南北朝鮮 - みる会図書館


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1. 思想 2016年 07月号

但し、朝鮮半島冷戦は南北朝鮮にだけ帰責される。へきだと半島冷戦が南北分断体制という現状維持に帰結したというこ いう結論を導出するわけではない。「朝鮮半島の分断体制は、 とを前提とするのに対して、本書は、一九七〇年代、現状は これに関連する主導者たちが、問題解決を放置したりその責維持されたのかもしれないが、「現状維持の制度化」には失 任を互いに転嫁したりする構造の中で維持されている状態と敗したし、その後も失敗し続けてきたという認識を示す。 いえる。一九七〇年代前半、米国と中国は、朝鮮半島問題に「現状維持の制度化」の基準として、①駐韓米軍の駐留継続 ついて議論し、南北対話が進行する過程で影響力を発揮した。を含めた停戦協定の維持、②南北朝鮮の国連同時加盟、③日 しかし、米中は朝鮮半島分断問題を根本的に解決したり改善米中ソ ( ロ ) の南北朝鮮に対するクロス承認を重視する。 する方法を議論したりするのではなく、基本的に両国家間の現状では②の南北朝鮮の国連同時加盟は九一年に実現された 利害関係が本質的に尖鋭にならない限度内で、朝鮮半島分断が、①の停戦協定に対しては北朝鮮が駐韓米軍の撤退を主張 の現状維持を追求した。そして、朝鮮半島分断維持の責任をしたり、平和協定への転換を主張したりするなど、異議を提 南北朝鮮に転嫁した」と米中の選択を批判的に論じる。 示する。さらに、③のクロス承認に関しては、九〇年韓ソ国 李東俊が、結果として分断構造が従来とは異なった形では交正常化、九二年中韓国交正常化が実現したが、北朝鮮と日 あるが、ともかく強固になった側面を重視し、なぜそうなの米とは未だ未修交である。したがって、「現状維持の制度化」 かを説明しようとすることに力点を置くのに対して、洪錫律は実現していないことになる。 ーバル冷戦のデタント化を促進した要因に焦点を当 そして、なぜ、「現状維持の制度化」に失敗したのかを、 て、それが朝鮮半島にもたらす帰結に関して、関係行為者の朝鮮半島冷戦に関わる六カ国の選好が一致しなかったことに 選択如何によっては、その他の異なる可能性が開かれていた求める。朝鮮半島冷戦に関与する日米中ソ ( ロ ) 南北朝鮮とい にもかかわらず、結果としては、冷戦をより一層朝鮮半島に う六つの個別国家の選好というミクロなレベルに分析の焦点 内在化して強める結果になったと主張する。 を当てる。さらに、一九七〇年代だけに焦点を当てるのでは なく、朝鮮戦争の停戦以後、朝鮮半島の現状維持に関する六 金伯柱『朝鮮半島冷戦と国際政治力学』三〇一五年 ) ( じ カ国の選好が時間的推移にしたがってどのように変容してき 「現状維持の制度化」の挫折 たのかを探るとともに、七〇年代を三段階に区分することで、 本書の特徴は、前述した先行研究と問題意識を共有しなが朝鮮半島冷戦における「現状維持の制度化」の好機であった らも、問題設定に独自さがある。先行研究が、いずれも朝鮮にもかかわらず、なぜ制度化が実現されなかったのかを明ら キムペクチュ

