政治を読み解く縮図でもあった朝。 モールには国際赤十字が調査することのできない無数の刑務 アンダーソンの国軍政治研究は、インドネシア国軍の政治所があり、虐殺やスハルト大統領のもとで恩赦にあった住民 的関与に関する研究の基盤を構築した。そしてインドネシアの失踪が数え切れないほど発生している点を指摘した。 を超えて、その手法は国軍の政治関与研究のプロトタイプを同様の指摘は、一九八〇年一〇月二〇日、東ティモール問題 つくったといっても過言ではない。 一九七〇年代後半以降はを取りあげた国連総会第四部会でもおこなった朝。 タイ政治の研究に傾倒していたとアンダーソンは回想してい 一九七六年一〇月六日にはタマサート大学虐殺事件が発生 るが、一九九二年までは毎年のように、その後一九九九年ました。この政変についてアンダーソンは「一連の右翼による で断続的に、彼はインドネシア国軍の人事データを作成する攻勢の要には王制があることを肝に銘じておく必要がある」 作業に時間を割くことを忘れなかった。 と綴っている元 ) 。そして翌一一月には、恩師ケーヒンらと 一九七六年になると、インドネシア国軍研究を進めていた連名で、『ニューヨーク・タイムズ』紙に「タイランド アンダーソンがより具体的に政治的な発言をするようになつ新しい独裁者たち」と題し、虐殺者と偽善的なアメリカ国務 た。契機は、一九七五年一二月のインドネシア軍による東テ省を非難する声明を掲載した石 ) 。しかしながら、ほとんど ィモール侵攻と翌七六年一〇月のタイの政変であった。 のアメリカのタイ研究者はこの声明に同調しなかった。一九 一九七五年一二月七日、インドネシア軍はアメリカ政府の七八年三月にシカゴで開始されたアジア学会のタイ研究に関 現お墨付きのもとに東ティモールに侵攻し、武力で制圧し、イする部会の席上、アンダーソンは吠えた。彼はタイの政治研 表 ンドネシアの二七番目の州として実効支配を展開した。こう究がいかに貧弱であったかを、研究対象として扱われてこな 由 したインドネシア政府の実力行使に対して批判的な声をあげ かった一群の課題を列挙することで明示した ( 。のちに、 自 ないアメリカ政府の対応を、アンダーソンは厳しく非難した。 これらの課題が若手のタイ政治研究の取り組む研究テーマと 思一九七九年には人権派弁護士集団とともにアメリカ国務省のなったことは皮肉である。そしてアンダーソンは自らも、タ 嫩対応を批判する文書を公開した。そして、翌一九八〇年イ政治に関する独自の解釈に基づいて現代政治を歴史的文脈 な二月には、アメリカ下院国際関係委員会アジア太平洋およびのなかに位置づける作業をおこなうことになる。「禁断症状 柔国際組織に関する小委員会で、インドネシアと東ティモール 一九七六年一〇月六日クーデタの社会文化的側面」 ( 一九 に関する人権侵害の状況に関する証言をした ( 芝。そこでア七七年 ) 、『鏡のなかに』 ( 一九八五年 ) 、「現代シャムの殺人と進 ンダーソンは入手可能なさまざまなデータに基づき、東ティ 歩」 ( 一九九〇年 ) と一連の作品を世に問うた。
う独特な表現に注目したい。「本書のような抽象的で religio- ph ま soph 一 c な言説を翻訳することの困難について一言中し 添えたい」という形で登場するこの表現は、大拙が『起信 論』を宗教の書であると同じだけ、哲学の書と理解していた ことを示している。大拙は『起信論』を西洋哲学と対峙しう る哲学体系として紹介した。 そしてそうした見解を自らの言葉で展開したのが、最初の 著作 OutIines of Mahåyåna Buddhism( 一九〇七年 ) である ( 7 ) 。