相手 - みる会図書館


検索対象: 群像 2016年8月号
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1. 群像 2016年8月号

ば、わたしは、嬉しいような気持ちもします。でも、そうい しい世界だったのです。 う風に思うのは、不謹慎なのでしようか ? それに、口説いてきた男がいても、保育園のときのよう 保育園を辞めたわたしは、保育士の経験を活かして、短大 に、なんの後ろめたさもないのです。遊びたければ遊べばい 時代の友達の叔母さんがやっている託児所でアルバイトをは いし、嫌なら断ればいいのです。 じめます。場所は銀座でした。この託児所には、クラブで働 さらに、そこから、お金をひきだしたり、駆けひきをした くホステスさんが、子供をあずけにきていました。 り、そのような、いやらしい楽しさも覚えてしまったので あるとき、子供を迎えに来たホステスさんに、「人手が足す。とにかく男というものは単純で、大概は、こちらが思う りないから手伝ってくれたら嬉しいんだけどな」と言われま ように操ることができるのでした。けれども、それは相手に 恋をしていないときだけのことです。 少し考えましたが、 時給も良かったので、託児所のアルバ 恋をしてしまったら、相手を本当に好きになってしまった イトが休みの日、週に二回だけ、クラブで働きはじめまし ら、操っているのか、操られているのか、よくわからなく なってきてしまうのです。 そこが「プルーバール」というお店でした。 だから、なるべく恋はしないようにしていました。ただ楽 最初は気楽な気持ちでアルバイトをしていたのですが、い しもう、遊んでしまおう、そう思っていたのです。しかし、 つの間にか、夜の世界の華やかさや楽しさを知って、わたし そこは、わたしの甘いところで、やはり、恋に流されてしま はホステスの仕事に、のめり込んでいきます。 うのでした。 それは、高校に入って遊びはじめたときの感覚に似ていま そして、わたしを、この世に引きずり出した、産婦人科の した。でも、あのころより大人になっていたので、もう少先生と出会ってしまい、新たな恋というものを知っていきま し、自分のペースで楽しむことができるようにもなっていま す。 実を申しますと、先生と出会って、関係を持つようになっ 結局わたしは、託児所を辞めて、本格的に「プルーバー てから二カ月後、わたしは、先生の知り合いの美容整形の病 ル」で働くことになります。体力的に大変なこともありまし院で、目を手術して、大きくしてもらったのです。 たが、保育園のころと比べれば、どうってことありませんで もちろん、その頃のわたしは、子供時代より、目は大きく した。ホステスの仕事は、わたしにとって、なにもかもが新なっていたし、化粧も上手になっていたので、シジミなんて ? ) 0

2. 群像 2016年8月号

うな気がして狼狽したこともある。 「君は結婚してないだろ」と早口に言った。 サジャダはいつも一節ごとに朗誦してくれた。彼の母語は 「してないよ。母親がそのことでうるさいけどね」 ベルシア語だから、古いアラビア語で書かれたコーランを覚 「交際相手は ? 」 えるのに、意味は後回しだったという。彼が詠うと、その場 亮太のロぶりは尋問でもするようだった。サジャダは怪訝 に昼寝のような風が吹いて、彼の眉間から何かがうねりなが そうに眉をくもらせて、「いないよ」と言った。 ら天井へ昇っていくようだった。その調べを聴くのが実のと 「アッラーに誓って、いないと言えるかい ? 」 ころ、亮太のいちばんの愉しみであり、サジャダもそんな亮 「 : : : ああ、もちろん」 「そうか。 太のようすに目を細めていた。 : でも、君にはきっと、意中のひとがいるん が、その日の亮太はまったくレクチャーに身が入らず、と じゃないか」 , っと , フ、 「今日はコーランはやめよう」 そのとき判然と、サジャダの顔色が変わったのだった。だ と一一 = ロった。 が亮太にはそれが、羞恥からなのか憤りからなのか、はたま サジャダはそれを聞くなり体を硬直させて、亮太の目を覗たそれ以外の感情に起因するのかが分からなかった。 きながら次の言葉を待った。けれども亮太は、サジャダの視 「わたしは勉強しに来てるんだ。そんな暇など : : : 」 線をよけて俯くだけ。二度ほど「君は : : : 」と言いかけるも サジャダは親指を口に持っていき、爪を噛みはじめた。急 のの、ロごもって一一一一口葉が続かない。右手のポールペンはその に瞬きの回数が増えた。まずいことを訊いてしまったのでは みみずか あとを埋め合わせるように蚯蚓を描いている。サジャダはそ ないかと亮太は後悔した。けれどもサジャダが今、ミーナを の蚯蚓をしばらく目で追っていたが、そいつがコーランの原想っているのだろうと勝手に推察するに及び、オスらしい対 文に触れそうになったところで、亮太の手を制した。 抗心が自ずと頭をもたげてもくるのだった。 「君はなんだか、女々しいね」とサジャダは呆れ顔で呟い またバス停でミーナと会った。この前と同じで、木曜の三 この一言は、図らずも亮太をしゃべらせるに十分な便秘薬限が終わったあとだった。その日のスカーフは白地に紫の花 となった。亮太は挑発されたように思ったのだった。 柄。手には青いラ・ヘルのペットボトルを持っていた。米国大 17. アジアの純真

