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検索対象: 思想 2016年 08月号
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1. 思想 2016年 08月号

そのためのアプローチにも、共通した姿勢が見られる。直はじめる瞬間である。そうした瞬間を描く場面に通底してい 接夢そのものに接近しようとするのではなく、覚醒時の生活るのは、日常を支えている基盤が崩れ、異質な世界との境界 のなかで起こるあらゆる変調に着目し、そこに夢の力がどこ に立たされているという、言ってみれば敷居の感覚であ まで働いているのかを突きとめようとするのである。とりわる ( 4 ) 。その敷居感覚は、夢そのものではない。意識は目覚 け意識が眠りに落ちるとき、あるいは眠りから目覚めかけてめている。ただ、意識を普段支えている土台が失われ、非日 いるときの、半覚半醒のまどろみ。さらには、日常の意識を常との境目に立たされて、通常の道筋をたどることができな 中断し、意識を放心させるさまざまな出来事。語り手が紅茶 くなっている。よく知っているはずの世界を作りかえ、見知 に浸したマドレーヌからあふれだした記憶の意味を考え、べらぬ状況に意識を引きこむ夢の形成力がそこに働いていると ンチの下に隆起しているマロニエの樹の根が不可解なものに何人かの作家が考え、その形成力のたどる筋道を明らかにし 変容するのを見つめ、モロッ コのバ ーのざわめきに進んで身ようとした。ヴァレリ プルースト、プルトンの試みの後 をゆだねている等々の場面を考えれば、夢と覚醒時のあわい では、かならずしも夢という言葉が使われないまま、この探 にただよう放心状態が、ただ不意打ちをくら「て考える力を究が受け継がれてい。た。この意味で、夢は、覚醒時の生活 失った状態ではないことが理解されよう。語り手、あるいはに質的な変化をもたらす力として研究されたのである。 登場人物は、ばう然としながらも何かを必死に考えている。 覚醒したまま見る夢の探究の背景には、「経験の貧困」が 二〇世紀フランスの作家たちは、起こ。ていることの意味が叫ばれた時代がある。この時代、一人の人間が人生の中で豊 つかめないまま、呆気にとられながら世界を見つめる状態に かな経験を積み、完成された人格となってゆく道筋はすでに 注目しながら、そこで何が起こっているのかを明晰に追究し消滅している。一九世紀のレアリスム小説のように、自分の ようとした。そこに覚醒した意識を変質させる、夢の力を認夢を実現したいと願う一人の青年が、自分の生きている社会 めていたのである。 を徐々に発見し、どのようにふるまう。へきかを理解してゆく ヴァレリーは自身の夢研究を「夢の幾何学」 ( 3 ) と呼んだが、 という書き方は、ほぼ不可能となった。この世の出来事を一 それになら。て「放心の幾何学」と呼べるものの系譜を、二通り経験し、社会で成功するために何が必要かを心得ていて、 〇世紀フランス文学においてたどることができる。考察の出その知恵を青年にさずけることができる老人や年長の女性も 発点は、夢そのものではなく、覚醒した意識が中断され、混もはや存在しない。世代ごと、それどころか十年単位で経験 乱し、日常生活をいつもとは違った形で見つめる精神が働きのあり方が変わ。てしまう社会状況の中で、昔の経験はほと

