アンダーソン - みる会図書館


検索対象: 思想 2016年 08月号
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1. 思想 2016年 08月号

の一員であるならば、自分たちの国家や政府の暴力や罪を直 〔解題〕本論文は、一九九九年三月にアンダーソンがイン ドネシアでおこなった講演原稿である。その二カ月後には、視せよ、と釘を刺した。 ロンドンの『ニュ じつは、スハルト退陣の過程でも暴力が発生し ( 反華人暴 レフト・レビュー』誌に公刊された ( 原題 "lndonesian Nationalism Today and in the Future ・・ )。九力と略奪 ) 、九九年時点でもインドネシア各地で宗教対立や 九年三月といえば、二七年ぶりにアンダーソンがインドネシ民族対立という形の暴力や、「民衆の正義」という名での暴 アへの人国を許可された直後であり、七二年に彼を人国禁止力が展開していた。暴力の最中で、アンダーソンは、歴史的 な軌跡を辿りながら未来のインドネシアと ( 若い ) インドネシ に処したスハルト体制が崩壊してから一〇カ月が経っていた。 そのタイミングでおこなった講演は、「インドネシアのナ ア人への思いを語った。 本論文には、「インドネシアの人間の権利」という示唆深 ショナリズム」と銘打たれた。本稿からもわかるように、ア い言葉がある。それを彼は、普遍的な概念である人権とは異 ンダーソンが想定した聴衆はインドネシア人中間層および知 識人であった。彼らは押し並。へて、スハルト体制が崩壊した なる意味合いで用いている。このアンダーソン独特の言い回 しとその内容については、本論文に目を通していただきたい。 あとの「民主化」という新しい政冶的に自由な雰囲気に浸っ ていた。そうした彼らに向かって、アンダーソンは厳しい言 最後に、本論文は日本の読者にも重いメッセージを投げか けている。論文末尾では「羞恥心万歳」なる小見出しをつけ、 葉を向けた。ナショナリズムという「共通のプロジェクト」 インドネシアのナショナリズム、その現在と未来 ベネディクト・アンダ 1 ソン 訳日山本信人・新倉貴仁

2. 思想 2016年 08月号

政治を読み解く縮図でもあった朝。 モールには国際赤十字が調査することのできない無数の刑務 アンダーソンの国軍政治研究は、インドネシア国軍の政治所があり、虐殺やスハルト大統領のもとで恩赦にあった住民 的関与に関する研究の基盤を構築した。そしてインドネシアの失踪が数え切れないほど発生している点を指摘した。 を超えて、その手法は国軍の政治関与研究のプロトタイプを同様の指摘は、一九八〇年一〇月二〇日、東ティモール問題 つくったといっても過言ではない。 一九七〇年代後半以降はを取りあげた国連総会第四部会でもおこなった朝。 タイ政治の研究に傾倒していたとアンダーソンは回想してい 一九七六年一〇月六日にはタマサート大学虐殺事件が発生 るが、一九九二年までは毎年のように、その後一九九九年ました。この政変についてアンダーソンは「一連の右翼による で断続的に、彼はインドネシア国軍の人事データを作成する攻勢の要には王制があることを肝に銘じておく必要がある」 作業に時間を割くことを忘れなかった。 と綴っている元 ) 。そして翌一一月には、恩師ケーヒンらと 一九七六年になると、インドネシア国軍研究を進めていた連名で、『ニューヨーク・タイムズ』紙に「タイランド アンダーソンがより具体的に政治的な発言をするようになつ新しい独裁者たち」と題し、虐殺者と偽善的なアメリカ国務 た。契機は、一九七五年一二月のインドネシア軍による東テ省を非難する声明を掲載した石 ) 。しかしながら、ほとんど ィモール侵攻と翌七六年一〇月のタイの政変であった。 のアメリカのタイ研究者はこの声明に同調しなかった。一九 一九七五年一二月七日、インドネシア軍はアメリカ政府の七八年三月にシカゴで開始されたアジア学会のタイ研究に関 現お墨付きのもとに東ティモールに侵攻し、武力で制圧し、イする部会の席上、アンダーソンは吠えた。彼はタイの政治研 表 ンドネシアの二七番目の州として実効支配を展開した。こう究がいかに貧弱であったかを、研究対象として扱われてこな 由 したインドネシア政府の実力行使に対して批判的な声をあげ かった一群の課題を列挙することで明示した ( 。のちに、 自 ないアメリカ政府の対応を、アンダーソンは厳しく非難した。 これらの課題が若手のタイ政治研究の取り組む研究テーマと 思一九七九年には人権派弁護士集団とともにアメリカ国務省のなったことは皮肉である。そしてアンダーソンは自らも、タ 嫩対応を批判する文書を公開した。そして、翌一九八〇年イ政治に関する独自の解釈に基づいて現代政治を歴史的文脈 な二月には、アメリカ下院国際関係委員会アジア太平洋およびのなかに位置づける作業をおこなうことになる。「禁断症状 柔国際組織に関する小委員会で、インドネシアと東ティモール 一九七六年一〇月六日クーデタの社会文化的側面」 ( 一九 に関する人権侵害の状況に関する証言をした ( 芝。そこでア七七年 ) 、『鏡のなかに』 ( 一九八五年 ) 、「現代シャムの殺人と進 ンダーソンは入手可能なさまざまなデータに基づき、東ティ 歩」 ( 一九九〇年 ) と一連の作品を世に問うた。

