リバタリアン - みる会図書館


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1. 思想 2016年 08月号

リアニズムとは、学校給食を是認しない立場であった。とこと言える ( リ。 ろが生活保護世帯の生徒たちへの支給を認めると、その支給以上の検討から分かることは、リバタリアニズムの論客た ハターナリズムに対して正面か リバタリアン ちは総じて、 方針として、競合する民間給食サービスを認めるにいたる。 ら反対するのではなく、真にリバタリアンな人格を可能にす さらに支給の効率性を考慮するならば、すべての生徒たちに リバタリア ( 政府ないし民間が ) カフェテリア形式で給食を提供する立場をるための。ハターナリズムを求めている点である。 ニズムがこのような政府介人を求めるのは、矛盾した事態で 是認することになる。そうなると今度は、リバタリアニズム ハターナリズムにおける「リ はあるまいか リバタリアン の人格理念に照らして、カフェテリアの陳列方針を決めると う主張が可能になる。その陳列方針は、バイアスを解消す ハタリアン」とは、もともと「オプト・アウト」の選択肢を ると称して、代替的なアーキテクチャーを提案するものであ意味していた。ところが実際には、「選択肢の提供という意 る。それは結果として、 リバタリアン ハターナリズムの一味での選択の自由」、「意志の強さ」、「バイアスを解消した選 択の合理性」、「中立的な情報の下での自律」など、さまざま 亜種となる。 現実的なリバタリアンの主張がこのようなものであるとすな意味に解釈されている。またパターナリズムについても、 リヾタリアンの人格を陶冶するための配慮なのか、そ れば、私たちはなし崩し的に政府の介人を認めることにならそれがノ 半オカ (-) ・ウィットマンま、。、 ノターナリズムへのわずかなれともそのような人格を鍛えなくても、結果として同等の判 ム譲歩が、いわば「滑りやすい坂」を下るようにして「大きな断にいたるようにするための配慮なのか、いずれにも解釈す ズ ることができる。このような解釈の多義性ゆえに、理想の人 政府」を帰結するかもしれない、と警鐘を鳴らしている。ウ ナ ィットマンは、あらかじめそのようなリスクを費用計算に人格像を掲げるリバタリアニズムはこの思想のなかに取り込ま タ れてしま、つことになる。 れて、望ましい政策を考えるべきだと提案する。ではウィッ トマンのリバタリアニズムは、どの地点まで戻ることを目指 ン ウィ 2 適用範囲は限られているはずなのに創造的 アしているのかと言えば、具体的には明らかにされない。 では、リバタリアニズムをその一部として含むこの思想を、 タットマンの提案は、「滑りやすい坂」に陥らない別のパター どのように評価す。へきなのか。さまざまな解釈のなかで、こ ナリズム政策を求めるべきだ、というものである CWhitman 2010 」。 ハターナリズムのれまで最も多く批判されてきたタイプのリバタリアン・ この論理もまた、リバタリアン ーナリズムは、「リバタリアン」の意味を「選択合理性」と 欠陥を避けるために、代替的なパターナリズムを求めるもの

