世界秩序ーー覇権と国際機構 スラエルであったとされる。 国家を超える世界秩序の成立によって、帝国の競争的拡大 しかしながら、このような「合理的な帝国」観は、歴史を が抑制され、植民地独立が促されるという考え方もある。こ こおいても偏りが 説明する論理において単純すぎ、事実認識。 こで世界秩序として想定されるものには、超大国による覇権 あることは否めない。たとえば、脱植民地化政策は宗主国の 合理的な意図通りにいかなか「たことは明らかである。イギと、普遍的な国際機構による制度化がありうる。 リスによるアフリカの脱植民地化は、すでに第二次世界大戦超大国の覇権は帝国主義競争を終わらせるのだろうか。ス ー分析に 直前から植民局を中心に計画されていたが、帝国の枠組みをトラング (Strang → 990 ) は計量的なイベントヒストリ ーバルな覇権 守りつつ「国民」的な行政自治と政党デモクラシーを移植しより従属地域の独立を促す要因を検証し、グロ の確立が植民地独立に有意に寄与していることを示した ( 7 ) 。 ようとしたその計画は失敗に終わった。フリントによれば、 「アフリカの多くの部分において脱植民地化の結果とは、軍ここでいう覇権とは主として経済的な覇権を指している。た 政であれ一党もしくは単純な専制であれ、寡頭支配体制の固だし無視できないこととして、覇権国のもっ軍事的な拠点に 定化であり、まさに植民地改革計画が熱心に避けようとしたついては脱植民地化が進みにくいという事実がある。一方覇 権の要因とは別に、ストラングは国際機構や規範・制度によ 方向そのものだった」 ( F 一一 nt1983 【 410 ) 。 メイアーもまた、植民地化から脱植民地化にいたる歴史がる脱植民地化の要因も挙げている。一九六〇年の国際連合の 「決して汚点のない物語ではない」ことを強調している。「植植民地独立付与宣言の後、脱植民地化はそれ以前の六倍の比 民地支配は決定的な政治的責任を果たさずにあった。地方会率で急速に進んだ。また第二次世界大戦後、帝国内での独立 議が新しい議会階級を教育することを認めなかった。最も優の先例が同じ帝国内の他の独立にもつながったことがうかが 秀な現地人に宗主国で哲学を学ぶことを認めながら政治の実える。これは国民国家という規範の浸透とされる。 学 果たして、覇権と国際機構・規範のいずれが世界秩序をも 治践を許さなかった。士官や知識人や公務員を養成したとして くつかの考え方が たらすのであろうか。これについては、、 史も、政党指導者を養成することはなかった」 (Maier 2008 】 49 ) 。 の旧植民地世界と西欧の関係についてここで深く考察することあろう。第一は、国際機構や法的な規範が国際社会の秩序を 国はできないが、「合理的な帝国」というテーゼが見失ってい形成していく、という考え方である ( 8 ) 。第二は、国家間の 権力関係を重視する ( ネオ ) リアリズムにせよ、共有利益を重 るものが大きいことは、これ以上繰り返す必要はなかろう。 視する ( ネオ ) リべラリズムにせよ、依然国家関係が基軸であ
取り上げられている。第二次世界大戦後、帝国と帝国支配の行政的費用をまかなう経済力を重視する立場からは、英国経 負担に対する市民や政治家の態度に大きな変化があったのか、済の弱体化が帝国からの撤退をもたらしたという説が出され また、この変化が帝国からの撤退に主要な役割を果たしたのる。また、英帝国のシステム性を重視する立場からは、英国 かに関する説が検討されている。帝国に対する関心の喪失あからの工業生産物と資本の輸出、移民と、様々な地域からの るいは反帝国主義というイデオロギーが帝国解体を導いたと農産物や資源の輸出という帝国内の経済的ネットワークはシ いう説が検討される。 