政策 - みる会図書館


検索対象: 思想 2016年 07月号
77件見つかりました。

1. 思想 2016年 07月号

142 〈論文〉 「ドイツ賠償問題の史的展開 ( 一九二〇年ー一九二四年 ) ーー国際紛争及び連繋政治の視角から」 ( 全六回 ) 、『國家學會雑誌』八九 ( 九・一〇 ) 、九〇 ( 一・ 一 l) 、九〇 ( 三・四 ) 、九〇 ( 七・八 ) 、九一 ( 一 ・一 l) 、九一 ( 三・四 ) 、一九七六年九月、一九七七年 ・三・七月、一九七八年一・三月 「権威主義体制の研究ーー —・丿ンスの研究を中心として」、『思想』六三七号、一九七七年七月 「戦後日本の平和論ーー一つの位相の分析」中村研一と共著、『世界』三九一号、一九七八年六月 「日本の軍事化」大西仁、鈴木佑司、中村研一と共著、坂本義和編『暴力と平和』朝日新聞社、一九八二年 「世界軍事秩序論ーー現状と構造」、日本平和学会編集委員会編『平和学ーー理論と課題』早稲田大学出版部、一九八三年 「ドイツ社会民主党とヨーロッパ 一九四五ー一九五七年」、『国際政治』第七七号、一九八四年九月 オーストリ 「大連合体制とデモクラシー アの経験」、篠原一編『連合政治 2 ーーデモクラシーの安定をもとめて』岩波書店、 「政党政治の定着と崩壊」宮崎隆次と共著、坂野潤治・宮地正人編『日本近代史における転換期の研究』山川出版社、一九八 「ドイツ社会民主党と外交政策の「転換」 ( 一九五五ー一九六一年 ) 」、『國家學會雑誌』九九 ( 一・ (l) 、一九八六年二月 「西ドイツ政党政治の「変化」」、国家学会編『国家と市民 2 政治・国際関係』有斐閣、一九八七年 「西欧社会のゆくえ」、馬場伸也編『講座政治学 5 国際関係』三嶺書房、一九八八年 「国家の生成と機能」、宇波弘文編『岩波講座転換期における人間 5 国家とは』岩波書店、一九八九年 「環境問題をめぐる西欧の「新しい政治」」、有馬朗人他『東京大学公開講座環境』東京大学出版会、一九九一年 「西欧のデタント 東方政策試論」、大童一男他編『戦後デモクラシーの変容』岩波書店、一九九一年 「帝国主義の政治学」、大江志乃夫編『岩波講座近代日本と植民地 1 植民地帝国日本』岩波書店、一九九二年 "The lnternationalization of Kanagawa Prefecture. ・・ The 、ミ e ミ ~ ・ 0 ミ ~ ・ミ ~ ミ ~. Eds. M. Weiner and G. D. Hook. Rout- ledge. 1992 「政権党か万年野党か」「日本外交とドイツ外交ーー外交政策の在り方に関する比較」、平島健司と共著、山口定、・ルプレ ヒト編『歴史とアイデンティティ 日本とドイツにとっての一九四五年』思文閣出版、一九九三年 一九八四年 五年

