比較 - みる会図書館


検索対象: 思想 2016年 08月号
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1. 思想 2016年 08月号

は、現代の政治科学の捉え方とはかけ離れており、じつのと インドネシアやタイには「ヤシガラ椀の下のカエル」とい ころ根本的な部分では真逆である」窮 ) ことを明示するために ーのカリスマ う諺がある。これらの国では、半分に割ったヤシガラを執筆した。アンダーソンはマックス・ウェ お椀として使う。この椀には台がなく、そこは丸いままだ。的支配という概念を逆手にとり、ジャワの権力概念とは「具 椀が上を向いているところに間違って飛び込み、椀が引っ体的であり、均質的であり、全体としてつねに一定の質を維 繰り返って中に閉じ込められたカエルは、椀を前後に動か持しているが、生来的に道徳的な含意がない」を、と議論し すことはできても、なかなかそこから抜け出すことができ た。この論文から一二年後に公刊した「崇拝ー誓い 言語 ない。そうこうしているうちに、やがてカエルの知る世界をめぐる政冶とジャワ文化」 ( 一九八四年 ) では、自分が理解し はヤシガラ椀が覆う狭い空間だけになってしまう ( 幻 ) 。 たジャワの伝統とはその大半が二〇世紀の産物であったこと に気づき、自戒の念を込めて新たなジャワ政治文化論を提示 アンダーソンの比較研究は独特であった。い 、つまでもなく、したの ) 。 約束事に縛られ専門用語に守られながら方法論を重視する比 一九七〇年代半ば以降になると、アンダーソンの比較研究 較政治学や比較社会学とは異なっていた。アンダーソンにと は一つの特徴を有するようになる。東南アジアに関する彼の って比較とは「方法ではなく、学間的テクニックでさえな学術論文は、インドネシア、タイ、フィリビンの三国に限定 い」、むしろ「語りのための戦略、どのように問題を設定しされるようになった ( 。それはこの三国については、アン それを語るかの戦略」であった ) 。そうしたアンダーソン ダーソンが現地の言語について知識をもち、突っ込んだ現地 の比較の発想は、「「何かが違う、何かが妙だ」という感覚と、調査をした経験があったからである。そしてこれらの国どう そして「あるべきものがない」という経験から」きてい しを東南アジアという枠組で比較するというのが、アンダー ソンの東南アジア地域研究の特徴となった。 こうした比較の手法は、アンダーソンの作品では至極当然東南アジアを枠組とした比較の視点は、さりげなくアンダ のごとく展開している。初期の代表作である「ジャワ文化に ーソンの研究に現れる。彼は比較をすると断言せずに、比較 おける権力の概念」塑 ( 一九七二年 ) では、「伝統的なジャワ文の観点を盛り込んだ表現を使用する。たとえば、「遺稿」の 化には一種の政治思想がある。それは ( ジャワ人 ) の政治的な 一つとなった「黄色と赤色の不可解な事柄」では、次のよう 行動を体系的かっ論理的に説明する思想である。しかしそれ にタイ華人を取り巻く政治社会的環境を言い表している。