2. 思想 2016年 08月号

査のもとに置く恐るべき装置ではないのか。こうした権力の素によって「ナッジ ( 背中を押す作用 ) 」を提供するという、 作動は、いずれも人間の魂を深く傷つけ、高貴な自尊感情を柔らかな統治技術を採用するものである。こうした発想は、 奪ってしまうのだとすれば、私たちはこれを手放しで受け入新自由主義のもとで新たに可能になった規制緩和のさまざま れることはできないだろう 。いったい福祉国家は、、ゝ も力なるな技法、例えば、自己責任原則、事後審査、行動に対する環 権力作用とともに運営されるべきなのか。この問題に対する境条件的誘導、事業の民間委託、会計監査的な評価、等々の 応答の仕方によって、福祉国家の理念と政策はさまざまに争統治技法とともに台頭してきた ( 1 ) 。それゆん 、リバタリア われることになる。 ハターナリズムは、新自由主義の社会が生み出した新た 現在、かかる根本問題に対して有力な応答をなしているのな統治論とみることもできる。フリツツ。ハトリックやウエル ま、リバタリアン ハターナリズム ( 「自由尊重的温情主義」 ) でズによれば、テイラーとサンスティーンのリバタリアン・ ある。・テイラーと 0 ・サンスティーンの共著『実践行動ターナリズムは、富裕層に負担を求めずに社会を統治する方 経済学』「 Thaler and sunstein 200f2009 〕が好評を博して以来、法であり、新自由主義の発展形態であるという〔 F 「一 ( z を ( 「一 ck リバタリアン ハターナリズムは、リべラルでも保守でもな 2011. wells 2010 〕。むろん論理的にいえば、リバタリアン・ い第三の道として、社会政策の新たな理念を提起してきた。 ターナリズムは富裕層に負担を求める立場と矛盾するわけで リヾタリ 二〇〇九年から二〇一二年にかけて、サンスティーンが米政はない。本稿では新自由主義の問題と切り離して、 府の「情報および規制問題のホワイトハウス事務局」長官に 。ハターナリズムの内実を検討したい。 リバタリアン 迎えられると、この思想は、現実の諸政策にさまざまな影響最初に注意すべきは定義の多義性である。 ターナリズムは、「ソフト・ を与えるよ、つになった CSunstein 2014a 【 3f 」。 リバタリアン ハターナリズム ( 柔らかな温情 ハターナリズムは、政府権力のもとで人々を仔羊化するので主義 ) 」や「ライト・ ハターナリズム ( 軽い温情主義 ) 」、あるい はなく、あるいは人々が主体化を遂げるために規律訓練を強 は「非対称的温情主義」などと呼ばれる主義主張の一部であ 要するのでもない。そのようなミクロの権力から人々を自由るとされる ( 2 ) 。もとより、こうした名称で括られる思想の にする一方で、本人がおそらく望むであろう福祉を提供しょ定義も明確ではなく、「。ハターナリズム」の定義も争われう うと試みる。 る ( 3 ) 。私たちは諸概念を明確に用いる必要があるだろう。 その企ては、従来のように厳格な命令と鞭を用いるもので立論にあたって、まずリバタリアン・ パターナリズムの範例 はなく、「にんじんと情報と制度デザイン」という三つの要とされる「カフ = テリア問題」を検討し、この問題に対する

3. 思想 2016年 08月号

応答が福祉国家の価値理念とかかわることを指摘したい。第最終章ではその含意を敷衍し、このモデルが福祉国家を導く 二章では、リバタリアン・ パターナリズムの独創的な特徴を政府介人の新しい立脚点になりうると主張する。 理解するために、まずリバタリアニズムの側からの批判とこ 一範例としてのカフェテリア問題 れに対する応答がもっ捻じれた含意を明らかにする。結論か ら一言えば、リバタリアニズムは、リバタリアン ハターナリ あなたの友人キャロリンは、大規模な公立学校給食を総括 リバタリアン ズムの一亜種として位置づけられる。 する責任者であり、毎日、何十万人もの生徒たちに給食を支 ナリズムの政策が有効な範囲は限られているのであるが、こ給している。ある日キャロリンは、友人の経営コンサルタン の思想はその限界を創造的に超出する点に魅力をもっことをト、アダムとともに、カフェテリア形式で支給される給食に 明らかにしこ、。 また「合理的経済人」を想定しているわけ関して、大規模な実験を思いついた。食品のメニューを変え ではないという点も強みであることを指摘したい。第三章でずに、その並び方を変えた場合、生徒たちの消費行動がどの ま、リバタリアン ハターナリズムを「主体性」や「熟議」ように変化するのかを調べるという実験である。さまざまな の観点から批判する立場が、結局のところ、この思想のなか陳列方法を試してみた結果、多くの食品に対して、その消費 に取り込まれてしまうというパラドックスを指摘する。批判量を最大で二五 % 増減できることが分かった。手前に並。へた 判者たちはどうも、この思想の含意を狭くとりすぎているよう食品のほうがよく選択される、といった差が生まれたためで ムである。思想上の対立点は、反省的意識を作動させるかどうある。生徒たちは、自由に食品を選んでいるつもりでも、陳 リかにあるのではない。争うべきはむしろ、進化論的合理性の列方法の違いで消費量を変えてしまう。さてキャロリンは、 ナ 一地位であり、その意義を認める限定合理性学派との種差であこの調査結果を受けて、学校給食の統括者としてどのような タ る。リバタリアン ハターナリズムは、可能性としてはこの陳列方法を採用す。へきであろうか。 テイラーとサンスティーンがリハタリアン ハターナリズ 学派を包摂しうるとしても、そこまで練られているわけでは ン アない。すると問題は、「どのタイプのリバタリアン・ ムの範例として持ち出すのは、このような問いかけである タナリズムが望ましいのか」となる。第四章ではこの問題を検 CThaler and Sunstein 289 】 1 ー 4 日 2009 】 10 ー 15 」。カフェテリア形 討し、新たな類型「アスリー ・モデル ( 活動モデル ) 」を提式の場合、中立的な陳列方法は存在しない。生徒たちの選択 起したい。アスリ ート・モデルは、・アーレントのいう は、陳列方法という「アーキテクチャー」に影響される。と 「活動」理念を福祉国家の正統化論へと接合するものである。すれば、学校給食を支給する側 ( 政府 ) は、食品の陳列方法に