井上哲次郎は、西田より一五歳年長、明治一三 ( 一八八〇 ) この著作は『起信論』を解きほぐす仕方で大乗仏教の叡知を年東京大学文学部第一期生として卒業し、二年後には文学部 西洋の読者に向けて語り直したものであり、正確には、仏教思哲学科助教授に就任する。西田が人学したのは、井上が六年 想の論理的・体系的性格を提示することに努めたものである。 一カ月に及ぶドイツ留学を終えて帰朝し三五歳で教授に就任 こうした理解が西田と共有されていた。そう推測せざるをした翌年のことであったから、西田は選科生として、井上教 得ない理由は、もう一つ、西田と大拙がともに「選科生」と授の講義を聴講したことになる。井上の講義「比較宗教及東 して所属した当時の帝国大学哲学科の状況である。 洋哲学」は、明治二四年春から開始され、西田が聴講した時 期は「仏教前哲学」として、「印度哲学」を扱っていた ( 9 ) 。 明治期哲学における『起信論 』ーー井上哲次郎と原坦山 井上の哲学における『起信論』の影響については、既に多 信西田と大拙が最初に『起信論』に接したのは、 ( おそらく ) くの指摘がある ( 2 ) 。むしろ井上自身が何度も言及しており、 乗帝国大学選科生の時代である。金沢時代の記録に『起信論』「実体」や「実在」の概念は『起信論』の「真如」に由来す 大 の文字はなく、他方、当時の帝国大学哲学科 ( 帝国大学文科大るという。「例へば、起信論に真如を説きて云く、 ( 『起信論』 からの原文省略、引用者 ) 。真如は即ち実在なり、是れ内部の 学学哲学科 ) においては『起信論』が重要な意味を持っていたか らである。ここに井上哲次郎と原坦山の名前が浮上する。 直観により領悟すべきものにて、特殊の現象に於ける認識の 田 西 * 西田が帝国大学文科大学哲学科に「選科生」として在学したの如く弁別作用によりて説明す。 ~ きものにあらざるなり、起信 は、明治二四年の九月から明治二七年七月まで三一歳ー二四論の文は此意を叙述して、甚だ明晰」 ( 。 歳 ) 。大拙も ( 東京専門学校に籍を置き円覚寺今北洪川のもとに あるいは、哲学字典『哲学字彙』 ( 明治一四年 ) においては、 参禅していたが ) 西田の勧めにより帝大「選科生」となってい た ( 明治二五年九月から明治二八年初めまで ) 。なお、大学の名 称は、明治一〇年創設ー明治一九年が「「旧」東京大学」、明治 一九年ー明治三〇年が「帝国大学」、明治三〇年ー昭和二四年 が「東京帝国大学」。西田たちの在学期間は「帝国大学」であ ったことになる ( 8 ) 。
ーグにプレッシャーをかけ、最終的な地位につ いてのイリアンの意見表明を保留したまま、その地を国連の一 時的な管理のもとにおいた。 ( 7 ) インドネシア共和国革命政府は、アメリカ中央情報局によ る多大な支援を受けて一九五八年初めに結成された反乱政府で ある。スマトラとスラウェシのいくつかの地域から支持を得て、 ジャカルタの政府を転覆し、それにとってかわることを目指し たが、一九六〇年までに敗北した。ダルル・イスラムは、一九 四九年に中ジャワおよび西ジャワで始まった武装過激派イスラ ム運動であり、のちにスマトラとスラウェシの諸地域へと拡散 した。一九六四年になってようやく鎮圧された。 ( 8 ) 一九四五年末から一九四八年一月まで、共和国の内閣は、 社会主義者と共産主義者によって占められていた。彼らは、オ ランダ植民地政権とのあいだでの、許容しがたいものとなりつ つある「同意」についての責任をもたざるをえない立場にあっ た。一九四八年一月ノ 、タ大統領によって率いられた新し い内閣が、左派勢力を締め出して権力についた。冷戦の雰囲気 がいっそう深まるなか、保守派と左派勢力とのあいだの政治的 緊張が急速に増していった。