが見えて、その度、日本人妻たちが、おもてなしするの よ。料理の時もあれば、三味線ひいたり、日本舞踊を見せた 「果物は何がいい ? 」 とみな子さんに訊いている。利雄さんのすべての動作が自 「大変なんですね」 然で、さり気ないので、堅くなっていた私もついお酒のせい 話してる間にキッチンからこの家の主の利雄さんがお茶を もあり、のんびりしてしまい、利雄さんのゆき届いたサービ スをいつの間にか平然と受けているのだった。 入れた茶碗とお菓子の皿を運んでくれる。みな子さんが私た ちを紹介してくれると、 その頃はまだ河野多惠子さんは日本にいたし、市川さんも 「瀬戸内さんはたしかお呑みになるのよね」 まだアメリカに出かけてはいなかった。話が作家の誰彼のこ と言って、利雄さんに目まぜをすると、利雄さんは魔法の とに及ぶと、みな子さんは酔の廻った口調で声が大きくな ようにプランディの瓶とグラスを運んでくれる。バリ産らし り、片っ端からその作品を悪く批評した。時々、利雄さんの いチーズも新しい皿に小ぎれいに盛ってだしてくれる。恐れ方に顔をつきだすようにして、 いって私が堅くなっていると、 「ねえ、そうでしょ ? 」 「いつも、こうなの。彼は好きでこうしてくれるのよ。瀬戸 とうながす。利雄さんはうすら笑いをして、そうだともそ 内さんは、お手伝いの外に秘書さんはいるの ? 利雄は台所うでないとも答えない。 もしてくれるけれど、私の秘書の仕事をそれは適確にやって 「河野さんと仲がいいんですって ? 」 くれるのよ。とても便利よ。瀬戸内さんも、こういう男を見 みな子さんの話題がさり気なく河野多惠子の上に落ちてき つけなさい。女の子より、ずっと安心だし、便利ですよ」 おだやかな表情を変えない大庭氏の前で、私はどんな顔を こ 0 「『文学者』からずっと一緒ですから」 いのち 187
「あの方、小説より、評論家になればおよろしいのにね。谷 さんたちなら、すぐきかれることが、私たち女では、絶対き きいれられない、そんなものですよ」 崎さんの評論『谷崎文学と肯定の欲望』、とてもよかった じゃないですか」 と口を揃えて言っていたのを思いだす。おひつの上で原稿 私は河野多惠子さんが市川さんに締切の時、酒とまちがえ を書いたというあの世代の人たちが、今の女性作家たちの元 て酢を呑ませた話をした。利雄さんが声をたてて笑った。 気漫剌とした活躍ぶりを見たら、どんな顔をされるだろう。 外へ食事に誘われたがそれは断って帰った。 少くとも私たちの時代から文学の歴史を動かしたんだか ら。 自から妻の奴隷になることを志願する男が現実にいること そう思うと、突然、胸がせまり、涙がこみあげてき を目で見た私のショックは大きかった。その奉仕を泰然と受た。その思いがけなさにびつくりしてあわてる自分がおかし くなり、誰も見ていないことを好都合にしばらく涙の出るに けている大庭みな子の凄さに、彼女の小説以上に私は圧倒さ まかせている。 れていた。 とうとうポケてきたかと、背中がうそ寒くなる。死ぬこと 毎月、文芸雑誌のどれかに大庭みな子の作品の載らない月 がないような感じで歳月が過ぎ、気がついた時は、大方の文は怖くない。いつでもおいでとむしろ待ちかまえている。た 学賞はほとんどとりこんでいて、大庭みな子は現日本の文壇だ満九十四歳になってただ一つ不安で怖いことは呆けること だけだった。認知症という現代語にどうしてもなじめない。 では河野多惠子と肩を並べて他を圧する存在になっていた。 どうして「老い呆け」といって悪いのだろう。呆うけるとい 芥川賞の選者に初めて女流作家として、河野、大庭二人が う日本語は品がよくて奥ゆかしいのに。そういえば有吉佐和 揃って選ばれて話題になったことも、日本の文学史に残るこ とだった。それ以来、当然のように芥川賞も直木賞も、選者子さんは、ずいぶん早くから人間の老い呆けの小説を書いて の中に女性作家が入り、男性選者と肩を並べて堂々と意見を 「恍惚の人」という作品をベストセラーにしたものだ。 