ムーア人 - みる会図書館


検索対象: るるぶ ポルトガル
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1. るるぶ ポルトガル

・ 0 第ら 0 朝 0 なリ 0 0.0 、 0 第 0 シ 0 こ、 ウな第第 00 な 00 い ・ら朝朝 00 ーず 0 い 0 ′ 0 0 ゞよ 0 ツリ 0 り 0 0 0 当、 : 0 : ー第 00 第 な 0 0 な 0 ・ 0 い′を第朝心 . 第・ 3 0 0 0 ロ叮 - ーロ、 0 朝 0 0 ら . 0 を .0 00.0 物ら、、 0 ロ 靆を当洋 ユみ莓視こ・誕 .- 立立ゞ第 上ーこ第 : ド、・ ・①緑豊かな自然と豪害な邸宅群 が美しく調和② 1000 年以上の 昔から天然水が湧き出るムーア の泉 (MAP/P51B2) 3 シント ラ駅。構内にも観光案内所があ る 0 レププリカ広場を中心と は散策も楽しい シントラ 11 、にハ - 白工 リスポンからØEXCURSION 0 Sintra 3P2 引 夏の避暑地として王侯貴族に愛され、英国詩人バイロンが“工デンの 園”と護えた街。山間に瀟洒な建物カ貯み、箱庭のような美しさだ。 リスポンの北西約 30km 、日帰り観刑也としても人気力皜い。 す文自然と美しく調和した 歴史あるロイヤル・リゾート る化 街歩き M MO ~ 8 世紀頃に築かれたムーア人 王宮中心に点在。ムーア の城が街の起源とされる。 1 147 人の城跡、ペナ宮は中 年にアフォンソ・エンリケスによりポ 心地からは離れている ルトガルに併合されて以降は、王家の レププリカ広場を中心 宮殿や責族らの荘園 ( キンタ quinta) に休患に最適なカフェ が置かれ、文化の中心地としても繁栄 や食堂が点在する した。緑深い山間に豪奢な城館が見え 隠れし調和する文化的景観の美しさか レププリカ広場周辺に みやけ物店が数軒揃う ら、 1995 年、世界遺産に登録された。 ペナ宮からの眺めは必見。 ムーア人の城跡からは 街の全貌を一望できる 園 午前中の眺めが抜群 ントラ駅前からは観光の基点で From リスポン あるレププリカ広場、ムーア人 鉄道 : R で 40 分、 6 ~ 24 時くらいまで。 の城跡、ペナ宮を循環する 434 番のバ 約 20 分おき ス ( 切符は車内で購入。同日内は何戸 観光案内所レププリカ広場 でも乗降可 ) の利用がおすすめ。ます MAP/P51 B 1 @Praqa da RepübIica 23 は午前の眺望が素晴らしい城跡までバ 219-231-157 スで直行し、その後ペナ宮へ。最後に広 の 9 ~ 20 時 ( 10 ~ 5 月は ~ 19 時 ) 場に戻り王宮を見学すると効率的だ。 のなし ーホルトガル ショッピンク 眺望 〇〇 A C 0 S S 6 ムーア人の城跡から望むべナ宮のタ景 6 ムーア人の城跡。街か らは約 3km 離れている・レププリカ広場界隈にはレストランやカ フェ、みやけ物店が集まっている 3 荘園を意味する "QUINTA" の プレート⑨王宮の噴水。散水中庭なと水を使った造りが多い