この結果、一九四八年九月に流血 の事態にまで発展する武力対立がマデイウン市街で始まったが、 ほどなく左派勢力は粉砕された。 ( 9 ) 一九四五年九月、ルイス・マウントバッテンに率いられた 連合軍が日本より統治権を引き継いだとき、オランダはナチか ら解放されたばかりで、行使できる軍事力をもっていなかった。 それゆえ、一年以上にわたり、イギリスの軍事的保護のもとに あるオランダ領東インド民政府がデン・ ーグを代表していた。 ( 川 ) ゲルワニ ( インドネシア婦人運動 ) は、左派による女性組織 で、しだいに共産党の支持基盤となっていった。 ) ナフダトウル・ウラマは、一九二〇年半ばにまでさかのば る伝統主義のウラマの組織である。ナフダトウル・ウラマを長 きにわたり率いてきたアブドウルラフマン・ワヒドは、その創 設者〔であるハシム・アシュアリ〕の孫である。アンソルは、非 常におそれられたナフダトウル・ウラマの青年部であり、特に 東ジャワの農村部で強い勢力をもっている。 ( 肥 ) メガワティは、インドネシア初代大統領スカルノの娘であ 、現在、インドネシア民主党闘争派 ( 闘争民主党 ) の党首であ る。一九七〇年代初め、スハルトは、現存するあらゆる非イス ラム系の政党をインドネシア民主党へと合併させた。その内部 はばらばらで、すぐに腐敗していった。インドネシア民主党の 中心となった勢力はインドネシア国民党であったのだが、その 巨大な左派勢力は血まみれに刈り込まれていた。ところが、イ ンドネシア国民党は一九五〇年代に、彼女の父の政治的ビジョ ンに最も近いものとみなされていたのだった。 ・ムルダニ将軍は、長きに渡り諜報機関の最高権力 者として、東ティモールでのインドネシア統治の蛮行に関して もっとも責任ある人物であった。フランス・セダは、スカルノ 政権最後の内閣で農林大臣を務め、スハルト体制の初期に資金 を提供する重要な人物であった。リエム・ビアン・キとハリ ・チアン・ シララヒは、アー ・ムルトボの特別諜報ネットワ ークにおける二人のきわだったインドネシア系中国人工作員で あり、一九六五年から一九六六年にかけての反共産主義の虐殺 において隠然とした役割を演じた。 (ä) インドネシア社会党は、西洋志向の知識人を主体とした小 さな政党であり、一九五〇年代半ばまでには社会主義者という
という古本を買ってくれた。鮮明に覚えていることは、この語よりも英語を話す人口が多いため、茶色の雌牛の物語を読 本の第一章は、クーフ ーリンと茶色の雌牛の物語であった。 むとしたら英語の翻訳物に頼るしかない人が大半である。そ この物語は、英語という言語が存在する以前、すなわち一二れでも、何万人ものアイルランド農民が植民地の飢饉のため にアメリカへと逃れざるをえなかった一五〇年前にくらべれ 世紀に、古アイルランド語で記録された。これの何が奇妙な のか ? 私の母が買った本は一九〇〇年頃に刊行された版でば、今日では自由を獲得しているアイルランドとイギリスと あったが、当時のアイルランドはまだイギリスの植民地統治の関係ははるかによくなっている。ここには、インドネシア のもとにあり、イギリスはアイルランド住民の「統合」に苦 にとって東ティモールとの関係における一つの教訓がある。 心していた。それは、スハルト体制が東ティモールを「統この小さなエビソードに触れたのは、あまりに多くのイン 合」しようと試みたことに似ている。何年もたってから、私 ドネシア人たちがいまだにインドネシアを挑戦や共通のプロ はこの本の一九三〇年ごろに出版された新しい版を見つけた ジェクトとしてではなく、「遺産」だと考えていることを知 来のだが、例の第一章が消えていたことを確認したときには思 っているからである。遺産があるところには、相続人がおり、 とわず微笑んだ。