の歌題のほうが原題に近いのではないか。いずれにせ誘惑には打ち勝ちがたい。だからこそ「さとりうべくもな よ、この歌は、西行が『大日経疏』を見ていたというこ かりつるーなのだ、と。とはいえ、いずれにせよ、西行の この歌、およびその周辺の歌が『大日経』、『大日経疏』の と、しかもさきほど記したように、その特異な和歌観の 典拠になったと思われる部分と同じ場所から選んだ歌題圧倒的な影響下にあったことは、もはや疑いないと思え る。 だったことを明快に示している。 一首は、「迷い続けてきて、遂に悟ることのできな むろん、小林もその辺の事情はたしかに掌握していたの である。知られているように「西行」発表の七年後に かったあわれな我が心を知るものは、これまたわが心以 つまり戦中と戦後の違いがあるわけだが 刊行された 外にはないのだ」と解されよう。悟れなかったというこ 『私の人生観』 ( 一九四九 ) で、小林は、人生観の「観」の とを自ら悟るという論法は、「、い自ら心を覚る」に通じ、 また「心自ら心を証す」に通ずることでもあろう。高雄字の解釈からはじめて観無量寿経に触れ、十六観の例とし て日想観、水想観などについて具体的に説明している。さ 歌論の典拠となったあたりの『大日経』には「実の如く らにそのうえで、禅とその前身である止観について述べ 自心を知る」「自心に菩提と及び一切智とを尋求す」の ような句が散見され、『疏』の「心自証心、心自覚心」 は初め観と呼ばれていたと小林は強調している 鑑真僧都、明恵上人、恵心僧都の生き方の例を挙げ はまさにそうした経句の延長線上に出てくるのである。 と考えるとこの一首、わずか一首にすぎないが、『栂尾ているのだ。戦争中、小林ははとんど沈黙していたが、そ 明恵上人伝』に載せるいわゆる高雄歌論なるものを、実際の間、何を考えていたのか窺わせて興味深い その後に、次の一節が続く。 の西行と結びつける実に貴重な資料として浮上してく る。 観法といふものが、文学の世界にも深く這入って行っ たのも無論の事であって、その著しい例が西行でありま 引用が長くなったが、先に引いた歌の解釈の問題をも含 むのでいたしかたない。山田の訳はさきほどのこちらの解 す。前にお話しした明恵上人の伝記を書いた喜海といふ 人の伝へるところによると、或る時西行がかういふ意味 釈とはかなり異なる。専門家の言に従うほかないが、しか の事を明恵上人に語ったのを、傍で聞いた事があるとい し、小林の読者としては、「まどひきて」の歌は上下で ふ。自分が歌を詠むのは、遥かに尋常とは異ってゐる。 切って、「心をしるは心なりけり」を独立した一句と見る 240
女の思いを述べたものとは考えてもいなかったと、詩人の 典を探し出すのは大変だっただろうと素人目にも分かる。 直感で断言している。彼らが書いたものを読めば一目瞭然 その後にロ伝集巻第一、巻第十のテキストが掲げられ、こ というわけだ。学問には慎重、芸術には大胆というべき ちらは考説ではなく下注が施されている。 巻頭には佐佐木信綱の序があって、小西の研究姿勢をほ 大岡の古典論は、『紀貫之』、『うたげと孤心』、『詩人・ とんど絶賛している。成立年代ほか小西が明らかにしたこ とを箇条書したうえ、さらに、注釈において、誤写を正し菅原道真』と続くが、その特徴は詩人の批評であって学者 の批評ではないということである。むろん、文献の博捜は た例を六、典拠を明らかにした例を七、難歌難語を解くな ほとんど国文学者に匹敵するが、あくまでも感性で勝負す どした例を七、いずれも具体的に掲げている。佐佐木はも ちろん学界の大御所であって、時に六十九歳。ほとんど孫るのであって、知識で勝負するのではないという姿勢であ る。学者を馬鹿にしているのではない、逆に尊敬している の門出を祝しているようなものだ。佐佐木についで能勢の 序があり、これは手放しで喜んでいるとしか思えない文章のである。知識の収集で勝負する学者たちーーそれこそ資 である。