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検索対象: 思想 2016年 08月号
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1. 思想 2016年 08月号

1 10 * 『起信論』で言えば、「忽然念起」の間題である。なぜ清浄な 真如の中に「念 ( 染心 ) 」が生じるのか、あるいは、「念」を内 発的に生じさせる清浄とはどういう在り方なのか。『善の研究』 は「対立」と「統一」として解き明かそうとする。 実在は一に統一せられて居ると共に対立を含んで居らね ばならぬ。ここに一の実在があれば必ずこれに対する他の 実在がある。而してかくこの二つの物が互いに相対立する には、この二つの物が独立の実在ではなくして、統一せら れたるものでなければならぬ、即ち一の実在の分化発展で なければならぬ。而してこの両者が統一せられて一の実在 として現れた時には、更に一の対立が生ぜねばならぬ。し 第三、す。へての意識現象の背後に宇宙の根源的な力が働い かしこの時この両者の背後に、また一の統一が働いて居ら ている。ここでは「不変的或者」という言葉が使われる ( 西 ねばならぬ。かくして無限の統一に進むのである。 ( 一巻、 田の用語法において「不変的」と「普遍的」は同義である ) 。 六三頁、文一〇三頁 ) 「精神の根柢には常に不変的或者がある。この者が日々そ の発展を大きくするのである。時間の経過とはこの発展に伴 一、実在は対立を含む、必ず対立する他の実在がある。二、 う統一的中心点が変じてゆくのである、この中心点がいつで二つの物がそれぞれ独立に実在している限り、相対立するこ も「今」である」 ( 一巻、六一頁、文九九頁 ) の ) 。 とはできない。三、対立の成り立っ場が必要である。この時 この「不変的或者」は「唯一の統一カ」とも「唯一の実期の西田は両者が「統一せられたるもの」という。四、二つ 在」とも言い換えられる。宇宙万象の根柢には「唯一の統一の物の「統一」を「一の実在の分化発展」と言い換える。五、 力」があり、万物は「同一の実在」の発現したものである。 しかし二つの物が「統一せられて一の実在として現れた」時 では「この唯一の実在」からどのように「種々の差別的対には、また更に、一の対立が生じる。六、 この場合も、両者 立」が生じてくるのか。 の背後に、また一の統一が働いている。かくして無限の統一 面的性質」の「必然の結果」として個々の存在者が成り立っ ( 一巻、五八頁、文九五頁 ) 。なお、この時期の用語「真実在」 や「統一的或者」は一定しない。しかし ( 既に多くの指摘があ る通り ) 重要なのは、この統一的或者が実体ではなく、 の活動力 ( 作用 ) であり、自己展開するという点である。 * 『起信論』は「対立」とは言わず「不空」、あるいは「差別の 相」という。例えば、「心真如」は「一切の差別の相」から離 れている ( 空である ) 、にもかかわらず、自己分節する ( 不空で ある ) 。心真如それ自身の内側に既に「差別の相」が潜在し、 〈自己顕現への志向性〉が含まれているということである ( 本稿