2. 思想 2016年 07月号

朝鮮の反対を無視してまで、韓国との関係を可視的に改善すの関係を改善するよりも北朝鮮との伝統的な関係を維持する る方向にまで突き進むことはなかった。 ことの方が自国にとって有利だという認識を持っただけのこ とであり、それ以前とは質的に異なった判断に基づくもので おわりに あった。七〇年代における韓国の対中ソ外交とそれへの中ソ 一九七〇年代に人って陣営を跨ぐ形で展開された韓国外交の対応に関する分析は、韓国と中ソとの外交が、狭義のイデ くリアリズム外 は、九〇年韓ソ国交正常化、九二年中韓国交正常化という形オロギー外交から、国益の合理的計算に基づ で実現することになる。これは一義的には九〇年を前後する交へと変容しつつあったことを示すものである。八〇年代の グロ ーバル冷戦の終焉によるインパクトが大きいことはもち 北方外交は、七〇年代には既に準備されていたのである。 ろんであるが、グロ ーバルな冷戦の終焉を超えてそれ以後も そうした観点から、七〇年代の朝鮮半島冷戦は次のように 南北分断が持続したことを考慮すると、こうした帰結がこの再解釈され得る。一九七〇年代の韓国外交には、一方で「二 時点でもたらされたのは、韓国が対中ソ外交の実績を蓄積しつのコリア」政策に現れるように現状維持指向が強かった。 てきたことも重要な要因である。七〇年代の韓国の対中ソ外もちろん、それ以前、南北朝鮮とも唯一の正統性を競い合っ 交を阻害した条件である中ソ対立が後景に退くだけでなく、 ていたことからすると、「二つのコリア」政策は大きな政策 韓国が北朝鮮を経済的に逆転し、さらに八〇年代以降も持続転換ではあったが、少なくとも、「二つのコリア」という現 的な経済発展を達成し、世界経済において一定のプレゼンス状を認めるという意味では現状維持政策であった。 を確保したことは、中ソ両国にとって韓国との関係の重要性しかし、それを明確に打ち出した六・二三宣一言は、従来、 を再認識させることになる。 陣営内に閉じられていた外交を、陣営を跨いで新たに展開す 冷戦期には、ソ連は自らの占領下で北朝鮮を建国させたと ることを明確にしたものでもあった。しかも、それ以後、維 いう「製造物責任」を負うために、中国にとっては地政学的新体制の終焉と第五共和国の成立という国内体制の大きな変 に「唇歯の関係」にあり朝鮮戦争を共に戦った「血盟」とし化にもかかわらず持続的に展開された。朝鮮半島冷戦が内在 て、同陣営の北朝鮮を支援するのが自明であった。しかし、 化する中で、南北朝鮮は体制競争、外交競争を展開し、そう 次第に、南北朝鮮とどのような関係を構築するのが自国の国した競争で優位を占めることを目標とした。そのためには、 益にとって有利なのかを計算するように変化したのである。 相互に陣営を跨いだ外交を指向した。しかも、相手に陣営を 七〇年代は、中ソともに、そうした計算に基づいて、韓国と跨がせないようにしながら、自分だけが陣営を跨ぐことを優

3. 思想 2016年 07月号

その両者の政治力学が調和されたという李東俊の主張とは異種々の選択肢の中から朝鮮半島冷戦を内在化するという選択 ーバル冷戦の変容に起因をしたのかを考える。へきだという著者の問題意識が介在する。 なり、本書は、朝鮮半島冷戦がグロ する政治力学を「利用」することによって、冷戦がより一層第二に、陣営内政治と陣営間対立との連携に対する注目は 朝鮮半島に「内在化」されたと主張する。「米中関係改善と相対的に低い。一方で駐韓米軍問題をめぐる米韓関係、米中 南北対話は、新たな和解局面を開き、朝鮮半島の平和維持に和解をめぐる中朝関係、そして、その両者の対比に言及する。 貢献したが、却って、その過程で南北の体制競争はより一層しかし、他方で米中両国は朝鮮半島にデタントをもたらそう 激しくなる様相であった。南北は自身の観点から相手を他者とする積極的な意図を持っていたわけではなく、むしろ、南 化する体制優越競争と自らの体制を相手地域に拡散しようと北朝鮮自体が現状維持、分断体制の維持を選択するのであれ する体制拡散競争を同時に展開し、南北間の外交競争も熾烈ば、それを「尊重」するという姿勢であったために、陣営内 であった」信 ) 。さらに、「一九七〇年代前半の状況は、冷戦政治が陣営間対立と連動して展開される可能性は低かったと が溶かし、朝鮮主張する。 期に凍りついた氷山の一角をデタントムード 第三に、韓国の対中ソ関係や北朝鮮の対日米関係に注目し、 半島の分断体制のこれまで見えなかった断面を露わにした。 察 考米中関係改善の過程で朝鮮半島の分断が国際的な紛争から南陣営を跨ぐ政治の可能性に言及する。しかし、日米中ソとい 諭北門の紛争へと深く内在化されたことは、それだけ南北朝鮮う大国は、それぞれ思惑や程度に違いはあるが、基本的に朝 試 る間の紛争がより、成熟した形へと体制化された過程といえる。鮮半島にデタントを定着させることには消極的な姿勢に終始 関つまり、朝鮮半島の分断を生じさせた諸々の力関係が朝鮮半した。南北朝鮮も、デタントを受け人れるというよりも、体 制競争に加えて外交競争を展開するようになり、しかも、そ 輒島の内部にまで浸透し、より一層内面化され構造化した」 ( し 冷 と、両者の相互利用による朝鮮半島冷戦の内在化という結論の競争は同一方向を向く競争ではなく、南北朝鮮という分断 島 半 を導出する。両者が矛盾を孕みながらも、その矛盾を刺激剤状況に対する国際的承認を求める韓国の「二つのコリア」政 鮮 朝とすることによ「て朝鮮半島冷戦が内在化されながら強固に策と、それにあくまで反対する北朝鮮の「一つのコリア」政 年なったということである。 策という相異なる原則に基づく正反対の方向を向いた競争に この背景には、グロ ーバル冷戦の変容への対応に関して韓なった。したがって、陣営を跨ぐ政治が、南北朝鮮の外交競 国朴正熙政権の選択とは異なる可能性があったという前提が争をより一層熾烈なものにすることによって、冷戦を朝鮮半 あり、それにもかかわらず、なぜ朴正熙政権は、そうした島により一層内在化させることになったと結論づける。