研究生仲間から「資料餓鬼」という綽名を付けら料餓鬼たちーーへの讃嘆と敬意を記すことを忘れない。 とすれば、『日本文藝史』における小西の創見の一例と れていたこと、秘抄の考説のために一切経をことごとく読 して西行の例を挙げることもまた慎まなければならないの 破したことなどが暖かい筆致で紹介されている。超弩級の かもしれない。だが、創見かどうかの論議は抜きにして 新人の登場という印象が圧倒的である。 も、源氏と史記の例よりは西行と密教の例を挙げたほうが だが、「遊びをせんとや」の考説は、大岡が引用してい 良かったことは、孤独の発明、一一一一口語の政治学へのかかわり るだけのきわめて短いものであって、これで全文である。 でいえば、歴然としている。 出典を示し他を批判するなど、長い考説が多いなかでは 小西は『日本文藝史』第三分冊で西行を簡潔的確に論じ そっけないほどだ。ほとんど感想を記しただけという体裁 ながら、小林秀雄の『無常といふ事』所収の「西行」には であって、自分の創見であるなどとはまったく述べていな 。あるいはそれもあって、大岡は創見のむね明記するの 一行も触れていないのだがーーー後に小林の「平家物語」を を遠慮したのかもしれない。だが、いずれにせよそこに大論難してはいるがーーー、実際のところ、小林のこの有名な 随筆を批判しようとしていたと思える。 岡の、国文学界への細かい気遣いが潜んでいることは疑い 念のために述べれば、小林の「西行」の要点は、たとえ 他方では、白秋も茂吉も龍之介も春夫も、これが遊 言語の政治学 233
ば「まどひきてさとりうべくもなかりつる心を知るは心な しば単純素朴に思えるその歌い振りも宗教あってのことな りけり」のような歌を、それも五首引用の中に目立たぬよ のだと、小西はいう。たとえば、西行といえば花と月と孤 うに投げ入れておいて、間をおいて「自意識が彼の最大の 独の歌人ということになるが、花は法華経の華すなわち花 煩悩だった事がよく解ると思ふ」と付け加えるようなとこ であり、月は心月輪の月のことであり、孤独とは無言の行 ろに端的に示されている、と、少なくとも当時の小林の読 のことである。真一言密教のさまざまな経典に秘められた語 者の目には映っていたはずである。西行の歌は、自分が自句を、また観念を、古今から新古今へと流れる歌の調べに 分について考えている、つまり自分は自己言及の悪循環 に見事に重ね合わせたところにこそ、西行の独創性があるの 陥っているのだから、悟りえないのは当たり前のことだ、 であって、それを見逃したのでは話にならない。 ) それが小 と述べているのである、と。これが小林のいう自意識の煩西の言い分である。 悩の正体であり、一般にはそれこそ近代的苦悩の最たるも 小西の西行を論じた一節を引く。 の・ーーっまりポードレールやマラルメのものーーーとされて いるわけだが、小林はそんなことを子細に説明などしてい 花と月で真理世界を象徴したことは、西行が密教を修 ない。ただ「彼は単なる抒情詩人でもなかったし、叙事詩 めたところに由来するのであろう。かれが三十歳ごろか 人でもなかった。又、多くの人々が考へ勝ちの様に、どち ら主として高野山に住んでいた点から考えて、真言密教 らにも徹せず、迷悟の間を彷徨した歌人では更にない。僕 に通じていたことは推認されてよい。密教では、真の仏 は彼の空前の独創性に何等曖昧なものを認めない。彼は、 を宇宙の全存在にゆきわたる「理」そのものだとする。 歌の世界に、人間孤独の観念を、新たに導き入れ、これを その「理」は、いたる所にあり、たえず現われているに 縦横に歌ひ切った人である」と断言するだけである。小林 も拘わらず、普通の人間は感知できない。それを人間の は西行に近代人の苦悩を、つまり自分自身の姿を見て感嘆 ことばで説き示すため現われたのが、釈尊をはじめとす しているのだ。多くの読者がそう感じていただろうことは る人格的な諸仏である。その言語を媒介として「理」 , 疑いない。 迫ることができるという立場から、華厳・天台・三論 ト西は、この小林の主張と流儀を粉砕しようとし、なか ・ : など顕教の各宗が生まれた。しかし、人間の言語は ば成功している。西行の流儀は真一言密教によるのであっ 完全でなく、それによる表現は限界があって、すべて て、近代人の孤独を先取りしたようなものではない。しば 「理」を表現しつくすことは不可能だというのが、密教 234
