フランス - みる会図書館


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1. UP 2016年7月号

ス人テロリスト」の間にあるいうよりも、むしろこのようなっ先に浮ぶのは、第二次世界大戦中の日系人強制収容である。 合衆国政府によって強制収容所に送られた一二万人の日系人の怖 恐 の 二〇一五年七月に来日したパリ西大学のアプデラリ・アジャうち七割は、合衆国生まれの合衆国市民であった。それにもか っ ットは、東京大学で行われた特別講義において、テロリズムとかわらず、日系人ということで敵視され、スパイなどの嫌疑を ーも 全く無関係である大半のムスリムや ( 信仰をしていなくとも、名かけられた。その後、合衆国政府はようやく一九八八年になっ の 件 前がアラブ・イスラーム系であるという理由から ) 「ムスリムと目て公式な謝罪を行い、被収容者に対して補償金を支払った。 される人々」が、常に「テロの潜在的支援者ーの疑いをかけら ところが今回のフランスでの襲撃事件の直後に、この日系人撃 襲 れ、身の潔白を証明するよう踏み絵を踏まされていることを指 に対する集団懲罰の話がアメリカ合衆国において予期せぬ形で 摘し、それを「集団懲罰 (Collective punishment)_ と呼んだ。再び蒸し返されることになった。南部バージニア州ロアノーク 先の友人も、他のフランス人と同様にテロの被害者であり、テ市市長のディヴィッド・パワーズは、シリア難民がイスラム国 ロの恐怖に襲われているにもかかわらず、街頭ではまるで加害の「手先」である可能性があるとして受け入れ反対を表明し 者であるかのように白い目でみられ、「テロリスト ! 国に帰 ( このこと自体も、集団懲罰の典型的事例である ) 、その文脈にお いて「 ( 過去の ) 日系人収容は正しい判断だった」との見解を れ ! 」と罵られるという「集団懲罰」の恐布を味わわされてき 明らかにしたのである。この発言は「集団懲罰」を正しい政治 このような「集団懲罰」を受けるのは「学校をドロップアウ的判断として容認するものとして解釈できる。 トし、 ) ン、 ーディズムの過激な思想に染まった一部の不良」だ興味深いのは、このような「集団懲罰」の容認や積極的な奨 けではない。手紙の友人や、パリ大学のアジャットのように、励が、個人主義の発達する先進国で ( も ) 起きている点であ る。集団懲罰にみられるような個人を集団に縛りつける発想 学校で優秀な成績を収め、フランス社会で活躍するムスリム・ フランス人たちも同じように「集団懲罰」の恐布に日々さらさは、前近代まではきわめて支配的であった。しかし近代化を通 れているのである。 して共同体に縛りつけられていた個人が徐々に解放され、集団 責任から自己責任への移行がすすんだ。ところが、このように 個人主義社会で問われるマイノリティの集団責任 自己責任論に支配される現代社会において「内部の外部」であ 集団懲罰を容認す 「集団懲罰」を日本とのかかわりで考えると、筆者の頭に真るマイノリティに対しては集団責任を問い、 「二種類のフランス人」の間に走っている、と筆者は考える。

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布」とは一体どのようなものなのか。それを理解するために、 ある友人から送られてきた手紙の内容を紹介したい。 ムスリム・フランス人から見た襲撃事件 その友人は一九六〇年代後半にアルジェリア農村部からパリ 郊外に移住した家庭の九人の子どもの末娘。彼女自身は一九七 八年にフランスで生まれており、フランス国籍者であるが ( ア ルジェリア国籍も保有 ) 、兄弟姉妹の上から五番目まではアルジ エリア国籍しかない。彳 皮女の母親はフランス語を話せず、鉛筆 を持ったことがないため書類などのサインさえ一人でできない が、彼女自身は学校の成績がきわめて優秀で博士課程まで進学 した。