神川 - みる会図書館


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1. 思想 2016年 07月号

ダニレフスキイ、トインビーなど ない。たゞ近代歐洲國際政治社會がいかにして形成せられ、傾倒し、シュペングラー いかにして經營せられ、いかにして、發達し來ったかを、出に学んだ。一九八八年、神川が白寿を目前に死去した頃、彼 來るだけ確實な典據に基いて敍述しゃうと試みたのみであと東京大学法学部との関係は疎遠になっていたが、同学部 る」 2 。神川は一九五〇年、この大著の内容を、の特『研究・教育年報』は、神川の肖像写真を掲載して哀悼の意 別教養講座 ( 全一〇回 ) でも紹介したが、講座が一九四〇年代を示した。ちなみに神川の肖像写真の裏頁には、奇遇にも退 末で終わったのに対し、死後刊行されたその原稿では、一九官する坂本義和の肖像写真があった。 六〇年代の世界まで扱っている。更に一九六六年から一九七神川彦松が「國際政治史」を唱道する中で、神川がそれと 二年にかけて、神川は『神川彦松全集』を刊行した。これら対を為すと考えた「國際政治學」を担当したのが、神川と同 の著作には、神川が敗戦を超えて堅持する歴史観が示されて期の南原繁 ( 一八八九ー一九七四 ) だった。南原は帰国後の一九 もた神月こ ーまヴェルサイユ体制、ワシントン体制の不公平な 一一四年、「國際政治學」 ( 同年設置の「政治學政治學史第二講座」 ) 年性格を強調し、それを打破しようとした日独を弁明し、日本の助教授となった。東京大学法学部の国際政治学は、当初か の人やドイツ人を占領地から追放したソヴィエトの「過激きわら思想研究の色彩が強かったのである。南原はフイヒテ研究 まる民族主義」を非難した。「パクス・アングロ・アメリカ によって民族主義の起源を考察し、またカント研究で永遠平 史 治ーナ」の「巨大な平和の殿堂」など「砂上の楼閣」に過ぎな和論を考察した。但し南原は、早くも一九二五年には「政治 際 「一世の風雲児」ヒトラーは英米と連合してソヴィエト 學史」担当に変更となる ( 尚一九三九年に「政治學政治學史第三 国 を打倒しようという「大志を抱いた」という表現もある。冷講座」 ( 東洋政治思想史 ) が設置され、翌年丸山眞男が助教授に就任 る 戦については、「種族主義」の観点で考察し、その中心的主する ) 。同世代の神川とは交流が続き、戦後に立場が別れて お 体たる米仏中ソの背景には「アングロ・サクソン種族」、「ラ も、南原は友人神川を忘れなかった。南原は『神川彦松全 学テン種族」、「中国種族」、「スラヴ種族」があると診断し集』をこう推薦している。「政治と政治学のコペルニクス的 た。一九五〇年に「公職不適格」認定を解除された神川転回ーー従来の政治学と外交政策論に満足せず、新しく国際 大 は、東京大学名誉教授、明治大学教授になり、日本国際政治政治学の樹立を目ざした研究は世界においても少なく高く評 京 東学会初代理事長、日本国際間題研究所初代所長を歴任した。価されてよい」を。 神川はアメリカの対日圧力を批判し続け、矢部と自主憲法制 定運動に加わった塑。晩年の神川は「文明」論。 こより一層