4. 思想 2016年 07月号

バル倫戦のデタントヒという 南北競争の激化を、朝鮮半島冷戦の「再制度化」、「内在化」、 以上、一九七〇年代のグロー 変容がなぜ朝鮮半島冷戦のデタント化を帰結させなかったの「現状維持の制度化」の挫折など表現は異なるが、いずれに ーバル冷戦としても冷戦に起因する対立を強化する方向に働くことになっ かに注目して、先行研究に検討を加えた。グロ 朝鮮半島冷戦との関係については、順応と遮断という二者択ているとして批判するが、南北朝鮮が陣営を跨ぐ外交を展開 一的な二分法ではなく、その相互関係をきめ細かく分析してすることは、中長期的に見れば、陣営を超える、換言すれば おり、しかも、その関係が時期的に変容していることが明ら朝鮮半島冷戦を克服する可能性を持つものであり、そうした かにされる。そして、その関係変容を規定するのが、陣営内観点からの再評価が必要ではないかと考える。 政治と陣営間対立との関係であるという点も共通する。但し、第二に、米朝平和協定の締結を米国に求めるようになった 陣営を跨ぐ政治の可能性に言及してはいるものの、それは結という点で北朝鮮の対米政策に言及されているが、それと比 果的には、、 グローバル戦のデタント化に起因する不利な側較すると韓国の対共産圏外交に関する言及は少ない。唯一、 面を抑え、有利な側面を利用するという競争を、南北朝鮮が洪錫律が比較的詳細に分析するが、その評価に関しては朝鮮 相互に激化させることで、むしろ朝鮮半島冷戦を強め、デタ半島冷戦を内在化させただけだというものである。しかし、 その後の朝鮮半島冷戦の展開を考慮に人れると、陣営を跨い ントとは逆行する方向に働くという認識を共有する。 だ韓国外交の展開とその成功が、政治経済における南北体制 3 一九七〇年代朝鮮半島冷戦の再検討 競争における韓国優位と相まって、韓国の圧倒的優位という 韓国外交に焦点を当てて 帰結をもたらし、それが朝鮮半島冷戦の帰趨を大きく左右す 以上の先行研究は次の二つの点で再検討が必要である。第ることになったのである。したがって、一九七〇年代につい 一に、陣営を跨ぐ南北競争の激化に関して、違った観点からても、陣営を跨ぐ韓国外交に焦点を当て、それがその後の八 の評価が必要ではないかと考える。平和的共存という現状維〇年代以後にどのように継承されたのかを考察する必要があ 持に関する合意ではなく、そうした現状を変更して統一を指るのではないか。 向するという規範の方が重要であることを、南北朝鮮双方が 4 韓国の対共産圏外交 ) 相対的に強く共有する限りは、競争を通して優劣を明確にし、 対中ソ関係を中、哈に ( 幻 ) そうしたうえで勝者が統一を主導するという選択の方を南北 朝鮮ともに優先するからである。先行研究では、陣営を跨ぐ 北朝鮮を背後で支える中ソとの関係改善を韓国が指向する