ステムの維持に不可欠であったため、帝国周辺地域の対外的 ダーウインによれば、そもそも市民の態度、すなわち世論経済関係が多様化して英国との関係が弱体化すると帝国が崩 は常に反帝国主義であったわけではなく、現実には帝国に関壊するという説が主張される。他方で、英国も次第にヨーロ する争点への世論の反応は様々であり、予測することは難し ツ。ハとの経済的関係に利益を見出すようになる。すると、英 いものであった。一方、不確実な世論ー こさらされていた保国の経済的衰退ではなくむしろ帝国からの離脱が帝国解体の 守・労働両党は、それぞれの内部に帝国・植民地に強い関心重要な要因という説も主張されるようになる。 ダーウインは、第二次世界大戦の影響に加えて、戦後、ソ をもっ集団を抱えていたが、大国としての地位を維持するこ ツ。、だけでなく、帝国各地にも とに関してコンセンサスがあった。労働・保守両党の方針が連に対抗するため大陸ヨーロ 脱植民地化を促した訳では全くなかった。一九六八年以降に軍隊を配備することを迫られたことが英国経済にダメージを なって初めて、帝国の解体を政治家が受け人れるようになっ与えたことを強調する。彼は、終戦直後の経済的な弱さと、 た。一般市民の間では六〇年代後半には英帝国の終焉が冷静インド、ビルマ、セイロンからの撤退やパレスチナ放棄の決 に語られるようになる。たとえば、六五年のザ・ビートルズ定とは無関係ではなく、また、経済的な弱さは植民地主義に への勲章授与の是非を巡る論争のなかで、「このメダ反対する米国の圧力に抵抗できない状態をもたらしたと見な 国レは、英帝国はどこにあるのかという疑問を引き起こす」としている。 しかしながら、ダーウインによれば、経済の弱体化と帝国 う発言が行われるようになるのである ( リ。以上のように、 中英国の国内政治は帝国の解体に決定的な役割を果たしたとはの終焉の関係は単純なものではない。終戦直後の経済的困難 現言えないと、ダーウインは結論づけている。 は、別の地域では帝国からの撤退とは反対方向の政策を生み 第三章「経済と帝国の終焉」では、経済的要因による脱植出したからである。それはアフリカにおける「第二の植民地 民地化論が検討されている。帝国を維持するための軍事的・占領」と呼ばれた政策である。周辺地域の開発を行うことに
、つになる。 (Mann 2005 ) において最も先鋭に表出されており、民族浄化 とはデモクラシーの時代の現象であると主張される。特に開①帝国が議会代表制のような開放的な制度をも。ていた場 拓植民地については、いわゆる民主的な国家の方が数量的に合で、かっ対象地域に交渉・合意できる制度能力があれば、 は高率の先住者の死をもたらす傾向があったとされる。 領土取得のない「抑制的均衡」が保たれる。②もし対象地域 この立論については、レイティンが実証的な批判を向けてが十分な制度能力をもたないのならば、帝国間の「礼儀正し いる。マンの挙げている大量死の事例の大半は非民主的な国い帝国主義均衡」によりチ = ッカー盤の如く分割される。③ 家によるものであり ( トル「、ナチス・ドイツ、ソ連、中国、カ帝国自身が閉鎖的な政治制度であ。た場合、「好戦的帝国主 ンポジア、旧ユーゴスラヴィア、ルワンダ ) 、開拓植民地につい義均衡」となりやすい。①の例は、清朝中国に対する米・ ては観察事例を増やせば立証できないという ( La 三 n 2006 ) 。 英・仏・独の対応であり、これと対照をなす③の例は、非民 これに対しマンは、デモクラシーそのものが民族浄化の「犯 主的制度であった日・露の帝国政策であったとされる。また 人」なのではなく、「全人民」による統治という西欧近代の対象地域の制度能力が低くべルリン会議で分割されたアフリ 原理から、大量の人間の死という歪んだ結果がもたらされた、 力は②の例とされる。