4. 思想 2016年 08月号

合理的選択のバイアスを解除する方法がない場合に、自由を イヴを高めることに賛成するだろう。けれども「自律」の理 制約するような非合理的選択を回避する介人である。このよ念に照らすならば、人は自分の意志で禁煙することが必要で うな人格的理想をもっリバタリアニズムは、政府 ( 中央計画あり、こうした法制度によるアーキテクチャーを通じて禁煙 者 ) が非合理的な諸個人の自由を最大化したり、あるいは将を促されても、人格の理想に到達することはできない。ホワ 来の自由を最大限に獲得できるような契約をする方向に、選イトによれば、政府による介人は、次の三つの指針に従うも 択の枠組みを方向づけるであろう。グレゴリーによれば、テ のでなければならない「 Wh 一 ( e 20 こ】こ 9 ー 149 〕。すなわち、④ イラーとサンスティーンのリバタリアン ハターナリズムは情報を中立的に提供すること ( 例えば、喫煙の危険性や成分につ 「厚生」を最大化しようとするが、これに対して「自由」を いて表示すること ) 、 6 認知バイアスや発見法の非合理性を克 最大化するタイプのリバタリアン・ ハターナリズムを構想す服するために何らかの支援をすること ( 例えば、クーリング ることができるという「 Gregory2005 こ 260 ー 1263 」。自由を最大オフ期間を設けること ) 、および、 3 人々が自身の選択に対し 化するためのパターナリズムは、既存の選択アーキテクチャて説明可能にすること、また責任を負うように仕向けること ーがもっバイアスを解消するために、代替的なアーキテクチ ( 例えば、ラージ・サイズのソーダ水を飲む習慣がある場合に、医 ャーを提案する。バイアスの解消それ自体も、一定の戦略的療保険額が即座に増加するような仕組みを設けること ) 、である。 なアーキテクチャーを必要としているというわけである。 こうした介入は、リバタリアニズムの人格理念たる「自律」 リバタリアニ この他にも・ホワイトは、類似の観点から に照らして望ましいとみなされる。先のカフェテリアの例に リ。ハタリアン ズムの人格理念を掲げて、 ハターナリズムを即して言えば、ホワイトの立場は、⑩の「カロリーその他の 批判している。ホワイトの場合、リバタリアン的な人格の理栄養情報をすべて表示することで、主体的な栄養摂取を促 相 5 は、カントからコースガ ードに至るまで継承されてきたす」という方針と類似したものになるだろう。加えてホワイ 「自律」の理念、すなわち、自己が自己でありうるのは自己 トであれば、たんに成分の情報を提示するだけでなく、「こ が人生の著作者になるという自律的な実践を通じてである、 の食品を二つ買う場合は追加的な医療費を加算される」とい という人生の過程に置かれる「 Wh 一 ( e 2013 【 128 ー 133 」。例えば った、新しい支払いの仕組みを提案するかもしれない。 タバコの害について、 リバタリアン パターナリズムであれ このようにリバタリアニズムに立脚する論客たちは、実際 ば、「水曜日しかタバコを販売してはならない」といった法には最小限の政府介入を超えて、 リバタリアンの人格理念に リバタ 律を制定し、喫煙の自由を認めながらも禁煙するインセンテ準拠してさまざまな政府介人を擁護している。元来、