まさにプルデューとパスロンのいう「教育によって奇蹟 を受けた者 (miraculé scolaire) 」 ( 『遺産相続者たち』 1964 Ⅱ 1997 ) の典型のような人物である。現在はパリ大学の人事課で管理職 として働きながら、白人フランス人の医師と暮らす。 そんな彼女から事件の翌日、次の言葉が送られてきた。 チカコへ わたしも、家族や友だちも皆も元気。神に感謝してる。 昨晩起きたことは、ひどい、恐ろしい、許せない、野 蛮、理解できない、狂ってるー 今朝、彼に起こされて「テロが起きて一二〇人の死者が でたから、急いで病院に行ってくる」と言われ、最悪の事 件が起きたのを知った。 起きあがって、テレビを点けたら、最悪の出来事が報道 からだの病気のこころのケア 0 - 精神病と統合失調症の新しい理解 町 13 ℃ ーチーム医療に活かす心理職の専門性ー 房ー地域ケアとリカバリーを支える心理学ー 英国心理学会監修 < ・クック編 鈴木伸一編著一 国重浩一・バ ーナード紫訳 病気や治療によってもたらされ田十田田 気 路 精神疾患の「心理的・社会的な る「こころ」の問題に挑む。身紫 —J X 大 ・コ LLJ <( / り、多元的・複眼的視点からメ ーム医療の「こころのケア」の 市 k¯ LL ノ 一かこ ンタルヘルスの制度改革を説く。 あり方を問う。 <LO 判・ 224 頁・本体 3200 円十税 <IO 判・ 336 頁・本体 3000 円十税 し合 い失病 理調と 解症 当ることにら . 裕めて第くは第る , 第にな 、を既調 0 の心を一をはじめにた、さんのが れはなト第気たいた . 教盞第物にぬ、った専第まとマごは . 時には自う・、黛第をなさ”て、ろにを 25 パリ襲撃事件のもうーっの恐怖

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されていた。 今までと同じくらい、それどころか今まで以上に、不安 でいつはゝ。 恐 / ハ↓よ亠、こ。 の っ 釈明を余儀なくされる日常の恐怖 、も ひどすぎる、とショックを受け、法え、吐き気を催し て、本当に悲しみでいつばい。 彼女の手紙には、二つの恐怖が表現されている。一つめはテ件 同時にものすごく不安を感じている。 口に対する恐怖である。「これから数日間、何が起きるのだろ撃 襲 目の前にいる野蛮人は、お これから数日間、何か起きるのだろう。そう思うと不安う。そう思うと不安でたまらない。 でたまらない 目の前にいる野蛮人は、おそらくまた新たそらくまた新たな攻撃をしかけてくるだろうから 彼女は な攻撃をしかけてくるだろうから。 テロに対する言葉にしがたい恐布と、それに対する激しい怒り を、このように簡潔な言葉で綴る でも、この事件かフランスの「国民の団結」にどういう だが彼女を苦しめるのはそれだけではない。「事件がフラン 影響を及ばすのかを考えると、本当に恐ろしくなる。 スの『国民の団結』にどういう影響を及ばすのかを考えると、 本当に恐ろしい」と彼女は述べる。テロの恐布とは異なるもう この何カ月もの間、い や何年もの間、私たちが暮らすフ一つの恐布。それは自分の生まれ育った国で日常的に後ろ指を ランスでは、レイシズムとイスラモフォビアが高まってき指され、犯罪者扱いされ続けることへの恐怖である。それは た。フランスだけでなく世界のムスリムは「テロは私たち「『テロは私たちの仕業ではありません、私たちはテロリストと の仕業ではありません、私たちはテロリストとは無関係では無関係です』と毎日のように釈明しなければならない状況が す」と毎日のように釈明しなければならない状況か続いて続いている ! 」という彼女の叫びにも表れている 彼女は「テロ」の実行犯でもなければ、その幇助をしたわけ 今回の事件で状況が良い方向に行くはすはない。それどでもない 尸 ( ( し力なる関係も存在 「テロリスト」と彼女の司こよゝ、 ころかムスリムを犯罪者扱いする空気は強まるでしよう。 しない。その点で彼女は「テロ」とは無関係である。ところが フランスの旧植民地にルーツをもっ在仏ムスリム、という共通

