ー子とを見た 0 な。 0 を ちゅうべい みなさんは、中米にあるコスタリカという国を めんせき 知っていますか ? 面積は日本の九州の 1 4 倍。 人口は 370 万人で、九州のたったの 4 分の 1 。ず いぶん小さな国ですね。 日本の弁護士さんたちが、 2000 年にこの国を かんげい 訪ねました。歓迎の昼食会で、カレンさんという年 ばい 配の女性があいさっしました。「みなさまが、この ぐんたい ひつよう 小さな国コスタリカと同じように、軍隊をもつ必要 がないという考え方をもっていらっしやるのを知っ かんげき て、たいへん感激しています。コスタリカは、軍隊 はいらないという考え方を、国民みんなが共有し ている国です。」最後にカレンさんは、「毎月 1 日 かんきよう に、世界から軍隊をなくし、平和と地球環境を守る ため、ごいっしょに白いリホンをつけませんか。」と ていあん 提案したそうです。 コスタリカでは、 1948 年にフィゲレス大統領か せんげん せいふ しました。「今日かぎり、コスタリカ政府は マー宀 つ旦 軍隊をすべてなくす。軍隊は、くりかえし国民をカ みんしゅてき だんあっ ずくで弾圧してきた。わたしたちは、民主的な話し ふき えら せいけん あいの道を選ぶ。政権をささえるための武器は、も たてもの しようはくぶつかん ういらない。軍隊の建物は、教育省と博物館につ くりかえる。」 カレンさんは、このフィゲレス大統領の夫人でした。 べん ねん きようゆう だいとうりよう ふじん
あわごん に立ったのが、沖縄戦で一人息子を死なせた阿波根 資料館のかべにはこう書いてあります。 しようこう けん 「剣をとるものは剣によってほろびる。」 昌鴻さんです。米軍に対して、阿波根さんたちはこう 「基地をもつ国は基地でほろび、核をもつ国は核でほ たたかうことを申しあわせました。 ぺいぐん 「米軍には反対するが、アメリカとアメリカ人全部を ろびる。」 敵と見ない。怒ったり悪口をいわない。正しい行動をと 阿波根さんは、よく米軍にこういったそうです。 おうたい 「わしは、あなたがたの国がほろぶのは好まんからね。 る。ウソはぜったいにいわない。米軍に応対するとき、 基地は自分の国にもって帰りなさい。ヒトの国に基地を モッコ、カマ、ホウ切れなどを手にもたない。耳より上に せんそう 手をあげない。大きな声をださない。静かに話す。道理 おいて戦争の準備をしていると、戦前の日本のように おそ を通してうったえる。軍を恐れない。人間として農民の ほろんでしまうよ。やめなさい。」 ほうが軍人にまさっている自覚をわすれない。破壊者で 基地は、アメリカ国民のためにもならない。阿波根さ ある軍人を教えみちびく心がまえを、たいせつにする。」 んは、心のそこからそう信じていたのです。 2002 年 3 阿波根さんが 1984 年に 83 歳でつくった、反戦平和 月、阿波根さんは 1 01 歳で亡くなりました。 しりようかん てき じゅんび のうみん はかいしや じかく はんせんへいわ
この経験をつうじて、アダムスさんは、世界の平和と じよせいせいじ 女性が政治に参加することがどんなにたいせつかを知 せいきまっ せんそう りました。 19 世紀末のスペインとの戦争にも強く反対 したアタムズさんは、 1 91 4 年に第 1 次世界大戦がは じまると、女性の平和運動の先頭に立ちました。つぎの 年には、アメリカ中から 3 千人も集まったワシントンの女 性平和大集会で、女性平和党がつくられ、その代表に えらはれました。党員は、 2 年間で 4 万人をこえました。 これにはげまされたヨーロッパの女性たちから、戦争 こくさいかいぎ ていあん をやめさせるための女性の国際会議が提案されました。 ちゅうりつこく 戦争中でしたか、中立国だったオランタのハーグでの こんなん 会議には、困難をのりこえて、 12 の交戦国と中立国か ら 1136 人もの女性が参加しました。 