3. 群像 2016年8月号

具が用いられることはよく知られている。 も猿も残酷ではない。サディズムもマゾヒズムも人間の問 人は他者として見出された自己を自己として引き受ける題、一一一一口語の問題なのだ。 のである。思索の起源は自己にあるのではない。かりに自 だが、ここで登場するさらに重要な帰結は、相手の身に 己であるとすれば、それはすでに他者によって媒介された なることができるようになるのとまったく同じ瞬間に、人 自己なのだ。思索の出発点を自己に置くことはしたがって は、相手と自分の双方を眺めうる視点を獲得するようにも 致命的な誤りであることになる。 なるのだということである。それがなければ入れ替われな いのだ。 相手の身になることができるということの帰結のひとっ は、人は誰にでも何にでも成り替わることができるという つまり、世界を俯瞰する視点である。 ことである。動物にも植物にも成り替わることができる。 野球ならば監督の視点である。世阿弥ならば離見の見と でもいうべきところだが、原理的にはおそらく斜め上の視 海にも山にも成り替わることができる。だから人は、たと えば木に向かって誓い、あるいは雲に向かって嘆くのであ 点から眺めることができるようになった。臨死体験のいわ る。さらには明日の、一年後の、十年後の自己に成り替わ ゆる魂の位置に立つようになった。魂になって、真上から ることもできる。これは想像力の問題ではない。日常要求自分の死体とそれを取り囲む人々を眺め下していたという される気づきの問題である。この能力がなければ人間とし臨死体験が引きも切らないのは、何のことはない、人間は てやっていけないのだ。 すべてつねにそういう視点をはじめから確保しているから しほかならない。 奇異なことではない。 この能力がなければゲームなどで きるはずがない。投手も野手も交替できなければゲームは 言語は相手の身になることができなければ成立しない。 成立しない。 この場合、ゲームとは社会の別名である。盤向き合った人間と、瞬間的に互いに向きを変え位置を変え 上遊戯が面白いのは、盤面を正反対にできる、つまり相手ることができるようにならなければ成立しないのである。 の身になることができるからである。 これは、言語をして世界を捉えるための恣意的な網目と考治 政 意識的に相手を苦しめることができるのは、じつは相手えるソシュールの考え方の、あるいは、人間はすべて普遍 の 語 の身になることができるからなのだという逆説もこうして文法を備えて生まれてくるとするチョムスキーの考え方 登場する。苦痛は動物の特権だと述べたのはヘーゲルだ の、そのまたさらに前提になるはずの問題である。なぜな ら、相手の身になるということは、一一一一口語以前の現象として が、残酷は人間の特権だといわなければならない。大も猫 243