2. 思想 2016年 08月号

かわらず、インドネシア・ナショナリズムの基礎となってい タイには国民的英雄がいない。それはきわめて特徴的なこる。それに対してインドは、インドネシアとほば同時期に独 一方で、イ とである。ところがそのために華人移民はタイ社会に同化立を果たしたものの、国語と呼、ヘる言語はない。 しやすかったのである ( 四 ) 。 ンドには六〇年あまりにわたる民主国家の歴史があるが、イ ンドネシアは長い権威主義体制の時代を経験している。この ここには二つの比較が潜んでいる。一つは国民的英雄につようなねじれの状態はどのように説明できるか。インドの場 いてである。東南アジアの隣国に目をやると、インドネシア合、パキスタンの分離独立がなかったら、安定した民主国家 にはスカルノ、フィリピンにはホセ・リサール、 ベトナムに になったであろうか。インドネシアでは、独立初期に何らか はホーチミンという国民的英雄がいる。それに対して、タイの分離独立が成立していたならば、長期的な観点からそれが にはそうした国民的英雄が不在だという特徴を、端的にさら民主政治の成立と安定に貢献したであろうか。そうでないと りとアンダーソンは指摘している。もう一つは華人移民の同するならば、なぜインドとは違うのだろうか。このような歴 化についてである。インドネシアやマレーシアでは華人は現史的な「仮定」的発想は負の比較の特徴である ( 。これこ 地社会に同化したとはいえず、植民地時代から独立後の政府そがアンダーソンの比較の視点であった。 にいたるまで政策的に差別され差異化されてきた。それとは 政治的発言 現異なり、タイは華人移民が同化しやすい環境にあった。この ところで、東南アジア地域研究におけるアンダーソンの最 なように何気ない表現のなかにも、比較の視点が含まれるとこ 由 大の貢献はなにかと聞かれたら、迷いなくわたしは『インド ろに、アンダーソンの語り口の特徴がある。 自 し」 晩年になると、アンダーソンは自身の比較の視点についてネシア』誌の編集をあげる。一九六六年四月に創刊されたこ 考 思「負の比較」 (negative compar 一 son ) という表現を使うようになの学術誌は、コーネル大学東南アジア・プログラムを象徴す 較った。「負の比較」とは相違点に着目した比較研究のことをるだけではなく、世界中のインドネシア研究者にとって最も 意味する。計量化が可能な正の比較とは根本的に性質を異に権威のある学術誌として知られている。アンダーソンは創刊 柔する。これはアンダーソンの言葉を借りれは、次のようなこ当初より『インドネシア』の編集に携わり、一九八四年まで とである。インドネシアには国語があるが、それは宗主国のは編集主幹を務め、その後も生涯編集委員に名を連ねていた。 まさしく、アンダーソンは『インドネシア』の生みの親であ 一一 = ロ語でもなく、特定のエスニック集団のものでもないにもか

3. 思想 2016年 08月号

一九八〇年代半ばに、再びアンダーソンは幸運に恵まれた。 クーデタ未遂事件であったが、アンダーソンたちは一九六六 一九七二年、国外退去の身になるインドネシア行の途中、彼 年一月にインドネシア国軍内の内部闘争であるという報告書 をまとめた ( じ。これは「コーネル・ペ はフィリビンに二週間ほど立ち寄った。同年九月、フィリピ パー」と呼ばれた。 ンには戒厳令が敷かれ、マルコスの独裁政権が始まった。そ しかし、この報生ロ圭日が『ワシントン・ポスト』紙によってイ ンドネシア当局にリークされ、アンダーソンは知らぬうちにれから一四年後の一九八六年二月、マルコスは失脚した。こ インドネシア政府の。フラックリストに載った。一九七二年四の間アンダーソンはフィリピンを訪れることはなかったのだ 月にインドネシアを訪れたアンダーソンは、空港で国外退去が、マルコスが失脚した頃、タイの政治状況は静かになって いた。そこでアンダーソンはフィリピンでの現地調査を始め、 を命じられた。それから一九九九年までの二七年間、彼はイ インドネシアとの比較の視点からフィリピンを捉えようとし ンドネシアに戻ることはできなかった。 た。そしてホセ・ リサールと出会った。「アジアで最初の戦 これがある種の幸運となり、アンダーソンをタイ研究へと 闘的なナショナリズム運動の背後にいた、スペイン語で読み 向かわせた。彼には、コーネル大学院時代から東南アジア・ プログラムに多数のタイの友人がいた。そのうえにタイの政スペイン語で話していたインテリや活動家の偉大な世代、そ 治変動がアンダーソンの心を鷲掴みにした。一九七三年一〇の彼らの思考と感情の襞に分け人り、それを理解するこ 月一四日、タイでは軍部独裁が崩壊し、民主的な政治の空気と」元 ) に専念した。 このような幸運の徒の結果、アンダーソンは、インドネシ 現が流れた。そこにはアンダーソンのコーネル時代の友人が多 表 数関わっていた。ところが、一九七六年一〇月六日、タマサア、タイ、フィリピンという三つの「国」の現実政治、政治 由 ト大学虐殺事件 ( 血の水曜日事件 ) が発生した。軍事政権が制度、政治文化、歴史に関する比較研究という、独特の東南 自 復活したことにより、自由な政治活動は制限され、左翼活動アジア地域研究を確立したのであった。こうした背景もあり、 考 アンダーソン自身は比較の重要性をつねに説いていた。より 思家への抑圧が強まり地下に潜る者や海外へ逃れる者がでた。 嫩爾来アンダーソンはタイの現実政治に対する批判的観察を強正確には、彼の思考は比較そのものであ。た。そのために彼 なめていくことになった。彼が一九七〇年代にインドネシアかの著作には、一国の政治や政治文化、文学研究であったとし ても、つねに比較の視座が隠されていた。 柔らタイへと研究の幅を広げた事実が、そして二つの国でフィ ールド・ワークをした経験が、のちに『想像の共同体』の着彼の自叙伝の『ヤシガラ椀の外へ』というタイトルには、 アンダーソンのこだわりが詰まっている。 想へとつながった。