この三〇年のあいだに、 ( 私もその一市民であ相続人たちのあいだでは、誰に遺産を相続する「権利」があ 現る ) アイルランド共和国は自由を獲得していた。それはイン るかをめぐる激しい不和があるのは普通である。ときには大 そドネシアがオランダから独立するわずか二四年前のことであきな暴力に至ることもある。「抽象的な」インドネシアを、 ム った〔インドネシアの独立宣言は一九四五年八月七日。イギリス植 いかなる犠牲をはらってでも保存しなくてはならない「遺 ズ 民地下にあったアイルランドでは、一九一九年にアイルランド共和産」であると考える連中は、抽象的な地理的空間に実際に住 ナ 国独立が宣言され、アイルランド独立戦争が起こった。一九二一年んでいる市民たちをひどく傷つけてしまう可能性がある。 シ に独立派はイギリスと英愛条約を締結し、アイルランド自由国とし最近ニュースに取りあげられることの多い二つのきわめて ナ のて分離した。一九三一年にはウエストミンスター憲章の成立により、 具体的な事例、すなわちアチ工とイリアンを考えてみよ シイギリスと同格の独立国として規定された〕。このちょっとした う ( 2 ) 。植民地時代末期から続く独立運動の歴史全体を通じ 話からも、政治的環境に応じて「光り輝く祖先」を創出したて、私が知るかぎり、アチェ人は誰一人として「独立アチ ン イり消去したりすることが、実のところいかに容易なことかが ェ」を望まなかった。革命期のアチ工といえば、オランダが 分かるだろう。事実、イギリスでは誰一人として茶色の牛を戻ろうと考えることもしなかった唯一の地方であった。しか 懐かしむことはない。他方、アイルランドではアイルランドし、独立アチェを宣言する機会を模索することなく、アチェ
のか。このような問いを立てたアンダーソンは、その先にバ アンダーソンの生い立ちと軌跡は数々の「幸運」に恵まれ ンコクでのタクシー運転手との会話を続ける。そこで明らかていた。この点は、彼の半生と知的遍歴をまとめ二〇〇九年 にすることは、タイ華人のアイデンティティをめぐる政治でに刊行された自叙伝『ヤシガラ椀の外へ』のなかで存分に叙 ある。タクシンは客家、対立するアピシット・ウェーチャチ述されている。 ・リムソン ーワは福建人、同じく反タクシンであるソンディ アンダーソンはイギリス人の母とイギリス系アイルランド クルは海南人、そして国王は潮州人である。すなわち二一世人の父をもち、中国の昆明で一九三六年年に生を受け、上海、 カリフォルニア、コロラド、ロンドン、ウォーターフォード 紀に顕在化したタイの政治混乱は、こうしたタイ華人のあい だの氏族政治なのだ、しかもそれは都会で発生する抗争で、 ( アイルランド ) で過ごした。ケンプリッジ大学で古典を修め この論理は田舎のタイ人には通じないものだ、とアンダーソ たあと、一九五八年一月アメリカのコーネル大学へ渡った。 ンは論じる。二〇世紀半ばまでは華人氏族と職種が密接に関当初は一年間の滞在予定であったが、そこで前述のように東 連していたが、冷戦下 ( アメリカ時代 ) に状況が変わった。彼南アジア地域研究と出会った。 らのあいだでは商売よりも、法律家、医者、教師、官僚とい 研究の道を歩み始めてからも、アンダーソンは数々の運命 う専門職により高い社会的な価値が求められるなど多角化し ( 幸運 ) の徒を経験した。一九六一年一二月、アンダーソンは た。冷戦が終焉する頃には、タイ社会は保守化し新自由主義フィールド調査のために、戒厳令下のインドネシアの首都ジ 政策の波に呑まれることになった。それがタクシンのような ャカルタに降り立った。博士論文のテーマは、インドネシア 新しい華人の政界進出を可能にした。そこで従来は封印されの社会と政治に対する日本占領の影響であった。