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39 国際政治学の間題設定 料理と帝国 オ 大 大 オ ウ ア 食文化の世界史 月 開 一橋本 ル斐矢 り ン フ オ ロ 紀元前 2 万年から現代まで 土 進 義ロ ヴ と ト テ閣根得 ヴ ロロ グ : 雄 ノレ ン′ ローダン大国の興亡と食文化の ェ現 0 和 社 。聡 ガ べ裕 ツ 関係をたどり壮大な歴史を描く。 。ィ 在 編 き イ ファ レ 食と政治、経済、社会、宗教の絡 卩 = : コ カ イ イ ケ イ ト -1 ァ ー。イ乍 みを詳述。ラッセル秀子訳 \ 6800 ノゝ ァ ケ 、モ ノレ国 ル ウ。 ァ ガ ウ。 ロロ . ス、 ン′ を・ ィ ネ上 ィ / 際平 ト -4 昆虫の哲学 ア政 不日 ッ コ ツ ン治研 ト ド ン′ ド カゝ ドルーアンアリストテレスから ト史究 ス 全亢 今日まで、昆虫が人間にひきおこ さ国世 ト ホ の の ー摩 ア した驚異と想像をたどる「生物多 車云 オ理未 も際紀 セ 圭 フ 様性」の認識論。辻由美訳 \ 3600 換 ・諭来 な関末 ク く 係 の ネ 新 グ岩任 の国 イ は、 科学の曲がり角 オ 自 市 リ 波 ヴ 幸理際 リ 由 0 書岩 場 外 福論関 イ オーセルー研究所が経済助成を 目ミ 社 8 店波 と ー衆 : 受けるとどうなるか。その起源を フ 0 圭 し の ム ポーア研究所とロックフェラー財 リ 店 て . 反 ・草昭 の の 団から考察。矢崎裕ニ訳予 \ 8200 ズ、 廾彡 の逆 書和 国 際 国 と 自筑 の 関 出会いを求めて 世 は . 歴匹 = 転 由摩 係 紀 何 史以 換 ⅱ間 新版 の か 的文 義房 李禹煥執筆から半世紀近くを経 東 展社 匹ニコ 0 有 あ てなお多くのヒントを与える評論 集。新たな表現論を模索し、表現 はどこから始まるかを問う。 \ 4000 ロ ロ ッ 洋 他の岬 リ ス 0 ゼ 義 ゲ経 0 シ ト ヨーロッパと民主主義 フ ン 0 ) ユ 病 の ハ テリダ移民問題とテロに揺れる 0 実ア ク ョーロッパと民主主義を考えるた ミ 態 グ 新 、社 ヴ リ 0 めに新たにおくる。高橋・鵜飼訳 0 イ ノ、 國分功一郎解説 [ 新装版 ] \ 2800 シ 。社 ト ン / 0 文 ド フ ヤ ス ス ア 歴史・レトリック・立証 0 フ - イ ギンズプルグ歴史 ( ヒストリ ( 0 ト -1 0 く 0 ン・ は虚構 ( フィクション ) なのか。 ト十一 ←ト 0 超 表象と真実とをめぐる歴史家の論 き 階 0 に = 0 集。上村忠男訳 [ 書物復権 ] \ 3500 0 級 ェ国 リ 際 0 グ 市 持続可能な発展の経済学 民 ト治 ロ 0 の ティリー環境 / 共同体の福祉 / 反福 貧困を橋渡しする環境マクロ経済 の 逆村 学の創始者の思想を凝縮。新田・ 0 帝 出 藏本・大森訳 [ 書物復権 ] \ 4500 0 0 版 国 現 東京文京本郷 みすず書房 5 丁目う 2 ・ 2 ー 井 民 tel.3 額 49B1 fax う 818-64 ョ 5 ( 税別 ) 圭 主 http://www.msz.co.jp ノ、 ノ、 二一口 ヾレ。、 ワ