2. 思想 2016年 08月号

変化する環境のなかで生き延びるために、神ではなく人間が 連邦インドネシアのために 造ったものであり、つねに環境に適応していく必要がある。 私たちは現実的にならねばならぬ点もある。正真正銘の自もしアメリカ建国の父たちが今日に生き返ったならば、彼ら 治、つまり今日ある特別州のような形での「偽りの自治」でが二世紀前にまとめた文章がどれほど文言においても精神に はないものとは、インドネシアの連邦化を意味するというこおいても変更されてきたかを知って、驚くにちがいない。 とを認めることだからである。これは、まったくもって正常九四五年憲法は完全に時代遅れである。実際、〔四五年憲法が 五〇年憲法に代わった〕一九五〇年にはすでに時代遅れであっ なことである。カナダ、ブラジル、アメリカ合衆国、インド、 ナイジェリア、ドイツ、ロシアなど、世界の巨大な国のほとて、権力に飢えた国軍と権威主義的な度合いを強めていたス カルノ大統領のあいだのご都合主義的な同盟がなかったなら、 んどは、さまざまな形の連邦制度をとっている。中国は明ら 一九五九年に復活されることはなかっただろう。この憲法は、 かな例外であるが、インドネシア人が中国のシステムをモデ ルとして選択するとは思えない。半世紀近くにわたり、オラ廃棄処分にしないとしても、少なくとも根本的かっ徹底的に ンダはインドネシアに対して重要な役割は何一つ演じてこな点検される必要がある。 かったとい、つ事 ~ 大にもかかわら、す、きっとジャカルタには、 過去を直視する 反射的に、連邦インドネシアとはオランダ植民地のプロジェ 「共通のプロジェクト」をよみがえらせ、強靱な生きた現 クトであったし、今もそうだと叫ぶ人びとがいるだろう。ほ かには、連邦制は、外部の勢力が扇動する統一した共和国を実とするためには、蔓延している残虐な蛮行を終焉させるこ とが不可欠である。植民地体制に抵抗した活動家たちの回顧 解体させる枠組みであるという声も存在する。現在のポスト 冷戦の世界において、このような国土分断で利益をえる外部録を読むと、殴られたことや拷問されたこと、ましてや生殖 勢力とは誰なのか ? 私には誰も思い浮かべることができな器に電極をつけられるような行為についての記述は皆無に等 。まったく反対である。ューゴスラビアの惨事を経験したしい。しかし、過去三〇年間では、現場を任される警察や国 ことで、すべての主要国は、どこであれそれに似た悲劇が生軍で末端のものたちは、こうしたことを「通常」の行為とし 、まていた。い ところが、も までも、逮捕者を尋問のまえに殴りつけることも、 じることを避けるために支援を躊躇しない。 だに腐敗秩序体制の精神構造を引きずり、連邦制は一九四五そして「逃亡を企てた」というロ実で囚人を「処刑」するこ とも同様に「通常」の行為となっている。 年憲法に反すると訴える人びとも存在する。しかし憲法とは、

3. 思想 2016年 08月号

の観念は経験には見出せないとし、それを「習慣」が与えるじ」であるため、その概念の普遍性 ( 一般性 ) をそのまま映す とした。 一般的「像」は描きえないにしても、特殊な「像」を描くこ とは可能である。ところが、純粋知性概念と直観は、「種類 しかし、「習慣」は経験に基づくものであり、それでは 「必然的結合」は与えられない。そこからカントは、知性がが異なり」、そのような関係ではありえないからである。そ 純粋な思考パターンとしての純粋知性概念をアプリオリに持して、直観としての「像」が描けないということは、与えら っていると考え、原因・結果の関係をその一つとしたのであれた直観のいずれに当該概念が適用されるか、いずれが当該 概念のもとに包摂されるかが、そのままではわからないとい 、つことでもある。 九純粋知性概念の場合Ⅱーー超越論的図式 これについてカントは次のように言う。 こうして、純粋知性概念は、経験的概念とは異なり、最初 から知性が保有している「ものの見方」、「ものの捉え方」と純粋知性概念は経験的〔 : : : 〕直観と比較すると〔それとは〕 まったく種類が異なり、何らかの直観のうちにそれを見出 される。しかし、純粋知性概念が知性由来のものである限り、 すことはありえない。それなら、経験的直観を純粋知性概 知性とはまったく異なる感性の働きによる直観に、それが正 当に適用できるという保証はない。そこで、その正当性を明念のもとへ包摂すること、したがってカテゴリーを現象に 式らかにするための「演繹」が必要となる。これが「超越論的適用することは、いかにして可能となるのか。というのも、 「カテゴー 、例えば原因性は、感覚機能によって直観す 分析論」の大きな課題であった。 説 カントの「超越論的図式」の議論は、その演繹の直後に現ることができ、現象のうちに含まれている」とは誰も言わ 乢れる。右のような事情から、「演繹」によって直観への純粋ないだろうからである。 ー ) の適用が正当であることが保証されて 一知性概念 ( カテゴリ こうして、純粋知性概念と直観とをつなぐ「第三のもの」 も、それがそれとは異質な直観にどのようにして適用できる の が必要であるとカントは考える。それが「超越論的図式」で / かはまだわからない。 カそもそもカントによれば、「純粋知性概念の図式はまったある。 くいかなる像にもすることができない」 ( 引 ) 。なぜかと言うと、先に見たように、図式は一般に概念がどういう場合に直観 三角形の概念と三角形の像は三角形という点で「種類が同に適用できるかを定めるものであった。この純粋知性概念の 一ごロ ーーノ 1 ー