5. 思想 2016年 08月号

供給の主体を民営化し競合化することで、政府介入を最小限狭窄に陥らない「選択の合理性」を鍛えるという理想を目指 にとどめるだろう。この場合、民営化された給食配給会社がすというわけではない「 Grego 「 y 285 こ 255 〕。かりに意志が弱 くても、あるいは視野が狭窄であったとしても ( 言い換えれば カフェテリアに食品をどのように陳列するかという間題は、 自己制御能力が欠けていても ) 、政府はそのような欠点を補うた それ自体が競争過程のなかで自生的に最適化されるであろう から、政府は陳列方法にまで介人する必要はないとみなされめに、対抗する議論を示したり、あるいは反対の視点を示し よ、つ ( 川 ) 。 たりすることで、人々が直面する選択肢のアーキテクチャー ところが現実問題として、生活保護世帯の生徒たちに限定がもっバイアスを、ある程度まで解消 ( deb 一 as ) す。へきである。 ハイアスを完全に解消することはできないとしても、先のカ した昼食のサービス ( および供給主体の競合化 ) は需要が少なく、 費用便益の点でその提供が難しいかもしれない。す。へての生フ = テリアの陳列方法において、の「習慣的選択の反省」 徒にカフェテリア形式で学校給食を提供したほうが、効率的や、⑨の「反省意識の要請」は、一つの方法になりうるとグ であるかもしれない。現実的なリバタリアンであれば、一方レゴリーは指摘するⅱ ) 。例えばカフテリアにおいて、毎 で生徒が給食制度を利用しないという「オプト・アウト」を回、ランダムに品物を陳列すれば、生徒たちは反省意識を働 認めつつ、他方で競合する民間の供給主体が、す。へての生徒かせて、陳列方法に左右されない選択をすることができるか ランダムな陳列方法は、その都度の選択に影響 判に昼食を支給するような制度を認めるのではないか。実際、もしれない。 批 ム ( ターナリズム」を与えるという点ではバイアスがかか 0 ている。けれどもそ リバタリアニズムによる「リバタリアン ズ 批判は、いずれもそのような現実的な立場からなされている。の繰り返しによって、慣習的なバイアスを取り除く効果を期 ナ ・グレゴリーはリバタリアニズムの立場から、カフェテ待できるだろう。 タ こうしたバイアス解消のためのアーキテクチャーによって、 リア形式の陳列方法が政府によって決められるのか、それと も民間会社によって決められるのかが問題である、と指摘すグレゴリーは、真に人格的なリバタリアニズムを支援する政 ン リバタリアニズムの人格形成とい策を提唱している。興味深いのは、このような立場もまたリ アる。ところが彼は他方で、 、タリアン パターナリズムの一種であって、政府介人を要 タう観点から、選択肢の操作に影響を受けにくい人格を形成す ることが必要であると主張し、「選択の自由」を促進するた請する点である。具体的にグレゴリーは、次の二つの観点か 丿ーの描くリバタリアニら政府介入を正統化する。すなわち、第一に、意思決定のた めの政府介人を認めている。グレゴー ズムの人間像とは、誘惑に負けない「意志の強さ」や、視野めの一般的な能力を改善するための介人であり、第二に、非