2. 思想 2016年 08月号

が記述されている。あらゆるものを知性によって絶対的に制 について書きつづけ、膨大な数におよぶ夢研究の断章を残し 御する、そんな現実には不可能と思える理想を体現するテスたのである。 ト氏が、眠りにのみこまれてゆく。その時、意識はどこまで なぜ、それほどまでに夢にこだわったのか。その大きな理 眠りの世界を統御できるのだろうかという一個の問いが浮上由は、どうすれば自分を中断できるのかわからないのに、自 する。ヴァレ リーはこの「テスト氏の夜の航海」朝を受け継分を中断してばかりいる意識というものの特性を考える手が かりをあたえてくれることである。ヴァレリー ぎ、覚醒したまま眠りの世界をさまよえばいったいどのよう がとりわけ注 な世界が広がるのかという疑問を、散文詩「アガート」で展目したのは、目覚めた途端、夢という現象が不在になるとい 開しようとした。人間のもつあらゆる情念、機能、行動を知う事実である。この点に関する考察を深めてゆくことで、ヴ 性によって制御しようとするテスト氏は、果たして眠りの世アレ リーは夢研究の方法を編みだし、睡眠下における意識と 界を覚醒した意識によって探査することができるのだろうか。覚醒した意識の特性を明らかにし、新たな詩学構築への道筋 レリーは、眠りのなかで女性に変身しながら、「夜の航を見出してゆく。どうして夢は、目覚めた後の記憶としてし 海」を続ける研ぎ澄まされた意識を描くこの散文詩に、一八か意識に現れないのだろうか。 九八年から四年ほど取り組んでいる。この作品の草稿で、ヴ 2 夢の不在 レリーは作品の構想に限定されないより一般的な眠りと夢 の分析をはじめ、一九〇二年以降、『カイエ』を舞台に本格半世紀近い夢研究の中で、ヴァレリ ーがつねに問題にしつ 的な夢研究を展開するようになった。『カイエ』は、出版とづけたのは、夢が思い出としてしか現れないという事実であ 無縁ではない部分があるものの、基本的に私的な探究の場でる。「夢はつねに、目覚めた人間に現れる一個の記憶にすぎ あり、写真複製版で二万六千頁におよぶその全体像があきら ない」 ( C. VIII. 107 「 2Z103 」 ) 。 この言葉には観察可能な現在の かになったのは作家の死後である。標目ごとに断章が分類さ形がなく、つねに過去形でしか現れない。覚醒した状態で、 れたプレイヤード版『カイエ』で二〇〇頁、プレイヤード版夢を現在形で観察することが不可能だということが、ヴァレ が原カイエをおよそ五分の一に縮約したアンソロジーである リーによれば夢の大きな特徴である。「夢は定義上、びとっ という事情を素朴に考えると、細かい活字で印刷されたおよの〈かってあったもの〉である」 (), xv, 765 ) 。 いったいどのよう そ千頁分の断章が夢に割かれていることになる。ヴァレリー 不在なのに強い印象を残すこの現象を、 は亡くなる一九四五年までのほば半世紀、継続して眠りと夢に考えることができるのだろうか。それが何だったのかを突

3. 思想 2016年 08月号

醒時においては停止される、ちょうど自分の列車が動きだしけるような他者性ではない。それは目覚めているというだけ たと思い込む旅行者が、立ち戻り、あるいは自分の誤りからで気づくことができなくなっているものの、意識にとって親 目覚め、結局動きが別の列車のせいだとわかるように」 (). しい何かである。親しいものなのに知覚できない何かであり、 IV. 519 ) 。要するに、「夢は覚醒時を自分なりのやり方でふく もし意識できれば日常生活の意味を解体する不気味な力が明 んでいる。覚醒時も夢を自分なりのやり方でふくんでいる」らかになるかもしれない。夢と覚醒との「ほとんど相互人格 ( C,IX. 674 ) 。覚醒した意識のなかに、夢に似た状態が現れる的な」関係を意識することで、覚醒時のさなかに夢に似 た空間を構築することが可能となるかもしれない。実際、ヴ ことはまったく不可能というわけではない。 ーはその手がかりを、夢研究の方法を見定めた時にす 毛管の力がいったん無関心な間隔を取らなければ明らかでに得ている。 にならないように、夢のなかに現れる相互作用は、覚醒時 4 覚醒時意識の特性ーー《再び》という機能 においては隠されている。しかし、覚醒時の緊張が弱まる 「夢という現象そのものの本質的な不在」 (). XIII. 791 につれ、初歩的な傾向が際立つようになり、瞬間的な状態、 感じ取れず、中間的で、どこまでも無視できる、非現実的「 2 ニ 42 」 ) から、ヴァレリーは独特の夢研究の方法を編みだし たことを見た。間題は夢そのものではなく、夢を再現できな な状態においてしか存在できなかったものがーーー主要なも のとなり、全体となるのだ。 ( C. IV. 518 ) い覚醒時の意識にある。覚醒時の意識の特性をまず考え、そ れを反転させれば、睡眠下の意識の特性を明らかにできるの リーは考えた。 プルーストやプルトンも、日常の根底で働きつづけているではないか、とヴァレ 夢が不在の現象であるという観察は、夢研究の方法だけで ものの、普段の生活では意識されることがないこの「毛管の なく、実際には覚醒時の特質そのものへの解明の手がかりを 力」以外のものを探究しているようにはみえない。プルトン 学 あたえてくれる。「夢がそうした不在、観察者との非Ⅱ共存 何は、「覚醒時の活動と睡眠時の活動との不断の相互浸透を前 の提とする」ある「毛細組織」について語っている ) 。プル性によって定義される」 6 XIII, 79 →「 2 ニ 42 〕 ) とすれば、覚醒 ーストは眠りに浸された状態から把握するのでなければ、人時は、進行する事態と「観察者」が共存できる空間として定 間の生を描くことはできないと断言している ( 幻 ) 。夢という 義できるだろう。より一般的には、覚醒時の意識はさまざま 経験のもつ「絶対的な〈他者性〉」は、理解をまったくはねつな事象を区別し、その区別を維持しようとする傾向がある。