さらに脱植民地化についても、民主的 と応答する。大量殺戮を引き起こす民族対立は、人間社会に 制度のイギリスがインドに対し収奪から公共財提供に重点を 常にあ「たのではなく、モダンな現象である、という点をマ移す政策を採り、戦後の脱植民地化を早く受け人れたのに対 ンは再強調する (Mann 2006 ) 。 し、一九七〇年代まで非民主的だったポルトガルは植民地主 義を脱却しえなかった、とされる。 合理的な帝国 ? スプライトの『帝国を終わらせる』 ( spruy ( 2005 ) も、合理 政治学全般に全てを合理的に説明しようという趨勢がある的な比較政治学の適用の例といえる。同書によれば、政治指 中で、帝国が合理的な秩序に向かうはずである、という議論導者に対抗する政党や軍部、多党制のような「拒否点」が多 も存在する。プランケンの『合理的な帝国ーー・制度的インセ い国では、脱植民地化政策が円滑に進まない、 と予想される。 ンティヴと帝国の拡張』 ( B 一 anken 2 日 2 ) は、その好例である。 マクミランやドゴール、ゴルバチョフのような指導者が脱植 同書は、従来のマルクス主義的な説明、国際政治史的な説明、民地化のイニシアティヴを採れたのが戦後イギリス、第五共 現地中心的説明のいずれよりも優れた説明として、合理的制和制フランス、改革期ソ連であり、「拒否点」が桎梏とな。 度・均衡論を主張する。その議論を要約するならば、次のよ たのが戦後オランダやポルトガル、第四共和制フランス、イ
ムが維持できなくなったというのは何も説明していない。帝なのである。ダーウイン自身は、第二次世界大戦が三つのレ ベルにもたらした影響を強調している ( 四 ) 。 国弱体化の時代に協力者を見つけることはどの程度難しかっ たのであろうかという問いに加えて、以前は容易に見つけら脱植民地化は何をもたらしたのであろうか。独立した諸国 は外交的自立性を獲得して、国際政治に影響を与えることが れたのであろうか、という新たな問いが提出されるのである。 できるようになった。また、自国内部への先進資本主義諸国 ダーウインによれば、現在の研究では、歴史的に英国にとっ て協力者を見出すのは常に困難であり、英国は多くの資源をの経済的・社会的影響を一定程度コントロールできるように なった。しかし、独立は先進国との対等な関係をもたらすこ 用い、時には軍事的征服によって協力関係を打ち立てたとい うことが明らかになっている。歴史的には一般的に軍事的勝とはなかった。ダーウインによれば、脱植民地化とは政治的 利あるいは軍事的優越が協力メカニズムの構築に重要であっ主権の承認以上のことではあるが、先進資本主義諸国の影響 た。しかし、帝国解体の時期には軍事力を行使してでも協力とパワー崩壊までは意味していないのである ) 。英帝国の 終焉、脱植民地化は、先進資本主義諸国の世界的支配・影響 者を見つけようとしなくなっていた。 なぜ、英帝国政府は軍事力の行使をためらうようになったカの消滅を意味していないと考えることができる。 のであろうか。これは周辺だけを見ていては説明できないこ 以上が、ダーウインによる脱植民地化の諸理論の概要であ とをダーウインは強調する。もちろん、周辺地域の動向は重る。 それでは、現在は、解体した英帝国に代わって米国が世界 要である。独立を目指す勢力は、多様な集団を一つにまとめ るだけでなく、軍事的に優位な植民地政府に対応できなけれの中心的な地位を占める帝国的システム、すなわち米帝国が ばならない。しかしながら、暴力行使が引き起こす国内・国危機的様相を示していると見なすと、これをどのように考え 際世論、経済、安全保障への影響を見なければならないであればよいであろうか。ダーウインの議論に基づき、協力関係 国ろう。