2. 思想 2016年 07月号

るとともに、とめどない支配の欲求を抱くことになった。国 家」となる、という強迫観念をもたらした。しかしハルデー ンは、現実には国家主義は紛争を終わらせず、むしろその原家は自由の擁護者から、隷属を強いられる人々の主人となり、 因をつくり出したのであり、現在のソマリアやアフガニスタ最大限の戦争効率性を達成するのに必要な能力を掌中にした。 ン、イラクの問題に対しても、国家建設が唯一の解決なのでその究極に、全体主義国家が存在する ( S 它 ne 三 e Rossi 2006 【 このような分析は、メイアーのレヴァイアサンの 、と論じる。国家や国家関係の不安定な状況において、 11 ー 13 ) 。 複合政体は別の形の正統性や安定を提供した。その実践例が描く国家拡大論とほぼ同じ視点に立っといえる。 では主権国家に対するオールタナティヴとは何であるのか。 一六四八年の後の神聖ローマ帝国、一七七六年の後の初期ア 宣言は様々な過去の選択肢をーー旧い国家機構と帝国的勢力 メリカ合衆国、一九五一年の後のであった ()b ミ。 174 ) 。 今日のの直接の起源としては、ジャン・モネの石炭鉄均衡の復活も、集団化型の共産主義も、カトリック、コーポ 鋼共同体構想やベネルクス関税同盟が重要視される。だが主ラティズムもー丨・個人の従属をもたらすものとして却下する。 権国家と異なるモデルを追求した思想としては、戦時・戦後こうして宣一言は、最善の未来として社会改革を伴う「欧州の ヒをみ統一」を掲げたのである ( lb 一 d こ 8 ー (1) 。 直後のいわゆる「連邦主義者」達にラディカルな理論イ ただし現実の欧州統合は、市場と法の広域単位として大き ることができる。ナショナリズムが極端化した第二次世界大 な成果を挙げながらも、スピネッリの理想を成就したわけで 戦の最中、ヨー ハの抵抗運動指導者達は ( しばしば政治犯 として収容されて ) 連帯を強め、戦後秩序の構想を生み出した。はなかった (Mazower 20 406 ー 4 こ ) 。統合の拡大深化は「民 その中でも、イタリアのスビネッリらによるヴェントテーネ主主義の赤字」や欧州懐疑論を生み出した。ューロ危機後の トの進める「政治なき 宣言は、戦後欧州統合につながる理念を打ち出した文書としではテクノクラティックなエリー て知られる ( そのテキストは、一九四一ー四三年の現存しないタイ政策」と、ポピュリズムが叫ぶ「政策なき政治」の乖離があ 学 る。つまり、従来の政体の機能が欧州大に拡大されても、正 治プ版も含めて複数存在する。八十田→ 99 Lipgens ed. → 985 【 47D 。 史この宣一言は、近代の文明と国家のもたらす危機の分析を劈統性はそれに釣り合わないのである。はそのような緊張 の頭に置いている。近代文明は自由を原理とし、主権国民国家をはらみながら、主権国家を超える制御を続けていくであろ う ( 小 川 20 遠藤 2013 ) 。その一方で、紛争地の国家破綻状況 国は狭い。ハロキアリズムを克服して、人や財の流通、低開発地 に対してはーーその責任が国家主義にあるにせよ 域の発展をもたらした。しかし集合的生活の最も効果的な組 織とみなされた国家はそれ自体聖化され、お互いを脅威視すアメリカ合衆国のような高度な複合政体が直ちに現実的であ ロ

3. 思想 2016年 07月号

、つになる。 (Mann 2005 ) において最も先鋭に表出されており、民族浄化 とはデモクラシーの時代の現象であると主張される。特に開①帝国が議会代表制のような開放的な制度をも。ていた場 拓植民地については、いわゆる民主的な国家の方が数量的に合で、かっ対象地域に交渉・合意できる制度能力があれば、 は高率の先住者の死をもたらす傾向があったとされる。 領土取得のない「抑制的均衡」が保たれる。②もし対象地域 この立論については、レイティンが実証的な批判を向けてが十分な制度能力をもたないのならば、帝国間の「礼儀正し いる。マンの挙げている大量死の事例の大半は非民主的な国い帝国主義均衡」によりチ = ッカー盤の如く分割される。③ 家によるものであり ( トル「、ナチス・ドイツ、ソ連、中国、カ帝国自身が閉鎖的な政治制度であ。た場合、「好戦的帝国主 ンポジア、旧ユーゴスラヴィア、ルワンダ ) 、開拓植民地につい義均衡」となりやすい。①の例は、清朝中国に対する米・ ては観察事例を増やせば立証できないという ( La 三 n 2006 ) 。 英・仏・独の対応であり、これと対照をなす③の例は、非民 これに対しマンは、デモクラシーそのものが民族浄化の「犯 主的制度であった日・露の帝国政策であったとされる。また 人」なのではなく、「全人民」による統治という西欧近代の対象地域の制度能力が低くべルリン会議で分割されたアフリ 原理から、大量の人間の死という歪んだ結果がもたらされた、 力は②の例とされる。さらに脱植民地化についても、民主的 と応答する。大量殺戮を引き起こす民族対立は、人間社会に 制度のイギリスがインドに対し収奪から公共財提供に重点を 常にあ「たのではなく、モダンな現象である、という点をマ移す政策を採り、戦後の脱植民地化を早く受け人れたのに対 ンは再強調する (Mann 2006 ) 。 し、一九七〇年代まで非民主的だったポルトガルは植民地主 義を脱却しえなかった、とされる。 合理的な帝国 ? スプライトの『帝国を終わらせる』 ( spruy ( 2005 ) も、合理 政治学全般に全てを合理的に説明しようという趨勢がある的な比較政治学の適用の例といえる。同書によれば、政治指 中で、帝国が合理的な秩序に向かうはずである、という議論導者に対抗する政党や軍部、多党制のような「拒否点」が多 も存在する。プランケンの『合理的な帝国ーー・制度的インセ い国では、脱植民地化政策が円滑に進まない、 と予想される。 ンティヴと帝国の拡張』 ( B 一 anken 2 日 2 ) は、その好例である。 マクミランやドゴール、ゴルバチョフのような指導者が脱植 同書は、従来のマルクス主義的な説明、国際政治史的な説明、民地化のイニシアティヴを採れたのが戦後イギリス、第五共 現地中心的説明のいずれよりも優れた説明として、合理的制和制フランス、改革期ソ連であり、「拒否点」が桎梏とな。 度・均衡論を主張する。その議論を要約するならば、次のよ たのが戦後オランダやポルトガル、第四共和制フランス、イ