2. 思想 2016年 07月号

「外交史」担当者の神川彦松は、当初欧州外交史の研究に「外交史」のままだった。 神川彦松は「國際政治史」という分野の確立に尽力した。 邁進した。禪川は、パリ講和会議に参加する立に同行して、 仏独に留学し ( 9 ) 、欧州情勢の現状分析を旺盛に行。て、国神川はそれを広義の政治史に含め、狭義の政治史 ( Ⅱ国内史 ) と対置した ( 。また時代は主に近代を扱うとしつつも、古 際法関係の雑誌に掲載した朝。また神川は吉野と同じく、 アナーキーな国際社会を束ねる新しい試みとして、国際聯盟代国際政治史、近世国際政治史、現代国際政治史という具合 に、広い時代を視野に人れていた信 ) 。神川は更に、「國際政 にも興味を示したⅱ ) 。だが禪川は、欧州大戦の起源を探る へく、ビスマルク再保障体制の研究を行い、吉野とは反対に、治史」と相互補完的な学問として、「國際政治學」を提唱し た。神川によれば、「國際政治史」は国際政治の事象を一回 ドイツの侵略意図を強調するヴェルサイ「条約に疑問を呈し 的・個別的現象として扱う研究でありを、概念の分析であ 神川が「國際政治 ヨーロツ。ハ外交史の研究を進める過程で、川彦松は「國る「國際政治學」と対置されるという。 年際政治史」という概念を打ち出した。「まづ最初に近代國際學」で分析した概念とは、「帝国主義」「民族主義」「文明」 國などで、これらは神川の近代外交史研究と密接に関連してい の政治史とはどういふものであるかについて一言しよう。「 ー」とか た。神川が概念の研究を重視した背景には、彼が社会科学と 際政治史」とか、「インターナシ「ナル・ヒストリ 治 いふ言葉は、わが國ではもとより諸外國でも、ごく最近から歴史学との協力 ( 理論科学の歴史化、国際政治史の理論化 ( 国際政 政 際使用されだしたものであって、從前には、普通に「外交史」治学による普遍妥当的な社会法則の定立 ) ) という課題を意識して いたことがあった (> 。 といふ名で呼ばれてゐたのである。しかし學問的用語として けは、「外交史」といふ言葉よりも、「國際政治史」といふ方が、神川彦松の国際政治史構想には、以下の内容的特徴があっ により精確であるので、私は「國際政治史」といふ言葉を夙く た。曰国際関係を大国間の権力闘争として描き、特に覇権国 学から使用してゐるのである。そこで近代國際政治史といふのの盛衰に関心がある。ロ大国間の権力闘争を善悪抜きに論じ 法 は、平たく中せば、近代國際團體における諸國家の權カ鬪爭ている。「民主的」諸国は非「民主的」諸国よりも「えらい」 大 と、その興亡・盛衰の歴史にほかならない」 0 。神川の説くという吉野作造流の規範的世界観をとっていない。神川は 京 東「國際政治史」とは、詳細な外交過程ではなく、大国の興亡「歴史科学」における「道徳的非難」を強く戒めているが、 平和主義に慣れた現代の感覚で読むと、大国間権力闘争を肯 を大局的に描く研究であり、文明史的な色彩も帯びていた。 とはいえ神川が東京帝國大學法學部で担当した授業の名称は、定しているかのようにも見える。曰「民族」を有史以来永遠

