せ」る構造が生成してい「たのであり、「ヒトラーの戦争」高橋の関心を最も引いたのは「資本と労働との関係、国家 は「対外膨張が「国益」であり、「国益」の処理には暴力のあり方 ( 国家形態 ) 、国際関係のあり方 ( 世界秩序 ) という三 が適合的であり、その「国家」はナチ党という組織のみが要因の相互規定関係」からマクロな秩序変動を論じるとい 独占する」という交錯構造の産物であると位置づけられる。う枠組みを評価したためである ( 112 ー 113 ) 。 本書の諸論稿も、国際体制と国内体制のつながりを探求 さらにこの政治社会の変質という視座は、「「国家」という 殻がますますもろくなっている現在において、おそらくよしようとする高橋の模索の一環として読むことが可能であ り有効性をますことであろう」という展望が示されている。る。たとえば開発独裁を論じる中で高橋は、「このような 開発独裁における内政と外交との関係であり、従属と呼ば 国際政治学の分野においては国内政治と国際政治をどう 結びつけるか、は長年の課題であったといえる。それだけれる現象の危機での現れ方という問題」が、この領域での ではなく、高橋がおそらく念頭においたであろう先行者が未解決かつ重要な問題であるとする ( 94 ) 。あるいは帝国主 存在する。神川の退官後、一時的に同科目を担当した、岡義についても、帝国主義政策が「国際的にも国内的にも譲 ク この本について、高橋ることのできない政策として確立した」 ( 20D のが、帝国主 義武の『国際政治史』である ( 。 工 の第二の師である坂本義和は「「岡義武〕先生の基本的な視義時代の三つ目の位相であり、これが第一次大戦につなが ロ った要因であることが示唆される。 プ点は : : : 国際政治の変動を国内体制の変動との関連におい このように、戦争や経済的従属といった国際関係上の現 てとらえ、それを「国際政治の構造の歴史的変化」として し」 象が、国内政治にどう影響するか、ないし国内政治上いか 描き出すという視点である」と簡潔に指摘している信 ) 。 史 ただしここで重要なのは、高橋は一方が他方を規定するなる基礎を持っているか、ということが高橋の間い続けた 治 問題である。そしてそれを、従属論や世界システム論のよ 際 ( たとえば国内体制が国際秩序を説明する ) 、あるいは両者が渾 国 うな経済基底主義的な形ではなく、「政治学的に」論じよ 然一体となってマクロな変動によって変質していく、とい 考 0 た説明を回避している点である。むしろ彼の眼目は、異うとするのが高橋のプロジ = クトだ「たのである。 著なるレヴェルの相対的自律を一旦確認し、その上でレヴェ 3 国際政治史における「発展」の探求 名 ル間の連結を論ずる、という構成にある。 資本主義の構造変容を基底的要因として重視する世界資高橋のもう一つの特徴は、国際システムの「発展」を論 じようとする姿勢を持ち続けたところにある。これは、先 本主義論的な論稿はあまたある。その中から、コックスが
134 いる。むろん、論文集において本全体の標題と個々の論文講ずる以前に同科目を非常勤講師として担当していた斉藤 との間に多少のズレがあることは一般的なことであり、特孝は、その代表的著作である『戦間期国際政治史』におい に間題とするに足りないかもしれない。しかし本書におけて、「歴史の推移を権力と民衆との対抗関係において捉え るそのズレははなはだしい。では高橋はなぜ国際政治史のる運動論的観点を導人した、国際的規模における政治史的 語を本書の標題に選んだのだろうか。 方法が必要である」とする。というのも「現代の国際政治 その手がかりは本書のあとがきに収められている。高橋は : : : 伝統的な外交史的手法によっては尽くしがたい複雑 はここで「ロ、、 ート・コックス教授の業績が : な様相を呈している。 ・ : 資本主義と共産主義という社会 。ハの国際政治史を国際関係史で終わらせない新しいアプロ体制・イデオロギーの次元の問題が新たな要因として出現 ーチがないものかという 題、について一つの視座を提示する」からである ( リ。 してくれた」 ( 249 ) と述べている。これは、前節で述べたよ では、高橋の特徴はどこにあるのか。