5. 思想 2016年 07月号

位置づけることによって、冷戦史研究をより一層豊かにするである。六〇年代に冷戦の最盛期を迎え七〇年代に人って緊 ことに貢献できるのではないか。 張緩和がもたらされたというのが一般的な見方であったが、 朝鮮半島冷戦の特徴は、以下の二点に集約される。第一に、近年では、六〇年代と七〇年代との連続性を強調する見方も 国際政治に関する重層的な理解を必要とするという点である。ある ( 3 ) 。問題は、何が変容し何が持続していたのかという 米ソを中心としたグロ ーバルな冷戦、日米中によって構成さ ことである。先行研究は、米ソ、米中の大国間関係の変容を れる東一ジア冷戦、そして南北朝鮮によ。て構成される朝鮮強調しながらも、第三世界をめぐる米ソ袵戦に関しては連 半島冷戦という三層構造が、相互にずれや乖離をはらみなが性を強調する。これは、米ソが直面する共通問題に関する共 ら影響を及ばし合って展開されるのである。第二に、朝鮮半同対応が要請されるようにはなるが、第三世界をめぐる米ソ 島冷戦には、日米中ソ ( ロ ) という大国が関わる多国間関係が 間の競争関係は不変であったことを意味する ( 4 ) 。 展開されるのみならず、それが南北朝鮮と共に東西両陣営に 一九七〇年代の朝鮮半島冷戦に関しても、大国間関係にお 振り分けられることで、陣営内政治と陣営間対立が連携してける変容と朝鮮半島をめぐる関係の連続性という図式が一見 展開されるという点である。さらに、陣営間対立に制約され当てはまるように思われる。東アジア冷戦は、米中和解と日 ながらも、異なる陣営に属する国家間において、「陣営を跨中国交正常化によって劇的に変容したが、朝鮮半島では日米 ぐ政治」が展開されたという点である。ところで、こうしたの支持を背負った韓国と中ソの支持を背負った北朝鮮が対峙 特徴は、朝鮮半島冷戦の特殊性というよりも、元来、グロー する状況が持続したからである。しかも、六〇年代と七〇年 バル冷戦が内包したものである。しかし、陣営間対立によっ代の韓国の政治体制は同じ朴正熙政権として連続しているだ て陣営内政治が封じ込められたことを前提とした冷戦史研究けではなく、七二年以降の維新体制は、朴正熙政権の持っ権 では、冷戦に関するこうした重層的な理解はそれほど注目さ威主義的性格をより一層強めたものとして批判される。こう れなかったのである。したがって、朝鮮半島冷戦史研究は、 した国内体制が連続するという認識が、外交政策に関しても、 冷戦史研究に「特殊な一事例」を追加するのではなく、冷戦硬直的な反共外交が貫徹されたという解釈を定着させたから 史研究が本来担う。へき課題を再考させるという重要な意味をである。 持つ。 しかし、一九七〇年代の朝鮮半島は、六〇年代のそれと連 一九七〇年代のデタントに関する研究は、史料公開の状況続していたのか。六〇年代が南北朝鮮の力関係において北朝 とも相俟って、冷戦史研究の中で現在最も盛んな分野の一つ鮮優位であったのに対して、七〇年代は南北対等から韓国優