4. 思想 2016年 07月号

増島建 置 認識枠組みが先進国においてとられたのかを検討し、次いで 配 はじめに 策 その下での政策類型を検討した上で、今日の認識枠組・政策 政 イラク戦争後の今日にいたる国際政治の展開をみるとき、 配置を分析する。 中東やアフリカにおける内戦、移民・難民、イスラム過激派 1 冷戦終焉直後の認識枠組ーーニつの世界 ? 上の活動、中国をはじめとする新興国の台頭が世界政治の焦点 途 る に浮上した感がある。本稿は、今日の先進諸国において、対冷戦終焉前後にみられた国際政治の今後の方向性に関する ナ . 途上国関係がどのような認識枠組の下で考えられ、どのよう議論においては、東西問題 ( 東側諸国の混乱への対応 ) あるいは お な政策配置がみられるのかを検討することを目的としてい 北々関係 ( 先進諸国間の関係 ) が中心になるとの見方が中心を占 諸る ( 1 ) 。今日先進国にと 0 ては、途上国との関係が大きな比めていた。そうした中で、南北関係 ( 途上国との関係 ) がむし 先重を占めることは自明の感があるが、袵戦終焉という近年最ろ重要であるとの見方も少数ではあ 0 たが存在していた。た 後大の国際政治上の変化の直後には、それは数ある今後の世界とえば歴史家ポール・ケネディらによる議論である ( 2 ) 。ケ 冷のシナリオにおける一つにすぎなかった。以下では、今日のネディらは、冷戦後の米国がとるべき戦略に関する一連の議 ンティントンの 先進国による対途上国政策の配置を検討するために、まず冷論 フクヤマの「歴史の終焉論」 ( 3 ) 、 戦という東西対立の重しがとれた冷戦終焉直後にどのような「文明の衝突」 ( 4 ) 、カプランの「来るべきアナキー」 ( 5 ) 、大 冷戦後の先進諸国における途上国認識・政策配置 , ーー介人と主権の相克・ーー ノ

