政治を読み解く縮図でもあった朝。 モールには国際赤十字が調査することのできない無数の刑務 アンダーソンの国軍政治研究は、インドネシア国軍の政治所があり、虐殺やスハルト大統領のもとで恩赦にあった住民 的関与に関する研究の基盤を構築した。そしてインドネシアの失踪が数え切れないほど発生している点を指摘した。 を超えて、その手法は国軍の政治関与研究のプロトタイプを同様の指摘は、一九八〇年一〇月二〇日、東ティモール問題 つくったといっても過言ではない。 一九七〇年代後半以降はを取りあげた国連総会第四部会でもおこなった朝。 タイ政治の研究に傾倒していたとアンダーソンは回想してい 一九七六年一〇月六日にはタマサート大学虐殺事件が発生 るが、一九九二年までは毎年のように、その後一九九九年ました。この政変についてアンダーソンは「一連の右翼による で断続的に、彼はインドネシア国軍の人事データを作成する攻勢の要には王制があることを肝に銘じておく必要がある」 作業に時間を割くことを忘れなかった。 と綴っている元 ) 。そして翌一一月には、恩師ケーヒンらと 一九七六年になると、インドネシア国軍研究を進めていた連名で、『ニューヨーク・タイムズ』紙に「タイランド アンダーソンがより具体的に政治的な発言をするようになつ新しい独裁者たち」と題し、虐殺者と偽善的なアメリカ国務 た。契機は、一九七五年一二月のインドネシア軍による東テ省を非難する声明を掲載した石 ) 。しかしながら、ほとんど ィモール侵攻と翌七六年一〇月のタイの政変であった。 のアメリカのタイ研究者はこの声明に同調しなかった。一九 一九七五年一二月七日、インドネシア軍はアメリカ政府の七八年三月にシカゴで開始されたアジア学会のタイ研究に関 現お墨付きのもとに東ティモールに侵攻し、武力で制圧し、イする部会の席上、アンダーソンは吠えた。彼はタイの政治研 表 ンドネシアの二七番目の州として実効支配を展開した。こう究がいかに貧弱であったかを、研究対象として扱われてこな 由 したインドネシア政府の実力行使に対して批判的な声をあげ かった一群の課題を列挙することで明示した ( 。のちに、 自 ないアメリカ政府の対応を、アンダーソンは厳しく非難した。 これらの課題が若手のタイ政治研究の取り組む研究テーマと 思一九七九年には人権派弁護士集団とともにアメリカ国務省のなったことは皮肉である。そしてアンダーソンは自らも、タ 嫩対応を批判する文書を公開した。そして、翌一九八〇年イ政治に関する独自の解釈に基づいて現代政治を歴史的文脈 な二月には、アメリカ下院国際関係委員会アジア太平洋およびのなかに位置づける作業をおこなうことになる。「禁断症状 柔国際組織に関する小委員会で、インドネシアと東ティモール 一九七六年一〇月六日クーデタの社会文化的側面」 ( 一九 に関する人権侵害の状況に関する証言をした ( 芝。そこでア七七年 ) 、『鏡のなかに』 ( 一九八五年 ) 、「現代シャムの殺人と進 ンダーソンは入手可能なさまざまなデータに基づき、東ティ 歩」 ( 一九九〇年 ) と一連の作品を世に問うた。
成都西郊に草堂を構えた詩人は、 七六二年に一旦この地を離れるま 他 で、親しみに満ちた日々を送る。 の 嵐のあとのさまをユーモラスに詠 3 館 ぼ、つお・、 す ん円書学 で 第十冊成都の歌下 、つ「茅屋秋風の破る所と為る歌」函 o ル文売 日 をはじめ、蜀の風物詩、論画詩な叨発 庫 出 ど四三首を収録。オリジナル版。 吉川幸次郎著 / 興膳宏編 体劇劇四 社 対分・ 売◎「アメリカ“リべラル」の世紀の現実 二〇世紀とは、アメリカがリべラ 発 ルな秩序形成を目指した時代だっ頁 し た。しかしその「リべラル」とは 5 どんなものだったのか。