2. るるぶ ポルトガル

ハ 1 、 アラブの間 厨房 Sala dos Arabes Cozinha 緑、青、白など 15 世紀にセ 33m の高さと円錐 型が特徴的な 2 本の ビーリヤで焼かれた多彩 色のアズレージョが壁を 煙突の下に位置。火 飾る。ムーア人たちは中 災を警戒したため、 他の部屋から極力 央に施された噴水を取りアズレージョは国内に 山岳の湧き水を使って 離れた場所に造設。 囲んで宴を催したという。現存する最古のもの 調理が行われた マヌエル 様式の棟 マヌエル 1 世の時代 に増築された建物 東部分。優美な装飾 が美しいアーチ型 をしたマヌエル様 式の窓などが残る。 王宮正面に向かって右 側の建物の窓 白鳥の広間 Sala dos Cisnes 宮廷舞踏会場として用いら れた大広間。ジョアン 1 世 が、英国に嫁いだ娘カタリ ーナの幸福を願い造らせた。 生涯伴侶を変えす夫婦円満 の象徴とされる白鳥が 27 羽、天井に描かれてし、る。 化英 を国 らフ ・立ち寄り みどころ S P 0 T 王宮 PaIåcio Nacio れ de Sintra 、 / 0 MAP ー 王家のドラマを見守り続けた 絢爛家華な夏の離宮 ーア人が残した建物を礎とし、 13 世 紀末にディニス王が王宮の原型を整 14 世紀初頭、ジョアン 1 世が大増改築工事を 行い王宮の基礎を築いた。その後も歴代王は 栄華と美意識を誇示するため、趣向を凝らし て増改築を繰リ返す。その結果、多様な建築様 式が渾然一体となった複合建築が完成した。 ・ 0 から徒歩 1 分 219-106-840 の 9 時 30 分 ~ 1 7 時 30 分の水曜朝毛 5 ↓ 1500 年、プラジ ルに“漂着”したカ プラルの紋章 紋章の広間 Sala dos Brasöes ドーム天井一面に 16 世紀の カササギの間 王侯員族の紋章が掲けられ た最上部の間。責族以外に、 SaIa das Pegas 航路開拓の功績を称えられ ジョアン 1 世の治下、宮廷で たヴァスコ・ダ・ガマやカプ 起きた浮気事件に由来する ラルの紋章もある。壁のア 部屋。カササギ ( お喋り、かし ズレージョは 18 世紀製。 ましいの意味 ) のモチーフと "POR BENNE' ( 善意の接吻 を意味する言い訳の言葉 ) の文字が天井一面を覆う。 ンント第をい 王宮内のショップ では日本語ガイド 毛 1 を販売。 0 →「浮気ではなく善意の キス」という弁明を意味 ↑この部屋でジョアン 1 世の キスシーンを王妃が発見 ! 4 →インド航路開 拓者ヴァスコ・ ダ・ガマの紋章 ↑ 27 羽の白鳥はすべて異 なる構図で描かれている へナ宮 PaIacio Nacio れ da Pena 0 ( 0 なるほと ! MAP ビリキータ Piriquita P51B1 ポルトガル シントラ郷土菓子の有名店 詩人が感嘆した イジャーダ ( チーズタ “工テンの園” ルト ) 毛 0.80 やトラ ヴェセイロ ( 卵黄クリーム入 緑深い景勝地シントラに りバイ菓子 ) 毛 1 .15 ~ など は、 1 9 世紀以降、多くの芸 の伝統菓子が評判のバステラ 術家も訪れるようになった。 リア。日持ちするケイジャー デンマーク出身の作家アン ダはおみやげにも人気。 テルセンやイギリス出身の 詩人バイロンもそのひとり。 ・から徒歩 3 分 @Rua das バイロンは自然と人工美が Pada 「 ias 18 お 219-231 - 595 の 8 時 30 分 ~ 20 時 ( 8 月は 調和した美しさを「エデン ~ 21 時 ) の火曜 の園」と称えたことで知ら れる。彼はシントラが誇る ケイジャーダ ( 下 ) とトラヴェセイロ 1764 年創業の老舗ホテル、 ローレンスに滞在し、代表 リスポンへ / 作『チャイルド・ハロルド カスカイス行きバス停 の巡礼』の一部をここで書 いたといわれている。 レジオナル・デ・シントラÆST ( Å 0 DE CAMINHO DE FERRO 王宮 テイボリ 0 ・ Palåcio Nacional de Sintra P51 レププリカ広場 砂 % ・・å ( a da Repüb/ica ローレンス レ 0 / ね 0 アの泉 FontedosM 「 05 サン・マルティーニョ教会 a de 550 Martinho 観光案内所 P50 ビリキータ P51 トウーリャス・バー “おとぎの城”を思わせる 鮮やかな色彩の複合建築 高 529m の山頂に聳え立つ宮殿。 マリア 2 世の夫フェルナンド 2 世 が着工し、彼の死後、 1580 年に完成。 ムテハル、バロック、マヌエルなど多彩 な建築様式が混在している。人工美の結 晶ながら、周囲の自然と不思議な調和を 成し、見る者に幻想的な印象を与える。 ・バス 434 番でペナ宮下車、徒歩 15 分。 ペナ宮入口まで行くミニバス ( 毛 2 ) もあ リ 219-105-340 の 9 時 45 分 ~ 19 時 ( 10 ~ 3 月は 10 ~ 18 時 ) 0 なし朝毛 11 ↑国内随一の眺望が 楽しめる→最後の住 人であるアメリア女 王の部屋や礼拝堂、 トルコ人のサロンな とがみどころ シントラ ム - の城跡 遥か大西洋まで見渡せる 絶好のピュースポット 0 宮から南に約 3km 離れた標高 450 m の山頂に、 7 ~ 8 世紀ムーア人 が築いた城跡。 1147 年にポルトガルを 建国したアフォンソ・エンリケスにより 攻略され、現在残るのは城壁のみ。城壁 の上は歩けるようになっており、眼下に はシントラの文化的景観が広がる。 朝バス 4 番でムーア人の城跡下車、徒歩 15 分なし朝 9 時 30 分 ~ 20 時 ( 9 月 16 日 ~ 4 月 30 日は 10 ~ 18 時 ) 0 なし朝毛 5 CasteIo dos Mouros 200m MAP ー ホルトガル最古のホテルとされ るローレンス ( MAP / P51 BI) •wmv.lawrenceshotel.com/ 第ア人の城跡 as d05 Mouros P51 ペナ宮 P51 へ SINTRA もやがかかりやすい高地のため 見学は晴天日の午前中に シントラ