な規模で作用するようになった ( GiII. 2003. ch. 10 ) 。これは社「異論」の批判的国際政治学は強靱なネオリアリズム総合の 会的ネオリべラリズムの拡大を促進する。テクノロジーの高体内に人り込み、これを揺るがすことができるだろう。「異 論」の批判的国際政治学の一部は豊かな内容を持っており、 度化につれ監視の装置は拡散し、刑務所、工場、オフィス、 ュニテたとえば一部のマルキシズムに注目すると、政治領域の相対 教室、会議室の外壁を乗り越え、ゲイティッド・コミ イとなり、さらに街角や店舗の監視カメラや人々の持っスマ的自律性を認めて市民社会を対象化したグラムシアニズムか ートフォンのおかげで都市中に広がった。さらに人工衛星やら示唆を汲むことができる。実際の分析では、脱領域的なグ ロ ーヾル・エリートの形成を国家という領域的権力との関係 ーンなどで上空から監視され、越境した勢力の 無人機やドロ 手でときには無人攻撃を受けることさえある。 0 や世界で対象化する必要が提起される。彼らの振るう権力は一所に 銀行やといった国際機関によって機能的に人々は追尾停留しない。そうした「駆け抜ける権力」が蓄えられつつあ リゼーションの時代で されることにもなった。ムーディーズやスタンダード & プアるという意味で今日はまさにグロ ーズなどの格付け会社はまさに企業や国家の信用状況を監視あり、一九七〇年代や八〇年代にリべラリズムの理論が相互 する存在である。格付け会社から < < < の格付けを得ていた依存やトランスナショナリズムに注目した位相とは異なって いる。また二つのトラックの接合と競合はネオリべラリズム 企業や国家が圧に落とされたならば、世界市場における信用 の流行に端的に表れており、主に西側先進諸国よりも途上地 は一気に下落し、資本は瞬く間に逃避する。 ギルが問題視したのは、ネオリべラリズムに反するような域でネオリべラル国家への転換が見られること、またネオリ 経済・社会政策が世界的に監視され、懲罰を受けるしくみがべラリズムが経済領域を超えて社会の諸側面に浸透しつつあ ヾレ ることが指摘できる。もちろん、作業はこれからだ。 強まったことであるが、社会全体に広がったグロー ノブティコンは、ネオリべラリズムが経済の領域を超えて社 会一般に及びつつある事態の定着を進める働きがある。 参考文献 最後にわかりやすくまとめておこう。国際政治を捉えるべ アセモグル、ダロン ジェイムズ・ << ・ロビンソン ( 2012 ) 『国家 き私たちの課題は以下のようにまとめられる。領域的な国際 はなぜ衰退するのか権力・繁栄・貧困の起源』全二巻、早川 政治のトラックと脱領域的な国際政治のトラックの連関の解 書房。 明を、国際政治学の大理論に関わる論争の膠着を突破するた アリギ、ジョヴァンニ ( 2009 ) 『長い二〇世紀ーー資本、権力、そ して現代の系譜』作品社。 めの知的課題とすることが必要である。その営みによって、
上地域のネオリべラル国家では、グロ ーバルなネットワーク医療に関わるバイオポリティクスの最先端を想像すれば、ネ に参人した脱領域的なエリー ト層が存在し、たとえば『フォオリべラリズムが閨房に人り込むのも時間の問題にさえ思わ ーブズ』誌の世界長者リストには毎年インド人やメキシコ人れる。こうしたネオリべラリズムの著しい拡大を、経済的ネ や中国人が数多く含まれるようになっている。 オリべラリズムと区別して、社会的ネオリべラリズムと仮に 第四に指摘したいのは、ネオリべラリズムに関し、経済領呼んでおこう。 域のイデオロギーや政策と、社会一般に浸透する広範な原理 西側先進国の福祉国家は社会福祉の程度を下げ、範囲を縮 とを区別すべきことである。もともとネオリべラリズムは、 小しつつあるとしても、今なお福祉国家のしくみは原理的に 西洋思想に伝統的であったリべラリズムが国家や社会の広い維持されている。福祉国家の運営が市場を通じて行われるよ 範囲に及ぶ普遍的な思想であったことを原点としながらも、 う軌道が転換されただけのことであって、福祉水準やその範 経済領域に特化する形で分離、発展した。市場は最初は経済囲が維持されたり高まったりすることもありうる。一般的に における文字通りの市場機構のことであった。だがやがて市は、ネオリべラルな経済政策を取る限り、一部の福祉が高度 場は、経済領域以外の他のさまざまな社会的側面にも導人可化し、他方が下がることが起こりがちだとしてもーーあるい 能な便利な「比喩」となった。