けいけん さんか こうせんこく 会議のあと、アタムズさんたちは各国をたすねて戦 しどうしゃ 争をやめるようにいいましたが、どこの国の指導者も真 けん 剣に耳をかしません。アダムスさんは、アメリカのウイル せっとく ソン大統領をひっしで説得しました。しかし、ついに 1917 年 4 月、大統領はアメリカも戦争に加わることを 議会に提案します。シャネット・ランキンさんが、 49 人 の男の議員といっしょに戦争に反対したのはこのときで した。ランキンさんは、女性平和党の党員だったのです。 大戦が終わったっきの年の 1919 年、スイスでの第 2 回国際女性会議で W に PF がつくられ、アダムスさん が会長になりました。女性平和党は W に PF のアメリカ 支部になり、 1 924 年には日本支部もできます。 1 931 年、アタムスさんはノーベル平和賞を受賞しました。 かっこく だいとうりよう くわ しよう
そのなかから、それまでだれも考えつかなかったアイ ティアが生まれました。核兵器をもっている国にいくら こくれん こうか 働きかけてもあまり効果がないので、いっそのこと国連 こくさいしほうさいばんしょ の国際司法裁判所にうったえてみたらどうだろう。で きかんかっこくせいふ も、うったえられるのは国連の機関か各国の政府だけ。 そこで、デュースさんたちは、核兵器のおどしや使用を 国際法で裁くための「世界法廷プロシェクト」を、 1986 年に出発させました。 てき 運動はたちまち国際的に広がり、マレーシアやインド せつきよくてききようりよく ネシアなどの政府が積極的に協力してくれました。し かし、アメリカとフランスなどの核をもつ国ははげしく反 かくへいき さば せかいほうてい 対し、いろいろとじゃまをしました。それでも、とうとう そうかい 1994 年の国連総会で、国際司法裁判所にうったえる けつぎ ことが決議されました。 オランダ・ハークの国際司法裁判所では、賛成・反 対の意見がはげしくぶつかりました。しかし、 1996 年 7 さいばんかん 月、裁判官の全員一致で、「核兵器のおどしと使用は いつばんてき いはん けつろん 一般的には国際法に違反する」という結論が、世界で はじめてくだされました。いまや世界的な平和運動家に なったテュースさんは、この貴重な決定を核兵器をも つ国に守らせるため、日本のヒバクシャの絵と出あっ た、あの 30 年近く前の決意を新たにしています。 さんせい いっち きちょう 語を・第・
そのコスタリカでも、軍隊をまたっくって、アメリ せいじか どうめい 力と軍事同盟をむすぶべきだといいだす政治家か だいとうりようせんきょ でてきました。 1986 年の大統領選挙では、その点 あらそ がはげしく争われました。しかし、国民の多くは、 ひふそうちゅうりっせいさく 非武装と中立政策を守りぬくアリアスさんを大統 こくれんそうかい まね 領に選びました。国連総会に招かれたアリアスさ んは、とうとうと演説しました。 ぶき 「わたしは、武器をもたない国からきました。わた せんしゃ したちの国の子どもたちは、戦車を見たことがあり じゅう ません。武装したヘリコプターや軍艦どころか、銃 さえ見たことがありません。」 くうばく 国内のひどい戦争とアメリカの空爆の下で育っ た、アフカニスタンの子どもの詩とくらべてみてく ださい。 「わたしは、戦車、自動小銃、地雷なら知ってい ます。 / でも、『平和』というのがどんなものか知 りません。 / 見たことがないからです。」 アリアスさんは、コスタリカのとなりの国ぐにで つづいていた武力による争いを、みごとに話しあ しよう かいけつ いで解決し、 1997 年にはノーベル平和賞を受賞 しました。 ぐんび 「平和を実現する力のある大国が、なぜ軍備を ふやすのですか ? 戦争にではなく、平和にお金 を使ってください。軍事基地づくりにではなく、人 間づくりにお金を使ってください。」 アリアスさんの、私たち日本人へのメッセーシで す。みなさんは、どう思いますかフ 噌鰰 0 気 えんせつ ぐんかん ら = じつげん