3. るるぶ ポルトガル

ボと を最続 端海 一工岸 訪ねてみたい 4 つの街 ①ラゴスから西は険し タヴィラⅷ 0 3P2 〔 2 ファロ 03P2 〔 2 い断崖が増えていく ②リゾートでゆったり アルガルヴェ地方の中心地 古代の足跡が残る街 と過ごしたい 3 西側 月にはアーモンドの白い花々が街 ペイン国境とファロの中間にあり、 一帯の海洋線には高級 リゾートが集中する 古代ローマ人やムーア人の足跡が を彩るアルガルヴェ地方の首都。 アルコ・ダ・ヴィラなどみどころが多く、 残るみどころが多い。ジラオン川沿いの 新鮮な魚介類を使った料理も楽しめる。 漁港と魚市場はのんびリした雰囲気。 。 m リスポン 。 m リスポン 鉄道 : オリエンテ駅から Alfa で所要約 3 時間 鉄道 : オリエンテ駅から A げ a または℃でファロ 20 分、℃で所要約 4 時間、 1 日 6 本 へ。 R に乗り換え所要約 40 分、旧 6 本 バス : セッテ・リオス・バスターミナルから バス : セッテ・リオス・バスターミカレから所要約 4 所要約 3 時間 15 分。 1 日 1 1 本 時間 15 分。 1 日 8 本 6 観光案内所ミセルコルティア通り 観光案内所ガレ丿ア遡丿 @Rua da Misericördia 8 289 03-604 @Rua da Gale 「 ia 9 281-322-511 朝夏 朝 9 時 30 分 ~ 19 時 ( 冬期は ~ 17 時 30 分 ) 0 なし 期 : 9 時 30 分 ~ 19 時 / 冬期 : 9 時 30 ツイ 分 ~ 13 時、 14 時 ~ 1 3 世紀建造の 17 時 30 分 ( 火 ~ 木 カテドラル。ル 曜は 9 時 30 分 ~ 17 ネッサンス様第 時 50 分・なし 式の内部装飾 ムーア人の城跡 が見事 ラゴ、ス 905 OP2C1 サクレス 5 。 9 OP2Cl 工ンリケ航海王子も響らした地 ユーラシア大陸西端の街 0 ゾート地、また漁港として南部の 世紀初頭にエンリケ航海王子が航 拠点となっている街。 海学校を創設した街で、当時は帆 F 。 m リスポン 船が発着する大きな港があった。ヨーロ 鉄道 : オリエンテ駅からトウネス乗リ換え ッ / ヾ最西南端のサン・ヴィセンテ鉀から で AIfa は所要約 3 時間 35 分、℃は所要約 4 時 は大西洋に沈む美しいタ陽を眺められる。 間 15 分、 1 日 6 本 F ′ om ラゴス バス : セッテ・リオス・バスターミナルから バス : バスターミナルから所要約 1 時間。 1 日 所要約 4 時間、 1 日 10 本 10 ~ 1 2 本 6 観光案内所ヴァスコ・ダ・ガマ通リ 6 観光案内所コマンダンテ・マトン通り 間を通して温暖な気候で、ヨ @R聞 Vasco da Gama 282-763931 朝 9 @Rua Comandante Matoso 8 お 282- ーロッパからバカンスに訪れる 時 30 分 ~ 19 時 ( 土・日曜は 9 時 30 分 ~ 13 時、 624-873 の 9 時 14 時 ~ 17 時 30 人が多い。約 160 の海岸沿いに街 30 分 ~ 12 時 30 分 ) 。 10 ~ 6 月は 分、 13 時 30 分 ~ 17 ④狭い小径が入り組むファ が点在しているが、周遊するならリ 9 時 3 0 分 ~ 1 3 時 30 分 0 日・月 ロの旧市街。イスラム・ア 時、 14 時 ~ 17 時 スポンからポルトガル国鉄の特別特ラブの雰囲気が残る 6 タ 曜 30 分 010 ~ 6 月 ヴィラの海岸沿いでは塩田 瓧の南西約 1 km 急 AIfa が発着するファロを起点にし の土・日曜 に位置するサグレ を目にすることができる 6 岩場のビーチが多い よう。ファロには国際空港もある。 伝統的な建築物の装飾 ス要塞からの眺め 別レガルヴ土 イスラム・アラブの影響が 色濃い南部の街々 7 A 0 0 E 5 5 A C C 第 S S AIgarve 1 1 年から始まったイスラム・ アラブ勢力のムーア人による イベリア半島支配。アルガルヴェ地 方はイスラム・アラブ勢力が最後ま で残った地だったことから、今もそ の影響が色濃く残る。白壁の家々や 入り組んた路地、バテオ、テラスな どは、約 500 年にわたり支配してい たムーア人たちの文化の名残た。 0 A C C E S 、 A C C E 、 S アルガルウの街めぐりは ファロを起点に ツを第彡妻一一 年 た , ヨーロッパ屈指のリソト ま れ新大陸への中継地とぼ発展 花 か の 街 マデイラロ 豸アソーレス島 か ArquipeIago da Aqores 四 P2 下 す伝説の湖が美しいサンミゲル島 つの島で形成される大西洋上 の 9 の火山群島、アソーレス諸島。 大 その中で最大面積を誇るサン・ミゲ ル島は、火山の噴火でできた「緑の 自 湖」と「青の湖」の 2 色の湖カり合う 美しい景観が魅力。水の色が異なる のは恋を引き裂かれた王女と羊飼い が が流した涙のためと伝えられる。 る世界遺産のテルセイラ島 ソーレス諸島で 3 番目の規模 のテルセイラ島。 1980 年の一 て ) 地震で多くの建物が崩壊したが見事 に復興し、島の中心で歴史的な景観 の が残るアングラ・ド・エロイズモは ” 1983 年に世界遺産に登録された ①静寂に包まれた神秘の湖 ( サン・ミゲル島 ) 々サン・ミゲル島 ②アングラ・ド・エロイズモ ( テルセイラ島 ) テルセイラ島 From リスポン 飛行機 : 所要約 2 時間 15 分。サタ空港 om リスポン SATA などが 1 日に 2 ~ 3 便ほと運航 飛行機 : 所要約 2 時間 40 分。ポルトガル From ポルト 航空 TAP が 1 日に 1 ~ 2 便ほど運航 飛行機 : 所要約 2 時間 20 分。サタ空港 観光案内所ティレイタ通り SATA などが 1 日に 1 ~ 2 便ほど運航 @Rua Di 「 eita 70-74 295-213-393 の 9 ~ 18 時 0 土・日曜 観光案内所インファンテ・ドンエンリケ大通リ @Av.lnfante D. Henrique 296-285-743 朝 9 ~ 18 時 ( 土曜は ~ 13 時 ) 0 日曜、 10 ~ 6 月の土曜 い試・の一二一ン llha da Madeira P2 下 スポンの南西、約 1000km の 大西洋に浮かぶマテイラ諸島。 その中心となる最大の島、マデイラ・ - 島はヨーロッハ有数のリゾートとし て発展し、海や山のアクティビティ を楽しむ人々で賑わっている。 19 年、ポルトガル人探検家、 ショアン・ゴンサルヴェス・ ① 1 年中花が咲き誇る サルコによって発見され、大航海時 ため「花かごの街」と 代には新大陸への中継地として栄え 呼ばれる②島は深い 緑で覆われていたため た歴史をもつ。砂糖の買付けに訪れ マテイラ ( 木の意味 ) と たコロンプスは現地領主の娘と結 名付けられた 3 活気あ るラヴラドーレス市場 婚。フンシャルで航海論を学んた。 Tem a 0 ポルトガル From リスポン マデイラ島の 2 大みやげ 飛行機 : 所要約 1 時間 40 分。ポルトガル 航空 TAP なとが 1 日に 9 ~ 10 便ほど運航 島を代表するみやげの From ポルト ワインと刺繍。観光案内 所から徒歩 1 分のオール 飛行機 : 所要約 1 時間 55 分。ポルトガル ドプランティ・ワインロ / を 航空 TAP などが 1 日に 3 便ほと運航 ッジでは毛 6 程度から購 観光案内所フンシャル 入可。刺繍はみやけ物店 @Av. Arriaga 18 291 ー 211 ー 902 なとで手に入る。 の 9 ~ 19 時 ( 土・日曜は ~ 15 時 ) のなし、一一一一一一 . ー , ーーー 三第一を なるほど ! A C C E S S A C C E S S A 0 0 E S S 刺繍の制作風景 ( 上 ) と マテイラワイン ポルトガル