3. 思想 2016年 08月号

皮肉なことに、一九九一年から九二年にかけて東ティモー 体制」 ) 後の展開を含んだアンダーソンなりのインドネシア ルとタイで再び虐殺が起こった。九一年一一月一二日、東テ政治社会論である。政治的には、野党不在の議会、閣僚 ィモールのディ リにおいて、独立を求めるデモ行進をおこなポストの切り売りによる政党政治の機能不全、新自由主義的 っていた市民に対して、インドネシア国軍が無差別に発砲し、な国際秩序を受容することによる寡頭政治化、国軍への潤沢 多数の死傷者をだした ( サンタクルス虐殺 ) 。翌九二年五月には、 な予算配分。社会的には、若い世代のインドネシア史への無 タイのバンコクの反政府集会の場で、軍が発砲したことによ関心、反華人暴力の消失と華人の政治的非代表性、共産主義 り多くの集会参加者が犠牲になった ( 暗黒の五月事件 ) 。この への不信の継続、工場労働力の女性化と短期契約採用制、 z 二つの惨事を受け、アンダーソンはすぐさま「二つの虐殺 o 活動家の政治への勧誘、報道メディアの保守化。このよ ハンコク」と題する短い論稿を発表した。 うにスハルト退陣から一〇年間を振り返り、インドネシアの そして、東南アジアでのラディカリズムの可能性を描写した政治社会的な保守化とラディカリズムの不在にアンダーソン 「タイとインドネシアにおける共産主義後のラディカリズム」は警鐘をならす。それでも、エカ・クルニアワンの作品のな を書いた石 ) 。 かにラディカルな思考に関する一縷の望みを見出していた。 奇しくもインドネシアでは一九九八年五月に政変が起こり、 ラディカリズムの源泉 同年一一月には『国軍』紙が廃刊に追い込まれた。この時期 をもってアンダーソンのインドネシア国軍監視は終わりを迎 二〇〇二年にコーネル大学を退職してからというもの、ア えた。しかしアンダーソンはインドネシア政治への批判的発ンダーソンは歴史的な研究に多くの時間を割いた。それまで 言を止めることはなかった。いわゆる民主化移行期のインド の彼の研究と同様に、数名の具体的な人物に焦点をあてた研 ネシア政治そのものに関する論文は記さなかったものの、ス究であった。 ハルト体制の批判的分析をとおしてインドネシア政治の歴史しかしそれは、古文書や植民地文書を紐解くという書誌学 的、制度的な考察は欠かさなかった。 的な作業だけではなく、アンダーソンが目をつけた人物の足 そのなかでも、スハルト元大統領の死去を受けて二〇〇八跡を辿る旅という要素が大きかった。そのために彼はフィリ 年に著したスハルト体制の構造分析 ( 「ス ( ルト退出ーーある平ピンに足を運び、スペイン、フランス、ベルギーに立ち寄り、 凡な暴君への追悼文」 ) は、一九八三年に公刊した「古い国ジャワへ足繁く通った。その成果として公刊されたのが、フ 家、新しい社会ーー比較歴史的観点からみたインドネシア新 ィリピン・ナショナリスト ( たち ) の思考に迫った『三つの旗