4. 群像 2016年8月号

ワが目立った。 タダ酒を散々飲まれて逃げ帰る。 「アンタ、そっくりさん ? 」 常連の「社長さん」たちは、痩せても肥えても貧相だっ 否定したが相手はしゃべり続けた。彼女は清正公通りに店た。乾き物のナツツは最後の一粒まで手を出した。客は演歌 を構えている。人手が足りない。今夜からでも来てちょうだ を歌、 。し、間が持たなくなるとホステスのショータイムにな 時給千五百円は高くはないが、売る若さのない私にはあ る。聖子は二重あごを震わせて「青い珊瑚礁」の高音を出し りがたかった。ママは角のすり切れた名刺を渡してくれた。 た。明菜はスタミナ不足で念仏に聞こえた。アグネス・チャ ドレスのまま通りをうろついて、二千円のハイヒールを ンは訛りのところだけ似ていた。私は「あはん、あはん」で 買ってから『圭子の夢』に向かった。伊勢佐木町一丁目を折自分の胸を揉んで見せ、笑いを取った。 れて福富町に入り、風俗の無料案内所、タイ古式マッサー 「三奈ちゃん、あざとい ! 」 ジ、韓国料理の角を曲がる。入口の柱の緑のバネルに「ま 同僚に嫌がられてこそナンボ、と割り切って日銭を稼い だ、誰も知らない夢の世界へ」と書かれた集合ビルの二軒先だ。 の三階が店だった。 一番歌唱力があり機転の利く細川たかしが、ある日いなく 薄汚れた白壁に不釣り合いな、重厚な木のドアを開ける。 なった。一番の借金持ちでもあったらしい。スカウトの上手 全員の視線が私に集まった。ママはおかつばのカッラにレー い圭子ママは、すぐに新人を連れてきた。スーツの彼を見る スの黒いワンピースで、首をかしげると藤圭子に見えなくも なり全員がため息をついた。青白い端正な顔である。彼は挨 なかった。二重あごの松田聖子、桂歌丸のような中森明菜、 拶をするでもなく、そのまま固まっている。気まずさが頂点 四川省出身のアグネス・チャン。ヾ ノーテンは本物より太めの に達したところで、今度は全員が息をのんだ。、彼の顔に、一 細川たかしだった。 種の地滑りが起こっていた。額にシワを寄せ、目をくわっと 壁のモスグリーンは汚れが目立たなかった。赤のソファー 見開き、頬を持ち上げ、ゆがんだ口から舌を垂らす。 はミラーポールによく映えた。カウンターには一通りの洋酒 「こんばんは、森進一です」 が並んでいたが、 ' ヒールと焼酎と角瓶以外は動きがなかっ 地獄の底から吹きあがってくるような声だった。背筋に寒 た。トイレには「死ぬこと以外はかすり傷」と貼ってある。 いものが走ったのは私だけだったらしく、皆は手をたたいて 間違って入った客は、母親の年齢のホステスに「いい若い 笑い転げている。 もんが、こんなところで飲むんじゃない」と説教をくらい、 「森スンイツ」の芸名で、一度だけテレビ神奈川に出たこと 130