市場の論理に付随した自由、 は一部の福祉の高度化の源泉が多数の排除であるとしても 公正、競争、個人、選択、責任といった要素を少しずつ付加 それは市場作用で調整しうるという論理をずっと前か することで、そうした「比喩」が文字通りの市場機構の存在らネオリべラリズムが外延的に取り込んでいることを軽視す しない経済領域以外での広範な社会分野に成立する論理が築べきではない。むしろ重要なのは、市場に対する社会の側の 定かれた。こうして、かっては市場機構の築かれていなか。た自立の動きはかって「二重の運動」と呼ばれたが ( ボラ = ー 設領域に市場機構が構築される ( たとえば水道提供 ) のと並んで、 2009 ) 、これが沈滞して福祉国家そのものが市場によって運 市場機構が人り込みにくい、あるいは人り込む余地のないよ用されるようになっただけではなく、社会の自立が剥離する の ことである。ここに先進諸国の福祉国家において社会的ネオ 学うに見える領域 ( たとえば親密圏 ) には市場が比喩的な原理と 斑して持ち込まれるようになった。今日、多くの国では経済領 リべラリズムが拡大する経路がやすやすと開かれることにな 国域だけでなく、政治、文化、教育、家庭といったさまざまなるからだ。 社会領域にもネオリべラリズムがこばれ落ち ( スビル・オーヴ ギルが「懲罰的ネオリべラリズム」と呼ぶように、閉ざさ ヾレ アー ) 、社会を広く再編する原理として機能し始めている。 れた建築物の中で機能していたパノブティコンはグロー
が、今のところ、また当面は、そうではなさそうだ。 維持しているという偽装が弱いために、一部では国家主権が むしろ世界的配置を考えた場合、福祉国家の解体やネオリ極めて強く行使され、一部ではあまりにたやすく国家主権が べラル国家への変容を指摘できるのは、西側先進諸国ではな喪失するといった分裂が顕著に見られるということだろう。 く、アジア諸国のような発展途上国ではないだろうか。そのまたネオリべラル国家の構築が強い傾向として見られる地域 理由は、第一に福祉国家構築の経験が少なく、福祉国家解体として、社会主義をショック療法で粉砕した東中ヨーロッパ に伴う国家装置の再編の負担が小さいこと、第二に社会の基諸国を含めることができるだろう。福祉国家の形成の経験は 盤が脆弱なので、ネオリべラリズムの浸透があからさまであアジア諸国以上にはあったとしても、社会主義を採用したこ とへのグロ り、社会の側の抵抗も弱いし、ネオリべラリズムの側の自制 ーバル資本主義からの事実上の制裁が行われたの もないことである。とりわけ、グロ ーバル資本主義との接合である。 を目立って強めているアジア地域にこの傾向が強いと言える なおハーヴェイ ( 2007a ) は、ネオリべラル国家が実はネオ ' 刀ノ ーヴェイの指摘するように、外部からの軍事介人によ リべラリズムの原理と大きく食い違って発展していることを って既存の国家が破壊され、ネオリべラル国家とネオリべラ指摘している。強固な私的所有、法の支配、自由市場や自由 ル社会の移植が強制的に行われたイラクなどの例も無視でき貿易、個人の自由といったものがネオリべラリズムの原理だ ない。後で取り上げる「懲罰的ネオリべラリズム」においてとされるが、国家の制度が多様であるために一律のパターン は、世界銀行のグッド・ガヴァナンス論や e 0 のパネルに のネオリべラル国家への変節を進めることができず、ネオリ 見られるように、多かれ少なかれ、ネオリべラリズムの原理べラリズムの原理との食い違いが生まれるし、それはネオリ が公的ドクトリンとして外部から途上国に強制されることがべラリズムの危うさを示しているという。何がネオリべラリ 珍しくない。 ズムかとい、つ珊争 ) がここから始まるが、この亠珊点はここでは アイフア・オングによれば、アジア諸国では国家主権が帯深追いせず、ネオリべラル国家がネオリべラリズムの原理と 状に分離されて他の権力とグロ ーヾルに接合している。