4. 思想 2016年 08月号

一九八〇年代半ばに、再びアンダーソンは幸運に恵まれた。 クーデタ未遂事件であったが、アンダーソンたちは一九六六 一九七二年、国外退去の身になるインドネシア行の途中、彼 年一月にインドネシア国軍内の内部闘争であるという報告書 をまとめた ( じ。これは「コーネル・ペ はフィリビンに二週間ほど立ち寄った。同年九月、フィリピ パー」と呼ばれた。 ンには戒厳令が敷かれ、マルコスの独裁政権が始まった。そ しかし、この報生ロ圭日が『ワシントン・ポスト』紙によってイ ンドネシア当局にリークされ、アンダーソンは知らぬうちにれから一四年後の一九八六年二月、マルコスは失脚した。こ インドネシア政府の。フラックリストに載った。一九七二年四の間アンダーソンはフィリピンを訪れることはなかったのだ 月にインドネシアを訪れたアンダーソンは、空港で国外退去が、マルコスが失脚した頃、タイの政治状況は静かになって いた。そこでアンダーソンはフィリピンでの現地調査を始め、 を命じられた。それから一九九九年までの二七年間、彼はイ インドネシアとの比較の視点からフィリピンを捉えようとし ンドネシアに戻ることはできなかった。 た。そしてホセ・ リサールと出会った。「アジアで最初の戦 これがある種の幸運となり、アンダーソンをタイ研究へと 闘的なナショナリズム運動の背後にいた、スペイン語で読み 向かわせた。彼には、コーネル大学院時代から東南アジア・ プログラムに多数のタイの友人がいた。そのうえにタイの政スペイン語で話していたインテリや活動家の偉大な世代、そ 治変動がアンダーソンの心を鷲掴みにした。一九七三年一〇の彼らの思考と感情の襞に分け人り、それを理解するこ 月一四日、タイでは軍部独裁が崩壊し、民主的な政治の空気と」元 ) に専念した。 このような幸運の徒の結果、アンダーソンは、インドネシ 現が流れた。そこにはアンダーソンのコーネル時代の友人が多 表 数関わっていた。ところが、一九七六年一〇月六日、タマサア、タイ、フィリピンという三つの「国」の現実政治、政治 由 ト大学虐殺事件 ( 血の水曜日事件 ) が発生した。軍事政権が制度、政治文化、歴史に関する比較研究という、独特の東南 自 復活したことにより、自由な政治活動は制限され、左翼活動アジア地域研究を確立したのであった。こうした背景もあり、 考 アンダーソン自身は比較の重要性をつねに説いていた。より 思家への抑圧が強まり地下に潜る者や海外へ逃れる者がでた。 嫩爾来アンダーソンはタイの現実政治に対する批判的観察を強正確には、彼の思考は比較そのものであ。た。そのために彼 なめていくことになった。彼が一九七〇年代にインドネシアかの著作には、一国の政治や政治文化、文学研究であったとし ても、つねに比較の視座が隠されていた。 柔らタイへと研究の幅を広げた事実が、そして二つの国でフィ ールド・ワークをした経験が、のちに『想像の共同体』の着彼の自叙伝の『ヤシガラ椀の外へ』というタイトルには、 アンダーソンのこだわりが詰まっている。 想へとつながった。