吐いている。 「恍惚の人」というしゃれた言葉を、日本じゅうの流行語に してしまった。森繁久彌と高峰秀子主演の映画にもなった。 私の年代より以前の平林たい子、佐多稲子、円地文子さん たち先輩作家たちが、「作家仲間だって、まだまだ男の時代何年くらい「恍惚」という言葉が老い呆けの代名詞としてつ づいただろラか。流行語の文字通り早い命に納得しながら、 で、男女平等なんかじゃありませんよ。たとえば同じ要求を 私たち女の作家が出版社に出したとしたら、谷崎さん、川端それを作った有吉佐和子という華やかだった作家の短い生涯 みす
れは忌しい意味に使われていた。「恥しい」ポルノグラフィ ーであり、エロを売り物にした卑しいポルノグラフィーと、 攻め道具に使われた言葉だった。 わずかな時間が流れただけで、活字の上でのエロスの受取 り方を、読者の感覚が変えていた。私の「花芯」に投げつけ られたエロを売り物にしているというエロチックと、大庭さ んの作品にみなぎっているエロスとは全く別物のように扱わ れていた。 大庭さんは津田塾大学を出て、多くの崇拝者として寄って くる男の中から大庭利雄氏を選び結婚している。利雄さんの 側からいえば友人の妹の学友として、はじめてみな子さんに 出逢ったらしい。数人の若い女たちの中で、みな子さんを直 だったと伝っている。 観的に選んだ利雄さんの感覚は正しかったのだろう。 橋中さんがいなかったら、この傑作はこれまでのみな子さ みな子さんは芥川賞になるまで行李に何杯もの原稿がた んの投稿作品のように見捨てられていただろう。こんな まっていたそうだ。それまでにも雑誌社の新人賞にいくつか ちょっとしたことが作品の、または作家の運命の幸、不幸を 出していたが、どれも取りあげられなかったという。講談社 の「群像」が新人賞を募集しているのをみて、利雄さんの赴決めてしまう。この作品が一せいに好評に包まれた時、平野 任先のアラスカから「三匹の蟹」の原稿を送ったのがひっか謙さんが、「わけのわからぬやつが出てきやがって」ともら かったらしい。利雄さんのみな子さん歿後の書「最後の桜したそうだ。それでも圧倒的好評の波が強くて、平野さんの 妻・大庭みな子との日々」によれば、この小説が認められず厭な独り言などかき消してしまったのだろう。私の「花芯」 ち くず籠に捨てられていたのを、この作品を熱愛していた「群の不幸な運命と比べたら、大庭みな子さんは、ずいぶん幸福 9 な出発をしたものだと思う。 像」の若い編集者の橋中雄二さんが、くず籠の中のみな子さ 私は半分口惜しさを喉元までふくらませながら、はじめて んの原稿をひつばり出して選者に読ませ受賞に導びいたもの 前号までのあらすじ 約半年の入院生活を終えて退院する日、私は帰りの車中で宇野千 代、江國滋らのことを思い出していた。そして帰庵すると、寂庵を建 てた頃に世話になった、智照尼や鮫島六右衛門のことが胸をよぎる。 久しぶりに庵の風呂に入り、心地よさの中で岡本太郎の秘書・とし子 のことを思い浮かべたのも束の間、風呂から出た途端激痛に見舞われ 身動きできず、改めて死を意識した。人相が変わるほど痩せて人と会 う気もなくなった日々の中で、ふと河野多惠子のことが気にかかり、 秘書に入院先を調べさせる。河野多惠子とは六十四年の友情を保って いることを思い、若い頃からのあれこれが鮮やかに浮かび上がってく る。 183
有吉さんは私と同じ東京女子大の卒業生なので、その分親 を思いださずにはいられなかった。何の世界にもライバルが あるように、当時、というのは敗戦の間もない世の中で、何愛感はあり、つきあいもあったが、深い友情を結ぶまでには しち至らなかった。 もかもが、新しく生れ変ろうとうごめいていた時代に、、 まさか五十三歳という若さで亡くなるとは予想もしていな 早く、文学の世界では戦後派という言葉がはやり、新しい作 家が次々と生れはじめていた。