5. 群像 2016年8月号

田中丸は、聖の炭水化物が一切見当たらぬ弁当箱を眺めて レ誘ったりして、体よくこちらの誘いを断らせることによっ て、相手が掲げているいかにも都合のいい建前を自ら引き下 田中丸は続ける。 げさせようと目論んだわけだが、そうはいかないことを思い 自分はもうずっと運動不足で、なにかオススメのトレー一一知ることになる。結局、田中丸から連絡を寄越してくるので ある。 ングがあったら教えて欲しいのですが。 籠絡するためにそんなことを言っているのだと聖は身構え その週末、聖はデバートで待ち合わせて、田中丸にアドバ る。さすが営業採用だっただけのことはある。どぶ板営業で イスしながらトレーニングウェアとダンベル、プロティンを きめ細かな心配りとスルースキルがよく鍛えられている。ク選ばせる。そして、そのまま自分の通っているジムに田中丸 ライアントの趣味がランニングであれば、毎朝のお伴のみな を連れて行くのだ。田中丸は田中丸で嫌がるそぶりを見せる らず、四二・一九五キロ舌なめずりしながら伴走する度量が どころか、そのつもりだったとでも言わんばかりの様子であ ある。犬を噛み殺すには、大こそが適役なのだと骨身に染み る。最初、田中丸はそもそも現地解散のつもりだったのか、 て知りおおせているわけだ ! 一人でランニングマシンに乗るとあとは黙々と走り続けた。 戦きつつもしかし、聖の判断は冷静である。そっちがその だが週明けし。 こま、聖のそばについて、次にやるべきことを主 気なら、その気に便乗してやる。そうやっておためごかしに 人に求める犬のような目でじっと聖を見ている。聖はカール とりつくろっている建前のチキンレースに乗ってやろうと、 のやり方を教える。 聖は聖で逆に田中丸に接近していこうとするのだ。 もちろん、こうした聖の行動は大胆に見えて、用意周到だ 気になることがあるなら、なんでも聞いてちょうだい。 と言わざるを得ないものがある。 すると田中丸は本当に、聖のトレーニングに付き合いたし 特に賢明なのは近寄りつつも、現在の二人の「業務上のや と言い始める。 り取り」については触れようとしない点である。 まずトレーニング器具を見に行きたいから付き合ってくれ 聖は業務から離れたところで、田中丸との純粋な関係を育 ないかと言ってくる。それから、のを伝えられ むことによって、相手の目論見を内側から掘り崩すことを目 る。 指しているように見えなくもないのだ。あたかも自分が面談 聖はそっとする。こいつは馬鹿なのか、天才なのかよくわ など受けていないかのように、彼女は振舞い続けるのであ る。 からない。いずれにせよ、この女は便所掃除をしながらでも 飯が喰えるタイプの人間に違いない。最初、聖は適当に遊び 相手も相手で、本気か嘘かぎりぎりの一線を守っている。 103 ln My Room

6. 群像 2016年8月号

い感じは、よくわかる」 「自殺願望はないの ? 」 朝起きるのに三時間かかる。目は覚めても意識がついてい 「死ぬのも嫌なんです。息をするのも嫌ですけど」 かない。身体と心がようやく一つになると、その状態から逃 寝る前冫。 リこま寝るのが嫌でぐずり、次は起きるのが嫌でぐずげ出したい自分がいる。進化論を逆にたどって単細胞生物に 戻りたい。そのためには必死に布団をかぶって尿意と空腹に 「それでよく客商売ができるわね」 耐える。昼を越えると落ち着き、夕方に人間の顔に戻る。 森進一の顔は、芸ではなく一種のバニック障害だった。い これでは正業に就けるわけがなく、まともな男と付き合う っ頃からか、対人関係のストレスが一線を超えると顔が引き ことも叶わない。 つるようになった相手の驚く様子が火に油を注ぎ、さらに 「青江さんが遅刻ばかりするのは、そのせいだったんです 顔が歪む。これ以上は耐えられない、という極限に達したとね。今日はよく時間より前に来れましたね」 ころで、なぜか相手が笑い出すことに気付いた。笑われるの 今日こそ遅刻をするべきだったのかもしれない。時計に目 は嫌だが、笑われない気まずさよりはマシだ。自分から「森をやると、出勤の時間を過ぎている。 進一です」と笑いを取るようになった。ひょうきん者扱いさ 「もう休もうか ? 」 れて、傷つきながらもどこかで安堵する自分がいる。そうい 「僕は出ます」 う自分が嫌でたまらない。語り終えた安堵感からか、森進一 裏切者は去り、私はコーヒー豆を下げて通りを二、三往復 は音を立てて氷の溶け切ったアイスコーヒーをすすった。 してから立ち飲みの暖簾をくぐった。 「私、「ウッなのよ」 たまに「まめや」で会うようになった。互いの愚痴を一方 今度は私の番だと思うと、ありがとうウッ、の気分で笑み的に聞くだけで、会話は成立しない。その不毛感が心地よ がこばれた。赤ん坊までは遡れないが、初恋の痛手からは順かった。 調に下降線の人生を歩んできた。相手にコバンザメのように 意外と勤勉な森進一が、一週間休んだ。次の日の彼は頬が へばりついては捨てられた。途中からは、捨てられる、とい こけていた。風邪という説明を私は信じられなかった。「ま う結論が先にあって、ゴールに向かって関係性を壊すための めや」で話をぶり返した。 努力をつづけた。 「僕は病気持ちなんです」 「ウッは、季節の変わり目がひどいのよ。息をするのもつら 何度も聞き直す私に、彼は「好酸球性胃腸炎」と紙の手拭 る。 る。 132