4. 思想 2016年 08月号

122 の幾何学の成立とは直接的な関わりはない。なぜかと一一 = ロえば、 ニ概念の直観化 カントが幾何学に求める普遍性は、空間がアプリオリな純粋 『純粋理性批判』の「超越論的感性論」に、次の言葉があ直観であることによるのではなく、空間中に概念をもとに描 かれた図形が、一般的なものとして扱われることにあるから である。 空間はす。へての外的直観の根底に存するアプリオリな必然『純粋理性批判』の「超越論的方法論」におけるカントの 的表象である。〔 : : : 〕すべての幾何学的原則の明証必然的「構成」 (Konstruktion) についての説明は、この事態をよく表 確実性と、それらの原則のアプリオリな構成の可能性は、 している。「構成」とは、産出的想像力によって、概念に対 このアプリオリな必然性に基づいている ( 2 ) 。 応する図を空間の中に描くことである。つまり、概念の直観 化である。彼はこれについて、次のように言う。 カントによれば、空間は外的直観 ( 外的感官 ) のアプリオリな 形式である。純粋数学の必然性・普遍性は、この空間のアプ 哲学的認識は、概念からの理性認識であり、数学的認識は、 リオリな観念性に基づいており、したが。て、いかなる外的概念の構成からの理性認識である。しかるに、概念を構成 対象も、空間の中に現象せざるをえないばかりか、この直観するとは、その概念に対応する直観をアプリオリに描き出 の形式としての空間から導き出される幾何学的諸原則は、す すことである。したがって、概念の構成には経験的でない べて、現象する諸対象にあてはまらなければならないとカン 直観が必要であり、そのため、その直観は、直観としては トは考える。 個別の客観〔対象〕であるが、それにもかかわらず、概念 ( 普 ュークリッド幾何学がそのままこの「自然」にあてはまる 遍的表象 ) の構成としては、同じ概念に属するす。へての可能 という当時の考え方はさておき、空間を直観の形式と見なす な直観に対する普遍妥当性を、その表象において表現しな ことと、純粋数学としての幾何学のアプリオリな成立は、ど ければならない。 というわけで、私が三角形を構成するに のように関係しているのか。結論から言えば、空間を直観の は、この概念に対応する対象を、びたすら想像によって純 形式と見なすことは、カントにとって、幾何学が自然界にあ粋直観において描き出すか、想像に従。てまた紙の上に経 てはまることを保証する手立てであ「たとはいえ、空間を直験的直観において描き出すかであり、いずれの場合にも、 観の形式とすること自体は、カントの考える純粋数学として まったくアプリオリで、そのための見本をなんらかの経験 る。