3. 思想 2016年 07月号

第一一号 ( 大正三年 ) 、一三、三〇頁。同「國際競爭場裡に於ける 最後の勝利」、『新人』第一五巻第一二号 ( 大正三年 ) 、二一、 四、二五、二九頁。同「戰後歐洲の趨勢と日本の態度」、『新人』 第一六巻第六号 ( 大正四年 ) 、三二 ー三三頁。同「墨西哥紛亂の 今昔 ( 一一 l) 」、『國家學會雜誌』第二九巻 ( 大正四年 ) 。同「帝國主 義より國際民主主義へ ( 上 ) 」、『六合雜誌』第三九巻 ( 大正八年 ) 。 ( 6 ) 立作太郎「モンロー主義の徹底的究討」、『外交時報』第七 七〇号 ( 昭和一一年 ) 、一ー三九頁。同「國際法上及外交史上に 於ける日獨防共協定」、『外交時報』第七八四号 ( 昭和一二年 ) 、 一ー二七頁、特に二六ー二七頁。同「大東亞戰爭の開始」、同 『米國外交上の諸主義』昭和一七年、日本評論社、三五九ー三 七八頁。 年 百 ( 7 ) 立作太郎述「外交史完大正十二年東大講義」 ( 和歌山大 の 学附属図書館蔵 ) 。同『世界外交史』日本評論社、昭和一一一年。 治 ( 8 ) 吉野博士記念会第六回例会記録 ( 複製〕東京大学大学院法 政 学政治学研究科附属近代日本法政史料センター原資料部蔵 ) 。 際 ( 9 ) 『神川先生還暦記念近代日本外交史の研究』有斐閣、昭 国 和三一年、六〇九ー六一〇頁。 る ー六一八頁。 ( 川 ) 『神川先生還暦記念』六一 お (ä) 神川彦松『國際聯盟政策論』政治敎育協會、昭和一一年。 部 ( ) 神川彦松「ビスマルク保障政策史論に就てーー國際政治史 学 法 論の本質及方法への一考察」、同編『立教授還暦祝賀外交史論 学 文集』有斐閣、昭和九年、三〇九ー四一四頁。 大 京 ( ) 神川彦松「大觀國際政治史」、『神川彦松全集』第四巻、勁 東 草書房、昭和四三年、二〇九頁。 (ä) 神川彦松敎授述『外交史』啓明社、昭和七年、二頁。 ( ) 神川彦松『外交史』一一頁。 ( ) 神川彦松『外交史』二頁。 ( ) 禪川彦松『外交史』二九ー五一頁。神川彦松「民族主義の 考察」、吉野作造編『小野塚敎授在職廿五年記念政治學研究』 第一巻、岩波書店、昭和二年、四一七ー四九一頁。禪川彦松 ー三一六頁。 「ビスマルク保障政策史論に就て」三 ( ) 神川彦松『近代国際政治史』原書房、平成元年、一ー一七 六頁。但しこれは戦後の教養講座である。愛知学院大学 所蔵の神川彦松敎授述『外交史』啓明社、昭和七年を見ると、 一九三一年の講義はビスマルクに圧倒的に重きを置き、ビスマ ルク後のドイツを略述して日清戦争で終わっており、二〇世紀 には人っていない。 ( 四 ) 神川彦松「日本外交二千六百年概觀」、東京帝國大學『東 京帝國大學學術大觀法學部經濟學部』四四四頁、「國際法 學會再出發ーー共榮圏理論の樹立へ」『東京朝日新聞』昭和一 六年一二月一日朝刊、二頁。「揺がぬ團結性ーーク波瀾クの度 に一路強化」、『東京朝日新聞』昭和一六年一二月一日朝刊、二 頁。「神川帝大教授宅で壯漢亂暴を働くーー執筆の論文に難癖」、 『東京朝日新聞』昭和九年一一月二四日夕刊、二頁。神川彦松 「世界新秩序論」、『日本國家科學大系』第一四巻、實業之日本 社、昭和一三年、一ー八五頁。 ( ) 「法律も日本的に」、『東京朝日新聞』昭和一四年一一月一 一日朝刊、一一面。 1 ) 「土屋、禪川両教授不適格」、『朝日新聞』昭和二二年九月 六日 ( 朝刊 ) 、一一面。「神川彦松年譜」、神川彦松『近代国際政治 史』原書房、平成元年、三〇四ー三〇五頁。 ( ) 神川彦松『近代國際政治史上卷』實業之日本社、昭和一一