それは斉藤との対 うな典型的な国際政治史を越えて、さらに発展させたいと 比において本書所収の論文を見ると浮かび上がってくる、 いう意図の表れである。 斉藤の運動論的視角に対して、高橋のこの論文集は基本的 では国際関係史で終わらない視点とは何か。それは内政には「体制」にかかわるものである。つまり、国内政治体 ないし国内政治構造の導人である。これは既に高橋の第一制と国際政治の体制・構造がどのように結びついているか、 作『ドイツ賠償問題の史的展開』において示されていた。 という問いが立てられているのである。 そこで高橋は「国際社会と国民国家の共時的な変質という この点については、「国際政治の歴史」という人門的小 現象を解明するためにも、「 連繋政治」的視角は大きな意 論においてより直截に説明がなされている ( リ。そこでは 味をもっているのである」ⅱ ) と述。へる。つまり、国際社会 二〇世紀における二つの大戦をいかに説明するか、という ないし国家間システムと、国民国家とが同時に変容しつつ 問いが提示され、それに対する解答の方法として、国際体 あり、その両者を同時に把握することが必要である、とい 系の崩壊 ( 通常の「国際政治史」的説明 ) 、政治体制の特質 ( 国 う認識を高橋は持っていた。その両者を視野に収めること内政治による説明 ) のいずれもが不十分であり、それらを含 で初めて「国際政治史」は完成するものだったのである。 む新しい視点として、ヨーロッパ政治社会の変質があると このような視角は孤立したものではない。東京大学教養される。そして「国際政治の動きと国内政治の動きがタイ 学部を経て学習院大学に長く勤務し、高橋が国際政治史を ミングをずらしながら絡んだ糸のように複雑な交錯をみ
136 に述べたシュローダーなどにおいて、べンチマークとして 今回のヨーロツ。ハで起きたことは、冷戦の崩壊だけなの のリアリスト的システム像が、国際政治学との交流を可能 であろうか。この疑間は、冷戦という「安定システム」 にしていることとは対照的である。 が崩壊し、現在はその意味で「革命システム」の段階に とはいえ、この「発展」の概念が、ある時期までの社会 あり、将来再び均衡点をもつある「安定システム」が成 諸科学と歴史研究の交流を可能にするものであることにつ 立するであろうという、システム変動論だけで説明でき いては、比較政治学者ホール ( peter A. Ha 一 1) の次のような るのであろうか、と一一 = ロい換えることができる ( じ。 指摘がある。 このような国際システムの発展の一つの局面が、本書の 彼らを一つにしていたのは、個別の特殊性にもかかわら第四章と第五章が扱う、「古典的権力政治」から「現代権 ず、社会経済的な発展に対する反応には共通性があるとカ政治」への変容である。その間に介在するのは広い意味 いう前提の下で、階級形成と体制転換を動かしていくプでの民主化であるが、それが「社会の軍事化」として作用 ロセスについては何らかの確かな一般化が可能であるとすることで、第一次大戦の勃発につながったことを高橋は いう感覚であった。「事件」とは区別されるものとして重視している元 ) 。言い換えれば、高橋において発展は、 の「発展」という概念それ自体が、そのような業績の要「戦争の違法化」「国際社会の制度化」といったような、ポ 石だったのである。 ジティヴな要素が直線的に積み重なる、進化論的なイメー ジで捉えられているわけではない。 この言明は、主として一国史・比較史と比較政治・社会 では、「現代権力政治」の次にくる、へきものは何なのか。 研究との関係についてのものであり、高橋の師である篠原それを探るにはヨーロツ。 ( の国内体制の変動を捉えること 一が政治発展論を基礎に「歴史政治学」を提唱する際の基が必要だと考えたのであろう。高橋には一九八〇年代以降 盤となる状況であった ( じ。これを国際システムのレヴェ のヨーロツ。ハ政治の変化を捉えようとする論稿が数多くあ ルに拡張しようとしたのが、高橋のプロジ = クトだったのる。中でも、比較政治学者レイブハルトの業績を手がかり ではないか。たとえば以下のような問いは、高橋に典型的にしたある論稿では、政治社会と政党システムの基本的構 なものである。 造の変容が紹介された上で、「「変化」の政治理論」の必要 性が指摘される。そしてそのためには、一国的視座では不