6. 思想 2016年 07月号

かにする。結論としては、北朝鮮が駐韓米軍の撤退を含む停行為者として設定し、朝鮮半島の現状維持をめぐる選好を明 戦協定の平和協定への転換を主張するだけでなく、南北の国らかにするというきめ細かな分析をする。その結果、朝鮮半 連同時加盟とクロス承認は分断の固定化につながるので認め島冷戦をめぐって「陣営」という現状の枠組みは維持されな られないという現状変更に固執し、それを中ソ、特に中国が がらも、「陣営」という枠組みの質を変えるという意味で 支持したことに、現状維持の制度化の挫折原因を求める。 「現状維持を制度化」する試みが行われたことを明らかにす グロ ー。ハル冷戦と朝鮮半島冷戦との関係についてる。 は、時期を三段階に分けて、その関係変化に注目する。第一 興味深いのは、一九七〇年代後半、カーター政権による駐 段階は、米中和解というグロ ーバル冷戦の変容が南北対話と韓米地上軍撤退公約とその延期をめぐる分析である。これは いう形での朝鮮問題の局地化を促す段階である。但し、その朝鮮半島冷戦にデタントをもたらす好機であったわけだが、 結果、一九七三年六月二三日、韓国が「平和統一と外交政策六カ国がともに、 この好機を活かそうとする積極的な意図を に関する大統領特別声明 ( 六 ・二三宣一言 ) 」で分断の国際的承持たず、さらに、米国の韓国に対する影響力、中ソの北朝鮮 認を積極的に推進する「二つのコリア」政策へと舵を切った に対する影響力に陰りが見え、それに対して、韓国が南北対 考のに対して、北朝鮮は「祖国統一五大方針」で分断の国際的話に執着、北朝鮮が米朝交渉に固執することで、結果として 論承認は分断を固定化するものであると批判し、「一つのコリ 「朝鮮問題の朝鮮化」へと回帰したことを明らかにする。本 るア」政策に固執するという対照的な選択をしたために、朝鮮来であれば、陣営内政治の変化が陣営間対立の流動化を帰結 関半島冷戦のデタント化が挫折した。第二段階は、今度は、再させる機会があったわけであるが、大国間デタントと「朝鮮 ーバル冷戦のデタント化が国連や大国主導で試みられ 問題の朝鮮化」の組み合わせという、陣営間対立と陣営内政 物びグロ 島るが、これも挫折することにな「た。第三段階は、大国間デ治とが切り離される帰結がもたらされたわけである。 半 タントの完成と朝鮮半島冷戦が取り残されデタントの挫折に 第三に、陣営を跨ぐ政治の可能性に関して、特に北朝鮮の 朝帰着した過程である。グロー バル冷戦のデタント化が朝鮮半対米政策に注目する。しかし、それは停戦協定の維持という 年島冷戦にも影響を及ばしながらも、そのデタント化が挫折す意味での現状維持の制度化とは明らかに逆行する方向で機能 る過程を、両者の相互作用から明らかにする ( 幻 ) 。 した。換言すれば、北朝鮮の選択は、陣営間対立を超えるも のとしてではなく、陣営間対立の質的変容を朝鮮半島に受け 第二に、陣営という枠組みに制約されず、米中南北朝鮮の みならず、日ソにまで分析を拡大して個々の国家を独立した人れることを拒否する機能を果たしたということになる。