になっているのだ。賢治の愛読者は広いだけではなく、深 てみれば不自然である。現実には朔太郎も賢治も中也も、 い。たとえば中原中也がこの詩を暗誦し口ずさんでいたこ あるいは岡本かの子も大庭みな子も、宗教を引き合いに出 とはよく知られているが、文芸作品として魅了されていた した方がよほど理解を深めるに違いない。 のである。むろん、中也にも宗教者を思わせるところが これに宗教運動としてのマルクス主義を付け加えてみれ あったが、そんなことでいえば人には大なり小なり求道者ば、理解はさらに深まるだろう。実際、最澄と彼に遅れる 的なところが必ずあるというほかない。 こと一年で帰国した空海がもたらした密教は、マルクス主 ト西は、比較文学という手法を採用した必然として、漢義といって悪ければ新左翼の理論のようなものである。こ 籍と日本古典の関係を綿密に考証しなければならなかっ れが旧左翼とでもいうべき南都諸寺に与えた衝撃は強烈 た。漢籍の半ばは詩文だが、残りは儒教、道教、仏教に関だったわけだが、そのうちに最澄と空海も新左翼の内ゲバ わるものである。つまり日中の比較文学は、宗教における よろしく決裂したわけである。そう見れば、当時の理論闘 文学、文学における宗教の比較考察でもなければならな争の生々しさが分かる。逆に一九六〇年代の学生運動も分 かった。小西は、源氏物語の考察を締めくくるにあたっ かる。むしろこれこそ比較文学、比較文化の真髄というべ て、「紫式部の世界は、はじめ『史記』と関わりながら形きではないか。 成されていったのが、次第に『法華経』へ傾斜することに よって、同時代のどの物語にも日記にも見られないものと なったようである」と書いているが、そこにこの比較文学 的な手法が端的に示されている。 いま少し西行について見る。 だが、残念なことに、近代人の禁忌。・ーーすなわち宗教的 小西の西行の見方を徹底させたものに山田昭全の『西行 禁止ーーとでもいうほかないが、小西には文学的感動と宗 の和歌と仏教』 ( 一九八七 ) がある。石田吉貞の問題意識を 教的感動を重ね合わせようとする意図は皆無であり、それ汲むものであり、小西との直接的な接触はないようだが、 がーーっまり小西の自負する新しさが とりわけ第五分西行における真一言密教を論じてきわめて興味深い。山田に 冊の近代文学論では底の浅さとして感じられてしまうので は「西行晩年の風貌と内的世界」 ( 一九七四 ) という論文が ある。俊成にも定家にも西行にも世阿弥にも芭蕉にも適用あり、そこでは晩年の二つの自歌合「御裳濯河歌合」 ( 俊 された手法が、近代文学にだけは適用されないのは、考え成加判 ) と「宮河歌合」 ( 定家加判 ) がいかなる信仰、い 238
かなる衝迫にもとづいて伊勢神宮に奉納されることになっ たかが論じられている。またそれが、白楽天がその全作品 を自ら編集して洛中香山寺や蘇州南禅院の経蔵に納めた故 事に倣ったものであることが示唆されている。「狂言綺語 を転じて讃仏乗の因、転法輪の縁にしたいとの願が込めら れた」のだというのである。和歌を寄進するのも、仏像を 寄進するのも同じだという論理である。伊勢神宮が選ばれ たのは本地垂迹説にもとづく。 だが、さらに興味深いのは、『西行の和歌と仏教』第三 章「西行高雄歌論の典拠と釈義」である。「高雄歌論」と は『栂尾明恵上人伝』に載る西行の歌論を指す。歌論その ものがきわめて刺激的だが、 それはとりあえす措く。山田 はこれを西行晩年に到達した境地と考え、その典拠を『大 日経』と『大日経疏』に求めている。