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は、人種や地理の決定論に反対して、フランスは地理的条件に 風土論の射程 よって決定されている訳ではなく、そこにおける自身の運動の 然 産物であり、人間の歴史は自然的法則に対する解放の歴史であ和辻哲郎の『風土ーー人間学的考察』 ( 岩波文庫、一九七九の て し る。そしてフランス史の上昇運動を支えるのが、「地方」 le 年 ) によれば、「風土」とは、ある土地の気候、気象、地質、 local の「国」 lenational への解消であるとした。だが同時に、地味、景観などの総称であるが、それは歴史と密接に絡みつ台 の 彼は、「歴史とはまず第一に、まったく地理的なものである」き、一体化している。というのも、和辻によれば、人間たちが 史 とも述べて、歴史の地理的な土台の枢要性を訴え、食べ物や気それぞれの生活圏で衣食住に使用するもののあり方、様式は、 歴 候その他を通じて、地理が歴史に幾重にも影響を及ばしている風土の諸現象において自身を見て、自己了解する、その了解の ことを説いている。ミシュレにとってのフランスの大地は、先祖代々の長年の堆積をわれわれのものとしたところに出来た渕 作 の 「情念の束」と捉えられ、したがってその地理は、いわば「情のであり、いわば風土的自己了解だからだ。しかもそれは、日 動的地理 , géographie affective ( ポール・プティティエの表現 ) 常の道具類にとどまらず、文芸、美術、宗教、風習などの、あ史 歴 なのである。それは形態や線を媒介としながら、象徴的言語をらゆる文化表現にも見いだせる。自然環境と人間との間には、 用いて諸領域へと波紋を広げ、おなじ情動の内へと手繰り込んふたつの別々のものとして影響関係があるのではなく、歴史性 でいく。大地・自然景観の形態や線と、人間たちの生活の舞台と風土性の合一において、はじめて歴史は肉体を獲得し、人間 は、まず建築を介して接合するのだが、その建築の形態・線存在の空間的・時間的構造が、風土性・歴史性として己れを現 は、やがて衣服や道具といった、よりささやかで卑近なものヘすのだという。そこでは、歴史は風土的歴史であり、他方で と繋がり、時代と地域の情念をいたるところに宿していく。 歴は、風土は歴史的風土であるのだ。このように述べている。 史家の主観・情動の作用によって、情動的地理を読み解いて、 風土は人間の生活世界の中に組み込まれた自然、そして空間 歴史の展開への息吹を与えていく : : : まさにミシュレの面目躍であるが、あくまでも人間的な自然である。人間が作り出した 如たる地理と歴史の関係の捉え方であるが、これは次に挙げる自然であれ、野生のままの自然であれ、いずれも人間と交渉し 風土論とも類縁性があろう。 対話する、そして感受し合うような自然なのである。風土は自 然環境そのものではなく、人間とその歴史の経糸によって縫い 取られた緯糸としての自然であり、したがって文化のあり方と

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中世史の分野での代表的業績には、・ o ・ホフマンの『中世齣にすぎないことを顕わにする。それは人間を普段の日常から ヨーロッパの環境史』 R. C. Hoffmann. 」 E ミ 'i 、ミミ e ミミ His- 引き離してしまうが、また復興への努力もただちに始まるだろ 然 自 、つ の き、 & ~ 、 E ミ 0 . Cambridge. 2014 がある 自然環境と言っても、地域によってさまざまなものがある。 