植民地支配」とたたかう はい しよくみんち じよせい 南太平洋の女性たち ひなん ぐんじん かくじつけん たいせん けいい ちはほかの島に避難しました。けれども、そこでは せいぜい 1 か月ほどのことだと思い、島の人た を終わらせるためのものだ。」 こなう爆弾の実験は、人類の幸福をめざして戦争 じんるい せんそう ばくだん キニ島にやってきて、こういいました。「これからお 戦まで日本の植民地だったマーシャル諸島のヒ しよくみんち 1946 年、ひとりのアメリカの軍人が、第ニ次大 のないふるさとでした。 ら平和にくらしてきた、生活の場であり、かけがえ こも、先住民族の人びとが何千年以上もむかしか たとでもいうのでしようか ? とんでもありません。ど オーストラリアの中央部には、人か住んでいなかっ た。実験場とされたマーシャル諸島・ポリネシア・ はなれた太平洋で、 317 回も核実験をおこないまし アメリカ・イギリス・フランスは、自分の国から遠く 第 2 次大戦のあと、国連の常任理事国となった こくれんじようにんりじこく すためです。 はたしている重要な役割に共感し、敬意をあらわ じゅうようやくわり すうえで、太平洋世界に住む先住民族の人びとの よんでいます。それは、核兵器のない世界をめざ かくへいき は、先住民族のマオリにならってアオテアロアと せんじゅうみんぞく ニューシーランドのことを、ケイト・テュースさん
せいと せんそう アフカニスタンへの戦争に反対したケイティ・シェラ したがわなかった生徒は、学校をやめさせられ、親も ばっ さんの事件は、第 2 次世界大戦中に同じウェスト・ 罰せられました。 2 千人以上の生徒が学校を追われま ヴァーシニア州でおきた、もうひとつの事件も思いおこ した。しかし、ウェスト・ヴァーシニア州では、小学生の バーネット姉妹のお父さんが裁判をおこしました。そし させました。 けんぼういはん アメリカでは、 19 世紀末のスペインとの戦争のときか て、国旗敬礼と忠誠のちかいの強制は憲法違反だとす こっきけいれい ちゅうせい はんけつ るみごとな判決を、国の最高裁で勝ちとったのです ら、国旗敬礼と国への忠誠のちかいを、いくつかの州の きようせい 戦争中の 1943 年のことです。 学校で強制するようになりました。それが第 1 次大戦 はんじ でほかの州にも広がり、第 2 次大戦でとうとうアメリカ ジャクソン判事は、判決でこうのべました。 「アメリカ憲法という星座にぜったい動かない恒星 中の学校に広がったのです。人びとを戦争にかりだすに あいこくしん こくみん ひつよう あるとすれば、それは、政治・ナショナリスム・宗教た は、愛国心にもえた国民づくりが必要だったのですね。 きようせい 国旗敬礼の強制は憲法に違反する じけん せいきまっ さいこうさい せいざ こうせい しゅうきよう けんほ。う はんじ じけん バ - ネット第件と ? ャクソン判事 ー 22
ランキンさんは、「国と国の争いは、ぜったいに ほうほうかいけつ 戦争ではない方法で解決しなけれはならない」と、 つよく信じていました。そこで、アメリカが第 1 次 くわ せかいたいせん 世界大戦と第 2 次世界大戦に加わるのを、 2 回と ぎかい さいしょ も議会で反対したのです。最初は議員になったは かりの、わすか 27 歳のとき。このときは、男の議員 49 人のなかまがいました ( 374 : 50 ) 。でも、ラン せんきょ キンさんはつぎの選挙で落選しました。なんと 34 年後の 2 回目も、 2 度目の議員になったはかりの ときでした。ランキンさんは、すでに 61 歳。今度は しんじゅわん たったひとりきりでした ( 388 : 1 ) 。日本の真珠湾 こうげき し、か 攻撃で、アメリカ中の人びとが怒りくるっていたの です。