4. るるぶ ポルトガル

Azulejos を彩り伝統の装飾タレ しガ ) 効 ・ポル ) 街を歩けばど女も りれる装タイルぐアスレーショ。 や通り駅やレストランの内壁なと さた、風匇冫。ぇ 、でとのよ、アスレーショと邂逅する、も、 歩きみ = の一つた。 ーアズレージョとは ポルトガル建築の内壁、 外壁を問わす敷き詰めら れる採色タイルのこと。 装飾用であると同時に、 室温管理の機能ももっと いう。語源は諸説あリ、 アラブ語で「モサイク」 を意味するアズレーシャ Azuleycha 、もしくは青 を意味するアズールⅵ。 歴史や文化の影響を受け、 時代により特色が異なる。 起源と歴史 14 世紀初めにスペイ ンのセビーリヤから輸入 した、ムーア人伝承によ るタイルが起源。これを 基に 16 世紀よりホルトガ ル独自のタイルが作られ 始めた。当時は教会や王 宮を飾るものとして使用 された。 18 世紀には「巨 匠の時代」と呼ばれる黄 金期を迎え、高い需要に 応した大量生産が行われ る。これが民間の邸宅建 築にも浸透し、身近なア ートとして今も独特な街 の雰囲気を演出している。 原料となる土を押し出して成形し、タ 製造工程 イル用の寸法カット ( 一般的には約 5 四方 ) を施す。自然乾燥させてから一次焼成 ( 素焼き ) 。 宮飾 その後上薬をかけ、絵付け工程に進む。柄の輪郭に針で 王をョ の間ジ 穴を開け、中に墨状の塗料をまぶし込み、べースとなる ラ広一 点線を転写して下絵とする。この下絵に筆で色を入れた トのレ ン章ズ 後、ニ次焼成を行う。これでできあがりー シ紋ア 20

5. るるぶ ポルトガル

zulejos を彩り守伝統の装飾タレ ・ホルル街を歩けはと女も 見りれる装タイル、アスレーショ。 や通り駅やレストランの内壁なと また景に耕丿冫小、ん ラてよ、アスレーショと邂逅する、も、 20 アズレージョとは ポルトガル建築の内壁、 外壁を問わす敷き詰めら れる採色タイルのこと。 装飾用であると同時に、 室温管理の機能ももっと いう。語源は諸説あり、 アラブ語で「モサイク」 を意味するアズレーシャ Azuleycha 、もしくは青 を創未するアズールルⅵ。 歴史や文化の影響を受け、 時代により特色が異なる。 起源と歴史 14 世紀初めにスペイ ンのセビーリヤから輸入 した、ムーア人伝承によ るタイルが起源。これを 基に 16 世紀よりホルトガ ル独自のタイルが作られ 始めた。当時は教会や王 宮を飾るものとして使用 された。 18 世紀には「巨 匠の時代」と呼ばれる黄 金期を迎え、高い需要に 応した大量生産が行われ る。これが民間の邸宅建 築にも浸透し、身近なア ートとして今も独特な街 の雰囲気を演出している。 原料となる土を押し出して成形し、タ 製造工程 イル用の寸法カット ( 一般的には約胸 5 四方 ) を施す。自然乾燥させてから一次焼成 ( 素焼き ) 。 宮飾 その後上薬をかけ、絵付け工程に進む。柄の輪郭に針で 王をョ の問ジ 穴を開け、中に墨状の塗料をまぶし込み、べースとなる 一ラ広一 トのレ点線を転写して下絵とする。この下絵に筆で色を入れた ン章ズ 後、ニ次焼成を行う。これでできあがりー シ紋ア 20