ドイツでは、 < ・ボルストが一九七四年から、自然と人間のし 森、林、海、川、沼、荒野、そこにいる動植物相、それらが人間の極限状況を生み出す災厄ーー・とりわけ、アルプス地方の地台 間の生存域、社会環境の一部になったり、 の 外から影響を及ばす震ーー研究で先鞭を付けていたが、その後、多くの研究者が追 ようになったとき、環境となる。その人間との関わりは、森の随していった。そしてとりわけ二一世紀に入って、学際的な災歴 伐採や耕作地の拡大、干拓事業、自然を加工した林間空地、牧害研究が急増していることを付言しておこ、つ (c ・フーケー & 場、庭園の形成などにより変化していくが、しかし農業だけで・ツアイリンガーの『災害と復興の中世史ーーヨーロッパの人び法 作 なく、他の産業のあり方、都市・村落の集落立地によっても変とは惨禍をいかに生き延びたか』 ( 小沼明生訳、八坂書房、二〇一五 の 学 史 わっていく。環境史固有の、あつらえ向きの史料などないだろ年参照 ) 。またフランスでは、 Y. Lequin. 年い Delumeau (eds. )・ 歴 、つから、ありとあらゆる種類の史料を繙かねばならないし、まト ) ミミ、 ) des ミ . H ざ一 des ミ & ミ des c ミミこ s た考古学 ( 航空考古学 ) の助けも不可欠であろう。 F ミミ e. Paris. 1987 が、フランスを襲った疫病、飢饉、略 ところで、災害への関心の高まりから、「災害史」と呼ぶべ奪、洪水、地震など諸々の災厄を分析し、人々がいかにそれを きジャンルが急浮上しているようである。ヨーロッパでは一九生き、表象したかを、恐怖や悲劇・死への対峙の仕方の変遷と 七〇年代から、地震、旱魃、風水害、害虫・害獣などによる被ともに辿っているし、一九九三年には、自然災害がフララン修 害とその対策のほかに、それらが人間たちにいかに作用し、政道院での国際研究集会のテーマにもなり (Les catastrophes na- 治・経済・社会をどう変えたか、あるいは人々の連帯性へのイ turelles dans I'Europe médiévale et moderne) 、その後、少なから ンパクトはいかほどか、文化的な反響はどうか、さらに、そのぬ個別研究か出てきている。 原因の説明 ( 宗教的、科学的 ) はどのようになされ、受容され最後にもうひとつ「自然」にまつわる近年の研究ジャンルを たか、などがテーマとされており、近年はより一層熱い注視を挙げるとすれば、フランスの < ・コルバンに代表される「風景 Ⅱにせよ 浴びている。災害は環境史の一環だが、人間が逃れることのでの歴史学」であろう。風景とは、海にせよ空にせよ、 きない暴力的な環境変化であり、人間の歴史が大地の歴史の一泉にせよ、視線による凝視、情動、央楽、憎悪などの対象とな

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した。本書では、フランスの地域、地方、国家はそれぞれ文化層 ( 『地中海』の第一巻 ) に、ほとんど動かない歴史の層を想定 的産物であり、長期にわたる人間とその自然環境および人間相した。それは、たえず円環をなして回帰を繰り返し、なかなか 互の関係によって形成されていったのであり、フランスという変容しない諸々の自然環境の層であり、それが住民の活動や生 国は、地理的な多様性が糾合して個性的な歴史的統一が出来上活の形、リズムを決めるとされるのである。プローデルはフェ がったと考えられている。 ーヴルの「可能性論」から離れ、はっきり「決定論」テーゼを これら人文地理学の古典的成果を受けて、歴史家であるリュ支持する。そこでは自然環境が時間性に変貌させられて長期持 シアン・フェーヴルが、渾身のカで研究・考察した成果が、一続の礎たる「地理的時間」 temps géographique となる。その 九二二年に出版された『大地と人類の進化 歴史への地理学悠久の法則は巨大なうねりとなって、行為者の意図など細波の 的序論』 ( 飯塚浩二・田辺裕訳、岩波文庫、上下巻、一九七一・七ごとく流し去る 二年 ) である。