5. 思想 2016年 08月号

供給の主体を民営化し競合化することで、政府介入を最小限狭窄に陥らない「選択の合理性」を鍛えるという理想を目指 にとどめるだろう。この場合、民営化された給食配給会社がすというわけではない「 Grego 「 y 285 こ 255 〕。かりに意志が弱 くても、あるいは視野が狭窄であったとしても ( 言い換えれば カフェテリアに食品をどのように陳列するかという間題は、 自己制御能力が欠けていても ) 、政府はそのような欠点を補うた それ自体が競争過程のなかで自生的に最適化されるであろう から、政府は陳列方法にまで介人する必要はないとみなされめに、対抗する議論を示したり、あるいは反対の視点を示し よ、つ ( 川 ) 。 たりすることで、人々が直面する選択肢のアーキテクチャー ところが現実問題として、生活保護世帯の生徒たちに限定がもっバイアスを、ある程度まで解消 ( deb 一 as ) す。へきである。 ハイアスを完全に解消することはできないとしても、先のカ した昼食のサービス ( および供給主体の競合化 ) は需要が少なく、 費用便益の点でその提供が難しいかもしれない。す。へての生フ = テリアの陳列方法において、の「習慣的選択の反省」 徒にカフェテリア形式で学校給食を提供したほうが、効率的や、⑨の「反省意識の要請」は、一つの方法になりうるとグ であるかもしれない。現実的なリバタリアンであれば、一方レゴリーは指摘するⅱ ) 。例えばカフテリアにおいて、毎 で生徒が給食制度を利用しないという「オプト・アウト」を回、ランダムに品物を陳列すれば、生徒たちは反省意識を働 認めつつ、他方で競合する民間の供給主体が、す。へての生徒かせて、陳列方法に左右されない選択をすることができるか ランダムな陳列方法は、その都度の選択に影響 判に昼食を支給するような制度を認めるのではないか。実際、もしれない。 批 ム ( ターナリズム」を与えるという点ではバイアスがかか 0 ている。けれどもそ リバタリアニズムによる「リバタリアン ズ 批判は、いずれもそのような現実的な立場からなされている。の繰り返しによって、慣習的なバイアスを取り除く効果を期 ナ ・グレゴリーはリバタリアニズムの立場から、カフェテ待できるだろう。 タ こうしたバイアス解消のためのアーキテクチャーによって、 リア形式の陳列方法が政府によって決められるのか、それと も民間会社によって決められるのかが問題である、と指摘すグレゴリーは、真に人格的なリバタリアニズムを支援する政 ン リバタリアニズムの人格形成とい策を提唱している。興味深いのは、このような立場もまたリ アる。ところが彼は他方で、 、タリアン パターナリズムの一種であって、政府介人を要 タう観点から、選択肢の操作に影響を受けにくい人格を形成す ることが必要であると主張し、「選択の自由」を促進するた請する点である。具体的にグレゴリーは、次の二つの観点か 丿ーの描くリバタリアニら政府介入を正統化する。すなわち、第一に、意思決定のた めの政府介人を認めている。グレゴー ズムの人間像とは、誘惑に負けない「意志の強さ」や、視野めの一般的な能力を改善するための介人であり、第二に、非

6. 思想 2016年 08月号

新刊案内に表示した発売日は小社出庫日です 8-2016 2016 年度下期主要企画 社会の価値観が大きく転換した時代に、人び との愛と孤独と狂気をみつめ、物語をつむぐ ことによって魂の尊厳に光をあてた漱石。没刊 後百年を経た今なお、その著作はわれわれの 2 定本漱石全集 こころを捉えて離さない。自筆原稿に基づい◆ 全囲巻・別巻 1 た本文に、詳細な注と校異表を付し、新発見 資料の数々を盛り込んだ決定版全集。 刑事司法を考える 岩波茂雄文集 〔編集委員〕浜田寿美男・佐藤博史・後藤昭・指宿信・ 木谷明・浜井浩一裁判員制度、被害者参加、 。一一一世紀初頭から続刊 取り調べの可視化 月 く改革で日本の刑事司法は大きく変わりつつ ある。何が問題か、どのような改革が必要か。◆ 全 7 巻日本の刑事司法システム全般に広くメスを入 れ、今後のあるべき姿を探る。 〔編集委員〕植田康夫・紅野謙介・十重田裕一 「文化の配達人」を志し、理想の出版を追い 求めた岩波茂雄。岩波書店の「開店案内ーか刊 月 ら、敗戦後まもなくの手記まで、その生涯に 書き遺した文章を初めて集成する。一出版人◆ 全 3 巻の軌跡であると同時に、近代日本の学術と文 芸をめぐる精神の記録でもある。