6. るるぶ ポルトガル

活捧模る 生が規す のり、在 々祈は存 人い院も は熱寺に 教、や街 き会の 付教ど リ根るす くれわ 。深ら問 るにげを キきのあ なで民で 正ん国徒 〃純歩も教 降しフッ 加以とリ 朝夕家 キ教トが ~ ー物、 ントル % 朝コスポ レリた約 ↑←世界遺産の 事れキリスト修道院。 こ心国内最大規模の シトー派の修道院た。 美しいロマネスク様式による テンプル騎士団の円堂は エルサレムの聖を モテルにしている ( トマール ) い新山、し ←キリスト修道院内 ジョアン 3 世の回廊。 ホルトカル王戴冠の場に ちなみ“フィリべの回廊 ' とも呼はれる ( トマール ) ←↑ポルトカル建国の王 アフォンソ・エンリケスが 建設したサンタ・マリア修道院。 美しいレリーフが施された " 沈黙の回廊 " が美しい。 世界遺産に登録されている ( アルコハサ ) オ百 → P57 遥か昔、紀元前にはフェニキア人、 のちにローマ、ゲルマン、ムーア ( イスラム・アラブ ) など、 諸民族の治下で各文明の洗礼を受けたポルトガル。 やがてレコンキスタ ( ↓ ) を経、キリスト教国として .8 一丸となり海外進出を遂げた大航海時代には、 加西洋と東洋という 2 つの対極を結び付ける立役者となった。 交わった民族と文化の多様さがこの国の歴史を紡ぎ、 独特でしなやかな自我を生み出した。 過去の鼓動を ムフに伝、充る → P56 ↑サンタ・マリア修道院の 教会内には、悲恋の恋人、 ペドロとイネスの棺を安置 ( アルコノヾサ ) 一 P56 ↓ドウロ川とミ ニョ川に挟まれた緑豊かな地区が 世界 3 大酒精強化ワイン、 ポートワイン発祥の地 ( ポルト ) → P イ 2 →世界遺産に登録された 重な建造物が数多く残る 歴史地区 ( ポルト ) ポルトガル

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活捧模る 生が規す のり、在 々祈は存 人い院も は熱寺に 教、や街 き会の 付教ど リ根るす キくれわ 。深ら問 るにげを キきのあ なで民で 正ん国徒 〃純歩も教 降しッ 加以とリ タ家っト キ教トが」 " 。 ~ ントル % 朝コスポ レリた約 歴史的遺産 ↑←世界遺産の キリスト修道院。 、 ~ い第国内最大規模の シトー派の修道院た。 美しいロマネスク様式による テンプル騎士団の円堂は エルサレムの聖母を モテルにしている ( トマール ) ー↓ Q. 日ニ / ←キリスト修道院内 ジョアン 3 世の回廊。 ポルトカル王戴冠の場に ちなみ " フィリべの回廊 ' とも呼はれる ( トマール ) ←↑ポルトガル建国の王 アフォンソ・エンリケスが 建設したサンタ・マリア修道院。 美しいレリーフが施された " 沈黙の回廊 " が美しい。 世界遺産に登録されている ( アルコノヾサ ) ー → P57 遥か昔、紀元前にはフェニキア人、 のちにローマ、ゲルマン、ムーア ( イスラム・アラブ ) なと、 諸民族の治下で各文明の洗礼を受けたポルトガル。 やがてレコンキスタ ( ↓ ) を経、キリスト教国として . 一丸となり海外進出を遂けた大航海時代には、 西洋と東洋という 2 つの対極を結び付ける立役者となった。 交わった民族と文化の多様さがこの国の歴史を紡ぎ、 独特でしなやかな自我を生み出した。 過去の鼓動を ムフに伝、充る ↑サンタ・マリア修道院の 教会内には、悲恋の恋人、 ペドロとイネスの棺を安置 ( アルコノヾサ ) → P56 ↓ドウロ川とミ 二ョ川に挟まれた緑豊かな地区が 世界 3 大酒精強化ワイン、 ポートワイン発祥の地 ( ポルト ) → P 72 →世界遺産に登録された 員重な建造物が数多く残る 歴史地区 ( ポルト ) ポルトガル