だが食い違いを持っているとしても、そうしたいびつなネオリべ また他方で、エスニシテイや現地文化による動員が進んでおラル国家の群生は途上国に見られるということを確認したい。 、市場性が十分に貫徹しない、あるいは積極的に市場原理メキシコ、 マレーシア、インドネシア、中国などにおける社 を歪めたネオリべラリズムが見られる ( 20 こ ) 。領域的な国際会政策の惨憺たるありさまは、福祉国家の蓄積なきネオリべ 政治と脱領域的な国際政治の連関という点では、国家主権をラル国家の形成の恐ろしさを物語っている。他方でこれら途
ロビンソン、 20 三。国家によっても否定しがたい私的な所有 として発展するということである。この点は前述したように、 ーバルな権の絶対的主張の立ち上がりを前にして、現代の国家が萎縮 ギルが領土に限定された米国の制度のセットとグロ ネオリべラリズムの矛盾を指摘したことや、アリギが支配シせざるをえないとして、自由と自己統治の本来的な矛盾が暴 ステムの排他的領土性と非領土的機能的空間とに対立が起き露したと言うことは一定程度できるが ( 大屋、 20 こ、しかし それでも所有権の優先度の強さは一九世紀のヨーロッパ諸国 ていると分析したことと関連する重要な論点である。 第三の指摘は、領域性と脱領域性の二つのトラックから現と比。へれば今日の先進諸国は程度をかなり下げているだろう。 代世界を眺めるときに、ネオリべラリズムの流行に関心がた福祉国家の原理には、総体的な福祉を根拠とした私的所有権 どり着くこと、そしてネオリべラル国家を世界的配置の中でや自由契約への規制を行うことを含む。つまり米国やイギリ スは私的所有権の優先度が比較的高いとしても、ヨーロソ。、 捉えるべきことである。 先進諸国で一九八〇年代以降に次々にネオリべラル政策が大陸諸国や日本も含めて、私的所有権への国家統制が国家の 導人され、福祉国家が解体されつつあるという指摘がしはし立憲的原理に内包されているのだ。経済、教育、社会などの ばなされる。高橋進は、コックスの国家理論をもとに、ネオ分野で自由化や脱規制が広がっているとはいえ、各国の Q における国家財政の規模は相当に重いままで、歴史的なト リべラル国家の出現を「生産の国際化」と「国家の国際化」 という構造変化に対応して、国際経済と国内経済の両方に責レンドで見れば一九世紀以前や二〇世紀前半までと比べれば 任を持とうとしたものとして説明している。ネオリべラル国今日の各国の国家財政の大きさは顕著である。人材について 家は西側先進諸国で一九六〇年代・七〇年代に出現し、八〇の合理化 ( 人減らし ) が進められているとしても、西側諸国の さらに言えば、冷戦の ー・リべラル国家と、独仏日官僚制の規模は小さいとは言えない。 定年代以降は米英のような ( イバ 設 のような「国家・資本主義アプローチ」に分化していったと終焉に伴って世界的規模で軍事予算の削減が起きたが、数年 題 で流れは逆転し、現在は世界は緩やかな軍事支出の拡大傾向 い、つ ( 2008 ) 。 の にある。西側諸国が強大な軍事力をもって自国の安全保障を 学世界の資本主義中央に焦点を当てるなら、そうした記述は 女可能だろう。しかし世界的配置で言えば、二〇世紀半ば以降支えるしくみは揺らいでいない。強大な軍事セクターを持っ 国に福祉国家を形成しえたのはわずかな数の西側先進諸国でした国家を、留保もつけずにネオリべラル国家だと呼ぶことが かなく、そのほかの広大な領域は福祉国家など及びもっかなできるだろうか。軍事セクターが市場化し、自由契約や個人 「収奪的政治経済制度」の広がる荒野だった ( アセモグル / 主義の原理に従って運営されるようになったらまた話は別だ