4. 思想 2016年 08月号

いくという観念は、国民の観念とまったくよく似ている。国らない課題が開かれてくる。てがかりとなるのは、アンダー 民もまた着々と歴史を下降し ( あるいは上昇し ) 動いていく堅ソンの議論に向けられた批判である。 固な共同体と観念される」 ()C 【 (1)0 ネーションは、過去と第一に、市村弘正は、『想像の共同体』について、ナショ 未来の間に存在している。それは未来に向けて開かれ、過去ナリズムを、宗教の代替として説明するためには、ネーショ ンの想像と同時に、個人意識という別の想像の経験が生れた からの贈与に対する負債としてある ( 図 1 ) 。 ことを論じる必要があると指摘している ) 。第二に、リ一 ィア・リウは、アンダーソンがネーションを「主権的」と定 2 ネーションと個人の双対的関係 大澤真幸は、ナショナリズムを、普遍主義と特殊主義とい義しながらも、その「主権」を十分に説明していないことを う二つの極の矛盾的な結合として定式化していく。実際、指摘するを。そして、第三に、アンダーソンのもとで博士 後年のアンダーソンはナショナリズムを「比較の亡霊」と定論文を執筆したフェン・チャーは、アンダーソンがナショナ 丿ズムを論じるにあたって「有機体」という哲学的概念に無 式化している塑。比較とは、普遍と特殊という二重の地平 が存在しなければ成立しない知の作法である。すなわち、二批判に準拠していることを指摘し、「文化」や「自由」とい つあるいはそれ以上の要素を比較するという行為は、それぞった哲学的概念とナショナリズムの関係の考察にむかってい れの要素間での差異の観察であり、同時に、それぞれの要素るを。 間を一定の共通性によって一つの系に配列する。とするなら個人意識、主権の概念、そして、自由や文化といった哲学 ば、ナショナリズムを普遍主義と特殊主義の両義性において的概念との関わり。これらはいずれも、近代における「個 え捉えることは正しい。同時に重要なことは、この定式化の前人」をめぐる想像力に関わっている。アンダーソンの議論は、 を提とな。ている普遍主義と特殊主義の分立が、複製技術がも複製技術と資本主義の中で生じる想像力の変容を論じるもの 体たらす想像力の変容と、それにともな。て意味づけられ、再であ。た。同時に、普遍と特殊の間、過去と未来の間という 一口 位置は、世俗化された時代の「個人」においてもあてはまる。 共構成された世界の中で生じていることである。 の 「個人」は、ネーションと双対的に想像され、ネーションの 近代の生の様態としてのナショナリズムの問題とは、中間 像 想間にあることの生にかかわ 0 ている。それは、普遍と特殊の想像を代補している。ナショナリズムとは、中間、間にあ「 間の生であり、過去と未来の間の生である。ここに私たちが、て生きる個人の生の問題と対にして考えられる。へきである。 このような生は、近代が歴史的に展開し、植民地を含めた世 アンダーソンのナショナリズム論を受けて考察しなければな