4. 思想 2016年 08月号

140 新倉貴仁 ( にいくらたかびと ) 一九七八年生。東京大学大学院 情報学環・学際情報学府博士課程修了 ( 博士 ) 。成城大学。 文化社会学、メディア論。 「都市とスポーツ」 ( 『 = c 三 ko 』第一二六号 ) 、「ナショナリズム 研究における構築主義」 ( 『社会学評論』第五九巻第三号 ) 橋本努 ( はしもとっとむ ) 一九六七年生。東京大学大学院総 合文化研究科課程博士号取得。北海道大学。経済思想。 『帝国の条件』 ( 弘文堂 ) 、『社会科学の人間学』 ( 勁草書房 ) 本号の執筆者 大澤真幸 ( おおさわまさち ) 一九五八年生。東京大学大学院社塚本昌則 ( つかもとまさのり ) 一九五九年生。。 ( リ第一二大学 会学研究科博士課程修了。比較社会学・社会システム論。 文学部博士課程修了。東京大学。二〇世紀フランス文学。 『岩波講座現代』全九巻 ( 編著、岩波書店 ) 、『社会システ 『フランス文学講義』 ( 中公新書 ) 、『写真と文学』 ( 編著、平凡 ムの生成』 ( 弘文堂 ) 社 ) 山本信人 ( やまもとのぶと ) 一九六三年生。コーネル大学大学西平直 ( にしびらただし ) 一九五七年生。東京大学大学院教 院政治学研究科博士課程修了 ( 博士 ) 。慶應義塾大学。東南 育学研究科博士課程修了 ( 博士 ) 。京都大学。教育人間学、 アジア地域研究。 死生学、日本思想。 Crossing Borders and Bo ミミミ s 、ミ Service Media 『無心のダイナミズム』 ( 岩波書店 ) 、『世阿弥の稽古哲学』 ( 東 京大学出版会 ) ( 共編著、 Nordicom); 「華人・インドネシア・中国」 ( 『華僑華 人研究』第九号 ) 冨田恭彦 ( とみだやすひこ ) 一九五二年生。京都大学大学院文 学研究科博士後期課程研究指導認定退学 ( 博士 ) 。京都大学。 哲学。 ト 0 Be ミ 0 い Kant(Georg Olms); 「カントの超越論的観 念論の歪んだ論理空間」 ( 『思想』第一一〇〇号 )