5. 思想 2016年 08月号

であった。何を語るときにも、アンダーソンは歴史的な文脈プログラムが刊行を始めた学術誌『インドネシア』の創刊号 に、アンダーソンは「インドネシア政治の言語」と題する論 化を重視していた。本稿では、アンダーソンの東南アジア地 域研究が醸しだす独特の世界の一端を紹介するに留まる。そ文を寄せている。その論文はこのような言葉で始まっている。 のために東南アジア政治にまつわる彼の論稿を中心に紹介し たい ( 9 ) 今日のインドネシア政治における言語といえば、若干意地 悪な眼差しを有する、もの五月蠅いフランス人やアメリカ 語り口 人から注目を集める対象となっている。 ( 中略 ) しかしなが アンダーソンは独特な語り口と切り口から東南アジア地域らどちらの場合にしても、彼らが理解しうる限りの範囲で、 現代インドネシア語のあり方は古の西洋による挑戦を受け 研究を先導してきた。その語り口は、約束事に縛られ専門用 語に守られがちな学術的な表現ではない。アンダーソンは自 る前から存在していた回避や敗北の形式として認識されて いる。どちらからも感じることのできる陰気なコメントは、 身を表現者として意識していた。そのために定型化された学 術的な表現や定型句とは無縁の語り口にこだわった。 他者の不幸を喜ぶという姿勢に根ざしていることは疑う余 彼は自分を表現者として認識し、聴衆と文体を工夫するこ 地もない ) 。 とで、ディシプリンの型にはまり殻に閉じこもっているだけ この論文を書いた一年後、アンダーソンは一九六七年にコ の研究者ではなく、広範で潜在的な読者へ語りかけた。しか ーネル大学で博士学位を取得し、その政治学部に職を得た。 し時には特定の聴衆を想定していたために、難解であるとか 挑発的であるという評価を受けることもあった。その典型例ところが、先の引用からも明白なように、一九五八年からコ ーネル大学院政治学部で教育と訓練を受けていながら、彼は が、彼の代表作として記憶されている『想像の共同体』であ る朝 ) 。英国でのナショナリズムの議論に論争を挑んだ本書アメリカの政治学に染まることはなかった。アンダーソン日 、専門職主義に染まり始めていたアメリカの政治学的な専 は、辛らつな皮肉やウィットに富み、英国仕込みの知識を存 分に披露している。そこにアンダーソンの創造性と革新性が門性とそのムラのための学術論文という形式が制度化される あったⅱ ) 。 前に、彼はコーネル大学で東南アジア地域研究に魅せられ、 アンダーソンの独特な語り口は、初期の学術論文の書きだ政治科学の波が大学に押し寄せる前に就職した、というわけ である。すなわち彼は、既存の学問領域に囚われることのな しにもみてとれる。一九六六年、コーネル大学東南アジア・ 0

6. 思想 2016年 08月号

田想 B ・アンダーソンの仕事 思想の言葉 2016. 8 No. 1108 , その現在と未来 ーー井筒俊彦『意識の形而上学』を介して ( 上 ) 西田哲学と『大乗起信論』・ 20 世紀フランス文学における眠りと夢 (1) 放心の幾何学 いかなる介人を正統化すべきか ( 上 ) リノヾタリアン・ノヾ ターナリズム批判 ベネディクト・アンダーソンのナショナリズム論をめぐって カントの「一般観念」説と図式論 冨田恭彦 ( 117 ) 柔軟な比較の思考と自由な表現・ アンダーソンの東南アジア地域研究 インドネシアのナショナリズム 「想像の共同体」を越えて・ ・ベネディクト・アンダーソン ( 24 ) ・・新倉貴仁 ( 42 ) ・・大澤真幸 ( 2 ) ・・山本信人 ( 7 ) ・・橋本努 ( 63 ) ・・塚本昌則 ( 78 ) ・・西平直 ( 97 )

7. 思想 2016年 08月号

かわらず、インドネシア・ナショナリズムの基礎となってい タイには国民的英雄がいない。それはきわめて特徴的なこる。それに対してインドは、インドネシアとほば同時期に独 一方で、イ とである。ところがそのために華人移民はタイ社会に同化立を果たしたものの、国語と呼、ヘる言語はない。 しやすかったのである ( 四 ) 。 ンドには六〇年あまりにわたる民主国家の歴史があるが、イ ンドネシアは長い権威主義体制の時代を経験している。この ここには二つの比較が潜んでいる。一つは国民的英雄につようなねじれの状態はどのように説明できるか。インドの場 いてである。東南アジアの隣国に目をやると、インドネシア合、パキスタンの分離独立がなかったら、安定した民主国家 にはスカルノ、フィリピンにはホセ・リサール、 ベトナムに になったであろうか。インドネシアでは、独立初期に何らか はホーチミンという国民的英雄がいる。それに対して、タイの分離独立が成立していたならば、長期的な観点からそれが にはそうした国民的英雄が不在だという特徴を、端的にさら民主政治の成立と安定に貢献したであろうか。そうでないと りとアンダーソンは指摘している。もう一つは華人移民の同するならば、なぜインドとは違うのだろうか。このような歴 化についてである。インドネシアやマレーシアでは華人は現史的な「仮定」的発想は負の比較の特徴である ( 。これこ 地社会に同化したとはいえず、植民地時代から独立後の政府そがアンダーソンの比較の視点であった。 にいたるまで政策的に差別され差異化されてきた。それとは 政治的発言 現異なり、タイは華人移民が同化しやすい環境にあった。この ところで、東南アジア地域研究におけるアンダーソンの最 なように何気ない表現のなかにも、比較の視点が含まれるとこ 由 大の貢献はなにかと聞かれたら、迷いなくわたしは『インド ろに、アンダーソンの語り口の特徴がある。 自 し」 晩年になると、アンダーソンは自身の比較の視点についてネシア』誌の編集をあげる。一九六六年四月に創刊されたこ 考 思「負の比較」 (negative compar 一 son ) という表現を使うようになの学術誌は、コーネル大学東南アジア・プログラムを象徴す 較った。「負の比較」とは相違点に着目した比較研究のことをるだけではなく、世界中のインドネシア研究者にとって最も 意味する。計量化が可能な正の比較とは根本的に性質を異に権威のある学術誌として知られている。アンダーソンは創刊 柔する。これはアンダーソンの言葉を借りれは、次のようなこ当初より『インドネシア』の編集に携わり、一九八四年まで とである。インドネシアには国語があるが、それは宗主国のは編集主幹を務め、その後も生涯編集委員に名を連ねていた。 まさしく、アンダーソンは『インドネシア』の生みの親であ 一一 = ロ語でもなく、特定のエスニック集団のものでもないにもか