8. るるぶ ポルトガル

ト・を 寝感 も昼舌ね つおて いでの感 際民 窓住 ポルタス・ド・ソル広場 Largo das Portas d0 S01 アルフアマ観光の拠点となる街の中心 テージョ川とアルフアマの景色が広がる、この界 隈きっての眺望ポイント。「太陽の扉」の意味の名を もつ。サン・ウイセンテ像が立つ広場には売店とテー 店先のウインドーに ブルがあり、休憩にも便 はお菓子がすらり 利なスポット。・① 28 番 = 、 キャロットケーキ La 「 go das Portas dO 毛 1 、カフェ毛 0.55 So のら徒歩すぐ バノラマで楽しめるテージョ 川のタ景もロマンチック 聖アントニオの菓子 BoIo de santo Antönio€2iS 名物、 . ポルトガルの守護聖人、サン・ヴィセンテの アルフアマ MAP/P31D5 サンタ・ルジア展望台、 Miradouro de Santa Luzia 青きテージョ川と鄙びた美しさのアルフアマを一望 カテドラルからトラムの線路小規模ながら存在感の を上ったところに位置する展望あるサンタ・ルジア教会 テラス。一角にあるサンタ・ルジ ア教会は外壁のアスレージョが 有名で、大震災以前のコメルシ オ広場と、 1147 年のムーア人 との戦いの様子が描かれてい る。朝① 28 番 M ⅳ adouro de Santa Luzia から徒歩すぐ フロール・ダ・セ Pa 引 e 0 Flör da “聖アントニオのお菓子 " で有名 カテドラル正面の近くにある老舗ハ ステラリア。 1914 年創業の老舗で、地 元の常連客が通う素朴な街のお菓子屋 さんといった雰囲気。ィートイン・ティク アウト用をはじめ、おみやけに最適なパ ッケージ入りの伝統菓子類も扱う。朝① 28 番 S 白から徒歩すぐ @Largo St0. AntÖnio da Sé 9-10-1 1 お 218-87 5-742 朝 7 ~ 20 時 0 なし アルフアマ MAP/P30D4 ム側の歩道をポルタ ス・ド・ソル広場へ向か う途中の右壁に、アル フアマの地図を描いた アスレージョがある 0 〇 アルフアマ M Åレ P 引 D5 〇 0 物当豊第朝第新 um POucc リスポン通 ー、 . ぐメ第けべ アスレージョの彩りが美しし、展望台 5 よこっとを ゲ下一 ミ 1 を口る ン円段は残 サ / 階こが て翩壁 カし右石 脇 ( 指の 場会目う代 ム教をよ時 アンティークの 掘り出しモノ探しへ ! 盗品市ではないが、なせか女 泥棒 ( ラドラ Ladra) と呼はれる 市場がある。土曜が特に盛況 で、ガラクタから、レース編や刺 繍などの特産品、古いコインや 古着まで並ぶ。骨董好きの人は 一度足を運んでみては ? サン・ヴィセン : ′ - ′ - テ・フォーラ教 会 ( → P41 ) の 脇道から店が 並び始める 泥棒市 Feira da Lad 「 0 MAP/P31C7 朝① 28 番厄「 eia de Säo Vicente de F 。「。から徒歩 3 分 朝火・土曜の 8 ~ 18 時頃 ( 冬期は ~ 14 時頃。店舗により異なる ) アルフアマの リスポンで最も古い街並みを残すアルフ アマ。路地をさ迷えば、庶民の暮らしやレト ロ & チャーミングな風景に出会える。 聖アントニオ祭の 落書き 。愛のお祭屮の際に描かれ た落書き。船員と魚売りのカ ンプルは港町定番のモチーフ 路地裏散策 古く狭い迷路めいた街を 猫の気分で気ままに歩く ムーア人の支配を受けた時 代、市の中心であったアルフ アマ。大地震の被害を免れた ものの、再建地域に中心機能 が移った後は漁師や労働者が 住む街となった。この界隈は 迷い歩く気分で散策を。サン・ ミゲル教会前広場からサン・ミ ゲル通りへ、さらにレゲイラ通 りを横切り、ペコ・ド・カルネイ ロ ( 羊の横町 ) を抜けていこう。 1. 窓にぶら下がる洗濯物に生活感かあふれる 2. 公衆浴場跡。 貧しいエリアのため水関連の施設は共同たった 3.4. 狭い路地 に差し込む太陽が白壁の家々に印象的な光と影を演出する , 路地裏 A 田 UM フアド博物 Museu do Fado フアドに関する貴重な資料を展示 ペコ・ド・カルネイロからシャファリ ス・デ・デントロ広場へ至れば、フアド 博物館へ到着。ここでは、音響や映像 を用いてフアドの歴史をわかりやすく 解説。ポルトガルギターの展示やファ ディスタの紹介なども。→ P 1 9 参照 夜更けのフアド フアドが聴ける店が多 く、音に惹かれて振り 返れはこんな風景も・ フィギュアで昔の アルフアマを再現 ゆったりとした空間で落 ち着いて見学できる を 子たくさんの家 狭い道の両脇にはためく 洗濯物。子供用 T シャツ、数 が多過ぎ・・・何人家族た ! ? スリム & スリルな トラム路線 道が細いからトラム同士 も、トラムと歩道の人も、 すれ違うのはスリリング ! LISBOA リスポン