7. 思想 2016年 07月号

1970 年代朝鮮半島冷戦に関する試論的考察 島 ) 』川 ( 創批 ) 、二〇一二年。 (ä) 同書、三九五頁。 ( ) 同書、一四頁。 ( ) 同書、三九二頁。 ( 片 ) 同書、三九四頁。 ( ) 同書、四〇〇頁。 ( 四 ) 金伯柱『朝鮮半島冷戦と国際政治力学ーー対立からデタン トへの道のり』明石書店、二〇一五年。 ( ) 同書、一八ー一九頁。 ( 幻 ) 同書、第三、四、五章。 ( ) 同書、第五章。 ) 一九七〇年における韓国の対共産圏外交に関しては、対中 ソ外交だけでなく、東欧圏との外交も対象にする。へきだと考え る。この点も含めて、七〇年代の韓国の対共産圏外交全般に関 する詳細については、拙稿「朴正熙政権の対共産圏外交 九七〇年代を中心に」、『現代韓国朝鮮研究』第一一号、二〇一 一年、を参照されたい。 幻 ) 一九七〇年代前半における韓国の対中ソ外交に関する研究 として、倉田秀也「韓国「北方外交」の萌芽ーー朴正熙「平和 統一外交宣言」の諸相」、日本国際政治学会編『国際政治』第 九二号、一九八九年、八〇ー九五頁を指摘することができる。 限られた二次資料に依拠しながらも、一九七三年六・二三宣言 前後における韓国の対中ソ外交について、その違いにも注目し ている点で意義のある研究である。 ( ) なぜ、ウガンダであったのかという問題に関しては、ウガ ンダは南北朝鮮と国交を樹立することに一九六三年相次いで合 意したが、韓国の方がいち早く大使館を開設し、さらに大使を 常駐させたのに対して、北朝鮮の大使館開設、大使常駐は、そ れぞれ七二年、七三年であったように、北朝鮮の妨害や干渉な く中ソと接触する機会を持っことができたからではないかと推 測する。南北朝鮮とウガンダとの関係については以下の資料を 参照。ロ丁早「外可忌。丁切刈」 ( 外務部「カメルーン・ウ ガンダ対策」 ) 一九七三年二月二六日、大韓民国外務部外交文書 登録番号六〇三〇『号剋・。丁計は刻 1973 』 ( 『北朝鮮・ウガ ンダ関係、一九七三』 ) 一四ー一八頁。 6 ) ス丁。丁計切オ切暑引外「哥曾。豆旦」一」討ロ正「埜 斗望可刻、号回斗刻、望刈喫可号 斗望斗」刻列斗」曾旦「男旦ヱ」 ( 駐ウガンダ大使が大統領閣 下 ( 朴正熙大統領 ) 宛に送る電文「ソ連大使との我が国経済発展、 北傀との関係、統一問題、及びわが国との関係に関する発言、 特別報告」一九七〇年一一月一一六日、大韓民国外務部外交文書 登録番号五一〇〇『入亠斗」刻刻、 1970 ー 72 』 ( 『韓国 の対ソ連関係改善、一九七〇ー七一一』 ) 二〇ー一三頁。 ( ) 韓国外務部特殊地域課「可入亠喫罟子刻刻ロ正刈」 ( 「対ソ及び東欧圏関係改善間題」一九七三年、大韓民国外務部 外交文書登録番号六〇五九『入亠喫罟子刻刻ロ 刻、 1973 』 ( 『対ソ連および東欧圏関係改善間題、一九七三』 ) 四 一ー五二頁。 ( ) 韓国外務部特殊地域課「ヱ。を斗」刻刻溿。」 ( 「対共 産圏関係改善方向」 ) 一九七三年一一月二九日、同上文書、七四 ー八七頁。 ( 四 ) 韓国外務部東欧担当官室「を号ロ正刻列司丕内王ュ日 』」入亠ュ「召斗」哥』」刈列川司丕旱幻。幇旱 ズ」ュ昱」尅幇召引ⅵ幇子望「司」 ( 「韓国問題に対してソ連

8. 思想 2016年 07月号

網として、もしくは中国の対ソ包囲網を打破する一環として録や当事者の回顧録などを見ても、連続性を強調する。へき証 韓国との関係改善がもたらす利点を認識していることを再確拠はあまり見当たらない。やはり、朴正熙政権と、それ 認したを。第二に、中国が執着する「一つの中国」というを継承した八〇年代の全斗煥政権との間には、外交の担い手 に変化が見られるからである。また韓ソ関係に関しては、七 原則とつじつまを合わせるためにも「一つのコリア」という 北朝鮮の立場への支持にこだわる中国とは異なり、ソ連の対九年ソ連軍のアフガニスタン侵攻による「新冷戦」状況の出 朝鮮半島政策が、基本的に「二つのコリア」という現状を認現、さらに、八三年九月のソ連空軍機による大韓航空機撃墜 めるという現実主義的な方向に傾斜しつつあることを、相互事件に起因する韓ソ間の緊張激化など、断絶的要因が存在し 接触を通して共有するようになった。それを公式化するたからである。 かどうかは別として、少なくともソ連は、朝ソ関係悪化がソ 韓国の対中外交 連外交に及ぼす負の影響という阻害要因さえ除去されれば、 韓国の対中外交は、両国が外交関係を持つ国家における接 南北朝鮮の双方との外交関係を樹立するという「二つのコリ ア」政策へと踏み出せるという感触を得ていた。第三に、ソ触、国連における接触、国際会議やスポーツィベントな 連外交に従事する外交官の実務レベルにおける朝鮮半島に対ど多国間協議の場での接触、第三国の仲介による接触の試み などの経路が存在するという点では対ソ外交と共通する。 する見方と、ソ連政府指導部のそれとの間に乖離があること 一九七一年八月ウガンダにおける新任インド大使の歓迎宴 を見抜いていた ( 四 ) 。 但し、当分の間はソ連が北朝鮮との関係を犠牲にしてまででの、李昌熙韓国大使と中国代理大使との接触が対中接触の も、こうした新たな政策への転換を公式化するまでには至ら端緒であった。ウガンダにおいては韓ソ接触が前年にあった ことを考慮すると、対中接触は一年遅れたということになる。 ないだろうという展望も合わせて持っていた ( 。実際、こ うした接触の積み重ねが、一九七〇年代には外交関係や直接七一年七月、キッシンジャー訪中が発表され、米中が接近し 貿易関係の樹立には至らなかったことは、やはり強調しておたことが、中国外交の変化につながったと見ることができる。 それまで中国の代理大使は韓国大使との一切の接触を回避し く必要がある。一九七〇年代の韓ソ接触と八〇年代以降の北 方外交の本格的な展開との間にどのような連続性が見られるてきたのだが、今回初めて接触に応じるようになったからで のかは、八〇年代の半ば以降の韓国外交文書の公開を待っ必ある ) 。しかし、当初から、ソ連の韓国に対する姿勢が比 要がある。現状では、北方外交に関する韓国外務部による記較的柔軟であったのに対して、中国は韓国との接触には非常