5. 思想 2016年 08月号

2016 no. 1108 B ・アンダ - ソンの仕事 思想の言葉 柔軟な比較の思考と自由な表現 山本信人 大澤真幸 B. アンダーソンインドネシアのナショナリズム , その現在と未来 新倉貴仁 橋本努 塚本昌則 西平直 冨田恭彦 リバタリアン・パターナリズム批判 放心の幾何学 西田哲学と『大乗起信論 カントの「一般観念」説と図式論 「想像の共同体」を越えて 岩波書店 ヨ 60969607 ー市立文聿

6. 思想 2016年 08月号

田想 B ・アンダーソンの仕事 思想の言葉 2016. 8 No. 1108 , その現在と未来 ーー井筒俊彦『意識の形而上学』を介して ( 上 ) 西田哲学と『大乗起信論』・ 20 世紀フランス文学における眠りと夢 (1) 放心の幾何学 いかなる介人を正統化すべきか ( 上 ) リノヾタリアン・ノヾ ターナリズム批判 ベネディクト・アンダーソンのナショナリズム論をめぐって カントの「一般観念」説と図式論 冨田恭彦 ( 117 ) 柔軟な比較の思考と自由な表現・ アンダーソンの東南アジア地域研究 インドネシアのナショナリズム 「想像の共同体」を越えて・ ・ベネディクト・アンダーソン ( 24 ) ・・新倉貴仁 ( 42 ) ・・大澤真幸 ( 2 ) ・・山本信人 ( 7 ) ・・橋本努 ( 63 ) ・・塚本昌則 ( 78 ) ・・西平直 ( 97 )

7. 思想 2016年 08月号

23 柔軟な比較の思考と自由な表現 ( 4 ) "Two Massacres 【 Dili-Bangkok," So ミ、」 s ~ ミ 0 B ~ 、ドド NO. 1 」 992. pp. 19 ー 20. ( 盟 ) "RadicaIism after Communism in Thailand and lndone- sia," New トき Re ~ ミ . IZ202. 1993. pp. 3 ー 14. 本論文は「共産主 義後のラディカリズム」として『比較の亡霊』に所収されてい る。 ( 菊 ) "Exit Suharto: Obituary for a Mediocre Tyrant," New トき e ~ ミ . No. 50. 2008. pp. 27 ー 59. ( ) "Old State. New Society: lndonesia ・ s New Order in Com・ parative Historical Perspective. ' in トミ ge 、 0 ミ e 、 . pp. 94 ー 120 ( 論文題名は山本訳 ) 。 7 ) 一九六五年の大虐殺に関する二つのエッセイも一読の価値 がある。「殺人者が王となる」 ("Petrus Mendjadi Ratu. ・・ Te ミ、 0. 10 ー 16 ApriI 2000. pp. 51 ー 54 ( インドネシア語で書かれた本エッ セイはのちに英訳された。 : Petrus Dadi Ratu. 。 New ト《洋 ミ ). N 。 . 3. 2000. を . 7 ー 15 ) と「免罪と再現ーー一九六五年、イ ンドネシアにおける大学虐殺事件およびその後遺症についての 感想」 ("lmpunity and Reenactment: Reflections on the 1965 Massacre in lndonesia and its Legacy. ・・ The 」や Pa fic JO 、・ 、ミ一 . VoI. 11. lssue 15. NO. ← 2013. pp. 1 ー 16 ) である。 ( 絽 ) この節で言及する四冊は、『三つの旗のもとに』、ヨを C ミ、ミ g C ミ、ミ Tjamboek Berdoeri. ミミ ~ ミ」 da ミ Ba ミ Jakarta: elkasa. 2004 】 Arief W. Djati dan Ben An- ミご・ i' . Depok 】 komunitas bambu, 2010 である。 ( ) 『ヤシガラ椀の外へ』二五〇頁。 0 ) 『三つの旗のもとに』四二ー四五頁。 ( 5 ) アンダーソンは数年間リサール蔵書の調査に没頭し、ほば 完璧な蔵書目録を作りあげた。わたしは『三つの旗のもとに』 の翻訳作業を終えた二〇一二年、アンダーソンと私信を交わし た。そこでアンダーソンと、リサール以外の植民地東南アジア の知識人で、蔵書目録が揃っている事例がないのではという議 論をしたことがある。 ( ) 『ヤシガラ椀の外へ』二五五頁。 ( ) 同書、二五七頁。 ( 引 ) "Kata Pengantar,' ・ in Tjamboek Berdoeri. do dalem 」 dan B ミ pp. 1 ー 78. ( 浦 ) 『ヤシガラ椀の外へ』二六〇頁。 ( 浦 ) 同書、四三頁。