フェーヴルはヴィダル派に依拠しつつ、地理が ヴィダル派の地理学における「地域ーについての考え方は、 一九六〇 5 七〇年 歴史を全的に規定する必然性はないが、可能性はいたるところプローデルに影響を及ばしただけではなく、 にあって、それをどう使うかを決める可能性の主人は人間だ、 代の多くの歴史研究者に有効な歴史記述の枠組を与えた。すな 然 ・目 と主張する。たとえば、都市の発生と発達について、形成要因わち「地域の枠組」 cadre régional が、多くの歴史の専門研究 の て となる特定の位置 ( たとえば湖の端 ) にあることが共通でも、 ( たとえば領主制、封建制、農民、貴族 : : : の研究 ) の枠組となっ し それだけで諸都市が同一類型に属する訳ではなく、他のより重たのである。中世史から選んでみれば、・デュビーのマコネ台 要な要因によって発達の仕方が違ってくる。あるいはトスカー地方研究、・ル・ロワ・ラデュリのラングドック地方研究、 の 史 ナ地方の景観は、自然というより人間が作ったものであり、丘・フォッシェのピカルディー地方研究、・ドウヴァイイの 歴 陵地帯のオリープ、ブドウ、桑が卓越しているのは人間の仕べリー地方研究、—ー・ポリーのプロヴァンス地方研究な 業、文明の仕業であって、自然的秩序・地理的秩序に属さない ど、それこそ枚挙に暇がない。これらの中では、歴史的な社会測 : といった例を挙げている。 関係分析に地理学を合体させることで、かって法制史的な構成 アナール派第二世代の大立者フェルナン・プローデルは、ヴが幅を利かせていた研究動向から脱出できるというメリットが史 歴 イダル・ド・ラ・プラーシュやフェーヴルが力説する地理と歴歓迎されたのだろう。 ところで、一九世紀フランスの歴史家ジュール・ミシュレ 史の対話の重要性を信じ、有名な歴史の三層構造プランの第一

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8 一 劣るが、天文台の文書や、アカデミーや学会の資料として一八物議を醸しただけであって、生物学とか地質学、生態学、字宙 世紀からデータが存在しているという 物理学などの自然科学においては、かなり前から「自然史ー研然 ・目 の こうした統計データが見込めない一八世紀以前は、年輪年代究は行われていた。宇宙創生、太陽系の生成、日本列島あるい て し 学が大きな武器になり、乾燥や多雨、寒さなどの指標を提供しはヨ 1 ロッパ大陸の地質や地形、森や河流、噴火山、鉱物ある AJ 台 てくれる。そして植物季節学、雪氷学、花粉学や放射性炭素年いは動物・植物の分布と多様性の展開、さらには昆虫 ( ハチ、 代測定などを組み合わせると、何世紀にもわたる氷河変動が分アリ他 ) の発達 : : これらの歴史が、実際にすでに研究されその 史 り、気候も想定できるそうである。 の成果が公刊されているのである。 歴 ル・ロワ・ラデュリが強調しているのは、こうした気候学は 地理学との対話 法 人間の歴史を説明するためにあるのではなく、あくまで気候変 作 の 動を知ることが目的だということである。大量移住や文明・社 むしろ私たちとしては、こうした歴史家による「自然史ーへ 学 史 会の衰退を大きな気候変動に求める抽象的・思弁的なやり方の補助的協力以前に、地理学との対話の重要性を思い出さねば 歴 は、是非とも避けねばならず、ただ精確な気候条件・気象上のなるまい。歴史が地理と補完関係にあることは、一七世紀から 変遷を、歴史家は自然科学者と手に手を取って解明すべきだと指摘されていたが、一九世紀になってヨーロッパ各国で国民史 いう。そして歴史家は、文書へのアプローチ法を心得ているこ 学が勃興すると、い よいよ地理と歴史の協力関係が喧伝されだ とで、これに大きく貢献できるのである。長期に及ぶブドウ収したのである。 