国立博物館 ていたタイ華人間に氏族政治の抗争がわき起こることになっ に通い、ジャワの各地でインタビューを実施した。耳と記憶 た、という。はたしてこのようなアンダーソンの議論は、今に頼るインタビュー調査は、その後のアンダーソンの研究の 後タイ政治研究のなかでどのように揉まれていくのだろうか。基本となった。そして、一九六四年四月までの二年八カ月の インドネシア滞在中に、彼はジャワに恋をした。 比較 ( ) アンダーソンがインドネシアでの調査を終えてコーネル大 腰を落ち着けて根を下ろすほどには一箇所に長く住んだこ 学へ戻ってから一年半後、インドネシアではクーデタが発生 とがなかった ( じ。 した。一九六五年に発生したいわゆる「九月三〇日事件」の ことである。インドネシア政府当局の見解では共産党による
受けていた。 第九四二号 ) 。 ( ) 中村元は、原坦山が『起信論』を講じたことを「わが国の (2) 例えば、板橋勇仁『西田哲学の理論と方法』 ( 法政大学出版 精神史、思想史においてその意義をいかに強調しても過ぎるこ 局、一一〇〇四年 ) 第一章「「直接の知識」と哲学的方法論」。 との無いほど、歴史的な大事件であった」という ( 原、前掲書 ( Ⅱ ) 井上哲次郎「認識と実在の関係」 ( 井上哲次郎編『哲学叢 書』第一巻第二集、明治三四年、集文閣、三六二頁、国立国会 ( 片 ) 坦山は当初「印度哲学」ではなく「心性哲学」という名称 図書館デジタルライプラリーによる ) 。 を考えていたという。注目に値する。 ( 肥 ) 『哲学字彙』 ( 井上哲次郎編、有賀長雄増補、名著普及会、 ( 絽 ) 「読了」の前年、明治三五年八月七日の日記にも「起信論」 一九八〇年。初版は明治一四年 ) 。 の文字が独立して登場する。なお同年一〇月二八日には「本日 ( ) 西田を井上哲次郎「現象即実在論」の継承者とする見解に 大拙より久しぶりに面白き手紙来る」とある。大拙が・ジェ ついては、井上克人『西田幾多郎と明治の精神』 ( 関西大学出版 ームズ『宗教経験の諸相』を紹介し、西田もぜび「一読した の系譜」など。 部、二〇一一年 ) 第二部「明治期アカデミー き」と応じているが、『起信論』の話題はない ( 西村恵信編、前 ( ) この文脈における加藤弘之の宗教観・時代認識については、 掲書、九七頁 ) 。 木村清孝「原坦山と「印度哲学」の誕生ーー近代日本仏教史の ( 四 ) 井筒俊彦『意識の形而上学』中央公論社、一九九三年、五 一断面」、『印度学仏教学研究』第四九巻第一一号、平成一三年。 八頁。 ( ) 原坦山については中村元による解説がある ( 原坦山『大乗 ( ) 西田哲学と『起信論』の比較研究は、既に末木剛博にある。 起信論両訳勝義講義』萬昌院功運寺、昭和六三年、「序」 ) 。中 『善の研究』と『起信論』に共有される点は、共に意識一元論、 村によると坦山は神智学のオルコット ( H. S. O 一 cott ) の影響を 論 け円 再円 と円 に円 拡円 る む 想 8 起 こ受とヤ 思間 カ 乗 て の史 大 由チ好 こ障 0-0- 区 - 0 の 援救期想。。動 ら 代礎 サ社を俊たを的慧自 学 ←気保 年基 験姿邦を捌判 一ア 哲 柴て計は 田 ア学 のキ〉と会房第 イ済 本噐和 西 半付西ド場 っ社書 著点 後跡 テ経 ンる 第草 効効 昭科代を スび ロす 年点 策番 子 表アち シ学 最手 フ大 政 著 二ロ けいそう