冷戦下に一 表 冷戦と「アメリカの世紀」 おけるアジア政策から、反自由主加 0 咽 売 内 ーアジアにおける「非公式帝国」の秩序形成ー 発 案 義を包摂した「非公式帝国」とし 刊 ( かんひでき氏は、京都外国語大学教授 ) てのアメリカが浮かび上がる 菅英輝 新 < 本引国・ ◎教育を通して描かれるプータン社会の現実 一九七〇年以降の急速な近代化は、 プータン社会の教育と若者たちの頁 意識に何をもたらしたのか。近代 2 7 化推進の過程で生じた諸問題を、 てタン王国の教育変容 京都大学による長年の現地調査を Ro 売 ー近代化と「幸福」のゆくえー もとに、比較教育学の見地から考上引一教 一′ノ本均編 ( すぎもとひとし氏は、京都大学大学院教育学研究科教授 ) 察する。 判体劇 < 本引関・ ■社甫詩注 ( 第ー期加冊 ) 第浦回〈完結〉
をしていないかもしれないが、共通のプロジェクトの一員と して、そのプロジェクトの名においてなされたあらゆること について、道徳的に関係していると感じるであろう。ヴェト ナム戦争中、アメリカ市民たちのこの善き恥の感覚が民衆的 抵抗の健全な部分を生み出した。インドシナの地で数えられ ていない女性と子どもを含んだ三〇〇万人もの人びとが暴力 によって死んだことに対して、「自分たちの政府」が責任を もっと考えたのだ。「自分たちの」ジョンソン大統領やニク ソン大統領が、世界や、仲間のアメリカ人に向って、絶え間 なく嘘をつき続けることが恥ずかしかった。「みずからの」 未国の歴史が、残忍さ、嘘、裏切りによって汚されてしまった 在ことを恥じ入った。そうして、市民たちは抵抗運動に向かっ のたのである。単に普遍的な人権の擁護者としてだけではなく、 そ 共通のアメリカのプロジェクトを愛するアメリカ人として。 ム この種の政治的な恥は、とても善きものであり、常に必要と ズ されるものである。 ナ もしこの恥の感覚がインドネシアにおいて健全に発展しう シ ナるのであれば、インドネシア人は、「誰か他の人が」やった アこととしてではなく、共通の重荷として腐敗時代の恐怖に向 ネき合う勇気をもっことになるであろう。そのことは、長きに わたって政府が促進してきた、あの「見ざる、聞かざる、一一 = ロ ン イ わざる」の精神の終焉を意味するはずである。 ( 1 ) スハルトと、革命後の国軍の創設者であるナスティオンの 経歴はともに、オランダ領東インド王国陸軍から始まる。これ は戦前の植民地の軍隊であり、ナショナリズム運動にとっての 巨大な敵であった。スハルトは一九四三年になると、日本の占 領支配によって創設された防衛義勇軍という補助部隊に参加し ( 2 ) イスラム教徒が多いことで有名な地方であるアチェは、ス マトラ島の北西の端に位置し、インドネシアの最西端となる。 ィリアンは、ニューギニアの西半分にあたり、インドネシアの 東端の国境地帯に位置する。 ( 3 ) オランダ植民地政権が舞い戻り一九四六年一月にバタヴィ ア ( ジャカルタ ) を支配すると、革命軍の首都は中ジャワにある 旧王都ジョグジャカルタへと移された。 ( 4 ) ダウド・プルエは、一九三〇年代には有名な近代主義的な ウラマとして台頭し、革命期にはアチェの軍人知事となり、イ ンドネシア独立を目指す地方民衆運動の重要人物であった。 ( 5 ) 独立アチェ運動の名義上の創設者。アチェでは一七八三年 から一九〇八年にかけてオランダ帝国軍の進出に抗する長く苦 しい闘争が続いたのだが、ディ・テイロはこの英雄の一人の直 系の子孫であるという強みをもっていた。 ( 6 ) アリ・ムルトボ将軍は、新秩序体制初期にスハルトの政治 諜報機関の長を務めた伝説的な権謀に長けた政治家である。こ の政治諜報機関は、一九六三年にいわゆるイリアン自由選択条 項を「仕組み」、イリアンがインドネシアと統一するためのほ とんど満場一致の支持を作り出した。一九四九年末におこなわ れた主権移譲のための最終交渉では、オランダは独立したイン ドネシアの新しい国家へィリアンを譲り渡すことを拒んでいた。 一九六一一年までに、インドネシア軍は、アメリカ外交当局とと 、、 0