帝国主義および脱植民地化の周辺理論だけでは帝国のと抵抗、特に武装抵抗に焦点を据えて考察を試みたい。米国 にとって新たに独立した国家との関係で重要なことは、協力 と拡大や終焉を説明できないのである。「帝国の終焉は、国内、 中国際、植民地の三つす。へてのレベルで働いた政治的、経済的、関係の構築であろう。ロビンソンの議論では、脱植民地化に 現イデオロギー的な様々な影響の結果であったと言えるであろおける協力メカニズムの再編において、国外勢力との関係は う」とダーウインが結論的に述べているように、脱植民地考慮されていないが、本稿では、米国の同盟国の支配者集団 化は単一の変数による力学ではなく多変数の力学によるものを協力者と見なして協力関係の理論を適用する。そして帝国
することは避ける。へきという考えが広がることになる。ダー 高まって いくことになる。第二次世界大戦中の資源の動員な ウインが重視するのは、スエズ戦争は、国連が反植民地主義どによる経済的困難の増大は植民地政府への不満を強めた。 の声を代表する組織となることを促し、その結果、米ソ両陣さらに、前述した「第二の植民地占領」に代表されるような、 営とも新興独立諸国や独立を目指す勢力に一層の配慮を迫ら 開発を目指す植民地政府による社会・経済への浸透・介人が れるようになったことであった。英国は米国だけでなく反植 もたらす社会と経済の変化は、結果的に植民地政府への反発 民地主義に配慮する必要に迫られ、帝国維持のための行動のを生み出した。近代化志向のナショナリストが植民地政府に 自由が失われてしまったということが強調されている。 代わって人々の要求に対応できる存在とみなされれば、ナシ 『英帝国の終焉』の第五章「植民地ナショナリズムの襲来」ョナリズム運動は力を持っことになるという図式が新たに唱 では、英帝国の周辺地域におけるナショナリズムと英帝国終えられるようになる。 焉の関係に関する様々な説が検討されている。ダーウインに このようなダーウインの議論から明らかなように、帝国支 よれば、地域研究者など特定地域の研究者は、自治の進展や配からの撤退は、英国と周辺地域における集団との間の政治 独立達成における周辺地域の政治家・政治組織の役割を強調的協力関係の条件の変化、すなわち周辺地域おける抵抗と協 する傾向がある。まず紹介されるのは、近代化志向の現地工力の政治力学から考察される必要がある。ロビンソンは、脱 リートにナショナリズムの理念が広がり、さらに大衆にまで植民地化を「協力メカニズム」自体の解体ではなく、近代化 広がると、現地の植民地政府はナショナリズム運動を無視でエリ ートと伝統エリ トの協力を軸とする「協力メカニズ きなくなって、最終的に独立を認めることになるという図式ム」への再編と解釈するを。このような周辺帝国主義的な である。 見方に立っと、植民地ナショナリズムが台頭して新たな協力 しかしダーウインは、このような図式は単純すぎるもので者を見つけられないまま反乱に直面することは、それを抑え あ「て、帝国周辺地域には民族的、宗教的、文化的、階級的る軍事的コストを考えると、避けねばならないことであ に様々な集団が存在しているので、ナショナリストは理念だ りを、むしろ帝国支配から撤退の方が望ましいということ になる。 けでは人々をネイションの一員としてまとめることは難しか ったことを強調する説に重きを置く。経済的利益の維持など ダーウインは、協力者の喪失で脱植民地化を説明する周辺 様々な理由により植民地政府に協力する集団が存在したので帝国主義論には大きな間題点があると考えている。協力者が ある。それでも、次第に多くの人々の間で英帝国への不満が いなくなる、あるいは見つけるのが難しいから協力メカニズ