7. 群像 2016年8月号

を忍び込ませた。 がある。彼の郷里では進一をスンイツと訛る。訛って歌うと 翌日、定刻に彼は「まめや」に現れた。豆の焙煎を頼んで さらにウケた。スンイツは馬鹿か利口かわからない、と圭子 から店の外のべンチで、私はプレンドを半分ほど飲んだとこ ママが漏らすことがある。場の空気が少しでも澱むと、とた ろだった。彼はアイスコーヒーを頼んだ。一口飲んで「コン んに顔面崩壊して森進一になる。気を使っているのかと思え ビニのと違う」と呟いた。ここの勘定は私が持とう、と決め ば、あらぬほうを眺めてシェイカーの手が止まっている。 そのうちショータイムのレバートリーに、 森進一と青江三 無言のままアイスコーヒーの氷が溶けていく。声をかけよ 奈のデ = ェットが加わ「た。なぜこのル合わせで「銀座の うにも、彼を呼び出した理由が自分でもわかっていない。二 恋の物語」を歌うのかわからないまま、リクエストがあれば 応えた。そんな時、私が少しでも森進一の身体に触れようも人並んで座って、楽しくはないが気まずくもない。 「コーヒーは苦手 ? 」 のなら、あからさまに拒否する感じが伝わってくる。嫌がら 「僕には苦手じゃないものが、無いんです」 せで、腰に手をまわしてみた。振り払われた。肩に頭を乗せ 断言されても答えようがない。 ようとしたら、肩を引かれた。そのやり取りが、また客にウ ケる。 「僕は人間嫌いなんです。あなたも嫌いだし、自分のことも 嫌いです」 「そんなに私がお嫌 ? 」 「そうなんだ ? 」 「嫌です」 彼にスイッチが入って、一方的にしゃべり始めた。赤ん坊 即答だった。相手の顔に掛けたい水割りを、自分の喉に流 の時の記憶がある。生まれたくなかった、というメッセージ し込んだ。 森進一が、私にとって、喉に刺さった小骨になった。十年を込めて泣いていた。飲んだ乳をよく戻したらしい。初めてス のチョコレートもすぐに吐き出した。幼稚園からは虐められ 前の私なら、気になる人、と思ったとたんに女の気持ちに なければ無視された。そう扱われて当然と思っていたので辛町 なった。今は嫌われていること自体に興味が向く。嫌悪感を と思った。 一層煽ってみたい、 くはなかった。下手にやさしくされると虫唾が走った。弁当佐 ある日、顔面が崩壊したところで、彼の耳元で囁いた。 の中身は半分以上捨てていた。大学に入ったおかげで、自分伊 は学ぶことも嫌いなのだと悟った。絶対に学ばない姿勢を貫 「怖いんでしょ ? 」 いたら退学になった。死なない程度にアルバイトで生きてい 彼のポケットに紙切れ 絶叫する森進一のまま、睨まれた。 , っ ) 0