9. 思想 2016年 07月号

どを対象とするが、朝鮮半島それ自体は取り上げられていない。 また、言及されるのは朝鮮戦争に関する部分だけである。 ( 2 ) 冷戦における「前哨」については、以下の研究を参照され たい。 Stephen Hugh Lee. 9 、 os 、 s E ミ、 e. ・ Korea, ミミ・ ミミミミ、 0 を、 ~ s the Co ミミ、、」 s 7949 ー 7954. luiverpool, luiverpool University press. 1999 藤原帰一「アジ ア冷戦の国際政治構造 , ーー中心・前哨・周辺」、東京大学社会 科学研究所編『現代日本社会第 7 巻国際化』東京大学出版 会、一九九二年。 ( 3 ) 代表的な見方として以下の文献を参照されたい。 Jussi Hanhimäki. "lronies and Turning POints 【 Détente in Perspec- tives ・・ . in Odd Arne Westad. ミ ~ 0 、 Co ミ VT 、 . 」 4p- トきミ s , 7 ミ e き、ミミ ~ ・ミミ 0 London. Frank Cass Publishers. 2000. ( 4 ) 一九七〇年代の戦体制に関する、こうした解釈について は、 Barbara Zanchetta. The T ミ、ミミ Q 、」ミ e ミ・ 、 e ミミ、 0 e 、ぎ、 79 ざ s (Cambridge, Cambridge Uni- versity press. 2014 ) を参照されたい。 ( 5 ) 一九七〇年代朝鮮半島冷戦に関する代表的研究としては、 本稿で取り上げられた以外にも、以下のものがある。まず、古 典的な研究としては、玉城素『朝鮮半島の政治力学』論創社、 一九八一年。米中デタントに抵抗する形で南北朝鮮が南北対話 をしながら自体制の独裁的性格をより一層強めるための「共 謀」を行ったという興味深い仮説を提示する。高一『北朝鮮外 交と東北アジア一九七〇ー一九七三』信山社、二〇一〇年。 主として韓国の外交史料に依拠しながら同時期の北朝鮮外交を ュソンヒ 分析したものである。劉仙姫『朴正煕の対日・対米外交ーー冷 戦変容期韓国の政策、一九六八ー一九七三年』ミネルヴァ書房、 二〇一二年。同時期の韓国外交の自立的性格に注目するが、結 チェギョンウオン 果として現状維持を指向したという結論を導出する。崔慶原 『冷戦期日韓安全保障関係の形成』慶應義塾大学出版会、二〇 一四年。七〇年代デタント期において日韓の安全保障関係が緊 キムジヒョン 密になったことを実証したものである。金志炯『は匸一斗け 斗」刻 ( デタントと南北関係 ) 』 ( ソニン ) 、二〇〇八年。こ れは、一九七〇年代初頭の南北対話を内部資料に基づいて詳細 に分析したものである。 ( 6 ) 米中和解の背景には中ソ対立があり、その意味では米ソを 中心とするグロ ーバル冷戦と米中を中心とする東アジア冷戦と の間にも緊張関係があったわけだが、本稿では、朝鮮半島冷戦 に焦点を当て、それと東アジア冷戦、グロ ーバル冷戦との関係 を論じるので、グロ ーバル冷戦と朝鮮半島冷戦との関係として 問題を設定する。 ( 7 ) 朝鮮半島戦に関するこうした見方に関しては、拙稿「朝 鮮半島冷戦の展開ーーグロ ー。ハル冷戦との『乖離』、同盟内政 治との連携」、『アジア研究』第五二巻二号、二〇〇六年、一六 ー二五頁、を参照されたい。 ( 8 ) 李東俊『未完の平和ーー米中和解と朝鮮問題の変容一九 六九ー一九七五年』法政大学出版局、二〇一〇年。 ( 9 ) 同書、三三八頁。 ( 川 ) 同書、四頁。 ( Ⅱ ) 同書、三三三頁。 ( 肥 ) 同書、四六四頁。 ( ) 洪錫律『日正司丕司〕ヱ。刻旦』」を斗」刻斗 王 ( 分断のヒステリー 〕公開文書で見る米中関係と朝鮮半