支配、すなわち米帝国に動揺が生じていると見なすことがで国の解体は明白になった。第三波は、八〇年代における帝国 きよう。本稿は、一九七九年以降に危機的様相を示していた衰退、すなわち脱植民地化を扱う研究であり、九〇年代にな 先進国と途上国との政治的関係を帝国主義論の論理で把握しると「「脱植民地化」は現在、帝国主義研究の最先端分野に ようとした試み ( 7 ) を踏まえて、米帝国の動揺を脱植民地化 なっている」と言われるようになるⅱ ) 。 の理論で考察すること、すなわち中東における米帝国の危機それでは、衰退・解体していくことになった英帝国とはい の構図について、考えの見取り図を描くことを目的とする。 かなる存在であったのであろうか。帝国研究、特に脱植民地 化研究の第一人者ジョン・ダーウインは英帝国を、英国を中 Ⅱ英帝国と脱植民地化 心とした世界的なシステムと見なしている。すなわち「英帝 帝国と帝国主義に対する理論的展開には以下のような波が国とは、帝国本国への公式の忠誠ではなく、強度と性質にお ある ( 8 ) 。 いて様々な経済的・戦略的・政治的・文化的な結びつきによ 第一波は、世界がヨーロッパの帝国主義諸国によって公式って一つにまとめられた、独立した地域・半独立的な地域・ に分割されていた二〇世紀初めに起きた。その代表はホブソ従属した地域からなる寄せ集め的な構成体である」。したが ンやレーニンの帝国主義の理論である。 って英帝国の終焉とは「英国の軍事的・経済的パワーを軸に 第二波は、一九五〇年代に生じた。ジョン・ギャラハ ーとしていた帝国的システムの最終的解体」であった ( リ。 ロナルド・ロビンソンが共著で一九五三年に発表した論文帝国的システムとしての英帝国の解体に関しては様々な理 「自由貿易帝国主義」と、スエズ危機の直後にその主要部分論があるので、ここではダーウインによる脱植民地化に関す を執筆し一九六一年に刊行した『アフリカとヴィクトリア時る諸理論の整理を、彼の著作『英帝国の終焉』を参考にして 代の人々』は、帝国研究に二つの革命をもたらした ( 9 ) 。前紹介したい ( リ。 者においては「自由貿易帝国主義」と「非公式の帝国」概念 ダーウインは、第一章で、英帝国の脱植民地化の様々な理 が導人され、帝国主義に関するヴィクトリア中期と後期の連論を、政治的、経済的、イデオロギー的変化という三つの領 続性が主張された。後者においては、帝国の膨張をもつばら域と、英本国、国際関係、周辺地域という三つのレベルに基 ヨーロツ。ハ内部の要因に求める見方が批判された朝。一九づいて分類し概観している。 六八年に英国政府はスエズ以東からの軍事的撤退を決断し、 第二章「国内政治と英国の帝国撤退」では、英本国での政 一九七三年に o 加盟が実現して七〇年代になると、英帝治的・イデオロギー的変化と脱植民地化に関する様々な説が
勢力が蜂起し、イギリスの援助を求めるに至る。一八〇〇年させ、イギリスにとっては軍事基地の性格を強めていく。そ にはイギリスの占領が宣一言され、教会特権の保障が約束されれでも、陸海軍の島に対する支出はマルタ騎士団時代の三〇 た。しかし、長きにわたった神政政治の島ではプロテスタン ーセント程度に留まり、海軍関係のマルタ人雇傭も限られ ト化への反発が強いと認識されていたものの、英語化政策にたままであった。しかも、一八四〇年代に一一万強だった人 よりイタリアの文化的影響を脱色させるのは容易と考えられロは、一八八〇年代には一五万人に達し、食料と就職ロ双方 ていた。また、一九世紀のイギリスはオーストリア ハンガ の不足に悩んでいる。全住民における英語話者の比率は、一 ロシア、オスマン帝国の絶対主義に対し、自由主義の八七一年の一一・五七パーセントから、一九二一年の一九・七 又。、ーセント、 旗手を認じていたが、植民地専制の特徴を現わしていく。こ 一九三一年には二六・ ーセント、と増 うした住民の意向を軽視する高圧的対応が、言語問題を深刻 加している。