6. 思想 2016年 08月号

るとい、つがもしリバタリアン ハターナリズムの定義が、 けれどもテイラーとサンスティーンによれば、たとえリヾ 多様な選択肢を提供しつつも、選択に対して何らかの効果をタリアニズムといえども、政府による選択アーキテクチャー 提供することであるとすれば、先のカフ = テリアの例で挙げの提供を別の意味で避けられないという。リバタリアニズム た一二の指針は、すべてこの思想の類型として認めなければの立場は、無政府状態 ( アナーキー ) を克服して、私的所有権 ならない。 などの権利契約条件を法制化する際に、すでに諸個人の選好 このよ、つにリバタリアン ハターナリズムは、いろいろな に影響を与えているはずである CSunstein and Thaler 283 】 1165 〕。 仕方で理解することができる ( 8 ) 。定義が多様になりうるの リバタリアニズムの立場は、実際には無政府状態の で、この思想をどのように評価すべきであるかは難しい。こもとで存在していた諸個人の選好を尊重しているわけではな の思想を最広義に採れば、非強制的な手段で人々の選択に影 一定のアーキテクチャーを認めざるを得ず、選好の変化 響を与える政策のすべてが含まれることになり、これではを認めざるをえないのである。ただそうは言っても、アーキ 「オプト・アウト」以外に「リバタリアン ( 自由尊重主義者 ) 」 テクチャーによる選好への影響が避けられないという一般的 の意味が見えてこない。次章では「リバタリアニズム」との事実から、カフェテリアを政府が運営すべきかどうかを導く 関係でこの思想を検討してみたい。 ことはできないだろう。リバタリアニズムは「最小国家」と いうその思想理念に依って、政府によるカフェテリアの提供 ニこの思想の創造的な特徴 に反対するにちがいない。 —リバタリアニスムから一歩先へ けれどもここで一歩譲って、 リ。ハタリアニズムの観点から、 おそらく真のリバタリアンであれば、政府が学校給食を配生活保護世帯の生徒たちに対して、最低限の学校昼食が提供 給することそれ自体に異議を唱えるにちがいない。学校は、 されなければならないと想定してみよう。この場合、真のリ 義務教育の機会を保障すべきであるとしても、生徒たちの栄 ハタリアンであれば、次の二つのいずれか、あるいは両方を 養状態までケアする必要はない。栄養をめぐる最低限の生活提案するであろう。すなわち学校は、カフェテリア形式では 保障については、学校以外の機関が応じるべきであり、学校なく統一された給食メニ、ーを提供す。へきであると提案する は給食を支給する必要はない。 こうしたリバタリアンの立場か、あるいは、独占的支給を避けるべく、サービスを民営化 からすれば、そもそもカフ = テリアは必要ないのであり、陳す。へきであると提案するかである ( 9 ) 。後者の場合、リバタ 列方法というアーキテクチャーの間題は生じない。 リアンは給食のサービスを生活保護世帯の生徒たちに限定し、