支配の政治が継続 い東南アジア地域研究者としてのこだわりをもっことができ閥的政争と私益追求に明け暮れるエリート していた。これをアンダーソンは、スペイン語で族長、酋長、 アンダーソンは一九七六年にコーネル大学政治学部の正教あるいは地方政界のボスを意味するカシーケを援用して、カ シーケ民主主義と呼んだ。こうしたアンダーソンの議論に対 授となり、それからより自由に論文を執筆するようになった。 しかも退職を見据えた一九九〇年代末以降、アンダーソンのして、フィリビン人歴史家であるレオナルド・イレートは、 リートと民衆の二分法 支配の弊害やその連続性、エ 語り口は軽快さと痛切さをましていく。それまでにもましてエリート 語るように書き始めた。すなわち、彼が出会。た日常茶飯事は、アメリカの学界で再生産されているアメリカのフィリピ の些細な出来事や、彼が目にした文章や歴史的な出来事からン政治論であると批判している信 ) 。 類似の論争を呼び起こしそうなのが、アンダーソンの没後 話し始め、そこから大きな話へと展開するのである。 その軽快な語り口と大胆な記述から、アンダーソンの政治に公刊されたタイ現代政治分析「黄色と赤色の不可解な事 分析は影響力を有することもあれば、論争や批判の的となる柄」である信 ) 。二〇〇〇年代に顕在化した国民を巻き込ん ト民主主だ権力闘争、しばしば黄色と赤色の対立とされる権力対立を こともあった。その典型例が、フィリビンのエー 義論である「カシーケ民主主義とフィリピンーー複数の起源めぐる見解について、アンダーソンは何かがおかしいと疑問 と夢」であろう ( 。本論文は、一九八七年三月九日、公式を呈する。たとえば黄色い集団は、対立する赤色集団の親分 であり首相であったタクシン・チナワット ( 在二〇〇一ー〇六 ) の場でのコラソン・アキノ大統領の意味深長な嘘から始まっ 現 には卑劣漢、間抜け、ヤクザ、ホモ、裏切り者など、その妹 表ている。彼女は自分の曽祖父が中国南部福建省出身の貧しい で同じく首相であったインラック・シナワトラ ( 在二〇一一 由移民であったとした。しかし、彼女の一族であるコファンコ 一四 ) には売女などと汚い言葉を浴びせかける。しかし、華 と家は、フィリビンの寡頭支配層のなかでも最も裕福で強力な 思一員である。アンダーソンはコファンコ家の歴史について語人を意味する古い表現である「チ = ック」 (jek) が使われるこ とはない。 この表現には不思議な魅力があった。タイの田舎 較り始め、同一族をスペイン植民地体制下で経済的に成功し、 砒アメリカ植民地体制下でその富を政治権力 ~ と転化した華人に行くと「美味しいチ = ックの店」というようにレストラン 軟系メスティーソ ( 混血人 ) として描き、集団支配の形成を明らの看板にかか。ているし、だからといって文句をいう人はい 子 / も ところが裕福なタイ華人はこの言葉を忌み嫌う。なら かにする。しかも、フィリピンはアメリカ植民地統冶以来、 形式的には制度的な民主主義は機能しながらも、実際には派ばなぜ華人系首相を揶揄するのに「チェック」を使用しない