これに対し、イタリア語話者の比率は、一八七 ンガリー セント、 化させるよ、つになる。さらに、オーストリア日 一九二一年一三・六三。ハ ロシア、オスマン帝国といった主要アクターが退場した第一 一九三一年一五・六二パ ーセントとなっている ( 図 1 ) 。これ 次世界大戦後の地中海は、旧帝国権益をめぐって諸勢力が競は一九一一年にはイタリア人コロニーが二〇〇〇 5 三〇〇〇 合する地域と化していた。しかも二〇世紀に人ってからの世人規模で存在していたのが、一九三一年には五〇〇 5 一〇〇 界は、文化領域も包含した政治、外交の制度化という新しい 〇人へと縮小したことに起因している。とりわけリソルジメ 方向性が、古い個人べースの政治闘争、外交交渉と交錯する ント期に顕在化していたイタリアの知的へゲモニーは、第一 状況にあった。以上の内外政における複合的な要因を踏まえ次世界大戦を境に減退しており、大卒者、法曹界のほば全員 がイタリア語を解する状況を維持していただけに、イタリア 外ながら本稿は、従来見過ごされやすか「たイタリアをイギリ スと対比しながら、一九三〇年代前半のマルタ言語問題に関側の焦燥は強かったと考えられる ( 3 ) 。 文 連する「文化外交」の諸相を分析していく ( 2 ) 。 シチリア島からわずか一〇〇キロ未満のマルタは、イタリ る マルタ島は地中海最良の港といわれ、イギリス海軍にとっ アにもっとも近接したイギリス領土であり、イタリア本土に め をてのみならず、スエズ、インド、 オーストラリア、極東を結つきつけられた短剣となり得た。このため、積極的な意味で 帝ぶイギリス帝国の死活的環として捉えられていた。ところが、 は、マルタのイタリア化がファシストのアフリカ帝国計画の 直轄植民地としてのマルタ ( 周辺諸島をふくむ ) は、一八六九年一部として位置づけられ、消極的な意味としては、マルタの のスエズ運河開通、航路の変化により、造船業、商業を縮小イギリスによる反イタリア語キャンペーンが、エジプトなど セント、
月の文書内容をめぐって始まった。同報告によれは、リビアア戦争以前を主として論じたのも、一度戦争が始まると文化 のマルタ人はオスマン帝国時代にユダヤ人、ギリシア人とと は単なる宣伝の道具に転換されやすいからである。戦争の影 もに享受してきた貿易・産業面での社会的地位をイタリア人が比較的薄い時期においてさえ「文化外交」の稼働範囲は限 に脅かされ、イタリアの植民地法制により職業選択の制限を定的で、常に政治の思惑が重大な決定を左右していったのは、 受け、医療の無償制度からもはずされてきた。この報告をマ マルタにおける一九三〇年代前半の諸事例でも明らかといえ ルタ総領事経由で人手したイタリア植民地省は、医療対象拡よう。加えて、マルタの自治が等閑視されたまま島の言語、 大に前向きの姿勢を示したが、それ以前の段階でトリポリタ文化を論じ決めるのはそもそも不可能なだけでなく、帝国の ニア・キレナイカ総督バルポは、報告に誇張があると強調し人種イデオロギー、本国中心の統治様式は、現地における多 てる。バルボによれば、無料の救急医療は住民すべてに提様性の尊重、主体的選択を阻害した。結局、それぞれ伊英両 供されており、仏領チュニジアのイタリア人と伊領リビアの帝国に依存していたマルタの国民党、立憲党は住民から不信 フランス人については、相互に無償医療が保障されていた。 を抱かれ、第二次世界大戦直後には労働党が伸長を遂げてい そしてバルポ総督は一九三四年二月、マルタのイタリア人に く。自治的な一九二一年憲法の停止状態が一九三〇年代のほ ついて医療の無償化がされることを条件に、同じくリビアのとんどで続いたマルタにおいて住民は、専制的なイギリス本 マルタ人への無償化を提案したのである。