女の作家の中でも新しい気流かったが、最晩年は、アメリカの近くの島を買いとり有吉王 はいち早く動きだし、これまでになく若く新鮮な作家が書き国を造り、そこの女王になるなどとんでもない夢想を口にす るようになっていたので、その秘書をつとめたことのある吾 はじめていた。中でもいち早く目だったのは曽野綾子、有吉 佐和子の二人で、二人は同じ「新思潮」という同人雑誌に籍妻徳穂さんと共に、ひそかに案じあったこともあった。思い がけない急死は、かえって有吉さんの名を保つ上では受けね をおきながら、目覚ましく活躍しはじめた。二人とも若く、 ばならない運命だったかもと、話しあったことだった。結婚 美人なので、女の小説家は不器量という戦前の相場を破って 世人の目を愕かせていた。二人とも教養があり、裕福な家庭した神彰氏との間に生れた玉青さんが、実に好ましい孝行な 才女に育っていて、現在ものを書いている。この人を見てい に育ったお嬢さんばかりであった。 曽野綾子の方が少し早く「遠来の客たち」という作品で名ると、有吉さんのどの評判のいい名作よりもすばらしい出来 のお嬢さんで、この人を残しただけでも有吉さんは幸福だっ を顕わしたが、程なく有吉佐和子が「地唄」でその後を追っ たと思われる。 て出た。たちまち二人の新鮮な新人にマスコミは興奮し、戦 河野多惠子、大庭みな子のライバル関係をたどろうとしな 後に現れた「才女」という名をつけはやしたてた。「才女時 がら、思わぬ脱線をしてしまったが、九十四歳ともなれば、 代」という言葉が飛び交い、どの分野でも才女が続出した。 華やかな登場だったが二人とも芥川賞、直木賞は受けていな頭脳より体力の劣えが顕著になり、九十四歳にして漸く老衰 世間は無責任に面白がって、二人の才女がライバルとし現象を否定出来なくなった私は、果してこの長編連載が書き きれるだろうかと、突如不安になってきた。「いのち」に何 て仲が悪いように話を作っていたが、二人とほば同量くらい ち を書きたかったのか、書こうとしたのか、私の余命が果して 9 の友情つきあいのあった私の目から見れば、お互いに自分の 才能に自信のあった二人の才女は、相手の文才や世間的人気この連載小説を完了させることが出来るのか ? 生れて初め て、いやもの書きを仕事として初めて、こんな不安が頭より など気にもとめていなかったと思う。 189
大庭みな子の「小説」を読みはじめた。一行めからすらすら もとロシア領のアラスカで十年余りも過した大庭一家は、 と頭に入って、あっという間に「三匹の蟹」を読み通してし 日本に帰って以来は、みな子さん中心の家庭になっていた。 まった。気持のいい詩を詠んだような快感に全身が満たされ重役になる立場をふり捨てて帰国した時から、利雄さんは日 ていた。「三匹の蟹」とは人妻の主人公が、遊園地で出逢っ本では、みな子さんを作家として大成させるため、自分は陰 た桃色のシャツを着た労働者ふうの男と親しくなり、二人で に廻ろうと決めていたという。愛する者の奴隷になりきれる 入ってゆく海辺の宿の看板の名であった。それがきっかけで のが、愛の究極だというのが利雄さんの考えのようだった。 私は大庭みな子の小説を目につく限り愛読するようになっ アラスカから引きあげてきて目黒のマンションで暮してい た。河野多惠子の小説は、読後、「りつばだな」という感想 る頃、突然みな子さんが寂庵へひょっこり訪ねてくれた。ど があるが、大庭みな子の小説は、読んでいる最中から胸が熱こか京都へ用があって来たついでだといってまるで旧い友だ くなり幸福感がみちてくる。どの作品も詩情があふれていて ちのように気軽に玄関に立っている。あわてふためいて私は 読後、美味しい御馳走を食べた後のような満足感が、腹では上ってもらいもてなした。 なく胸を満たすのだった。 編集者も誰もつれていなくて、一人だった。ずっと前から 私はすっかり大庭みな子の熱烈なファンになっていた。彼の友だちのように馴れ馴れしし 、。けろりとして気取りがなく 女の作品は、どんな短いものでも、どこかで思わず笑わされ実にさつばりしている。