であった。何を語るときにも、アンダーソンは歴史的な文脈プログラムが刊行を始めた学術誌『インドネシア』の創刊号 に、アンダーソンは「インドネシア政治の言語」と題する論 化を重視していた。本稿では、アンダーソンの東南アジア地 域研究が醸しだす独特の世界の一端を紹介するに留まる。そ文を寄せている。その論文はこのような言葉で始まっている。 のために東南アジア政治にまつわる彼の論稿を中心に紹介し たい ( 9 ) 今日のインドネシア政治における言語といえば、若干意地 悪な眼差しを有する、もの五月蠅いフランス人やアメリカ 語り口 人から注目を集める対象となっている。 ( 中略 ) しかしなが アンダーソンは独特な語り口と切り口から東南アジア地域らどちらの場合にしても、彼らが理解しうる限りの範囲で、 現代インドネシア語のあり方は古の西洋による挑戦を受け 研究を先導してきた。その語り口は、約束事に縛られ専門用 語に守られがちな学術的な表現ではない。アンダーソンは自 る前から存在していた回避や敗北の形式として認識されて いる。どちらからも感じることのできる陰気なコメントは、 身を表現者として意識していた。そのために定型化された学 術的な表現や定型句とは無縁の語り口にこだわった。 他者の不幸を喜ぶという姿勢に根ざしていることは疑う余 彼は自分を表現者として認識し、聴衆と文体を工夫するこ 地もない ) 。 とで、ディシプリンの型にはまり殻に閉じこもっているだけ この論文を書いた一年後、アンダーソンは一九六七年にコ の研究者ではなく、広範で潜在的な読者へ語りかけた。しか ーネル大学で博士学位を取得し、その政治学部に職を得た。 し時には特定の聴衆を想定していたために、難解であるとか 挑発的であるという評価を受けることもあった。その典型例ところが、先の引用からも明白なように、一九五八年からコ ーネル大学院政治学部で教育と訓練を受けていながら、彼は が、彼の代表作として記憶されている『想像の共同体』であ る朝 ) 。英国でのナショナリズムの議論に論争を挑んだ本書アメリカの政治学に染まることはなかった。アンダーソン日 、専門職主義に染まり始めていたアメリカの政治学的な専 は、辛らつな皮肉やウィットに富み、英国仕込みの知識を存 分に披露している。そこにアンダーソンの創造性と革新性が門性とそのムラのための学術論文という形式が制度化される あったⅱ ) 。 前に、彼はコーネル大学で東南アジア地域研究に魅せられ、 アンダーソンの独特な語り口は、初期の学術論文の書きだ政治科学の波が大学に押し寄せる前に就職した、というわけ である。すなわち彼は、既存の学問領域に囚われることのな しにもみてとれる。一九六六年、コーネル大学東南アジア・ 0
7 月に刊行した本 8 -2016 【岩波科学ライブラリー】 秘密解除ロッキ 1 ド事件【岩波講座現代 8 】全 9 巻 学習する社会の明日 ー田中角栄はなぜアメリカに嫌われたのか なぜ蚊は人を襲うのか : ・四六判本体 1900 円佐藤卓己編 : 判本体 1200 円 奥山俊宏 ・ : 判本体 3400 円嘉糠洋陸 【岩波現代全書】 密室の戦争 人類の未来と地球科学 日本人捕虜、よみがえる肉声井田喜明 片山厚志・スペシャル取材班 ・ : 四六判本体 2300 円 カエサル戦記集 アレクサンドリア戦記 アフリカ戦記ヒスパ 1 一一ア戦記 忘却された支配 ・ : 四六判本体 3000 円 ー日本のなかの植民地朝鮮 高橋宏幸訳 ・ : 四六判本体 2200 円 伊藤智永 保守の比較政治学 ー欧州・日本の保守政党とポピュリズム ・ : 判本体 4800 円 リオデジャネイロに降る雪水島治郎編 ー祭りと郷愁をめぐる断想 : ・四六判本体 1800 円 福嶋伸洋 【岩波ブックレット】 語り遺す戦場のリアル 共同通信「戦争証言」取材班編 【日中の脚年文芸・評論作品選 5 】全 5 巻 ・ : 判本体 660 円 【ひとびとの精神史 9 】全 9 巻 1 0 をイワ 1 ー 蜜月と軋み 震災前後ー 2 。 