「自分たちの政府」という意識、その所作に対する国民としができるか。本論文は、インドネシアの事例を乗り越えて、 ての責任意識を喚起している。翻。て、私たちは日本国民と読者一人ひとりに問いかけている。 ( 山本信人 ) して、政府の ( してきた ) 所作に対する羞恥心を認識すること ※本稿は、一九九九年三月四日、つまり私が二六〔一一素となることが少なくない。 七〕年ぶりにインドネシアへの人国を許可された直 インドネシアでのわかりやすい例が、ディポヌゴロ王子 後に、ジャカルタでおこなった講演原稿である。 ( 一七八七頃ー一八五五 ) をめぐる状況である。一九五〇年代、 ディポヌゴロは最高の国民的英雄として、あたかもオランダ 私の経験からすると、ナシ「ナリズムは誤解されることが植民地主義の頸木を断ちインドネシアの国民的独立を目指す 多い。そのため、今世紀、今や終わりつつある二〇世紀に地運動を率いたかのように喧伝された。しかし、回顧録での王 来球大に広ま 0 た現象の一例としてインドネシアを用いること子自身の発言をみると、彼は実際にジャワを「征服する」っ とで、ナシ「ナリズムにまつわる共通した二つの誤解についてもりだ 0 たーー・そう「征服する」という一一 = 〔葉で政治的目標を 語 0 ていた。〔当時の彼にと。ては〕「自由」の概念と同じく、 現簡単に触れることから始めよう。一つ目は、ナショナリズム 「インドネシア」という概念は、まったく無縁の異物であっ そはとても古く、「この上なく輝かしい祖先」から継承された た。実際、「インドネシア」という奇妙なギリシアⅡロ ム ' ものだという誤解である。ここからナショナリズムは、私た ズ 風の造語が非常に新しいものであることは周知の事実である。 ちそれぞれの血や肉から「自然に」現れてくるものとなる。 ナ それが広く知られるようになったのはせいぜい八〇年前のこ だが実際のところ、ナショナリズムは比較的新しいもので、 シ 歴史的にはその誕生はわずか二世紀前のことであ 0 た。一七とであ 0 た。この語を名称に掲げた最初の組織は、インドネ ナ シア共産党であった。一九二〇年のことである ( 私の母がすで の七六年にフィラデルフィアで読み上げられた史上初の独立宣 シ に一五歳の娘だ。たころだ ) 〔この部分は、アンダーソンの事実誤認 言では、「祖先」に言及することなく、ましてやアメリカ人 ネ についての記述は皆無であ「た。一九四五年八月一七日におである。正確には、一九二〇年に創設された共産党名は東インド共 イこなわれたスカルノと ( ッタの独立宣言も、本質的に同様で産党であ。た。それをインドネシア共産党に改称したのは、一九二 あ 0 た。対照的に、「この上なく輝かしい祖先」を求める執三年のことであ「た〕。 二つ目の誤解は、「国民」と「国家」が、正確に同一では 着心はばかげた言葉でありながらも、きわめて危険な愚行の
114 西田哲学の展開としては、まさに「自覚の立場」において 理解されるべき課題である。しかし本稿は論文「実在に就い て」に留まる。そして『起信論』との関連を見る。むろん 『起信論』が「学の成立根拠」を論じるはずはないのだが、 しかし「離言真如」と「依言真如」の問題と重ねてみること はできる。「言 ( コトヾ , ) 」で〈語り得ぬこと〉と〈語り得るこ と〉。西田の「純粋経験」を『起信論』の「真如 ( あるいは 「心真如」 ) 」と重ね、〈純粋経験の直接性〉を「言 ( コトバ ) で語 り得ぬ離言真如」と重ねることによって、西田哲学と『起信 論』に共有される論理構造及びその分岐点を浮き彫りにした いと思っているのである。 一方で、〈純粋経験の直接性〉は〈思惟や判断〉から区別され る。しかし他方で、純粋経験の直接性の中で既に働く思惟や 判断が課題になる。「純粋経験の自発自展」として言えば、 純粋経験が思惟や判断になってゆく途上の「いまだ思惟とい えぬ思惟」が課題となっているということである。 * 井筒俊彦は「いまだ分節といえぬ分節」に注目する。