4. 思想 2016年 07月号

116 のものと考え、それが近代に政治的自覚を強めたと考えてい であって、ゲルマン人種主義とは同視できず、「汎スラヴ主 る。四「民族主義」への一方的批判を戒め、適切に運用すれ義」とは対を為さない。 また「全ドイツ主義」にしろ「汎ゲ ば「国際主義」、つまり国際協調と相容れると考えている。 ルマン主義」にしろ、それがドイツ帝国やハプスプルク帝国 国「帝国主義」を「民族主義の弁証法的発展」として連続的の行動原理だ「たなどというのは単純至極である。百年前に に理解し、やはり「道徳的非難」を戒めている。文化の発達神川らの世代が示した印象論が、 ドイツ史家による再検討も した強い民族国家は、必然的に帝国主義に傾斜すると考えてないまま、安易に教科書に引き継がれているのだろう。 いる。因近代国際政治史の主人公となる大国としては、スペ 神川彦松は、矢部貞治 ( 一九〇二ー六七 ) や小野淸一郎らと イン、オランダ、フランス、イギリス、ドイツ、アメリカ、 並んで、昭和初期の東京帝國大學法學部の看板敎授となった。 ソヴィエトを念頭に置いている ( じ。 神川は国際聯盟を英米の支配機構と見て、「大東亞共榮圈」 神川彦松「國際政治史」の痕跡は、世界史教科書などでおの理念に共鳴し、日独伊三国同盟にも賛同した。神川も矢部 馴染みの「政策」、「政策」、「汎ゲルマン主義」の概と同じく右派団体の突き上げに遭っていたので、その経験が 念に、今も残っている。近年のドイツ史研究では、イギリス影響していた可能性もある。日本が総力戦体制に突人する中、 の「 3 0 政策」 ( カルカッタ、ケープタウン、カイロ ) に対抗する神川は矢部と共に新聞雑誌に登場し、アメリカ合衆国の圧力 「 3 政策」 ( ベルリン、ビザンテイウム、バグダッド ) という図式を非難した ( じ。また法学者でもあり続けた神川は、小野ら は聞かない。確かにドイツ帝国は世界への飛躍を目指してい と「日本文化會館」で議論し、東亜を建設する日本では「日 たが、一九一四年の段階で中近東を舞台に大英帝国と対等に本的」な法を実現する。へきだと論じた。 渡り合っていたとは言い難い。遅れた世界大国に過ぎないド 敗戦後、神川彦松は一九四七年九月に「公職不適格」とな ィッ帝国にとって、外交・軍事上の最大の問題関心は欧州情 り、五八歳にして東京大学法学部を去った ( 幻 ) 。在野の神川 勢であった。また「汎スラヴ主義」に対抗して、ドイツ帝国は従来の「外交史」講義を浩瀚な『近代國際政治史』上中下 が「汎ゲルマン主義」を追求したという説も単純化が過ぎる。巻 ( 四冊 ) として刊行し、一九五二年に「日本学士院賞」を授 ドイツ・ナショナリストが中東欧のドイツ系少数派の保護を与された。神川はここで中世末期から。 ( リ講和会議に至る欧 訴えたり、ハプスプルク帝国のドイツ系住民がドイツ帝国と 州国際政治の展開を概観し、意図的に表題を「國際政治史」 の連携を訴えたりしたのを、「全ドイツ主義的」 ( a 一一 deu ( sch ) と とした。「普通の外交史の敍述のやうに、外交場裡の樽爼折 呼ぶことはあった。だが「全ドイツ主義」はドイツ民族主義衝の經緯や、外交家の權變奇略の演技を描寫することをなさ

5. 思想 2016年 07月号

122 ようになる。この「政治学」という語は、「篠原シ、ーレ」究に依拠した理論紹介ではあ。ても、高橋自身が十分掘り下 の合一言葉として用いられていたが、外部に対して定義が説明げた研究とは言えない。権威主義体制や開発独裁などとして されることはなか「た朝。高橋にと。ての「国際政治史」想定されたスペイン、イラン、韓国は、高橋自身の専門知識 とは、「政治学」を交えた現代史分析を意味していた。高橋の及ばない地域であ「た。同僚の塩川伸明は、ソヴィエト民 は、東京大学法学部で「国際政治史」と正式に題する授業を族間題研究での蓄積を踏まえて、理論的考察『民族とネイシ 初めて行った。何故「外交史」から「国際政治史」に変わっ ョン』を執筆したが、高橋の『国際政治史の理論』は、彼の たのかは不明である。高橋は自分の「国際政治史」を構築す実証研究とは遊離していた ( 霻。理論を紹介するにしても、 る際に、神川も岡も大して意識しなか。た。神川追悼の論文網谷龍介の綿密な論考などと比較すると、その完成度は十分 集に、高橋は当時の後継者として挨拶を寄せたが、高橋の神とは言えない。高橋は「現代権力政治」 ( イデオロギーに立脚す 川への態度は冷淡だ。た。高橋は神川の好んだ大国外交史のる政治体制同士の存亡を賭けた戦い・国際政治に於ける軍事の突 手法を時代遅れと一蹴し、フィッシャー論争などを挙げて、 出 ) が「崩壊」した ( 国際政治の脱イデオロギー化・軍縮 ) という 外交史研究に於ける内政優位の潮流を説いた。内政重視の外楽観的な見通しを示したが、二〇〇一年以降の動乱の時代に 交史は、高橋が『ドイツ賠償問題の史的展開』で提唱した は、もはや適合しなくなった ( 。蓋し高橋の「国際政治史」 「連繋政治」論にも表れていた ( を。高橋が国際法学者と対話は、最後まで試論的なものに留ま。たと言える ( 四。 したという形跡もない。 高橋進の「国際政治史」講義は、彼のその時々の理論研究 神川彦松が「民族主義」「帝国主義」「文明」の概念に取りの成果を中間報告する場となり、体系的なものにはなり得な 組んだのに対し、高橋進は「権威主義体制」「開発独裁」「国か。た。このため高橋が何らかの「国際政治史」の教科書を 家」「権力政治」「帝国主義」の理論を紹介した。二人の理論 書くこともなかった。立、禪川、岡、江口、横山が講義の中 研究には大きな違いがある。神川の場合、論じた概念は全て 心課題とした近現代欧州国際政治の概説史には、高橋は余り 国際政治の概念であり、神川が同時並行で行「ていた近代外興味がなか「たらしい。彼の講義は、「政治学」への拘りか 交史研究或いは時事分析と相乗関係にあ「たが、高橋の論じらか、理論的考察の羅列になり、連続した歴史叙述にはなら た概念は「比較政治」理論、つまり内政に関するものが大半なかった模様である訂 ) 。 である。しかも「権威主義体制」「開発独裁」「帝国主義」の 高橋進は比較政治理論と並び、平和研究の理論も輸人しょ 議論は、ファン・リンスやヴォルフガング・モムゼンらの研 うとした。横田 ( のち猪ロ ) 邦子とのディーター ・ゼングハ