イギリス側も三カ国に取り人って政権奪取を図った立憲党も、イタリアの教育、 月後にマルタ総督代理をトリポリタニアへ派遣し、 リビア在宣伝に乗じて強硬姿勢を崩さず二回目の憲法停止を招いた国 住マルタ人の実態調査を試みていった。相互主義がポジティ 民党も、信頼できなくなったのかも知れないの ) 。 交 ヴに働けば、相手側への攻撃、抑圧の連鎖を断ち切る具体的 おしな。へて、チャーチル (Winston Leonard Spencer Churchill) 外 対応策は提供できよう ( 引 ) 。 の語った「憲法は戦艦に適合的か ? 」という言葉は、マルタ 文 さりながら、文化の領域が国際的次元でも自立したものとのような軍事基地の島における言語・文化問題を一掃してし る 認知されていない戦間期には、以上のような医療福祉をめぐ まう可能性を示唆する ) 。いわんやファシスト・イタリア め をる相互主義が「文化外交」に適用される素地は希薄であった。の地中海新ローマ帝国建設に付随した「文化外交」は、当初 帝むしろ制度化の流れは権力政治に翻弄され、個人の恣意的政より緊張をはらむ要素に満ちており、戦略的発想が優先され 策選択へと先祖返りし始め、言語、文化といった領域は政治、ると、ただちにその自立性は風前の灯火となったのである。 戦略の奔流に飲み込まれていった。本稿が意図的にエチオビ ただし前述のように、エチオピア戦争開始前まではイタリア
側もイギリスとの直接対決を望まず、妥協点の模索に努めて協定やイタリアの経済援助を介して自立の方向が模索され、 いた。むしろイギリス帝国側の戦略優先志向が問題の硬直化一九七四年の憲法改正にともない共和国が宣一言された。その ノへの統合に移行が図 間マルタでは、対英依存からヨーロツ。、 を招いた側面は強かった。 実際、戦間期のマルタをイギリスは帝国要衝の地としてのられる一方、マルタのアイデンティティー自体も単に島内の み認識し、戦略的位置づけ以上の価値を見いださなかったよナショナリズムから派生するのではなく、北アフリカ地域へ うにさえ見える。すなわちイギリス本国政府は、文化・教育移民したマルタ人からも想起されていった。他方、マルタは 面への支出に極めて冷淡で、住民は治安政策の対象として扱識字率が内最低に近く、一九六〇年代初めまで視聴可能 われていたため、イタリアが一一 = ロ語・文化面で浸透する余地をなテレビ番組はイタリア < —放送のみであった。こうした ヨーロッヾ、 くイタリアに 生ぜしめたともいえよう。これと対をなす如、 地中海、マルタを包含する重層性が立憲主義に とってマルタは、対外文化・教育政策が制度化されていく時基づく民主体制によって接合され、戦後の政治、経済、文化 期に、帝国の膨張を画策する実験場となり、潤沢な資金が投の発展へとつながっていく朝 ) 。 二〇世紀に人ってからの各帝国は、内に向けて自らの正当 じられたことから、イギリスとの摩擦が生じ、「文化外交」 を複雑化させた。ところが、制度化のモメントは、個人裁量性を誇示し、外に向けて文化宣伝を行なった。内外の包摂、 が優先する組織化の契機をもたらしたにすぎず、国内・国際編入を図るという意味で「文化外交」も役割を拡大させた。 的権力闘争の奔流に押し流されてしまった。せんずるところ、しかし、周辺地域の編人に成功するや、内に向けて排除もし くは同化政策を強行し、まつろわぬ人々を弾圧していく。そ 島内を二分した言語間題そのものが収束するのには、戦争の れらの内外のギャップが激しいほど差別的な階層性は顕現し、 終結と民主的憲法の復活を待たなければならなかった。 一九四七年に自治を回復したマルタが戦後にたどった道の帝国の支配構造も矛盾を表出させ、外からの干渉を招くこと りも平坦ではなく、 一九五八年には再び総督の憲法停止措置になる。