7. 思想 2016年 08月号

たものである」 (IC: 25 ) 。あらゆる共同体が多かれ少なかれ 一「想像の共同体」と何か 想像されたものであるならば、「想像の共同体にすぎない」 1 「想像の共同体」の文脈 というネーションへの批判は意味をなさない。つけくわえる そもそも『想像の共同体』は、いかなる議論を与件として ならば、そのような批判は、どこかで、「真正な」共同体を 想定することになる。 出発点としたのであろうか。学説史的に考察するならば、 そして第四に、アンダーソンにとって、ネーションの構築『想像の共同体』は、三つの文脈の中に位置していることが 性や近代性を指摘することは、ナショナリズムを乗り越える強調されるべきである。 リヒ・ア ことを意味しない。 アンダーソンは、『想像の共同体』のな 第一に、謝辞で言及される三人の研究者ーーエー ・ターナー、そして、ヴァルタ ウエレヾツ、、ヴィクタ かで、「なぜこれほどまでに夥しい人がネーションのために べンヤミン の存在がある。いずれもが、文献学、社 死ぬのか」という問題を核心的な問いとしている ( 3 ) 。本当 に問うべきは、近代に構築されたものであるにもかかわらず、会人類学、批評とそれぞれに異なる領域において、近代を鋭 目ー . し 相対化する視座を与えるものである。しかも、彼ら なぜこれほどまでの愛着 attachment を引き起こすのかとい の仕事は、人びとの生の様態としての文化という地平を切り う問題である。 開くものであった。このことは、アンダーソンがナショナリ 以上の点は、『想像の共同体』を国民国家批判に援用して ズムをイデオロギーとしてではなく、文化として取り扱うこ きた従来の議論に再考を促すものといえよう。だが、重要な ことは、アンダーソンの議論の確認を通じて、国民国家を批とを宣言していることに関わる ( 4 ) 。ナショナリズムとは近 え判する言説を否定することではない。そうではなく、以上の代に特有の生の様態に関わる問題なのである。このような生 をようなネーションの規定を通じて、アンダーソンが何を言おの様態への注目が、アンダーソンの議論の基底をなすもので 体うとしていたのかということの解明が課題とされる。へきでああり、本稿では特にこの点に着目してナショナリズムの問題 一口 を扱っていく。そこには自己の生と死、他者との関係、そし 共る。そして、そのうえで『想像の共同体』以後のナショナリ の てそれらの意味づけといった問題が含まれている。 ズム研究の課題を見定めていく必要がある。本稿ではナショ 像 想ナリズムの問題が個人という形象をめぐる想像力の問題と対第二に、アンダーソンは、東南アジアをフィールドとする になっていることを指摘し、ネーションとそれを構成し想像地域研究者である。インドネシア研究者として出発し、タイ、 フィリビンとフィールドを移している ( 5 ) 。重要なことは、 する身体の変容というロ 門題へと開いてい