8 年以降 〔編集〕張競・村田雄ニ郎 【岩波ブックレット】 ・ : 四六判本体 2500 円 栗原彬編 〔編集協力〕飯塚容・及川淳子・王雪萍・ ディ 1 ゼル車に未来はあるか 小野寺史郎・篠崎美生子・鈴木将久 ー排ガス偽装との脅威 ・ : 判本体 4200 円 ・ : 判本体 620 円 杉本裕明・嵯峨井勝 【岩波講座教育変革への展望 3 】全 7 巻 【編集委凶佐藤学・秋田喜代美・志水宏吉・ 小玉重夫・北村友人 【リーディングス戦後日本の思想水脈 2 】全 8 巻 分裂から天下統一へ ーシリーズ日本中世史④ 変容する子どもの関係科学技術をめぐる抗争 ・ : 判本体 32 。。円金森修・塚原東吾編・ : : 判本体 480 。円村井章介 っ件 ッ ロ 吉田茂と岸信介 自民党・保守一一大潮流の系譜 安井浩一郎・スペシャル取材班 ・ : 四六判本体 1800 円 1 ・ : 岩波新書本体 840 円 ・ : 四六判本体 1800 円 -4 2
ポイエーシス叢書 67 反原子力の自然哲学 暗黒の大陸 佐々木カ著 ヨーロッパの 20 世紀 近代科学思想が生誕した 17 世紀ヨーロッパ科学史を専門とする著者が、恩師トーマーク・マソ、ワー著 マス・クーンの「歴史的科学哲学」の延長上に、遠くギリシアに始まリ、 17 世紀のデ中田瑞穂・網谷龍介訳 カルト、ガッサンディ等の原子力研究を踏まえて「文化相関当当。。 コッパは未知・未開の プログラムを構想する。フクシマの原子力発電所事故の悲 ミ大陸」と呼んた。しか を先蹤として、機械論的自然観に代わる東アジア的自然哲 ヾ大陸の 20 世紀は進 な試み。専門的学問的検証を経て、危険な原子力エネルキ つねに彩られた成功と ーだったのだろうか政 エマソン詩選 ヒ会、民族、福祉、性な 転換期を読む 26 視点から分析、時代の ラルフ・ウォルドー・エマソン著 小川教子・武田雅子・野田明・藤田佳子訳 1 9 世紀アメリカを代表する思想家、哲学者、作家、詩人、エリ るエマソン。個人主義を唱え、アメリカ文化の独自性を主張 [ までつながるアメリカ思想の源流となり大きな影響を残しオ であり、その根本思想は数多くの詩のなかに凝縮されている うした仕事に初めて照明をあてたエマソン代表的詩作品の ネ未來社 〒 112 ー 0002 東京都文京 L tel. 03 ー 3814 ー 5521 www. 好評 2 刷 暗黒の大陸 」 -0 ツ”のを : 無料進呈いたします☆ ※価格は税別 税 近代科学のリロケーション カピル・ラジ著水谷智他訳南アジアとヨーロッパ価 における知の循環と構築植民地のアクターに注目 し、科学が共同構築される現場を描く。円 8 8 リヴァイアサンと空気ボンプ 0 0 スティーヴン・シェイピン / サイモン・シャッファー著 吉本秀之監訳ホッブズ、ポイル、実験的生活実験 一 ) 8 0 0 円 は信頼できるのか。科学史の代表作。 界の複数性について版 ディヴィッド・ルイス著出口康夫監訳可能世界は 実在するのか。哲学界にかってない衝撃を与えた、現 LDOOO 円 代形而上学の金字塔、待望の邦訳。 大 フィクションとは何か齷 ケンダル・ウォルトン著田村均訳ごっこ遊びと芸術 名 虚構が私たちを魅了し、想像や行動を促す原理をト 1 タルに解明するフィクション論の名著。 6 4 0 0 円内 彼女たちの文学飯田祐子著 区 9 語りにくさと読まれること女性作家は〈女性〉を代表種 しない。複数の読み手に応答すべく、亀裂の感覚を生き千Ⅷ 市 ながら、彼女たちはいかに語ってきたのか。 Lnst00 円屋 新制大学の誕生上下天野郁夫著。 大衆高等教育への道現在の大学制度の原点。各円 〒