6. 思想 2016年 07月号

を強め、民主的か反民主的か、進歩的か反動的かの価値判断ー六八 ? ) が、「外交史」の助教授として教鞭を執った ( 教授昇 が明確で、特にレーニン帰国以前のソヴィエト への評価が高任は一九六五年 ) 。横山の時代には、神川的な「國際政治史」 も、小野塚Ⅱ吉野的な比較政治史論も、江口的なマルクス主 かたとい、つ ( ) 。 親マルクス主義的な岡義武の下で、「外交史」講義は文学義構造史学も後退し、手法も外交史研究で一本化され、「国 部系のマルクス主義者に委託されることになる。第一高等學際政治史」という名称も使用されなくなった。 横山信が取り組んだのは、神川彦松と同じく第一次世界戦 校敎授から東京大学教養学部教授になった江口朴郎 ( 一九一一 トイツ中心だった神川と異なりフランス ー八九 ) が、一九五一年から一九六一年まで法学部「外交史」争の前史だったが、。 も担当したのである ( 引 ) 。江口は日本のマルクス主義歴史学中心の叙述になっていた。神川がビスマルク再保障体制の成 の大御所で、「歴史学研究会」委員長である。江口は「帝国立と崩壊という視角から分析したのに対し、横山はこれを意 主義論」で読み解く世界史論を展開し、疑似マルクス主義的識的に転換し、対独包囲網の起源及び完成という視角から、 いわば仏中心の視角から取り組んだのである。とはいえ横山 年な内政優位論の歴史家として日本で人気を集めたジョー のヴォルフガング・ ( ルガルテンとも交流を重ねた。江口のは、独仏の刊行史料に依拠しつつも、フランス側よりドイツ 「外交史」講義の内容を直接知ることはできないが、その著側の史料に大きく依拠しているように見える。また叙述に当 治 たっては、二次文献の利用も多い。横山も内政と外政との絡 作から、レーニン帝国主義論から出発する普遍史的観点から 際の近代欧州外交史を展開し、政治の動因として社会的不平等み合いを認め、内政中心のフランス政治史概説も書いている を重視し、「帝国主義」対社会主義者・労働者・農民の抗争が、それでもやはり外交には内政から独立した論理があると る け史を構造史的に読み解いたものだったと推測される。ドイツ考えていた ( 芻 ) 。横山は短い講義案内を刊行しているが、そ こでは帝国建設からヴェルサイユ体制崩壊までの欧州国際政 にの「伝統史学」の批判者として、江口はフリツツ・フィッシ 部 ドイツ問題を中心に概観されている。それはほば全く ャーのドイツ帝国主義批判を多としたが、その外交史叙述の治が、 学 物手法には同調せず、個人より構造を重視する姿勢を示しの外交史だが、一部に第二インターナシ「ナルの話題が出て くる ( 引 ) 。 東 横山信は同門の篠原一 ( 「政治史」、のち「ヨーロッパ政治史」 三横山信による「外交史」の復権 担当 ) 、坂本義和 ( 国際政治 ) と概ね同世代である。学術研究に 一九六〇年代になると、岡義武門下生の横山信 ( 一九二六留まった横山に対して、篠原及び坂本は「戦後民主主義知識 まこと