8. 思想 2016年 08月号

にて」解き明かす課題に専念すべきだと言い聞かせていた。 西田哲学にとって『起信論』は、 ( 少なくともこれまで言及 西田は一貫して「仏教思想」を自らの伝統的基盤として意されてきた以上に ) 重要な意味を持っていた。その点を西田の 識していた ( 例えば、講演「歴史的身体」、一二巻、三四三頁 ) 。正ライフヒストリ ーから、また、比較思想の観点から確認する 確には「仏教思想」と限定する必要はないのだが、少なくと試みである。同時に、『起信論』をびとつの事例として、西 も西洋伝来の「学理」とは異なる体験的基盤を自らの内に意田哲学と「東洋の論理」の関連を問い 、西田の「体験的基 識し、その体験的基盤を東洋の思想と関連させて語った。し盤」に近づこうとする試みである。 かし「今日の学理」によって解き明かすことに専念した西田 は、東洋の伝統的思想を本格的に研究したわけではなかった。 鈴木大拙の『起信論』英訳 それは、鈴木大拙や井筒俊彦の研究スタイルと対比してみる さて「起信論一巻読了」に戻る。西田はこの時に初めて 時、明らかである。 『起信論』に接したわけではなかった。記録を紐解くと、西 では西田は「東洋の思想」をいかに理解したのか。小論は田は二〇歳過ぎからこの『起信論』の存在を知っていた。の 西田哲学と「東洋の思想」との関連を問う試みの一環としてみならず、かなり強く意識していた ( 意識せざるを得ない状況 『大乗起信論』に注目する ( 2 ) 。『大乗起信論』 ( 以下『起信論』 ) にあった ) と推測される。一つには同郷同級の畏友・鈴木大拙 は大乗仏教の重要な論書であり、「如来蔵」の思想に基づく の影響、二つには「選科生」として在学していた帝国大学哲 西田は ( わずかな例外を除いて ) 『起信論』に言及したことはな学科の状況である。 かった。しかし「ある時期」の西田にとっては重要な意味を まず大拙との関係から見る。周知の通り、明治三〇 ( 一八 持っていた。その事実を鈴木大拙との交友の中に、また西田九七 ) 年単身渡米した二七歳の大拙が最初に取り組んだのは が「選科生」として在学した帝国大学の中に確認する。 『大乗起信論』の英訳作業であった ( 3 ) 。そうした状況を大拙 以下、「明治期哲学」における『起信論』の位置、およびは友人西田に詳しく書き送っているのだが、興味深いことに、 「現象即実在論」と『善の研究』との関連を検討し ( 第二章 ) 、 最初の二年間に書かれた西田宛の書簡には、ほぼ毎回、『起 続いて、井筒俊彦の『起信論』解釈を手がかりとして『起信信論』の文字が登場する。例えば、米国の消印を持っ最初の 論』の論理を「双面性 ( 非一非異 ) 」として確認し ( 第三章 ) 、最西田宛書簡。サンフランシスコに到着から約八カ月後、「起 後に、比較思想の視点から西田哲学と『起信論』を、例えば 信論を英訳して見ん」と思い立ったが予想以上に困難であっ 「絶対即相対」の論理に焦点を合わせて検討する ( 第四章 ) 。 たという形で登場する。

9. 思想 2016年 08月号

るとい、つがもしリバタリアン ハターナリズムの定義が、 けれどもテイラーとサンスティーンによれば、たとえリヾ 多様な選択肢を提供しつつも、選択に対して何らかの効果をタリアニズムといえども、政府による選択アーキテクチャー 提供することであるとすれば、先のカフ = テリアの例で挙げの提供を別の意味で避けられないという。リバタリアニズム た一二の指針は、すべてこの思想の類型として認めなければの立場は、無政府状態 ( アナーキー ) を克服して、私的所有権 ならない。 などの権利契約条件を法制化する際に、すでに諸個人の選好 このよ、つにリバタリアン ハターナリズムは、いろいろな に影響を与えているはずである CSunstein and Thaler 283 】 1165 〕。 仕方で理解することができる ( 8 ) 。定義が多様になりうるの リバタリアニズムの立場は、実際には無政府状態の で、この思想をどのように評価すべきであるかは難しい。こもとで存在していた諸個人の選好を尊重しているわけではな の思想を最広義に採れば、非強制的な手段で人々の選択に影 一定のアーキテクチャーを認めざるを得ず、選好の変化 響を与える政策のすべてが含まれることになり、これではを認めざるをえないのである。ただそうは言っても、アーキ 「オプト・アウト」以外に「リバタリアン ( 自由尊重主義者 ) 」 テクチャーによる選好への影響が避けられないという一般的 の意味が見えてこない。次章では「リバタリアニズム」との事実から、カフェテリアを政府が運営すべきかどうかを導く 関係でこの思想を検討してみたい。 ことはできないだろう。リバタリアニズムは「最小国家」と いうその思想理念に依って、政府によるカフェテリアの提供 ニこの思想の創造的な特徴 に反対するにちがいない。 —リバタリアニスムから一歩先へ けれどもここで一歩譲って、 リ。ハタリアニズムの観点から、 おそらく真のリバタリアンであれば、政府が学校給食を配生活保護世帯の生徒たちに対して、最低限の学校昼食が提供 給することそれ自体に異議を唱えるにちがいない。学校は、 されなければならないと想定してみよう。この場合、真のリ 義務教育の機会を保障すべきであるとしても、生徒たちの栄 ハタリアンであれば、次の二つのいずれか、あるいは両方を 養状態までケアする必要はない。栄養をめぐる最低限の生活提案するであろう。すなわち学校は、カフェテリア形式では 保障については、学校以外の機関が応じるべきであり、学校なく統一された給食メニ、ーを提供す。へきであると提案する は給食を支給する必要はない。 こうしたリバタリアンの立場か、あるいは、独占的支給を避けるべく、サービスを民営化 からすれば、そもそもカフ = テリアは必要ないのであり、陳す。へきであると提案するかである ( 9 ) 。後者の場合、リバタ 列方法というアーキテクチャーの間題は生じない。 リアンは給食のサービスを生活保護世帯の生徒たちに限定し、