5. 思想 2016年 07月号

側もイギリスとの直接対決を望まず、妥協点の模索に努めて協定やイタリアの経済援助を介して自立の方向が模索され、 いた。むしろイギリス帝国側の戦略優先志向が問題の硬直化一九七四年の憲法改正にともない共和国が宣一言された。その ノへの統合に移行が図 間マルタでは、対英依存からヨーロツ。、 を招いた側面は強かった。 実際、戦間期のマルタをイギリスは帝国要衝の地としてのられる一方、マルタのアイデンティティー自体も単に島内の み認識し、戦略的位置づけ以上の価値を見いださなかったよナショナリズムから派生するのではなく、北アフリカ地域へ うにさえ見える。すなわちイギリス本国政府は、文化・教育移民したマルタ人からも想起されていった。他方、マルタは 面への支出に極めて冷淡で、住民は治安政策の対象として扱識字率が内最低に近く、一九六〇年代初めまで視聴可能 われていたため、イタリアが一一 = ロ語・文化面で浸透する余地をなテレビ番組はイタリア < —放送のみであった。こうした ヨーロッヾ、 くイタリアに 生ぜしめたともいえよう。これと対をなす如、 地中海、マルタを包含する重層性が立憲主義に とってマルタは、対外文化・教育政策が制度化されていく時基づく民主体制によって接合され、戦後の政治、経済、文化 期に、帝国の膨張を画策する実験場となり、潤沢な資金が投の発展へとつながっていく朝 ) 。 二〇世紀に人ってからの各帝国は、内に向けて自らの正当 じられたことから、イギリスとの摩擦が生じ、「文化外交」 を複雑化させた。ところが、制度化のモメントは、個人裁量性を誇示し、外に向けて文化宣伝を行なった。内外の包摂、 が優先する組織化の契機をもたらしたにすぎず、国内・国際編入を図るという意味で「文化外交」も役割を拡大させた。 的権力闘争の奔流に押し流されてしまった。せんずるところ、しかし、周辺地域の編人に成功するや、内に向けて排除もし くは同化政策を強行し、まつろわぬ人々を弾圧していく。そ 島内を二分した言語間題そのものが収束するのには、戦争の れらの内外のギャップが激しいほど差別的な階層性は顕現し、 終結と民主的憲法の復活を待たなければならなかった。 一九四七年に自治を回復したマルタが戦後にたどった道の帝国の支配構造も矛盾を表出させ、外からの干渉を招くこと りも平坦ではなく、 一九五八年には再び総督の憲法停止措置になる。こうして、平和的営みに結びつく可能性のある一一 = ロ語、 がとられた。しかし、一九六一年のイギリス本国による調査文化、教育といった領域でも、帝国の優劣を競う要素が強調 委員会報告後、憲法の国民投票が実施され、一九六四年に独されるようになり、公的な文化の内実は治安対策や闘争手段 に利用された。こうした第二次世界大戦前の傾向は、アイデ 立を果たすことになる。それでも、イギリスに対する基地の ンティティ ・ポリティックスに類する形で残存していく反 貸与と交換に年五千万ポントが提供されるという従属関係は 続いたが、 Z<+O 諸国を対象とする一九七二年からの七年面、マルタでは脱植民地化と民主化に向けて、相互主義的な

6. 思想 2016年 07月号

一 ( イ ' 遥かな日本、、欧州からの呼び声 ク欧州に新たな風が吹てる。それはで台頭してる。それは「与党も野党も ー一ン 8 による緊縮財政の強制に「 zo 」を大差なし」と醒めていた人々に、いまと 叩きつけたギリシャの市民一揆に始まり、は違う道は存在することを示す政治家た セー加 イ本 英国では「時代遅れのマルクス主義の爺ちが登場したからだ。彼らは、勝てる左 ッ の コ 1 ビン派だ。勝てない理由を真摯に受け止め、 さんーと笑われたジェレミ 1 ・ ら た が労働党党首になり、スペインでは市民あらためて、敗けるというお馴染みの場 運動から生まれたボデモスが結党二年目所でまどろむことを拒否した左派だ。こ テの礬 で第三政党に躍り出た。独立投票で世界の欧州に吹く風が、地球の反対側にも届 イら b を騒がせた ( スコットランド国民くことを祈りながら本書をぶち投げたい。 か 党 ) も、ナショナリストと呼ばれるわり Europe calling to the faraway towns... には政策は社会民主主義である。 プ者ョ 難民問題で右傾化していると言われる 欧州では、実のところ左派が猛烈な勢い 9 レイディみかこ / ライター・保育士 )