5. 思想 2016年 08月号

政治を読み解く縮図でもあった朝。 モールには国際赤十字が調査することのできない無数の刑務 アンダーソンの国軍政治研究は、インドネシア国軍の政治所があり、虐殺やスハルト大統領のもとで恩赦にあった住民 的関与に関する研究の基盤を構築した。そしてインドネシアの失踪が数え切れないほど発生している点を指摘した。 を超えて、その手法は国軍の政治関与研究のプロトタイプを同様の指摘は、一九八〇年一〇月二〇日、東ティモール問題 つくったといっても過言ではない。 一九七〇年代後半以降はを取りあげた国連総会第四部会でもおこなった朝。 タイ政治の研究に傾倒していたとアンダーソンは回想してい 一九七六年一〇月六日にはタマサート大学虐殺事件が発生 るが、一九九二年までは毎年のように、その後一九九九年ました。この政変についてアンダーソンは「一連の右翼による で断続的に、彼はインドネシア国軍の人事データを作成する攻勢の要には王制があることを肝に銘じておく必要がある」 作業に時間を割くことを忘れなかった。 と綴っている元 ) 。そして翌一一月には、恩師ケーヒンらと 一九七六年になると、インドネシア国軍研究を進めていた連名で、『ニューヨーク・タイムズ』紙に「タイランド アンダーソンがより具体的に政治的な発言をするようになつ新しい独裁者たち」と題し、虐殺者と偽善的なアメリカ国務 た。契機は、一九七五年一二月のインドネシア軍による東テ省を非難する声明を掲載した石 ) 。しかしながら、ほとんど ィモール侵攻と翌七六年一〇月のタイの政変であった。 のアメリカのタイ研究者はこの声明に同調しなかった。一九 一九七五年一二月七日、インドネシア軍はアメリカ政府の七八年三月にシカゴで開始されたアジア学会のタイ研究に関 現お墨付きのもとに東ティモールに侵攻し、武力で制圧し、イする部会の席上、アンダーソンは吠えた。彼はタイの政治研 表 ンドネシアの二七番目の州として実効支配を展開した。こう究がいかに貧弱であったかを、研究対象として扱われてこな 由 したインドネシア政府の実力行使に対して批判的な声をあげ かった一群の課題を列挙することで明示した ( 。のちに、 自 ないアメリカ政府の対応を、アンダーソンは厳しく非難した。 これらの課題が若手のタイ政治研究の取り組む研究テーマと 思一九七九年には人権派弁護士集団とともにアメリカ国務省のなったことは皮肉である。そしてアンダーソンは自らも、タ 嫩対応を批判する文書を公開した。そして、翌一九八〇年イ政治に関する独自の解釈に基づいて現代政治を歴史的文脈 な二月には、アメリカ下院国際関係委員会アジア太平洋およびのなかに位置づける作業をおこなうことになる。「禁断症状 柔国際組織に関する小委員会で、インドネシアと東ティモール 一九七六年一〇月六日クーデタの社会文化的側面」 ( 一九 に関する人権侵害の状況に関する証言をした ( 芝。そこでア七七年 ) 、『鏡のなかに』 ( 一九八五年 ) 、「現代シャムの殺人と進 ンダーソンは入手可能なさまざまなデータに基づき、東ティ 歩」 ( 一九九〇年 ) と一連の作品を世に問うた。

6. 思想 2016年 08月号

山本信人 目の前にあるものをみてごらんなさい。そして何籍の序文、書評、追悼文、映画評論、あるいは完全原稿を作 が不足しているかを考えてみなさい ( 1 ) 。 成のうえでおこなった数々の講演がある。彼の翻訳したイン ドネシアの文学や学術作品は数え切れない ( 6 ) 。さらにコ 面白い研究を始める理想的な方法は、少なくとも ネル大学を退職してからは、映画に関連した評論やエッセイ 私の考えでは、自分が答えを知らない問題ないし も多数執筆している ( 7 ) 。インドネシア語やタイ語のエッセ 現 疑問から出発することだ ( 2 ) 。 表 イも少なくない ( 8 ) 。 3 な 由 アンダーソンの東南アジア地域研究を一言で語ることはで 自 し」 きない。アンダーソンは彼独特の空気を東南アジア地域研究 はじめに 考 に吹き込み、ある種特殊な世界を構築した。何よりもアンダ 思 ーソンの作品は、インドネシア、タイ、フィリビンへの愛と 較べネディクト・アンダーソンは東南アジア地域研究の一時 具体的な人物への思いが込められている。そして論争的であ 代を築いた ( 3 ) 。なかでも、インドネシア、タイ、フィリピ ュな 軟ンに造詣が深く、それぞれの国の政治や歴史、文化に関する アンダーソンの知的関心は、現実政治、暴力、政治史、古 単著がある ( 4 ) 。また、東南アジアに関する論稿はすでに数 冊の論文集となって公刊されている ( 5 ) 。他にも、他者の書典、文学、映画と多様かっ多面的で時には時空を超えたもの 柔軟な比較の思考と自由な表現 アンダーソンの東南アジア地域研究