本地垂迹説にもとづ く和歌即陀羅尼観から、『大日経』と『大日経疏』に導か れた和歌即真一一一一口観へと、思想が深まったと考えているので ある。その後に展開される一節を引く。 西行が『大日経疏』を読んでいたという事実を指摘す ることは、上述の推論を補強する上で重要である。西行 が『大日経疏』の句を題にした詠歌が『山家集』中に一 首だけある。 そのもん 疏文に悟心証心々 まどひきてさとりうべくもなかりつる心をしるは心な 一 = ロ 中巻雑部の釈教歌群の中に見える一首であるが、詞書の 「疏の文」は『大日経疏の文』という意味であろう。そ こで『大日経疏』を繰ってみると、前掲『大日経』本文 ⑧の、 虚空の相は是れ菩提なり。知解の者も無く亦た開暁の ものも無し。何を以ての故に。菩提は無相なるが故 とある部分について注解したところに次の文が存在する のである。 虚空の戯論分別を遠離するが故に、知解の相もなく、 開暁の相もなきが如く、諸仏自性の三菩提も、当に知 る可し、亦爾なり。唯し是れ心自ら心を証し、心自ら 心を覚る。是の中には知解の法もなく、知解の者も無 し。始めて開暁すべきに非す、亦開暁の者もなし。 傍点部分を原文のまま表記すると「唯是心自証心心自覚 心」となる。前掲『山家集』の歌題はこの部分を拾い出 したものとみてまちがいあるまい。ただ歌題は「悟心証 心々」とあって原文と食い違っている。久保田淳編『西 行全集』所載六家集板本『山家集』には「心自悟心自証治 政 心」とある。これも原文と一致しないが、「心自証心」 の 語 と「心自覚心」の順序が逆転して、いったん「心自覚 言 心、心自証心」になり、さらに「覚」 ( さとる ) が訓読の 一致によって「悟」にあてられたとみれば、六家集板本
俊成や定家の背後には天台摩訶止観があり、西行の背後に世という謎、いまここという謎は、人間からけっして離れ は真一一一一口密教がある、そんなことは百も承知だと、小林は仄ることはない。文学も宗教もそこから、つまり同じ場所か めかしているよ , つにも見える。 ら生まれているのだ。人間の一生は初めから文学のかたち をしているのである。それが人間の悲哀だ。 小西が背負ったニュー・クリティシズム、彼の一一一一口葉でい その宗 たとえば西行は、啄木に似ているだけではない。。 えば分析批評の殻は、晩年にいたって剥がれ落ち、遺著に なって刊行された『日本文藝史』別巻『日本文学原論』教と文学の関係において、よりいっそう宮沢賢治に似てい るというべきだろう。「業の花びら」を引く。 の、それも巻末に付された「餘論ふうな結語」において は、文学的感動と宗教的感動はほんらい別ものではありえ 夜の湿気と風がさびしくいりまじり ないとするーーーあえていうがーーー本人にさえも隠された本 松ややなぎの林はくろく 心が、井筒俊彦の『意識と本質』への圧倒的な賛辞となっ そらには暗い業の花びらがい。し て噴出している。私には、ト西は井筒の著書の随所に自分 わたくしは神々の名を録したことから 自身の思想を発見し驚き讃嘆しているとしか思われない。 はげしく寒くふるヘてゐる 他人の書に自身の思想を見るということでは小林と変わら ないのである。だが問題は、小西が描き出した井筒の思想 謎めいているが、その謎が読むものを惹きつけるのであ は小林の思想に似ていなくもないということだ。井筒のみ る。この謎の多くが賢治の宗教者としての活動に密接にか ならず、小林にもまた宗教者の要素は十二分にある。 。しずれ かわっていることはよく知られている。「業の花びら」と 文学的感動も宗教的感動も別のものでないのよ、、 いう表題からしてそうだ。そこに法華経が揺曳しているこ も同じ言語現象のうちにあるからである。むろん政治も社 したがって小西の見方でいえば、「こ とは否定できない。 会も経済も言語現象にほかならない。