7. 思想 2016年 07月号

1 18 は地味な存在だった親英米派の岡にも、俄かに出番が巡って ニ岡義武による「国際政治史」の内政傾斜 きた。 東京大学法学部に「過去の克服」はない。一般に自己の正 岡義武は、神川彦松が担ってきた「外交史」講義を一九四 統性、卓越性を主張する組織では、自己批判という発想は生七年のみ担当し、この講義を単行本化した際に『国際政治 まれにくいを。公職追放された神川彦松、矢部貞治、小野史』と表題を付けた。とはいえこの著作は、神川の「國 かおる 淸一郎、安井郁らについて、東京大学法学部の関係者は多く際政治史」構想とは無縁のものだった。岡義武の『国際政治 を語ろうとしなかった。代わって学部の正統派として強史』は、岡の前著『近代歐洲政治史』 ( 一九四五年 ) の発展版で、 調されたのが、大正デモクラシー期に採用され、総力戦体制「国際政治史」として一から構想されたものではない。それ に抵抗したとされる南原繁、高木八尺、田中耕太郎、宮澤俊は各国内に於ける階級闘争の状況、換言すれば「市民的政治 義、横田喜三郎ら「リべラル」な敎授たちゃ、その薫陶を受秩序」の形成・発展・動揺を考慮して、欧州国際政治の展開 けたという戦後民主主義の旗手丸山眞男の逸話である。法学を説明するというもので、国内の社会経済状況に配慮した国 部図書館に寄贈されていた上杉愼吉の蔵書は雲散霧消したが、際政治論である ( 「市民」は文中では「プルジョワ」にな。ている ) 。 「吉野作造文庫」「小野塚喜平次文庫」は一体で保存された。 岡の『国際政治史』は、ドイツを含めた西欧諸国中心の叙述 「日本国憲法」体制が安定し、マルクス主義の流行が落ち着で、エピソードに富んだ面白い読み物にな。ているが、本格 くと、美濃部達吉や吉野作造が日本民主主義の源流として再的なマルクス主義史学ほど分析的ではなく、内政優位論が貫 評価され、恰も東京帝國大學法學部が「軍国主義」日本に於徹されている訳でもなか 0 た。岡はこの著作で、ドイツのマ ける「良心」の砦であったかのような印象が定着していく。 ルクス主義者でアメリカに亡命したユダヤ系歴史家のフリッ 戦後の粛学が終わった東京大学法学部で政治学の中心的存ツ・シュテルンベルクなどに依拠していた。岡のマルクス主 在とな「たのが、岡義武 ( 一九〇二ー九〇 ) である。岡義武及義への傾倒は長い歴史があり、学生丸山眞男らとの対話でも、 び実弟の岡義達は、岡實 ( 農商務省・大阪毎日新聞社長 ) の御曹公然と「イギリス労働党の立場」を自分の理想として挙げて 司である。岡義武は小野塚喜平次の助手となり、恩師と同じ いた。岡は、「政治史」講義でも「社会経済史」的視点を重 政治学を志したが、同期の矢部貞治が小野塚の政治学講座を視していた ( 丸山は、岡の「イギリス労働党の立場」への傾倒は、 継承したため、吉野作造講師の下で政治史を専攻するという マルクス主義の信奉を隠すための隠れ蓑だったのではないかと見て 悲哀を味わった。神川彦松、矢部貞治らの退場により、戦中 いる ) 。検閲がない学生相手の講義では階級闘争史観の色彩