7. 思想 2016年 08月号

問題となるのは眠りの彼方に広がる闇の領域ではない。そう ている点にある。ここでは覚醒時と睡眠下に共通する意識の ま目覚めている、この意識とは何なのかを知る あり方の解明が目指されている。夢の働きをめぐって、フロではなく、、 ことが問題である。言い換えれば、ヴァレリーは深さではな イトの洞察を参照することは避けられないが、その洞察をも 意識という表面を研究することを目指した。 ちいる方向が異なっている点についてはあらかじめ注意してく、 深いと考えられてきたものが、実質的にどのような意味を おきたい。 ーが夢研もっているのかを批判し、あくまでも表面を見つめようとす 初めにびとつのモデル・ケースとして、ヴァレリ ーの基本的な態度でもあ る態度は、夢に限らない、ヴァレ 究にどのように取り組んだかを分析する。そこで浮上する間 題系を、プルーストとプルトンがそれぞれどのように展開しる。「人間のなかでもっとも深いもの、それは皮膚であ この有名な言葉は、深さを否定し、表層にとどま ているかを次にたどり、最後に同じ間題をサルトルが「愚かる」 ( 7 ) さ」ハノトが「中性的なもの」という言葉を使いながら分ることを宣言しているわけではない。「深い」という一言葉を 析していることを見ていきたい。サルトルとバルトの議論は、使っただけで、精神の奥深い場所に到達しているかのような、 現在のイメージ、とりわけ写真を使った言語芸術への考察に言葉の上での錯覚を批判しているのだ。『固定観念』 ( 一九三二 結びついてゆくのだが、その根底に夢と覚醒の敷居をめぐる年 ) の医者は、この言葉に続けて、胎児の成長を考えてご覧 なさいと言う。「ある日、ひとつの襞が、一本の溝が外皮に 二〇世紀前半の省察が引き継がれていることは間違いない。 ヴァレリー プルースト、プルトンが夢と覚醒の錯綜した関できる : : : ( : : : ) われわれの不幸のすべてがそこから生じる 係を考える過程で提起したさまざまな問題は、夢という言葉のです : : : 脊索 ! それから脊髄、脳髄、感じ、苦しみ、考 が使われていなくても、そのままイメージをめぐる現在の考えるのに : : : 深くあるために必要なもの一切ができてくるー ( : : : ) すべては皮膚の発明物なのです」 ( 8 ) 。深さが存在する 察の一端に流れこんでいる。 ことを否定するのではなく、深さがどのようにできているの 1 ヴァレリーと〈放心の幾何学 この態度は意識のさまざまな か考えない態度を批判する —意識の中断 あり方を考えるとき、とりわけ効力を発揮する。というのも 「夢ーー問題は次の点に帰着する。意識とは何か ? 」 ( 6 ) 意識は、絶えず中断されているのに、その中断のあいだ、何 ヴァレリー のこの言葉は、目覚めたまま見る夢を探究した作が起こっていたのかを知ることができないものだからである。 家たちの関心の所在を端的に示している。夢の研究を通して人は意識を中断されることのない、一様な流れであるかのよ