だが、文学や芸術、 そして宗教がそれらと違って特異なのは、その表現がそれ のような種類の歌は、享受者が制作者と同様な密教的体験治 政 をもっていないかぎり、理解も共感もできないわけだから そのものへの問を含んでいるからである。あるいは一一一一口語の の 語 始原に直通しているからである。私という現象は言語現象 ( 中略 ) 文藝の立場から見るかぎり、拙作と評するのが、 むしろ適切なのである」ということになるわけだが、現に の核心に位置するがーー犬も猫も個体意識はあっても私と そうなってはいない。両者は切り離しがたく、それが魅力 いう現象は知らない 、そういうかたちで現われるこの 237
の立場にほかならない。表現されない部分は、それを感 を感知することができたから、その感動を和歌に詠じた 知できない人間の側からいえば、隠れている、すなわち のである。しかし、花や月に曼荼羅的な表現を感じない 「密」なのである。しかし「理」は、知性的な一一 = ロ語の世 享受者は、なぜ西行があのように感動しているのかを理 界から見るとき隠れているけれども、じつは、いたる所 解できないため、拙歌ないし凡作としか考えられないこ とになる。 に現われている。現われすぎているために、かえって感 知できないのである。たとえば、風が吹いて葉がそよ ぎ、朝の光に露が輝くなどは、すべて「理」すなわち仏 小西はこれに先立って、「従来、西行の歌は、自由な思 の現われなのであり、その「理」を感知するためには、 想・感情を平明に直叙している点が高く評価されている。 知性を超越した直観が必要だとされる。真の「理」へ迫それは、誤りではないけれども、現代の批評規準、しかも ることのできる直観は、厳しい訓練によってのみ得られ アララギ系統の考えかたによるとき、そうした評価が成り るが、その訓練における直観の媒体として用いられるの 立っというにすぎず、唯一の観点ではなく、十二世紀ない が各種の形象である。それらの「理」を象徴する形象し十三世紀の評価はこれと別であった。西行の歌は『新古 は、曼荼羅 (mandala) とよばれる。 今和歌集』に九十四首も採られており、最高 9 入集成績だ 曼荼羅の代表的なものは、金剛界や胎蔵界などの図絵 けれど、それは、平明だからではなく、主情的でありなが 曼荼羅だけれど、ほかにもさまざまな種類の曼荼羅があ ら巧妙な心の屈折を見せているからである」と書いている り、また、かならずしも既成・特定のものだけには限ら が、これは、「心理の上の遊戯を交へず、理性による烈し ない。ある秩序をもっ形象は、すべて曼荼羅になりう く苦がい内省が、そのまゝ直かに放胆な歌となって現れよ る。たとえば、夜空にひろがる星の配置と運行は、整然うとは、彼以前の何人も考へ及ばぬところであった。表現 たる秩序をもち、それは「理」の現われにほかならない 力の自在と正確とは彼の天稟であり、これは、生涯少しも 学 から、星曼荼羅だといってよい。こうした形象は、静的変らなかった。彼の様に、はっきりと見、はっきりと思っ 治 なものだけに限られず、秩序ある動きも曼荼羅になりう たところを素直に歌った歌人は、『万葉』の幾人かの歌人の 語 るのであり、これを羯摩曼荼羅 (karma ・ mandala) とよ 以来ないのである」と書いた小林へのほとんど直接的な批 ぶ。西行にとって、花と月は、花曼荼羅であり、月曼荼判であると、私には思える。 羅であった。かれは密教の訓練により、花や月に「理」 むろん、小西のこの見解を創見とすることができるかど 235