井筒の用 語法で言えば、「無分節の中で既に働いていた分節」。無分節か ら離れて初めて生じる分節ではない、無分節の中で既に生じっ つあった「分節とも言えぬ分節」。例えば、華厳哲学の「理理 無礙」、あるいは、イプヌ・ル・アラビーの哲学に即して語ら れた「神自体の内部で」既に生じている自己顕現の位相である ( 前掲、拙論「西田哲学と「事事無礙」」参照 ) 。 ( 1 ) 西田の著作からの引用はすべて新版『西田幾多郎全集』 ( 岩 波書店、二〇〇二ー二〇〇九年 ) による。 ( 2 ) 本稿は、拙論「西田哲学と『事事無礙』ーー井筒俊彦の華 厳哲学理解を介して」 ( 『思想』一〇九九号 ) の続編である。 ( 3 ) 正確には既にケーラスと共同で『老子道徳経』の英訳作業 を始めていた。西村惠信『鈴木大拙の原風景』大蔵出版、一九 九三年、一四二頁、また、井上神定・神文化研究所編『鈴木大 拙未公開書簡』禅文化研究所、一九八九年、一一一一三頁。 ( 4 ) 『西田幾多郎宛、鈴木大拙書簡』西村恵信編、岩波書店、 二〇〇四年。 ( 5 ) 井上神定・神文化研究所編『鈴木大拙未公開書簡』禅文化 研究所、一九八九年。 ミ、ミ translated for the first time from the Chinese ver- sion by Teitaro Suzuki. Open Court Publishing Company, 1900. ( 7 ) Daisetz Teitaro Suzuki, 0 ミ、、ミ、を B dd ミ s ミ . Open Court. 1907. ( 佐々木閑訳『大乗仏教概論』岩波書店、一一 〇〇四年 ) 。なお、西田の日記 ( 明治四一年元旦 ) に「大拙の大 乗仏教論をよむ」とあるのは、この著作のことと推測される。 ( 8 ) 西田の「選科生」時代については、、 月林敏明『西田幾多郎 の憂鬱』 ( 岩波書店、二〇〇三年 ) 「四内向する蹉跌」が詳しい しかし『起信論』への言及はない。 ( 9 ) 井上の講義「比較宗教及び東洋哲学」 ( 明治二四年春ー三一 年七月 ) についての詳細は、磯前順一「井上哲次郎の「比較宗 教及東洋哲学」講義ーー明治一一一年代の宗教と哲学」 ( 『思想』
『想像の共同体ー、ーナショナリズムの起源と流行』は、一九八三年に出版された。その後一九九一年に、も とからあった九章に二章を付加された第二版が出版された。さらに二〇〇六年には、末尾に文章が加えられた 第三版が出版された。これが最終版である。三つの版はす。へて白石隆・白石さや両氏によって優れた日本語に 訳されている。邦訳では、第二版が『増補』 ( 一九九七年 ) 、第三版が『定本』 ( 二〇〇七年 ) と、タイトルに冠が付 けられている。一九九一年の第二版の増補部分に関して言えば、初版の延長上に自然に接続するものであり、 この中でアンダーソンは、初版の中にもすでに暗示されていた主題、すなわち、ナショナリズムと人口調査・ とくに忘却が 「国民」という意識にどれほどの影響 地図・博物館との関係や、あるいは記憶や忘却が を与えたか等を、さらに詳しく、かっ印象的な事例をいくつも引きつつ論じている。私が『由来』を執筆する ささか奇異な印象を与えるのは、第三版だ。ここに付加され 葉際に参照したのは、この第二版である。だが、い た長い文章は、既存の自著への増補としては他に例を見ない個性的なものになっているのだ。 想第三版の付加部分は、第二版の増補部分とは違。て、既存の章に付け足された章ではなく、「あとがき」と っ体裁になっている。が、「あとがき」と呼ぶにはあまりに長大だ。かといって、もしこれが第一二章とさ れていたら、本文との間で内容的な整合性を保つことができなかったにちがいない。