グロ トランスナショナルなネットワークの移り身の早さに驚愕す ーバルな脱領域的新エリートがこれまでの民主主義に よる制度的規制を受けていないということは、国際政治学がるが、それらがネオリべラリズムのような単一の志向性を必 「非政治的」な領域の問題だとしてそれに目を閉ざしがちでずしも持ったものでないことにも注意すべきだろう。他方で バリセーションやオルター・グロ あったことの裏返しである。第一に新エリートは多くの場合、反グロー かなり意図的に国家の政治制度の外部で政治権力を行使するといった象徴の下に結集する市民社会組織の足元のもたっき、 ようになっており、第二に国家の外部でトランスナショナル危うさ、のろさに考え及ぶと、世界が抱える閉塞に暗澹とせ ざるをえない。 に連結することで、国家単位の民主主義の政治規制に与から ない脱領域的な権力を蓄積しつつある。ニコラ・サルコジ元第二に指摘したいのは、領域性と非領域性の整合的な連結 と対立や軋轢が共存していることである。一方が他方を促進 仏大統領、バラク・オバマ米国大統領、アンゲラ・メルケル つまり、 独首相などが、巨額所得者に対する規制の必要性に言及したしたり、抑制したりする一般的傾向は見られない。 ートのネットワークは、この ーバルな新エー トの制度外への逃避を物語ってい右に述べたグロ ことは、そうした新エー る。また、オキュ。、イ・ウォールストリート 二つの国際政治のトラックの間の対立と調和の双方の結びつ 運動が、メガ、ハ ンクの経営者が保護される一方で「九九 % 」の人々が切り捨きによって形成されているということである。すでに述べた ように、脱領域的な新エリートのネットワークは、国家権力 てられているという、米国に広がった社会的不満を体現した ことは、これらの制度外権力のあり方がかなり広範に認知さと接合したり分離したりを選択しながら形成されている。地 ーヴェイ ( 287 三 287b ) は、イラ れるようになりながらも、十分に捕捉されず、社会のゆがみ理学者であるデヴィッド・ をもたらしていることを象徴している。実証されていることク戦争を例に、赤裸々な軍事介人という強権をもってしてま で言えば、世界銀行の統計からたやすくわかることだが、世で米国が世界にネオリべラリズムによる蓄積体制を拡大する 界的規模と各国内規模の両方で所得の格差は現在、歴史上か様子を活写した。それまでの国家は解体され、石油資源を含 む国内市場は保護を解かれて世界市場に開放され、労働関係 ってないほど拡大している。 デヴィッド・ロスコフは、国内基盤だけでなく国際的な基は自由化された。ここで注目したいのは、ネオリべラリズム トの様子をルポルタージュしているが原理的に国境を越える資本の論理に基づくため、国境なき 盤も持たない新エリ ーバル資本主義からもたらされたイデオロギーや政策だ ( 2009 ) 。ビルダバーグ会議、三極委員会、世界経済フォーラグロ と見られがちだが、むしろ領域を持つ国家装置を強力な支え ムといった、かなりの速度でたえず浮遊しているかのような
ったり (c 7 などのサミットや国際機関と協働したり、人的に政府 坂本義和によれば、冷戦の終焉は西側国家の勝利というよ 、市場と、市民社会を基礎にした民主主義という体制の勝公人と重なったりするなど ) 、また他方で国家から退出したり、 利と捉えることができる。したがって、冷戦が終わるととも国家と対立したりする ( 賃金の上昇した投資先を去って他国に資 に、市場と市民社会が西側国家からの自立を求めるようにな本を移動したり、タックス・ヘイヴンに法人登記を移したり、法の り、西側国家は脱力化が始まった。「冷戦の逆説」である ( 坂網の目をかいくぐって私的軍事会社を世界展開したりするなど ) 。 本、 2015. 104 ー 122 ) 。 この西側国家の脱力化に伴い、非政治的ネオリアリスト総合に安住する限り、国家と国家の関係を政 とされてきた別の領域で新たな脱領域的なアクターが権力を治領域として限定し、それ以外の領域を重視しないために、 振るうようになったのである。