うか、私には分からない。ただし、俊成、定家の背後に摩それを受けて論文「西行の歌の不可解性」 ( 一九六四 ) を書 き、さらに『隠者の文学』 ( 一九六八 ) を上梓しというよう 訶止観を、梁塵秘抄の背後に法華経を、芭蕉の背後に禅を に、その素朴性と不可解性が一種の魅力となって現代人を 見るのと同じ視線が、西行の背後に密教を見るところにも 潜むのであって、その一貫性が、私には創見と思われるの なお惹きつけ感動させるというところにこそあるというべ である。問題はむしろ、ここに流れる文学的感動と宗教的きなのであって、それが純粋に文芸であるかどうかなど、 ほんとうは枝葉末節の問題にすぎない。そもそも純粋な文 感動は別のものではありえないという直観が、小西にはな ・クリティシズムもその延 ぜか学問的に邪道と思われたらしく、一貫して否定的に扱芸などという観念は われてきたということである。つまりこれほど瞭然とした長上にあるーー十九世紀末に一時流行した病気のようなも のにすぎない。 主張をしながらも、まるでそれを抑圧するかのように、 そういう意味では、「これらは皆思想詩であって、心理 西は、文学的感動と宗教的感動は切り離して考えなければ 詩ではない。さういふ事を断って置きたいのも、思想詩と ならないと断言し続けるのである。西行の歌を総括して、 いふものから全く離れ去った現代の短歌を読みなれた人々 小西は次のように述べている。 には、これらの歌の骨組は意志で出来てゐるといふ明らか 「このような種類の歌は、享受者が制作者と同様な密教的 ・な事が、もはや明らかには見え難いと思ふからである。西 体験をもっていないかぎり、理解も共感もできないわけだ から、すべての享受者にそれを要求ないし期待すること 行には心の裡で独り耐へてゐたものがあったのだ。彼は不 は、無理である。自分で密教の実修をしなくても、それと安なのではない、我慢してゐるのだ」と見た小林のほう が、小西よりも自由であったというべきかもしれない。西 同様な感知のしかたができればよいのだけれど、そのよう 、、ト西は含みの 行の持っ含みを小林は現代人として味わし な人は、現代の日本にはきわめて少ない。まして、欧米の 享受者にそれを求めるのは、論外というべきであろう。し内実を十分に理解しながらも、国文学者として、というよ たがって、右のような歌は、文藝の立場から見るかぎり、 りはむしろ文芸史家として、それを退けているのである。 小林も小西もそれぞれの限界を背負っていると、 拙作と評するのが、むしろ適切なのである。」 おそらくアメリカのニュー が、小西の限界は明瞭だがーーーむしろそれを信条としてい ・クリティシズムの限界がこ るのである 小林の限界は曖昧だ。断言を繰り返しな ういうかたちで出てきているのだ。問題は、たとえば尾山 がらも、肝心のところでは断言を避けているからである。 篤二郎が西行の歌を啄木の歌に似ているとし、石田吉貞が 236
補説したものに清水好子の評論がある。このことは小西の 「うつつなるわらべ専念あそぶこゑ巌の陰よりのび上り見 『日本文藝史』が注に明記するところであるのみならず、 つ」などを引いて、その影響歴然たることを示している。 一般にも広く知られた事実である。 白秋も茂吉も、そういうかたちで『梁塵秘抄』の衝撃に応 えたのである。 なぜこのようなありえない間違いをしてしまったのか。 小西の創見の一例として何を挙げるべきか考えながら前後 長く幻の書とされてきた『梁塵秘抄』の巻二が国文学 の脈絡だけを整え、例は西行でもよし、定家でもよしと考者・和田英松によって発見されたのは明治四十四 ( 一九一 えながら、そのままにしてしまったのである。この先展開 一 ) 年。検討を托された和田の友人・佐佐木信綱はそれが しなければならないことに気をとられすぎて、書き直すの真本であることを確認し、大正元 ( 一九一 (l) 年に刊行す を失念してしまった。山本健吉と大岡信の関係、小西甚一 べく手はずを整えた。ところがその過程で、今度は佐佐木 と尾形仂の関係、能勢朝次と潁原退蔵の関係ーー小西は能 自身、今様に縁の深い綾小路家において巻一および『ロ伝 とりわけ、おそらく 勢の、尾形は潁原の女婿である 集』巻一を発見することができた。佐佐木は、これらのテ キストに、『群書類従』に収録されて散逸を免れていた は狷介といって許されるであろう小西の気質について気を とられていたのである。 『ロ伝集』巻十をも加えて刊行した。