8. 思想 2016年 07月号

128 ( ) 神川彦松『近代国際政治史』一一八、一一一 七六頁。 ( 幻 ) 神川彦松「ペー 丿ーの遠征と近代日本の形成」、明治大学政 治経済学部『五十周年記念論文集』明治大学政治経済研究所、 昭和二九年、七一ー八六頁。 ( ) 東京大学法学部『研究・教育年報』第一〇号 ( 一九八七 / 一九八八年 ) 、冒頭。 ( % ) 穗積重遠「法學部總説」二五頁、南原繁『フイヒテの政治 哲学』岩波書店、昭和三四年。南原繁「カントに於ける國際政 治の理念」、吉野作造編『小野塚教授在職廿五年記念ーー政治 學研究』第一巻、岩波書店、昭和二年、四九二ー五六一頁。加 藤節『南原繁ーー近代日本と知識人』岩波書店、平成九年、七 八ー七九頁。神川彦松『近代国政治史』三〇八頁。 ( ) 坂本義和は、「軍部への協力」を巡り東京大学経済学部は 分裂したが ( 平賀粛学のこと ) 、同法学部では協力者は「少数」 だったとする。また学生叛乱の標的になった東京大学の権威主 義についても、それは医学部、文学部の問題で、戦後の法学部 は「相当リべラル」であり、特に「法学部の政治学関係はそう ではない」と主張する ( 坂本義和『人間と国家 ( 下 ) ーーある政 治学徒の回想』岩波書店、平成二三年、五ー一二、 六三頁 ) 。 ( ) 東京大学名誉教授の木村靖一一 ( 文学部西洋史 ) は、「法学部 の人に神川さんのことを聞くと、いつも知らないと言われてし まう」と零した三〇一〇年九月横浜での筆者との会話 ) 。筆者 の大学院生活 ( 一九九五ー二〇〇六年 ) でも、東京大学法学部の 総力戦体制に於ける役割が正面から検証されたのを聞いたこと はなかった。ちなみに三谷太一郎は、この問題領域でも萌芽的 研究を出している ( 三谷太一郎「国際環境の変動と日本の知識 人」、同『学問は現実にいかに関わるか』東京大学出版会、平 成二五年、一三三ー一八二頁 ) 。だがその三谷も、「七博士意見 書」を指導した戸水寛人の敎授辞任が、「大学における学問の 自由」の「ナショナリズム ( ないし帝国主義 ) 」との訣別を象徴 すると主張しており ( 『新版大正デモクラシー論』東京大学出版 会、平成七年、五七頁 ) 、小野塚・吉野・南原・丸山という系 譜を理想化して強調している面が否めない。いずれにしても、 ドイツの「シーダー・コンツェ論争」で行われたような解明の 作業は、日本の政治学・法学界に関してはまだ殆ど行われてい ないのであり、本論も一つの問題提起に過ぎない。 ( 四 ) 坂本義和「解題」、岡義武『国際政治史』岩波書店、平成 二一年、三七七頁。 ( ) 「岡義武ーー人と学問 丸山真男氏に聞く」、『岡義武著 作集』付録、六ー ( 引 ) 江口朴郎先生追悼集編集委員会編『思索する歴史家江口 朴郎』青木書店、平成三年、四四九頁。 ( ) 江口朴郎『帝国主義の時代』岩波書店、昭和四四年。 ( 芻 ) 横山信『近代フランス外交史序説』東京大学出版会、昭和 三八年、三〇六頁。同『フランス政治史』福村出版、昭和四三年。 ( 引 ) 横山信『外交史講義』東京大学出版会、昭和四〇年。 ( 肪 ) 篠原一『ドイツ革命史序説ーー革命におけるエリ ートと大 衆』岩波書店、昭和三一年。 ( ) 坂本義和『人間と国家 ( 下 ) 』六七ー一一三一頁。坂本義和編 『暴力と平和』朝日新聞社、昭和五九年、 七一頁。近藤潤三「戦後史のなかの反ファシズムと反共主義 日独比較の視点から」、『愛知大学法学部法経論集』第二〇 五年 ( 平成二八年 ) 、一一四ー一一七頁。坂本義和「「カの均衡」

9. 思想 2016年 07月号

今野元 年 一祚川彦松による「国際政治史」の原構想 序「国際政治史」とは何だったのか ? 百 の 高橋進 ( 一九四九ー一一〇一〇 ) が東京大学法学部で授業を担当東京大学法学部の政治学は、嘗ての文學部政治學及理財學 治した科目は「国際政治史」であ 0 た。この科目は、一世紀前科で米人アーネスト・フランシスコ・フ = ノロサ ( 一八五三ー 際に神川彦松 ( 一八八九ー一九八八 ) が発案し、後世に受け継がれ一九〇八 ) が、ヘーゲルに傾倒した「政治學」講義をしたのに たものである。「国際政治史」という授業は、今日多くの大始まる。やがて担当者は独人力ール・ラートゲン ( 一八五五ー る 学で行われている ( 1 ) 。 一九二一 ) に交代し、場も東京帝國大學法科大學政治學科に移 お だがこの「国際政治史」は、手法が一定しないため、研究った。一八九三年に講座制度が始まると、「政治學及政治史 物分野として確立したとは言い難く、大学「改革」の時代には講座」が設置された。一九〇〇年にそれが「政治學講座」と 風前の燈火とな。ている。本論では、どうして「国際政治「政治史講座」とに分割され、一九〇一年から帰国直後の小 大 史」が安定しなかったのかを知るために、この科目の起源と野塚喜平次 ( 一八七〇ー一九四四 ) が「政治學」講義を専任で担 京 東な「た東京大学法学部を例に取り、過去百年間の変遷を回顧当した。「政治史」講義は当初坪井九馬三 ( 一八五九ー一九三 野塚の最初 六〕東京帝國大學文科大學敎授 ) が行っていたが、小 いしてみたいと考えている。 の聴講生の一人である吉野作造 ( 一八七八ー一九三一一 I) が、一九 東京大学法学部における「国際政治史」の百年 神川彦松・横山信・高橋進・ディアドコイ