古来より中国の歴代王朝は有徳の天子 の朝廷「天朝」を演じることで、中華 と夷狄とを秩序づけ、「天下」を統治円 5 売 してきた。その論理は、内実を変化さ 天下と天朝の中国史 せながら歴史を越えて息づいている。 9 版 9 す 体赤 で 檀上寛 ( だんじようひろし氏は、京都女子大学名誉教授 ) その全貌を描きだす雄大な歴史物語。本・ 日 庫 出 ◎易しさと優しさをもつ日本語 外国人が増えた地域社会で共通言語に 8 なりうるのは、英語でも普通の日本語 日 でもなく〈やさしい日本語〉だけ。移民円 7 売 売 やさしい日本吾 一一一一とその子どもにとどまらす、障害をも 4 田 1 発 発 ー多文化共生社会へー つ人、日本語を母語とする人にとって 8 体赤 し ( いおりいさお氏は、一橋大学国際教育センター教授 ) 〈やさしい日本語〉がもつ意義とは。 本新・ 庵功雄 表 ◎動物や鳥たちが、問いかけるものは クマ、シカ、サルなどによる鳥獣害が 内 8 案 急増している。田畑を荒らして経済的 刊 な損失を与え、時には人を襲うことも。円 8 売 新 と、っ向 tJ あ、つか近年は都市部にも現れる。なぜ増えた 1 発 鳥獣害働物たちと、 のか。各地の対策は。農業経済の研究 8 旧 体赤 祖田修 ( そだおさむ氏は、京都大学名誉教授 ) 者が、自ら田畑を耕すなかで考察する。本・ ◎新大統領も逃れられないジレンマとは ? オバマ政権二期八年の「迷走ーの原因は 8 どこにあったのか ? 元民主党インサ イダーとして、大統領選の実情を知り円 6 田売 アメリカ政治の壁 尽くしている著者が、アメリカの「リ 6 田 1 発 ー利益と理念の狭間でー べラル政治」の複雑で厄介なねじれ現 8 。赤 3 ( わたなべまさひと氏は、北海道大学大学院准教授 ) 象を読み解き、次期政権の課題を占う本新・ ◎アジアの世界秩序と中華帝国の行動原理 渡辺将人 0
界全域へと拡散していくなかで、さまざまに経験されてい 私が倦むことなく驚嘆しつづけた科学の成果のびとつは、 そこには、植民地か帝国かを問わない普遍的な問題が貫いて ー ) の開発で 印刷術、なかんずく亜鉛製版術 ( ジンコグラフィ いる。そして、それが最も先鋭的に観察される場として、植あった。なにしろ、これによって人は、何万枚もの写真を 民地を考えることができる。アンダーソンのナショナリズム 一日で複製できるようになったのである。 論の特徴は、この経験をその中核においていることに由来す 風景、偉大なそして重要な人物、新しい機械、アメリカ の摩天楼 : : : 全世界のありとあらゆるものがいまや紙の上 に複写され、居ながらにして眺められるようになったのだ。 四複製時代の生と想像力 すっかり損をしたのは私より前の世代ーー村の小径に刻み 1 ニ重の疎外ーー植民地の経験 つけた自分の足跡の数の多さに満足していた世代である。 プラムディヤ・アナンタ・トウールの『。フル島四部作』は、 この新しい奇蹟を誕生させるために日夜奮闘した個人とグ アンダーソンが『比較の亡霊』のなかで論じるように、ナシ ループに、私はどれほど感謝したことか。五年前まで、私 ョナリズムとはいかなる経験を通じて生じる想像力であるか の生活圏には印刷写真などまだ出まわっていなかった。も について、明晰にしめしている。やや長いが、その冒頭から ちろん当時でも、木版とか石版による印刷はあったが、そ 弓用しよ、つ。 れはものの姿をあるがままに複写できるものではなかった。 ヨーロッパやアメリカからもたらされる情報は、最新の 私が学校で修得し、またそれが実生活のなかで具体的に 発明発見に関するニュースをさかんに伝えていた。