しかし、ランキンさんはいいました。 「戦争に勝者はいない。」 みなさんは、 2 つの世界大戦でいったい何人の 人が殺されたか知っていますか ? 7 千万人です。 よく考えてみてください。それでも戦争に賛成した 議員たちが正しくて、ランキンさんがまちがってい たのでしようか ? とうひょう ランキンさんは、 2 度目の投票のあともまた落 選しました。しかし、 92 歳でなくなるまで、人権と 平和などをもとめる市民運動をやめることは、一度 もありませんでした。アメリカで平和な世界をもと そんけい める人たちは、いまでもランキンさんを心から尊敬 し、誇りに思っています。リーさんは、そのランキン なら さんにつづき、並んだのです。 あらそ せんそう だいいちじ しようしや さんせい じんけん しみん
きようき けんりよく どくさいしゃ 1933 年、狂気の独裁者ヒトラーがドイツの首相に えら きば 選はれました。権力をにきったヒトラーは、たちまち牙 ひはん をむきます。ヒトラーとその党のナチスを批判する政治 ちしきじんらんほう ごうもん きようせい 家や知識人を乱暴に逮捕し、拷問をして、殺すか強制 収容所に送りました。 多くの作家の本が、燃やされました。それは、おそろ しい前ぶれでした。後にナチスは、ヨーロッパ中からユ ダヤ人を強制収容所にかり集め、じつに 600 万人も殺 さつ して、火に投けこんだからです。ベルリンでも、 2 万冊 の本が燃やされました。ナチスを批判する作家は、ほと しゅしよう せいじ たいほ しゅうようじよ んどドイツからにげだしていました。たったひとりだけ、 34 歳の人気作家が自分の本が燃やされるのを見とどけて いました。 4 万人の見物人にまぎれ、ポケットの中のこ ぶしをギュッとにぎりしめながら。工ーリッヒ・ケストナー さんです。 ドイツにとどまれは、殺されるかもしれない。でも、愛 するお母さんを見すてるわけにはいかない。それに祖 国の苦難を最後まで見とどけるのが、作家である自分 の義務ではないか。ケストナーさんは、そう考えました。 きんし しかし、新しい本を書くことは禁止され、世界中の子ど くなんさいご ぎむ ヒトラーに屈しなかった作家 工ーリッヒ・ケストナー
とションさん、その妹で 1 3 歳のメアリー・ベスさんは、 腕章をつけて学校に行く決心をしました。それを知った 校長先生たちは、腕章をつけた生徒にはずすように いって、したがわなけれは停学にすることを申しあわせ ました。 1 2 月 1 6 日、 3 人は腕章をして登校し、ほかの 何人かといっしょに停学処分になりました。両親たちに さいばん よって、裁判かおこされました。地方裁判所ではまけま したが、それを国の最高裁判所でみごとにくつがえした のです。判決はこうのべています。 げんろんひょうげん 「生徒や先生が、校門を入ったとたんに言論と表現 けんぼう けんり の自由について憲法でみとめられた権利をすててしま しゅちょう う、などという主張はみとめられない。」「腕章をつけ わんしよう せいと ていがく しよぶん さいこう はんけつ ひなん せんそう たのは、自分たちがベトナム戦争を非難し、停戦を支 ていせん こうむいん しいですね。 反戦の言論をみとめるアメリカ民主主義を守りぬいてほ みんしゅしゅぎ 来て、ケイティさんを助けはじめました。校門の中でも、 つぎの年、ションさんはほんとうにチャールストンに したちの憲法によって許されない。」 ゆる 徒たちのこういう表現のしかたを否定することは、わた ひてい ひょうげん や混乱はおきなかった。したがって、州の公務員が生 こんらん はない。教室の外での議論はおこったが、学習の妨害 ほうがい ぎろん の仕事、ほかの生徒の生活をじゃましようとしたわけで るよう、身をもってよびかけるためだった。授業や学校 じゅぎよう 持していることを知らせて、ほかの生徒たちにもそうす