流の一つの重要な窓口が開かれている。ケネス・ウォルツ 2 内政と外交の連動をいかに描くか (Kenneth N. waltz) の問題提起によって、分析レヴェル ( な このように、通常の意味での国際政治史を想定するなら いしイメージ ) の問題が国際政治学において強く意識される ようになったことはよく知られているが、そこで強調されば、『国際政治史の理論』とは、何らかの形で国際システ ムの変遷を理論化したもの、ないしは国際システムの歴史 た国際システムの自律性と説明能力こそが、神川の言が一小 すように、一国史的視点を脱しようとした国際政治史にお分析を行うための切り口、であると想定するのが穏当なと けるシステム志向と重なり合っているからである。細谷雄ころであろう。 ところが、本書はこれとはまったく違う内容を持ってい 一は日本における国際政治史研究を「史料実証主義的な研 ゑ本書の全五章はいずれも、高橋が新しい研究動向を日 究」の発展という観点から概観しているが、その中でも、 本の学界・論壇に伝えようとしたものであるとともに、そ 「この時代「岡義武『国際政治史』〕以降の国際政治史研究は、 の作業を通じて自らの分析用具を案出するための予備作業 国際政治学の理論的な関心を反映する傾向が強まってい ク としての性格を持っているといえる。まず第一章はリンス く」 ( 9 ) と、両者の重なりが指摘されている。 工 その一例として、イリノイ大学で長くヨーロッパ史を講 (Juan J. L 一 nz ) の議論を中核にすえた権威主義体制論であり、 ロ プ じていたシュローダー (paul w. schroeder) を挙げることが第二章はドイツの議論を下敷きにした開発独裁 (Entwick- できよう。アメリカにおける代表的な国際政治史家である lungsdiktatur) 論が、スペイン、イラン、韓国を事例としな がら論じられる。これに続き第三章では、コックス (Rob- 彼の著作、特に『ヨーロツ。ハ政治の転換、一七六三ー一八 er ( w. cox ) の議論を軸に、よりマクロな国家の発展段階が 冶四八』 (paul W. Schroeder. The T き、 0 、きミ E に、 e 際 p 。ミ釁こ、 63 ー 7848. Oxf0 「 d: Oxf0 「 d University p 「 ess, 一 994 ) な論じられ、第四章では一七ー一八世紀の古典的な権力政治 国 どは、国際政治学者にも多く引用されている。それは何よ論が扱われる。そして最後に帝国主義論が政治学的な視角 から再構成され、紹介される。 考りもこの本が、リアリスト的な国際政治システムのイメー 著 つまり、通常の意味での国際政治史が扱われているのは ジを意識し、それを検証することを念頭に歴史記述が行わ 名 れているからであろう。実際、この本の骨子ともいえる部第四章のみなのである。多少定義を拡大しても、第五章ま 分は、政治学のトップ学術誌の一つであるミミミでが一般的に想定する意味での国際政治に関わるものであ り、そのほかの三つの章はやや予想を裏切る内容となって 誌に論文として掲載されている朝。
140 ( 8 ) 神川彦松「外交史学から国際政治史学へ」、『政経論叢』 第五号、一九六六年、六頁。 ( 9 ) 細谷雄一「国際政治史の系譜学ー・・・戦後日本の歩みを中 、いに」、前掲『歴史の中の国際政治』二四頁。 ) Paul W. Schroeder. "The 19th Century lnternational System: Changes in the Structure," VT 「ミミ PoIitics, VoI. 39. NO. 1. pp. 1 ー 26. 高橋進『ドイツ賠償問題の史的展開ーー国際紛争および 連繋政治の視角から』岩波書店、一九八三年、三六三頁。 ( 肥 ) 斉藤孝『戦間期国際政治史』岩波書店、一九七八年、五頁。 ( ) 高橋進「国際政治の歴史」、『国際政治学人門』 ( 法学セミ ナー増刊 ) 、日本評論社、一九八八年、一二六 ー一三五頁。 (ä) 岡義武『国際政治史』岩波書店、一九五五年 ( 岩波現代 文庫、二〇〇九年 ) 。 ( 新 ) 坂本義和「解説」、『岡義武著作集』第七巻、岩波書店、 一九九三年、二九七頁。 ( 炻 ) 高橋の「多層性」へのこだわりは、川嶋周一の優れた著 書への書評において、「多層」か「多次元」かという、瑣末 に見える問題への執拗さは言及にも見て取れる。この書評で は、「この時代のヨーロ " ハの国際政治の構造をどのように 分析するのか、それには国際政治学や比較政治学の成果を援 用することも一つの方法であろう。さらにもう一つ国内政治 との関係を組み込む必要があるであろう」などと、高橋自身 の関心事が率直に表明されている。高橋進「戦後ヨーロツ。ハ 外交研究の地平ーー川嶋周一著『独仏関係と戦後ヨーロツ。ハ 国際秩序』を読んで」、『創文』第四九九号、一〇ー一三頁。 ) Peter A. Hall, "The Dilemmas of Contemporary social Science ・・ . b ミミ d ミ 2. V 三 . 34. No. 3.2007. pp. 125 ー 126. ( ) 篠原一『ヨーロソ パの政治ーー歴史政治学試論』東京大 学出版会、一九八六年。なおこの点については、網谷龍介 「比較政治研究における「歴史」の変容」、『同時代史研究』 第六号、二〇一三年、二七ー三五頁、を参照されたい。 ) 高橋進「冷戦の崩壊ーーヨーロッヾ、 ノ」『平和研究』第一 六号、一九九一年、九頁。 この点については、本書第四章に続く事例分析を参照さ れたい。高橋進「一九一四年七月危機ーー「現代権力政治」 論序説」、坂本義和編『世界政治の構造変動 1 世界秩序』 岩波書店、一九九四年、一〇九ー一八一頁。なおこれとは異 なる転換点の認識として、藤原帰一「主権国家と国民国家 「アメリカの平和」への視点」、『岩波講座社会科学の 方法 >< 』岩波書店、一九九四年、四三ー八〇頁、を参照。 1 ) 高橋進「西欧社会のゆくえ」、馬場伸也編『国際関係』 ( 講座政治学 > ) 三嶺書房、一九八八年、四九ー九一頁。 ( ) 高橋進「ドイツ外交の現在ーー外交空間試論」、鴨武彦 編『。ハワー ・ポリティクスの変容 リアリズムとの葛藤』 ( 講座世紀間の世界政治 5 ) 日本評論社、一九九四年。 ヾレ・ヒス、「リ . ー ) 但し田中孝彦はグロー の「部分性」を 指摘する。田中孝彦「国際関係研究における歴史・ーーその課 題、および理論との対話」、山本武彦編『国際関係論のニュー フロンティア』成文堂、二〇一〇年、一八ー五一頁、を参照。 ( 幻 ) 中村研一「追悼高橋進・元副会長」、『日本平和学会ニ ューズレター』第一九巻第一号、三頁。 ) 高橋進『解体する現代権力政治』朝日新聞社、一九九四 年、三一九頁。
「外交史」担当者の神川彦松は、当初欧州外交史の研究に「外交史」のままだった。 神川彦松は「國際政治史」という分野の確立に尽力した。 邁進した。禪川は、パリ講和会議に参加する立に同行して、 仏独に留学し ( 9 ) 、欧州情勢の現状分析を旺盛に行。て、国神川はそれを広義の政治史に含め、狭義の政治史 ( Ⅱ国内史 ) と対置した ( 。また時代は主に近代を扱うとしつつも、古 際法関係の雑誌に掲載した朝。また神川は吉野と同じく、 アナーキーな国際社会を束ねる新しい試みとして、国際聯盟代国際政治史、近世国際政治史、現代国際政治史という具合 に、広い時代を視野に人れていた信 ) 。神川は更に、「國際政 にも興味を示したⅱ ) 。だが禪川は、欧州大戦の起源を探る へく、ビスマルク再保障体制の研究を行い、吉野とは反対に、治史」と相互補完的な学問として、「國際政治學」を提唱し た。神川によれば、「國際政治史」は国際政治の事象を一回 ドイツの侵略意図を強調するヴェルサイ「条約に疑問を呈し 的・個別的現象として扱う研究でありを、概念の分析であ 神川が「國際政治 ヨーロツ。ハ外交史の研究を進める過程で、川彦松は「國る「國際政治學」と対置されるという。 年際政治史」という概念を打ち出した。