7. 思想 2016年 08月号

ーキテクチャーが人々の行動に影響を与えようとするのは当 を選ぶか」という思考実験にも依存している。③の立場は、 こうした思考実験を通じて、生徒たちが自由に選びつつも、然である」というものである。しかし先のカフ = テリアの例 「リバタリアン」の においてオプト・アウトは存在しない。 結果として本人の栄養状態を改善するような最善のメニュー カりに栄養面で悪いものも意味は「オプト・アウト」ではなく、「多様な選択肢を提供 を並べるという方針、あるいは、ゝ すること」とされている。例えばもし、生徒たちにカフェテ 含めてバラエティに並。へるとしても、良い食品を取りやすい 丿アを利用しないという「オプト・アウト」 ( この場合、生徒 位置に並べるという方針を立てるだろう。するとこのような の親は給食費を支払う必要がない ) を認めるなら、①の選択アー 思考実験の結果として採用された③の方針は、かぎりなく① ハターナリズム に近づくのではないだろうか。すなわち 3 の理想は、各人のキテクチャーもまた、単独でリバタリアン・ 栄養バランスを最大限に配慮することによって、諸個人の効の指針となるだろう。 定義の問題は他にもある。テイラーとサンスティーンは、 用の総和からなる「社会全体の厚生水準」を高めるという理 パターナリズムの黄金律」を、「役に立っ可 念に近づくのではないか。③ま、実際には①とセットで採用「リバタリアン 能性が最も高く、害を加える可能性が最も低いナッジを与え される可能性が高いように思われる。その指針は「選択アー キテクチャーを備えた社会的厚生主義」と呼ぶことができるる」ことだとしている。またこの黄金律を詳しく説明して、 「判断が難しくてまれにしか起こらず、フィードヾックがす 判だろ、つ。 批 ぐに得られず、状況の文脈を簡単に理解できる言葉に置き換 ハターナリズム」の正体は、 ム この場合、「リバタリアン・ ズ えるのが難しい意思決定をするときに、ナッジが必要にな 選択の自由と両立する社会的厚生主義である。ところがこの ナ 思想は別様に解釈することも可能であり、よく練られた定義る」と述べている〔 Thaler andSunste 一 n2009 】 74 Ⅱ 2009 ニ 2 こ。と タ テイラーとサンスティーンによれば、 ころが先のカフェテリアは、この黄金律が当てはまる事例で をもつわけではない。 カフェテリアは、生徒たちが日々利用する場所であ この思想のリバタリアンな側面は、「人は一般に自分がした ン 選択結果のフィードバックも得やすい。状況の文脈を簡 いと思うことをして、望ましくない取り決めを拒否したいのり、 タなら、オプト・アウト ( 拒絶の選択 ) をする自由を与えられる単に理解できる一言葉に置き換えることも、それほど難しいわ テイラーとサンスティーンによれば、「ナッジ」 けではない。 べきである」というものである ( 7 ) 。他方でこの思想のパタ ーマン ( 直 とは、合理的経済人には影響を与えないが、ヒュ ーナル ( 温情的 ) な側面とは、「人々がより長生きをし、より 健康で、より良い暮らしを送れるようにするために、選択ア観的な判断に従う人 ) の選択に効果を与えるす。へてのものであ