10. 思想 2016年 08月号

たいていの反応は、まずその質問にたいしてうろたえ、次に大学職員は汚職に手を染め権威主義的である、などなど。こ 頭を長いあいだかき、そしてようやくためらいがちに、イワ のような衰亡の一つの理由は、あまり言われていないことだ ン・ファルスの ) の名をあげる。それほどびどいことではな が、支配階級と彼らに依存する大部分の中間層に共通する反 い ? 私はあらゆる人が偉大な男性や女性になりうるとか、 国民的な態度にある。彼らは、子どもたちをインドネシアに ならなくてはならないとかいうつもりはない。しかし、男女ある高額なインターナショナル・スクールに通わせ、挙げ句 を問わず萎縮した人間にならないという決断はできると、私の果てにはさらに費用のかかる海外の単科大学や総合大学に ↓よ田 5 、つ 0 インドネ 通わせている。このような傾向からいえることは、 シアの大学が実のところ相応の銀行口座やコネをもっていな 羞恥心万歳 「二級」市民のためのものであると、彼らの眼には見えて 国民の生命を本当に蘇らせるためには、特に地域的な いるということである。そうすると、インドネシアの大学が 民族的なではない 自治の方向に向かって、統治のシステ落ち目になったとしても、だれが気にかけるだろうか ? 私 ムを徹底的に見直すことが必要である。また、健全で紳士的は、それなりの地位について、インドネシアの大学が回復す な政治文化の育成が必要であり、それには政治的なサディズ る一〇年間は、修士課程や博士課程のレベルを除いて、イン ムやギャング行為を根絶しなければならない。 さらに、国民 ドネシア人に海外で学ぶのを禁止すると夢想することがある。 的な制度に対する愛、それも真正な愛が必要である。ここで支配階級が子弟をインドネシアの大学に通わせなくてはなら 一つだけ例を出させてもらおう。これは教師である私にとっ ないならば、おそらく状況は改善し始めるであろう。しかし、 ては大事なことだ。インドネシアの大学の質は長きにわたっ もちろん、こんなことは無為な夢にすぎない。 て低下している。そのような劣化が、一九七〇年代末に導人最近出版した本のなかで、半ば冗談で、私は「羞恥心万 されたダウド・「スフのばかげた「大学の正常化」政策まで歳 ! 」というスローガンを前面に出した〔ベネディクト・アン さかのばることは周知のとおりである。これについては、うダーソン『比較の亡霊』作品社、二〇〇五年、五七三頁〕。なぜそ んざりするほど多くの逸話がある。教師は、金もうけになる うなのか ? みずからの国家や政府が罪を犯したことに、ま 仕事や政府のプロジ = クトやコンサルタント業や不動産投資た仲間の市民に対して罪を犯したことに、「恥」を感じるこ やらで忙しすぎて、学生を真剣に教えることはない。学生た とができないようならば、真のナショナリストになることは ちにはカンニング文化がはびこる。図書館はみすばらしく、 できないと考えるからだ。その人は個人的には何も悪いこと