8. 思想 2016年 08月号

のか。このような問いを立てたアンダーソンは、その先にバ アンダーソンの生い立ちと軌跡は数々の「幸運」に恵まれ ンコクでのタクシー運転手との会話を続ける。そこで明らかていた。この点は、彼の半生と知的遍歴をまとめ二〇〇九年 にすることは、タイ華人のアイデンティティをめぐる政治でに刊行された自叙伝『ヤシガラ椀の外へ』のなかで存分に叙 ある。タクシンは客家、対立するアピシット・ウェーチャチ述されている。 ・リムソン ーワは福建人、同じく反タクシンであるソンディ アンダーソンはイギリス人の母とイギリス系アイルランド クルは海南人、そして国王は潮州人である。すなわち二一世人の父をもち、中国の昆明で一九三六年年に生を受け、上海、 カリフォルニア、コロラド、ロンドン、ウォーターフォード 紀に顕在化したタイの政治混乱は、こうしたタイ華人のあい だの氏族政治なのだ、しかもそれは都会で発生する抗争で、 ( アイルランド ) で過ごした。ケンプリッジ大学で古典を修め この論理は田舎のタイ人には通じないものだ、とアンダーソ たあと、一九五八年一月アメリカのコーネル大学へ渡った。 ンは論じる。二〇世紀半ばまでは華人氏族と職種が密接に関当初は一年間の滞在予定であったが、そこで前述のように東 連していたが、冷戦下 ( アメリカ時代 ) に状況が変わった。彼南アジア地域研究と出会った。 らのあいだでは商売よりも、法律家、医者、教師、官僚とい 研究の道を歩み始めてからも、アンダーソンは数々の運命 う専門職により高い社会的な価値が求められるなど多角化し ( 幸運 ) の徒を経験した。一九六一年一二月、アンダーソンは た。冷戦が終焉する頃には、タイ社会は保守化し新自由主義フィールド調査のために、戒厳令下のインドネシアの首都ジ 政策の波に呑まれることになった。それがタクシンのような ャカルタに降り立った。博士論文のテーマは、インドネシア 新しい華人の政界進出を可能にした。そこで従来は封印されの社会と政治に対する日本占領の影響であった。国立博物館 ていたタイ華人間に氏族政治の抗争がわき起こることになっ に通い、ジャワの各地でインタビューを実施した。耳と記憶 た、という。はたしてこのようなアンダーソンの議論は、今に頼るインタビュー調査は、その後のアンダーソンの研究の 後タイ政治研究のなかでどのように揉まれていくのだろうか。基本となった。そして、一九六四年四月までの二年八カ月の インドネシア滞在中に、彼はジャワに恋をした。 比較 ( ) アンダーソンがインドネシアでの調査を終えてコーネル大 腰を落ち着けて根を下ろすほどには一箇所に長く住んだこ 学へ戻ってから一年半後、インドネシアではクーデタが発生 とがなかった ( じ。 した。一九六五年に発生したいわゆる「九月三〇日事件」の ことである。インドネシア政府当局の見解では共産党による