その発 結実するのをまのあたりにしてきた学問と知識は、私の人 明発見の強烈な威力は、ワャンの物語に登場する、わが先 格を同胞たちの一般的な傾向とかなり違うものにつくり変祖の神々や勇士たちの超能力に匹敵するものであった。 えていた。それが私のジャワ人としての在り方に背くもの 汽車ーー馬も牛も水牛も使わない乗り物ーーは、わが民 であったかどうか、それは私にもわからないが、好んで私族の眼に触れるようになって、すでに十数年たっていた。 がノートをつけるよ、つになったのも、まさしくヨーロ 汽車を初めて見たときの驚きは、今日でもまだ彼らの心に の学問と知識を身につけたジャワ人としての、私の生活体残っている。なにしろ、プタウィースラバヤ間が三日で走 験のなせるものであった。いつの日か、そのことが役に立破できるのだ。さらに、その時間はわずか一昼夜に短縮さ っときが来るであろう、 いま現在がそうであるように。 れるだろうと予告されていた。わずか一昼夜 ! 家ほどの
のか。このような問いを立てたアンダーソンは、その先にバ アンダーソンの生い立ちと軌跡は数々の「幸運」に恵まれ ンコクでのタクシー運転手との会話を続ける。そこで明らかていた。この点は、彼の半生と知的遍歴をまとめ二〇〇九年 にすることは、タイ華人のアイデンティティをめぐる政治でに刊行された自叙伝『ヤシガラ椀の外へ』のなかで存分に叙 ある。タクシンは客家、対立するアピシット・ウェーチャチ述されている。 ・リムソン ーワは福建人、同じく反タクシンであるソンディ アンダーソンはイギリス人の母とイギリス系アイルランド クルは海南人、そして国王は潮州人である。すなわち二一世人の父をもち、中国の昆明で一九三六年年に生を受け、上海、 カリフォルニア、コロラド、ロンドン、ウォーターフォード 紀に顕在化したタイの政治混乱は、こうしたタイ華人のあい だの氏族政治なのだ、しかもそれは都会で発生する抗争で、 ( アイルランド ) で過ごした。ケンプリッジ大学で古典を修め この論理は田舎のタイ人には通じないものだ、とアンダーソ たあと、一九五八年一月アメリカのコーネル大学へ渡った。 ンは論じる。二〇世紀半ばまでは華人氏族と職種が密接に関当初は一年間の滞在予定であったが、そこで前述のように東 連していたが、冷戦下 ( アメリカ時代 ) に状況が変わった。彼南アジア地域研究と出会った。 らのあいだでは商売よりも、法律家、医者、教師、官僚とい 研究の道を歩み始めてからも、アンダーソンは数々の運命 う専門職により高い社会的な価値が求められるなど多角化し ( 幸運 ) の徒を経験した。一九六一年一二月、アンダーソンは た。冷戦が終焉する頃には、タイ社会は保守化し新自由主義フィールド調査のために、戒厳令下のインドネシアの首都ジ 政策の波に呑まれることになった。それがタクシンのような ャカルタに降り立った。博士論文のテーマは、インドネシア 新しい華人の政界進出を可能にした。そこで従来は封印されの社会と政治に対する日本占領の影響であった。国立博物館 ていたタイ華人間に氏族政治の抗争がわき起こることになっ に通い、ジャワの各地でインタビューを実施した。耳と記憶 た、という。はたしてこのようなアンダーソンの議論は、今に頼るインタビュー調査は、その後のアンダーソンの研究の 後タイ政治研究のなかでどのように揉まれていくのだろうか。基本となった。そして、一九六四年四月までの二年八カ月の インドネシア滞在中に、彼はジャワに恋をした。 比較 ( ) アンダーソンがインドネシアでの調査を終えてコーネル大 腰を落ち着けて根を下ろすほどには一箇所に長く住んだこ 学へ戻ってから一年半後、インドネシアではクーデタが発生 とがなかった ( じ。 した。一九六五年に発生したいわゆる「九月三〇日事件」の ことである。インドネシア政府当局の見解では共産党による