8. 思想 2016年 08月号

135 ) 。また、 Anderson ( 1999 ) 。 ( 3 ) 「なぜ近年の ( たかだか二世紀にしかならない ) 萎びた想像 この 力が、こんな途方もない犠牲を生み出すのか」 ( IC 】 26 ) 。 問いは、構築主義や近代主義一般に対する批判でもある。この 点を踏まえてアンダーソンの議論を位置づけるこころみとして、 新倉 ( 2008b ) 、 / 丿・水垣 ( 2014 ) を参照。 ( 4 ) 「国民と国民主義は、「自由主義」や「ファシズム」の同類 として扱うよりも、「親族」や「宗教」の同類として扱ったほ うが話は簡単なのだ」 ( IC 】 24 ) 。 ( 5 ) アンダーソンによる東南アジア研究については、 (Ander- son 1990 ⅱ 1995 および Anderson 1998 " 2005 ) を参照。また、近 年では、初期グロー リゼーションに注目した研究を発表して いる (Anderson 2005 Ⅱ 2012 ) 。 ( 6 ) 後年には、東南アジアの経験に立脚しながら、西洋近代を 「比較」を通じて相対化していくことの重要性を、「逆さまの望 遠鏡」という隠喩をもちいて示している ( Anderson 1998 Ⅱ 2005 ) 。 ( 7 ) Nairn ( 1975 ) 。ナショナリズム理論をマルクス主義の大き な歴史的蹉跌と見なすネアンは、史的唯物論の観点からナショ ナリズムを解明しよ、つとする。ネアンによれば、ナショナリズ ムは、世界史における近代資本主義の発達の、決定的な、そし て、きわめて中心的な特徴である。そして、解放的側面と抑圧 的側面 ( ファシズムや軍国主義に至る ) をャヌスにたとえ、両者 を包括する理論の獲得を訴える。 ( 8 ) 「一九七二年以降、私は『ニュー レフト・レビュー』を 表から裏まで読むようになり、その過程で芯から再教育される ことになった。 ・ : 私が最も好意を持ち尊敬するようになった 人物はトム・ネアンで、このスコットランド・ナショナリスト かっマルキストは、一九七七年に素晴らしく挑発的な論争の書 『プリテンの解体』 The Break ・ up of Britain を出版した。・ この著作は大きな物議を醸し、エリック・ホブズボームからの 刺すような攻撃を招いた。当時、ホブズボームは古い世代のマ ルキスト歴史家の間で指導的な人物だった。『想像の共同体』 は、ひとつにはネアンを擁護するために、そしてもうひとつに は、ヨーロツ。ハ中心主義的歴史主義への一般的な攻撃として書 かれたものだった」 (Anderson 2009 【 169 ー 170 ) 。 ( 9 ) 「わたしが提起しているのは、ナショナリズムは、自覚的 な政治的イデオロギーと同列に論じるのではなく、ナショナリ ズムがそこからーーそしてまたそれにあらがいながらーーー存在 するにいたったナショナリズムに先行する大規模な文化システ ムと比較して理解されなければならない、 ということである」 (IC: 34 ー 5 ) 。 ( 川 ) アンダーソンは、新聞の読書経験を「マス・セレモニー」 とよび、それがネーションを想像させることを述べている。 「この沈黙の聖餐式に参加する人々は、それぞれ、彼の行なっ ているセレモニーが、数千 ( あるいは数百万 ) の人々、その存在 については揺るぎない自信をもっていても、それでは一体それ がどんな人々であるかについてはまったく知らない、そういう 人々によって、同時に模写されていることをよく知っている。 そしてさらに、 このセレモニーは、毎日あるいは半日毎に、歴 史を通して、ひっきりなしに繰り返される。世俗的な歴史時計 で計られる想像の共同体を、これ以上に髣髴とさせる象徴とし て他になにがあろう」 ( 1062 ) 。 1 ) 「これらの様式〔小説と新聞という想像の様式〕こそ、国民