8. 群像 2016年8月号

ち止まる。実際に私に力があれば、そして彼女との身長差が謝りもせずに走って逃げた。ひどい女、最低最悪。 もちろん怜子おばさんのことも考えていた。だからそれは せめて五センチ以下であれば、寄ってきた彼女のロをふさぐ ぐらいのことほしたかもしれない。私に怒気というものをう手紙にして、封をしないまま、かばんのなかにしまってお く。そして以前から考えていたことを、いよいよだと実行に まく表にあらわせる、そういう精神構造が損なわれることな うっす。 く備わっていたならば、私は彼女をその場でどなりつけてい 大江戸線のその駅の、長い階段については母の生前から目 ただろう。しかし私は大声が出せない。私は大声を出す人間 をつけていた。平日の時間帯によっては人が少ない。私に がきらいだ。暴力や威圧でなんでも解決できると思いこんで は、翻訳のクライアントがいるという言いわけが成り立つ。 いる人間がきらいだ。食事の所作にやかましく神経質に口を そして私は、当日デニムにヒールを履き、監視カメラの位 挟んでくる人間、ひとが少しファッションに気をつかおうと すると「おまえなんかが」とあざ笑ってくる人間、女を屈服置にはしつかり注意をし、邪魔なくらいに人がいればまた別 の日に延ばそうと思っていたのが見事にほかに誰もいなかっ させるのが男らしさだと思っている人間、知ったかぶりを たので、これまでにシミュレーションしたとおり両手をポ 言ってちょっとでも反論してみようものなら「親に歯向かう ケットに入れたまま滑ったふうに階段に身を投げたのだっ な ! 」と頬を打ってくる大人がきらいだ。虚一言癖の人間、も た。よくそんなことができたと、自分でも思う。でも、溺れ きらいなはずだった。だから静かに彼女にこう一一一一口う。 る者は藁をもっかむ。窒息しそうな人間は海面から顔を出す 「ニューヨークに帰れ。青森に帰れ。頭のおかしい虚言癖の ためならなんでもするんじゃないだろうか。 女」 そして私は、しかし海面から顔を出せず、母には会えな それから何日間か、私は自己嫌悪に身もだえしていた。し かった。右の膝蓋骨を砕き、同じく右肩関節を脱日させ、後 かしそれは、怜子おばさんに対するものではなく、あの男の 頭部をこそ打ってほしかったのだけどそうはならずに鼻の骨 子に対するものだ。考えてみたらあの子は、きっとただのバ ンドマンで、もっと派手なバンクロックの格好をした男の子をべしゃんこにし、ばっくりと額を割り、一生残る傷になる なんて高円寺じゃちっとも珍しくなく私も見慣れているはずかもしれないということだがとにかく私はむざんに失敗して なのに、どうかしちゃってた。暗がりなのがよくなかった。 かばんにしまっていた手紙に封をしなかったのは、血縁の子 それに大人数でたむろっていたのでもなかったと思う。二人 ない怜子おばさんに第三者から事態を告げてもらうため。 か三人でいただけ。それなのに、食べものを粗末にあっかっ 私が目をさましたとき、べッドそばに立っていた怜子おば た私は、常識なく、考えなく、相手の浴衣をよごしちゃって

9. 群像 2016年8月号

翌日、聖の元を、組合の人間だという一人の女が訪れる。 勝は午後である。 女は、女性運動の闘士で、仲間になろうと言う。今から闘 フリーポーズの曲は『 InMyRoom 』た。 ポーズダウンの歓声の中、聞こえるはずもない田中丸の声おうと。今こそ、あなたが矢面に立たなくては、と女は言う のだ。 に聖は気づく。「きれてるきれてるよー ! 」お決まりの文一言 あなたの身体は素晴らしい。女性の社会参画の象徴そのも だ。あいつが言っても言わなくても自ずと聞こえて来る台詞 のだ。まるでリサ・ライオンみたいだ。 をわざわざ一一一一口う理由はなんなのだろうか。聖は首を傾げる。 ああ、リサ・ライオン、私の好きな人間。でも私は、リサ 結局、大会は無惨な結果に終わる。 と同じぐらいヒシャム・エルゲルージやマイク・タイソン 六位という成績を受け、聖はなにも考えられない。 だって好きなのだ。浅田真央ちゃんだって大大大好き。 聖にお疲れさまと声をかけた以外、田中丸も黙っている。 それから一週間ほど、聖はこの女性と行動をともにするこ 不思議なくらい、聖の身体について話さないのだ。聖は思 とになる。だが女は、聖の退職勧奨の面談相手が知る人ぞ知 う。こいつはぎりぎりのところで職位的にコンプライアンス を遵守するつもりなのだろう。そのまま二人は黙って解散する女性役員候補だと知ると、途端に姿を消してしまう。 る。 一方の田中丸はというと相変わらず、一般的な健康像を目 その夕方、 指した軟派なトレーニングをしているかのように、胆の据 翌日は面談である。内容はなにも変わらない。 ) わった重量を扱い続けている。再び面談が訪れる。 二人はジムで再会する。事故はそこで起こる。 スミスマシンでのスクワット中、立ち上がろうとした田中 いつも通り、黙ってやり過ごそうとしている聖に対して、 とっぜん田中丸は最後通告のようなことをしてくるのだ。 丸がプラックアウトしてしまうのだ。足をくじいたので、聖は 。しささか冷静さに欠けるもので それに対する聖の反応よ、、 田中丸を、自転車の後ろに乗せて病院まで送ることになる。 ある。 田中丸は聖の肩にまっている。しだいに聖はなんとも言 なにか言ったらどうなんだ ? えない気持ちになってくる。 すると田中丸は話し始めるのだ。 こいつは、私の僧帽筋を触って何も思わないのだろうか。 言っておくけれども、あなたの身体は素晴らしいのだ。 そんなはずはないのだ。現にこの女の手が肩に触れているだ え、と聖は思う。さらに田中丸はよどみなく話し続ける。 けで私は、その体脂肪率を意識してしまう。真冬の川の水の その田中丸の意見に、聖は動揺を隠しきれない。それもその ようなつめたい左手。さっさと身体から水を抜かなければと はず、田中丸の話は筋が通っており、反発を覚えるどころ 焦らせるほどに骨つばい右手。