以後、『ロ伝集』巻十 国文学における小西の創見は数多いということもあっ 一 5 十四をも加え、少なくとも現段階でーー当時も現在も た。例はいくらでも挙げることができる。なかでも有名な同じーー手にできる『梁塵秘抄』のテキストのすべてを刊 のは『梁塵秘抄』三五九番の歌謡をめぐるものである。 行することができたのである。したがって、大正元年以 降、日本の読書人は日本の古典の富をいっそう豊かに味わ うことができるようになったわけだ。とりわけ巻二の、庶 遊びをせんとや生まれけむ 戯れせんとや生まれけん 民が口ずさんでいたと思われる歌謡数百が文学者の手に届 学 いたことの意義は大きかった。白秋、茂吉をはじめ、芥川 遊ぶ子供の声聞けば 治 我が身さへこそ動がるれ 龍之介、佐藤春夫そのほか多くの文学者がほとんど酔い痴の 語 れたといっていし 言 大岡はさらに次のように述べている。 この歌謡について、大岡信は、北原白秋の「一心に遊ぶ 子どもの声すなり赤きとまやの秋のタぐれ」、齋藤茂吉の
けた俊秀の端倪すべからざる世俗的才能をみてもいいのか聞かせた上で、『顕密之教何無一浅深一。』といって絶縁宣 告の手紙をよこした」と書いているところからも窺うこと もしれない。だが、平安人士の知性は、どうやら叡山の思 ができる。ほとんど感情的なまでに最澄の側に身を寄せて 考をその拠り所としてゐたもののやうである。」 いるのだ。 平安京の人々にとっては空海より最澄のほうが重要だっ 小西が、最澄になど目もくれず、ひたすら空海を重視し たと述べているのだ。 『源氏物語研究序説』の刊行は一九五九年。小西の『文鏡ていたことは、『文鏡秘府論考』のみならす、『日本文藝 秘府論考』の第一分冊の刊行は一九四八年で、この業績に史』においても明らかである。むろん、空海は文芸の対象 にはなっても最澄はならない。最澄は宗教者に徹したのだ よって、五一年、学士院賞を受賞している。『文鏡秘府論』 といっても いい。だが、俊成や定家の歌論に決定的な影響 すなわち空海編の中国詩論集成を論じたものである。第二 分冊は五一年、第一分冊の再刊が五二年、第三分冊の刊行を与えたのは『文鏡秘府論』ではなく『摩訶止観』であっ が五三年。受賞時、小西は三十五歳。若いが、ちなみにい ト西は、俊成の『古来風体抄』に「かの天台『止観』と えば三年遡る一九四八年に学士院賞恩賜賞を受賞している 申す書の序のことばに、止観の明静なること前代も未だ聞 家永三郎は三十四歳である。年齢については話題にするほ どのことではない。いずれにせよ、阿部は小西の五歳年上かず」という句があることを指摘し、定家の日記『明月 だが、学士院賞を受賞した小西の『文鏡秘府論考』を読ん 記』に、『摩訶止観』の書写の開始と完了が克明に記されて いることを確認している。「文学」一九五二年二月号掲載 でいなかったとは考えにくい 空海が詩人、 , 文章家として日本文学のなかに屹立する存の論文「俊成の幽玄風と止観」である。着眼は鋭い。文学 在であることは指摘するまでもない。だが、平安の昔から的覚醒と宗教的覚醒が別のものではありえないことを、こ の段階で直観しているのである。とはいえ、繰り返すが、 現在にいたる京都の風土のなかで、空気のように浸透して それを本質的な問題として追及することはついになかった いたのは叡山の僧侶たちの振る舞いであって東寺のそれで わけだ。 はなかった。真言に帰依した西行は異質であったとさえい 阿部はある意味で小西の正反対の学者である。小西は随 える。阿部の筆致から見えてくるのはその事実だ。阿部の 最澄贔屓はたとえば「だが間もなく空海から煮湯をのまさ所で和辻哲郎への敬愛を披瀝しているが、要するに和辻同 れることになった。空海が自分で一宗を創立することを思様の切れ味の鋭い秀才である。阿部は違う。逡巡を隠さな 。あくまでも源氏五十四帖の内側で勝負すべきだと繰り ひたったらしい。理窟としてはわかりきってゐる本質論を っ ) 0 ふみはじめ 246