「旅と交通」と題された この「あとがき」は、『— O 』の諸一一 = ロ語への翻訳の歴史をたどっているのだ。『— O 』は、アンダーソンの著書 の中では最も広く読まれ、世界中の知的な読者に強い刺激を与えたから、当然、多くの言語に翻訳された。こ の「あとがき」が書かれた二〇〇六年末までに、三〇カ国、二七言語で出版されたという。 第三版に付け加えられた「旅と交通」は、したがって、『—0 』それ自身への自己言及、この文章に付され ジオ・ハイオグラフィ た副題にある通り一種の『 O 』の「自伝Ⅱ地伝」である。アンダーソンは何のためにこのような文章を自著 に人れたのだろうか。自分の本がこんなに成功していると自慢するためか。もちろん違う。『 * O 』はもとも と、 ( 特に西欧においては ) 俗語の出版物が資本主義的な衝動のもとで波及したことが、ナショナリズムの誕生の
り、『インドネシア』はアンダーソンであった ( 引 ) 。 された。その冒頭にはこう記されている。 そもそも『インドネシア』はアンダーソンの着想から始ま った。彼は一九六四年八月、二年半におよぶジャワとアムス 一九六五年一〇月一日の「クーデタ」以降、インドネシア テルダムでの調査からコーネル大学へ戻ってきた。そのとき政治における陸軍の役割は顕著になってきている。とりわ 彼は、インドネシアに特化した学術誌の必要性を強く意識し け、スカルノ大統領からスハルト中将へと権力移譲がなさ た。翌一九六五年夏、同僚のルース・マクヴェイとフレッ れた一九六六年三月一一日以降、陸軍は政府のなかで中核 ジ・ケ ンネルとアイディアをすり合わせ、因 5 師ジョ 的な役割を果たすと予測される。 ( 中略 ) このようなクーデ ーヒンに話をもっていったところ、学術誌の創刊に全面的に タ後の陸軍内における権力の移動の重要性と特徴を理解す 協力してくれるという賛同を得た。八本の原稿の見通しもっ るために、『インドネシア』の編集者は中央および地方レ もていた。ところが、創刊計画がまとまってから間もなくし ベルにおける陸軍高官の人事リストを作成することにし た ) 。 て、インドネシアで「九月三〇日事件」が発生した。そのた め創刊号には、急遽「九月三〇日事件」関連の文献リストを 掲載した ) 。 インドネシア国軍は世にも珍しく開かれた組織であった。 アンダーソン自身は『インドネシア』に数多くの論稿を発一九六五年三月一五日から『国軍』と題する日刊紙の刊行を 表している。インドネシア語から英語への翻訳も少なくない。 開始した。この新聞は一九九八年五月にスハルト政権が崩壊 そのなかでも編集者として彼がまとめていた「インドネシアした半年後まで公刊されていた。本紙の特徴は軍の人事情報 軍人工リ ートに関する現状データ」は、国家権力の監視と理が掲載されていたところにある。アンダーソンはコーネル大 解というアンダーソンの強い問題意識を反映した貴重なデー 学に届く本紙を文字通り舐めるように読みながら、陸軍、海 タ収集と分析の結晶である。 軍、空軍などに関する人事情報をカードに書き留め、データ コーネル・ペ ーでは「九月三〇日事件」は軍によるク べースを作りあげていった朝 ) 。そのデータベースに基づき ーデタであるという分析をしたが、まさにその時期からアン作成されたのが、「インドネシア軍人工リートに関する現状 ダーソンは、軍の組織 ( 改革 ) および人事 ( 異動 ) に関する監視データ」である。スハルト大統領をはじめとしてインドネシ の目を強めていた。一九六七年三月に刊行された『インドネア国軍は政治への関与を深めていたために、このデータはた シア』には、「国軍エー トの現状に関するデータ」が掲載んに国軍内の人事や勢力図だけではなく、スハルト政権下の