10. 思想 2016年 07月号

114 〇九年に最初の専任助教授とな。た ( 一九一四年敎授 ) 。戦後義」を実現することを道義に適うと寿いだが ( 5 ) 、立は諸国 になって「政治史」講義は、「ヨーロッパ政冶史」と「日本 間に本質的な白黒を付けず、国際権力闘争を当然の現象と見 政治外交史」とに分かれた ( 別系統のものとして「アメリカ政治ていた。立は欧州大戦に際しては、ドイツを一方的に非難す 外交史」などもある ) ( 2 ) 。 る風潮を疑い、一九三〇年代になると、アメリカの膨張主義 だが東京大学法学部の「国際政治史」はこの「政治學」、 的性格に警鐘を鳴らし、日独防共協定、日米戦争の意義を説 「政治史」の系譜には属さない。「国際政治史」は「外交史講いた。立は、日露を争わせ漁夫の利を得ようとしたドイツ帝 座」 ( 一九〇六年設置 ) の科目であり ( 3 ) 、政治学の科目でありな国と違い 「ナチス」が反ソ的姿勢を明示して「眞摯的態度」 がら、当初は「國際法」学者が出講していた。この「國際で日独協定を求めたのは、「純樸を好み權略を惡む我國人心 法」こそ、東京大学法学部の「国際政治史」の源流なのであに投ずる所がある」と評価したが、フランスとの対抗上将来 の独ソ接近もあり得ることを予見していた ( 6 ) 。東京帝國大 東京帝國大學法科大學で創成期の「外交史」講義の担当者學で立が「國際法」講義と並んで担当した「外交史」講義は、 だ 0 たのが、立作太郎 ( 一八七四ー一九四 = l) である ( 4 ) 。立は大正一二年版を見る限りでは、ヴィーン会議から欧州大戦に 「國際法」講座の確立者で、山田三良 ( 一八六九ー一九六五 ) が至るヨーロッパ国際政治の展開を詳解するものとな「ており、 国際私法を担当したのに対し、彼は国際公法 ( 戦時法を含む ) 最後に日清戦争、日露戦争も登場する。これとは別に、立は を担当した。国際法に関して同期の美濃部逹吉と論争した立古代から現代までの世界史を概観する『世界外交史』も残し は、国際政治に関しては吉野作造と対峙した。『中央公論』 ている ( 7 ) 。 や『新人』などを主な舞台とした吉野の国際政治論が、情報 この立作太郎に師事して「外交史」講義を引き継いだのが、 源を明示しない政治評論の形式をとったのに対し、『外交時神川彦松である。神川は国際法研究者でもあったが、同時に 報』などで展開された立の国際政治論は、国際法や外国語文 小野塚主催の「政治學研究會」にも属し、吉野作造から自分 献に依拠した学術論文の形式をと。ていた。吉野は西洋、特の「後を継ぎ得る人」と嘱望されるなど ( 8 ) 、小野塚・吉野 にアメリカ合衆国を中心とする普遍主義的潮流への日本の順系人脈との関係が深か「た。神川は、上杉愼吉 ( 一八七八ー一 応を説いたが、立は日本が国際法に基づき西洋に対して自己九三三〕憲法・行政法教授 ) 、筧克彦 ( 一八七一ー一九六一〕行政 主張することも肯定した。吉野は英米など「えらい」国々が法敎授 ) 、小野淸一郎 ( 一八九一ー一九八六〕刑法教授 ) らの日本 ドイツ、メキシコなど劣悪な国々を「膺懲」し「國際民主主主義的潮流とは直接の関係がなかった。