9. るるぶ ポルトガル

8 世紀初め ~ お世紀中頃 ペドロとイネスの子、ドン・ジョアン ( ジョアン 1 世 ) が カスティーリヤとの国境を決めた アルカニゼス条約締結 ディニス王がリスポン大学設立。 エストレモスなどに城を築く アフォンソ・エンリケス ( アンリ伯の子 ) が る ポルトガル王国建国。コインブラに首都設置 送 を 使 、統新都都 呼本来改遷遷 卑、教化城安 国朝 代台和年年年年 時馬大 8 5 0 4 生邪】 3 4 1 9 LD ( 0 「ーマー 年年 頃 9 0 イスラム教徒のイベリア半島進入、西ゴート王国滅亡 紀 世 前 元 紀 ポルトガルの出来事 日本の出来事 日本とのつながりか深いホルトガルは有史以前からの 歴史的遺産が残るその長い歴史のなかで、 ホルトガルが黄金期を築いた大航海時代の幕開けから ホルトガル王政の終焉までをクローズアップして紹介 世界の価値観を - 新した 大航海時代の先駆け 1274 年・・・蒙古襲来 ( 文永の役 ) 1 281 年・・・蒙古襲来 ( 弘安の役 ) 1192 年・・源頼朝、 鎌倉幕府を開く 1385 、年・ ー 373 年・ 1348. 年 ー 297 ・ 1290. 圧・ ー 288 生・ ー 255. 年・ 1249 生・ ーー 87. 年 1179 生・ 1178 生・ 1143 年・ 世一・ 1064 年 997 ~ 平 878 生・ 868 生・ 0 722 年 718 生・ ~ 5 世紀 一「前紀元前 25 ー世紀・ 紀紀元前ー 000 年頃 バ世紀 ~ 76 世紀中頃 工ンリケ航海王子の 世界進出から大航海時代の黄金期 1415 年、エンリケ航海王子の指揮の . トルデシリャス条約 下、北アフリカの港町セウタ攻略を皮世界航海に進出していた レコンキスタと 切りに大航海時代が幕を開ける。工ンポルトガルとスペインの間 で領土の境界線を取り決 リケ航海王子の死後もジョアン 2 世のめた条約。東経 135 度から ポルトガル建国 指示で航路開拓はさらに活発になり、 西経 46 度までの東側をポ ルトガル勢力圏とした。 711 年、北アフリカからイスラム・アラブ勢力 1488 年のバルトロメウ・ディアスの 中世王国の確立と マヌエル様式・マヌエ のムーア人がイベリア半島に侵入し、約 6 世 喜望峰発見、 1498 年のヴァスコ・ダ・ ル 1 世の時代に発達した建 アヴィス朝の成立 紀にわたる支配が始まる。キリスト教に寛容 ガマのインド航路開拓、 1500 年のカ 築・芸術様式。海草やロー たったことで政治的には安定したが、キリス ブラルのブラジル発見、 1519 年のマ プ、天球儀など、海や船に 1249 年、アフォンソ 3 世が南部の街ファ ト教徒を中心にイスラム勢力に反発するレコ ゼランの世界一周と続いた。交易する・関するモチーフを多用した ロとシルウェスを征服し、ポルトガル全土 装飾が特徴。マヌエル様式 ンキスタが 718 年から始まる。この戦いには を インドやブラジルから香辛料や金銀な と呼ばれるようになったの のレコンキスタを終了させると、生産およ テンプル騎士団なども参加。ポルトガルの基 どの富を得て繁栄を極めた。 は 1 9 世紀に入ってから。 び外国との交易を中心とした経済へ移行 礎を創ったドン・エンリケ ( アンリ伯。のちのポ する。そして、中世ポルトガルはディニス ルトウカレ伯爵 ) はドウロ川以北とテージョ川 工ンリケ航海王子一〃 ( 1394 ~ 1460 年 ) 王の治世期に最盛期を迎える。王権の強 以南を奪回。その息子アフォンソ・エンリケス 尋 ) ポルトガル王ジョアン 1 世の第 5 子としてポルトに生まれる。ポルトガル 化に努め、 1290 年にはコインブラ大学 はさらにレコンキスタを進め、 1143 アルコバサのを の海外進出の先駆者であり最大の功労者。北アフリカのセウタ攻略に の前身となるリスポン大学を創設した。ま 年にポルトガル王国を建国した。 サンタ・マリア 参加し、帰国後はサグレス岬で航海者を育成した。 修道院 ( → P56 ) た、ディニス王の時代には農業も発達し、 レコンキスタ・・キリスト教徒を中心 に、 71 1 ~ 1249 年の長期間にわたりイ 都市と農村部の間でワインやオリーブオ マヌエル 1 世 ヴァスコ・ダ・ガマ ペリア半島を支配してきたイスラム教 イルなどの取引が盛んになる。 勢力を追放するための戦い。日本語で Ma イ I は国土回復運動と呼はれる。 ( 1469 ~ 1521 年 ) ( 1469 年頃 ~ 1524 年 ) テンプル騎士団・・修道生活と騎士 人物列伝 道が一体化した騎士修道会。第一次十「 ディニス王 D ム 1261 ~ 1325 年 ) 字軍遠征のときに創設された。レコンキ スタで活躍し、その功績に対してアフォンソ 1 世から 第 6 代ポルトガル王。王権の強化を積極的に進め、中 土地を譲り受け、堅牢な城塞を築いてその地をトマ 央集権化を推進する目的でローマ法を導入した。ま ールと名付けた。 13 世紀末、フランスの国王フィリッ た、その専門家を育成する学校を 1290 年にリスポン プ 4 世の陰謀によって解散に追し、込まれた。 に創設。これがのちのコインブラ大学となった。 } カブラル マゼラン な人物列伝 み 0 ノん C / ( 1468 年頃 ~ 1520 年 ) ( 1480 年頃 ~ 1521 年 ) アフォンソ・エンリケス ヴァスコ・ダ・ガマのインド遠征を引き継ポルトカル生まれの航海者。ポルトガル / 加 0 〃どお ( 1109 ~ 1185 年 ) いだ航海者。キリスト騎士団のメンバーの東方遠征に数多く参加するが、モロッ ポルトガル王国を建国した初代ポルトガル王。 1 179 年にロー でもあり、マヌエル 1 世の顧問官としてコ遠征でのムーア人との取引が王の不 マ教皇カら正式に王国の承認を得る。権力の基盤を強化する も仕えた。 1500 年、インド遠征の途中で審を買いスペインに亡命。その後、史上 & - ブラシルに漂着したことで知られる。 ため、アルコバサに修道院を建設し、レコンキスタを進めた。 初の世界一周航海を成し遂けた。 ポルトガ ' ル、 丘の頂上に立つ コインブラ大学 ( → P62 ) ロ」 - 三 . 当き・い ' をも攣い - お世紀後半 ~ 74 世紀後半 史上のキーポイント総ざらい 0 … 0 00 9 リスポンの発見の モニュメント ( → P35 )