こうして、平和的営みに結びつく可能性のある一一 = ロ語、 がとられた。しかし、一九六一年のイギリス本国による調査文化、教育といった領域でも、帝国の優劣を競う要素が強調 委員会報告後、憲法の国民投票が実施され、一九六四年に独されるようになり、公的な文化の内実は治安対策や闘争手段 に利用された。こうした第二次世界大戦前の傾向は、アイデ 立を果たすことになる。それでも、イギリスに対する基地の ンティティ ・ポリティックスに類する形で残存していく反 貸与と交換に年五千万ポントが提供されるという従属関係は 続いたが、 Z<+O 諸国を対象とする一九七二年からの七年面、マルタでは脱植民地化と民主化に向けて、相互主義的な
に生じたものではないのだろうか。実のところ、『レヴァイ ①国民国家の文明化 ? 国民国家の発展は戦争や圧政に行きつくのか、あるいは市 アサン却』の描く二〇世紀後半は、統一性を欠いたまま終わ っている。「例外国家」の時代はいかに「再正常化」へ向か場的な共存と平和にいたるのか。この点をめぐり歴史社会学 において多くの議論がなされてきた ( 6 ) 。ゲルナーによれば、 い得たのかわからないままに。 暴力と収奪に特徴づけられる農耕社会 ( agrar 一 a ) が科学・生 レヴァイアサンは制御不能か 産・平和を基礎とする産業社会 ( 一 ndus ( r 一 a ) に転換する際に、 旧約聖書ョ。フ記四〇章では、全能者のみがレビャタンに鉤社会的同質化のプロセスがあった。そこで必要となったのが こナショナリズムである。その後経済成長、近代化が果たされ やくつわをかけられるーーーっまり人には制御できない とが書かれている。ホッブズはレヴァイアサンを巨大な獣性ると、ナショナリズムは荒々しさをなくしていくはずであっ ットによれま、 た (Gellner 1983 ニ 988 ) 。 であり巨大な機械であると考えていた。シュミ だがそのように機能的に想定されたナショナリズム論は正 そのようなレヴィアサンは一九世紀には「法治国」に堕し、 ミット 2007 】しくなかった、とマレシエヴィッチは一一 = ロ、つ。ナショナリズム ホッブズの構想は実らなかった、とされる ( シ、 は現代の政治家にも叫ばれ続け、 ( ゲルナーの重視した高等文化 81 ) 。だが正邪を超え、巨大化していく機械日国家とは、メ だけでなく ) マス・ポビュラー ・カルチャーに浸透する。ナシ ィアーの観察した一九世紀後半以後のレヴァイアサン却にま さに当てはまるのではないか。 ョナリズムは複製技術時代の「空虚なシニフィアン」であっ レヴァイアサン却という国家は、自立する国民国家が内外たとしても繰り返しーー残虐さを伴ってーーー動員される。ゲ ルナーの知的遺産を再評価しようとする他の研究者達も、ゲ に拡張する植民地化帝国と表裏一体に発展したものであり、 ルナーの描く近代ナショナリズムに強制力、暴力、選別的生 正しい機械Ⅱ国家と不正な機械Ⅱ国家を「区別」することは 学 治問題の外におかれた。自己運動する国家は過剰な暴力性を押存競争の影が薄いことを指摘する ( Ma 寬 ev 一 6 and Haugaard 200 Hall and Schroeder ed. 200 Wimmer 2013 ) 。 史し出さずにいられないのか、もしくは、民主主義と安定にい ゲルナー理論においては略奪の時代は生産の時代に置き換 のたる文明化に服するのか。それを制御する政治的メカニズム 国は存在しないのか。この いに対する答えの候補を、レヴァわるが、マンの見る近代世界は、リべラルな国民国家と人種 主義・軍事主義・大量殺戮の帝国が同居するものである ( 佐 ィアサンという議論の外に求めてみよう。 藤 2006 ) 。マンの国民国家批判は『デモクラシーの闇の面』