7. 思想 2016年 07月号

超えた法による秩序がみられ、国内政治と国際政治の垣根が は、世界が二つの地域に分かれているとしても、両者は離れ がたく結びついている点を強調する ( 相互連結 ) 。 なく、個人主義的価値観が追求される地域であるとされる。 中南米諸国や、日本なども含まれるとされるが、米国は、国フクヤマ、ケネディ他、。フザンの議論においても相互連結の いかにポスト産業諸国が望ん 内の憲法が何にもまして優先されるべきとの考えが強い点で視点を見出すことができる。「 自国の主権に固執しており、 ( ポスト近代への移行の動きもみらでも、より人口が多く、騒乱に満ちた別の世界から隔離され れるものの ) 近代に属するとしている。 ることは不可能である」 ( リとの認識をそこにはみることがで これらの議論に対しては、以下の二つの観点から批判するきよう信 ) 。 ことが可能であろう。一つは途上国圏ではリアリズムによる 以下では、これまで検討してきた先進国による冷戦後の途 政策が妥当するとの見方に関するものである。途上国におけ上国認識をもとにして、先進国による対途上国政策のあり方 る国家は、リアリズムが想定するような凝集性をもった存在を分析することにしこ、。 オもまず先進諸国における政策パター ではないことが常態であり、「弱い国家」 ( weak state) がむし ンを類型化し、それぞれが二つの地域の関係についてどのよ ろ特徴である。国外の脅威に対抗して自己の存続をはかると うな見方を展開しているかを検討する。 いうよりは、弱い国家基盤の上で、国内での脅威からどのよ 2 冷戦後先進国における途上国政策の政策配置 うにして自己を守るかが政権の関心事となる。そうした途上 国圏において、凝集的な国家が対外的に影響力を競い合うと ここでは、途上国の主権についての考え方 ( 先進国による軍 の見方がはたして妥当するのか疑問であろう ( リ。 事的な干渉を認めるか否か ) と国内のイデオロギー配置 ( 左派か もう一つの点は、異なるものとして認識される二つの地域右派か ) 信 ) の二つを軸にして政策配置に関して四つの類型を の関係がどのようなものかについての分析が総じて弱いこと抽出する ( 図 1 ) 。 である。一方には、二つの地域は基本的に分かれており、峻まず左下 ( ① ) には、途上国の形式的主権を尊重するととも に、先進国国内においては左派に位置する主張が人る。こう 別できるとの見方がある ( 分断 ) 。ゴールドガイアーとマック ファールの「二つの世界の物語」は、途上国地域においては、した立場を代表するのは、伝統的な左派 ( 第三世界主義者 ) で ネオ・リアリズムが引き続き妥当するとして、市場主義が支あり、労働組合など基本的に国内利益を主たる関心事項にも 配する先進諸国とは明白に異なるとしており、両地域は分断っなどが含まれる ( リ。 (decoupling) されていると主張している ( リ。もう一つの見方次に右下 ( ② ) には、国益追求の世界というリアリズムの世