それが今日のパズワードとな これら既存の政治制度から外れたーーむしろ自覚的に外れよ うとする場合が多いーー政治権力の作動については関心が喚 バリゼーションの一つの姿である。坂本の言う 「冷戦の逆説」は、国家間関係に留まらない国際関係の追究起されないし、分析に必要な視点や方法も準備しにくい ラツンユま、ゝ クリストファ 力なり前のことだが、民主 という知的課題の浮上の文脈を浮き上がらせている。 トの出現を描いた。新しく登場 主義の規制を受けないエリ 5 現代国家の変容と脱領域的エリートの台頭 したエリート層は自らが立っ地域社会や国家にあまり愛着も ネオリべラル国家の世界的配置 忠誠心もなく、これらへの公共心を喪失しがちとなり、特殊 以上に論じた理論的な考察を踏まえて、領域的権力と脱領な利害感覚を持ち、その結果、民主主義を脅かすことになり 域的権力の交錯という観点から現代の国際政治を分析する手かねない ( 1997 ) 。かってホセ・オルテガⅡイⅡガセットが無 順を示そう。 責任で無能な大衆の台頭を危険視して、「精神的な貴族」の 定 設第一に指摘す。へきなのは、考察対象を、これまで見落とさ復活を唱えたことがあ。たが 0995 ) 、新エリートはそうした れがちであった脱領域的な政治エリートの形成に設定するこ貴族性を突き抜けて、従来の倫理観とはかけ離れたイデオロ の 学とである。グロ ーバルな脱領域的新エリ ートは、外見的にはギーを備え、社会的な規制も責務も持たない存在になりつつ ーバル資本の経営ある。諸国家の政治制度は、ときに逆転はあるとしても、長 先進諸国の政治指導者や高級官僚、グロ 国者・所有者、や世界銀行などの強力な国際機関の官僚期的トレンドとして民主主義の拡大と深化に向けての進歩の といった者たちの公式・非公式な流動するネットワークとし方向にあるが、彼らはその民主主義による規制の制度的な外 て存在する。このネットワークは、諸国家と緊密な連携を取部にある。
とい、つことになる。 力は国家の領域的権力との連関の上に成立しているのだから、 異論の国際政治学の一角をなすグラムシアニズムの意義を 脱領域的な政治権力を研究対象に加えても、右に述。へたネオ リアリスト総合に対峙するための戦略的な措定点である「国ここで考えるならば、こうした二層の国際関係を「政治」の 問題として提起していることにある。政治領域の相対的な自 家を取り巻く政治領域」というアゴーンから外れるわけでは ない。国際経済学や国際社会学が国家権力の作動と離れた文律性が前提である。アントニオ・グラムシが国家装置と社会 脈で非政治的な領域を対象としていることとは、設定が異なを包摂した広義の国家概念を提示し、それがコックスやギル ーバルなへゲモニー概念に用いられたことを思い出そ る。ネオリアリスト総合において有力な構造主義的傾向のあのグロ う。ネオリアリスト総合においては国家間関係としての政治 る国際政治理論はしばしば歴史変化を軽視しがちであり、こ が主題化されるが、それはそのほかのアクターが取り結ぶ諸 れに対し・・・ウォーカーは歴史の重要性を確認した 上で、理論の解釈・実践・具体化を存在論的な問い直しから関係は政治的でなく、したがって重要でないと考えられてい 進めることを主張している (walker. 1989 ) 。本論の主張もこるからである。しかし注目す。へきなのは、政治的ではないと れと同じ方向にある。言うまでもなく、今日のグロ ーバリゼ規定されてきた領域において意味深い政治権力の発動が見ら れるということだ。そしてそれが可視化されにくいことだ。 ーションの進展は、国境を越えた接触を著しく増進させてい るので、ここで論じたような研究課題を可視化している。以政治の一定分野を政治的でないと規定するいわばメタ権力が ローセン、ハ ーグは、・帝 働いているのである。