私が目下大庭文学に熱中していると る箇所があった。 告げると、編集者の誰彼からその噂を聞いていると、にこに 御主人の大庭利雄さんがアラスカのシトカ市にある「アラ こした。そのうち話がノーベル賞を受賞したエサキ・レオナ スカバルプ」に勤め、そこで有力な立場になっていくので、 さんの話になった。あっと、私は気がついた。レオナさんが その夫人としてのみな子さんの立場も重々しくなり、フラス まだ賞をとらない若い頃、私の女子大の友人がレオナさんの トレーションが溜っていく。そこで小説を書いたり、大学に お母さんにダンスを習っていて、若い娘たちが旧い京都の町 行き直して絵を描いたり、結構好きなように暮していた。 屋の二階で、年よりずっと若く見える美しいレオナさんの母 利雄さんは会社で重役になる立場を捨て、みな子さんのフ 堂のダンス教室に通っていた。時たま颯爽とした目の覚める ラストレーションの限界を見ぬいて会社を自分からやめ、日 ようなハンサムのレオナさんがちらりと顔を覗かすことがあ 本に引きあげてきた。 る。娘たちはキャーツと声を出して興奮する。私の大学の友
と言ってそこから派生する、このエキセントリックな怜子 うで、だから彼女をはっきり避けていた ) 、ある日、市場で おばさんの、悲惨すぎて笑えてしまうような過去の恋愛話を ひとり、店先で野菜を選んでいる怜子おばさんを見かけて、 そのアップにした髪型、私とは十センチ近く身長差のある背聞くのは ( 話しはじめこそ虚実まじったものであっても、や がては事実らしい話に収束する ) 、母の不在を痛感させられ の高さと手足の長さが寂しい立ち姿で、メイシーズにはこう る家でひとりきりテレビを見たりネットをしたりするのにく いうのしか売ってないのよと大げさに言っていたワンピース らべたら、ずっと楽しい。ニューヨークに若いころ渡ったの は胸もとがあきすぎで、ああ、ここでは誰も話し相手がいな は声楽家になる夢があったから、というその野太い声は、と いんだろうなあと、ニューヨークにはもう戻れないし故郷の きにユーモラスで、ときに哀愁あるように響き、冷静に考え 青森にも帰れないって言ってたなあと、かわいそうで懐かし たら怖くなるような妄言も、耳ざわりなようには残らない。 くて申しわけないやら愛おしいやら、いろんな感情の錯綜し 母の生前にはむしろ苦手だった、怜子おばさんのその声質や こムは、田 5 わず後ろから抱きしめていたのだった。 、まではすっか らノンストップなおしゃべり気質だとかが、し 「心臓が止まるかと思った」と何度も言う怜子おばさんと りなじんで気にいっているのだから、ようするに私は軽薄な は、それから毎週のように会ったり食事したりするように んだろう。 なった。怜子おばさんの部屋でビールを片手に、中島みゆき 怜子おばさんは男で相当に苦労した。実の父親から死別し を聴きながら、 た夫まで ( 意地の悪いことを言えば、過干渉のすえに手ひど 「これはほんとうに私が、道に倒れて男の名を呼んでたの い縁切りをされた二人の息子まで ) 、彼女を苦しめなかった よ。それを中島が目撃したの」 男性などひとりとしていなかったようであるが、そんな彼女 というような、まあ戯れごとを、聞くともなく聞きなが から聞く男性不信論も、これはこれで辛辣で大いに偏見が す。その呼称が「みゆき」であったり「中島」であったり統 あって小気味がよくて、私は大好きである。 一されないところが、いかにも妄想らしい収まりの悪さでも 中島みゆきのあるアルバムを聴きながら怜子おばさんが、 あったが、それでも例えば、 また愚説を述べる。 「これもある程度はほんとうの話。私の話。はじめてラブレ 「こんなふうに歌詞が勇ましくなって、シンセサイザーを多子 ターを渡した男はそれをみんなの前で笑いながら朗読した し、はじめ・てつきあった男は私の職場にきて私の給料の大半用したりするようになったころがちょうど、みゆきが私から 離れた時期ね」 をもって音信不通になった」