「まづ最初に近代國際學」で分析した概念とは、「帝国主義」「民族主義」「文明」 國などで、これらは神川の近代外交史研究と密接に関連してい の政治史とはどういふものであるかについて一言しよう。「 ー」とか た。神川が概念の研究を重視した背景には、彼が社会科学と 際政治史」とか、「インターナシ「ナル・ヒストリ 治 いふ言葉は、わが國ではもとより諸外國でも、ごく最近から歴史学との協力 ( 理論科学の歴史化、国際政治史の理論化 ( 国際政 政 際使用されだしたものであって、從前には、普通に「外交史」治学による普遍妥当的な社会法則の定立 ) ) という課題を意識して いたことがあった (> 。 といふ名で呼ばれてゐたのである。しかし學問的用語として けは、「外交史」といふ言葉よりも、「國際政治史」といふ方が、神川彦松の国際政治史構想には、以下の内容的特徴があっ により精確であるので、私は「國際政治史」といふ言葉を夙く た。曰国際関係を大国間の権力闘争として描き、特に覇権国 学から使用してゐるのである。そこで近代國際政治史といふのの盛衰に関心がある。ロ大国間の権力闘争を善悪抜きに論じ 法 は、平たく中せば、近代國際團體における諸國家の權カ鬪爭ている。「民主的」諸国は非「民主的」諸国よりも「えらい」 大 と、その興亡・盛衰の歴史にほかならない」 0 。神川の説くという吉野作造流の規範的世界観をとっていない。神川は 京 東「國際政治史」とは、詳細な外交過程ではなく、大国の興亡「歴史科学」における「道徳的非難」を強く戒めているが、 平和主義に慣れた現代の感覚で読むと、大国間権力闘争を肯 を大局的に描く研究であり、文明史的な色彩も帯びていた。 とはいえ神川が東京帝國大學法學部で担当した授業の名称は、定しているかのようにも見える。曰「民族」を有史以来永遠
網谷龍介 高橋進の、結果として最後となった著書は、『国際政治実際にはこの語は、何らかの形でディシプリンの境界を 史の理論』という論文集である。一見するとこれはごく平「越える」ものとして構想されてきた ( 2 ) 。 ジ その一つは、歴史学と社会科学の境界である。国際政治 凡なタイトルである。国際政治と歴史、そして理論という プ ( のいずれも内容が容易に想起できるものであ学の誕生において、歴史研究がその母体の一つであり、な 三つのコト。 り、その組み合わせが示す内容も自明であるかのように見おかっその後も歴史学の間に交流があることが望ましいと える。しかし、本書は、その標題をある意味で裏切る内容されてきた。国際政治史はまさにその交流の場となる ( 3 ) 。 このことを、アメリカにおける代表的なヨーロッパ国際関 治を含んでいる。本稿はこの「奇妙な」論文集を切り口に、 際高橋における国際政治史が「国際政治の歴史」という字義係史家であるトラクテンバーグ ( M 。 Trachtenbe 「 g) は、次 国 通りの内容をこえた、野心的なプロジ = クトであったことのように述べて、アメリカ国際政治学と国際関係史の関心 の共有と、相互の交流可能性を強調する。 考を簡単に示すものである ( 1 ) 。 著 1 国際「システム」の歴史としての国際政治史 名 国際関係論の理論家たちは、究極的には我々と同じよう な種類の問題に関心を持っており、もし我々「国際関係史 国際政治史とはどのような学間なのか。字義通りに捉え 家〕の目標が、我々自身の学問分野を知的により首尾一 れば「国際政治」という対象の「歴史」であろう。だが、 名著再考 「国際政治史」というプロジェクト 高橋進『国際政治史の理論』の射程
1 18 は地味な存在だった親英米派の岡にも、俄かに出番が巡って ニ岡義武による「国際政治史」の内政傾斜 きた。 東京大学法学部に「過去の克服」はない。一般に自己の正 岡義武は、神川彦松が担ってきた「外交史」講義を一九四 統性、卓越性を主張する組織では、自己批判という発想は生七年のみ担当し、この講義を単行本化した際に『国際政治 まれにくいを。公職追放された神川彦松、矢部貞治、小野史』と表題を付けた。とはいえこの著作は、神川の「國 かおる 淸一郎、安井郁らについて、東京大学法学部の関係者は多く際政治史」構想とは無縁のものだった。岡義武の『国際政治 を語ろうとしなかった。