10. るるぶ ポルトガル

= 8 世紀初め ~ お世紀中頃 ペドロとイネスの子、ドン・ジョアン ( ジョアン 1 世 ) が アルジェバロータの戦いでカスティーリヤを退ける 日イギリスとの攻守同盟条約 日ベストの大流行 カスティーリヤとの国境を決めた アルカニゼス条約締結 ディニス王がリスポン大学設立。 エストレモスなどに城を築く 日ディニス王がオビドスを王妃イサベルの直轄地にする 目サンショ 1 世がブラガンサの城を建設 日ローマ教皇がポルトガル王国を承認 日アルコバサの修道院着工 アフォンソ・エンリケス ( アンリ伯の子 ) が る ポルトガル王国建国。コインブラに首都設置 送 を 使 、統新都都 呼本来改遷遷 弥日伝の京京 ( ) 日アンリ伯がポルトを奪回 卑、教化城安 の廷仏大平平一 ) 目キリスト教がコインブラ入植 国朝 目キリスト教徒がポルト入植 代台和年年年 時馬大 8 5 0 4 0 コバドンガの戦い、アストウリアス王国成立 生邪【 3 4 1 9 頃 9 0 イスラム教徒のイベリア半島進入、西ゴート王国滅亡 ( 0 LO 紀 CV っ 世 前 元 紀 冒ローマ人によるイベリア半島支配 日フェニキア人のイベリア半島侵出 ポルトガルの出来事 日本の出来事 日本とのつながりが深いホルトガルは有史以前からの 歴史的遺産が残るその長い歴史のなかで、 ポルトガルが黄金期を築いた大航海時代の幕開けから ポルトガル王政の終焉までをクローズアップして紹介 世界の価値観を一新した 大航海時代の先駆け 1274 年・・・蒙古襲来 ( 文永の役 ) 1281 年・・・蒙古襲来 ( 弘安の役 ) 1192 年・・・源頼朝、 鎌倉幕府を開く 〃世紀〃世紀 紀元前 75 世紀 ~ 76 世紀中頃 工ンリケ航海王子の 世界進出から大航海時代の黄金期 1415 年、エンリケ航海王子の指揮のトルデシリャス条約 下、北アフリカの港町セウタ攻略を皮、世界航海に進出していた 切りに大航海時代が幕を開ける。工ンポルトガルとスペインの間 で領土の境界線を取り決 リケ航海王子の死後もジョアン 2 世のめた条約。東経 1 35 度から 指示で航路開拓はさらに活発になり、 西経 46 度までの東側をポ ルトガル勢力圏とした。 1488 年のバルトロメウ・ディアスの マヌエル様式・・マヌエ 喜望峰発見、 1498 年のウアスコ・ダ・ ル 1 世の時代に発達した建 ガマのインド航路開拓、 1500 年のカ 築・芸術様式。海草やロー ブラルのブラジル発見、 1519 年のマ プ、天球儀など、海や船に ゼランの世界一周と続いた。交易する関するモチーフを多用した 装飾が特徴。マヌエル様式 インドやブラジルから香辛料や金銀な と呼ばれるようになったの どの富を得て繁栄を極めた。 は 19 世紀に入ってから。 工ンリケ航海王子 1 〃 D 〃 ( 1394 ~ 1460 年 ) ポルトガル王ジョアン 1 世の第 5 子としてポルトに生まれる。ポルトガル の海外進出の先駆者であり最大の功労者。北アフリカのセウタ攻略に 参加し、帰国後はサグレス岬で航海者を育成した。 をマヌエル 1 世 第ヴァスコ・ダ・ガマ M / I “ 0 ゐ G 加 ( 1469 ~ 1521 年 ) ( 1469 年頃 ~ 1524 年 ) カブラル マゼラン ルみ。イん C な / ( 1468 年頃 ~ 1520 年 ) ( 1480 年頃 ~ 1521 年 ) ヴァスコ・ダ・ガマのインド遠征を引き継ポルトガル生まれの航海者。ポルトガル いた航海者。キリスト騎士団のメンバーの東方遠征に数多く参加するが、モロッ でもあり、マヌエル 1 世の顧問官としてコ遠征でのムーア人との取引が王の不 も仕えた。 1500 年、インド遠征の途中で審を買いスペインに亡命。その後、史上 & ブラジルに漂着したことで知られる。 初の世界一周航海を成し遂けた。 丘の頂上に立つ コインブラ大学 ( → P62 ) レコンキスタと ポルトガル建国 711 年、北アフリカからイスラム・アラブ勢力 中世王国の確立と のムーア人がイベリア半島に侵入し、約 6 世 紀にわたる支配が始まる。キリスト教に寛容 アヴィス朝の成立 だったことで政治的には安定したが、キリス 1249 年、アフォンソ 3 世が南部の街ファ ト教徒を中心にイスラム勢力に反発するレコ ンキスタが 718 年から始まる。この戦いには ロとシルヴェスを征服し、ポルトガル全土 のレコンキスタを終了させると、生産およ テンプル騎士団なども参加。ポルトガルの基 び外国との交易を中心とした経済へ移行 礎を創ったドン・エンリケ ( アンリ伯。のちのホ する。そして、中世ポルトガルはディニス ルトウカレ伯爵 ) はドウロ川以北とテージョ川 王の治世期に最盛期を迎える。王権の強 以南を奪回。その息子アフォンソ・エンリケス 化に努め、 1290 年にはコインブラ大学 はさらにレコンキスタを進め、 1143 アルコバサの の前身となるリスポン大学を創設した。ま 年にポルトガル王国を建国した。 サンタ・マリア 修道院 ( → P56 ) た、ディニス王の時代には農業も発達し、 レコンキスタ・キリスト教徒を中心 に、 71 1 ~ 1249 年の長期間にわたりイ 都市と農村部の間でワインやオリーブオ ペリア半島を支配してきたイスラム教 イルなどの取引が盛んになる。 勢力を追放するための戦い。日本語で は国土回復運動と呼ばれる。 テンカレ騎士団・・修道生活と騎士 人物列伝 道が一体化した騎士修道会。第一次十「 ディニス王 D なム 1261 ~ 1325 年 ) 字軍遠征のときに創設された。レコンキ スタで活躍し、その功績に対してアフォンソ 1 世から 第 6 代ポルトガル王。王権の強化を積極的に進め、中 土地を譲り受け、堅牢な城塞を築いてその地をトマ 央集権化を推進する目的でローマ法を導入した。ま ールと名付けた。 1 3 世紀末、フランスの国王フィリッ た、その専門家を育成する学校を 1290 年にリスポン プ 4 世の陰謀によって解散に追し、込まれた。 に創設。これがのちのコインブラ大学となった。 一 % ' 人物列伝 アフォンソ・エンリケス / 郷 0 〃″ィ 5 ( 1109 ~ 1 185 年 ) ポルトガル王国を建国した初代ポルトガル王。 1 179 年にローむ マ教皇カら正式に王国の承認を得る。権力の基盤を強化する ため、アルコバサに修道院を建設し、レコンキスタを進めた。 お世紀後半 ~ 74 世紀後半 0 0 00 9 こ ポルトガル、 リスポンの発見の モニュメント ( → P35 )