穫時期の日付が古文書館には保存されていて、三月 5 九月の暖自然地理学から分かれた近代の人文地理学の創設者として 冷の貴重な記録になっている。しかもブドウ収穫時期だけが気は、ドイツのフリードリヒ・ラツツェル ( 一八四四 5 一九〇四 候史料となるのではなく、ワインの質も気候の史料になる。よ年 ) とフランスのポール・ヴィダル・ド・ラ・プラーシュ ( 一 り古い時代、中世についても、歴史家なら書簡、年代記、覚八四五、・一九一八年 ) とが挙げられる。前者の主著は『人文地 書、小教区台帳から気候に関わる出来事を抽出・解読できる。理学』二巻で、そこでは地理を恒久的な固定したものであり、 なにやら、歴史の補助学であったものに対して、反対に、歴史確固とした礎を国家に与えるものとして、一種の地理的決定論 が説かれている が補助学になったかのようでもある。 ただ、この「人間のいない歴史」は、歴史家が宣言したから 一方後者は、一九〇三年『フランス地理のタブロー』を刊行

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が、幸いなことに全員から「無事」の知らせが届いた。その誰 バリ同時多発襲撃事件とニつの恐怖 もが「無事」を知らせつつも、深い悲しみに包まれ、恐布に襲 昨年一一月、 ・サンドニで同時多発襲撃事件が起きたこわれていた。 とを、私は出張先のアメリカ合衆国メリーランド州ボルチモア しかし送られてきた数々のメッセージのなかには、ひとつだ で知った。ポルチモアは同年四月、警察に拘留中だった二五歳け大きな違いがみられた。誰もが恐怖に襲われている点では同 の黒人青年フレディ・クレイが脊髄損傷で死亡し、警察に対すじであるが、恐怖を感じる対象が人によって二つにわかれてい る大規模な抗議デモと暴動が発生したことで知られる。その同るのである。一つめは「テロリズム」への恐怖であり、そのよ 市で、事件の収束から半年を記念してアメリカ合衆国の人種問 うな恐怖のなかで生活することへの恐怖であった。無差別テロ 題の現状に関する国際会議が開かれていた。その会議の場でパ の恐布に法え、日常生活が普通に送れなくなることへの恐布。 リの事件を知らされ、頭が真っ白になった。 「テロに屈することなく、みんなでカフェのテラスに行き、人 大急ぎでホテルに戻り、フランスに住む友人、知人に向け生を謳歌し続けよう」という運動が事件後に起きたが、このよ て、安否を確認し、連帯を表明するメールを何通も何通も送り うな恐布は一般によく知られている 続けた。それ以外にできることは一切思い浮かばなかった。 それに比べ、二つめの恐怖の存在はあまり知られていない。 まもなく返信が送られてきた。直ちに安全を知らせる短い返それは、一つめの恐怖を抱きつつも、それに加えてもう一つの 信をくれた人もいれば、数日後に長いメールをくれた人もいた恐怖も同時に抱え込む状態を指す。そのような「もう一つの恐 。ハリ襲撃事件のも , つ一つの恐怖 「無関係の関係者」としてのムスリムの立場 森千香子 パリ襲撃事件のもうーっの恐怖 22

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しばしば歴史は自然と画然と区別されて、人間に本来的な世年以降、四世紀にわたる停滞的な社会が細菌のせいでもたらさ 界は歴史であり自然ではないと考えられてきた。というのも人れ、また細菌によって諸大陸が統一されていったことを示し 間は、自らその労働によって歴史を生み出し、しかも人間のみた。そして『歴史家の領域』 Le 、、 ~ ざ、 $ ミ 0 . 2v01., が・ー、自然界の他の動物とちがって , ー・自分の歴史に意識的に pa 「デ】 973 ー 78 に収められた「人間のいない歴史「雨と晴の然 ・目 参与しているからである。だから、自然史は歴史の前史にすぎ歴史」では、気候を、それ自体、歴史研究の対象とすべきだと の て ないとされたのである。 