9. 思想 2016年 08月号

たものである」 (IC: 25 ) 。あらゆる共同体が多かれ少なかれ 一「想像の共同体」と何か 想像されたものであるならば、「想像の共同体にすぎない」 1 「想像の共同体」の文脈 というネーションへの批判は意味をなさない。つけくわえる そもそも『想像の共同体』は、いかなる議論を与件として ならば、そのような批判は、どこかで、「真正な」共同体を 想定することになる。 出発点としたのであろうか。学説史的に考察するならば、 そして第四に、アンダーソンにとって、ネーションの構築『想像の共同体』は、三つの文脈の中に位置していることが 性や近代性を指摘することは、ナショナリズムを乗り越える強調されるべきである。 リヒ・ア ことを意味しない。 アンダーソンは、『想像の共同体』のな 第一に、謝辞で言及される三人の研究者ーーエー ・ターナー、そして、ヴァルタ ウエレヾツ、、ヴィクタ かで、「なぜこれほどまでに夥しい人がネーションのために べンヤミン の存在がある。いずれもが、文献学、社 死ぬのか」という問題を核心的な問いとしている ( 3 ) 。本当 に問うべきは、近代に構築されたものであるにもかかわらず、会人類学、批評とそれぞれに異なる領域において、近代を鋭 目ー . し 相対化する視座を与えるものである。しかも、彼ら なぜこれほどまでの愛着 attachment を引き起こすのかとい の仕事は、人びとの生の様態としての文化という地平を切り う問題である。 開くものであった。このことは、アンダーソンがナショナリ 以上の点は、『想像の共同体』を国民国家批判に援用して ズムをイデオロギーとしてではなく、文化として取り扱うこ きた従来の議論に再考を促すものといえよう。だが、重要な ことは、アンダーソンの議論の確認を通じて、国民国家を批とを宣言していることに関わる ( 4 ) 。ナショナリズムとは近 え判する言説を否定することではない。そうではなく、以上の代に特有の生の様態に関わる問題なのである。このような生 をようなネーションの規定を通じて、アンダーソンが何を言おの様態への注目が、アンダーソンの議論の基底をなすもので 体うとしていたのかということの解明が課題とされる。へきでああり、本稿では特にこの点に着目してナショナリズムの問題 一口 を扱っていく。そこには自己の生と死、他者との関係、そし 共る。そして、そのうえで『想像の共同体』以後のナショナリ の てそれらの意味づけといった問題が含まれている。 ズム研究の課題を見定めていく必要がある。本稿ではナショ 像 想ナリズムの問題が個人という形象をめぐる想像力の問題と対第二に、アンダーソンは、東南アジアをフィールドとする になっていることを指摘し、ネーションとそれを構成し想像地域研究者である。インドネシア研究者として出発し、タイ、 フィリビンとフィールドを移している ( 5 ) 。重要なことは、 する身体の変容というロ 門題へと開いてい

10. 思想 2016年 08月号

山本信人 目の前にあるものをみてごらんなさい。そして何籍の序文、書評、追悼文、映画評論、あるいは完全原稿を作 が不足しているかを考えてみなさい ( 1 ) 。 成のうえでおこなった数々の講演がある。彼の翻訳したイン ドネシアの文学や学術作品は数え切れない ( 6 ) 。さらにコ 面白い研究を始める理想的な方法は、少なくとも ネル大学を退職してからは、映画に関連した評論やエッセイ 私の考えでは、自分が答えを知らない問題ないし も多数執筆している ( 7 ) 。インドネシア語やタイ語のエッセ 現 疑問から出発することだ ( 2 ) 。 表 イも少なくない ( 8 ) 。 3 な 由 アンダーソンの東南アジア地域研究を一言で語ることはで 自 し」 きない。アンダーソンは彼独特の空気を東南アジア地域研究 はじめに 考 に吹き込み、ある種特殊な世界を構築した。何よりもアンダ 思 ーソンの作品は、インドネシア、タイ、フィリビンへの愛と 較べネディクト・アンダーソンは東南アジア地域研究の一時 具体的な人物への思いが込められている。そして論争的であ 代を築いた ( 3 ) 。なかでも、インドネシア、タイ、フィリピ ュな 軟ンに造詣が深く、それぞれの国の政治や歴史、文化に関する アンダーソンの知的関心は、現実政治、暴力、政治史、古 単著がある ( 4 ) 。また、東南アジアに関する論稿はすでに数 冊の論文集となって公刊されている ( 5 ) 。他にも、他者の書典、文学、映画と多様かっ多面的で時には時空を超えたもの 柔軟な比較の思考と自由な表現 アンダーソンの東南アジア地域研究