代わって学部の正統派として強史』は、岡の前著『近代歐洲政治史』 ( 一九四五年 ) の発展版で、 調されたのが、大正デモクラシー期に採用され、総力戦体制「国際政治史」として一から構想されたものではない。それ に抵抗したとされる南原繁、高木八尺、田中耕太郎、宮澤俊は各国内に於ける階級闘争の状況、換言すれば「市民的政治 義、横田喜三郎ら「リべラル」な敎授たちゃ、その薫陶を受秩序」の形成・発展・動揺を考慮して、欧州国際政治の展開 けたという戦後民主主義の旗手丸山眞男の逸話である。法学を説明するというもので、国内の社会経済状況に配慮した国 部図書館に寄贈されていた上杉愼吉の蔵書は雲散霧消したが、際政治論である ( 「市民」は文中では「プルジョワ」にな。ている ) 。 「吉野作造文庫」「小野塚喜平次文庫」は一体で保存された。 岡の『国際政治史』は、ドイツを含めた西欧諸国中心の叙述 「日本国憲法」体制が安定し、マルクス主義の流行が落ち着で、エピソードに富んだ面白い読み物にな。ているが、本格 くと、美濃部達吉や吉野作造が日本民主主義の源流として再的なマルクス主義史学ほど分析的ではなく、内政優位論が貫 評価され、恰も東京帝國大學法學部が「軍国主義」日本に於徹されている訳でもなか 0 た。岡はこの著作で、ドイツのマ ける「良心」の砦であったかのような印象が定着していく。 ルクス主義者でアメリカに亡命したユダヤ系歴史家のフリッ 戦後の粛学が終わった東京大学法学部で政治学の中心的存ツ・シュテルンベルクなどに依拠していた。岡のマルクス主 在とな「たのが、岡義武 ( 一九〇二ー九〇 ) である。岡義武及義への傾倒は長い歴史があり、学生丸山眞男らとの対話でも、 び実弟の岡義達は、岡實 ( 農商務省・大阪毎日新聞社長 ) の御曹公然と「イギリス労働党の立場」を自分の理想として挙げて 司である。岡義武は小野塚喜平次の助手となり、恩師と同じ いた。岡は、「政治史」講義でも「社会経済史」的視点を重 政治学を志したが、同期の矢部貞治が小野塚の政治学講座を視していた ( 丸山は、岡の「イギリス労働党の立場」への傾倒は、 継承したため、吉野作造講師の下で政治史を専攻するという マルクス主義の信奉を隠すための隠れ蓑だったのではないかと見て 悲哀を味わった。神川彦松、矢部貞治らの退場により、戦中 いる ) 。検閲がない学生相手の講義では階級闘争史観の色彩
138 が実際に残したものを判断基準とするならば、問いに対し捉えようとした高橋の視角自体の重要性・必要性はむしろ て明確な答えが提示されたとは言いがたい。たとえば、複近年目に見えて明らかになりつつあると考える。たとえば 数のレヴェルがどのように交錯するかという、高橋の視座においては、「国際」レヴェルの統合・連結が危機の からは核心となる。へき論点を見てみよう。この点について、たびごとに緊密になりつつあるが、それと同時に、各国国 高橋は『賠償問題』においては連携政治 ( = nkage politics) の内政治における世論の断片化・遠心化傾向が顕著になりつ 枠組を援用した。しかしその枠組に強いこだわりを持ってつある。これを単純に「統合加速必要論」「崩壊論 いたわけではなく、その後は明示的には採用していない。 のいずれかに解消するのではなく、むしろその並存と相互 あるいは、上述の西欧社会の自己認識への注目からは、 強化自体を理解することが必要なのであり、そのためには、 「外交空間」という魅力的な切り口が提示され、ある種のレヴェルの制度と政治的ダイナミクスと、各国レヴェ コンストラクティヴィズム的アプローチを通じて国際・国ルのそれの動態的結びつきこそが検討対象となるはずであ 内を横断する変化の方向を捉える試みがなされた 2 。しる。そしてこのような一見すると矛盾する変化は、に かしその後、構築主義へと「転換」したわけでもない。 限らず、日本でも生起している現象である。 しかも、彼が遂行しようとしていたプロジェクトを特徴高橋の学問的な伴走者であった中村研一は、追悼文の中 付ける二つの目標は、近年の研究によって共有されているで、丸山真男の言う「意欲を含んだ認識」が、高橋の研究 ようには見えない。