9. 思想 2016年 08月号

1 18 なる。 かという疑問に応えるためである。もとより、カントがイギ カントの「構成」の議論は、こうした意味で、「一般観念」 リスの一般観念説から何を学んだかは、直接的には明確では 説を含む。ところが、他方それは、「超越論的分析論」でのない。しかし、内容的には、興味深い対応関係を認めること ができる。 純粋知性概念の図式に関する議論と密接に関わる。周知のよ うに、カントはヒュームによって「独断のまどろみ」を覚ま第二節と第三節では、純粋数学の成立に関わるカントの され、直観においてその「像」を生み出すことのできない一「構成」に関する議論を取り上げ、カントがどのような二重 二の純粋知性概念 ( カテゴリ ー ) を判断表から析出する。そし構造的な見方の中で「構成」を捉えていたかを確認する。カ て、この純粋知性概念と直観とを媒介し、前者の後者への適ントは概念を直観化し、「像」を形成するとともに、さらに 用を可能にするものとして、超越論的「図式」の役割を論じその像を一般化するという手順によって純粋数学の成立を説 る。ところが、この図式論に見られるカントの「像」と「図明しようとする。そこに見られる彼の考えの要点を確認する 式」の考え方は、「構成」の議論に見出される彼の考えと接ことが、これら二節で試みられる。 続している。したがって、カントの「一般観念」説の検討は、構成に関するカントの見解の一つの面、すなわち、概念は カントの図式論を理解するための重要な手がかりとなる。 一般的 ( 普遍的 ) であるが、それに対応する像は特殊でしかな 小論では、このような観点から、カントの一般観念説の内 いという面は、ロックの一般観念説と比較することによって 実を確認し、それをもとに彼の図式概念のよりいっそうの明その特徴をより明確に捉えることができる。そのため、第四 確化を試みる。 節では、ロックの一般観念説の特徴を確認し、それとカント 右に述べた事情から、カントの一般観念説を考察するにあ説との構造的対応関係を考察する。 たっては、彼がケーニヒスペルク大学時代から多くの関わり そうしたロックとの近さとは対照的に、概念の直観化によ を持ったイギリス哲学の一般観念説との比較をもって、理解って構成された「像」の一般化についてのカントの見解は、 の手がかりとする必要がある。そこで、第一節では、第四節 ークリとヒュームの「一般観念説」の路線に近い。第五節 以降で取り上げるロック、ヾ ークリ、ヒュームの著作そのもと第六節では、彼らの一般観念説の基本を押さえ、どのよう のへのアクセスがカントにとってどのような仕方で可能であな意味でそれがカントのそれと重なるかを確認する。 ったかをまずは確認する。これは、英語を読まなかったカン 第七節では、以上の作業を踏まえて、カントが「原則の分 トが実際にどのようにして彼らの著作を読む可能性があった析論」第一章で行った「像」と「図式」の区別について考察