8. 思想 2016年 07月号

るとする国際政治学の主流の考え方である ( 9 ) 。第三の考えヴェスタッド ( wes ( ad2005 ) は東西「冷戦」が、戦後の「第三 方は、最近マゾワーらによって主張されているもので、国際世界」の形成と一体であったという意味において、「グロー 連盟、国際連合という普遍的な国際機構が帝国的覇権から連 バル冷戦」であるという見方に立つ。「グロ バル倫戦」は 続的に発展したとするものである。 帝国主義を批判しつつ、帝国を継承するものだった。米ソは 帝国は国際連盟や国際連合のような普遍的な国際機構とは旧式の帝国主義に反対したが、同時に自らをモデルとするモ 対極の存在であるように見えるが、マゾワ—(Mazower 2 日 2 】ダニティを「第三世界」の独立諸国に植え付けようとした。 128 ) はそれらが連続していたことを象徴するものとして、 文化的な政策から武力介人までを含むその手段は、植民地時 「実は国際連盟はもう始まっている。イギリス帝国が一つの代後期の新帝国主義にきわめて似通ったものであった朝。 ジの 国際連盟なのだ」と一九一八年に語ったロイド日ジョー ④非主権国家モデルを求めて 言葉を引用している。マゾワーはこのような国際機構の起源 を「帝国主義的インターナショナリズム」という一見奇妙な これまでの国家とは異なる発想で、別の政体モデルの可能 概念で言い表している。その主唱者はポーア戦争でイギリス性を唱える議論もある。それらの議論はのような非主権 相手に戦ったのち、南アフリカ連邦の首相となり、「英連邦」国家型の新しい政体に注目しつつ、そのモデルや起源を歴史 に未来を見出したスマツツだった。彼の構想とは、英米の強上存在した複合政体ー、、ヨーロツ。 ( 中世社会、北欧のハンザ 固な同盟の下で国際的な政治共同体を組織し、平和と「文明同盟、神聖ローマ帝国など に見出そうとする ( Te Brake 化」を確保しようとするものであった。白人国家による「文→ 998 spruyt → 999 Zielonka 2006 ) 。ハルデーンの『国家性なき 明化の使命」を唱導する思想は、サー・アルフレッド・ミレ 安定』 (Haldén 2011 ) によれば、アリストテレス、マデイソン、 ナーと弟子達のオックスフォード・ ヘーゲル学派に先例をみライプニツツ、モンテスキューらの政体論、ヴォルフの国際 ることができる。国際連合の前文にも足跡を残したスマツツ法学などを複合的共和政の豊かな理論の伝統として再評価す の思想に当時厳しい批判を向けたのは、人デュポイズ ( ア る。これ対しポダンやホッ。フズ、ヴァッテルらの主権国家論、 フリカ系アメリカ人学者・活動家、のち米国籍放棄 ) のみであった国家関係論は、「そうあるべき」という当為規範の一つであ (Mazower 2009 【 28 ー 65 ) 。 ったにもかかわらず、権力を集中した国家しか存在しえない、 ここで忘れてならないのは、反植民地主義を掲げたアメリ という事実認識の独占をもたらしたと批判される。後者の国 力の覇権期が米ソ冷戦時代でもあったという事実であろう。家主義は支配的となり、国家建設ができないならば「失敗国

9. 思想 2016年 07月号

事件としては 9 ・ 1 よりもイラン革命 ( 一九七九年 ) のほうがカは、テロリズムという悪を根絶する「良い」暴力であると よほど重要であった」 ( 絽 ) のである。さらに、アフガニスタン主張されていくことになる。 へのソ連軍の侵攻はイスラーム世界、特にアラ。フ世界にジ、 それでは「悪い」暴力とみなされているテロリズムとはい トの戦士を生み出すことになる。現在の世界内戦的な状況かなるものであろうか。その考察のためにはテロリズムの意 の始まりは、 9 ・Ⅱではなく一九七九年と言えるであろう。味を明確にしなければならない。しかしながら、テロリズム 革命国家イランは、サウジ・アラビアなど湾岸産油国やイラ という概念は「非人道性、犯罪性を付与する」という機能を もつ「ラベリング」のための概念でもあるため、客観的な観 クなどに体制の打倒を呼びかけて革命の輸出を試みた。また、 レバノンではシーア派組織ヒズボラ ( ヒズプ・アッラー ) が結成察・記述のための概念として定義することが大変困難であ された。協力関係の崩壊の影響は二国間の関係の問題に限定る朝。むしろ、意味が曖味な方が政治的には価値がある。 国内レベルだけでなく国際レベルにおいても政治的エー されずに拡大した。 イラン革命後に米国で成立したレーガン政権の下で、対テはラベリングを利用して人々の敵、すなわち社会の敵 (public ロリズムが対外政策において重視されるようになる。米国大 enemy) を創出し、自らの地位を保とうとする。テロリズム 使館占拠事件で人質とされた大使館員の帰国歓迎式典が開催の普遍的な定義が存在しないことが、権力をもっ集団が他者 の特定の行為に対して恣意的にテロリズムのレッテルを貼る された一九八一年一月二七日、大統領に就任したばかりのレ ーガンは「国際的活動のルールが侵害された時には、我々の ことを可能にしている。しかしながら、恣意的にテロリズム、 テロリストのラベリングを行っていると、誰が社会の敵かを 政策は素早く効果的な報復政策となることをテロリストに認 識させなければならない」とスピーチで述べた。翌日の記者判定する権威・権力の正統性を失うことになる訂 ) 。イスラ ハレスチナ人やムスリムの行 会見で、国務長官へイグは「我々の関心事において、国際的エルの同様な行為は容認して、 帝なテロリズムは人権にとって代わるであろう。なぜなら、国為をテロと見なすという恣意的なレッテル貼りに加え、対テ ロ戦争における事実上の無差別攻撃、特に空爆やドロー 東際的なテロリズムは究極的な人権侵害だからである」と述べ よる攻撃によって生じる民間人の被害の存在は「社会の敵の 代た ( 的 ) 。 現ある意味では、イラン革命後の米国の対湾岸政策は新たな判定権力」の正統性を失わせ、国際政治における米国の正統 協力メカニズム構築の努力の歴史と言えよう。その際、テロ性にも影響を与えることになる。 支援国家の打倒、対テロ戦争などと、自らが行使する国家暴 9 ・Ⅱ以降、大統領ブッシュは、中東における帝国的支配