8. 思想 2016年 08月号

一九八〇年代半ばに、再びアンダーソンは幸運に恵まれた。 クーデタ未遂事件であったが、アンダーソンたちは一九六六 一九七二年、国外退去の身になるインドネシア行の途中、彼 年一月にインドネシア国軍内の内部闘争であるという報告書 をまとめた ( じ。これは「コーネル・ペ はフィリビンに二週間ほど立ち寄った。同年九月、フィリピ パー」と呼ばれた。 ンには戒厳令が敷かれ、マルコスの独裁政権が始まった。そ しかし、この報生ロ圭日が『ワシントン・ポスト』紙によってイ ンドネシア当局にリークされ、アンダーソンは知らぬうちにれから一四年後の一九八六年二月、マルコスは失脚した。こ インドネシア政府の。フラックリストに載った。一九七二年四の間アンダーソンはフィリピンを訪れることはなかったのだ 月にインドネシアを訪れたアンダーソンは、空港で国外退去が、マルコスが失脚した頃、タイの政治状況は静かになって いた。そこでアンダーソンはフィリピンでの現地調査を始め、 を命じられた。それから一九九九年までの二七年間、彼はイ インドネシアとの比較の視点からフィリピンを捉えようとし ンドネシアに戻ることはできなかった。 た。そしてホセ・ リサールと出会った。「アジアで最初の戦 これがある種の幸運となり、アンダーソンをタイ研究へと 闘的なナショナリズム運動の背後にいた、スペイン語で読み 向かわせた。彼には、コーネル大学院時代から東南アジア・ プログラムに多数のタイの友人がいた。そのうえにタイの政スペイン語で話していたインテリや活動家の偉大な世代、そ 治変動がアンダーソンの心を鷲掴みにした。一九七三年一〇の彼らの思考と感情の襞に分け人り、それを理解するこ 月一四日、タイでは軍部独裁が崩壊し、民主的な政治の空気と」元 ) に専念した。 このような幸運の徒の結果、アンダーソンは、インドネシ 現が流れた。そこにはアンダーソンのコーネル時代の友人が多 表 数関わっていた。ところが、一九七六年一〇月六日、タマサア、タイ、フィリピンという三つの「国」の現実政治、政治 由 ト大学虐殺事件 ( 血の水曜日事件 ) が発生した。軍事政権が制度、政治文化、歴史に関する比較研究という、独特の東南 自 復活したことにより、自由な政治活動は制限され、左翼活動アジア地域研究を確立したのであった。こうした背景もあり、 考 アンダーソン自身は比較の重要性をつねに説いていた。より 思家への抑圧が強まり地下に潜る者や海外へ逃れる者がでた。 嫩爾来アンダーソンはタイの現実政治に対する批判的観察を強正確には、彼の思考は比較そのものであ。た。そのために彼 なめていくことになった。彼が一九七〇年代にインドネシアかの著作には、一国の政治や政治文化、文学研究であったとし ても、つねに比較の視座が隠されていた。 柔らタイへと研究の幅を広げた事実が、そして二つの国でフィ ールド・ワークをした経験が、のちに『想像の共同体』の着彼の自叙伝の『ヤシガラ椀の外へ』というタイトルには、 アンダーソンのこだわりが詰まっている。 想へとつながった。

9. 思想 2016年 08月号

1 16 意識内在論、自己反省に依る自覚の体系。共にその自覚は段階 的な体系をなし、理想状態においては自我が普遍的なものに合 一するという。他方、相違点としては、曰『善の研究』の体系 が理想に向かう向上だけであり、頽落への道は語られないのに 対して、起信論では向上と頽落の過程 ( 還減門と流転門 ) が語ら れる。ロ『善の研究』には頽落の原理がないのに対して、起信 論は「心を濁らせ迷わせる原理」を「無明」として語る。曰 『善の研究』では「一一一口語が演ずる功罪」が考慮されないのに対 して、起信論は「自覚に対する言語の功罪両面」を説く。四 『善の研究』が世俗の人倫・道徳を積極的に認めるのに対して、 起信論は世俗的な人倫・道徳には積極的な価値を認めない ( 末 木『西田幾多郎ーーその哲学体系』第一冊、二四〇ー二〇一 頁 ) 。こうした相違点のうち、とりわけ『善の研究』に「言語 ( 一一 = ロ・コトヾ ノ ) 」の限界への指摘がない点は重要である。この点 は『起信論』の「離言真如」と「依言真如」を検討する際に詳 しく見る ( 本稿絅・国 ) 。なお、後期西田と『起信論』との相違 に関する末木の指摘については、本稿下、註二。 ) 小坂国継『明治哲学の研究』岩波書店、二〇一三年。 ) 小坂は、西田の純粋経験が井上の「一如的実在」と多くの 点で一致しているという。 ( ) 坦山が大学に提出した「年次報告書」によれば、『起信論』 以外のテクストも講じた可能性がある。「仏教の経論三部を講 ず、すなわち円覚経、起信論、百法明門論題解是なり」 ( 『東京 大学第二年報』収載。井上克人、前掲書、一六〇頁から引用 ) 。 しかし明治期哲学との関連で『起信論』以外の仏典が登場する ことはない。 ( 幻 ) 井上克人「西田哲学の論理的基盤ーー〈体・用〉論の視座か 22 21 ら」、『〈時〉と〈鏡〉超越的覆蔵性の哲学ーーー道元・西田・大 拙・ハイデガーの思索をめぐって』関西大学出版部、二〇一五 年。 ( ) 「下る」は「ケノーシス」を念頭に置く ( フィリビ二 八 ) 。西田も「ケノシス」に言及している ( 「場所的論理と宗教 的世界観」一〇巻、三一七頁、文三二九頁 ) 。 ( ) 井筒の用語で言えば「自己分割」とは異なる「自己分節」 である。「分割」は「一」が分裂し各部分が個々の存在者とし て独立すること。それに対して「分節」は「一」が「一」のま ま個々の存在者になることである ( 井筒俊彦『意識と本質』岩 波文庫、四一七頁 ) 。 ) この根源的統一カの発展において、その中心点の変移が時 間の経過であり、変移してゆく瞬間ごとの中心点が「今」とい 、つことになる。 8 ) 小坂は、ジェームズの純粋経験説とへーゲルの具体的普遍 の思想を大乗仏教的立場から総合・統一しようとする試みと言 、その大乗仏教的立場を「平等即差別、差別即平等」の立場 という ( 小坂前掲書、一七九頁、一九九頁 ) 。 ( 四 ) 板橋勇仁『西田哲学の理論と方法・ーー徹底的批評主義とは 何か』法政大学出版局、二〇〇四年。 ( ) 『上田閑照集』第三巻、四五頁 ( 『西田幾多郎を読む』岩波 書店、一九九一年、二八〇頁 ) 。 ( 引 ) 新田義弘『現代の問いとしての西田哲学』岩波書店、一九 九八年、九頁。