10. 思想 2016年 07月号

鮮半島冷戦に対する米中の共同介人を帰結させることになる。映されたという意味において「埋め込まれた平和」であっ た」 ( リと言及するように、これが安定的な秩序では必ずしも さらに南北朝鮮もそれに抵抗するというよりも、それを受け 人れたうえで、ゼロサム的な正統性競争を止揚して、事実上ないことを含意する。にもかかわらず、七〇年代半ばにある ヾル冷 一定の到達を示した朝鮮半島袵戦の定着過程をグロー 両者の共存を受け人れるようになる。このように、グロ ル冷戦と朝鮮半島冷戦とを矛盾のないように相互調整させる戦のデタント化と整合性的に説明することに力点を置いたた め、グローバル冷戦の変容に「抵抗」する朝鮮半島冷戦のカ 政治力学が働くという解釈を提示する。 第二に、駐韓米軍の追加削減問題をめぐる米韓の葛藤に注学を相対的に軽視することになっている。 目しつつも、駐韓米軍を「中朝連合戦力に対する抑止力とし 洪錫律『分断のヒステリー』三〇一ニ年 ) ( リ ての位置づけ」から「朝鮮半島と東北アジアにおける安定化 「朝鮮半島分断の内在化」 ( リ ならびに現状維持要因」へと機能転換を果たすことに、朝鮮 半島冷戦の当事国が実質的に合意することによって、陣営内洪錫律は一九六〇年代以降の韓国現代史を一次史料に基づ いて研究してきた、韓国における第一人者である。本書は、 政治が陣営間の対立緩和と調和する形で決着されたことを重 視するⅱ ) 。換言すれば、米韓の陣営内政治の展開が、グロ七〇年代の後半も分析対象とし、米中和解が朝鮮半島冷戦に ーバル冷戦と朝鮮半島冷戦の調和を促進する媒介的な役割を何をもたらしたのか、もしくはもたらさなかったのかを解明 することに主眼を置く。朝鮮半島の分断状況は「過度な興奮、 果たした点に注目する。 第三に、陣営を跨ぐ政治については、「北朝鮮の対米接近」憤怒、恐慌状態を恒常的に助長する傾向にあり、ヒステリー が挫折したことをェビソードとして論じるが、韓国の対共産反応を呼び起こす」という現状認識に基づき、「朝鮮半島に 圏外交については、ほとんど言及されない。米中が対立から醸成された独特な力関係を冷静、総体的に認識し、朝鮮半島 和解へと舵を切るのに対応して「分断構造が再制度化」されの住民の生活をいろいろな次元で恣意的に阻害する分断体制 を制御し、その克服の方向を探る」信 ) と、分断克服という間 たので、分断構造を跨ぐような動きを強調する必要はなかっ 題意識を明確にする。そして、そうした批判されるべき現状 たからであろうか。 本書は、「一九七〇年代半ばの分断構造の再制度化を、朝に至らしめた政治的選択を、別の選択の可能性を念頭に置い て批判的に再検討する。 鮮戦争の戦後処理が放置されたという意味で「未完の平和」 ーバル冷戦と朝鮮半島冷戦との関係に関して、 でしかなく、分断の現状維持を望んだ米中の意図が色濃く反第一に、グロ ホンソグュル