10. 思想 2016年 07月号

朝鮮の反対を無視してまで、韓国との関係を可視的に改善すの関係を改善するよりも北朝鮮との伝統的な関係を維持する る方向にまで突き進むことはなかった。 ことの方が自国にとって有利だという認識を持っただけのこ とであり、それ以前とは質的に異なった判断に基づくもので おわりに あった。七〇年代における韓国の対中ソ外交とそれへの中ソ 一九七〇年代に人って陣営を跨ぐ形で展開された韓国外交の対応に関する分析は、韓国と中ソとの外交が、狭義のイデ くリアリズム外 は、九〇年韓ソ国交正常化、九二年中韓国交正常化という形オロギー外交から、国益の合理的計算に基づ で実現することになる。これは一義的には九〇年を前後する交へと変容しつつあったことを示すものである。八〇年代の グロ ーバル冷戦の終焉によるインパクトが大きいことはもち 北方外交は、七〇年代には既に準備されていたのである。 ろんであるが、グロ ーバルな冷戦の終焉を超えてそれ以後も そうした観点から、七〇年代の朝鮮半島冷戦は次のように 南北分断が持続したことを考慮すると、こうした帰結がこの再解釈され得る。一九七〇年代の韓国外交には、一方で「二 時点でもたらされたのは、韓国が対中ソ外交の実績を蓄積しつのコリア」政策に現れるように現状維持指向が強かった。 てきたことも重要な要因である。七〇年代の韓国の対中ソ外もちろん、それ以前、南北朝鮮とも唯一の正統性を競い合っ 交を阻害した条件である中ソ対立が後景に退くだけでなく、 ていたことからすると、「二つのコリア」政策は大きな政策 韓国が北朝鮮を経済的に逆転し、さらに八〇年代以降も持続転換ではあったが、少なくとも、「二つのコリア」という現 的な経済発展を達成し、世界経済において一定のプレゼンス状を認めるという意味では現状維持政策であった。 を確保したことは、中ソ両国にとって韓国との関係の重要性しかし、それを明確に打ち出した六・二三宣一言は、従来、 を再認識させることになる。 陣営内に閉じられていた外交を、陣営を跨いで新たに展開す 冷戦期には、ソ連は自らの占領下で北朝鮮を建国させたと ることを明確にしたものでもあった。しかも、それ以後、維 いう「製造物責任」を負うために、中国にとっては地政学的新体制の終焉と第五共和国の成立という国内体制の大きな変 に「唇歯の関係」にあり朝鮮戦争を共に戦った「血盟」とし化にもかかわらず持続的に展開された。朝鮮半島冷戦が内在 て、同陣営の北朝鮮を支援するのが自明であった。しかし、 化する中で、南北朝鮮は体制競争、外交競争を展開し、そう 次第に、南北朝鮮とどのような関係を構築するのが自国の国した競争で優位を占めることを目標とした。そのためには、 益にとって有利なのかを計算するように変化したのである。 相互に陣営を跨いだ外交を指向した。しかも、相手に陣営を 七〇年代は、中ソともに、そうした計算に基づいて、韓国と跨がせないようにしながら、自分だけが陣営を跨ぐことを優