いう「人間のいない歴史」宣言によって、注目を集めた。 し ところが近年、やや従来とは異なる立場が登場してきた。そ ル・ロワ・ラデュリが提一小した気候史研究の方法とは、以下台 れは自然 ( 史 ) は、人間の歴史と絡み合い、歴史は自然を無視のようなものである。一八世紀ないし一九世紀初頭以降につい の 史 できない、とするもので、多くの歴史家たちが社会を考察するては関連データが非常に多くなり、たとえば気温などはすでに 歴 際に、自然的条件にも思いを致し始めている。 調かかなり行き届いている。歴史家はこうした気象学のデー タを集め、表にするにとどまらす、近い地域の気温データがあ測 れば相互に付き合わせて検証してみる必要がある。そして寒暖の 学 アナール派第一二世代の代表者の一人である・ル・ロワ・ラの変動を、地域、国家、ヨーロッパ全域というような広狭諸レ 史 歴 デュリは、「動かざる歴史」 ( 一九七三年十一月三十日のコレージ ベルで、十年、数十年、世紀 : ・ : といった時間幅で検討してみ ュ・ド・フランスでの就任演説 ) という講演において、一三〇〇れば、より効果的である。雨や気圧についても、信用性はやや 「人間のいない歴史」宣言 歴史学の作法相 歴史の土台としての自殀 池上俊一

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起源は、三つの思潮から成り立っている。 特にアリストテレス哲学が西欧に移入された ( プラトン哲学は、 十五、十六世紀のルネサンスでギリシア語原典から翻訳される ) 。 用 : エジプト、 ハビロニア ( 前十三世紀 ) 技術面 ( 冶金術 ) 錬金術の書物も同様である。そして錬金術は西欧でさらに発展の それは次回にまわした。 哲理面 ( 四元素の理論 ) : : : ギリシア哲学 ( 前七世紀 ) するのだが、 宗教面 ( ヘルメス思想 ) : ヘレニズム文化 ( 後一、二、三世ラテン語名をゲーベルと名づけられた、ジャービル・イプ ッ 紀 ) ハイヤーン ( 七二一 5 八一五年頃 ) の「百十二書』が代表 格だろう。この本の核心的命題は、「物資面と精神面とは分か ヘルメス思想とは、創造神話の一種で、太陽を字宙の中心とち難い。という点にある。 して、生命や事物の秩序的連鎖を骨子とするもので、西欧で この論題へといたって、「錬金術の定義」を板書する。 は、十五、十六世紀のルネサンス期に大きな支持を得る秘教と なる。 錬金術とは、文字どおり卑金属を貴金属に変容せしめる術の この三つに、アラブ世界での理論 ( 硫黄と水銀の理論 ) が加 ことだが、他方で術師の精神の浄化をも行なう術である。 わる。錬金術では硫黄と水銀とは、正確には「哲学の硫黄」 「晢学の水銀」と呼ばれ、現物のそれらは、「卑俗な硫黄」「卑ここに、ゲーベルの定義が生きることになる。もちん、現代 俗な水銀ーと言われ、区別されている。 化学でも、金を人工的に作れないのだから、当時もそうで、そ こうして錬金術は実証的で実験的なアラブ世界で完成するこれを承知の上で錬金術師は作業に挑んだ。したがって、精神面 とになる ( 九世紀 ) 。 の方が重視された。このことをたいていの人は知らないのが現 この文化が、「十二世紀ルネサンス」によって西欧にもたら状である。 される。 ちょうど二十分をのこすまで話したので、すでに配布されて いるミニツッペイ、 「十二世紀ルネサンス」とは、端的に説明すれば、古代ギリ ノーに、錬金術の起源や西欧への移入に関し シアの諸文献をアラビア語に翻訳・吸収した文書と、アラブ独て所見を書いてほしいと告げた。 自の諸文化が、 南フランスやシチリア島やスペインでラテン語 終業のベルが鳴るまでに全員が箱の中に提出してくれた。私 に翻訳された一大翻訳文化運動を指す。ギリシアのものでは、 はそれをかかえて、授業支援センターへと運んだ。それが、数