国内体制と国際体制の連動とそのメカ においては一貫して「執拗なまでに強調」されているとす る ( 4 ) 。 ニズムについて、歴史研究においてはどちらかといえば一 2 この評価に異を唱えるつもりはないが、そのよう 足飛びにトランスナショナルなものを研究することが流行な実践的変革への意欲という以前に、矛盾する変化をはら しており、国内と国際を平面としては一旦分離しておいて、んだ現状を適切に理解しようとする「意欲」こそが、むし その関係を問うという高橋のような思考法は、やや古い考ろ高橋から現在直接読み取ることのできるものではないか え方とされているようでもある ) 。また「発展」につい と考える。高橋が自らのプロジェクトに答えを出すことが ても、むしろ近年はさまざまな「退行」が議論の俎上に上できなかったのは、モデルの美しさや一貫性よりも、矛盾 がる状態であり、高橋のように、ある種の希望とともにそする現実に迫ろうとしたことの必然であるのかもしれない。 れを展望することは困難になりつつある。 しかし、本稿筆者は、多層的な政治の錯綜とその発展を政治現象は極めて複雑になっている。その一方、マスメ
るわけではない。 ができなかった (CIark 2005 ) 。 メイア—(Maier 2000a ) は、戦間期ヨーロッパ各国で発達し 領域性と正統性のゆらぎ ショナ たコーボラティズムが、国内と国際を貫くアソシェ 前節にみたいずれのモデルも、国家を制御する、もしくは リズムの原理となったことを再発見する。国際連盟の下では、 乗り越えるための、十分な条件を示せたとはいえない。そこ と少数民族の権利を保護する諸条約を中心とする国際 でヴェ ーの国家の規定に戻ってみよう。そこでは暴力と的アソシェ ーショナリズムが正統化され、それらは国家を超 ともに、領域と正統性が重要な要素となっている。 えるトランスナショナルな労使関係やマイノリティの集団的 二〇世紀史をめぐる論文でメイアーは、西欧では全体主義権利を制度化していった。だが世界恐慌に突人すると、国際 対反全体主義、非西欧では植民地主義対反植民地主義という的な賠償体制や金融体制の下で社会は痛みを強いる経済政策 異なるナラティヴに分断されているようにみえるにもかかわを強いられ、それに対する反動の中で攻撃的なナショナリズ らず、二〇世紀を領域性の出現、台頭、危機への過程としてムが猛威を振るうこととなった。こうして国際ー国内を横断 総括することができる、と論じている ( Ma 一 er2000a ) 。 するアソシェー ショナリズムによる新しい秩序は潰えた。 高橋が「ルール占領」という領域をめぐる危機を、国内政第二次大戦後の世界では、レヴァイアサン却が持続してい 治と国際関係の「連繋政治三 nkage を一三 cs ) 」としてとらえた たが、なぜ世界大の暴力的再編が再拡大しなかったのだろう ように ( 高橋 1983 ) 、ヨーロ ッパにおける領域性と正統性の門 か。国際政治学においてはカの均衡、覇権、相互依存、レジ 題は、国際ー国内の二次元の中で展開してきた。クラークに ーム論などの論争が続いているが、より根本的には国家の領 コンソリデーション よれば、近代ヨーロ ノて発達した正統性は単なる規範・道域性が固定化に向かった、ということがいえる。ラギー 義だったのではなく、国際社会を成立させるためのプラクテ によれば国家のモダニティは領域性 (territoriality) とともに成 イスであった。ウィーン会議においてタレーランやゲンツが立した (Ruggie 993 ) 。戦後の冷戦の下で東西の領域はそれ以 構想した秩序は、各国の神授説的な正統主義でも、強国間の 前よりずっと固定的に分割された。さらに西側先進国におい 機械的均衡でもなく、国内の正統性が国際的な正統性に埋めて国内と国際の正統性を両立させる「埋め込まれた自由主 込まれた「正しい均衡」からなるメンバー シップであった。義」が安定を達成した ( Rugg 一 e 一 982 ) ( ) 。 だが第一次世界大戦後のヴェルサイユ体制は、「正しいメン ただし『レヴァイアサン』も他の西欧モデルの国家論も シップ」にアメリカやドイツ、ソ連を十分包摂することグロ ーバルな多様性、西欧と非西欧の連関をとらえきれてい