10. 思想 2016年 08月号

たものである」 (IC: 25 ) 。あらゆる共同体が多かれ少なかれ 一「想像の共同体」と何か 想像されたものであるならば、「想像の共同体にすぎない」 1 「想像の共同体」の文脈 というネーションへの批判は意味をなさない。つけくわえる そもそも『想像の共同体』は、いかなる議論を与件として ならば、そのような批判は、どこかで、「真正な」共同体を 想定することになる。 出発点としたのであろうか。学説史的に考察するならば、 そして第四に、アンダーソンにとって、ネーションの構築『想像の共同体』は、三つの文脈の中に位置していることが 性や近代性を指摘することは、ナショナリズムを乗り越える強調されるべきである。 リヒ・ア ことを意味しない。 アンダーソンは、『想像の共同体』のな 第一に、謝辞で言及される三人の研究者ーーエー ・ターナー、そして、ヴァルタ ウエレヾツ、、ヴィクタ かで、「なぜこれほどまでに夥しい人がネーションのために べンヤミン の存在がある。いずれもが、文献学、社 死ぬのか」という問題を核心的な問いとしている ( 3 ) 。本当 に問うべきは、近代に構築されたものであるにもかかわらず、会人類学、批評とそれぞれに異なる領域において、近代を鋭 目ー . し 相対化する視座を与えるものである。しかも、彼ら なぜこれほどまでの愛着 attachment を引き起こすのかとい の仕事は、人びとの生の様態としての文化という地平を切り う問題である。 開くものであった。このことは、アンダーソンがナショナリ 以上の点は、『想像の共同体』を国民国家批判に援用して ズムをイデオロギーとしてではなく、文化として取り扱うこ きた従来の議論に再考を促すものといえよう。だが、重要な ことは、アンダーソンの議論の確認を通じて、国民国家を批とを宣言していることに関わる ( 4 ) 。ナショナリズムとは近 え判する言説を否定することではない。そうではなく、以上の代に特有の生の様態に関わる問題なのである。このような生 をようなネーションの規定を通じて、アンダーソンが何を言おの様態への注目が、アンダーソンの議論の基底をなすもので 体うとしていたのかということの解明が課題とされる。へきでああり、本稿では特にこの点に着目してナショナリズムの問題 一口 を扱っていく。そこには自己の生と死、他者との関係、そし 共る。そして、そのうえで『想像の共同体』以後のナショナリ の てそれらの意味づけといった問題が含まれている。 ズム研究の課題を見定めていく必要がある。本稿ではナショ 像 想ナリズムの問題が個人という形象をめぐる想像力の問題と対第二に、アンダーソンは、東南アジアをフィールドとする になっていることを指摘し、ネーションとそれを構成し想像地域研究者である。インドネシア研究者として出発し、タイ、 フィリビンとフィールドを移している ( 5 ) 。重要なことは、 する身体の変容というロ 門題へと開いてい