10. 群像 2016年8月号

れるものではあっても友情と比べることはできないし、また享受され、高められ、育まれる。それは享受されるなかでし その範疇に加えることもできない。はっきりいって、恋愛の か増大しない。なぜなら友情は精神的なものであり、精神は 火は : いっそう活発であり、 いっそう焼け付くようであ使われることによって洗練されるからである。かってこの完 いっそう激しい。しかしそれは向こう見ずで、移り気璧な友情のもとで ( あの移り気な恋愛が私のなかに宿ったこ な、揺れ動く、むらのある火、発作と鎮静を受けやすい熱病とがあった。彼については〔ラ・ポエシーを指す〕なにもいう の火であって、われわれの一カ所をしか掴まない。一方、友 ことはない。彼は例の詩によって充分すぎるほどそれについ 情のなかには、全身に行き渡り、その上穏やかで、むらのな て告白しているからだ。そうやってその二つの情熱は互いに い熱、安定した、静かな熱があり、それは甘美さ、繊細さそ相手を認め合いながら私のなかに入ってきたのだが、しかし のものであって、すこしも激しい、刺激的なところがない。 決して比較できるような筋のものではなかうた。一方はその さらにいえば、恋愛におけるこの熱は、われわれから逃げて気高く、誇らしげな飛翔を崩さず、他方がはるか下のほうを ゆくものを追いかける凶暴な欲望にほかならない」 歩んでいるのをさげすむように眺めていた」 これが二つの情熱の比較である。要するに友情は穏やかで 恋愛の火は時とともに衰弱し消滅し、そしてふたたび別の 安定した情熱であり、一方の恋愛は激しさを身上とする欲望恋人を伴って復活するが、友情は相手を変えずにただ深まっ であるから、一途に激しい恋は、それを決定的に阻むものに てゆく。一方は肉体に関わり、他方は精神に関わるからであ 出会うと死をも辞さない行動に出ることがある。たとえば近る。ただしここに述べられたことは友情一般についての説明 である。 松門左衛門が描いた心中がそれである。しかし恋愛は、いっ たん肉体の欲望が満たされると、死さえも辞さなかったその 激しさも徐々に衰えてついには消えてゆく。この「熱病の ではモンテーニュがラ・ポエシーとともに経験した友情の 火」は「発作と鎮静」を免れることができないからで、モン特徴はどんな種類のものだったのか。それがこの章の語る核 テーニュはその点から恋と友情を対比して、さらにこういっ 心の部分であり、わたしたちの知りたいところでもある。 ている。 「◎われわれの友情は、その期間があまりにも短く、始まっ 「恋愛は、友情の範囲に入ると、つまり二人の意志と意志 たのがあまりにも遅かったので、というのも二人とも大人 が一致すると、たちまち衰弱して消えてゆく。享楽は恋愛を だったからで、彼のほうが何歳か年上だったが、無駄にする 消滅させるのだ。なぜなら恋愛の目的は肉体的で飽満しやす時間もなく、軟弱な、あり来たりの友情の雛形を手本にする いからである。反対に友情は欲せられればそれだけいっそうわけにもいかなかった。そういうあり来たりの友情のために