10. 思想 2016年 08月号

(Cheah 2003a ) 。 ( ) Pramoedya ( 1980 " 1986 ). ( 四 ) これは、『想像の共同体』のなかでは、「二重一言語のインテ リゲンチャ」の経験となる。この形象は、アンダーソンのナシ ョナリズム論のなかで、決定的に重要である。アンダーソンは、 公定ナショナリズムを論じるなかで、インド人行政官パールの 回想録を引用している。「彼〔インド人行政官〕が、彼自身の 人々の社会から自らを完全に疎外し、かれらのなかで、社会的 にも倫理的にも。 ハーリアとなったからである : : : 彼は、彼自身 の生まれた土地で、そこに住むヨーロツ。ハ人居住者と同じくら いよそ者であった」 (IC: 156 ) 。一九九八年の『比較の亡霊』で は、「二重写しのヴィジョン」という語をもちいている (An- derson 1998 Ⅱ 2005 】 4 ) 。「比較の亡霊」という語自体が、「新し い不安定な二重の意識」である (Anderson 199 彳 2005 【 363 ) 。 フェン・チャーは、このアンダーソンの説明を「二重の意識 double-consciousness 」と呼んでいる (Cheah 2003b 【 11 ) 。そし て、それが資本主義や技術といった物質的な力によって、多く このようなナショナ の人々に経験される (Cheah 2003b 】 12 ) 。 リズムと二重性の関係について、インドネシア研究者の土屋建 冶は、カルティニの経験を、「二重言語状況」として描き出し ている ( 土屋 1991 ) 。 この対比は、『想像の共同体』でアンダーソンが用いてい る。「ある特定の教育的巡礼と行政的巡礼の組み合わせ、これ が新しい「想像の共同体」に領土的基盤を提供し、そしてこの 想像の共同体のなかで、「土民 natives 」は自分たちを「同国人 nationals 」と見なすことができるようになった」 ( 10218 ) 。 引 ) 小野 ( 1999 ) 。 ) チャールズ・テイラーもまた、『想像の共同体』を論じる にあたって、ハイデガーの「世界像の時代」を参照している。 「実際、「世界像の時代」にあって、近代社会のありよう、近代 社会の自己理解のありかた、全体像を一望のもとにとらえる近 代的な表象様式、これらは互いに密接につながっている。近代 的な表象様式によれば、社会とは同時に起こる複数の出来事で あり、社会的な交換は非人格的な体系をなしており、社会的な 領域は地図のように描かれるものであり、歴史的な文化は美術 館などで展示されるものということになる」 (TayIor 284 Ⅱ 2011 】 227 ) 。 ( 芻 ) Cheah ( 2003a 【 7 ). Heidegger ( 1938 Ⅱ一 988 ). ( 引 ) Cheah ( 2003a ). ( 肪 ) Arendt ( 1968 日 1994 ). ( ) Be 三 am 一 n ( 1936 日 1996 ) を参照。 ( ) Arendt ( 1968 Ⅱ 1994 【 15 ). ( ) 「第九章家永続の願い」より ( 柳田 193L 247 ー 8 ) 。 ( ) 「一言うまでもなく、わたしは、一八世紀末におけるナショ ナリズムの出現が宗教的確実性の腐蝕によって「生み出され た」とか、あるいはこの腐蝕それ自体について複雑な説明は不 さらにまた、ナショ 要であるとか、主張しているのではない。 ナリズムがともかく歴史的に宗教に「とってかわった」と言っ ているのでもない」 (IC: 34 ) 。 ( ) 真木 ( 1977 / 2003 】 167 ) 。 ( ) 第一次大戦後の世界について、アレントは、そこで生じる 大量の難民を、史上初めての出来事とみなす。「歴史的に例が ないのは故郷を失ったことではなく、新たな故郷を見出せない ことである」 (Arendt 1962 Ⅱ 198L 275 ) としている。この故郷喪