ジャスティン・ 上を国際政治学らしい別の言い方で表現すると、 国の運営に関し、国家システムの管理に関わる公的な政治領 グロ リゼーションに伴い、政治と経済の再編が進行域と、剰余の搾取と伝達を担う私的な政治的領域とを抽出し 非政治的領域とされてきた ( 一見経済的・文化的な ) 領域で政た。その後者が一般に言われる市民社会のことであり、非政 治的と規定された経済という領域のことであるという ( 2008 ) 。 治権力が発動 つまり、グロ ーバル / トランスナショナルな脱領域的権力彼のように主権が資本主義に特有な政治的支配の形態だと見 なすことにはあまり与できないし、市民社会概念にも冷淡す の形成 ぎるとは感じるが、非政治的と見なされてきた領域の政治こ ネオリアリスト総合の国際政治 ( 政府間関係 ) だけではない そが、現代国際政治を見通すために踏み込むべき領域にほか 新しい政治領域の形成 ならないことを読み取ることができるだろう。
ジム・ジョ ジと一アイヴィッ。 ト・キャンベルは、「異論」 に流れ込ませることで、実際の議論に分け人る知的な貢献を の批判的国際政治学が多様で豊かな内容を持っていると主張なすことができる。この課題を図式的に示すと以下の二つに する論文の中でではあるが、これらが国際政治学で長く支配分けられる。 的であった実証主義・経験主義的な理論傾向やリアリズムの 立場からは否定的に見られていて、一般的には批判されたり * 領域的な国際政治のトラック ( ネオリアリスト総合で囲い込 まれた狭義の国際関係 ) 拒絶されたりしていることを認めている ( George and camp ・ bell, 1990 ) 。 * 脱領域的な国際政治のトラック ( 「異論」の政治的考察に関 わる広義の国際関係 ) 「異論者」には、ディシプリンを定義する権力を振りかざ す公理を破る戦略が必要である。政治以外の原理 ( たとえば経 済や文化 ) に注目して国際関係や現代世界を分析することの意 かってリアリストは国家間関係の分析に専念し、リべラル 義は ( たとえば経済学や文化研究では個々に ) 否定できないが、こ はこれを広げて非国家アクターも視野に人れようとして世界 こでは政治学の一分野として国際関係・世界政治を論じるこ政治やトランスナショナリズムといった標語を掲げた。しか とをまず前提とするために、「国家を取り巻く政治」というしネオリアリスト総合への合流過程でリべラリズムは国家中 領域をまず措定しよう。これは、あらかじめの特権的措定だ 心主義にすり寄ってしまったと指摘される。先に述。へたよう ろうか。視野を狭め、問題を見損なってしまうだろうか。必に、ネオリアリスト総合の下での議論が「似通ったパラメー ずしもそうではない。ネオリアリスト総合という国際政治学ター間の論争」だと言われるのはこのためである (Baldwin ed.. 1993 ) 。 定の知的 ( ゲモニー外部からの ( 彼らにと。ては聞く耳を持たない、 設持っ必要がない ) 微弱な非難として退けられないように、対話 ここで除外されがちなのは、国家という領域的な政治のト のアゴーンに人り込む戦略である。また、後述するように、 ラックと、脱領域的なトラックとの輻輳の政治理論を追究す の 学国家間の政治領域の捉え方を領域の権力と脱領域権力の錯綜るという課題である。前者がもつばら国際政治学の対象とさ 攻と見ることで、現代的な問題を射程に人れることができるかれたからだ。後者の言う脱領域的なトラックの成立といって 国らだ。国際政治学の内破を起こすために、起点を「国家を取も、グロー リゼーションの効果を強調する立場からときお り巻く政治」に置いたとき、「異論」の国際政治学が美学やり 主張されるように、それは領域国家の権力と無関係に自律 文学を用いたとしてもそれを国家についての政治学的な思考的に形成されるものではない。後述するように、脱領域的権