8. 思想 2016年 08月号

合には、相手は多額の賠償金を支払わなければならないからで あり、そのようなリスクを減らすために、リべラルな観点から 着用が義務づけられている。しかしリバタリアンのためのオプ ションとして、ヘルメットを着用したくないライダーには、特 別な運転講習を受けてもらい、特別な免許を取得してもらうと いう方法も考えられる。これは一定のコストを支払えばリバタ 丿アンになることができるという制度である。 ( 8 ) この他、テイラーとサンスティーンが提案する結婚の民営 化は、ほとんどリバタリアニズムの理念である CTha1er and Sunstein 2009 " 2009 】 Ch. 3 〕。 ( 9 ) VeetiI 「 2011 」を参照。 リ。ハタリアニズムにとって、合理性 についての公理的な定義は問題にならないとの指摘 CVeetiI 2011 】 325 〕は正しい。ただし同論文はミーゼスと ( イエクに共 通する思想理念から リバタリアン ハターナリズムを批判して おり、この点では、必ずしもリバタリアンを擁護しているわけ ではない。 ( 川 ) 例えばマクドナルドのようなファストフード店が、社会奉 仕と称して生活保護世帯の生徒たちに無料で自社のハンバーガ ーを提供することを申し出た場合、学校側は、これを受け人れ るべきであろうか リ。ハタリアニズムであれば、これを受け人 れる。むろんリバタリアンは、社会奉仕として昼食を支給する 諸団体のあいだに、適切な競争の場を与えるだろう。 ) この他にグレゴリーは、「選択肢の数を多くする」方向で 陳列する方針も、自由を最大化するリバタリアニズムの理念に 適っていると指摘する「 Gregor 2005 】 1264 」。 ( 肥 ) むろんパターナリズムによって人々の選好が変化し、人々 は以前よりも。ハターナリズムを正統化するようになるかもしれ ない CArchard 1993 〕。しかしこの「自己正統化」の論理その ものは、理念が制度的安定を調達する条件ともみなしうる。 ( ) レポナートによれば、「リバタリアン ハターナリズムと は、個人にとって不可避的な認知バイアスや意思決定の不適切 さを、次のような探究を通じて克服しようとする介人政策のセ ットである。すなわち、もし個人が無制限の時間と情報のもと で、しかも合理的な意思決定者 ( より正確にはホモ・エコノミ クス ) の分析能力をもって決定したとすれば、選んだであろう 選択肢の方向へとその人の意思決定に影響を与えること ( ただ し簡単に別の選択ができるような仕方で ) である」「 Rebonato 2012 【 6 」。 (ä) 以上は Rebonato 「 2012 】 32 ー 33 〕の議論を私なりに修正して まとめたものである。 ( ) レイルトンはキとキを区別していないが、信念の変化が急 激なものではなく部分的に継続して起きること、またそのよう な信念の持続性は欲求の持続性と結びつくことを理由に、理想 的アド。ハイザーが現実の個人にとって「よい」選択を示しうる としている「 Railton 】 1986 ニ 76 ー 177 n 19 〕。 文献 Archard. D. 「 1993 」 "SeIf-justifying Paternalism. ' J ミ、ミ l- ミ lnq ミ . Vol. 27. pp. 341 ー 352. Bamberger, Kenneth A. 「 2006 」 "Regulation as Deregulation: Private Firms, Decision ・ Making and AccountabiIity in the Administrative State,' ・ミトミ Jo ミミ . Vo 一 . 56. No. 2. pp. 377 ー 468. Braithwaite. John and Peter Drahos 「 2000 」 Global Business

9. 思想 2016年 08月号

。ターナリズム批判 リノヾタリアン・ハ はじめに 一範例としてのカフェテリア問題 この思想の創造的な特徴 1 リバタリアニズムから一歩先へ 2 適用範囲は限られているはずなのに創造的 3 合理的経済人を想定するわけではない ( 以上、本号 ) 三批判者たちを包摂する戦略 主体化型リべラリズムを包摂する 2 熟議民主主義を包摂する 3 限定合理性学派を包摂する 四どのリバタリアン 。ハターナリズムを支持するか 1 コロプキンの類型 2 新たな類型論の提案 五活動モデルによる政府介入擁護論 リバタリアン・パタ 1 ナリズム批判 いかなる介人を正統化す。へきか田 はじめに 人間の生はあまりにも脆弱であり、その一生は不安と心配 に満ちている。かかる弱き存在に対して差し仲。へられる、へき 政府の手は、いかなる権能をもって正統化されうるのだろう か。福祉国家の哲学はこれまで、福祉を提供する際の政府介 人のあり方をさまざまな仕方で正統化してきた。けれどもそ の正統化は、権力の作用をめぐって根源的な批判を免れてき たわけではない。例えばミッシェル・フーコーは、福祉国家 が人間の生に及ばすミクロ権力の作用を、「祭司権力」や 「規律訓練権力」などの観点から批判した。福祉国家は、人 間の生き方を祭司たる政府のもとで飼いならし、自由を奪っ て「仔羊化」してしまうのではないか。あるいは福祉国家は、 人間を規律調教して「主体化」を遂げさせ、たえざる自己審 橋本努

10. 思想 2016年 08月号

2016 no. 1108 B ・アンダ - ソンの仕事 思想の言葉 柔軟な比較の思考と自由な表現 山本信人 大澤真幸 B. アンダーソンインドネシアのナショナリズム , その現在と未来 新倉貴仁 橋本努 塚本昌則 西平直 冨田恭彦 リバタリアン・パターナリズム批判 放心の幾何学 西田哲学と『大乗起信論 カントの「一般観念」説と図式論 「想像の共同体」を越えて 岩波書店 ヨ 60969607 ー市立文聿